深夜の病院内に、慌ただしい足音が響いていた。
陸上自衛隊の私服姿に身を包んだ佐渡駿平が、階段を駆け上がっていく。
病院内はすでに静まり返っていた。廊下に響く自分の足音が、やけに大きく感じられる。
二階へ駆け上がった駿平は、左右を見回した。
そして、廊下の奥にある201号室の前で、椅子に腰掛けている女性の姿を見つけた。
ピンク色の服を着て、頬杖をついたまま、じっと扉を見つめている。
「祥子、状況はどうだ?」
駿平が急いで近づいた。
祥子は声に気づくと、頬杖をついていた手をゆっくりと下ろした。
「医師からは、まだ詳しい説明を受けていないの。でも、発見した時に意識を失っていたから、そのまま了をここへ連れてきたの」
立ち上がった祥子の表情には、疲労と深い落ち込みがにじんでいた。
駿平が何か尋ねようとした、その時だった。
医務室の扉が突然開いた。
中から、中年の女医が姿を現す。
「すみません。飛原了さんのご家族ですか?」
二人は一瞬、顔を見合わせた。
「私たちは……はい、そうです。彼の状態はどうなんでしょうか?」
医師は穏やかな表情で答えた。
「身体面では大きな問題はありません。各種検査もすべて正常です。ただ………精神的にかなり疲弊しているようです。おそらく、脳を酷使したことによる疲労でしょう。ゆっくり横になって休めば問題ないと思いますよ。しばらくは病院で静養してください」
「はい。ありがとうございます」
「いえ。それから、今からでも面会できますよ」
二人は医師に頭を下げた。お言葉に甘える事にした。
医師が廊下の向こうへ去っていく。
その姿が見えなくなると、駿平と祥子は、ほっと息を吐いた。
そして、ゆっくりと医務室の扉を押し開けた。
部屋に入った瞬間、二人の目に飛び込んできたのは、白いカーテンと清潔な白壁、そして壁際に並べられたいくつかの医療機器だった。
薬品の匂いが漂う室内には、それとは別の、かすかな花の香りが混じっている。
窓辺に置かれた白牡丹の鉢植え。
珍しい品種だった。
それ以外は、ごく普通の医務室である。
駿平は少しだけ安心した。
少なくとも、見た目から判断する限り、了の容態はそこまで深刻ではなさそうだった。
「了……」
病床に横たわり眠る青年へ、駿平は静かに視線を向けた。
了は目を閉じたまま何も言わない。
その姿を見た瞬間――駿平の脳裏に、あの夜の光景が蘇った。
相模湾地震慰霊墓地。
小雨が降っていた、あの夜。
「了、もう自分を責めるのはやめてくれ」
雨の中、駿平は必死に呼びかけていた。
「鞘香の死は、俺たちだって悲しい。でも、それはもう取り返しのつかない事だ。彼女だって、俺たちが自分の死でいつまでも苦しみ続けることなんて望んでいないはずだ!」
祥子も駆け寄った。
雨水に顔を埋めている了の身体を片手で支え、もう片方の手で傘を差して雨から守る。
「了……」
優しい声で、彼を慰めた。
しばらくして、了はようやく泣き止んだ。
ゆっくりと顔を上げる。
駿平も手を差し伸べた。
「了、立てるか?」
しかし、了はその手を振り払った。
駿平の手を拒絶し、さらに祥子の身体を軽く押しのける。
そして、雨の中からゆっくりと立ち上がった。
その目は冷たかった。
鋭いナイフのような鋭い視線を、駿平へ向ける。
「お前が口出しするな」
それだけ言うと、了は二人を無視して歩き出した。
祥子の横を通り過ぎ、雨の中へ。
振り返ることなく走り去っていく。
やがて、その背中は雨の幕の向こうへ消えた。
「駿平……」
祥子はその背中を見つめながら、不安そうに呟いた。
「あいつ、鞘香を恋しがりすぎているんだと思う。もうこの世にはいないのに……まだ生きているような幻覚を見ているんだよ」
「祥子。彼も君に、そんな変なことを言ったのか?」
「分からない」
祥子は首を横に振った。
