その頃、あるコンビニエンスストアでは。
「よし。材料は全部揃ったわね」
デザイン店の同僚と一緒に材料を買いに来ていた祥子は、二つの袋を手にしていた。
もう一方の手で店主から釣り銭を受け取り、笑顔で店を出ようとする。
「ねえ、祥子!」
同僚が店の外を指差した。
「あそこ見て。自衛隊よ」
祥子が視線を向けると、街の向こうに装甲車と自衛官たちの姿が見えた。
そして、同僚は少し身を乗り出して言った。
「あなたの婚約者じゃない?」
祥子の視線が、街を行き交う自衛官たちの中を探すように動いた。祥子が振り返った。
そこにいたのは、この数日間ずっと彼女の心を占めていた人物だった。
「駿平……!」
祥子は手にしていた袋をすぐさま地面へ置き、店の外へ飛び出そうとした。
だがその時。衣服のポケットから、スマートフォンの着信音が鳴った。
祥子は反射的に携帯電話を取り出し、通話ボタンを押す。
「はいもしもし……?えっ……!ええ、どうしたの? 何かあったの?」
祥子の表情が変わった。彼女は店の外にいる駿平を気にしながら、電話の相手と話し続けた。
同じ頃、駿平は小型振動探知器を確認していた。
「この場所も異常波形はありません」
「ほかの場所から届いた報告も同じだ」
同行している隊員が答える。
「どうやら、また長い捜索になりそうだな」
駿平は探知器を手にしたまま、別の場所へ移動しようとした。
その時、これまでずっと話し中だった携スマートフォンが初めて振動した。
駿平はポケットからスマートフォンを取り出す。表示された番号を見て、目を見開いた。
「……もしもし。了?」
電話の相手は、飛原了だった。
「大丈夫か? こんな時に電話してくるなんて、何かあったのか?」
駿平は周囲を気にしながら、少し声を落とした。
「俺はまだ任務中なんだ」
相手の話をしばらく聞いてから、困ったように答える。
「……ああ、そうなのか、でも、今はちょっと時間がない…じゃあこうしよう。こっちの用事が終わって、時間ができたら話そう。うん、じゃあ……切るぞ」
通話を終え、駿平はしばらく、手元の携帯電話を見つめていた。
やがて、小さく息を吐く。
その目には、どこか興奮したような色が浮かんでおり、同時に疑問もあった。
了が、今になってあのことを持ち出してきた。
約束を交わしてから、もうかなりの年月が経っている。
今さら、それに大きな意味があるとも思えなかった。
駿平は気持ちを切り替え、再び探知作業へ戻った。
時間は、一日、また一日と過ぎていった。
市街地の捜索は続いていたが、目立った成果は得られなかった。
まるで、以前の封鎖作戦が再び繰り返されているかのようだった。
何一つ手掛かりをつかめないまま、駿平は部隊に休暇を申請し、祥子が働くデザイン店へ向かった。
道中、小型探知器を手にして歩く自衛官たちの姿が目に入る。
その多くが不満そうな顔をしていた。長時間にわたって成果の出ない捜索を続けていることへの苛立ちが、誰の顔にも浮かんでいた。
「どう? まだ何も見つかってないの?」
店で駿平の姿を見つけた祥子は、嬉しそうに笑った。
これだけ長く離れていた。それだけに、胸の奥に募っていた駿平への思いは強くなっていた。
彼女の両手には、華やかな白い包装袋があった。
そして、身に着けているのは、店長に勧められて試着していた新しいセーラー服風のワンピースだった。
その姿を見た瞬間、駿平の張り詰めていた心が、少しだけほぐれた。
「いや。今回も前回と同じだ」
駿平は穏やかに笑った。
「俺が調査に出ている間も、部隊が密かに横浜や周辺地域を捜索していたらしい。でも、青い光の手掛かりは何も見つからなかった」
「そう……」
祥子は少し心配そうに尋ねた。
「あの存在って、結局何なの? どうしてそこまであなたたちは追いかけているの?」
駿平は少し迷った。しかし、もう隠しておくべきではないと思った。
