第一話 母が私を忘れた日
「お母さん、私だよ」
少女は、もう何度目になるかわからない言葉を繰り返した。
「ニナだよ。昨日も一緒にご飯を食べたでしょ?」
灰色の石畳が続く街路の片隅。一人の少女が、母親らしき女性の袖を握りしめていた。
まだ九つほどだろうか。短い栗色の髪に、少し大きすぎる青い肩掛け。片腕には、何度も繕われた布人形を抱えている。
少女の目には涙が浮かんでいた。対する女性は、困惑した表情で少女を見下ろしていた。
「ごめんなさい」
その声は、決して冷たいものではなかった。
むしろ、どうにか少女を傷つけないよう、慎重に言葉を選んでいるようだった。
「あなたの名前は、聞いているわ。ニナちゃん、でしょう?」
「そうだよ! お母さんがつけてくれた名前だもん!」
「ええ……そう、みたいね」
女性は手にした紙へ視線を落とした。
市の役所で発行された、家族関係を証明する書類。そこには確かに、エマ・エルフェンの娘として、ニナ・エルフェンの名前が記されていた。
住んでいる家も同じ。少女の部屋もある。
小さな衣服も、使い古された食器も、壁に刻まれた成長の記録も。すべてが、この少女が自分の娘であると証明している。
それなのに。
「どうしても……思い出せないの」
エマは苦しげに眉を寄せた。
「あなたと過ごした時間が、何一つ……」
「嘘だよ」
ニナの声が震えた。
「昨日、一緒にお買い物したでしょ? 帰りにパン屋さんで、甘いパン買ってくれたでしょ?」
エマは答えなかった。
「私が熱を出したとき、ずっとそばにいてくれたよね?」
「ごめんなさい」
「夜、怖い夢を見たら、一緒に寝てくれたじゃない!」
「……本当に、ごめんなさい」
ニナは唇を噛んだ。
母親が嘘をついているようには見えなかった。それが、何より恐ろしかった。
昨日まで当たり前に名前を呼んでくれた母親が、今日は見知らぬ子どもを見るような目をしている。
声も、手の温もりも、何一つ変わっていないはずなのに。
その瞳の中から、自分だけが消えてしまった。
「私、何か悪いことした?」
「違うわ」
エマは即座に首を振った。
「あなたは何も悪くない。きっと、私がおかしくなってしまったの」
「じゃあ、どうして……」
少女の問いに、答えられる者はいなかった。
周囲には、いつの間にか小さな人だかりができていた。しかし、誰も積極的に声をかけようとはしない。
灰鐘市では近頃、このような事件が珍しくなくなっていたからだ。
昨日まで親しかった友人の名前を忘れる。
長年連れ添った伴侶を、突然他人として認識する。
自分がどこで生まれ、何をして生きてきたのかさえ、わからなくなる。
人々はそれを、ある名前で呼んでいた。
――欠月現象。
原因不明の、記憶を失う怪異。
灰鐘市では有効な治療法が見つかっておらず、一度失われた記憶が完全に戻ったという確かな報告もなかった。
だからこそ、人々は恐れていた。
いつか、自分も大切な誰かを忘れてしまうのではないかと。
あるいは、大切な誰かに、自分だけが忘れられてしまうのではないかと。
「……ひどいものね」
人だかりから少し離れた場所で、一人の女性が呟いた。
*
女性は、灰鐘市の街並みにはひどく不釣り合いな姿をしていた。
腰よりもはるかに長く伸びた白銀の髪。月の光を溶かし込んだような、澄んだ黄金の瞳。