「街の中で、彼が変な様子で歩いているのを見たの。周りのことに全然気づいていなくて……本当に心配になって、そのまま後をついていった」
祥子はそこで一度、言葉を切った。
「山手教会の前まで来たら、彼が倒れていた。意識もなくて、ずっと鞘香の名前を叫んでいたの。精神的な思い込みが強くなりすぎているのかもしれない」
「……」
駿平は黙り込んだ。
その時、別の記憶が蘇った。
了と電話で話した時のことだった。
『俺さ……鞘香は、死んでないんじゃないかと思うんだ』
あの時の了の声が、今も耳に残っている。
「なあ了。聞いてくれ」
駿平は電話越しに必死に言った。
「鞘香が君にとってどれだけ大切な存在なのか、俺もよく分かっている。彼女の死を、誰も簡単に受け入れられるわけじゃない」
だが、了の返答は駿平の予想とは違っていた。
『違う!違うんだよ駿平』
強い声だった。
『君は何か誤解している。俺は本当のことを言っているんだ』
『鞘香は死なない。死ぬべきでもない。すぐに彼女を戻ってこさせて子供の頃の約束を果たそう!』
そこで電話は切れた。
駿平は、しばらく何も言えなかった。
鞘香が亡くなったことは、誰にとっても耐え難い現実だった。
それでも、了の言葉には、単なる悲しみや現実逃避とは違う何かがあった。
まるで、彼だけが知られていない真実を見ているかのように。
「駿平」
祥子の声で、駿平は我に返った。
「私たちの子供の頃の約束、覚えてる?」
「……約束?」
「それから、昔の夢も」
祥子は突然、どこか神秘的で魅力的な笑顔を浮かべた。
そこには、今の成熟した祥子からは想像できないほど幼く、いたずらっぽい面影があった。
まるで目の前にいるのが、大人になった祥子ではなく――かつての、恥ずかしがり屋で活発な少女そのもののようだった。
「昔の……夢……」
その笑顔に一瞬見とれた駿平は、先ほどまで考えていたことを忘れてしまった。
「ええ……」
ようやく我に返り、間の抜けた返事をする。
祥子は思わず吹き出した。
「ふふっ」
昔から変わらない。こういうことになると、駿平は本当に愚直で鈍感なのだ。
「昔ね。あの頃が、私たちの人生で一番悩みのない、楽しい時間だった」
祥子は静かに語り始めた。
「あの授業で、お互いの夢を話したでしょう?」
駿平も黙って聞いていた。
「私はデザイナーになりたいって言った。了はカメラマン。そして鞘香は、偉大な音楽家になりたいって」
祥子は少し笑った。
「でも、駿平の夢はちょっと具体的じゃなかったな」
そして、わざと語尾を伸ばす。
「正義のヒーローになりたい、だなんて……とっても特別だよね」
「俺も……そう思っていたよ」
駿平は少し気まずそうに答えた。
祥子は口元を手で隠しながら笑った。
「それから私たち、夢を叶えるためにずっと努力してきたんだよね」
その声が、少しずつ遠くなる。
「夢を叶えたら、またあの約束を交わした場所に集まって、お互いの夢がどうなったのか話そうって……」
祥子は懐かしそうに目を細めた。
「今思うと、本当に純粋だったよね」
「そうだな」
駿平も微笑んだ。
「でも、本当に夢を叶えたのは祥子だけみたいだよ」
「え?」
「君は自分の夢を叶えて、今では本当に優れたファッションデザイナーになった。俺たちよりずっと成功している」
祥子は静かに首を横に振った。
「違うよ」
そして、少し寂しそうに続けた。
「みんなは、私よりずっと努力家だったし、才能もあった。特に了と鞘香は……」
祥子の声が震えた。
「了は、一つ一つの作品を撮影するために、どのカットにも並々ならぬ努力を注いでいた。鞘香は音楽に関して、本当に類い稀な才能を持っていた」
祥子は目を伏せた。
「二人とも、本当なら自分の願いを叶えられたはずなんだよ」
しかし――。
「あの突然の災害が……全部を無慈悲に踏み潰してしまった」
「祥子……」
「駿平、覚えてる?」
祥子は遠い昔を見るような目をした。
