深夜の横浜市臨海部。
海に面した造船所は、夜の闇に沈んでいた。
巨大なクレーンが幾本も並び、建造途中の船体が黒い影となって浮かび上がっている。岸壁には資材を積んだコンテナが並び、船舶の修理や組み立てに使われる大型の鋼材が、工場の奥へと運び込まれていた。
普段なら、溶接の火花や機械の駆動音が絶えない場所だ。
しかし、今夜は違った。
作業員は全員退避している。工場内の照明も必要最低限に落とされ、広大な敷地には海風が吹き抜ける音だけが残っていた。
その静寂の中に、陸上自衛隊と警察の部隊が展開していた。
周辺道路には規制線が張られ、警察車両が交差点を封鎖している。住民には緊急避難が指示され、造船所から半径五キロの範囲は立ち入り禁止となった。
一日のうちに発生した突然の避難命令に、住民の反発は強かった。
何が起きているのか、十分な説明もないまま家を出ろと言われたのだ。当然だろう。
それでも警察と自衛隊は一軒ずつ説明を重ね、夕方には住民を避難区域の外へ誘導した。
やがて、造船所周辺から人影が消え、残されたのは、任務に就く隊員たちだけだった。
駿平と羽生は、互いの腕時計を確認した。
予定時刻が迫っている。
駿平は海の方へ目を向けた。
波は穏やかだった。
だが、その地下では、巨大な何かがこちらへ向かって進んでいる。
「……時間です」
駿平が言った。
羽生は無言で頷く。
二人は待機していた部隊へ合図を送り、事前に決められた配置につくよう指示した。
作戦が始まった。
「しっかし、本当にここまでやる必要があるのかねぇ」
造船所から離れた場所で、隊員たちが小声で話していた。
「不動の予測が外れたら、とんでもない騒ぎになるぞ」
「上はそれだけ奴を信用しているってことだろ」
別の隊員が、周囲に並ぶ装備を見渡した。
「小銃と機関銃だけじゃない。120ミリ迫撃砲まで六門。84ミリ無反動砲に、多目的誘導弾の発射装置。NBC偵察車と救護班まで用意している。たった一匹の生物を相手にする規模じゃない」
「相手の大きさも能力も分かっていないんだ。普通の災害派遣とは違う」
「それにしたってな……」
「不動本人の力だけじゃないだろ。江国三尉をはじめ、上層部からの信頼がある」
「羽生警部も、ただの警察官じゃないらしいぞ」
「どういう意味だ?」
「なんでも元陸上自衛官だったそうだ。それもかなり上の階級だったとか」
隊員の一人が、造船所の方を見た。
「それに不動も妙な奴だ。これまでの特殊捜査でも、あいつの推測が何度も当たっている」
「何か特別な情報を持っているんじゃないのか?」
「さあな……」
「お前たち、何をこそこそ話している!」
上官の声が飛んだ。
二人は慌てて背筋を伸ばす。
「今は街の安全がかかっている。無駄口を叩いている暇があったら暇があったら持ち場につけ!」
「了解!」
隊員たちは敬礼し、20式小銃を携行し直すと、暗い道路の向こうへ散っていった。
「まるでゴーストタウンだ」
造船所の内部。羽生は大型コンテナの上に腰を下ろし、吸い終えた煙草を携帯灰皿へ押し込んだ。
工場内は薄暗かった。
天井から吊り下げられた鋼材。組み立て途中の船体。床に残った泥と油の跡。奥には溶接用の設備や、船舶の外板を加工するための大型機械が並んでいる。
わずかに開いた鉄扉から海風が吹き込み、金属製の扉が軋み、ギィギィと不快な音を立てている。
遠くには、月明かりを受けた海が見える。
穏やかな景色とは裏腹に、工場内には張り詰めた緊張が漂っていた。
駿平、市川、大神、羽生。
四人は、怪物が現れると予測された場所で待機していた。
「羽生警部」
駿平が口を開いた。
「以前、自衛隊にいたんですか?」
羽生田の表情がわずかに動いた。
「……どうしてそう思う?」
「ほかの警察官と雰囲気が違います。それに、自衛隊員たちも羽生警部に対してだけ、少し態度が違う」
「なかなか鋭いじゃないか」
横から大神が口を挟んだ。
「その通りだ。羽生警部は元陸上自衛官だ。それも陸佐だった」
「え……?」
駿平は目を見開いた。
