月は、失われた名を憶えている   作:ノイリ

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第一部 忘却の都市
第一話 母が私を忘れた日


「お母さん、私だよ」

 

少女は、もう何度目になるかわからない言葉を繰り返した。

 

「ニナだよ。昨日も一緒にご飯を食べたでしょ?」

 

灰色の石畳が続く街路の片隅。一人の少女が、母親らしき女性の袖を握りしめていた。

 

まだ九つほどだろうか。短い栗色の髪に、少し大きすぎる青い肩掛け。片腕には、何度も繕われた布人形を抱えている。

 

少女の目には涙が浮かんでいた。対する女性は、困惑した表情で少女を見下ろしていた。

 

「ごめんなさい」

 

その声は、決して冷たいものではなかった。

 

むしろ、どうにか少女を傷つけないよう、慎重に言葉を選んでいるようだった。

 

「あなたの名前は、聞いているわ。ニナちゃん、でしょう?」

「そうだよ! お母さんがつけてくれた名前だもん!」

「ええ……そう、みたいね」

 

女性は手にした紙へ視線を落とした。

 

市の役所で発行された、家族関係を証明する書類。そこには確かに、エマ・エルフェンの娘として、ニナ・エルフェンの名前が記されていた。

 

住んでいる家も同じ。少女の部屋もある。

 

小さな衣服も、使い古された食器も、壁に刻まれた成長の記録も。すべてが、この少女が自分の娘であると証明している。

 

それなのに。

 

「どうしても……思い出せないの」

 

エマは苦しげに眉を寄せた。

 

「あなたと過ごした時間が、何一つ……」

「嘘だよ」

 

ニナの声が震えた。

 

「昨日、一緒にお買い物したでしょ? 帰りにパン屋さんで、甘いパン買ってくれたでしょ?」

 

エマは答えなかった。

 

「私が熱を出したとき、ずっとそばにいてくれたよね?」

「ごめんなさい」

「夜、怖い夢を見たら、一緒に寝てくれたじゃない!」

「……本当に、ごめんなさい」

 

ニナは唇を噛んだ。

 

母親が嘘をついているようには見えなかった。それが、何より恐ろしかった。

 

昨日まで当たり前に名前を呼んでくれた母親が、今日は見知らぬ子どもを見るような目をしている。

 

声も、手の温もりも、何一つ変わっていないはずなのに。

 

その瞳の中から、自分だけが消えてしまった。

 

「私、何か悪いことした?」

「違うわ」

 

エマは即座に首を振った。

 

「あなたは何も悪くない。きっと、私がおかしくなってしまったの」

「じゃあ、どうして……」

 

少女の問いに、答えられる者はいなかった。

 

周囲には、いつの間にか小さな人だかりができていた。しかし、誰も積極的に声をかけようとはしない。

 

灰鐘市では近頃、このような事件が珍しくなくなっていたからだ。

 

昨日まで親しかった友人の名前を忘れる。

 

長年連れ添った伴侶を、突然他人として認識する。

 

自分がどこで生まれ、何をして生きてきたのかさえ、わからなくなる。

 

人々はそれを、ある名前で呼んでいた。

 

――欠月現象。

 

原因不明の、記憶を失う怪異。

 

灰鐘市では有効な治療法が見つかっておらず、一度失われた記憶が完全に戻ったという確かな報告もなかった。

 

だからこそ、人々は恐れていた。

 

いつか、自分も大切な誰かを忘れてしまうのではないかと。

 

あるいは、大切な誰かに、自分だけが忘れられてしまうのではないかと。

 

「……ひどいものね」

 

人だかりから少し離れた場所で、一人の女性が呟いた。

 

*

 

女性は、灰鐘市の街並みにはひどく不釣り合いな姿をしていた。

 

腰よりもはるかに長く伸びた白銀の髪。月の光を溶かし込んだような、澄んだ黄金の瞳。

 

黒を基調に白を配した長いドレスには、控えめな金の装飾が施されている。その手には、先端に三日月を象った黒金の細い杖。

 

貴族にも見える。高位の魔術師にも見える。

 

しかし、そのどちらとも異なる、奇妙な静けさをまとっていた。

 

彼女の名は、セレネ。

 

五年前、長い眠りから目覚めた女性だった。

 

それ以前の記憶は、ほとんど残されていない。自分がどこで生まれ、何者として生きてきたのか。なぜ、長い眠りについていたのか。

 