「あの時、君は正義の味方になるために、必死になって私と鞘香を守ってくれた」
そして。
「私も、その時に君に……」
そこまで言って、祥子は言葉を止めた。
瞳に揺らめく光が浮かぶ。
そして、少年時代の記憶が静かに蘇っていった。
横浜小学校
校舎の廊下。
「持ちこたえろよ! すぐ行くから!」
駿平が走っていく。
「駿平、ちょっと待ってよ!」
祥子が後を追う。
「悪い、祥子!」
その先から、殴る音と蹴る音が響いていた。
「ははは! この野郎、上級生の恐ろしさが分かったか!」
数人の上級生に囲まれた了が、床に倒れていた。
「早くひざまずいて謝れ!」
「僕は間違ってない……!」
了は腹と胸を押さえながら、必死に言い返した。
「なぜ謝らなきゃいけないんだ。むしろお前たちこそ、三人で一人の女の子をいじめるなんて……恥を知れよ!」
「生意気な!」
「何言ってやがる!」
「殴れ!続けて殴れ!死ぬまで殴ってやれ!」
拳が了の身体を打ち、靴が背中を蹴る。
「やめてよ!」
隅では鞘香が震えていた。
「上級生三人で下級生一人を相手にするなんて、卑怯だよ!」
「お前に何が分かる!」
上級生が怒鳴る。
「今日はこの団地のお坊ちゃまを、きっちり懲らしめてやるんだ。焦るな。こいつを終わらせたら、次はお前の番だ!」
「うわああ!」
了が悲鳴を上げた。
「やめろっ!」
その瞬間。
「ああっ!」
先頭にいた上級生が突然叫んだ。
後頭部に何かが当たったのだ。
怒りに顔を歪め、振り返る。
そこにいたのは、階段の横で片方の靴を蹴り飛ばした駿平だった。
裸足のまま、三人を睨みつけている。
「お前、何様のつもりだ!」
「お前こそ、何様のつもりだ?」
駿平は怯まなかった。
「どうして了をいじめるんだ!」
自分より頭一つも大きい上級生たちを相手に、真正面から問い詰める。
上級生の顔が怒りで赤くなった。
「駿平……!」
鞘香が嬉しそうに声を上げた。
「来てくれたんだね!」
了も、傷だらけの顔で微笑んだ。
「ああ。鞘香、了、無事か?」
駿平は倒れている了を起こそうと駆け寄った。
「駿平……彼らが鞘香がうっかりボスの……あのデブの足を踏んだからって、いじめようとしていたんだ」
了は説明した。
「鞘香は謝って、汚れた靴を拭くって言ったのに、それでも許してくれなくて……」
「何が無理な要求だよ」
上級生が笑った。
「ただ、こいつに靴を舐めさせればいいだけだろ?」
「ちっ……!」
その横から祥子も駆けつけてきた。
「まったく、厚かましい!」
「祥子!」
三人は顔を見合わせた。
祥子は了と鞘香に頷いた。
「あの時、私も一緒にいて……」
鞘香が駿平に説明する。
「彼らの理不尽な要求を聞いて、言い合いになったの。その結果、今の騒ぎになって…」
「分かった!」
駿平は拳を握った。
「どうするつもりだ?」
上級生の一人が嘲る。
「友達をいじめることは、絶対に許さない!」
了も立ち上がろうとした。
「駿平、俺たちで一緒にやつらをぶちのめそう!」
祥子も三人の横に並ぶ。
四人は、自分たちより頭一つ背の高い上級生たちを睨み返した。
「祥子、君と鞘香、それに了はそこにいろ!」
「は?」
了が驚く。
「お前、一人でやるつもりか?」
「うん」
駿平は真っ直ぐ前を見た。
「正義の味方として、俺は負けない!」
「へへへ……!」
三人の上級生が笑った。
「何を相談しても、今日は無事に帰れると思うなよ!」
先頭の上級生が手を上げ、残り二人に合図を送る。
四人を囲ませようとした――その瞬間。
またしても黒い影が飛んだ。
「ぐあっ!」
別の靴が、上級生の顔面に直撃した。
「余計な話が多いんだよ!」
駿平はもう片方の靴まで蹴り飛ばしていた。
「もうただじゃおかねえ!」
一人の上級生が駿平に飛びかかる。
しかし、駿平は横へ転がってかわした。
そのまま一気に踏み込み、上級生の顔面を蹴り飛ばす。
