そんな求人広告を見つけたとき、宇津木啓介は詐欺を疑った。
勤務時間は午後十時から翌朝六時まで。仕事内容は、民間企業が所有する大型複合ビルの夜間警備。経験不問、資格不問、年齢制限なし。
唯一、妙な条件があった。
『勤務施設には、人間以外の存在が出現する場合があります』
つまり、幽霊だとか化け物だとか、そういうものが出るらしい。
普通なら応募しない。
しかし、啓介は普通ではなかった。
彼は極度の怖がりであると同時に、救いようのない守銭奴だったのだ。
一晩百五十万円。
十日働けば千五百万円。
二十日働けば三千万円。
怖い。
死ぬほど怖い。
でも、金が欲しい。
こうして彼は、命と金を天秤にかけながら、怪異だらけの建物で夜勤を始めることになった。
本人の目標は、できるだけ安全に、できるだけ多くの金を稼ぐこと。
怪異を退治するつもりも、建物の謎を解き明かすつもりもない。
ただ、問題が一つ。
この建物の怪異たちは、どういうわけか、彼のことを少しずつ意識し始めていた。
一晩、百五十万円。
最初にその金額を見たとき、俺は画面を拡大した。
百五十万。
もう一度確認する。
百五十万。
桁を数えた。
「……百五十万だ」
間違いない。求人広告には、確かにそう書いてあった。それも月給ではない。日給である。
いや、正確には一勤務あたりの報酬だ。
俺は椅子から立ち上がり、冷蔵庫から麦茶を取り出した。コップに注ぎ、一口飲んでから、改めてスマートフォンを確認する。
『夜間施設警備員募集』
『一勤務:1,500,000円』
『勤務時間:22時00分~翌6時00分』
『勤務場所:東京都内・指定複合施設』
『経験・資格不問』
『制服貸与』
『交通費支給』
『勤務終了後、所定の確認を経て報酬を支給』
胡散臭い。
あまりにも胡散臭い。
こんな求人に応募する人間がいたら、間違いなく馬鹿だと思う。世の中、そんなに美味い話があるわけないだろう。
大方、犯罪の片棒を担がされるか、指定された場所へ行った途端に身ぐるみ剥がされるか、そのどちらかだ。
俺はスマートフォンを置いた。
麦茶を飲む。
もう一度スマートフォンを手に取る。
「……でも、百五十万か」
高い。
高すぎる。
一晩だぞ? たった八時間だぞ?
時給に直したら十八万七千五百円。
一般的なアルバイトなら、何か月も働いてようやく手にする金額である。それが、たった一晩。
「……いやいやいや」
俺は首を振った。
駄目だ。落ち着け。こういうときこそ冷静にならなければならない。
俺は金が好きだ。
それはもう、どうしようもないくらい好きだ。
銀行口座の残高が増えるのを見るのが好きだし、財布の中に一万円札が何枚も入っていると嬉しくなる。
買い物をするときには価格を比較する。ポイント還元率も確認する。割引券の期限が切れそうになれば、無理にでも使いたくなる。
金を使うのは嫌いだ。
だが、金を稼ぐのは大好きだ。
何しろ、金は素晴らしい。
住む場所を選べる。食べたいものを食べられる。嫌な仕事を辞められる。将来への不安だって、ある程度は減らせる。
金で買えないものがある?
そりゃあるだろう。
でも、金がないと買えないものは、もっとたくさんある。
だからといって、犯罪に手を染めるつもりはない。命を賭けるつもりもない。
俺は金持ちになりたいのであって、金持ちの死体になりたいわけではないのだ。
「……調べるだけなら無料だよな」
とりあえず、求人を出している会社を検索してみた。
白峰総合管理株式会社。
聞いたことのない会社だった。
しかし、法人登記は存在する。公式サイトもある。
建物管理、施設警備、特殊環境保全業務などを取り扱っているらしい。
さらに調べると、官公庁との取引実績まで確認できた。
……あれ?
まともな会社なのか?
いや、まだ分からない。
俺は慎重な男だ。
金に目が眩んで判断を誤るほど馬鹿ではない。少なくとも、自分ではそう思っている。
求人広告へ戻る。
下の方に、仕事内容の詳細が記載されていた。
『本施設は、夜間に特殊な現象が発生する場合があります』
……ん?