市川も驚きを隠せない。
「そんな……江国三尉からは何も聞いていません」
「大分昔の話だ」
羽生田は淡々と言った。
「隊を離れて、もう七年近くになる。わざわざ話すようなことでもない」
そう言って、腕時計を確認する。
「……本当に来るのか?」
「可能性は八割以上です」
「八割か」
「絶対ではありません」
駿平は、確信を持っているようには見えなかった。
それでも、その視線は一度も揺らがなかった。
羽生はそれ以上問い詰めず、再び周囲を見渡した。
四人は沈黙した。
時間だけが過ぎていく。
徐々に月が高くなった。
海風が冷たさを増している。
工場の外では、一般警察と治安部隊がさらに後方へ下がり、周辺の封鎖を維持していた。
造船所から約1キロ離れた地点にはNBC偵察車と生物災害対処部隊。その外側には歩兵中隊が展開し、土嚢と掩体を利用した防御陣地が築かれている。
20式小銃。
5.56ミリ機関銃MINIMI。
120ミリ迫撃砲。
84ミリ無反動砲。
96式多目的誘導弾システム。
そして、地下振動と異常な生体反応を監視するための各種センサー。
通常の警備や災害派遣では考えられないほどの戦力だった。
そのすべてが、たった一匹の正体不明生物を待ち構えている。
だが、何も起こらなかった。
センサーに目立った反応はない。
市川は落ち着かない様子で時計を見た。
「……不動先輩」
「何だ?」
「少し外を見てきます」
市川が立ち上がり、鉄扉へ向かった。
その瞬間だった。
駿平の目が見開かれた。
「市川!戻れ!」
「えっ?」
駿平は飛び出すように市川の腕を掴み、力任せに引き戻した。
直後、激しい地響きと共に大地が激しく揺れた。
「うわっ!」
市川が床に倒れ込む。
彼が今まさに通り抜けようとしていた鉄扉の枠が、目に見えて歪んだ。
次の瞬間、轟音とともに扉が崩れ落ちる。
「走れ!」
駿平と羽生の声が重なった。
「別の出口へ!奴は足元からくるぞ!」
四人は一斉に走り出した。
工場そのものが崩壊を始めていた。
壁に亀裂が走り、天井から鋼材や配管が落下する。コンクリートの床が波打つように盛り上がり、砂塵が視界を覆った。
「何なんだ、これは!」
市川が叫ぶ。
「地面が……!」
「止まるな!」
駿平は前を見据えた。
足元の異常は、単なる地震ではない。
地下から何かが迫っている。
四人は、事前に用意していた信号銃を握り締めた。外の部隊へ異常を知らせるためのものだ。
しかし、出口まであと少しというところで、大神の足元が崩れた。
「大神!」
床が陥没する。
「うわあああっ!」
大神の左脚が、流砂のように崩れる泥の中へ引きずり込まれた。
羽生がとっさに腕を掴む。
駿平と市川も加わった。
「引っ張れ!」
三人が力を込める。
だが、大神の身体は抜けなかった。むしろ泥は、獲物を呑み込むように彼の脚を深く引きずり込んでいく。
四人の足元へ亀裂が広がり、床が次々と流砂へ変わっていった。
「このままじゃ、全員が沈む!」
駿平は顔をしかめた。
出口を見る。
天井から落ちてきた瓦礫が、最後の脱出口を塞ぎ始めていた。
「くそっ……!」
逃げ道が消える。
そのとき――。
巨大な金属音が響いた。
駿平のすぐ近くに、鋼管の束と厚い鉄板が落ちてきた。
駿平の目が鋭くなる。すぐにその鋼管を掴むと、もう片方の手で、床に落ちた鉄板を蹴り出した。
「市川!」
「はい!」
「訓練で似たようなことをやっただろ!」
市川は一瞬だけ目を見開いた。
そして、意図を理解した。
「分かりました!」
市川が鉄板へ飛び乗る。
駿平は鋼管の束を持ち上げた。
「一か八かだ!」
全力で投げる。
鋼管が出口の歪んだ枠へ引っ掛かった。
「市川、今だ!」
市川が全力で走り、鉄板を踏み台にして跳躍した。
流砂を飛び越え、出口の向こうへ着地する。
「先輩!」
市川は鋼管に結びついたワイヤーを掴んだ。
手のひらが裂け、血が流れた。
それでも離さない。
「これを!」
ワイヤーが駿平の手元へ届く。
「羽生警部、大神を!」
「分かった!」
