月は、失われた名を憶えている   作:ノイリ

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第10話 道の尽きる場所

朝の灰鐘市には、穏やかな陽光が差し込んでいた。

 

一昨日の雨で濡れていた石畳はすっかり乾き、通りには荷馬車の車輪が軋む音が響いている。北門へ向かう人々の姿も多く、街はいつもどおりの賑わいを見せていた。

 

セレネが記録院に到着すると、ミラは閲覧室の机に数枚の書類を並べていた。その横には北西の丘陵地帯を描いた地図と、昨日整理した測量記録が置かれている。

 

「おはようございます、セレネさん」

「おはよう、ミラ。今日は随分と準備がいいのね」

「ええ。実は、今朝になって道路管理所から連絡があったんです」

 

ミラは一枚の書類を差し出した。

 

「北西の旧街道について、限定的な現地調査の許可が下りました」

「……本当?」

「はい。道路管理所の職員が同行することを条件に、地表に残された遺構の確認と測量が認められました」

 

セレネは書類を受け取り、内容を確かめた。

 

許可された調査範囲は、現在確認されている古い石畳と、その周辺に限られていた。地面を掘り返すことや、石材を動かすことは禁止されており、未知の構造を作動させるような行為も調査内容には含まれていない。

 

「それなら、道の終点までは調べられるのかしら」

「地形によりますね。崩落している場所や危険な斜面があれば、そこから先は立ち入れないそうです」

「そう。無理をする必要はないわね」

 

ミラは頷き、机の上の地図を広げた。

 

「それと、昨日の測量記録も、もう一度まとめておきました」

 

地図の横には、三つの地点と対応する測量時の記録が書き並べられている。

 

最も古い地図に対応する北方中央の測量には、半月。

 

中期の地図に対応する北東の測量には、満月。

 

そして、確認できた中で最も新しい地図に対応する北西の測量には、欠月と記されていた。

 

さらに北西の同じ測量地点については、それより前に行われた別の測量記録も見つかっている。半月の日には『照応不成立。経路継続記録なし。』と書かれ、後の欠月の日には『接続確認。経路終端を記録。』と残されていた。

 

「今日は、この北西の場所を調べるのね」

「はい。まずは古い地図に描かれた道と、現在残っている石畳が同じものなのかを確かめます」

 

ミラは手帳を開いた。

 

「それと、今回の調査では日時と天象についても記録しようと思います」

「今日の月は、どうなっているの?」

「現代の暦では、半月に分類されています。ただし、古い測量記録の半月と同じ基準なのかは、まだ確認できていません」

 

セレネは北西の測量記録に目を落とした。

 

同じ場所で、異なる月相の日に異なる結果が残されている。しかし、何をもって照応の成立や接続確認と判断したのかは、わかっていなかった。

 

「……今日は、古い記録では照応が成立しなかった月相に当たるのね」

 

セレネが言うと、ミラは頷いた。

 

「現代の暦で比較する限りは、そうなります。でも、今日も同じ結果になるとは限りません」

「ええ。それに、私たちは照応を確認する方法さえ知らないものね」

「はい。今日は、遺構の状態を調べることに集中しましょう」

 

セレネは静かに頷いた。

 

昨日まで、月門という言葉は古い地図と記録の中にしか存在していなかった。もし現地に何かが残されていれば、当時の測量者たちが何を記録しようとしていたのか、考えるための材料が増えるかもしれない。

 

「行きましょう、ミラ」

 

セレネは地図を畳んだ。

 

「記録だけでは、わからないこともあるものね」

 

*

 

北門を出ると、街の喧騒は少しずつ遠ざかっていった。

 

広い街道の両側には低い草原が続き、その先には緩やかな丘が連なっている。遠くに小さな農家が見えるものの、灰鐘市の城壁を離れるにつれて、人の姿はまばらになっていった。

 

二人に同行するのは、道路管理所の職員だった。以前、北門で旧街道について説明してくれた人物で、周辺の地形にも詳しいという。

 

「目的の石畳は、現在の街道から少し外れた場所にあります」

 

職員は地図を確認しながら説明した。

 

「昔は北西の丘陵を抜ける道が幾つかあったようですが、今ではほとんど使われていません」

「どうして使われなくなったんですか?」

 

ミラが尋ねる。

 