『勤務者は、施設内の安全確保、設備の監視、異常現象の記録などを担当します』
『出現する存在への積極的な接触、排除、制圧などは原則として業務に含まれません』
『特殊環境下での業務となるため、十分な危険手当を含む報酬体系を採用しています』
「…………」
特殊な現象。
出現する存在。
危険手当。
俺は嫌な予感がした。
恐る恐る、求人の最下部までスクロールする。
そして、最後の一文を見つけた。
『※勤務施設には、一般に怪異と呼称される存在が出現する場合があります』
「……あー」
なるほど。
そういうことか。
俺はスマートフォンを置いた。
納得した。
これは確かに高給になるだろう。
何しろ、怪異である。
幽霊とか、化け物とか、そういうものだ。
最近ではニュースでも取り上げられるようになったし、国も一応の対策を進めている。怪異に関連した仕事があることも知っていた。
ただ、俺には縁のない世界だと思っていた。
というか、縁なんて持ちたくなかった。
怖いし。
俺はホラー映画すらまともに見られない男なのだ。
夜中にトイレへ行くとき、廊下の電気を全部つける。風呂場で目を閉じて髪を洗うのも嫌いだ。背後に誰かいるような気がするから。
そんな俺が、怪異の出る建物で夜間警備?
無理だ。
絶対に無理。
「……百五十万」
俺は呟いた。
八時間で百五十万。
その金額が、頭から離れなかった。
◇
三日後。
俺は面接会場にいた。
馬鹿だと思う。
我ながら、本当に馬鹿だと思う。
しかし、仕方なかった。
あれから毎日、あの金額が頭から離れなかったのだ。
仕事中も。食事中も。風呂に入っているときも。寝る前も。
百五十万。
百五十万。
百五十万。
もはや呪いである。
怪異に遭遇する前から、金額に取り憑かれてしまった。
「宇津木啓介様ですね」
「はい」
面接官は、四十代くらいの男性だった。
灰色のスーツに、銀縁の眼鏡。物腰は柔らかく、普通の会社員にしか見えない。
「本日はお越しいただき、ありがとうございます」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
「早速ですが、今回の求人について、どの程度ご理解されていますか?」
「……怪異が出る施設の夜間警備、ですよね」
「そのとおりです」
面接官は頷いた。そして、何でもないことのように続けた。
「実際に、勤務中に怪異と遭遇する可能性があります」
「……はい」
「人型のものもいれば、そうでないものもいます。危険性も様々です」
「……はい」
「ただし、基本的に警備員の方には怪異への対処を求めておりません」
「え?」
思わず顔を上げた。
「対処しなくていいんですか?」
「はい」
「退治したりとか」
「必要ありません」
「戦ったりとか」
「業務には含まれておりません」
「……逃げても?」
「状況によりますが、危険から距離を取ることは推奨しています」
……おお。
思っていたのと違う。
俺はてっきり、化け物と命懸けで戦わされるものだと思っていた。
「では、具体的には何をするんですか?」
「監視、記録、報告。それから、指定された区域の巡回ですね」
「普通の警備とあまり変わらないんですね」
「業務内容だけを見れば、そうかもしれません」
面接官は資料を一枚取り出した。
「ただし、通常の警備とは異なる点もあります」
「……例えば?」
「巡回中に、存在しない部屋や通路が現れることがあります」
「…………」
「監視カメラに、実際には存在しない人物が映ることもあります」
「…………」
「施設内の放送設備から、不明な音声が流れることもあります」
俺は黙っていた。
帰りたくなってきた。
いや、もう帰りたい。
「そうした現象について、決められた手順で記録していただきます」
「……それだけですか?」
「基本的には」
基本的には。
その言葉が怖い。
俺は面接官を見た。
「……ちなみに、危険なんでしょうか」
「危険がないとは申し上げられません」
正直な人だった。
そこは評価したい。