わからないことばかりだった。

 

それでも、言葉も、魔術も、戦い方も覚えていた。そして、自分の内に宿る異質な力の扱い方も。

 

「また、記憶の欠落……」

 

セレネは小さく息を吐いた。

 

これまで訪れた街でも、同様の事件を何度か目にしている。だが、その原因はいまだにつかめていない。

 

彼女は母娘の様子をしばらく観察した後、歩き出した。

 

周囲の人々が、無意識に道を空ける。セレネはそれを気にする様子もなく、少女の前で足を止めた。

 

「少し、いいかしら」

 

ニナが顔を上げる。

 

黄金の瞳と目が合った瞬間、少女は一瞬だけ泣くことを忘れた。それほどまでに、目の前の女性は美しかった。

 

けれど、セレネ自身はそんな視線に慣れているのか、特に反応を示さない。

 

膝を折り、少女と目線の高さを合わせた。

 

「あなたの名前を、教えてくれる?」

「……ニナ」

「そう。ニナね」

 

セレネはその名前を一度、確かめるように繰り返した。

 

「私はセレネ。何があったのか、聞かせてもらえる?」

 

ニナはしばらく黙っていた。それから、震える声で答えた。

 

「お母さんが、私のこと忘れちゃったの」

「ええ」

「私、ちゃんとここにいるのに……」

 

少女は自分の胸に手を当てた。

 

「消えちゃったわけじゃないのに」

 

セレネの表情が、ほんのわずかに曇った。

 

「そうね」

 

彼女は少女の頭に手を伸ばしかけたが、途中で止めた。

 

初めて会った相手に、勝手に触れるべきではない。そう判断して、手を下ろす。

 

「あなたは、ここにいるわ」

「……うん」

「それだけは、間違いない」

 

ニナは小さく頷いた。

 

セレネは立ち上がり、今度はエマへ視線を向けた。

 

「あなたは、いつから記憶を失ったの?」

「今朝です。目が覚めたら、この子が家にいて……」

 

エマは言葉を詰まらせた。

 

「娘だって言われても、どうしても思い出せなくて。それで、役所に確かめに行ったんです」

「身体に異常は?」

「ありません。頭痛も、熱も」

「そう」

 

セレネは顎に手を添えた。

 

記憶だけが選択的に欠落する現象。それも、特定の人物に関する記憶が、まるごと失われている。

 

通常の病気とは考えにくい。

 

魔術的な干渉。あるいは、それに類する何か。

 

セレネがさらに質問しようとした、そのときだった。

 

――ゴォン。

 

街の中央から、低く重い鐘の音が響いた。

 

灰鐘市の象徴である大鐘楼。長い歴史を持つ巨大な時計塔から、朝の時を告げる鐘が鳴ったのだ。

 

その瞬間。

 

「……?」

 

セレネの黄金の瞳が、わずかに揺れた。

 

何かが引っかかった。

 

鐘の音に混じって、耳慣れない響きがあった気がした。

 

いや。耳で聞いたのではない。

 

もっと別の、深い場所に触れられたような感覚。

 

彼女は大鐘楼へ視線を向けた。

 

灰色の空を背に、古びた時計塔がそびえ立っている。見たところ、何も変わった様子はない。

 

だが、確かに何かを感じた。

 

セレネがその違和感を探ろうとした、次の瞬間。

 

――バキンッ!

 

すぐ近くで、硬いものが砕ける音が響いた。

 

「きゃあっ!」

 

悲鳴が上がる。

 

街路脇に設置されていた魔術灯が、突然ひび割れた。続いて、建物の壁に埋め込まれていた古い装飾板が、不自然な音を立てて浮き上がる。

 

まるで、見えない手に引き剥がされるかのように。

 

「なんだ、あれは……?」

 

誰かが呟いた。

 

ひび割れた装飾板が、空中で組み合わさっていく。

 

石片、金属片、砕けた魔術灯の破片。

 

それらが人の背丈を超える塊となり、やがて四本の長い腕を持つ異形を形作った。

 

顔にあたる部分には、文字とも紋様ともつかない線が浮かび上がっている。

 

そして、その奥から。

 

『――わた、し……は……』

 

掠れた声が漏れた。

 

『……だれ……』

 

ニナが息を呑む。

 

周囲の人々が一斉に後ずさった。

 

「断章獣だ!」

 

衛兵の一人が叫んだ。

 