「ぐあっ!」
相手がよろめいた。
さらに別の上級生が駿平を捕まえようとする。
「捕まえたぞ!」
腕を掴まれた。
「早く来い!もう一方の腕を掴め!」
だが駿平は、掴まれた腕を逆に掴み返した。
そして
「いでええええ!」
駿平は相手の露出した腕に噛みついた。
相手が反射的に手を離す。
その瞬間、駿平は頭から相手の腹へ突っ込んだ。
「ぐはっ!」
上級生がバランスを崩して倒れる。
「こ、こいつ……!」
残った一人は完全に怯んでいた。
「何ボケっとしてんだ!」
倒れていた上級生が怒鳴る。
「こいつを思い切りぶちのめせ!」
「お、おう!」
上級生が突っ込んでくる。
駿平も正面から向かっていった。
片手で頭を押さえられる。
そして肘が背中へ叩き込まれた。
「ぐっ……!」
何度も攻撃を受ける。
それでも駿平は止まらなかった。
「頑張れ、駿平!」
「駿平!」
祥子、了、鞘香が声を上げる。
駿平の拳が振るわれた。
一発、二発、三発と嵐ののような拳が、上級生の頭部へ次々と叩き込まれていく。
「ぐっ……!」
十数発目の拳が飛ぶ。
「うわっ!」
上級生が鼻を押さえた。
指の隙間から血が流れている。
「ハハハ!鼻血が出てるよ!」
駿平が笑った。
「このクソガキ!」
上級生が怒鳴る。
しかし駿平は、またゴロゴロと転がり、さっさと離れていった。
「わあ、駿平、君すごい!」
「一人で三人の上級生を倒しちゃった!」
「駿平、大丈夫?」
了と祥子が駆け寄る。
しかし鞘香だけは、すぐに駿平の怪我を確認していた。
「俺は大丈夫だよ、鞘香。ちょっとした擦り傷だ」
駿平は笑った。
「それより、あの三人の方がひどい目に遭ってる」
四人は笑った。
「よし、撤収だ!」
駿平が振り返った、その時だった。
「しまった!」
駿平の顔色が変わる。
「祥子、危ない!」
先頭の上級生が、刃物を手にして突進していた。
「えっ――」
駿平は迷わなかった。
祥子を地面へ押し倒す。
その身体を自分の背中で庇った。
次の瞬間、鋭い痛みが走った。
刃物が駿平の背中へ突き刺さった。
「駿平!」
祥子の顔から血の気が引いた。
背中から鮮血が流れ出す。
「くそっ……!」
了は歯を食いしばった。
「卑怯だぞ!まさか不意打ちなんて……上級生としてのプライドはないのか!」
「プライド?」
上級生は笑った。
「ははは!俺様が教えてやるよ!」
刃物を振り上げる。
「勝ちゃあいいんだよ勝ちゃあ!いいか?世の中はどんな卑怯な手を使おうが勝てば官軍、負ければ賊軍なんだよ!」
「でたらめをッ!」
駿平は祥子の肩に手を置き、ゆっくりと立ち上がった。
背中から血が流れ続けている。
「駿平……」
祥子、鞘香、了は息を呑んだ。
それでも駿平は立っていた。
「自尊心っていうのはな……」
怒りに満ちた目が、上級生を射抜く。
「弱い者を虐げないことだ」
「守るべき仲間を守ること。それこそが、正義のヒーローとして一番基本的な原則だ」
血を流しながらも、一歩前へ出る。
「そんなことも理解できないお前に、世の中を語る資格があるのか!」
「お、お前……何が言いたいんだ!」
上級生の声が震えた。
目の前にいるのは、つい先ほどまで裸足で走り回っていた小さな少年。
なのに今は、妙な迫力があった。
「俺様の技……!」
駿平は走り出す。
「連月流星落!」
テレビのヒーローを真似た必殺技。
力いっぱい蹴り下ろそうとした、その瞬間――。
「こらーーーっ!!何やってる!!」
廊下に怒鳴り声が響いた。
階段の向こうから、少し太めの男性が姿を現す。
「げっ!」
上級生たちの顔が青ざめた。
「生徒指導だ!」
駿平も勢いを止めた。
その瞬間、背中の痛みが一気に襲ってくる。
「うっ……!」
身体が崩れた。
祥子たち三人が慌てて支える。
「校舎の廊下で喧嘩をするとは、お前たち、何たる体たらくだ!」
