朝の灰鐘市には、薄い雲が広がっていた。
大鐘楼はその下で静かにそびえ、定められた時刻になると、いつもどおりの鐘を街へ響かせていた。人々はその音に足を止めることもなく、それぞれの仕事へ向かっている。
セレネは記録院へ向かいながら、昨日訪れた北西の旧街道を思い返していた。
林の奥に残された石畳。道の終点に向かい合う二つの基礎石。そして、そこに刻まれていた欠月という文字。
古い測量記録と、実際の遺構が一致したことは大きな発見だった。しかし、門がどのように機能していたのかは、依然としてわからない。
その仕組みを知る手掛かりが、鐘楼の地下に残されているかもしれなかった。
記録院に到着すると、ミラは既に閲覧室で待っていた。机には昨日の調査記録と、鐘楼の管理部門から届いた書類が並べられている。
「おはようございます、セレネさん」
「おはよう、ミラ。何か進展があったの?」
「ええ。旧照応施設の限定調査について、今朝、管理部門から連絡がありました」
ミラは書類を手に取った。
「今日の午前中なら、管理官が立ち会えるそうです。鐘楼の点検も行われているので、その時間に合わせて調査を実施できることになりました」
「それなら、ようやく詳しく調べられるのね」
「はい。ただし、許可された範囲は以前と変わりません」
ミラは調査許可書を広げた。
封鎖された鉄扉の周辺構造を確認すること。外部から観察できる紋様や文字を記録すること。そして、施設の現状を損なわない範囲で測定を行うこと。
鉄扉の開放や封鎖標の取り外し、内部機構への干渉は認められていなかった。
「昨日の遺構と同じね。まずは、残っているものを調べるところから」
「ええ。それと、昨日見つけた紋様の写しも持っていきます」
ミラは北西の旧街道で描いた見取り図を取り出した。
三日月を囲む細い線。その下には、欠月と照応に関する古い文字が記されている。
「鐘楼の紋様と比較できれば、同じ系統のものなのか、少しは判断できるかもしれません」
「そうね。ただ、月門の入口と鐘楼では、役割が違う可能性もあるわ」
ミラは頷いた。
「だからこそ、形だけでなく、周囲の構造も確認したいんです」
セレネは机の上の資料を見つめた。
北西の旧街道には、欠月という文字が残されていた。もし鐘楼の地下にも月相に関する記録が存在するなら、二つの場所を結ぶ具体的な手掛かりになるかもしれない。
「準備ができたら、行きましょう」
セレネが言うと、ミラは書類を鞄へ収めた。
*
大鐘楼の入口では、一人の男性が二人を待っていた。
年齢は四十代ほどだろうか。短く整えられた髪には白いものが混じり、濃紺の制服には鐘楼管理部門の徽章が付けられている。
「記録院から来られた方ですね」
男性は二人の姿を確認すると、手にしていた書類を閉じた。
「今回の調査に立ち会う、管理官のヴァルトです」
「記録院のミラです。こちらは調査に協力していただいているセレネさんです」
「よろしくお願いします」
セレネが軽く頭を下げると、ヴァルトも頷いた。
「申請書には目を通しました。旧施設の記録を調べているそうですね」
「はい。現在の鐘楼より古い配置図が見つかりまして、その内容を確認したいんです」
ミラは資料の写しを差し出した。
ヴァルトは図面を一瞥し、少し眉を寄せた。
「……この図面ですか」
その反応に、セレネは目を向けた。
「何か、ご存じなの?」
「いえ。ただ、以前の補修記録で似た構造を見た覚えがあります」
ヴァルトは図面の一角を指さした。
「鐘楼は約百八十年前に大規模な改修を受けています。その際、古い基礎を完全には撤去せず、一部を新しい建物に利用したという記録が残っているんです」
「旧照応施設の一部でしょうか」
ミラが尋ねた。
