一晩働くだけで、百五十万円。

そんな求人広告を見つけたとき、宇津木啓介は詐欺を疑った。

勤務時間は午後十時から翌朝六時まで。仕事内容は、民間企業が所有する大型複合ビルの夜間警備。経験不問、資格不問、年齢制限なし。

唯一、妙な条件があった。

『勤務施設には、人間以外の存在が出現する場合があります』

つまり、幽霊だとか化け物だとか、そういうものが出るらしい。

普通なら応募しない。

しかし、啓介は普通ではなかった。

彼は極度の怖がりであると同時に、救いようのない守銭奴だったのだ。

一晩百五十万円。

十日働けば千五百万円。

二十日働けば三千万円。

怖い。

死ぬほど怖い。

でも、金が欲しい。

こうして彼は、命と金を天秤にかけながら、怪異だらけの建物で夜勤を始めることになった。

本人の目標は、できるだけ安全に、できるだけ多くの金を稼ぐこと。

怪異を退治するつもりも、建物の謎を解き明かすつもりもない。

ただ、問題が一つ。

この建物の怪異たちは、どういうわけか、彼のことを少しずつ意識し始めていた。

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百五十万円の求人広告

一晩、百五十万円。

 

最初にその金額を見たとき、俺は画面を拡大した。

 

百五十万。

 

もう一度確認する。

 

百五十万。

 

桁を数えた。

 

「……百五十万だ」

 

間違いない。求人広告には、確かにそう書いてあった。それも月給ではない。日給である。

 

いや、正確には一勤務あたりの報酬だ。

 

俺は椅子から立ち上がり、冷蔵庫から麦茶を取り出した。コップに注ぎ、一口飲んでから、改めてスマートフォンを確認する。

 

『夜間施設警備員募集』

 

『一勤務:1,500,000円』

 

『勤務時間:22時00分~翌6時00分』

 

『勤務場所:東京都内・指定複合施設』

 

『経験・資格不問』

 

『制服貸与』

 

『交通費支給』

 

『勤務終了後、所定の確認を経て報酬を支給』

 

胡散臭い。

 

あまりにも胡散臭い。

 

こんな求人に応募する人間がいたら、間違いなく馬鹿だと思う。世の中、そんなに美味い話があるわけないだろう。

 

大方、犯罪の片棒を担がされるか、指定された場所へ行った途端に身ぐるみ剥がされるか、そのどちらかだ。

 

俺はスマートフォンを置いた。

 

麦茶を飲む。

 

もう一度スマートフォンを手に取る。

 

「……でも、百五十万か」

 

高い。

 

高すぎる。

 

一晩だぞ? たった八時間だぞ?

 

時給に直したら十八万七千五百円。

 

一般的なアルバイトなら、何か月も働いてようやく手にする金額である。それが、たった一晩。

 

「……いやいやいや」

 

俺は首を振った。

 

駄目だ。落ち着け。こういうときこそ冷静にならなければならない。

 

俺は金が好きだ。

 

それはもう、どうしようもないくらい好きだ。

 

銀行口座の残高が増えるのを見るのが好きだし、財布の中に一万円札が何枚も入っていると嬉しくなる。

 

買い物をするときには価格を比較する。ポイント還元率も確認する。割引券の期限が切れそうになれば、無理にでも使いたくなる。

 

金を使うのは嫌いだ。

 

だが、金を稼ぐのは大好きだ。

 

何しろ、金は素晴らしい。

 

住む場所を選べる。食べたいものを食べられる。嫌な仕事を辞められる。将来への不安だって、ある程度は減らせる。

 

金で買えないものがある?

 

そりゃあるだろう。

 

でも、金がないと買えないものは、もっとたくさんある。

 

だからといって、犯罪に手を染めるつもりはない。命を賭けるつもりもない。

 

俺は金持ちになりたいのであって、金持ちの死体になりたいわけではないのだ。

 

「……調べるだけなら無料だよな」

 

とりあえず、求人を出している会社を検索してみた。

 

白峰総合管理株式会社。

 

聞いたことのない会社だった。

 

しかし、法人登記は存在する。公式サイトもある。

 

建物管理、施設警備、特殊環境保全業務などを取り扱っているらしい。

 

さらに調べると、官公庁との取引実績まで確認できた。

 

……あれ?

 

まともな会社なのか?

 

いや、まだ分からない。

 

俺は慎重な男だ。

 

金に目が眩んで判断を誤るほど馬鹿ではない。少なくとも、自分ではそう思っている。

 

求人広告へ戻る。

 

下の方に、仕事内容の詳細が記載されていた。

 

『本施設は、夜間に特殊な現象が発生する場合があります』

 

……ん?