「先生!向こうから手を出してきたんです!」
了が訴えた。
「黙れ!」
生徒指導は一喝した。
「誰であろうと、手を出したら全員悪い!」
四人が黙る。
主任は次に、上級生三人へ視線を向けた。
「挙句の果てに流血沙汰まで起こすとは……!」
鋭い声が飛ぶ。
「お前ら三人、この件は親に報告するからな!それと反省文千字!」
「えっ……」
「聞こえなかったか?」
「はい……分かりました」
三人は渋々頭を下げ、その場を去っていった。
姿が見えなくなると、主任は今度は駿平たち四人を見る。
「お前たちも逃げられないぞ」
「え……?」
「ちょうどペンキの整理が必要で人手が足りない。お前たちは放課後に美術室の手伝いに行け」
「先生、それはやり過ぎです!」
了が抗議した。
「明らかに俺たちの方が被害者で、しかも怪我までしているんですよ。この罰は重すぎます!」
「異議があるなら、個別に罰則を与えねばならん」
「……」
遠回しではあるが、連帯責任で見逃すということだろう。
「まあ……いいや」
駿平がよろよろと立ち上がった。
「先生、僕らが手伝いに行きます」
「駿平!」
祥子が支える。
「あなたは私を助けようとして怪我したんだよ」
「そうだよ、駿平。無理しなくていい」
了も反対側から駿平を支える。
「俺たちがいるんだから」
鞘香も駆け寄り、駿平を支えた。
「うん」
四人は肩を寄せ合うようにして、階段へ向かった。
「待て」
生徒指導の声がする。
「不動。まずお前は保健室へ行け。血が出ている。理由は俺が説明してやる」
そう言うと生徒指導の先生も後を追った。
放課後の美術室
「違う違う!そこじゃない!」
祥子が声を上げる。
「それは斜め後ろのマス。そう、そこ!」
美術室には大量の絵の具やペンキ缶が並んでいた。
掃除を終えた祥子は、全身に塗料を浴びながら額の汗を拭う。
「ふぅ……やっと運び終えた」
了が残りを確認した。
「あと……一、二、三!」
目を輝かせる。
「あ、あと三缶だけだ!」
「手伝おうか?」
駿平が立ち上がる。
「ダメ!」
祥子が即座に止めた。
「駿平、まだ包帯を巻いてるじゃない。肋骨にまで傷が及ぶところだったんだよ。座って休んで!」
両手を駿平の肩に置き、椅子へ戻そうとする。
「こんな風に座っていたら、かえって身体がバラバラになりそうだ」
駿平は祥子の制止を無視した。
ペンキ缶を一つ持ち上げる。
「俺だってできるって」
棚へ運ぶがやはり痛みが響くらしく
「うっ……!」
半分も届かない。
力尽き、そのまま地面へ倒れ込んだ。
ペンキが半分ほどこぼれる。
「このペンキ……結構重いな」
泥と茶色い塗料が全身と顔についていた。
先ほどまで上級生三人を相手に勇敢に戦っていた「正義のヒーロー」の面影は、そこにはなかった。
祥子、了、鞘香は一瞬ぽかんとした。
そして――。
「ぷっ……」
三人とも吹き出した。
しかし、すぐに笑うのをやめ、鞘香が真っ先に駆け寄った。
「ちょっと、じっとして!」
顔に付いた塗料を拭う。
そして、背中の包帯を確認した。
「ガーゼが厚く巻いてあったからよかったけど……悪くしたら傷口が感染するところだったよ」
鞘香はため息をついた。
「後でまた医務室に行って、包帯を取り替えないと」
「ふん!」
祥子も腕を組む。
「あんたがヒーローごっこするのが好きだからこうなるのよ!まったくこんなに溢して。座ってなさい、私たちがやるから」
怒っているようで、その声には心配がにじんでいた。
「怪我しているのに、そんなに無理しちゃって……」
「ごめん、祥子」
駿平は両手を合わせた。
「こんなことになるなんて思わなくて……」
「大丈夫だよ」
鞘香が笑った。
「駿平は友達の私たちを守るために傷ついたんだから」
そして少しおどけて言った。
「これは誇りある証だよ。そうでしょ?正義のヒーロー!」