黒を基調に白を配した長いドレスには、控えめな金の装飾が施されている。その手には、先端に三日月を象った黒金の細い杖。
貴族にも見える。高位の魔術師にも見える。
しかし、そのどちらとも異なる、奇妙な静けさをまとっていた。
彼女の名は、セレネ。
五年前、長い眠りから目覚めた女性だった。
それ以前の記憶は、ほとんど残されていない。自分がどこで生まれ、何者として生きてきたのか。なぜ、長い眠りについていたのか。
わからないことばかりだった。
それでも、言葉も、魔術も、戦い方も覚えていた。そして、自分の内に宿る異質な力の扱い方も。
「また、記憶の欠落……」
セレネは小さく息を吐いた。
これまで訪れた街でも、同様の事件を何度か目にしている。だが、その原因はいまだにつかめていない。
彼女は母娘の様子をしばらく観察した後、歩き出した。
周囲の人々が、無意識に道を空ける。セレネはそれを気にする様子もなく、少女の前で足を止めた。
「少し、いいかしら」
ニナが顔を上げる。
黄金の瞳と目が合った瞬間、少女は一瞬だけ泣くことを忘れた。それほどまでに、目の前の女性は美しかった。
けれど、セレネ自身はそんな視線に慣れているのか、特に反応を示さない。
膝を折り、少女と目線の高さを合わせた。
「あなたの名前を、教えてくれる?」
「……ニナ」
「そう。ニナね」
セレネはその名前を一度、確かめるように繰り返した。
「私はセレネ。何があったのか、聞かせてもらえる?」
ニナはしばらく黙っていた。それから、震える声で答えた。
「お母さんが、私のこと忘れちゃったの」
「ええ」
「私、ちゃんとここにいるのに……」
少女は自分の胸に手を当てた。
「消えちゃったわけじゃないのに」
セレネの表情が、ほんのわずかに曇った。
「そうね」
彼女は少女の頭に手を伸ばしかけたが、途中で止めた。
初めて会った相手に、勝手に触れるべきではない。そう判断して、手を下ろす。
「あなたは、ここにいるわ」
「……うん」
「それだけは、間違いない」
ニナは小さく頷いた。
セレネは立ち上がり、今度はエマへ視線を向けた。
「あなたは、いつから記憶を失ったの?」
「今朝です。目が覚めたら、この子が家にいて……」
エマは言葉を詰まらせた。
「娘だって言われても、どうしても思い出せなくて。それで、役所に確かめに行ったんです」
「身体に異常は?」
「ありません。頭痛も、熱も」
「そう」
セレネは顎に手を添えた。
記憶だけが選択的に欠落する現象。それも、特定の人物に関する記憶が、まるごと失われている。
通常の病気とは考えにくい。
魔術的な干渉。あるいは、それに類する何か。
セレネがさらに質問しようとした、そのときだった。
――ゴォン。
街の中央から、低く重い鐘の音が響いた。
灰鐘市の象徴である大鐘楼。長い歴史を持つ巨大な時計塔から、朝の時を告げる鐘が鳴ったのだ。
その瞬間。
「……?」
セレネの黄金の瞳が、わずかに揺れた。
何かが引っかかった。
鐘の音に混じって、耳慣れない響きがあった気がした。
いや。耳で聞いたのではない。
もっと別の、深い場所に触れられたような感覚。
彼女は大鐘楼へ視線を向けた。
灰色の空を背に、古びた時計塔がそびえ立っている。見たところ、何も変わった様子はない。
だが、確かに何かを感じた。
セレネがその違和感を探ろうとした、次の瞬間。
――バキンッ!