「詳しい事情まではわかりません。ただ、現在の街道が整備されてからは、旧道を利用する人が減ったと考えられています」

 

職員は前方の丘を指さした。

 

「あの林の向こうに、古い石畳が残っています」

 

セレネは示された方角を見つめた。

 

緑に覆われた丘の中腹には、細い林が広がっている。遠目には、そこに道があるとは思えなかった。

 

「かなり長い間、使われていないのね」

「ええ。現在は定期的な補修の対象にもなっていません。ただし、いつ管理から外されたのかは、詳しく調べる必要があります」

 

セレネは頷いた。

 

約百年前に補修対象から外されたと記録されている旧月環道。それが、これから向かう石畳と同じ道だったのかは、まだ確認されていない。

 

三人は街道を離れ、草の生い茂る緩やかな斜面を登り始めた。

 

足元の土はところどころ柔らかく、一昨日の雨の名残が残っている。セレネは長いドレスの裾を少し持ち上げ、石や木の根に足を取られないよう注意して歩いた。

 

しばらく進むと、林の中に細い空間が現れた。

 

木々の間を縫うように、古い石畳が続いている。

 

「……これが、旧街道?」

 

セレネが足を止めた。

 

石畳は土や苔に覆われ、ところどころで草が隙間から伸びていた。それでも、石材が規則正しく並べられていたことは見て取れる。

 

「そうです。現在確認されている範囲では、ここが比較的状態のよい部分になります」

 

職員が答えた。

 

ミラは鞄から地図の写しを取り出した。

 

「……方角は、おおむね一致していますね」

 

古い地図に描かれた北西の道は、灰鐘市から丘陵地帯へ向かって伸びている。ただし、古い地図の縮尺や測量精度は現在のものと異なるため、方角が近いというだけでは同じ道と判断できなかった。

 

「もう少し進んでみましょう」

 

ミラの言葉に、セレネは頷いた。

 

三人は職員の案内に従い、古い石畳に沿って歩き始めた。

 

*

 

林の中は、外よりも静かだった。

 

風が枝葉を揺らし、ときおり鳥の鳴き声が聞こえてくる。木々の隙間から差し込む光が、苔むした石畳の上にまだらな模様を描いていた。

 

道幅は、二人が並んで歩ける程度だった。

 

石材の大きさには多少の違いがあるものの、敷き方はおおむね統一されている。自然にできた獣道ではなく、人の手によって整備された道であることは明らかだった。

 

ミラはところどころで立ち止まり、道幅や方角を記録していた。調査を始めた時刻と天候も手帳に書き加え、月相については現代の暦による分類であることを明記する。

 

「……これで、昔の測量記録と比較するための情報が増えますね」

 

ミラが言った。

 

「月は見えないけれど、それでもいいの?」

「実際に月を観測したわけではありませんから、観測結果としては書けません。今日は暦上の半月として記録します」

「……なるほど。何を確認したのか、分けておく必要があるのね」

 

セレネは頷いた。

 

古い測量者たちも、当時の空の状態を記録していた。しかし、彼らがどのような基準で半月や欠月を分類し、何をもって照応の成否を判断していたのかは不明だった。

 

さらに進むと、石畳の状態が少しずつ悪くなっていった。

 

木の根が石材を押し上げ、地面が盛り上がっている場所もある。ところどころで道の一部が失われていたが、残された石の並びから、おおよその進行方向は確認できた。

 

やがて林が途切れ、視界が開けた。

 

そこには、木々に囲まれた小さな平地があった。

 

「……ここですね」

 

先頭を歩いていた職員が足を止めた。

 

「現在確認されている石畳は、この先で終わっています」

 

セレネは前方を見つめた。

 

道は平地の中央へ向かって、まっすぐに伸びている。そして、その先で石畳が突然途切れていた。

 

地面が大きく崩落しているわけではない。巨大な岩や倒木に塞がれているわけでもなかった。

 

ただ、そこから先には草に覆われた地面が広がり、石畳の続きは見当たらない。

 

「……本当に、途中で終わっているのね」

 

セレネは静かに呟いた。

 

ミラは古い地図と周囲の地形を見比べた。

 

「地図に描かれていた終点と、位置が近いように見えます」

「完全に一致しているのかしら」

「まだわかりません。現在の位置を詳しく記録して、地図の基準になる地形と照合する必要があります」

 

