午後九時。横浜市内。
流行のデザイン服を扱う店の外に、一人の女性が座っていた。
祥子だった。両手で頬杖をつきながら、夜空を見上げている。
雲の向こうには、半月が浮かんでいた。
祥子の瞳には、どこか心ここにあらずといった光が宿っている。
「うーん……暇だなぁ。駿平と了、今頃何してるんだろう」
そのとき、半月を覆っていた最後の雲が流れていった。
明るい月光が街を照らす。
まるで灯台のように、都市に灯る無数の明かりを導いている。
「綺麗……でも、半分しかないんだよね」
祥子は小さく笑った。
「二人も、こんな月を見てるのかな……」
そう呟くと、祥子は立ち上がり、デザインショップの中へ戻っていった。
同時刻。
江島神社から少し離れた場所に、陸上自衛隊が設営した臨時野営地があった。
そのテントの中で、駿平は両手を頭の後ろで組み、仰向けになっていた。
昼間に経験した出来事を、一つ一つ思い返している。
その後、軍部の自衛官が直接交渉に入り、神社側も最終的には江島神社内部への立ち入り調査を許可した。
しかし結果は、ほかの場所で行った調査と同じだった。
探知機には何の異常も表示されない。
神社側が説明していた「改修工事」も、実際に行われていた。古くなった建物の一部を取り壊し、修復している。細かく手間のかかる作業であり、しかもこれほど荘厳で古い場所だ。部外者を立ち入らせたくないという説明にも筋は通っていた。
すべてが合理的だった。
だが―駿平自身の感覚が、間違っているはずがない。
体内に宿るネイバース。
青い光と共鳴したときに感じるものと、まったく同じ波動。それが、確かにあの場所で感じられたのだ。それはネイバース本人も言っている。
駿平の脳裏に、再び映像が浮かぶ。
江島神社を出る直前。古い樹木に囲まれた建物。その周囲の林の中を、ゆっくりと歩いていた人影。
あの人物。駿平は、あの人物からわずかな異常を感じ取っていた。
だが、そのときは神社側から調査終了を促されていた。時間もなかったため、深く追及できなかった。
今になって考えればあの違和感こそが、すべてを解く鍵なのではないか。
そう思った瞬間、駿平は目を開いた。
「……行くか」
休むことをやめた。
夜が深くなったのを確認すると、誰にも気づかれないようテントを出る。
向かう先は、江島神社。
古い木々に囲まれた社殿の外。
ジャケット姿の駿平は、暗闇の中を慎重に進み、まだ改修の終わっていない側門から静かに中へ入り込んだ。
夜空には星が瞬いている。まるで無数の目が、今夜の駿平の行動を監視しているようだった。
正門前に立つ三本の古木を、夜風が撫でる。
その音は、まるでこの古い神社そのものが呼吸しているかのようだった。
木立を抜け、駿平は神社の木製扉をゆっくりと開いた。
できる限り音を立てないようにしながら、社殿内部へ入る。
昼間の調査時と同じ。内部の物品はすべて整然と配置され、乱雑さは一切ない。夜であっても、その端正さは変わらなかった。
そこには、ここに祀られている死者の魂に対する畏敬が込められているようだった。
駿平は心の中で三度、祈りを捧げた。
そして、ネイバースと自分が示す反応を頼りに、一つ一つの部屋を進んでいった。
時間だけが過ぎていく。昼間に行った調査を、もう一度繰り返しているようなものだった。
しかしその単調な探索が続いた、ある瞬間。
駿平は、ついに意識の中で探していたものを捉えた。
昼間、建物を囲む木立の中に現れた人影。
その体格からすると男だ。
駿平はその気配を追った。
そして、社殿の最奥へと辿り着いた。
そこは、死者の遺体を弔い、魂を鎮めるための霊台だった。
その中央に置かれていた、独特な形状の棺が駿平の目を引いた。