 

『勤務者は、施設内の安全確保、設備の監視、異常現象の記録などを担当します』

 

『出現する存在への積極的な接触、排除、制圧などは原則として業務に含まれません』

 

『特殊環境下での業務となるため、十分な危険手当を含む報酬体系を採用しています』

 

「…………」

 

特殊な現象。

 

出現する存在。

 

危険手当。

 

俺は嫌な予感がした。

 

恐る恐る、求人の最下部までスクロールする。

 

そして、最後の一文を見つけた。

 

『※勤務施設には、一般に怪異と呼称される存在が出現する場合があります』

 

「……あー」

 

なるほど。

 

そういうことか。

 

俺はスマートフォンを置いた。

 

納得した。

 

これは確かに高給になるだろう。

 

何しろ、怪異である。

 

幽霊とか、化け物とか、そういうものだ。

 

最近ではニュースでも取り上げられるようになったし、国も一応の対策を進めている。怪異に関連した仕事があることも知っていた。

 

ただ、俺には縁のない世界だと思っていた。

 

というか、縁なんて持ちたくなかった。

 

怖いし。

 

俺はホラー映画すらまともに見られない男なのだ。

 

夜中にトイレへ行くとき、廊下の電気を全部つける。風呂場で目を閉じて髪を洗うのも嫌いだ。背後に誰かいるような気がするから。

 

そんな俺が、怪異の出る建物で夜間警備?

 

無理だ。

 

絶対に無理。

 

「……百五十万」

 

俺は呟いた。

 

八時間で百五十万。

 

その金額が、頭から離れなかった。

 

 

◇

 

 

三日後。

 

俺は面接会場にいた。

 

馬鹿だと思う。

 

我ながら、本当に馬鹿だと思う。

 

しかし、仕方なかった。

 

あれから毎日、あの金額が頭から離れなかったのだ。

 

仕事中も。食事中も。風呂に入っているときも。寝る前も。

 

百五十万。

 

百五十万。

 

百五十万。

 

もはや呪いである。

 

怪異に遭遇する前から、金額に取り憑かれてしまった。

 

「宇津木啓介様ですね」

 

「はい」

 

面接官は、四十代くらいの男性だった。

 

灰色のスーツに、銀縁の眼鏡。物腰は柔らかく、普通の会社員にしか見えない。

 

「本日はお越しいただき、ありがとうございます」

 

「こちらこそ、よろしくお願いします」

 

「早速ですが、今回の求人について、どの程度ご理解されていますか?」

 

「……怪異が出る施設の夜間警備、ですよね」

 

「そのとおりです」

 

面接官は頷いた。そして、何でもないことのように続けた。

 

「実際に、勤務中に怪異と遭遇する可能性があります」

 

「……はい」

 

「人型のものもいれば、そうでないものもいます。危険性も様々です」

 

「……はい」

 

「ただし、基本的に警備員の方には怪異への対処を求めておりません」

 

「え?」

 

思わず顔を上げた。

 

「対処しなくていいんですか?」

 

「はい」

 

「退治したりとか」

 

「必要ありません」

 

「戦ったりとか」

 

「業務には含まれておりません」

 

「……逃げても?」

 

「状況によりますが、危険から距離を取ることは推奨しています」

 

……おお。

 

思っていたのと違う。

 

俺はてっきり、化け物と命懸けで戦わされるものだと思っていた。

 

「では、具体的には何をするんですか?」

 

「監視、記録、報告。それから、指定された区域の巡回ですね」

 

「普通の警備とあまり変わらないんですね」

 

「業務内容だけを見れば、そうかもしれません」

 

面接官は資料を一枚取り出した。

 

「ただし、通常の警備とは異なる点もあります」

 

「……例えば?」

 

「巡回中に、存在しない部屋や通路が現れることがあります」

 

「…………」

 

「監視カメラに、実際には存在しない人物が映ることもあります」

 

「…………」

 

「施設内の放送設備から、不明な音声が流れることもあります」

 

俺は黙っていた。

 

帰りたくなってきた。

 

いや、もう帰りたい。

 

「そうした現象について、決められた手順で記録していただきます」

 

「……それだけですか?」

 

「基本的には」

 

基本的には。

 

その言葉が怖い。

 

俺は面接官を見た。

 

「……ちなみに、危険なんでしょうか」

 

「危険がないとは申し上げられません」

 

正直な人だった。

 

そこは評価したい。

 

「ただし、勤務施設には複数の安全設備があります。また、過去の事例を基に対応手順も整備されています」

 

「なるほど」

 

「規定された業務範囲を守っていただければ、危険を大幅に減らすことは可能です」

 

……ふむ。

 

俺は考えた。

 

危険はある。だが、対策もある。しかも、戦わなくていい。

 

仕事は監視と記録が中心。

 

そして、一晩百五十万円。

 

「……確認してもいいですか?」

 

「もちろんです」

 

「給料は、本当に百五十万円なんですか?」

 

「はい。額面で百五十万円です」

 

「一回勤務するごとに?」

 

「そのとおりです」

 

「月給じゃなくて?」

 

「はい」

 

「……ちゃんと振り込まれます?」

 

面接官は少し笑った。

 

「ご心配はもっともです。契約書にも記載しておりますが、勤務終了後、所定の手続きを経て支給いたします」

 

「……なるほど」

 

俺は資料を受け取った。

 

契約内容を読む。

 

報酬額。勤務時間。危険手当。保険。緊急時の対応。

 