職員は二人の会話を聞きながら、石畳の終点へ目を向けた。

 

「この場所には、以前から少し変わった石があるんです」

「……変わった石?」

 

ミラが尋ねると、職員は道の先を指さした。

 

「ほら、あそこです。左右に大きな石があるでしょう」

 

セレネは視線を向けた。

 

確かに、石畳が途切れる場所の両側には、低い石材が一つずつ残されていた。周囲の石畳よりも大きく、地面に深く埋め込まれているように見える。

 

「……道の一部なのかしら」

 

セレネが尋ねると、職員は首を傾げた。

 

「詳しく調べられたことはありません。ただ、自然に転がってきた石には見えませんね」

 

ミラは慎重に近づき、石材の形を確認した。

 

「二つとも、上面が平らに加工されています」

 

セレネも隣に立った。

 

左右の石材は、ほぼ同じ高さだった。互いに向かい合う位置にあり、その間には石畳の終点がある。

 

「……何かを支えていたのかもしれないわね」

「柱の基礎でしょうか」

「可能性はあるわ。でも、上に何があったのかまではわからないわね」

 

ミラは石材の配置を紙に描き始めた。

 

セレネはその間、周囲を見渡した。

 

林の中から続く古い道は、二つの石材の間へ向かっている。しかし、その先には建物の跡も、道が続いていたことを示す明確な痕跡も見当たらなかった。

 

かつて、そこに何かが建っていたのだろうか。

 

あるいは、今も残されている二つの石材が、道の終点を示すために置かれたものだったのだろうか。

 

まだ、判断するための材料は足りなかった。

 

*

 

左右の石材を調べていると、ミラが右側の石を指さした。

 

「セレネさん。こちらを見てください」

 

石材の側面には苔が広がっていたが、その下に細い線のようなものが見えている。自然に生じた割れ目とは異なり、緩やかな曲線を描いているようだった。

 

「……何か刻まれているの?」

 

セレネが身を屈めた。

 

ミラは職員に確認し、表面を傷つけないよう斜めから光を当ててもらった。苔を削ったり石材を動かしたりすることなく、見えている範囲の線を確かめていく。

 

すると、石材の側面に刻まれた模様が、少しずつ浮かび上がってきた。

 

円の一部を思わせる細い線。

 

その内側に、欠けた月のような弧がある。

 

「……三日月」

 

セレネの声が小さくなった。

 

大鐘楼の地下で見た鉄扉の紋様と、よく似ていた。

 

ただし、今回の紋様は比較的単純な構成だった。長い年月によって線の一部は摩耗していたが、残された部分だけでも、おおよその形を確かめることができる。

 

「……地図の印にも似ていますね」

 

ミラは写しを取り出した。

 

古い地図には、道の終点付近に小さな弧状の印が描かれている。その印と、目の前の石材に刻まれた模様には、共通する特徴があった。

 

「……同じ種類の記号なのかもしれないわね」

 

セレネが言った。

 

「はい。ただ、細部までは一致していませんし、地図の印がこの石を示していたとまでは断定できません」

 

ミラは慎重に答えた。

 

それでも、古地図の候補地と考えられる場所で、似た形の紋様を持つ遺構が見つかったことは重要だった。

 

ミラは線の位置を記録し、測定できる部分について寸法を書き添えていく。

 

セレネは、その隣で紋様を見つめていた。

 

三日月の周囲には、細い線がいくつか刻まれている。しかし、その配置は鐘楼地下の鉄扉に残されていたものとは違っていた。

 

「……やっぱり、少し違うわね」

 

セレネが呟いた。

 

「何がですか?」

「鐘楼で見た紋様と比べると、こちらの方が線の数が少ないの」

「そうですね。鐘楼の方は、三日月の周囲にもっと細かい線がありました」

 

ミラは二つの写しを見比べた。

 

「簡略化された印なのかもしれません。でも、別の意味を持つ紋様だった可能性もありますね」

「ええ。正確に比較するには、鐘楼の方も測り直す必要があるわ」

 

セレネは石材へ視線を戻した。

 

すると、紋様のすぐ下に、さらに小さな刻みがあることに気づいた。

 

それは曲線ではなく、短い線が幾つも組み合わされた形だった。

 

「……ミラ。ここにも何か書かれているわ」

 

セレネが指さすと、ミラは身を乗り出した。

 