すぐ近くで、硬いものが砕ける音が響いた。
「きゃあっ!」
悲鳴が上がる。
街路脇に設置されていた魔術灯が、突然ひび割れた。続いて、建物の壁に埋め込まれていた古い装飾板が、不自然な音を立てて浮き上がる。
まるで、見えない手に引き剥がされるかのように。
「なんだ、あれは……?」
誰かが呟いた。
ひび割れた装飾板が、空中で組み合わさっていく。
石片、金属片、砕けた魔術灯の破片。
それらが人の背丈を超える塊となり、やがて四本の長い腕を持つ異形を形作った。
顔にあたる部分には、文字とも紋様ともつかない線が浮かび上がっている。
そして、その奥から。
『――わた、し……は……』
掠れた声が漏れた。
『……だれ……』
ニナが息を呑む。
周囲の人々が一斉に後ずさった。
「断章獣だ!」
衛兵の一人が叫んだ。
「全員下がれ! 戦闘魔術師を呼べ!」
*
断章獣。
近頃、灰鐘市の各所で目撃されるようになった正体不明の異形。
魔物に似ているが、生物ではない。石や金属、魔術装置の残骸などを取り込み、奇妙な姿を形作る。
そして、その身体からは意味の通らない言葉が聞こえるという。
衛兵たちは素早く陣形を整えた。
「槍隊、前へ!」
「住民を避難させろ!」
重装備の衛兵が盾を構え、後方では二人の魔術師が杖を掲げる。
「炎よ、我が魔力に従え!」
術式が完成し、赤い炎が放たれた。
炎は断章獣の胴体へ直撃する。激しい音とともに、石片が四方へ飛び散った。
「効いたか!?」
しかし次の瞬間、散らばった破片が浮き上がった。
まるで何事もなかったかのように、再び異形の胴体へと集まっていく。
「なんだと……!」
魔術師が目を見開く。
「再生している!?」
「もう一度だ!」
別の魔術師が風の刃を放つ。
断章獣の腕が切断された。だが、腕は地面に落ちる前に動きを変え、再び胴体へ接続される。
『……なま、え……』
異形の顔に浮かぶ紋様が、不規則に明滅した。
『……わたし、の……』
次の瞬間、四本の腕が一斉に振り下ろされた。
「避けろ!」
衛兵たちが盾を構える。
凄まじい衝撃が石畳を砕いた。数人が吹き飛ばされ、周囲の建物の壁に亀裂が走る。
人々は悲鳴を上げながら逃げ惑った。
その混乱の中で、ニナが転んだ。
「あっ!」
小さな身体が石畳に倒れる。
抱えていた布人形が、少し離れた場所まで転がっていった。
「ニナちゃん!」
エマが振り返った。
記憶はない。目の前の少女が、なぜ自分を母親と呼ぶのかも理解できない。
それでも、危険な場所に取り残された子どもを、見捨てることはできなかった。
エマは引き返し、少女を抱き寄せる。
しかし、遅かった。
断章獣が二人へ向き直る。巨大な腕が持ち上がり、鋭い破片の先端が母娘を捉えた。
「逃げろ!」
衛兵の叫びが響く。
だが、エマは動けない。ニナを抱きしめたまま、ただ目を閉じた。
――ガキン。
乾いた音がした。
それだけだった。
衝撃は来ない。痛みもない。
恐る恐る目を開けたエマは、目の前の光景に息を呑んだ。
巨大な腕が、自分たちのすぐ手前で止まっていた。
何かにぶつかったように。しかし、そこには壁も盾もない。
何もない空間で、鋭い腕が完全に静止している。
「……え?」
その前に、一人の女性が立っていた。
長い白銀の髪が、風に揺れている。黒いドレスの裾が、砕けた石畳の上で翻った。
セレネだった。
彼女は母娘の前へ移動すると同時に、自身の周囲に形成していた不可視の境界を広げていた。
振り下ろされた腕は、その境界の手前で停止している。
何かに衝突したのではない。
それ以上、近づくことのできる空間が存在しなかった。
「……まったく」
セレネは軽く息を吐いた。
「人が話している最中に、随分と騒がしいわね」
*
断章獣が腕を動かした。
だが、動かない。
力を込めても、押し込んでも、セレネと母娘の間には一切届かない。
「何をしている……?」
倒れていた衛兵の一人が呟いた。
彼には理解できなかった。