いずれも書類に記載されている。

 

その後も俺は、税金や社会保険、負傷時の補償、途中退職の扱いについて、しつこいくらい質問した。

 

面接官は嫌な顔一つせず、答えてくれた。

 

……うん。

 

少なくとも、契約上はかなりまともだ。

 

「最後に、一つお尋ねしてもよろしいでしょうか」

 

「はい」

 

「宇津木様は、なぜこの仕事に応募されたのですか?」

 

俺は即答した。

 

「給料が高いからです」

 

「……なるほど」

 

「正直、怪異は怖いですし、できれば会いたくありません。でも、給料が百五十万円なので」

 

面接官が笑った。

 

「率直ですね」

 

「嘘をついても仕方ないですから」

 

「確かに」

 

彼は資料に何かを書き込んだ。

 

「では、怪異と遭遇した場合、どうなさいますか?」

 

「逃げます」

 

即答だった。

 

「可能なら全力で」

 

「……戦おうとは?」

 

「絶対に嫌です」

 

「ほう」

 

「逃げられるなら逃げます。無理なら隠れます。それも無理なら……」

 

「なら?」

 

「……泣きますかね」

 

面接官は声を上げて笑った。

 

何が面白いのか分からない。

 

俺は本気なのに。

 

「ありがとうございます。大変参考になりました」

 

「……そうですか」

 

「採用結果については、後日ご連絡いたします」

 

俺は頭を下げ、面接室を出た。

 

……落ちたかな。

 

さすがに、怖くなったら泣きます、はまずかったかもしれない。

 

でも仕方ない。

 

嘘は言っていないのだから。

 

 

◇

 

 

採用通知が届いたのは、その翌日だった。

 

「……受かった」

 

スマートフォンを握りしめる。

 

受かった。

 

本当に受かった。

 

俺が?

 

怪異の出る建物の夜間警備に?

 

「……マジか」

 

嬉しい。

 

いや、怖い。

 

でも嬉しい。

 

感情が忙しい。

 

通知には、初回勤務の日程と場所が記載されていた。

 

勤務開始は三日後。

 

場所は、東京都内にある大型複合ビル。

 

建物名は――

 

『白峰第七複合施設』

 

地図を確認する。

 

都心から少し離れた場所にある、地上十四階建ての建物だった。

 

写真を見る限り、普通のオフィスビルにしか見えない。

 

一階には商業施設。

 

二階から上は事務所や研究施設などが入っているらしい。

 

日中は普通に人が働いている。

 

しかし、夜間になると、建物全体が閉鎖される。その時間帯に怪異が出現するのだという。

 

「……普通のビルじゃん」

 

見た目だけなら。

 

俺は少し安心した。

 

もっとこう、廃病院とか、古い洋館とか、そういう場所を想像していたのだ。

 

綺麗なオフィスビルなら、まだ何とかなりそうである。

 

……いや、幽霊が出る時点で何ともならない気もするけど。

 

俺は勤務資料を読み始めた。

 

警備室の場所。監視カメラの操作方法。緊急時の退避場所。巡回経路。

 

そして、特殊事項。

 

『夜間、建物の階層数が変化する場合があります』

 

「…………」

 

ん?

 

俺は画面を見つめた。

 

『通常、本施設は地上十四階建てですが、夜間に十五階以上の階層が確認される事例があります』

 

「……は?」

 

『確認された場合、該当区域への立ち入りは行わず、監視記録に記載してください』

 

……。

 

……何それ。

 

怖っ。

 

建物の階数が増えるって何?

 

どういうこと?

 

建築基準法とか大丈夫なの?

 

いや、そういう問題じゃないか。

 

俺は続きへ目を通した。

 

『午前零時以降、施設への新規入館は原則として認められません』

 

『施設内で不明な人物を発見した場合、直接接触せず、監視による確認を優先してください』

 

『警備室には施錠設備および緊急遮断装置が設置されています』

 

『通常の勤務では、怪異との接触を必要とする業務はありません』

 

……なるほど。

 

つまり、余計なことをするな、と。

 

分かりやすい。

 

非常に分かりやすい。

 

俺はそういう仕事が好きだ。

 

戦わなくていい。

 

関わらなくていい。

 

ただ、監視して記録すればいい。

 

それだけで百五十万円。

 

「……意外といけるか?」

 

俺は小さく呟いた。

 

もちろん、怖いことに変わりはない。でも、警備室に籠もっていればいいのなら、そこまで危険ではないのかもしれない。

 

いや、待て。

 

油断は禁物だ。

 

俺は慎重な男である。

 

命より大事な金なんてない。

 

いや、金はかなり大事だけど。

 

少なくとも、死んだら使えない。

 

その点だけは忘れないようにしよう。

 

 

◇

 

 

初出勤の日。

 

午後九時四十分。

 

俺は白峰第七複合施設の正面玄関に立っていた。

 

「……でっか」

 

思わず声が出た。

 

地上十四階。

 

全面ガラス張りの外壁。

 

明るく照らされたエントランス。

 

写真で見たときより、ずっと立派な建物だった。

 