羽生は大神の身体を鉄板へ固定するように支えた。
三人がワイヤーを掴む。
引く。
少しずつ、鳴海の身体が流砂から抜けていく。
しかし、崩壊は止まらなかった。
頭上から瓦礫が降り注ぎ、鉄板が滑る。
駿平と羽生の足元も、流砂へ沈み始めた。
「先輩……早く!」
市川が歯を食いしばる。
血まみれの手で、必死にワイヤーを支えた。
「もう……持ちません!」
そのとき。
駿平の身体が、わずかに震えた。
瞳の奥に、一瞬だけ紅い光が走る。
次の瞬間。
流砂の底から、猛烈な振動が噴き上がった。
足元の砂が爆発し、四人の身体がまとめて宙へ放り出される。
そして、奇跡的に全員が出口付近へ転がり落ちた。
「……助かった」
羽生田が息を吐いた。
だが、すぐに鳴海の叫びが響いた。
「ぐあああああっ!」
「大神!」
三人が振り返る。
大神の左脚は、膝から下が失われていた。
血が瓦礫の上へ滴り落ちている。
崩れた床の下に潜んでいた何かが、彼の脚を食いちぎったのだ。
羽生はすぐに衣服を裂き、負傷箇所を強く圧迫して止血を始めた。
「しばらく我慢しろ!脱出するぞ!」
大神の腕を自分の肩へ回す。
「信号を!」
駿平と市川が信号銃を構えた。
しかし、大地が再び震えた。
工場中央の床が大きく陥没する。
砂の底から、巨大な何かが這い上がってくる。
そして、ぐちゃぐちゃと何かを噛み砕く音がする。
暗闇の中から、巨大な影が姿を現した。
花弁のように開く巨大な口。
その内側には、無数の逆三角形の牙が並び高速で回転している。口の両側からクワガタムシの顎のような角が展開された。
「来るぞ……!」
羽生が20式小銃を構える。
駿平と市川も続いた。
地底から現れた怪物、巨大なミミズだった。
「下がれ!」
羽生は大神を支えたまま射撃した。
駿平と市川も銃口を向ける。
銃声が工場内に反響した。
弾丸が怪物の口腔へ叩き込まれる。
怪物が絶叫した。
「信号を!」
駿平が叫ぶ。
四人は工場から脱出し、避難港に面した建物が、完全に崩れ落ちた。
瓦礫を吹き飛ばしながら、黒い巨体が追ってくる。
「中隊!火力支援を!」
駿平と市川が叫んだ。
外で待機していた自衛隊員たちが、一斉に動いた。
「各班、射撃準備!」
20式小銃とMINIMIが構えられる。
無反動砲の射手が照準を合わせ、迫撃砲班は射撃諸元を確認した。誘導弾の発射装置も目標へ向けられる。
指揮官が腕を振り下ろした。
「撃て!」
夜空を砲火が染めた。
大量の弾丸が怪物へ集中する。
誘導弾が花弁状の口へ突き刺さり、迫撃砲弾が巨体の周囲で炸裂した。
怪物が大きくのけ反る。
その隙に、駿平たちは防御陣地へ走った。
「助かった……!」
市川が息を切らす。
羽生は大神を救護班へ引き渡した。
「大神がやられた!止血を続けろ!輸送の準備を!」
医療班が鳴海を担架へ移す。
鳴海は痛みに顔を歪めながらも、意識を失わないよう歯を食いしばっていた。
しかし――戦いは終わっていなかった。
駿平と市川はNBC偵察車へ入り、地下振動センサーの表示を確認した。
「……あれだけ撃ってなんで死なない」
駿平が呟く。
怪物の反応は消えていない。
その直後だった。
怪物が突然、天へ向かって口を開いた。
まるで人間の絶叫のような耳をつんざくような咆哮が響き渡る。
「うっ……!」
隊員たちが耳を塞いだ。
音が頭蓋の内側へ直接突き刺さるようだった。
身体から力が抜けていく。
射撃を続けていた隊員たちが、次々と膝をついた。無反動砲の射手も、誘導弾の操作員も、迫撃砲班も、動きを止めてしまう。
怪物の咆哮は、単なる音ではない。特殊な音波が、部隊の装備と隊員たちの身体へ影響を及ぼしている。
戦場全体の機能が、急速に失われていった。
だが、NBC偵察車内にいた駿平たちは、事前に起動していた防音・防振対策によって、かろうじて動ける状態を保っていた。
「今だ!」
駿平が車外を見た。
怪物が地中へ潜り始めている。
「地質を変換する気だ!」
その声を受け、迫撃砲班が再び射撃を開始した。
120ミリ迫撃砲弾が、怪物の潜行地点へ降り注ぐ。