了も運び終えたペンキ缶を置くと、興奮したように何度も頷いた。
「本当……本当に?」
仲間に褒められ、駿平は少し照れながら顔を赤くした。
その時だった。
「駿平」
祥子が少し恥ずかしそうにしている。
「どうした、祥子?」
「……ありがとう」
祥子は一度目を伏せた。
そして決意したように駿平へ近づく。
小さな唇が、駿平の頬に触れた。
一瞬。
ほんの一瞬だった。
祥子はすぐに離れた。
「わあっ!」
駿平は何が起こったのか理解できず、しばらく固まっていた。
やがて顔が一気に真っ赤になる。
「な、なに……!」
「そんなに大声出さないでよ!」
祥子も顔を真っ赤にして、怒ったふりをしながら駿平の肩を軽く叩いた。
「まさか祥子が……痛っ!」
了も呆然としていたが、何か冗談を言おうとした瞬間、腕と足に痛みが走った。
「了、今は座っていて」
鞘香がすぐに駆け寄る。
ポケットから携帯用の綿棒ケース、消毒液、医療用の絆創膏と綿を取り出した。
医務室から持ってきたものだった。
まるで、最初からこうなることを予想していたかのようだった。
鞘香は手際よく了の包帯を外し、傷を確認する。
薬を染み込ませた綿棒で傷口をそっと処置し、新しい薬を塗って包帯を巻き直した。
「これからは気をつけてね」
「うん……」
了は顔を赤くしながら頷いた。
その優しく細やかな手つきに、了も駿平も思わず見入ってしまった。
「こんなに優しい君が、あの三人にあんなひどい扱いを受けるなんて……」
駿平が呟く。
「あいつら、本当に許せないな」
「駿平がもうやっつけたんだから、根に持たないで」
鞘香は微笑んだ。
「そんなの、了の優しい性格らしくないよ」
そして突然、何かを思い出した。
「あ、そうだ」
袋を取り出す。
「美術室に来る前に、お菓子持ってきてたんだ。体力を補充できるよ」
「最高だ!」
祥子が受け取る。
「鞘香、君は本当にいい奴だ!」
祥子はお菓子を優雅な動作でゆっくり味わった。
一方、了と駿平は待っていたと言わんばかりに、すぐにがつがつと食べ始めた。
そんな四人の時間を――廊下から、穏やかな音楽が包み込んだ。
モーツァルトの『レクイエム』
「……これは何の音?」
祥子が顔を上げる。
「隣の音楽教室のピアノみたいだね」
了が答えた。
鞘香は少し耳を澄ませた。
「……鎮魂歌」
「鎮魂歌?」
三人が鞘香を見る。
「これは音楽の巨匠、モーツァルトが生前に残した最後の曲」
鞘香は静かに説明した。
「後にカトリックで、死んだ人を弔う儀式……つまりレクイエムとして使われたんだけど、完成する前にモーツァルトは亡くなったの」
「ああ、俺も思い出した」
了が頷く。
「音楽の授業でやったよね。亡くなった父親を記念するために、この曲を作ることを承諾したんだって」
「そうだよ!」
駿平が笑う。
「俺も覚えている。祥子、ちゃんと聞いていなかったから、鞘香の方が詳しいと思ったんだろ?」
「えっ……!」
祥子の顔が赤くなる。
「こ、これは……」
鞘香は穏やかに微笑んでいる。
三人は大笑いした。
しばらくして、室内が静かになる。
「あ……」
駿平が口を開く。
「うん?」
三人が顔を向けた。
「あと一缶、運び終わっていない……」
「……」
四人は顔を見合わせた。
まだ仕事は終わっていなかった。
「先生もひどいよね」
祥子が不満そうに言う。
「駿平たちは怪我しているのに、こんなことさせてさ。悪いのはあの三人の上級生なのに」
「仕方ないよ」
鞘香が苦笑する。
「校則だもの。それに連帯責任で許して貰えたんだから」
「そうでなくてもあの三人、ぶっ飛ばしてやりたい!」
祥子は拳を握り、もう片方の手でそれを包み込んだ。
しかし、床を見る。
「……でも、今このペンキは床に散らばっているし、運ぶ必要があるんだよね」
四人は黙った。
やがて了と駿平が同時に立ち上がった。
二人でペンキ缶の取っ手を掴む。