防御魔術なら、通常は魔力によって形成された障壁が見える。高度な結界であっても、魔力の流れを感知できる。
しかし、目の前の女性からは、そのどちらも感じられない。
ただ、そこから先へ進めない。
それだけだった。
セレネは断章獣を見上げた。
「生き物……ではなさそうね」
異形の身体を構成する石や金属を、黄金の瞳が観察する。
魔力の流れはある。しかし、核らしきものは見当たらない。
通常の使い魔とも、召喚獣とも異なる構造。
「面倒なものを作ったわね」
断章獣の口にあたる部分が開いた。
『――わす、れ……』
次の瞬間、四本の腕が再び動き出した。
前方、側面、背後。
逃げ道を塞ぐように、異なる方向からセレネへと襲いかかる。
その動きは、人間の反応速度をはるかに超えていた。
だが、セレネは一歩も動かなかった。
「月界」
小さな呟き。
それだけで、四本の腕が空中に縫い止められた。
障壁は見えない。魔力の流れすら感じられない。
ただ、そこから先へ進むための道だけが、失われていた。
「ば、馬鹿な……」
衛兵の一人が声を漏らす。
セレネは気に留めない。
彼女にとって、月界の維持に意識を割く必要すらなかった。
月律。
空間の位置、接続、境界を支配する権能。
通常の魔術とは根本的に異なる、世界の法則への直接的な干渉。
しかし、その事実を理解できる者は、周囲には一人もいなかった。
「もういいわ」
セレネは黒金の杖をわずかに持ち上げた。
先端の三日月が、淡い銀色を帯びる。
「月断」
音はなかった。
轟音も、閃光もない。ただ、断章獣の胴体を横切るように、一本の細い線が現れた。
次の瞬間、異形の上半身が滑るようにずれた。
巨大な身体が二つに分かれる。その切断面は、異様なほど滑らかだった。
だが、それだけでは終わらない。
セレネは断章獣を構成する破片を見つめ、わずかに杖を傾けた。
再び組み合わさろうとした石片が、空中で静止する。
金属片も、魔術装置の残骸も。
それぞれの間にあった空間の接続が、次々と断ち切られていく。
どれほど引き寄せ合おうとも、互いに届くことはない。
『……な、ま……』
声が途切れた。
そして異形は、無数の破片となって石畳へ崩れ落ちた。
戦闘は終わった。
あまりにも、あっけなく。
「…………」
衛兵たちは、誰一人として声を発せなかった。
自分たちと二人の戦闘魔術師が総力を挙げても倒せなかった異形。
それを、目の前の女性はほとんど動くことなく無力化した。
しかも、周囲の建物にはそれ以上の被害がない。
地面に転がった破片は、もはや動く気配すら見せなかった。
「何者なんだ、あの女は……」
誰かが、かすれた声で呟いた。
セレネはその問いに答えなかった。彼女は杖を下ろすと、母娘へ振り返る。
「怪我はない?」
「は、はい……」
エマは震える声で答えた。ニナも小さく頷く。
「そう。ならよかったわ」
セレネは周囲を見渡した。
少し離れた場所で、数人の衛兵が倒れている。二人は腕を押さえ、一人は苦しげに呼吸していた。
彼女はそちらへ歩み寄る。
「……そこのあなた」
「は、はい!」
近くにいた衛兵が慌てて姿勢を正す。
「負傷者を動かさないで。治療するわ」
「え?」
セレネは返答を待たずに杖を掲げた。
「白癒」
淡い銀白色の光が、負傷した衛兵たちの身体を包む。
腕から流れていた血が止まり、浅い傷がゆっくりと塞がっていく。呼吸を乱していた衛兵の表情も、次第に落ち着きを取り戻した。
ただし、深い損傷まで完全に治ったわけではない。
「応急処置だけよ。骨や内臓の損傷が残っている可能性もあるわ。診療所で詳しく診てもらいなさい」
「は、はい……! ありがとうございます!」
「礼は必要ないわ。それより、逃げ遅れた人がいないか確認して」
「承知しました!」
衛兵は慌ただしく駆け出した。
セレネはそれを見届けると、再び母娘のもとへ戻った。
彼女にとって、異形の討伐も負傷者の治療も、特別なことではない。