そして彼は、青い光の正体と、これまでに起きたことのすべてを祥子に話した。
「え……?」
祥子の顔から笑顔が消えた。
「あの光が……?」
「どうして……そんな……」
彼女は言葉を失い、やがて震える声で続けた。
「それじゃあ、鞘香を……それに、あんなにたくさんの人を殺したのは……」
「そうだ」
駿平の声が低くなる。
「だから、何としても俺自身の手で倒す」
「全部、終わらせるんだ」
その瞬間、駿平の瞳に凶暴な光が宿った。微かな紅い光が、その奥から漏れ出している。握り締めた拳からは、ぎりぎりと音がした。
祥子は、その姿を見つめていた。やがて小さく息を吐くと、柔らかな手を駿平の拳にそっと重ねた。
手の甲へ伝わる、ひんやりとした温もり。それによって、駿平の荒ぶっていた心は少しずつ落ち着いていく。
駿平は、月明かりのように澄んだ祥子の瞳を見つめた。
「そういえば……」
ふと思い出したように、駿平が口を開いた。
「最近、この辺でもまた妙な事件が起きてるだろ?」
「あなたも聞いてるか?」
「うん」
祥子は頷いた。
「例の不可解な連続死亡事件でしょ? 帰ってきた時、みんなその話をしてた。かなり騒ぎになってるみたい」
「今回、またこの地域を封鎖して捜索することにならなかったら、しばらくはこの事件の徹底捜査で持ちきりだったでしょうね」
そして、祥子は少し考え込んだ。
「私も少し調べてみたの」
「亡くなった人たちの中に、昔の震災の時、了と鞘香に助けられた人が何人かいるみたい」
「何だって?」
駿平は驚いた。
「……よくそんなことまで覚えてるな」
祥子も驚いたように目を瞬かせた。
駿平は頷き、続けた。
「当時、了は鞘香のことで、その人たちのところへ話をしに行ったことがある。それで、暴力事件を起こしたとして捕まった…それだけじゃない。何人かは、了が以前参加していた写真家の愛好グループの連中で、そいつらは、了を仲間集団でイジリとか言っていじめていた。後の了の性格の変化にも、そいつらが関係していたみたいだ」
祥子の表情が変わった。
「それって……あなたは、もしかして……」
駿平は手を振った。
「いや。俺はそんな方向には一度も考えたことがない。それに、信じてもいない。第一そんなことが起こる可能性は低い。いや、かなり低いだろう」
彼は事件について、あくまで冷静に考えようとしていた。
「死んだ人たちは、全員、原因が異常なんだ。外傷が一切ない。まるで……永遠に眠ってしまったみたいに」
「じゃあ、いったい……」
祥子が言いかけると、駿平は首を振った。
「もうやめよう。俺たちが考えることじゃない」
そう言って立ち上がり、店を出ようとした。
その時、駿平のポケットの中でスマートフォンが鳴った。
電話に出る。しばらく相手の話を聞いてから、短く答えた。
「分かった」
それだけ言って通話を切る。
「研究部門からだ」
駿平は祥子に向き直った。
「この地域のいくつかの場所で、青い光によるものと思われる振動波形を、微弱ながら検知したらしい,ただ、具体的な場所までは分かっていない,俺たちは引き続き、ここで待機してくれということだ」
祥子が不思議そうな顔をした。
だが先ほどしまったばかりのスマートフォンが、再び振動した。
駿平は眉をひそめるが、画面に表示された番号を見た瞬間、その目の色が変わった。
通話ボタンを押し、耳に当てる。
「もしもし、了?どうした?」
相手の話を聞きながら、駿平の表情が少しずつ変化していく。
「……ああ、あのことか。分かった……えっ、今から?」
駿平は祥子を見た。
「うん。ちょうど祥子も一緒だ。それなら、そっちへ行く。そこで少し待っていてくれ」
そして、何かを思い出したように尋ねる。
「そうだ――あの場所……あの建物は、まだ残っているのか?」
しばらく相手の返事を聞いた後、駿平は頷いた。
「そうか。分かった」