「ただし、勤務施設には複数の安全設備があります。また、過去の事例を基に対応手順も整備されています」
「なるほど」
「規定された業務範囲を守っていただければ、危険を大幅に減らすことは可能です」
……ふむ。
俺は考えた。
危険はある。だが、対策もある。しかも、戦わなくていい。
仕事は監視と記録が中心。
そして、一晩百五十万円。
「……確認してもいいですか?」
「もちろんです」
「給料は、本当に百五十万円なんですか?」
「はい。額面で百五十万円です」
「一回勤務するごとに?」
「そのとおりです」
「月給じゃなくて?」
「はい」
「……ちゃんと振り込まれます?」
面接官は少し笑った。
「ご心配はもっともです。契約書にも記載しておりますが、勤務終了後、所定の手続きを経て支給いたします」
「……なるほど」
俺は資料を受け取った。
契約内容を読む。
報酬額。勤務時間。危険手当。保険。緊急時の対応。
いずれも書類に記載されている。
その後も俺は、税金や社会保険、負傷時の補償、途中退職の扱いについて、しつこいくらい質問した。
面接官は嫌な顔一つせず、答えてくれた。
……うん。
少なくとも、契約上はかなりまともだ。
「最後に、一つお尋ねしてもよろしいでしょうか」
「はい」
「宇津木様は、なぜこの仕事に応募されたのですか?」
俺は即答した。
「給料が高いからです」
「……なるほど」
「正直、怪異は怖いですし、できれば会いたくありません。でも、給料が百五十万円なので」
面接官が笑った。
「率直ですね」
「嘘をついても仕方ないですから」
「確かに」
彼は資料に何かを書き込んだ。
「では、怪異と遭遇した場合、どうなさいますか?」
「逃げます」
即答だった。
「可能なら全力で」
「……戦おうとは?」
「絶対に嫌です」
「ほう」
「逃げられるなら逃げます。無理なら隠れます。それも無理なら……」
「なら?」
「……泣きますかね」
面接官は声を上げて笑った。
何が面白いのか分からない。
俺は本気なのに。
「ありがとうございます。大変参考になりました」
「……そうですか」
「採用結果については、後日ご連絡いたします」
俺は頭を下げ、面接室を出た。
……落ちたかな。
さすがに、怖くなったら泣きます、はまずかったかもしれない。
でも仕方ない。
嘘は言っていないのだから。
◇
採用通知が届いたのは、その翌日だった。
「……受かった」
スマートフォンを握りしめる。
受かった。
本当に受かった。
俺が?
怪異の出る建物の夜間警備に?
「……マジか」
嬉しい。
いや、怖い。
でも嬉しい。
感情が忙しい。
通知には、初回勤務の日程と場所が記載されていた。
勤務開始は三日後。
場所は、東京都内にある大型複合ビル。
建物名は――
『白峰第七複合施設』
地図を確認する。
都心から少し離れた場所にある、地上十四階建ての建物だった。
写真を見る限り、普通のオフィスビルにしか見えない。
一階には商業施設。
二階から上は事務所や研究施設などが入っているらしい。
日中は普通に人が働いている。
しかし、夜間になると、建物全体が閉鎖される。その時間帯に怪異が出現するのだという。
「……普通のビルじゃん」
見た目だけなら。
俺は少し安心した。
もっとこう、廃病院とか、古い洋館とか、そういう場所を想像していたのだ。
綺麗なオフィスビルなら、まだ何とかなりそうである。
……いや、幽霊が出る時点で何ともならない気もするけど。
俺は勤務資料を読み始めた。
警備室の場所。監視カメラの操作方法。緊急時の退避場所。巡回経路。
そして、特殊事項。
『夜間、建物の階層数が変化する場合があります』
「…………」
ん?
俺は画面を見つめた。
『通常、本施設は地上十四階建てですが、夜間に十五階以上の階層が確認される事例があります』
「……は?」
『確認された場合、該当区域への立ち入りは行わず、監視記録に記載してください』
……。
……何それ。
怖っ。
建物の階数が増えるって何?
どういうこと?
建築基準法とか大丈夫なの?