彼の感覚では、それは地下へ続く、開かれた入口のように感じられた。
昼間の男も、ここから下へ降りたのだ。
「まさか……」
駿平は棺の中へ足を踏み入れた。
「地下宮殿への入口……?昔からあった噂は、本当だったのか?」
疑問を抱きながら、駿平はその先へ続く石段を降りていった。
暗い通路。わずかな蝋燭の明かりだけが、足元を照らしている。
やがて最奥へ辿り着く。
そこには、分厚い石壁を挟み、互いに向かい合うように正座している二人の人影があった。
男と女。
二人とも、奇妙な紋様が刻まれた白い神官服を身にまとっている。
「あなたたちは……?」
駿平が問いかける。
女が顔を上げた。
生気のない瞳。しかし、その奥には異様な興奮が滲んでいた。
「ようこそ『幻想島』へ」
女は静かに言った。まるで芝居のような喋り方だった。
「私たちは、ここの『常連客』です」
「幻想島……?常連客?」
女の声はひどく掠れていた。
わざと声を抑えているようにも聞こえる。何かを起こしてしまうことを恐れているようだった。
それに対して、駿平の声はやや大きかった。
「しーっ」
女が指を立てた。
「そんなに大きな声を出さないで……」
そして、恐れるように周囲を見回す。
「『神』がお眠りになっているの。起こしてはいけません7
「神……?」
駿平の疑念はさらに深まった。
すると、男が立ち上がった。
そして、理解しがたい言葉を語り始める。
「あれは10年前……神が来られた日」
男は恍惚とした表情を浮かべていた。
「あの日、この島へ降り立った光が、ここに住む人々へ『祝福』を与えた」
「そして――」
「人々の夢を現実にした」
男は続けた。
「その後、光は地下宮殿へ移り、ここに『第二の島』を作り出した」
「だから、私たちはここを『幻想島』と呼んでいる」
「ここへ来る者は、皆、祝福された者」
「10年前……」
駿平の胸が大きく揺れた。
「震災が起きた日!」
男は頷いた。
「そのとき、『神』の意志が目覚めた」
「より多くの魂を捧げる必要が生じた」
「だから、あの教会から……そして、この島と向かい合う、あの都市から来た魂たち……安らかに眠ることのできなかった者たちは、カトリックのレクイエム・ミサを通じて『神』の意志と共鳴し……」
「天へと昇っていった」
自らを「幻想島の客」と称する男女が、同時に立ち上がった。
互いの身体を抱き寄せ、両手を天井へ向けて掲げる。
その瞬間、二人の瞳から青い光が放たれた。
駿平は息を呑んだ。
「……!」
――二人とも、幻術にかかっているその瞬間、体内の赤い光が激しく脈動した。
まるで、これから訪れる危険を知らせているかのように。
青い光を瞳に宿した男女の表情が歪む。
まるで悪魔に操られた人形だった。
二人は鋭く長い爪を伸ばし、駿平へ襲いかかった。
「――ッ!」
駿平の瞳に赤い光が宿る。
身体をわずかに動かし、二人の突然の攻撃をかわした。女の背後へ回り込み、その後頭部へ手刀を叩き込む。
「ぐっ……!」
女が崩れ落ちた。
その直後、男が振り返りざまに爪を振り抜く。
駿平は身を翻してかわし、拳を男の腹部へ叩き込んだ。
「ぐおっ……!」
男もまた、その場へ倒れ込んだ。
二人が気絶したことを確認すると、駿平は正面へ視線を向けた。
先ほど二人が跪いていた、分厚い石壁。
その縁には、非常に細い木枠が埋め込まれていた。まるで封鎖された石門のようだった。
――ここだ。
先ほど、体内の赤い光が激しく反応した場所。
自分が知りたい答えは、この石門の向こうにある。
駿平の右手から念動力が迸った。
空気の振動が透明な輪となって、何重にも広がっていく。
駿平は腕を振り抜いた。
猛烈な空気の衝撃波が石壁を直撃する。
