目の前に淡い光が浮かんだ。見覚えのある場所だった。
駿平が何度もネイバースと対話してきた、精神の世界。けれど、いつもとは違う。周囲には光も景色もほとんどなく、ただ静かな空間が広がっていた。
「……ネイバース?」
返事はなかった。
「おい、ネイバース。いるんだろ?」
そのとき、目の前に光が集まり始めた。
人の姿を形作ろうとするように、淡い輝きが輪郭を描いていく。
だが、その姿はひどく朧げだった。
身体の形を保っているというより、かろうじて人の姿を模したオーラが漂っているようだった。最初の頃のオーラの時と違い輪郭は絶えず揺らぎ、少しでも気を抜けば、そのまま霧散してしまいそうだった。
「……駿平」
「お互い随分な格好になっちまったな」
駿平は笑おうとした。
いつものように、軽口を叩くつもりだった。
けれど、ネイバースの姿を見ているうちに、その笑みは消えていった。
「……お前も、限界なんだな」
「……ああ」
ネイバースは、駿平の前に立った。
「すまない、駿平」
静かな声だった。
「君を、こんなことに巻き込んでしまった。そして……君の命を犠牲にしてしまった」
「ネイバース……」
「私は、君を守りたかった」
淡い光が揺れた。
「本当なら、私の命を君に与えてでも、君を元の世界へ帰したい。君が生きて、君の大切な人たちのもとへ戻れるのなら、私はそれでよかった」
ネイバースは自分の手を見つめた。
その手もまた、透き通っていた。
「でも、もう限界なんだろ?」
「ああ。この姿を維持するだけで精一杯だ。君を救うための力が、私には残されていない」
「……そっか」
「すまない」
「謝るなよ」
駿平は、ゆっくりと首を振った。
「お前が謝ることじゃないだろ」
「しかし、君は……」
「俺が決めたんだ。自分の命を懸けて戦うって。お前も、それを止めようとしてくれたじゃないか」
駿平は、ぼんやりとした空間を見渡した。
もう戻れないのだろうか。自分の世界には。
母の待つ家にも、祥子のいる場所にも。
そう考えると、胸の奥が痛んだ。
それでも、不思議と心は静かだった。
「……なあ、ネイバース」
「何だ」
「俺、お前に会えてよかったよ」
ネイバースの輪郭が、わずかに揺れた。
「君は……そう思うのか」
「ああ」
駿平は頷いた。
「お前がいなかったら、俺は祥子を守れなかった。大切な人を守るために戦う力なんて、俺にはなかったんだ」
あのときのことを思い出す。
恐怖に立ちすくみ、それでも手を伸ばそうとした自分。
一人ではどうにもならなかった現実。
そこに現れた、もう一つの意志。
「それに……お前と一緒に戦ったから、俺は過去と向き合えたんだと思う。俺は多分、ずっと過去から目を逸らそうとしてたんだ。了や鞘香のことから」
駿平は目を伏せた。
ずっと胸の奥に抱えていたもの。見ないようにしてきたもの。自分の弱さも、後悔も、認めたくなかった気持ちも。
ネイバースと出会い、ぶつかり、共に歩んできたからこそ、向き合うことができた。
「お前がいなかったら、俺はずっと逃げたままだったかもしれない」
「駿平……」
「だからさ。俺とお前が出会ったことにも、意味があったんだと思う」
駿平は、ネイバースを見た。
「運命って言うと、ちょっと大げさかもしれないけどさ。俺はそう思うんだ」
そして、穏やかに笑った。
「だから、後悔はないよ」
ネイバースは、何も言わなかった。
駿平の言葉を否定することも、受け入れることもできず、ただその姿を見つめていた。
自分と出会ったことを、駿平は後悔していない。
命を懸けることになった、この戦いさえも。
その事実が、ネイバースの心を締めつけた。
「……本当に後悔はないか?」
「え?」
「本当に、何もないのか」