「全員下がれ! 戦闘魔術師を呼べ!」

 

*

 

断章獣。

 

近頃、灰鐘市の各所で目撃されるようになった正体不明の異形。

 

魔物に似ているが、生物ではない。石や金属、魔術装置の残骸などを取り込み、奇妙な姿を形作る。

 

そして、その身体からは意味の通らない言葉が聞こえるという。

 

衛兵たちは素早く陣形を整えた。

 

「槍隊、前へ!」

「住民を避難させろ!」

 

重装備の衛兵が盾を構え、後方では二人の魔術師が杖を掲げる。

 

「炎よ、我が魔力に従え!」

 

術式が完成し、赤い炎が放たれた。

 

炎は断章獣の胴体へ直撃する。激しい音とともに、石片が四方へ飛び散った。

 

「効いたか!?」

 

しかし次の瞬間、散らばった破片が浮き上がった。

 

まるで何事もなかったかのように、再び異形の胴体へと集まっていく。

 

「なんだと……!」

 

魔術師が目を見開く。

 

「再生している!?」

「もう一度だ!」

 

別の魔術師が風の刃を放つ。

 

断章獣の腕が切断された。だが、腕は地面に落ちる前に動きを変え、再び胴体へ接続される。

 

『……なま、え……』

 

異形の顔に浮かぶ紋様が、不規則に明滅した。

 

『……わたし、の……』

 

次の瞬間、四本の腕が一斉に振り下ろされた。

 

「避けろ!」

 

衛兵たちが盾を構える。

 

凄まじい衝撃が石畳を砕いた。数人が吹き飛ばされ、周囲の建物の壁に亀裂が走る。

 

人々は悲鳴を上げながら逃げ惑った。

 

その混乱の中で、ニナが転んだ。

 

「あっ!」

 

小さな身体が石畳に倒れる。

 

抱えていた布人形が、少し離れた場所まで転がっていった。

 

「ニナちゃん!」

 

エマが振り返った。

 

記憶はない。目の前の少女が、なぜ自分を母親と呼ぶのかも理解できない。

 

それでも、危険な場所に取り残された子どもを、見捨てることはできなかった。

 

エマは引き返し、少女を抱き寄せる。

 

しかし、遅かった。

 

断章獣が二人へ向き直る。巨大な腕が持ち上がり、鋭い破片の先端が母娘を捉えた。

 

「逃げろ!」

 

衛兵の叫びが響く。

 

だが、エマは動けない。ニナを抱きしめたまま、ただ目を閉じた。

 

――ガキン。

 

乾いた音がした。

 

それだけだった。

 

衝撃は来ない。痛みもない。

 

恐る恐る目を開けたエマは、目の前の光景に息を呑んだ。

 

巨大な腕が、自分たちのすぐ手前で止まっていた。

 

何かにぶつかったように。しかし、そこには壁も盾もない。

 

何もない空間で、鋭い腕が完全に静止している。

 

「……え?」

 

その前に、一人の女性が立っていた。

 

長い白銀の髪が、風に揺れている。黒いドレスの裾が、砕けた石畳の上で翻った。

 

セレネだった。

 

彼女は母娘の前へ移動すると同時に、自身の周囲に形成していた不可視の境界を広げていた。

 

振り下ろされた腕は、その境界の手前で停止している。

 

何かに衝突したのではない。

 

それ以上、近づくことのできる空間が存在しなかった。

 

「……まったく」

 

セレネは軽く息を吐いた。

 

「人が話している最中に、随分と騒がしいわね」

 

*

 

断章獣が腕を動かした。

 

だが、動かない。

 

力を込めても、押し込んでも、セレネと母娘の間には一切届かない。

 

「何をしている……?」

 

倒れていた衛兵の一人が呟いた。

 

彼には理解できなかった。

 

防御魔術なら、通常は魔力によって形成された障壁が見える。高度な結界であっても、魔力の流れを感知できる。

 

しかし、目の前の女性からは、そのどちらも感じられない。

 

ただ、そこから先へ進めない。

 

それだけだった。

 

セレネは断章獣を見上げた。

 

「生き物……ではなさそうね」

 

異形の身体を構成する石や金属を、黄金の瞳が観察する。

 

魔力の流れはある。しかし、核らしきものは見当たらない。

 

通常の使い魔とも、召喚獣とも異なる構造。

 

「面倒なものを作ったわね」

 