「……文字でしょうか」

「ええ。かなり摩耗しているけれど、読める部分があるかもしれないわ」

 

セレネは文字を一つずつ追った。

 

現在の灰鐘市では、ほとんど使われなくなった古い形式の文字だった。ルナリアの紙片や、古い地図の余白を調べたときにも見た書体と似ている。

 

だが、文字の形が似ているからといって、同じ時代に刻まれたとは限らない。

 

セレネは慎重に線を確かめた。

 

最初の二文字が、比較的はっきりと残されている。

 

――欠月。

 

「……欠月」

 

彼女は静かに読み上げた。

 

ミラが顔を上げる。

 

「欠月、ですか?」

「ええ。少なくとも、この二文字はそう読めるわ」

 

ミラはすぐに手帳を開いた。

 

北西の旧街道に対応する測量記録には、欠月の日に接続を確認したと書かれている。一方、それ以前の半月の日の記録には、照応不成立という判断が残されていた。

 

その候補地である石材に、欠月という文字が刻まれている。

 

「……偶然に同じ言葉が残っていたとは、少し考えにくいですね」

 

ミラが呟いた。

 

「ええ。少なくとも、この石材に欠月という言葉が刻まれていることは確かだわ」

 

セレネは頷いた。

 

ただし、文字が刻まれた時代はまだわからない。測量記録の月相と同じ意味で使われていたのか、あるいは別の用途を持つ言葉だったのかも不明だった。

 

それでも、北西の遺構と欠月という言葉を結びつける、新しい手掛かりが見つかったことになる。

 

「……その下にも、何かあるわね」

 

セレネは目を凝らした。

 

しかし、下の文字は摩耗が激しく、続きの文章を読み取ることが難しかった。

 

かろうじて判読できるのは、離れた位置に残る二つの語だった。

 

『照応』

 

そして、

 

『待て』

 

「……照応を待て、と書かれていたのかしら」

 

ミラが尋ねると、セレネは首を横に振った。

 

「そう読める可能性はあるわ。でも、二つの言葉の間が失われているから、正確な文章はわからないの」

 

セレネは続けた。

 

「間に別の言葉が入っていたかもしれないし、文章そのものが違う意味だった可能性もあるわ」

「……それなら、読めたところだけ記録しましょう」

 

ミラは頷いた。

 

彼女は石材の見取り図に、文字の位置を記した。

 

『欠月』

 

『照応』

 

『待て』

 

それぞれの間には、判読できない部分があることも書き添えた。

 

セレネは記録を確認し、静かに頷いた。

 

文字は残っている。

 

けれど、その文字だけでは、かつて何が行われていたのかまではわからなかった。

 

*

 

昼を過ぎる頃、三人は石畳の終点を中心に、さらに詳しい調査を進めていた。

 

左右の石材は一定の間隔を置いて向かい合い、どちらも地面から大きく動いたようには見えなかった。上面には浅い窪みがあり、かつて何かを据えていた可能性が考えられる。

 

「……門柱を支えていた跡でしょうか」

 

ミラが尋ねると、職員は石材を見下ろした。

 

「構造だけなら、そういう見方もできます。ただ、柱そのものは残っていませんし、窪みが別の目的で作られた可能性もあります」

 

セレネは二つの石材の間へ目を向けた。

 

そこには、周囲の石畳とは異なる、一枚の細長い石材が敷かれていた。左右の大きな石を繋ぐように、道を横切っている。

 

「……敷居のようにも見えるわね」

 

セレネが言うと、ミラは頷いた。

 

「もし左右に柱が立っていたなら、その間に門を設けることもできそうです」

「ええ。ただ、門以外の構造だった可能性も残しておきましょう」

 

セレネは石の向こう側を見つめた。

 

そこには低い草が生い茂り、その先には緩やかな斜面が続いている。少なくとも目視できる範囲には、建物や石畳の続きを示す明確な痕跡はなかった。

 

「……不思議ね」

 

セレネが呟いた。

 

「何がですか?」

「もしここに門があったのなら、その先に何があったのかしら」

 

ミラも同じ方向へ視線を向けた。

 

「普通の街道なら、門を越えた先にも道があるはずですね」

「ええ。でも、今は草に覆われた地面が広がっているだけだわ」

 

セレネは敷居に似た石を見下ろした。

 

道の終点に残された、門状の配置。

 