できるから、行った。
それだけのことだった。
しかし、周囲の人々にとっては違った。
自分たちでは到底及ばない魔術を、まるで呼吸をするように扱う女性。
それも、一切の詠唱を必要とせず、正体不明の異形を瞬時に制圧した。
誰かが囁く。
「……権能者?」
その言葉を聞き、別の衛兵が表情を強張らせた。
権能。
世界の根本法則へ直接干渉する、異質な力。
ごく限られた者にしか宿らない、神話にも近い能力。
そして目の前の女性が使ったものは、彼らの知るどの権能とも異なっていた。
一人の衛兵が、彼女の長い白銀の髪と黄金の瞳を見つめる。
やがて、その顔から血の気が引いた。
「まさか……」
彼は何かを言いかけた。
だが、言葉は続かなかった。
セレネは、その視線に気づいてすらいないようだった。
*
「お母さん」
ニナが、小さく呼びかけた。
エマは少女へ視線を落とす。
「……ええ」
少女は、少しだけ期待を込めて尋ねた。
「今、私のこと、助けてくれたよね?」
「そうね」
「じゃあ……」
ニナは両手を胸の前で握りしめた。
「思い出した?」
エマの表情が固まった。
答えはなかった。その沈黙だけで、十分だった。
「……そっか」
ニナは無理に笑おうとした。けれど、うまくいかなかった。
「やっぱり、まだ覚えてないんだね」
「ごめんなさい」
エマの目にも涙が浮かんだ。
少女を助けたのは、目の前で子どもが襲われていたからだ。見捨てることなど、できなかったから。
だが、それは娘を思い出したからではない。
危険が去っても、その事実は変わらなかった。
ニナは俯いた。
セレネは、そんな二人を見つめていた。
巨大な異形を打ち倒したばかりの手。
世界の空間を切り離すことすらできる力。
その力を使えば、軍勢を退けることも、城壁を断ち切ることもできる。
だが、目の前の母親が失った昨日を、今すぐ取り戻すことはできない。
セレネには、記憶の痕跡へ触れる力もある。しかし、それは失われたものを無条件に取り戻す奇跡ではなかった。
何が起きたのかも、記憶がどこへ失われたのかもわからない。
この状態で無理に干渉すれば、残されている記憶まで傷つける可能性がある。
ならば、まず原因を調べるべきだ。
セレネはそう結論づけた。
「ニナ」
少女が顔を上げる。
「少し、話をしてもいいかしら」
「……うん」
「あなたのお母さんは、あなたを覚えていないのね」
「うん」
「でも、あなたがいなくなったわけではない」
ニナは黙っていた。
「今日、ここであなたが話したことも、泣いたことも、全部あったことよ」
セレネは言葉を続けた。
「誰かに忘れられたからといって、あなたが生きてきた時間まで、なかったことになるわけじゃない」
ニナはしばらく黙っていた。
そして、ぽつりと呟いた。
「でも」
「ええ」
「お母さんには、覚えててほしかった」
その言葉に、セレネは答えられなかった。
どれほど正しい言葉を並べても、少女の願いそのものを叶えることはできない。
それを理解してしまったからだ。
「……そうね」
セレネは頷いた。
「そうよね」
そのとき、ニナはふと、セレネの手元にある杖を見つめた。
「お姉さん」
「何かしら」
「さっきの、すごかった」
「そう?」
「あの怖いの、あっという間にやっつけちゃった」
「ええ」
「魔術師さんたちでも倒せなかったのに」
ニナの瞳に、わずかな希望が戻った。
「お姉さん、すごく強いんだね」
セレネは答えなかった。ただ、少女の言葉を聞いていた。
「だったら……」
ニナは一歩、近づいた。
その小さな手が、セレネのドレスの裾を握る。
「お姉さんは、お母さんの思い出も元に戻せる?」
風が吹いた。
白銀の長い髪が揺れる。
セレネは、少女のごく普通の茶色い瞳を見つめた。
期待と不安が入り混じった、祈るような眼差し。
その願いがどれほど切実なものなのか、彼女にもわかっていた。
けれど。
「……今は、できないわ」
セレネは嘘をつかなかった。