断章獣の口にあたる部分が開いた。

 

『――わす、れ……』

 

次の瞬間、四本の腕が再び動き出した。

 

前方、側面、背後。

 

逃げ道を塞ぐように、異なる方向からセレネへと襲いかかる。

 

その動きは、人間の反応速度をはるかに超えていた。

 

だが、セレネは一歩も動かなかった。

 

「月界」

 

小さな呟き。

 

それだけで、四本の腕が空中に縫い止められた。

 

障壁は見えない。魔力の流れすら感じられない。

 

ただ、そこから先へ進むための道だけが、失われていた。

 

「ば、馬鹿な……」

 

衛兵の一人が声を漏らす。

 

セレネは気に留めない。

 

彼女にとって、月界の維持に意識を割く必要すらなかった。

 

月律。

 

空間の位置、接続、境界を支配する権能。

 

通常の魔術とは根本的に異なる、世界の法則への直接的な干渉。

 

しかし、その事実を理解できる者は、周囲には一人もいなかった。

 

「もういいわ」

 

セレネは黒金の杖をわずかに持ち上げた。

 

先端の三日月が、淡い銀色を帯びる。

 

「月断」

 

音はなかった。

 

轟音も、閃光もない。ただ、断章獣の胴体を横切るように、一本の細い線が現れた。

 

次の瞬間、異形の上半身が滑るようにずれた。

 

巨大な身体が二つに分かれる。その切断面は、異様なほど滑らかだった。

 

だが、それだけでは終わらない。

 

セレネは断章獣を構成する破片を見つめ、わずかに杖を傾けた。

 

再び組み合わさろうとした石片が、空中で静止する。

 

金属片も、魔術装置の残骸も。

 

それぞれの間にあった空間の接続が、次々と断ち切られていく。

 

どれほど引き寄せ合おうとも、互いに届くことはない。

 

『……な、ま……』

 

声が途切れた。

 

そして異形は、無数の破片となって石畳へ崩れ落ちた。

 

戦闘は終わった。

 

あまりにも、あっけなく。

 

「…………」

 

衛兵たちは、誰一人として声を発せなかった。

 

自分たちと二人の戦闘魔術師が総力を挙げても倒せなかった異形。

 

それを、目の前の女性はほとんど動くことなく無力化した。

 

しかも、周囲の建物にはそれ以上の被害がない。

 

地面に転がった破片は、もはや動く気配すら見せなかった。

 

「何者なんだ、あの女は……」

 

誰かが、かすれた声で呟いた。

 

セレネはその問いに答えなかった。彼女は杖を下ろすと、母娘へ振り返る。

 

「怪我はない?」

「は、はい……」

 

エマは震える声で答えた。ニナも小さく頷く。

 

「そう。ならよかったわ」

 

セレネは周囲を見渡した。

 

少し離れた場所で、数人の衛兵が倒れている。二人は腕を押さえ、一人は苦しげに呼吸していた。

 

彼女はそちらへ歩み寄る。

 

「……そこのあなた」

「は、はい!」

 

近くにいた衛兵が慌てて姿勢を正す。

 

「負傷者を動かさないで。治療するわ」

「え?」

 

セレネは返答を待たずに杖を掲げた。

 

「白癒」

 

淡い銀白色の光が、負傷した衛兵たちの身体を包む。

 

腕から流れていた血が止まり、浅い傷がゆっくりと塞がっていく。呼吸を乱していた衛兵の表情も、次第に落ち着きを取り戻した。

 

ただし、深い損傷まで完全に治ったわけではない。

 

「応急処置だけよ。骨や内臓の損傷が残っている可能性もあるわ。診療所で詳しく診てもらいなさい」

「は、はい……! ありがとうございます!」

「礼は必要ないわ。それより、逃げ遅れた人がいないか確認して」

「承知しました!」

 

衛兵は慌ただしく駆け出した。

 

セレネはそれを見届けると、再び母娘のもとへ戻った。

 

彼女にとって、異形の討伐も負傷者の治療も、特別なことではない。

 

できるから、行った。

 

それだけのことだった。

 

しかし、周囲の人々にとっては違った。

 

自分たちでは到底及ばない魔術を、まるで呼吸をするように扱う女性。

 

それも、一切の詠唱を必要とせず、正体不明の異形を瞬時に制圧した。

 

誰かが囁く。

 

「……権能者?」

 