いや、そういう問題じゃないか。
俺は続きへ目を通した。
『午前零時以降、施設への新規入館は原則として認められません』
『施設内で不明な人物を発見した場合、直接接触せず、監視による確認を優先してください』
『警備室には施錠設備および緊急遮断装置が設置されています』
『通常の勤務では、怪異との接触を必要とする業務はありません』
……なるほど。
つまり、余計なことをするな、と。
分かりやすい。
非常に分かりやすい。
俺はそういう仕事が好きだ。
戦わなくていい。
関わらなくていい。
ただ、監視して記録すればいい。
それだけで百五十万円。
「……意外といけるか?」
俺は小さく呟いた。
もちろん、怖いことに変わりはない。でも、警備室に籠もっていればいいのなら、そこまで危険ではないのかもしれない。
いや、待て。
油断は禁物だ。
俺は慎重な男である。
命より大事な金なんてない。
いや、金はかなり大事だけど。
少なくとも、死んだら使えない。
その点だけは忘れないようにしよう。
◇
初出勤の日。
午後九時四十分。
俺は白峰第七複合施設の正面玄関に立っていた。
「……でっか」
思わず声が出た。
地上十四階。
全面ガラス張りの外壁。
明るく照らされたエントランス。
写真で見たときより、ずっと立派な建物だった。
日中なら、何の変哲もないオフィスビルに見えるだろう。
しかし、夜の建物というのは、それだけで少し不気味なものだ。
人の気配がない。窓も暗い。周囲の街灯だけが妙に明るく感じられる。
「……帰りてえ」
思わず呟いた。
まだ入ってすらいないのに。
俺はスマートフォンを取り出した。
画面には、今回の勤務報酬が表示されている。
『1,500,000円』
「……よし」
俺は深呼吸した。
百五十万円。
八時間。
たった八時間だ。
何とかなる。
たぶん。
いや、何とかなってくれ。
俺は覚悟を決めて、建物へ入った。
◇
警備室は、一階エントランスの奥にあった。
想像していたよりも広い。
壁一面には監視モニターが並び、建物の各階を映し出している。
机。椅子。通信設備。冷蔵庫。電子レンジ。
そして、簡易ベッドまであった。
「……おお」
なかなか快適そうだ。
これなら、思っていたより楽に過ごせるかもしれない。
俺は荷物を置き、設備を確認した。
監視モニターは正常。
通信装置も正常。
防犯設備も問題なし。
そして、警備室の扉。
分厚い。
かなり分厚い。
どうやら特殊な防護材が使われているらしい。
「……いいねえ」
こういうのは安心する。
何しろ、俺は怖がりなのだ。
防犯設備が充実しているほど嬉しい。
できれば壁も床も天井も、全部これにしてほしい。
操作手順に従って警備システムを起動すると、勤務開始画面が表示された。
『夜間警備勤務を開始しますか?』
俺は時計を確認した。
午後十時。
勤務開始だ。
震える指で、開始ボタンを押した。
『勤務開始を確認しました』
『警備担当者:宇津木啓介』
『予定勤務時間:8時間』
『基本報酬:1,500,000円』
『勤務終了予定:翌6時00分』
……よし。
画面を見ただけで元気が出た。
俺は椅子に座り、監視モニターを眺めた。
各階の廊下。
エレベーターホール。
非常階段。
駐車場。
どこにも人影はない。
静かなものだった。
「……案外、普通だな」
もちろん、まだ始まったばかりだ。
怪異が出るとは限らない。
もしかしたら、今日は何も起きずに終わるかもしれない。
そうだったら最高だ。
俺は持参した弁当を取り出した。
近所のスーパーで半額になっていた唐揚げ弁当。
税込み二百九十八円。
実に素晴らしい買い物だった。
百五十万円を稼ぐ仕事に来ているのだから、もう少し贅沢してもいい気はする。
しかし、金持ちになるためには節約も大切である。稼いだ金を片っ端から使っていたら、いつまで経っても金持ちにはなれない。
「いただきます」
俺は唐揚げを口に運んだ。
美味い。
やっぱり半額弁当は最高だ。
……と。
そのとき。
ピコン。
小さな電子音が鳴った。
「……ん?」
俺は顔を上げた。
監視モニターの一つに、黄色い枠が表示されている。
『異常検知』
『対象:第十五階層』
…………。
「……は?」
俺は箸を止めた。
第十五階層。
十五階。
……十五階?
「……いやいやいや」
おかしい。
この建物は十四階建てのはずだ。
俺は資料を確認した。
地上十四階。
間違いない。
しかし、監視モニターには確かに『十五階』と表示されていた。
「…………」
俺はゆっくりと画面へ視線を戻した。
モニターには、廊下が映っていた。
白い壁。
灰色の床。
天井の蛍光灯。
普通のオフィスビルの廊下である。
ただし。
その廊下の奥に、一人の女が立っていた。
「…………」
白い服。
長い黒髪。
俯いた顔。
そして、裸足。
……あ。
これ駄目なやつだ。
絶対駄目なやつだ。
俺は全身から血の気が引くのを感じた。
怖い。
怖い怖い怖い。
何でいるの。
何で初日からいるの。
しかも十五階って。
まだ勤務開始から一時間も経ってないんだけど!?