駿平は少し考えた。
「……ああ。そうだな。俺は……」
「違う」
ネイバースが遮った。
その声に、駿平は顔を上げた。
「君が私と出会ったことを後悔していないのは、わかった。君が誰かを守るために戦ったことも、君自身が選んだことだというのも」
ネイバースは一歩、駿平に近づこうとした。
しかし、その身体は揺らぎ、足元から淡い光の粒子がこぼれ落ちた。
それでも、彼は駿平から目をそらさなかった。
「私が聞いているのは、そういうことではない」
「……どういうことだよ」
「君は、本当に後悔なく、このまま死ねるのか?」
駿平は息を呑んだ。戦いの前、遠回しにネイバースから告げられた自分と死ねるかという事だ。
「君は、自分の命を懸けると決めた。だが、それは君が死にたいと願ったからではないはずだ」
ネイバースの声は静かだった。
「君は生きたかったはずだ。戦いが終わったら、元の世界に帰りたかったはずだ。大切な人たちと、もう一度会いたかったはずだ」
駿平は答えられなかった。
「それらすべてを、君は本当に諦められたのか?」
その問いは、駿平を責めるものではなかった。
死ぬな、生きろと命令するのでもない。
ただ、駿平自身が心の奥に押し込めたものを、もう一度見つめるよう促していた。
「……俺は……」
駿平の脳裏に、ある光景が浮かんだ。
母の姿だった。
いつもの家。いつもの日常。
自分が帰ってくるのを待っている母。
何気ない会話。食卓を囲む時間。これまで当たり前だと思っていたもの。
自分が帰らなければ、母はどうなるのだろう。
何も知らないまま、息子の帰りを待ち続けるのだろうか。
「……母さん」
かすれた声が漏れた。
そして、もう一人。
祥子。
守りたいと思った人。ようやく向き合えた人。
戦いの前に交わした約束。
――帰ってくる。
そう伝えたのか、あるいは、必ずまた会おうと誓ったのか。
その約束が、胸の奥に鮮明によみがえった。
駿平の表情が変わった。
「……ああ、そうだ」
声が震えた。
「俺……母さんを、残していくんだ」
ネイバースは黙って聞いていた。
「祥子とも……約束したんだ。帰ってくるって。もう一度、会おうって……」
駿平は自分の手を見つめた。
そこには、何もなかった。
いつもなら感じられたはずのネイバースとのつながりも、もうほとんど感じられない。
「……なんだよ、それ」
笑おうとした。
けれど、うまくいかなかった。
「後悔はないなんて……そんなわけ、ないじゃないか」
声が途切れる。
「俺、帰りたいよ……」
その言葉を口にした途端、押さえ込んでいた感情があふれ出した。
「母さんに、ただいまって言いたい。祥子との約束も、守りたい。みんなと、もう一度……」
駿平は顔を覆った。
「俺、まだ……生きていたいんだ」
静寂が二人を包んだ。
ネイバースは、朧げな姿のまま駿平を見つめていた。
彼が初めて、自分の命を懸けると決めたとき。
駿平は、恐怖を抱えながらも、誰かを守るために進むことを選んだ。
そして今、彼は自分が生きたいのだと認めた。
それは、これまでの決意を否定するものではなかった。
誰かを守りたいという願いと、自分も生きていたいという願い。
そのどちらも、駿平にとって本当の気持ちだった。
「……そうか」
ネイバースが、静かに口を開いた。
「それが、君の本当の気持ちなのだな」
駿平は涙を拭い、頷いた。
「ああ……」
「ならば、君はまだ諦めるべきではない」
「でも……お前には、もう力が……」
「わかっている」
ネイバースは、自分の身体を見下ろした。
輪郭はさらに薄くなり、光の粒子が絶え間なくこぼれている。
「私に、君を救う力が残されているかはわからない。君を元の世界へ帰す方法も、今の私には見つけられない」