日中なら、何の変哲もないオフィスビルに見えるだろう。

 

しかし、夜の建物というのは、それだけで少し不気味なものだ。

 

人の気配がない。窓も暗い。周囲の街灯だけが妙に明るく感じられる。

 

「……帰りてえ」

 

思わず呟いた。

 

まだ入ってすらいないのに。

 

俺はスマートフォンを取り出した。

 

画面には、今回の勤務報酬が表示されている。

 

『1,500,000円』

 

「……よし」

 

俺は深呼吸した。

 

百五十万円。

 

八時間。

 

たった八時間だ。

 

何とかなる。

 

たぶん。

 

いや、何とかなってくれ。

 

俺は覚悟を決めて、建物へ入った。

 

 

◇

 

 

警備室は、一階エントランスの奥にあった。

 

想像していたよりも広い。

 

壁一面には監視モニターが並び、建物の各階を映し出している。

 

机。椅子。通信設備。冷蔵庫。電子レンジ。

 

そして、簡易ベッドまであった。

 

「……おお」

 

なかなか快適そうだ。

 

これなら、思っていたより楽に過ごせるかもしれない。

 

俺は荷物を置き、設備を確認した。

 

監視モニターは正常。

 

通信装置も正常。

 

防犯設備も問題なし。

 

そして、警備室の扉。

 

分厚い。

 

かなり分厚い。

 

どうやら特殊な防護材が使われているらしい。

 

「……いいねえ」

 

こういうのは安心する。

 

何しろ、俺は怖がりなのだ。

 

防犯設備が充実しているほど嬉しい。

 

できれば壁も床も天井も、全部これにしてほしい。

 

操作手順に従って警備システムを起動すると、勤務開始画面が表示された。

 

『夜間警備勤務を開始しますか?』

 

俺は時計を確認した。

 

午後十時。

 

勤務開始だ。

 

震える指で、開始ボタンを押した。

 

『勤務開始を確認しました』

 

『警備担当者:宇津木啓介』

 

『予定勤務時間:8時間』

 

『基本報酬:1,500,000円』

 

『勤務終了予定:翌6時00分』

 

……よし。

 

画面を見ただけで元気が出た。

 

俺は椅子に座り、監視モニターを眺めた。

 

各階の廊下。

 

エレベーターホール。

 

非常階段。

 

駐車場。

 

どこにも人影はない。

 

静かなものだった。

 

「……案外、普通だな」

 

もちろん、まだ始まったばかりだ。

 

怪異が出るとは限らない。

 

もしかしたら、今日は何も起きずに終わるかもしれない。

 

そうだったら最高だ。

 

俺は持参した弁当を取り出した。

 

近所のスーパーで半額になっていた唐揚げ弁当。

 

税込み二百九十八円。

 

実に素晴らしい買い物だった。

 

百五十万円を稼ぐ仕事に来ているのだから、もう少し贅沢してもいい気はする。

 

しかし、金持ちになるためには節約も大切である。稼いだ金を片っ端から使っていたら、いつまで経っても金持ちにはなれない。

 

「いただきます」

 

俺は唐揚げを口に運んだ。

 

美味い。

 

やっぱり半額弁当は最高だ。

 

……と。

 

そのとき。

 

ピコン。

 

小さな電子音が鳴った。

 

「……ん?」

 

俺は顔を上げた。

 

監視モニターの一つに、黄色い枠が表示されている。

 

『異常検知』

 

『対象:第十五階層』

 

…………。

 

「……は?」

 

俺は箸を止めた。

 

第十五階層。

 

十五階。

 

……十五階?

 

「……いやいやいや」

 

おかしい。

 

この建物は十四階建てのはずだ。

 

俺は資料を確認した。

 

地上十四階。

 

間違いない。

 

しかし、監視モニターには確かに『十五階』と表示されていた。

 

「…………」

 

俺はゆっくりと画面へ視線を戻した。

 

モニターには、廊下が映っていた。

 

白い壁。

 

灰色の床。

 

天井の蛍光灯。

 

普通のオフィスビルの廊下である。

 

ただし。

 

その廊下の奥に、一人の女が立っていた。

 

「…………」

 

白い服。

 

長い黒髪。

 

俯いた顔。

 

そして、裸足。

 

……あ。

 

これ駄目なやつだ。

 

絶対駄目なやつだ。

 

俺は全身から血の気が引くのを感じた。

 

怖い。

 

怖い怖い怖い。

 

何でいるの。

 

何で初日からいるの。

 

しかも十五階って。

 

まだ勤務開始から一時間も経ってないんだけど!?