そこに刻まれた三日月の紋様。

 

そして、欠月と読める文字。

 

どれも、昨日まで調べていた記録と重なる部分があった。

 

「……ミラ。昨日見つかった測量に関する文章を覚えている?」

 

セレネが尋ねた。

 

「はい。照応の成立を確認しなければ、経路の続きを記してはいけない、という記述でしたね」

「ええ。もし、この場所にも同じ決まりが適用されていたとしたら……」

 

セレネは石材の向こう側へ視線を向けた。

 

「当時の測量者たちは、ここから先に何らかの接続があるかどうかを確かめようとしていたのかもしれないわね」

 

ミラは少し考えた。

 

「……あり得ると思います。ただ、あの文章がこの道について書かれたものかどうかは、まだわかりません」

「そうね。それに、接続という言葉が何を意味していたのかも不明だわ」

 

セレネは静かに頷いた。

 

今日の調査でわかったのは、古い石畳の終点に人工的な石造りの遺構が残されていることだった。その配置は門の基礎にも見えるが、実際にどのような構造物が存在したのかは確定できない。

 

まして、空間を繋ぐような仕組みがあったかどうかは、まだ何も確認されていなかった。

 

「……今日の月相は、暦では半月でしたね」

 

ミラが手帳を確認した。

 

「ええ」

「古い北西の記録では、半月の日に照応不成立と書かれています。でも、今日の調査と同じ条件だったとは言えません」

 

セレネは頷いた。

 

「私たちは、照応を確かめる方法を知らないもの。何も見つからなかったとしても、昔の人たちと同じ結果を得たことにはならないわね」

 

セレネは二つの基礎石の間を見つめた。

 

もし、この場所に通常とは異なる空間の境界が残されているのなら。

 

月律を使えば、その状態を探ることができるかもしれない。

 

そう考えた瞬間、彼女の右手がわずかに動いた。

 

セレネの持つ月律は、距離や位置、空間の境界に干渉する権能だった。目の前の構造に未知の接続が存在しているなら、何らかの反応を確かめられる可能性はある。

 

しかし、未知の構造に干渉したとき、何が起きるのかはわからない。

 

「……セレネさん?」

 

ミラが声をかけた。

 

「何か気になることが?」

 

セレネは右手を下ろした。

 

「月律を使えば、この場所の境界について何かわかるかもしれないと思ったの」

「……月律を?」

「ええ。でも、今は使わないわ」

 

ミラは石材の間へ視線を向けた。

 

「……危険だからですか?」

「それもあるわ。仮に未知の接続が残っていたとしても、どこへ続くのかわからないもの」

 

セレネは静かに続けた。

 

「それに、月律で空間へ干渉できたとしても、古い照応機構を正しく動かせるとは限らないわ」

「……そうですね。仕組みを知らないまま触れるべきではないと思います」

 

セレネは頷いた。

 

空間に干渉できることと、そこに存在するかもしれない仕組みを理解していることは別だった。

 

それに、今回認められたのは遺構の確認と測量である。未知の機構を動かすための調査ではなかった。

 

「……今日は、見えるものを確かめるだけにしましょう」

 

セレネが言った。

 

「はい。その方がいいと思います」

 

ミラは手帳を閉じた。

 

道路管理所の職員も、二人の判断に頷いた。

 

「詳しい構造を調べるのであれば、別の調査計画が必要になるでしょう。地中に何が残っているかもわかりませんから、今日はここまでにしておいた方が安全です」

 

三人は石材の位置と周囲の状態を記録し、調査を終えることにした。

 

*

 

帰路につく前、セレネはもう一度、石畳の終点へ目を向けた。

 

左右の基礎石は、静かに向かい合っている。その間には敷居のような平たい石が残されていたが、かつて上部に何があったのかを示すものは見当たらなかった。

 

セレネは右側の石材に刻まれた紋様を見つめた。

 

三日月に似た印。

 

その下に残された欠月という文字。

 

そして、途中で失われた文章。

 

これらが何を意味していたのかは、今もわからない。

 

ふと、月蝶を使うことが頭を過ぎった。

 

失われた記憶の痕跡を探る、彼女の力。

 

月律のように空間の位置や接続へ直接干渉するものではない。過去には、残された痕跡を読み取るために使用したこともあった。

 

しかし、月蝶なら未知の遺構に影響を与えないとは限らなかった。

 