「……落ち着け」
俺は自分に言い聞かせた。
大丈夫。
資料に書いてあった。
十五階が出現することはある。
そういう場合は、記録すればいい。
接触する必要はない。
そうだ。
記録だ。
俺は慌てて操作端末を開いた。
『異常現象記録』
『発生時刻:22時43分』
『発生場所:第十五階層』
『現象分類:未確認人物』
『対応状況:監視継続』
入力する。
保存。
よし。
これでいい。
俺は大きく息を吐いた。
「……なんだ。簡単じゃん」
怖いけど。
めちゃくちゃ怖いけど。
仕事自体は簡単だ。
画面を見て、記録するだけ。
それで百五十万円。
最高じゃないか。
……そう思った。
その瞬間だった。
監視モニターの女が、顔を上げた。
「…………」
目が合った。
いや、合った気がした。
カメラ越しなのに。
女は、こちらを見ていた。
まっすぐ。
何の迷いもなく。
まるで、監視カメラの向こうにいる俺の姿が見えているかのように。
「……ひっ」
情けない声が漏れた。
女が笑った。
口が開く。
ゆっくりと。
不自然なほど大きく。
そして。
ピコン。
また電子音が鳴った。
『異常検知』
『対象:第十四階層』
「……え?」
別のモニターが点灯した。
十四階。
エレベーターホール。
そこに、さっきの女が立っていた。
「…………」
俺は十五階の映像を確認した。
女はまだいる。
つまり。
二人いる。
「……ええ?」
ピコン。
『異常検知』
『対象:第十三階層』
まただ。
十三階にも女が現れた。
白い服。
長い黒髪。
俯いた顔。
同じ女だった。
……ちょっと待って。
待って待って待って。
何これ。
増えてない?
ピコン。
『第十二階層』
ピコン。
『第十一階層』
ピコン。
『第十階層』
「……おいおいおいおい!」
俺は椅子から立ち上がった。
女が増えている。
上の階から順番に。
しかも、どの女も監視カメラを見ている。
笑っている。
口を大きく開けて。
「……何なの!?」
誰も答えない。
当たり前だ。
ここには俺しかいないのだから。
俺は慌てて勤務資料を開いた。
こういうときの対応方法。
絶対にあるはずだ。
あるよな?
頼むからあってくれ。
ページをめくる。
めくる。
めくる。
……あった!
『同一外見の存在が複数階層に出現した場合』
俺は食い入るように読んだ。
『原則として、各階層への出現を個別に記録してください』
「……それだけ!?」
思わず叫んだ。
いやいやいや!
もっとあるでしょ!
例えば退避するとか!
緊急通報するとか!
何かあるでしょ!
しかし、記載されているのはそれだけだった。
『対象への接触は不要です』
……。
……なるほど。
接触しなくていい。
つまり、このまま警備室にいればいいのか。
俺は椅子に座り直した。
落ち着け。
落ち着くんだ。
向こうはモニターの中。
俺は警備室の中。
扉は分厚い。
鍵もかかっている。
何も問題ない。
……何も問題ないはずだ。
ピコン。
『第九階層』
ピコン。
『第八階層』
ピコン。
『第七階層』
「…………」
俺は黙っていた。
もう声も出なかった。
女は、確実に下りてきている。
いや、増えている。
どちらにしても、嫌なことに変わりはない。
ピコン。
『第六階層』
ピコン。
『第五階層』
ピコン。
『第四階層』
「……頼む」
俺は両手を合わせた。
「頼むから、そこで止まってくれ……」
別に何もしてないだろ。
俺。
ただ警備してるだけだろ。
唐揚げ弁当を食べてただけだろ。
何が気に入らないんだよ。
ピコン。
『第三階層』
「……あああ」
ピコン。
『第二階層』
「……あああああ」
そして。
ピコン。
『第一階層』
俺は目を閉じた。
終わった。
終わったかもしれない。
いや、まだだ。
まだ警備室には来ていない。
俺は恐る恐る、一階の監視モニターを確認した。
女が立っている。
エントランスの中央。
白い服。
長い黒髪。
裸足。
そして、笑顔。
……こっち見てる。
めちゃくちゃこっち見てる。
「…………」
俺は動かなかった。
女も動かなかった。
しばらく、その状態が続いた。
そして、唐突に。
女が消えた。
「……え?」
十五階の映像を確認する。
いない。
十四階。
いない。
十三階。
いない。
どの階にも、女の姿はなくなっていた。
……終わった?