通話が終わると祥子が尋ねた。
「了も、あなたに同じ電話をしてきたの?」
「ああ。4日前にも俺に電話してきた」
駿平は携帯電話をしまいながら説明した。
「小学生の頃に約束した、あの場所で会おうって。どうやら、俺たちに話したいことがあるらしい」
「そう……」
祥子は小さく呟いた。
「同じ時間に、同じことを言ったのね」
「どうやら、祥子にも声をかけたみたいだ」
「今から行くの?」
祥子は、駿平の制服を見て尋ねた。
「待機任務は?」
「ここにいても、今のところ手掛かりはない」
駿平は答えた。
「ほかの隊員たちがここを捜索している。ちょうどいい。別の場所も見て回る。それに、移動する途中で別の場所の波形も探知できる」
「でも……」
祥子は少し考えてから尋ねた。
「あの小学校、まだ残ってるの?」
「もう十年以上経ってるよ」
「たぶん残ってる」
駿平は答えた。
「大地震で、当時の校舎の大部分は倒壊したらしい。その後の再建で、古い校舎を改修しただけじゃなく、新しい階もいくつか増築したそうだ。ただ……音楽室があった棟が残っているかは分からないし、それに、あの辺には新しく小さな体育館も建てられたらしい」
「じゃあ、行って確かめましょう」
祥子は立ち上がった。その背中を見ながら、駿平は少し迷った。
「祥子!」
「ん?」
彼女が振り返る。
駿平は言葉を選びながら、静かに口を開いた。
「この事件が終わったら……」
一瞬、言葉が途切れる。
「俺たち……結婚しよう」
祥子の身体が、ぴたりと止まった。次の瞬間、頬が淡い紅色に染まる。
その顔には、少女のような甘い笑みが浮かんでいた。羞じらいを帯びた瞳には、隠しきれない幸福があふれている。
その表情を見た駿平の胸も、熱くなった。彼は祥子に歩み寄り、額へそっと口づけをした。
ほんの一瞬。触れるだけのキスだった。
それだけなのに、祥子の胸は激しく高鳴った。
駿平は彼女の手を取る。そして二人は、手を繋いだまま店を後にした。
思い出の小学校へ向かって白い乗用車が、建物の立ち並ぶ街路を抜けていく。
目的地は、街の中心部から離れ、人や建物の密集度が比較的低い場所だった。
運転席には駿平。慣れた手つきでハンドルを操作している。
助手席には祥子が座り、流れていく街路樹や街灯をぼんやりと眺めていた。
現在、横浜の中心部や、人と建物の多い地域では、至る所に完全武装した陸上自衛隊員の姿があった。
いつ現れるとも分からない危険を警戒し、厳戒態勢が敷かれているのだ。
交差点に差しかかる。信号が赤になり、車を止めた駿平は、その間に小型振動探知器を取り出して確認した。
画面には、相変わらず平坦な一本の線が表示されている。
時折、小さな波形の尖端が現れるだけだった。
まるで、海辺に浮かぶ小さな波紋のようだ。
「うーん……」
駿平は小さく呟いた。
「反応は相変わらず弱い。この近くにはいないみたいだ」
ネイバースの光によって与えられた強い感知能力を使っても、特に変化は感じられない。
やがて信号が青へ変わり、駿平はアクセルを踏み、車をゆっくりと前へ進める。
そして、白い乗用車は、最後に一軒の小学校の正門前で静かに停車した。
二人は車を降り、門の前にいた警備員へ事情を説明した。
幸い、その日は休日だったため、生徒たちは登校していない。
二人はしばらく説明を続け、ようやく校内への立ち入りを許可された。
校門をくぐった瞬間、懐かしい空気が駿平を包み込んだ。
胸の奥から、どうしようもない懐かしさが込み上げてくる。
子供の頃と比べても、校内の景色はそれほど大きく変わっていなかった。
正面玄関の前には、昔と変わらない木々の並ぶ通路がある。
そこには、学生時代だけが持つ独特の生命力が残っていた。
その先に並ぶ校舎には改修の跡が見える。
それでも、かつての芸術的な雰囲気は多く残されていた。
整然とした配置。