大鐘楼の地下では、鉄扉の前で伸ばした感覚が遮られるような経験をしている。ルナリアの紙片に使用した際には、白い回廊と人物の断片的な光景が現れた。

 

同じ月蝶であっても、対象によって反応は異なっていた。

 

まして、ここにはどのような仕組みが残されているのかもわからない。

 

セレネは指先を見つめ、静かに手を下ろした。

 

「……セレネさん?」

 

ミラが声をかけた。

 

「どうしました?」

「少し、月蝶のことを考えていたの」

「……この場所で使うつもりだったんですか?」

 

セレネは小さく首を横に振った。

 

「使えば何か読み取れるかもしれない、とは思ったわ。でも、安全だと確かめられていないもの」

「そうですね。鐘楼の地下でも、予想しなかった反応がありましたし」

「ええ。それに、今日は魔術による調査の許可も取っていないわ」

 

ミラは頷いた。

 

「では、改めて調査方法を考える必要がありますね」

「そうね。でも、今すぐ使わなくても、調べられることはまだあるわ」

 

セレネは石材へ視線を戻した。

 

今日、月律も月蝶も使っていない。

 

それでも、古い記録と現地の遺構を比較することで、新しい手掛かりが見つかった。

 

「……不思議なものね」

 

セレネが呟いた。

 

「何がですか?」

「今日は、魔術を使わずにここまで調べられたでしょう。少し前の私なら、まず月蝶を試そうとしていたかもしれないわ」

 

ミラは少し考え、微笑んだ。

 

「記録や遺構からわかることも、たくさんありますから」

「……ええ。あなたと調べるようになって、それを実感しているわ」

 

セレネはもう一度、古い石畳の終点を見つめた。

 

月門。

 

その言葉が、本当にこの場所を指していたのかは、まだ確定していない。

 

けれど、月門と関係しているかもしれない石造りの遺構が、実際に残されていることは確かだった。

 

記録の中にしかなかった手掛かりが、目の前の風景と重なった。

 

それだけでも、今日ここへ来た意味はあった。

 

「……戻りましょうか」

 

ミラが言った。

 

セレネは静かに頷き、石畳に背を向けた。

 

*

 

灰鐘市へ戻った頃には、空が夕暮れの色に染まり始めていた。

 

北門を通り抜けると、街の賑わいが戻ってくる。商人たちが店先を片づけ、通りには仕事を終えた人々の姿が増えていた。

 

セレネとミラは道路管理所の職員に礼を述べ、記録院へ戻った。

 

閲覧室の机には、北西の旧街道を描いた地図と、現地で書き留めた測量記録が並べられている。ミラはまず、調査許可の範囲内で何を確認したのかを整理した。

 

「……道の位置については、おおむね一致していましたね」

 

ミラが言った。

 

「ええ。古い地図に描かれた終点の候補地で、実際に石造りの遺構が見つかったわ」

「それに、三日月に似た紋様と、欠月という文字も確認できました」

 

ミラは現地の見取り図を広げた。

 

左右に向かい合う二つの大きな石材。その間には敷居に似た細長い石があり、そこから先に石畳の続きを確認することはできなかった。

 

「……門の基礎のように見えるわね」

 

セレネが言った。

 

「はい。ただ、柱や上部の構造は残っていません。門だったと断定するには、まだ証拠が足りませんね」

「ええ。別の用途で作られた可能性もあるわ」

 

セレネは右側の石材の見取り図へ目を向けた。

 

そこには三日月に似た紋様と、欠月という文字が書き込まれている。

 

古い北西の測量記録にも、欠月という月相が残されていた。

 

「……同じ言葉が、記録と石材の両方に残されているのね」

 

セレネが言った。

 

「はい。両者が関係している可能性は高まりました。ただし、石材に刻まれた年代はまだわかっていません」

 

ミラは記録を確認した。

 

「それに、古い測量記録の欠月が、石材に刻まれた欠月と同じ意味だったかどうかも調べる必要があります」

「……そうね。言葉が同じだからといって、すべて同じ条件を指すとは限らないわ」

 

セレネは頷いた。

 

ミラは今日の調査結果を別紙へまとめた。

 

『北西の旧道候補地において、石畳の終点付近に人工的な石造りの遺構を確認。』

 

『左右の基礎状石材と、その間に敷かれた細長い石材を確認。上部構造の有無および用途は未確定。』

 