俺は時計を見た。
午後十時四十七分。
たった四分。
たった四分の出来事だった。
「……はあああああ!」
俺は机に突っ伏した。
怖かった。
本当に怖かった。
もう嫌だ。
今すぐ辞めたい。
帰りたい。
家に帰って布団を被りたい。
こんな仕事、二度とやりたくない。
俺は震える手でスマートフォンを取り出した。
求人広告を開く。
『一勤務:1,500,000円』
「…………」
百五十万円。
俺は顔を上げた。
監視モニターには、何も映っていない。
平和な廊下。
誰もいないエントランス。
普通のオフィスビル。
「……いや」
俺は考えた。
怖かった。
確かに怖かった。
でも、死んでいない。
怪我もしていない。
何なら、警備室から一歩も出ていない。
そして、まだ百五十万円を稼げる可能性がある。
「……いけるか?」
俺は呟いた。
今のところ、実害はない。
ものすごく怖かっただけだ。
怖い思いをするだけで百五十万円。
そう考えれば、悪い仕事ではないのかもしれない。
「……よし」
俺は椅子に座り直した。
唐揚げ弁当を手に取る。
少し冷めていた。
まあ、仕方ない。
電子レンジで温め直せばいい。
俺は弁当を持って立ち上がった。
そのときだった。
コンコン。
「…………」
音がした。
……ん?
コンコン。
もう一度。
俺は動きを止めた。
音は、警備室の扉から聞こえていた。
「…………」
誰?
いや、誰もいないはずだろ。
俺しかいないんだから。
コンコン。
またノック。
俺は弁当を机に置いた。
ゆっくりと扉を見る。
分厚い防護扉。
小さな確認窓。
その向こうに。
白い服が見えた。
「…………」
……あ。
さっきの女だ。
何で?
何でここにいるの?
どうやって来たの?
扉の向こうから、声が聞こえた。
「……すみません」
女の声だった。
意外なほど普通の声だ。
若い女性のように聞こえる。
「……開けて、もらえませんか」
…………。
俺は黙った。
開ける?
この扉を?
無理無理無理無理。
絶対無理。
誰が開けるか。
俺は扉から三歩ほど離れた。
すると、また声がした。
「……お願い、します」
……いや。
お願いされても。
俺は警備員だ。
夜間の入館は認められていない。
それに、不審者を見つけても直接接触する必要はないと資料に書いてある。
そうだ。
規則だ。
規則に従えばいい。
「……も、申し訳ありません」
声が裏返りかけた。
咳払いする。
「当施設は、現在閉館しております」
……よし。
仕事っぽい。
俺は少しだけ勇気を取り戻した。
「夜間の入館および施設利用は、原則としてお断りしております」
扉の向こうは静かだった。
……あれ?
通じた?
もしかして、これで帰ってくれる?
そのとき。
「……わたし」
女の声がした。
「……中に、いるんです」
…………。
……え?
「……だから」
女が続けた。
「……出して、ください」
俺は固まった。
出して?
外へ?
……待って。
ちょっと待って。
この人、入れてほしいんじゃないの?
出してほしいの?
俺は扉を見た。
女は、確認窓の向こうに立っている。
警備室の外。
つまり、建物の中だ。
……なるほど。
外に出たいのか。
いや、それなら別に構わないんじゃないか?
だって、出ていくだけだろ?
俺は仕事の資料を確認した。
『午前零時以降の新規入館は原則禁止』
現在、午後十時五十分。
まだ零時前だ。
……いや、待て。
そもそも、この人はどこから入ったんだ?
十五階?
いや、十五階なんてないはずだ。
何なの、もう。
分からないことだらけじゃないか。
「……あの」
俺は恐る恐る声をかけた。
「正面玄関は、そちらの廊下をまっすぐ進んだところにありますので……」
女は黙っていた。
「……自動扉は閉まっていますけど、退館用の開錠ボタンがあるはずです」
反応がない。
俺は続けた。
「……もし開かないようでしたら、施設管理会社へ確認しますので……」
その瞬間。
女が笑った。
確認窓いっぱいに、口が広がった。
白い歯が並んでいる。
多い。
明らかに多い。
人間の歯の本数じゃない。
「ひっ!」
俺は後ずさった。
女の顔が、窓に近づく。
近づく。
さらに近づく。
……近い近い近い!