封じられていた石門が大きく揺らぎ、周囲へ土煙と石片が飛び散り、木枠と石壁に亀裂が走っていく。
駿平は舞い上がった粉塵を腕で払い、壁から落ちてくる石片を見つめた。
そして、もう一度拳を握る。
今度は強烈な振動を拳にまとわせ、石壁へ叩き込んだ。
石壁が完全に砕け散った。
轟音とともに、巨大な岩塊が次々と崩れ落ちていく。
石門の向こうには、漆黒の暗室が広がっていた。
その奥から、わずかな青い光が輪となって広がり、こちらへ漏れ出している。
駿平が中へ足を踏み入れた瞬間、頭の中へ幻覚にも似た激しいめまいが襲いかかった。
「……っ!」
駿平は激しく頭を振り、その感覚を意識から振り払った。
「これは……?」
暗室の内部へ完全に入る。
心臓が早鐘を打ち始めた。驚きと警戒が入り混じる。体内の赤い光も、それに呼応するかのように激しく脈動していた。
――何かがいる。
――何か、危険なものを感じ取っている。
『駿平、気をつけろ』
頭の中に、ネイバースの声が響いた。
「ネイバース……?」
『この場所に漂っているものは、私が追っていた光の波動と同じだ』
「やっぱり、ここにいるんだな。お前が探していたものが」
『ああ。間違いない。先程の幻覚の島で頑丈にガードされていた。どうりで見つからなかったわけだ』
駿平は小型ライトを取り出し、暗室の奥を照らした。
「だったら、ここで何が起きているのかも分かるのか?」
『詳しくはわからないが、ここにあるものは単なる残留エネルギーではない。私たちの意識に干渉してくる可能性がある』
「意識に干渉……。昼間、神社で感じたものもそれか?」
『そうだ。あの男女の目に宿っていた青い光も、同じものの影響だろう』
駿平は奥へ目を向けた。
「何が目的なんだ……?」
『それを確かめるために来たのだろう』
ネイザースの声には、いつも以上に緊張が滲んでいた。
『駿平。何が見えても、それをすぐに現実だと思うな。君自身が望んでいるものを見せられるかもしれない』
「俺の望んでいるもの……?」
『そうだ。人間の心には、本人でさえ気づいていない願望がある。そこにつけ込まれれば、自分の意志で動いているつもりでも、実際には操られていることになる』
駿平は一瞬、言葉を失った。
「……分かった。気をつける」
小型ライトの光を頼りに、暗室内を照らしていく。
そこは一見すると、普通の貯蔵室と変わらなかった。河口湖美術館で見た、あの部屋より少し広い程度だ。
ただし、完全な部屋というより、奥へ続く広い通路のような構造になっている。
左右には、それぞれ五基ずつ。
合計十基の石棺が並んでいた。
石棺の底部は地面と完全に一体化している。まるで、大地そのものから生えてきたかのようだった。
駿平が近づいて確認する。
その瞬間――表情が変わった。
石棺の中に収められていたのは、腐敗した死体だった。
石棺に積もった埃の厚さから見ても、安置されてから少なくとも六、七年。いや、十年近く経っているものもある。
「……遺体だ」
駿平の声が低くなる。
「こんなところに、どうして……」
『震災の犠牲者かもしれない』
「だとしたら、誰がわざわざこんな場所に運び込んだんだ?」
『それも含めて、確かめる必要がある』
駿平は石棺の中を見つめた。
そこに眠る者たちは、いったいどんな最期を迎えたのか。
そして、なぜ弔われるべき遺体が、こんな地下深くに隠されているのか。
胸の奥に、言いようのない不快感が広がった。
「ネイバース……。この場所から感じるものは、何なんだ?」
『……気をつけろ。近づくほど、波動が強くなっている』
ネイバースが言い終えるより早く、駿平は異変に気づいた。
石棺の並ぶ通路の奥から、青い光がゆっくりと広がってきていた。