彼は駿平を見つめた。
「それでも、君が本当は生きたいと願っているのなら……その願いまで、君自身が否定する必要はない」
「ネイバース……」
「君は、私に多くのことを教えてくれた。人間の強さも、弱さも。そして、想いが持つ力も」
ネイバースは、かすかに微笑んだ。
精神世界には、静寂が満ちていた。駿平は、目の前に立つネイバースを見つめていた。
先ほどまで、かろうじて人の姿を保っていたその身体は、いよいよ輪郭を失いつつあった。淡い光が揺れるたび、肩や腕が透け、その向こうに何もない空間が見える。
もう、時間がない。
それは駿平にもわかっていた。
「……なあ、ネイバース」
「何だ、駿平」
「お前、最後まで俺のことを助けようとしてくれるんだな」
「当然だ」
ネイバースは迷いなく答えた。
「君は私の相棒なのだから」
駿平は小さく笑った。
「……そっか」
相棒。
初めて出会った頃には、考えもしなかった言葉だった。
理解できない相手だった。考え方も違えば、見ている世界も違う。何度も戸惑い、ぶつかり、互いの言葉に傷ついたことさえあった。
それでも、二人はここまで一緒に来た。
「俺さ……お前と出会えて、本当によかったよ」
「駿平……」
「最初は、なんなんだよこいつって思ってたけどな。人の気持ちもわかんないし、いきなり無茶なこと言うし」
「……それについては、否定できない」
「だろ?」
駿平は笑った。
今度は、少しだけ自然に笑えた。
「でも、お前がいたから、俺は戦えた。祥子を守れた。ずっと逃げてた自分の過去とも、向き合えた」
目を伏せ、言葉を選ぶ。
「俺、一人だったら……きっと、ここまで来られなかったと思う」
ネイバースは、黙って聞いていた。
「だから、ありがとな」
その一言を聞いたとき、ネイバースの身体が大きく揺らいだ。
光が散る。
彼は片手を伸ばそうとした。しかし、その手は駿平に届く前に透けてしまった。
「……すまない」
「またそれかよ」
「私は、君を元の世界へ帰すと約束できない」
ネイバースの声が、わずかに震えた。
「君の母親にも、祥子にも、君自身にも……私は何も返なかった。君が生きたいと願っていることを知りながら、それを叶えることさえできない」
「……」
「私は、君と出会って変わった。君から多くのことを学んだ。君と過ごした時間を、決して無意味だったとは思わない」
彼は駿平を見つめた。
「だが、君を失うことに、意味があるとは思えない」
駿平は、何も言わなかった。
ネイバースは、最後まで自分を救おうとしてくれている。
自分の命を犠牲にしたことを悔やみ、力が残っていないことを悔やみ、それでもなお、どうにかして生かそうとしている。
そんな相棒に、駿平は何を伝えればいいのだろう。
「……なあ、ネイバース」
「何だ」
「俺、お前に一つだけ頼みがあるんだ」
「言ってくれ」
駿平は、少しだけためらった。
そして、まっすぐにネイバースを見た。
「俺と出会ったことを、後悔しないでくれ」
ネイバースは目を見開いた。
「駿平……」
「お前は、俺を助けられなかったって思うかもしれない。俺を元の世界に帰せなかったって、自分を責めるかもしれない」
駿平はゆっくりと首を振った。
「でも、俺は違うんだ。お前に会えたから、俺は大切な人を守れた。自分の弱さと向き合えた。そして、帰りたいと思える場所があることも、そこにいる人たちをどれだけ大切に思っているのかも、改めて知ることができた」
「……」
「それにさ。お前だって、変わっただろ?」
駿平は、いつものように笑ってみせた。
「人間のことなんて、よくわかんないって顔してたお前が、今じゃ俺のことを心配してくれてる。俺が死ぬのを嫌がって、必死になってくれてる」
「私は……」