轟音が響き、砂煙が迸る。
地面が大きく抉れた。
しかし怪物の姿は消えていた。
代わりに、地面が流砂へ変わり始める。
「後退!」
自衛隊員が叫んだ。
だが、遅かった。
足元が崩れていく。
「うわああっ!」
兵士たちが次々と砂へ沈んでいった。
走っても逃げられない。
そして巨大な口が、砂の中心から突き出した。
巨大な獲物を捕らえる。
一人。
また一人。
悲鳴が上がり、磨り潰された人間だったものが血飛沫が夜空へ舞った。
「やめろぉぉぉ!」
市川が叫んだ。
目の前で仲間が食われていく。
駿平は歯を食いしばった。
NBC偵察車が怪物へ向かって突撃する。
羽生も別の装甲車両へ飛び乗った。
三台の防護車両が、砂の中で動く怪物へ突っ込んでいく。
12.7ミリ重機関銃が火を噴いた。
弾丸が怪物の外皮へ叩き込まれる。
だが、怪物の巨大な尾が横薙ぎに振り抜かれた。
轟音と共に三台の車両がまとめて吹き飛ぶ。
一台の装甲車が大きく傾き、別の車両は車体を損傷して動きを止めた。
兵士たちの体が宙を舞う。
羽生田も衝撃を受け、地面へ叩きつけられた。
市川も倒れ込む。
そして駿平だけが、立っていた。
崩れた車両の陰から、ゆっくりと立ち上がる。
手には、96式多目的誘導弾の携行発射装置があった。
駿平は残された一発を、怪物の口へ向けて放った。
誘導弾が飛ぶ。
怪物の口腔へ命中し、爆発と共に巨体が揺らぐ。
駿平は発射装置を捨て、拳銃を抜いた。
怪物が駿平を向いた。
目など存在しない。
それでも怪物は、何かを感じ取ったかのように身を震わせた。
駿平の瞳に、赤い光が宿っていた。
「……不動先輩」
市川が薄く目を開けた。
その視界に映ったのは、一人の青年だった。
自衛隊の制服をまとい、拳銃一丁で巨大な怪物へ向かっていく。
市川は、そこで意識を失った。
駿平は拳銃を握り直した。
銃身の周囲が、微かに歪んでいる。
念動力……とでもいうべき脈動する特殊なエネルギーが、弾丸へ注ぎ込まれていく。
「……こいつを、引き離す」
駿平は走った。
怪物が追ってくる。
拳銃から弾丸が次々と放たれ、その軌道が、不自然に曲がる。
弾丸は硬い外皮を避け、弱点だけを正確に撃ち抜いていった。
怪物の注意が、完全に駿平へ向いた。
「そうだ……俺を追え」
駿平は走り続けた。
怪物を、倒れている隊員たちから遠ざけるために。
尾が飛んでくる。
瓦礫が弾丸のように飛び散った。
駿平は片手を伸ばす。
「……止まれ」
念動力によって、飛散した瓦礫が空中で停止した。
そして反転し無数の破片が、怪物へ叩き込まれた。
怪物が悲鳴を上げる。
駿平はさらに撃った。
一発。
また一発。
弾丸が怪物の身体へ食い込む。
だが、身体は限界に近づいていた。
「これ以上は……」
呼吸が荒くなり、視界が揺れる。
それでも怪物は止まらない。
花弁状の口を大きく開き、駿平へ突進してくる。
駿平は拳銃を構えた。
銃身の内部へ、脈動するエネルギーを集中させる。
金属が熱を帯び、銃身の周囲に赤い光が走った。
そして――。
銃身そのものが爆発した。
火花と金属片が飛び散る。
しかし、弾丸は放たれていた。
通常ではあり得ない速度で飛んだ弾丸が、怪物の口へ突き刺さる。
怪物が絶叫と共に地面へ崩れた。
そのまま、地下へ潜っていく。
「また逃げる気か!」
駿平は地面へ手をついた。
瞳に紅い光が宿る。
意識が、地中へ潜っていく。
地下構造が、巨大な赤い立体格子として脳裏に浮かび上がった。
その中を、灰緑色の波が動いている。
怪物だ。
「……見つけた」
駿平は、脈動するエネルギーを地中へ叩き込んだ。
地質を固定する。
さらに地層の内部へ、不可視の振動切断場を形成した。
大地が震えた。
地下から巨大な影が飛び出した。
怪物の身体に、白い亀裂のような光が走る。
そして――。
巨大な身体が、いくつもの断片へ切断されて崩れ落ちた。
「……終わった」
駿平は息を吐いた。
だが、彼はまだ知らなかった。
あの生物にとって、死はそれほど単純なものではない。