そして。
「……あなたも」
女が言った。
「……出たい?」
…………。
俺は全身を震わせた。
怖い。
怖すぎる。
何なの、この質問。
出たいに決まってるだろ。
今すぐ出たいわ。
家に帰りたいわ。
でも。
でもだ。
俺は時計を見た。
午後十時五十一分。
勤務終了まで、あと七時間九分。
そして。
報酬、百五十万円。
「…………」
俺は唾を飲み込んだ。
帰りたい。
怖い。
もう嫌だ。
でも。
百五十万円。
百五十万円なんだぞ。
ここまで来て帰ったら、どうなる?
今日の給料は?
途中で仕事を放棄したら、契約上、勤務完了報酬は支払われない。
つまり、百五十万円が消える。
……百五十万円が。
消える。
「…………」
俺は震える手を握りしめた。
そして、女に向かって答えた。
「……い、いえ」
声が震えた。
喉が引きつる。
それでも、何とか言葉を続けた。
「……私は、勤務中ですので」
女が首を傾げた。
「……勤務?」
「……はい」
「……ここで?」
「……はい」
俺は半泣きになりながら頷いた。
「……あと、七時間ほど……」
女は黙っていた。
そして。
ふっ、と姿が消えた。
「…………」
俺は扉を見つめた。
一秒。
二秒。
三秒。
何も起きない。
……消えた?
帰った?
俺は恐る恐る監視モニターを確認した。
廊下には誰もいなかった。
「……はああああああ!」
膝から力が抜けた。
そのまま床に座り込む。
助かった。
助かったのか?
分からない。
でも、とりあえず生きている。
それだけは確かだ。
「……怖かったぁ……」
涙が出そうだった。
いや、少し出ていたかもしれない。
俺は床に座り込んだまま、しばらく動けなかった。
……もう嫌だ。
本当に嫌だ。
こんな仕事、絶対におかしい。
百五十万円でも安いんじゃないか?
いや、そんなことはないか。
百五十万円だぞ。
……でも、怖いものは怖い。
「……はあ」
俺は何とか立ち上がった。
椅子に戻り、監視モニターを確認する。
異常なし。
……よし。
記録をつけよう。
俺は操作端末を開いた。
先ほどの出来事を入力する。
『異常現象記録』
『発生時刻:22時49分』
『発生場所:第一階層・警備室前』
『現象分類:人型存在』
『対応内容:扉を開放せず、口頭による対応を実施』
『結果:対象消失』
保存。
……よし。
これでいい。
俺は大きく息を吐いた。
そして、ふと気づいた。
画面の右下に、小さな通知が表示されている。
『特殊対応実績を確認しました』
「……ん?」
特殊対応実績?
何それ。
俺は通知を開いた。
『対象:退館要求型存在』
『対応結果:施設内留置状態を維持』
『評価:適切』
『特殊対応手当:200,000円』
「…………」
……え?
俺は画面を凝視した。
二十万円。
特殊対応手当。
二十万円。
「……え?」
もう一度確認する。
間違いない。
確かに二十万円と表示されている。
……つまり。
さっきの対応で。
二十万円?
「…………」
俺はゆっくりと椅子に座った。
考える。
基本報酬、百五十万円。
特殊対応手当、二十万円。
合計、百七十万円。
……百七十万。
「…………」
俺は監視モニターを見た。
誰もいない廊下。
静かなエントランス。
そして、あの女が立っていた場所。
……なるほど。
「……手当、出るんだ」
俺は呟いた。
知らなかった。
いや、契約書のどこかに書いてあったのかもしれない。もう少しちゃんと読んでおけばよかった。
……特殊対応手当。
二十万円。
悪くない。
いや、かなりいい。
俺は画面に表示された金額を、もう一度見た。
「……二十万か」
少しだけ。
本当に少しだけ。
さっきの恐怖が、和らいだ気がした。
……いや。
気のせいだ。
怖いものは怖い。
絶対に勘違いしてはいけない。
俺は金のために命を捨てるような馬鹿ではない。
……ただ。
少し気になった。
「……他にも、手当ってあるのかな」
俺は操作端末のメニューを開いた。
そして。
『特殊業務手当一覧』
その項目を見つけてしまった。
「…………」
俺は画面をタップした。
そこには、ずらりと項目が並んでいた。
『未確認人物への適切な対応』
『特殊階層の出現記録』
『異常設備の監視』
『非実体存在との接触回避』
『特定存在からの要求拒否』
『施設内異常の封じ込め補助』
……何だこれ。
怖い。
怖すぎる。
仕事内容としては最悪だ。
しかし。
その右側には、それぞれ金額が表示されていた。
三万円。
五万円。
十万円。
二十万円。
五十万円。
そして。
『特級異常事象への対応:最大5,000,000円』
「…………」
五百万。
俺は瞬きをした。
五百万。
……一回で?