その言葉を聞き、別の衛兵が表情を強張らせた。

 

権能。

 

世界の根本法則へ直接干渉する、異質な力。

 

ごく限られた者にしか宿らない、神話にも近い能力。

 

そして目の前の女性が使ったものは、彼らの知るどの権能とも異なっていた。

 

一人の衛兵が、彼女の長い白銀の髪と黄金の瞳を見つめる。

 

やがて、その顔から血の気が引いた。

 

「まさか……」

 

彼は何かを言いかけた。

 

だが、言葉は続かなかった。

 

セレネは、その視線に気づいてすらいないようだった。

 

*

 

「お母さん」

 

ニナが、小さく呼びかけた。

 

エマは少女へ視線を落とす。

 

「……ええ」

 

少女は、少しだけ期待を込めて尋ねた。

 

「今、私のこと、助けてくれたよね?」

「そうね」

「じゃあ……」

 

ニナは両手を胸の前で握りしめた。

 

「思い出した?」

 

エマの表情が固まった。

 

答えはなかった。その沈黙だけで、十分だった。

 

「……そっか」

 

ニナは無理に笑おうとした。けれど、うまくいかなかった。

 

「やっぱり、まだ覚えてないんだね」

「ごめんなさい」

 

エマの目にも涙が浮かんだ。

 

少女を助けたのは、目の前で子どもが襲われていたからだ。見捨てることなど、できなかったから。

 

だが、それは娘を思い出したからではない。

 

危険が去っても、その事実は変わらなかった。

 

ニナは俯いた。

 

セレネは、そんな二人を見つめていた。

 

巨大な異形を打ち倒したばかりの手。

 

世界の空間を切り離すことすらできる力。

 

その力を使えば、軍勢を退けることも、城壁を断ち切ることもできる。

 

だが、目の前の母親が失った昨日を、今すぐ取り戻すことはできない。

 

セレネには、記憶の痕跡へ触れる力もある。しかし、それは失われたものを無条件に取り戻す奇跡ではなかった。

 

何が起きたのかも、記憶がどこへ失われたのかもわからない。

 

この状態で無理に干渉すれば、残されている記憶まで傷つける可能性がある。

 

ならば、まず原因を調べるべきだ。

 

セレネはそう結論づけた。

 

「ニナ」

 

少女が顔を上げる。

 

「少し、話をしてもいいかしら」

「……うん」

「あなたのお母さんは、あなたを覚えていないのね」

「うん」

「でも、あなたがいなくなったわけではない」

 

ニナは黙っていた。

 

「今日、ここであなたが話したことも、泣いたことも、全部あったことよ」

 

セレネは言葉を続けた。

 

「誰かに忘れられたからといって、あなたが生きてきた時間まで、なかったことになるわけじゃない」

 

ニナはしばらく黙っていた。

 

そして、ぽつりと呟いた。

 

「でも」

「ええ」

「お母さんには、覚えててほしかった」

 

その言葉に、セレネは答えられなかった。

 

どれほど正しい言葉を並べても、少女の願いそのものを叶えることはできない。

 

それを理解してしまったからだ。

 

「……そうね」

 

セレネは頷いた。

 

「そうよね」

 

そのとき、ニナはふと、セレネの手元にある杖を見つめた。

 

「お姉さん」

「何かしら」

「さっきの、すごかった」

「そう?」

「あの怖いの、あっという間にやっつけちゃった」

「ええ」

「魔術師さんたちでも倒せなかったのに」

 

ニナの瞳に、わずかな希望が戻った。

 

「お姉さん、すごく強いんだね」

 

セレネは答えなかった。ただ、少女の言葉を聞いていた。

 

「だったら……」

 

ニナは一歩、近づいた。

 

その小さな手が、セレネのドレスの裾を握る。

 

「お姉さんは、お母さんの思い出も元に戻せる?」

 

風が吹いた。

 

白銀の長い髪が揺れる。

 

セレネは、少女のごく普通の茶色い瞳を見つめた。

 

期待と不安が入り混じった、祈るような眼差し。

 

その願いがどれほど切実なものなのか、彼女にもわかっていた。

 

けれど。

 

「……今は、できないわ」

 

セレネは嘘をつかなかった。

 

ニナの指先が、わずかに緩んだ。

 

「そっか……」

「でも」

 

セレネは言葉を続けた。

 

「できない理由を、調べることはできる」

 

ニナが顔を上げる。

 