「駿平、君は休んでくれ」
了が言う。
「傷が重いんだから、少し休んだ方がいい」
「お前も同じだろ?」
駿平が言い返す。
「だったら一緒に持つか、俺が離すかだ」
「いや、君はさっき一缶ぶちまけた上に、まだ邪魔する気?」
「前回は心の準備ができていなかっただけだ。今回は違う」
「もう、争いはやめなさい!」
鞘香と祥子が二人の間へ入る。
「四人で運ぼう」
二人は同時に空いていた取っ手へ手を置いた。
「せーの!」
四人で力を合わせる。
重い。
傷も痛い。
それでも、誰も手を離さなかった。
「やった!」
ついに最後の一缶を収納場所へ運び終えた。
四人はその場に寝転がった。
疲れ果てながらも、自然と笑顔が溢れる。
「協力するのって、本当に気持ちいいね!」
祥子が笑う。
「そうだな」
駿平も笑った。
「本当に、この日をしっかり覚えておかないとな」
「これからも、こんな楽しい時間を過ごせたらいいな」
鞘香が言った。
「きっとあるさ」
駿平が答える。
「未来のことを言えばね」
すると、横になっていた鞘香が突然起き上がった。
「ねえ」
三人が見る。
「私たちで、約束しようか!」
「約束?」
「私たち、それぞれ叶えたい夢があるんでしょ?」
鞘香は微笑んだ。
「ここで約束しよう。夢を叶えたその日に、またこの場所に集まって、そのことを伝え合おう」
「よーし!」
祥子が興奮して声を上げた。
「賛成!」
「それなら、ここで約束しよう!」
駿平が片手を差し出した。
四人の輪の中心へ。
「うん!」
了が手を重ねる。
二人は目を合わせた。
以心伝心。
小さな笑みが交わされる。
続いて祥子。
そして鞘香。
四人の手が重なった。
「約束を破る者は許さなーい!」
祥子が小さな拳を握る。
「必ず!」
三人が笑った。
それは、何の曇りもない少年少女たちの笑顔だった。
いつまでも続くと思っていた。
誰もが、そう信じていた。
――あの懐かしい少年時代。
現在
「……祥子」
駿平の声。
「祥子」
もう一度呼ばれて、祥子はようやく我に返った。
頬杖をついたまま、いつの間にか過去の記憶に浸り込んでいたのだ。
「ごめん……寝てた」
祥子は少し気まずそうに微笑んだ。
「もうこんな時間だ」
駿平は時計を見る。
「早く休め。了のことは俺が看てるから」
「……うん」
祥子は頷いた。
そして病床の脇にある木製の机へ向かい、そのまま机に伏せた。
やがて目を閉じた。
祥子が眠ったのを確認すると、駿平は一人で病床の脇の椅子に座った。
静かに了を見つめる。
了は眠っている。
その寝顔を見つめているうちに駿平自身も、いつの間にかゆっくりと瞼を閉じていた。
午前五時――緊急連絡
けたたましい携帯電話の着信音が病室に響いた。
「……!」
駿平は飛び起き、通話ボタンを押した。
「本部、何か新しい情報はあるか?」
電話の向こうから、切迫した声が返ってきた。
『おい、佐渡!お前、警察との合同捜査をやっているんじゃなかったのか?』
『海浜公園で今、大事件が起きているぞ!お前はどこにいるんだ?』
「何……?」
駿平の顔が変わった。
「まさか……」
『とにかく今すぐに来い!』
「了解しました!」
電話を切る。
駿平は椅子に掛けてあった迷彩柄のジャケットを掴んだ。
その物音で、机に伏せて眠っていた祥子が目を覚ます。
「……行くの?」
すでに装備を整えた駿平が振り返る。
「ああ」
表情は厳しい。
「ちょっとトラブルが起きた。急がなきゃいけない」
少し間を置いてから言った。
「すまない、祥子。君に頼むことになるかもしれない」
「うん。大丈夫」
祥子は頷いた。
「安心して行って。了の面倒は私が見るから」
彼女は分かっていた。
自衛隊が動くのは、公共の安全に関わる大きな事態が起きた時だ。
だから、引き留めることはしなかった。
「終わったらすぐ帰る!」
駿平はそう言って医務室を出ていった。