 

「……落ち着け」

 

俺は自分に言い聞かせた。

 

大丈夫。

 

資料に書いてあった。

 

十五階が出現することはある。

 

そういう場合は、記録すればいい。

 

接触する必要はない。

 

そうだ。

 

記録だ。

 

俺は慌てて操作端末を開いた。

 

『異常現象記録』

 

『発生時刻:22時43分』

 

『発生場所:第十五階層』

 

『現象分類:未確認人物』

 

『対応状況:監視継続』

 

入力する。

 

保存。

 

よし。

 

これでいい。

 

俺は大きく息を吐いた。

 

「……なんだ。簡単じゃん」

 

怖いけど。

 

めちゃくちゃ怖いけど。

 

仕事自体は簡単だ。

 

画面を見て、記録するだけ。

 

それで百五十万円。

 

最高じゃないか。

 

……そう思った。

 

その瞬間だった。

 

監視モニターの女が、顔を上げた。

 

「…………」

 

目が合った。

 

いや、合った気がした。

 

カメラ越しなのに。

 

女は、こちらを見ていた。

 

まっすぐ。

 

何の迷いもなく。

 

まるで、監視カメラの向こうにいる俺の姿が見えているかのように。

 

「……ひっ」

 

情けない声が漏れた。

 

女が笑った。

 

口が開く。

 

ゆっくりと。

 

不自然なほど大きく。

 

そして。

 

ピコン。

 

また電子音が鳴った。

 

『異常検知』

 

『対象:第十四階層』

 

「……え?」

 

別のモニターが点灯した。

 

十四階。

 

エレベーターホール。

 

そこに、さっきの女が立っていた。

 

「…………」

 

俺は十五階の映像を確認した。

 

女はまだいる。

 

つまり。

 

二人いる。

 

「……ええ?」

 

ピコン。

 

『異常検知』

 

『対象:第十三階層』

 

まただ。

 

十三階にも女が現れた。

 

白い服。

 

長い黒髪。

 

俯いた顔。

 

同じ女だった。

 

……ちょっと待って。

 

待って待って待って。

 

何これ。

 

増えてない?

 

ピコン。

 

『第十二階層』

 

ピコン。

 

『第十一階層』

 

ピコン。

 

『第十階層』

 

「……おいおいおいおい!」

 

俺は椅子から立ち上がった。

 

女が増えている。

 

上の階から順番に。

 

しかも、どの女も監視カメラを見ている。

 

笑っている。

 

口を大きく開けて。

 

「……何なの!?」

 

誰も答えない。

 

当たり前だ。

 

ここには俺しかいないのだから。

 

俺は慌てて勤務資料を開いた。

 

こういうときの対応方法。

 

絶対にあるはずだ。

 

あるよな?

 

頼むからあってくれ。

 

ページをめくる。

 

めくる。

 

めくる。

 

……あった!

 

『同一外見の存在が複数階層に出現した場合』

 

俺は食い入るように読んだ。

 

『原則として、各階層への出現を個別に記録してください』

 

「……それだけ!?」

 

思わず叫んだ。

 

いやいやいや!

 

もっとあるでしょ!

 

例えば退避するとか!

 

緊急通報するとか!

 

何かあるでしょ!

 

しかし、記載されているのはそれだけだった。

 

『対象への接触は不要です』

 

……。

 

……なるほど。

 

接触しなくていい。

 

つまり、このまま警備室にいればいいのか。

 

俺は椅子に座り直した。

 

落ち着け。

 

落ち着くんだ。

 

向こうはモニターの中。

 

俺は警備室の中。

 

扉は分厚い。

 

鍵もかかっている。

 

何も問題ない。

 

……何も問題ないはずだ。

 

ピコン。

 

『第九階層』

 

ピコン。

 

『第八階層』

 

ピコン。

 

『第七階層』

 

「…………」

 

俺は黙っていた。

 

もう声も出なかった。

 

女は、確実に下りてきている。

 

いや、増えている。

 

どちらにしても、嫌なことに変わりはない。

 

ピコン。

 

『第六階層』

 

ピコン。

 

『第五階層』

 

ピコン。

 

『第四階層』

 

「……頼む」

 

俺は両手を合わせた。

 

「頼むから、そこで止まってくれ……」

 

別に何もしてないだろ。

 

俺。

 

ただ警備してるだけだろ。

 

唐揚げ弁当を食べてただけだろ。

 

何が気に入らないんだよ。

 

ピコン。

 

『第三階層』

 

「……あああ」

 

ピコン。

 

『第二階層』

 

「……あああああ」

 

そして。

 

ピコン。

 

『第一階層』

 

俺は目を閉じた。

 

終わった。

 

終わったかもしれない。

 

いや、まだだ。

 

まだ警備室には来ていない。

 

俺は恐る恐る、一階の監視モニターを確認した。

 

女が立っている。

 

エントランスの中央。

 

白い服。

 

長い黒髪。

 

裸足。

 

そして、笑顔。

 

……こっち見てる。

 

めちゃくちゃこっち見てる。

 

「…………」

 

俺は動かなかった。

 

女も動かなかった。

 

しばらく、その状態が続いた。

 

そして、唐突に。

 

女が消えた。

 

「……え?」

 

十五階の映像を確認する。

 

いない。

 

十四階。

 

いない。

 

十三階。

 

いない。

 

どの階にも、女の姿はなくなっていた。

 

……終わった?