独特な構造。
設計当時から意識されていた耐震思想と、教育施設としての創造性が感じられる校舎だった。
「あそこだ」
駿平は、一つの校舎の前にある空き地を指差した。
「昔、俺たち何人かであそこで遊んだんだ」
「覚えてる」
祥子も頷いた。
「昔は、小さな砂浜みたいになってたんだ」
「そうだったね」
彼女は辺りを見回した。
子供の頃、二人が階段を駆け回って遊んだ校舎は、もうなかった。
代わりに、小さな花壇と、子供たちのための遊具が設置されている。
「そうだな」
駿平も頷いた。
「絵の具置き場と音楽室があった校舎もなくなってる。ほら、あそこ」
駿平は西側を指差した。
「体育館になってる」
そこには、整然としたデザインの大きな建物がそびえていた。脇に設置されたプレートには、学校の体育館であることが大きく記されている。
「ここも結構変わったんだね」
祥子は建物を見つめた。
「了は……本当にここへ来たのかな?」
「分からない。でも、せっかくだ。中も見てみよう」
静かな校内を歩く。穏やかな空気が、駿平の心をわずかに温めていた。
これほど落ち着いた時間を過ごせることは、今では珍しい。背負っている任務のことさえ、ほとんど忘れかけていた。
その時。駿平の服のポケットに入れていた小型振動探知器が、突然、激しい警告音を発した。
「これは……!」
駿平は探知器を取り出した。表示された波形が激しく乱れている。
「反応が強くなった!」
そして、駿平は確信した。
「この発光体は……ここにいる!」
『ああ、間違いない。奴だ』
同時に、ネイバースも同じ存在を感知していた。
「でも、あの校舎はなくなってるみたい」
頭の中で、低い唸り声にも似た振動が響き始める。
駿平は戸惑う祥子を振り返った。
「祥子。先に了と合流してくれ。俺はこの周辺を調べる」
「でも……」
「そっちで何かあれば、俺にも分かる。すぐに駆けつける」
祥子は少し迷ったあと、頷いた。
「分かった。行って」
駿平には任務がある。そのことを理解しているからこそ、祥子は一人で体育館へ向かった。
体育館の内部。
足を踏み入れた祥子が最初に感じたのは、冷たさだった。
「美術室……音楽室……」
彼女は周囲を見回し、かつての校舎の構造を思い返す。
「元の位置から考えると……四階だったはず」
体育館の内部は広々としていた。以前、授業に使われていた教室はすべて取り払われ、今ではいくつかの倉庫が残されているだけだった。
ホールの一角には、螺旋階段が静かに伸びていた。階段の支柱は壁と一体化している。華奢な印象でありながら、確かな安定感を備えた造りだった。芸術と現実が融合したような構造で、この建物の中では、そこだけが不釣り合いに見える。
まるで美術館に設置された階段のようだった。
祥子は、妙な違和感を覚えた。ここへ入ってから、一人の職員にも出会っていない。
普通なら、この時間でも館内の清掃を担当する人間が一人か二人は残っているはずだ。
祥子は螺旋階段を上っていく。
二階。三階。
誰もいない。
廊下の照明だけが点灯し、暗い空間にかすかな光を落としている。
しかし、その明かりは祥子には、墓穴の中で孤独に燃える冷たい鬼火のように感じられた。
体育館の静寂が、さらに深まっていく。
祥子は、なおも上へ進んだ。
その時、階段の上から、かすかな音が聞こえてきた。
音楽だった。
悲しげな旋律。
「……何?」
祥子は足を速めた。音のする方向へと急ぎ、四階の屋上へ続く階段を駆け上がっていく。
同じ頃、体育館の外周では、駿平も小型振動探知器と紅い光の感覚を頼りに、周辺を捜索していた。
その耳にも、祥子が聞いたものと同じ音楽が届いた。
探知器の波形も変化している。
音楽のリズム。旋律の強弱。それに呼応するように、波形が上下していた。
「この波形……!」
駿平は、小型振動探知器の表示を見て目を見開いた。