「本当?」

「ええ」

「そしたら、いつか……?」

「約束はできないわ」

 

セレネは少しだけ目を伏せた。

 

「取り戻せないものも、この世界にはあるから」

 

少女の表情が曇る。

 

それでも、セレネは言葉を取り消さなかった。叶えられるかわからない願いを、軽々しく約束することはできない。

 

「でも、何もせずに諦めるつもりもない」

 

セレネはそう告げた。

 

「あなたのお母さんに何が起きたのか。どうして記憶を失ったのか。それを調べるわ」

 

ニナは、しばらく彼女を見つめていた。

 

そして、小さく頷く。

 

「ありがとう、セレネお姉さん」

 

セレネは微かに目を細めた。

 

「どういたしまして」

 

それから、少女の後ろに立つエマへ視線を向ける。

 

「診療所へ案内してもらえるかしら。最近、同じような症状の人が増えていると聞いたの」

 

エマは驚いたように目を瞬かせた。

 

「ええ、もちろんです。私も、これから診てもらおうと思っていたので」

「そう。なら、一緒に行きましょう」

 

セレネは歩き出した。

 

その背後で、先ほどまで戦闘を見守っていた衛兵たちが、慌てて道を空ける。

 

彼女は気に留めない。

 

ニナが小走りで隣へ並んだ。

 

「ねえ、セレネお姉さん」

「何?」

「お姉さんは、私の名前、覚えてる?」

 

セレネは足を止めた。

 

ほんの一瞬だけ。

 

その問いが、胸の奥に奇妙な感覚を残した。

 

どこかで、遠い昔、同じようなことを聞かれた気がする。

 

けれど、思い出せない。

 

白い宮殿。

 

月明かり。

 

誰かの笑い声。

 

輪郭のない記憶が、意識の底をかすめて消えた。

 

「……ええ」

 

セレネは少女へ視線を戻した。

 

「ニナ・エルフェン」

 

先ほど書類で確かめた、その名前。

 

一文字ずつ、忘れないように口にする。

 

「覚えているわ」

 

少女は、ようやく少しだけ笑った。

 

「よかった」

 

その笑顔を見て、セレネもほんのわずかに表情を和らげた。

 

――ゴォン。

 

再び、大鐘楼の音が響いた。

 

セレネは足を止める。

 

先ほど時を告げたばかりの鐘が、また鳴っている。周囲の人々も、不思議そうに時計塔を見上げていた。

 

「……おかしいな」

 

近くの商人が呟いた。

 

「まだ次の時刻じゃないはずだが……」

 

セレネは黄金の瞳を細めた。

 

「今のは、時報ではないわね」

 

灰色の空へ伸びる、古い石造りの時計塔。

 

その鐘の音には、やはり何かが混じっている。

 

空気を震わせる音とは別の、目には見えない何か。

 

まるで、遠く離れた場所から、誰かが彼女へ触れようとしているかのようだった。

 

セレネは杖の先端へ視線を落とす。

 

三日月の装飾が、ほんの一瞬だけ淡く輝いた。

 

「……嫌な音ね」

 

誰にも聞こえないほど小さく、彼女は呟いた。

 

鐘の音が止む。

 

街には再び、人々のざわめきが戻ってきた。

 

倒れた衛兵を運ぶ者。砕けた石畳を片づける者。異形の残骸を遠巻きに眺める者。

 

つい先ほどまで命の危険にさらされていたというのに、人々はもう日常を取り戻そうとしていた。

 

セレネはそれを見つめ、ゆっくりと歩き出す。

 

この街で何が失われているのか。

 

誰が、何のために記憶を奪っているのか。

 

まだ、彼女は知らない。

 

そして、失われた記憶を追うこの旅が、やがて自分自身の過去へつながることも。

 

その隣では、ニナが母親の手を握っていた。

 

エマは戸惑いながらも、その小さな手を握り返している。

 

記憶は戻っていない。

 

二人が積み重ねてきた時間も、失われたままだ。

 

それでも、今この瞬間、母親は少女の手を握っている。

 

新しい記憶は、これからも生まれていく。

 

セレネはその光景を、しばらく黙って見つめていた。

 

彼女には、世界を断ち切る力があった。

 

けれど。

 

たった一人の少女が失った昨日を、取り戻すことはできなかった。




お読みいただき、ありがとうございます。

セレネの旅を、最後まで見届けていただければ幸いです。
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