 

俺は時計を見た。

 

午後十時四十七分。

 

たった四分。

 

たった四分の出来事だった。

 

「……はあああああ!」

 

俺は机に突っ伏した。

 

怖かった。

 

本当に怖かった。

 

もう嫌だ。

 

今すぐ辞めたい。

 

帰りたい。

 

家に帰って布団を被りたい。

 

こんな仕事、二度とやりたくない。

 

俺は震える手でスマートフォンを取り出した。

 

求人広告を開く。

 

『一勤務:1,500,000円』

 

「…………」

 

百五十万円。

 

俺は顔を上げた。

 

監視モニターには、何も映っていない。

 

平和な廊下。

 

誰もいないエントランス。

 

普通のオフィスビル。

 

「……いや」

 

俺は考えた。

 

怖かった。

 

確かに怖かった。

 

でも、死んでいない。

 

怪我もしていない。

 

何なら、警備室から一歩も出ていない。

 

そして、まだ百五十万円を稼げる可能性がある。

 

「……いけるか?」

 

俺は呟いた。

 

今のところ、実害はない。

 

ものすごく怖かっただけだ。

 

怖い思いをするだけで百五十万円。

 

そう考えれば、悪い仕事ではないのかもしれない。

 

「……よし」

 

俺は椅子に座り直した。

 

唐揚げ弁当を手に取る。

 

少し冷めていた。

 

まあ、仕方ない。

 

電子レンジで温め直せばいい。

 

俺は弁当を持って立ち上がった。

 

そのときだった。

 

コンコン。

 

「…………」

 

音がした。

 

……ん?

 

コンコン。

 

もう一度。

 

俺は動きを止めた。

 

音は、警備室の扉から聞こえていた。

 

「…………」

 

誰?

 

いや、誰もいないはずだろ。

 

俺しかいないんだから。

 

コンコン。

 

またノック。

 

俺は弁当を机に置いた。

 

ゆっくりと扉を見る。

 

分厚い防護扉。

 

小さな確認窓。

 

その向こうに。

 

白い服が見えた。

 

「…………」

 

……あ。

 

さっきの女だ。

 

何で?

 

何でここにいるの?

 

どうやって来たの?

 

扉の向こうから、声が聞こえた。

 

「……すみません」

 

女の声だった。

 

意外なほど普通の声だ。

 

若い女性のように聞こえる。

 

「……開けて、もらえませんか」

 

…………。

 

俺は黙った。

 

開ける?

 

この扉を?

 

無理無理無理無理。

 

絶対無理。

 

誰が開けるか。

 

俺は扉から三歩ほど離れた。

 

すると、また声がした。

 

「……お願い、します」

 

……いや。

 

お願いされても。

 

俺は警備員だ。

 

夜間の入館は認められていない。

 

それに、不審者を見つけても直接接触する必要はないと資料に書いてある。

 

そうだ。

 

規則だ。

 

規則に従えばいい。

 

「……も、申し訳ありません」

 

声が裏返りかけた。

 

咳払いする。

 

「当施設は、現在閉館しております」

 

……よし。

 

仕事っぽい。

 

俺は少しだけ勇気を取り戻した。

 

「夜間の入館および施設利用は、原則としてお断りしております」

 

扉の向こうは静かだった。

 

……あれ?

 

通じた?

 

もしかして、これで帰ってくれる?

 

そのとき。

 

「……わたし」

 

女の声がした。

 

「……中に、いるんです」

 

…………。

 

……え?

 

「……だから」

 

女が続けた。

 

「……出して、ください」

 

俺は固まった。

 

出して?

 

外へ?

 

……待って。

 

ちょっと待って。

 

この人、入れてほしいんじゃないの?

 

出してほしいの?

 

俺は扉を見た。

 

女は、確認窓の向こうに立っている。

 

警備室の外。

 

つまり、建物の中だ。

 

……なるほど。

 

外に出たいのか。

 

いや、それなら別に構わないんじゃないか?

 

だって、出ていくだけだろ?

 

俺は仕事の資料を確認した。

 

『午前零時以降の新規入館は原則禁止』

 

現在、午後十時五十分。

 

まだ零時前だ。

 

……いや、待て。

 

そもそも、この人はどこから入ったんだ?

 

十五階?

 

いや、十五階なんてないはずだ。

 

何なの、もう。

 

分からないことだらけじゃないか。

 

「……あの」

 

俺は恐る恐る声をかけた。

 

「正面玄関は、そちらの廊下をまっすぐ進んだところにありますので……」

 

女は黙っていた。

 

「……自動扉は閉まっていますけど、退館用の開錠ボタンがあるはずです」

 

反応がない。

 

俺は続けた。

 

「……もし開かないようでしたら、施設管理会社へ確認しますので……」

 

その瞬間。

 

女が笑った。

 

確認窓いっぱいに、口が広がった。

 

白い歯が並んでいる。

 

多い。

 

明らかに多い。

 

人間の歯の本数じゃない。

 

「ひっ!」

 

俺は後ずさった。

 

女の顔が、窓に近づく。

 

近づく。

 

さらに近づく。

 

……近い近い近い!