「…………」
俺は椅子の背もたれに身体を預けた。
天井を見上げる。
しばらく黙っていた。
……五百万。
さすがに高い。
高すぎる。
そんな危険な目に遭いたくない。
絶対に嫌だ。
俺は画面を閉じた。
「……ないな」
呟く。
「五百万でも、命には代えられないだろ」
当然だ。
俺は命が惜しい。
金も惜しいけど、命はもっと惜しい。
だから、危険なことには絶対に近づかない。
……絶対に。
ピコン。
「……ん?」
監視モニターが点灯した。
『異常検知』
『対象:第十五階層』
「…………」
俺は固まった。
また?
またなの?
まだ勤務開始から一時間も経ってないんだけど。
恐る恐る、モニターを見る。
十五階の廊下。
そこに。
また、白い服の女が立っていた。
「…………」
俺は黙った。
女も黙っていた。
しばらくして。
女が、ゆっくりと手を上げた。
そして。
こちらへ向かって。
小さく手を振った。
「…………」
……。
……え?
俺は画面を見つめた。
女は、まだ手を振っている。
まるで、挨拶するみたいに。
……何?
何なの?
俺も手を振った方がいいの?
いや、そんなことしたら何か起きそうだし。
でも無視したら怒るかもしれないし。
……どうすればいいんだよ。
俺はしばらく悩んだ。
そして。
恐る恐る。
本当に恐る恐る。
モニターに向かって、小さく会釈した。
女が、ぴたりと動きを止めた。
「…………」
……あ。
やばい?
何かした?
俺、何かまずいことした?
次の瞬間。
女が、深々と頭を下げた。
そして消えた。
「…………」
俺は画面を見つめた。
何も映っていない。
静かな廊下だけだ。
……何だったんだ?
分からない。
何も分からない。
ただ。
「……礼儀正しい幽霊だな」
そんな感想が、口から漏れた。
もちろん、怖くないわけではない。
めちゃくちゃ怖い。
でも、挨拶してくれる幽霊なら、まだマシなのかもしれない。
俺は少し考えた。
そして、ふと思いついた。
「……そうだ」
今のも異常現象だよな?
十五階に出たわけだし。
ということは。
記録すれば。
……手当が出る?
「…………」
俺は操作端末を開いた。
記録画面。
異常現象。
第十五階層。
人型存在。
対応内容。
……挨拶?
俺は迷った末に、こう入力した。
『対象の動作を確認。非接触で対応。対象は消失』
保存。
ピコン。
『特殊対応実績を確認しました』
『特殊対応手当:50,000円』
「…………」
五万円。
俺は画面を見つめた。
たった一回、頭を下げただけで。
五万円。
「…………」
何だろう。
この仕事。
もしかして。
……とんでもなく稼げるんじゃないか?
俺はゆっくりと監視モニターへ視線を戻した。
誰もいない廊下。
静かなエントランス。
暗い非常階段。
……怖い。
それは変わらない。
でも。
百五十万円。
二十万円。
五万円。
合計、百七十五万円。
しかも、まだ一時間も経っていない。
「…………」
俺は震える手で、唐揚げ弁当を持ち上げた。
冷めていた。
すっかり冷めていた。
しかし、そんなことはどうでもよかった。
「……とりあえず」
俺は唐揚げを口に運んだ。
「……明日も応募しようかな」
怖い。
本当に怖い。
でも。
金が欲しい。
どうしようもなく、金が欲しかった。
……なお、この時点で俺は、まだ知らなかった。
この建物の怪異たちが、普通の夜間警備員とは少し違う反応を見せる俺に、興味を持ち始めていることを。
いや、仮に知っていたとしても。
報酬額を見せられたら、きっとまた悩んだのだろう。
何しろ、俺は。
救いようのない守銭奴なのだから。