音楽のリズム。旋律の強弱。それに呼応するように、波形が上下している。
「そういうことか……!この音楽の音源を構成しているのは、あの青い光が生み出した振動波形なんだ!」
その瞬間、駿平の意識の奥で、低い声が響いた。
『感じるか』
「……ああ。お前にも分かるんだな」
『あの光は、ただそこに存在しているのではない』
ネイバースの声には、警戒が滲んでいた。
『人間の記憶に触れ、心にあるものを形にしようとしている』
「記憶を……形に?」
『君が今、聞いている音楽も、その一部だ』
駿平は探知器を握り直した。
音楽が聞こえる場所に、青い光がいる。
そして、そこには了もいる。
「まさか……了が、あの光に取り込まれたのか?」
『まだ分からない。だが、あの光はお前たちの心を知っている。目の前に現れたものを、望んだものだと信じるな』
「……分かった」
駿平は探知器に表示された波形のピークが示す方向へ走り出した。
体育館へ向かって。
同じ時刻、体育館の屋上。
祥子は、目の前に倒れている人影を見つめていた。
その顔には恐怖が浮かんでいる。耳元では、悲しい旋律がはっきりと響いていた。
そして、その旋律には、彼女がよく知っている曲が混じっていた。
「この曲……」
その時、壁の向こうから一人の青年がゆっくりと姿を現した。
「そうだよ」
青年は答えた。
「『鎮魂曲』……鞘香が昔、一番好きだった曲だ」
「……了!」
祥子は驚き、青年の顔を見つめた。
「祥子、来たんだね」
了は穏やかに笑った。
「駿平も、もうここまで来ているみたいだ。ようやく来てくれたね。俺たちが昔、約束した場所へ」
「了……」
祥子は眉をひそめた。
どうにも空気がおかしい。
「一体、何のために私たちを呼んだの?」
「言ったじゃないか」
了は答えた。
「昔の約束のためだよ。それに――」
彼は、ある方向へ目を向けた。
「彼女も来た」
「彼女?」
祥子が了の視線を追う。
そこから、一人の人影が歩いてきた。
足音は、ほとんど聞こえない。
まるで、その人間だけが、この世界に存在していないかのようだった。
薄暗い照明の中、祥子はその姿を注意深く見つめる。
女性だった。年齢も、自分とそれほど変わらないように見える。
「この人……誰?」
祥子が了に尋ねようとした、その時。背後から男の声が響いた。
「来たぞ!」
駿平だった。
「最後に青い光が激しく反応して消えた場所が、ここだと表示されてる!」
祥子は振り返った。
駿平も祥子を見る。
数秒間、二人は互いを見つめ、それから同時に了へ視線を向けた。
「了!」
「やあ駿平、来たんだね」
了は笑った。
「ちょうど君たちを驚かせようと思っていたところだ」
そして、先ほどの女性を指し示した。
駿平と祥子は、改めて彼女の顔を見た。
そこでようやく、その顔をはっきりと捉えた。
見覚えがある。それなのに、どこか見知らぬ顔だった。
穏やかで、静かで、優しい。
だが、そこには一切の生気がなかった。まるで精巧な彫像のように、表情が固まっている。
二人が戸惑っていると、了が信じられない言葉を口にした。
「鞘香」
女性へ向けて、優しく呼びかける。
「俺たちの幼馴染に挨拶してあげて。もう何年も会ってないんだから」
女性の瞳が、ゆっくりと動いた。
そして、駿平と祥子のほうへ顔を向ける。
彫像のように硬かった顔に、見覚えのある柔らかな笑顔が浮かんだ。
「鞘……香?」
二人は、まだ現実を受け入れられなかった。
目の前の女性を、何度も見つめる。
確かに、年齢こそ違うが、その顔も、体つきも、輪郭も。
何もかもが、かつて一緒に育ち、音楽を愛していた少女の姿と重なっていた。
「祥子、駿平」
女性は微笑んだ。
「私、本当に嬉しい。私、帰ってきたんだよ!またみんなで、昔みたいに集まって、お話しできるね」
「了……」
駿平は、了の瞳に浮かぶ本当の喜びを見ていた。