 

そして。

 

「……あなたも」

 

女が言った。

 

「……出たい?」

 

…………。

 

俺は全身を震わせた。

 

怖い。

 

怖すぎる。

 

何なの、この質問。

 

出たいに決まってるだろ。

 

今すぐ出たいわ。

 

家に帰りたいわ。

 

でも。

 

でもだ。

 

俺は時計を見た。

 

午後十時五十一分。

 

勤務終了まで、あと七時間九分。

 

そして。

 

報酬、百五十万円。

 

「…………」

 

俺は唾を飲み込んだ。

 

帰りたい。

 

怖い。

 

もう嫌だ。

 

でも。

 

百五十万円。

 

百五十万円なんだぞ。

 

ここまで来て帰ったら、どうなる?

 

今日の給料は?

 

途中で仕事を放棄したら、契約上、勤務完了報酬は支払われない。

 

つまり、百五十万円が消える。

 

……百五十万円が。

 

消える。

 

「…………」

 

俺は震える手を握りしめた。

 

そして、女に向かって答えた。

 

「……い、いえ」

 

声が震えた。

 

喉が引きつる。

 

それでも、何とか言葉を続けた。

 

「……私は、勤務中ですので」

 

女が首を傾げた。

 

「……勤務?」

 

「……はい」

 

「……ここで?」

 

「……はい」

 

俺は半泣きになりながら頷いた。

 

「……あと、七時間ほど……」

 

女は黙っていた。

 

そして。

 

ふっ、と姿が消えた。

 

「…………」

 

俺は扉を見つめた。

 

一秒。

 

二秒。

 

三秒。

 

何も起きない。

 

……消えた?

 

帰った?

 

俺は恐る恐る監視モニターを確認した。

 

廊下には誰もいなかった。

 

「……はああああああ!」

 

膝から力が抜けた。

 

そのまま床に座り込む。

 

助かった。

 

助かったのか?

 

分からない。

 

でも、とりあえず生きている。

 

それだけは確かだ。

 

「……怖かったぁ……」

 

涙が出そうだった。

 

いや、少し出ていたかもしれない。

 

俺は床に座り込んだまま、しばらく動けなかった。

 

……もう嫌だ。

 

本当に嫌だ。

 

こんな仕事、絶対におかしい。

 

百五十万円でも安いんじゃないか?

 

いや、そんなことはないか。

 

百五十万円だぞ。

 

……でも、怖いものは怖い。

 

「……はあ」

 

俺は何とか立ち上がった。

 

椅子に戻り、監視モニターを確認する。

 

異常なし。

 

……よし。

 

記録をつけよう。

 

俺は操作端末を開いた。

 

先ほどの出来事を入力する。

 

『異常現象記録』

 

『発生時刻:22時49分』

 

『発生場所:第一階層・警備室前』

 

『現象分類:人型存在』

 

『対応内容:扉を開放せず、口頭による対応を実施』

 

『結果:対象消失』

 

保存。

 

……よし。

 

これでいい。

 

俺は大きく息を吐いた。

 

そして、ふと気づいた。

 

画面の右下に、小さな通知が表示されている。

 

『特殊対応実績を確認しました』

 

「……ん?」

 

特殊対応実績?

 

何それ。

 

俺は通知を開いた。

 

『対象:退館要求型存在』

 

『対応結果:施設内留置状態を維持』

 

『評価:適切』

 

『特殊対応手当:200,000円』

 

「…………」

 

……え?

 

俺は画面を凝視した。

 

二十万円。

 

特殊対応手当。

 

二十万円。

 

「……え?」

 

もう一度確認する。

 

間違いない。

 

確かに二十万円と表示されている。

 

……つまり。

 

さっきの対応で。

 

二十万円?

 

「…………」

 

俺はゆっくりと椅子に座った。

 

考える。

 

基本報酬、百五十万円。

 

特殊対応手当、二十万円。

 

合計、百七十万円。

 

……百七十万。

 

「…………」

 

俺は監視モニターを見た。

 

誰もいない廊下。

 

静かなエントランス。

 

そして、あの女が立っていた場所。

 

……なるほど。

 

「……手当、出るんだ」

 

俺は呟いた。

 

知らなかった。

 

いや、契約書のどこかに書いてあったのかもしれない。もう少しちゃんと読んでおけばよかった。

 

……特殊対応手当。

 

二十万円。

 

悪くない。

 

いや、かなりいい。

 

俺は画面に表示された金額を、もう一度見た。

 

「……二十万か」

 

少しだけ。

 

本当に少しだけ。

 

さっきの恐怖が、和らいだ気がした。

 

……いや。

 

気のせいだ。

 

怖いものは怖い。

 

絶対に勘違いしてはいけない。

 

俺は金のために命を捨てるような馬鹿ではない。

 

……ただ。

 

少し気になった。

 

「……他にも、手当ってあるのかな」

 

俺は操作端末のメニューを開いた。

 

そして。

 

『特殊業務手当一覧』

 

その項目を見つけてしまった。

 

「…………」

 

俺は画面をタップした。

 

そこには、ずらりと項目が並んでいた。

 

『未確認人物への適切な対応』

 

『特殊階層の出現記録』

 

『異常設備の監視』

 

『非実体存在との接触回避』

 

『特定存在からの要求拒否』

 

『施設内異常の封じ込め補助』

 

……何だこれ。

 

怖い。

 

怖すぎる。

 

仕事内容としては最悪だ。

 

しかし。

 

その右側には、それぞれ金額が表示されていた。

 

三万円。

 

五万円。

 

十万円。

 

二十万円。

 

五十万円。

 

そして。

 

『特級異常事象への対応:最大5,000,000円』

 

「…………」

 

五百万。

 

俺は瞬きをした。

 

五百万。

 

……一回で?