『右側石材に弧状の紋様と「欠月」の文字を確認。「照応」「待て」と読める部分あり。ただし、文全体は判読不能。』

 

『調査当日は現代の暦上の半月。目視可能な範囲では、石畳の終点より先に明確な道の痕跡を確認できず。』

 

その下に、ミラはもう一つの項目を書き加えた。

 

『照応および接続の成立を確かめる試験は未実施。』

 

セレネは最後の一行を見つめた。

 

今日、何かの接続が成立したかどうかは調べていない。

 

古い測量者が何をもって照応不成立と判断したのかもわからない以上、現在の観察結果を同じ基準で比較することはできなかった。

 

「……これなら、何を確認したのかがはっきりするわね」

 

セレネが言った。

 

「はい。わからなかったことも、記録しておく必要がありますから」

 

ミラは頷いた。

 

「次は、北東と中央の道も調べたいですね。もし似た構造が見つかれば、三つの道について比較できる情報が増えます」

「ええ。でも、現地調査にはまた許可が必要になるでしょう?」

 

セレネが尋ねると、ミラは頷いた。

 

「そうですね。それに、まだ具体的な候補地も十分に絞れていません」

 

セレネは少し考えた。

 

北西では実際に遺構が見つかった。

 

しかし、ほかの二つの道については、現在の地形と対応する場所すら明確になっていない。

 

急いで現地へ向かうより、先に調べられることがあるように思えた。

 

「……ミラ。鐘楼の調査は、どうなっているの?」

 

セレネが尋ねた。

 

「旧照応施設の入口周辺については、限定調査の許可が出ています。あとは管理部門との日程調整ですね」

「なら、そちらを先に進めたいわ」

 

ミラは少し驚いたように顔を上げた。

 

「北東と中央の旧道ではなく、鐘楼を先に?」

「ええ。今日見つけた紋様と、鐘楼の鉄扉に残された紋様には似ている部分があるわ。それに、照応という言葉も両方に関係している」

 

セレネは一度言葉を切った。

 

「もちろん、同じ仕組みだと決まったわけではないわ。でも、鐘楼の紋様を正確に測れば、今日見つけたものともっと詳しく比較できるでしょう?」

「……そうですね。今なら、確認したい箇所も以前より明確になっています」

 

ミラは鐘楼の調査申請書を取り出した。

 

許可されているのは、封鎖された鉄扉の外側と、その周辺構造の非破壊調査だった。扉を開くことや、内部の機構に干渉する行為は認められていない。

 

「明日の朝、管理部門に日程を確認してみます」

 

ミラが言った。

 

「ええ。可能なら、早いうちに詳しく調べたいわね」

 

セレネは頷いた。

 

今日見つけた北西の遺構と、大鐘楼の地下施設。

 

両者に共通するものがあるのか。それとも、似ているだけの別の構造なのか。

 

その違いを確かめるために、次の調査を進めることになった。

 

*

 

その夜、セレネは宿の部屋で、北西の旧街道の見取り図を広げていた。

 

道の終点には左右の基礎石が描かれ、その間を横切るように細長い石材が記されている。右側の石材には、現地で確認した紋様と文字も書き添えられていた。

 

欠月。

 

照応。

 

待て。

 

三つの言葉の間には、判読できない部分がある。

 

セレネは見取り図を見つめた。

 

かつて、この場所に門があったのだろうか。

 

もしそうなら、道の先に何が存在していたのだろう。

 

目視した限りでは、石畳の向こうに道の続きは見当たらなかった。しかし、地中に別の構造が残されていないことまで確かめたわけではない。

 

古い測量記録には、欠月の日に接続を確認したと書かれている。

 

それが何を意味していたのかは、今もわからない。

 

セレネは筆を取り、今日の調査結果を手帳へ書き加えた。

 

『北西の旧道候補地に、門状の配置を持つ石造りの遺構を確認。』

 

『右側石材に欠月の刻印あり。古い測量記録との関係は未確定。』

 

『調査当日は現代暦上の半月。照応・接続の成立試験は実施せず。』

 

そこまで書き終えると、セレネは筆を置いた。

 

今日の調査は、月門が実在したことを証明したわけではない。

 

けれど、月門と関係しているかもしれない遺構を、自分の目で確かめることはできた。

 