ニナの指先が、わずかに緩んだ。
「そっか……」
「でも」
セレネは言葉を続けた。
「できない理由を、調べることはできる」
ニナが顔を上げる。
「本当?」
「ええ」
「そしたら、いつか……?」
「約束はできないわ」
セレネは少しだけ目を伏せた。
「取り戻せないものも、この世界にはあるから」
少女の表情が曇る。
それでも、セレネは言葉を取り消さなかった。叶えられるかわからない願いを、軽々しく約束することはできない。
「でも、何もせずに諦めるつもりもない」
セレネはそう告げた。
「あなたのお母さんに何が起きたのか。どうして記憶を失ったのか。それを調べるわ」
ニナは、しばらく彼女を見つめていた。
そして、小さく頷く。
「ありがとう、セレネお姉さん」
セレネは微かに目を細めた。
「どういたしまして」
それから、少女の後ろに立つエマへ視線を向ける。
「診療所へ案内してもらえるかしら。最近、同じような症状の人が増えていると聞いたの」
エマは驚いたように目を瞬かせた。
「ええ、もちろんです。私も、これから診てもらおうと思っていたので」
「そう。なら、一緒に行きましょう」
セレネは歩き出した。
その背後で、先ほどまで戦闘を見守っていた衛兵たちが、慌てて道を空ける。
彼女は気に留めない。
ニナが小走りで隣へ並んだ。
「ねえ、セレネお姉さん」
「何?」
「お姉さんは、私の名前、覚えてる?」
セレネは足を止めた。
ほんの一瞬だけ。
その問いが、胸の奥に奇妙な感覚を残した。
どこかで、遠い昔、同じようなことを聞かれた気がする。
けれど、思い出せない。
白い宮殿。
月明かり。
誰かの笑い声。
輪郭のない記憶が、意識の底をかすめて消えた。
「……ええ」
セレネは少女へ視線を戻した。
「ニナ・エルフェン」
先ほど書類で確かめた、その名前。
一文字ずつ、忘れないように口にする。
「覚えているわ」
少女は、ようやく少しだけ笑った。
「よかった」
その笑顔を見て、セレネもほんのわずかに表情を和らげた。
――ゴォン。
再び、大鐘楼の音が響いた。
セレネは足を止める。
先ほど時を告げたばかりの鐘が、また鳴っている。周囲の人々も、不思議そうに時計塔を見上げていた。
「……おかしいな」
近くの商人が呟いた。
「まだ次の時刻じゃないはずだが……」
セレネは黄金の瞳を細めた。
「今のは、時報ではないわね」
灰色の空へ伸びる、古い石造りの時計塔。
その鐘の音には、やはり何かが混じっている。
空気を震わせる音とは別の、目には見えない何か。
まるで、遠く離れた場所から、誰かが彼女へ触れようとしているかのようだった。
セレネは杖の先端へ視線を落とす。
三日月の装飾が、ほんの一瞬だけ淡く輝いた。
「……嫌な音ね」
誰にも聞こえないほど小さく、彼女は呟いた。
鐘の音が止む。
街には再び、人々のざわめきが戻ってきた。
倒れた衛兵を運ぶ者。砕けた石畳を片づける者。異形の残骸を遠巻きに眺める者。
つい先ほどまで命の危険にさらされていたというのに、人々はもう日常を取り戻そうとしていた。
セレネはそれを見つめ、ゆっくりと歩き出す。
この街で何が失われているのか。
誰が、何のために記憶を奪っているのか。
まだ、彼女は知らない。
そして、失われた記憶を追うこの旅が、やがて自分自身の過去へつながることも。
その隣では、ニナが母親の手を握っていた。
エマは戸惑いながらも、その小さな手を握り返している。
記憶は戻っていない。
二人が積み重ねてきた時間も、失われたままだ。
それでも、今この瞬間、母親は少女の手を握っている。
新しい記憶は、これからも生まれていく。
セレネはその光景を、しばらく黙って見つめていた。
彼女には、世界を断ち切る力があった。
けれど。
たった一人の少女が失った昨日を、取り戻すことはできなかった。
お読みいただき、ありがとうございます。
セレネの旅を、最後まで見届けていただければ幸いです。