 

「…………」

 

俺は椅子の背もたれに身体を預けた。

 

天井を見上げる。

 

しばらく黙っていた。

 

……五百万。

 

さすがに高い。

 

高すぎる。

 

そんな危険な目に遭いたくない。

 

絶対に嫌だ。

 

俺は画面を閉じた。

 

「……ないな」

 

呟く。

 

「五百万でも、命には代えられないだろ」

 

当然だ。

 

俺は命が惜しい。

 

金も惜しいけど、命はもっと惜しい。

 

だから、危険なことには絶対に近づかない。

 

……絶対に。

 

ピコン。

 

「……ん?」

 

監視モニターが点灯した。

 

『異常検知』

 

『対象:第十五階層』

 

「…………」

 

俺は固まった。

 

また?

 

またなの?

 

まだ勤務開始から一時間も経ってないんだけど。

 

恐る恐る、モニターを見る。

 

十五階の廊下。

 

そこに。

 

また、白い服の女が立っていた。

 

「…………」

 

俺は黙った。

 

女も黙っていた。

 

しばらくして。

 

女が、ゆっくりと手を上げた。

 

そして。

 

こちらへ向かって。

 

小さく手を振った。

 

「…………」

 

……。

 

……え?

 

俺は画面を見つめた。

 

女は、まだ手を振っている。

 

まるで、挨拶するみたいに。

 

……何?

 

何なの?

 

俺も手を振った方がいいの?

 

いや、そんなことしたら何か起きそうだし。

 

でも無視したら怒るかもしれないし。

 

……どうすればいいんだよ。

 

俺はしばらく悩んだ。

 

そして。

 

恐る恐る。

 

本当に恐る恐る。

 

モニターに向かって、小さく会釈した。

 

女が、ぴたりと動きを止めた。

 

「…………」

 

……あ。

 

やばい?

 

何かした?

 

俺、何かまずいことした?

 

次の瞬間。

 

女が、深々と頭を下げた。

 

そして消えた。

 

「…………」

 

俺は画面を見つめた。

 

何も映っていない。

 

静かな廊下だけだ。

 

……何だったんだ?

 

分からない。

 

何も分からない。

 

ただ。

 

「……礼儀正しい幽霊だな」

 

そんな感想が、口から漏れた。

 

もちろん、怖くないわけではない。

 

めちゃくちゃ怖い。

 

でも、挨拶してくれる幽霊なら、まだマシなのかもしれない。

 

俺は少し考えた。

 

そして、ふと思いついた。

 

「……そうだ」

 

今のも異常現象だよな?

 

十五階に出たわけだし。

 

ということは。

 

記録すれば。

 

……手当が出る?

 

「…………」

 

俺は操作端末を開いた。

 

記録画面。

 

異常現象。

 

第十五階層。

 

人型存在。

 

対応内容。

 

……挨拶?

 

俺は迷った末に、こう入力した。

 

『対象の動作を確認。非接触で対応。対象は消失』

 

保存。

 

ピコン。

 

『特殊対応実績を確認しました』

 

『特殊対応手当:50,000円』

 

「…………」

 

五万円。

 

俺は画面を見つめた。

 

たった一回、頭を下げただけで。

 

五万円。

 

「…………」

 

何だろう。

 

この仕事。

 

もしかして。

 

……とんでもなく稼げるんじゃないか?

 

俺はゆっくりと監視モニターへ視線を戻した。

 

誰もいない廊下。

 

静かなエントランス。

 

暗い非常階段。

 

……怖い。

 

それは変わらない。

 

でも。

 

百五十万円。

 

二十万円。

 

五万円。

 

合計、百七十五万円。

 

しかも、まだ一時間も経っていない。

 

「…………」

 

俺は震える手で、唐揚げ弁当を持ち上げた。

 

冷めていた。

 

すっかり冷めていた。

 

しかし、そんなことはどうでもよかった。

 

「……とりあえず」

 

俺は唐揚げを口に運んだ。

 

「……明日も応募しようかな」

 

怖い。

 

本当に怖い。

 

でも。

 

金が欲しい。

 

どうしようもなく、金が欲しかった。

 

……なお、この時点で俺は、まだ知らなかった。

 

この建物の怪異たちが、普通の夜間警備員とは少し違う反応を見せる俺に、興味を持ち始めていることを。

 

いや、仮に知っていたとしても。

 

報酬額を見せられたら、きっとまた悩んだのだろう。

 

何しろ、俺は。

 

救いようのない守銭奴なのだから。


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