歩けば歩くほど、その光へ近づいていく。
そして――ある瞬間、駿平は、自分が別の世界へ足を踏み入れたような感覚に襲われた。
そこは、夢のような世界だった。
幼い頃に抱いていた無邪気な幻想。
かつて夢見たもの。
それらが目の前へ次々と現れ、現実の姿を取り始める。
この世界にいると、どんな夢でも、いつでも現実にできる。
そんな錯覚に陥った。
「……これは、幻覚なのか?」
『駿平!意識を保て!』
ネイバースの声が響いた。
だが、駿平の意識は徐々にその声から遠ざかっていく。
身体の奥底に眠っていた欲望の本能が、無意識のうちに呼び起こされる。
燃え上がる。
駿平の中に、突然、すべてを壊してしまいたいという衝動が湧き上がった。
この欲望に従いたい。狂おしいほど、その願望を現実にしたい。
「……やめろ……」
駿平は歯を食いしばった。
「俺は……こんなことを望んでいない……!」
『そうだ!それは君の意志ではない!』
ネイバースの声が、意識の奥へ強く響き渡った。
『惑わされるな、駿平!目の前にあるものに心を奪われるな!』
「分かってる……!分かってるのに……!」
駿平の意識が、欲望の奔流に呑み込まれていく。
そのときだった。
意識の奥から、突然、何かが弾けた。五年前に触れたことで体内へ残された、あの赤い光。
それが猛烈に脈動した。
赤い光が、呼び起こされた無限の欲望を押し流していく。
「……っ!」
駿平の意識が戻った。
膝が崩れかけ、彼はその場にしゃがみ込んだ。
「こ……これは……」
『戻ったか、駿平』
「ああ……。今のは一体……」
『この場所に満ちている青い光が、お前の意識へ干渉していたのだろう。お前の心の奥底にある願望を引き出し、それに呑み込ませようとしていた。なんとか私の力と君の意思で跳ね返すことができた』
駿平は荒い息を吐きながら、わずかな青い光を放つ地面を見つめた。
「願望を……現実にする、か」
『願いを叶えることと、人の心を支配することは違う。あの光は、その境界を踏み越えている』
「……お前が追っていたのは、こんなものだったのか」
『そうだ』
ネイバースの返答は短かった。
その声には、長い間追い続けてきた相手をようやく見つけたという確信と、目の前にあるものへの警戒が同居していた。
駿平は片手を地面へ置いた。
「だったら、今度は俺の意志で確かめる。ここで何が起きたのか……十年前に何があったのか」
『駿平、無理はするな。先ほどのように意識を奪われれば、今度は戻れなくなるかもしれない』
「分かってる。それでも、ここまで来たんだ。何も知らずに帰るわけにはいかない」
駿平は目を閉じ、体内の赤い光を意識的に動かそうとした。
この場所で、一体何が起きたのか。
そのすべてを感じ取るために。
――だが。
手を置いた瞬間、体内の光が再び、駿平の意思とは無関係に爆発的に輝き始めた。
「うっ……!」
『駿平!』
感知能力が一気に解放される。
まるで大海原のような膨大な情報が、津波となって駿平の意識へ押し寄せてきた。
頭の中が激しく揺さぶられる。
視界が歪む。
意識が遠のきそうになる。
「ネイバース……!これは……!」
『私にもすべては把握できない!だが流れ込んでくるものを拒むな!意識をしっかり保て!』
駿平は歯を食いしばった。
押し寄せる情報の奔流。その中に、断片的な映像と、無数の人々の感情が入り交じっていた。
悲しみ。憎しみ。絶望。そして、叶えられなかった願い。
それらが一つになり、十年という歳月を越えて、駿平の意識へと流れ込んでくる。
それでも駿平は、その中にあったものを感じ取った。
そしてついに。
十年前からこの地下深くに隠され、誰にも知られることのなかった――驚愕の真実を知ることになる。