地図の上で途切れていた道は、現実の丘陵地帯でも石畳が途切れる場所へ続いていた。その先に何があったのかは不明でも、記録と現地を比較する手掛かりは確かに増えている。

 

そのとき、遠くから大鐘楼の音が聞こえた。

 

定められた時刻を告げる、いつもどおりの鐘だった。

 

低く澄んだ音が夜の街へ広がり、石造りの建物の間を抜けていく。セレネは耳を澄ませたが、以前感じたような奇妙な反響はなかった。

 

やがて鐘の余韻が消え、部屋に静けさが戻った。

 

セレネは窓の外へ目を向けた。

 

灰鐘市の中央には、今も大鐘楼がそびえている。

 

その地下には、封鎖された鉄扉がある。

 

以前、職員に案内されて地下へ入ったとき、セレネはその扉の前で月蝶を使用した。だが、伸ばした感覚は何かに遮られるように途切れ、胸には鈍い痛みが残った。

 

何が反響を遮ったのかは、わかっていない。

 

今日の北西の遺構には、似た紋様が残されていた。しかし、見た目の共通点があるというだけで、同じ仕組みだとは言えなかった。

 

セレネは机の上に、鉄扉の紋様を描いた写しを並べた。

 

片方は、地下の鉄扉。

 

もう片方は、北西の旧街道の終点に残された石材。

 

どちらにも三日月を思わせる形があるが、周囲の線の配置には違いがある。

 

「……繋がっているのかしら」

 

セレネは小さく呟いた。

 

答えは浮かばなかった。

 

彼女は二枚の写しを重ねず、机の左右に置いた。

 

似ていることを確かめるには、まず違いも知らなければならない。今は同じものとして考えるより、別々の構造として調べた方がよさそうだった。

 

セレネは鞄から、一枚の折り畳まれた紙を取り出した。

 

以前、ルナリアという名前を調べた夜に書き留めた言葉だった。

 

――名を失くしても、月は憶えている。

 

その文字を見つめると、今日見た古い石畳の光景が蘇った。

 

人が歩かなくなっても、道を造った石は残っていた。かつて何と呼ばれていたのかがわからなくても、石材には文字が刻まれ、その場所に何らかの意味があったことを伝えている。

 

しかし、文字が残っていることと、その意味を正しく知ることは別だった。

 

セレネは紙を丁寧に折り畳んだ。

 

五年前より前の自分にも、何かを残そうとした人がいたのだろうか。

 

自分の名前を知る者。

 

かつての居場所を覚えている者。

 

あるいは、忘れられたまま、どこかに残されている記録。

 

それが存在するかどうかも、まだわからなかった。

 

セレネは手帳へ視線を戻した。

 

今日、北西の旧街道で確認したのは、道の終点と門状の遺構だった。その構造が実際に何を目的として造られたのかは、依然として不明のままである。

 

その不明な部分を、月律で無理に確かめようとする必要はない。

 

月蝶を使わなかったことも、間違った判断ではないはずだった。

 

まずは、安全に確認できることから調べる。

 

今なら、その方法でも前へ進めるとわかっている。

 

セレネは大鐘楼の写しを手に取った。

 

明日、ミラは管理部門へ調査日程を確認するという。

 

もし入口周辺の詳しい測定が認められれば、鉄扉の紋様や、その周囲の構造を改めて調べられるだろう。

 

北西の遺構と比較するためにも、今までより正確な記録が必要だった。

 

セレネは静かに図面を重ねた。

 

今はまだ、月門の正体を知ることはできない。

 

けれど、次に確かめるべき場所は決まっている。

 

――大鐘楼の地下。

 

セレネはランタンの灯りを落とした。

 

窓の外には薄い雲が広がり、その向こうで月が静かに輝いている。

 

かつて誰かが、月の状態を記録しながら辿った道。

 

その終点には、今も古い石が残されていた。

 

そして、石に刻まれた文字は、失われた道について何かを伝えようとしているように思えた。

 

ただ、その意味を知るには、まだ足りないものが多い。

 

セレネは窓辺に立ち、大鐘楼の方角を見つめた。

 

明日、調査を進められるかどうかは、管理部門の判断次第だった。

 

それでも、あの鉄扉の前でもう一度確かめたいことがある。

 

月の光を受けた大鐘楼は、今夜も変わらず街を見下ろしていた。

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