「それが、俺は嬉しいんだよ」
駿平の目から、涙がこぼれた。
「だから、頼む。俺とお前が一緒に戦った時間を、悲しいだけのものにしないでくれ」
ネイバースは、答えられなかった。
彼にとって、駿平は戦うための存在だったはずだ。
地球を守るために力を合わせ、敵を倒すために共に戦う。そのために出会い、そのために融合した。
だが、いつからだろう。
駿平が傷つくことを恐れるようになったのは。
彼が笑うことに安堵し、彼が悲しむことに胸を痛めるようになったのは。
そして今、彼を失いたくないと願っている。
その願いを叶えられない自分が、悔しかった。
「……駿平」
「ん?」
「君と出会えて、よかった」
駿平の表情が止まった。
「……お前」
「君は私に、力の使い方だけではなく、何のために力を使うのかを教えてくれた」
ネイバースの輪郭が、さらに薄くなる。
「君の想いに触れたからこそ、私は誰かを守りたいと思った。君を守りたいと思った。そして、君が帰りたいと願う世界を、私も守りたいと思った」
彼は、静かに言った。
「ありがとう、駿平」
駿平は唇を噛んだ。
泣くつもりなんてなかった。
最後くらい、笑って別れたかった。
けれど、目の前の相棒が消えていくのを見て、どうして平気でいられるだろう。
「……ずるいよ、お前」
「何がだ?」
「そんなこと言われたら……別れたくなくなるだろ」
ネイバースは、かすかに笑った。
「私もだ」
その言葉に、駿平はとうとう顔を伏せた。
「……もっと、お前と話したかった」
「……ああ」
「もっと一緒に戦いたかった。くだらないことで言い合いしたり、俺が人間のことを教えたり……お前が何か勘違いして、俺が突っ込んだりさ」
「……それは、今後の参考にしたかった」
「なんだよ、それ……」
駿平は泣きながら笑った。
「ほんと、最後までお前らしいな……」
ネイバースの姿が、光の粒子に変わり始めていた。
もう、顔もはっきりとは見えない。
「もう、行かなければ……駿平」
「……うん」
「君が私と出会ったことを運命だと言ったな」
「ああ……」
「ならば、私もそう思おう」
光が、ゆっくりと駿平を包み込む。
「君と出会えたことを、私は誇りに思う」
駿平は顔を上げた。
「……ネイバース」
「君の未来が、どこへ続いているのか。私は最後まで見届けたかった」
その声は、もうすぐ消えてしまいそうだった。
「だが……君が教えてくれたことは、決して忘れない」
「……俺だって、忘れないよ」
駿平は、震える手を伸ばした。
ネイバースもまた、残された力を振り絞るように手を伸ばす。
二人の手が触れた。
確かな感触はなかった。
それでも、駿平にはわかった。
そこに、相棒がいる。
「ありがとな、ネイバース」
「ああ……駿平」
「俺、お前に会えてよかった」
「私もだ」
その瞬間、ネイバースの身体が光に溶けた。
手の先から、腕へ、肩へ。
淡い光の粒子が舞い上がり、駿平の周囲をゆっくりと漂っていく。
「……ネイバース?」
返事はなかった。
「……おい」
光は、少しずつ小さくなっていく。
「……ネイバース!」
駿平は手を伸ばした。
けれど、もう届かなかった。
最後の光が、彼の指先をかすめる。
まるで、別れを告げるように。
そして、消えた。
静寂。
駿平は、その場に立ち尽くしていた。
もう、声は聞こえない。
意識の奥に感じていた、あの存在の気配もない。
いつだってそこにいた相棒が、いなくなった。
アスモンティスと同じ、あるべき場所に帰ったのだ。
「……そっか」
駿平は、ゆっくりと手を下ろした。
「……じゃあな、ネイバース」
涙が頬を伝った。
「……俺の、相棒」
その言葉を最後に、駿平の意識もまた、深い闇へと沈んでいった。