「そこまではわかりません。改修記録には、古い地下構造を残したとしか書かれていませんから」
ヴァルトは図面を返した。
「ただ、地下の封鎖区画は、その古い構造と関係している可能性があります」
セレネは静かに頷いた。
旧照応施設は、大鐘楼の改修によって完全に失われたわけではなかった。少なくとも、その一部は地下に残されているらしい。
「では、案内します」
ヴァルトは腰に下げていた鍵束を取り出した。
「調査中は、許可範囲から出ないようお願いします。古い施設ですから、見た目以上に傷んでいる場所もあります」
「わかりました」
ミラが答えると、三人は鐘楼の内部へ入った。
*
地下へ続く石段は、以前訪れたときと変わらず薄暗かった。
ヴァルトが持つランタンの光が、古い石壁に長い影を落としている。階段を下りるにつれて外の音は遠ざかり、やがて三人の足音だけが狭い通路に響くようになった。
通路の突き当たりには、あの鉄扉があった。
表面を覆う錆。中央に打ち付けられた封鎖標。そして、その下に残された三日月の紋様。
セレネは足を止めた。
数日前、初めてこの場所を訪れたとき、彼女は月蝶を使って扉の向こうを探ろうとした。しかし、反響は途中で遮られ、何かを読み取ることはできなかった。
その後、紋様を見た瞬間には、白い回廊の光景が脳裏を過ぎった。
「……ここね」
セレネが呟くと、ミラは頷いた。
「はい。前回は詳しく確認できませんでしたが、今日は周囲の構造も記録しましょう」
ヴァルトはランタンを壁際の台に置いた。
「扉と封鎖標には触れないでください。周辺の石壁については、目視と測定の範囲で調査していただいて構いません」
ミラは早速、通路の幅と扉の寸法を記録し始めた。
セレネはその間、鉄扉の周囲を観察した。
扉を囲む石材は、通路の壁と色が異なっている。表面の加工も粗く、周囲の整った石積みとは明らかに違っていた。
「ヴァルトさん。この扉の周りだけ、石の種類が違うように見えるのだけれど」
セレネが尋ねると、ヴァルトは壁にランタンを近づけた。
「ええ。ここは古い部分を補修した跡だと思われます。正確な年代はわかりませんが、現在の通路より前から存在していた可能性があります」
「後から、この場所に通路を繋げたということ?」
「その可能性はあります。ただ、壁を内部まで調べなければ断定はできません」
セレネは石材の継ぎ目に視線を向けた。
確かに、古い壁の一部を利用して、新しい通路が造られたようにも見える。
そのとき、ミラが声を上げた。
「セレネさん。少し、こちらを見てください」
彼女は扉の右側に立っていた。
ランタンの光を斜めから当てると、石壁の表面に細い溝が浮かび上がる。正面から見たときには、ほとんど気づかなかったものだった。
「……何かの模様?」
セレネが近づくと、ミラは頷いた。
「最初は石材の傷だと思ったんですが、線の幅が揃っているんです」
セレネは目を凝らした。
細い溝は、壁の一部で緩やかな弧を描いていた。さらにその先には、直線状の刻みが幾つか続いている。
自然にできた亀裂とは思えなかった。
「何かを刻んだ跡かもしれないわね」
「はい。ただ、表面がかなり摩耗しています」
ヴァルトも二人の隣に立った。
「この刻印については、私が以前確認した補修記録には記載がありませんね」
「調べてもよろしいですか?」
「表面を傷つけない範囲なら」
ミラはランタンの位置を調整し、影の角度を変えた。
すると、それまで不規則に見えていた線が、少しずつ一つの形を作り始めた。
大きな円。
その内側に配置された、三つの小さな区画。
「……三つ?」
セレネが呟いた。
それぞれの区画から、中央の小さな円へ向かって細い線が伸びている。線の一部は摩耗していたが、三つが中心を囲むように配置されていることはわかった。
ミラは急いで紙を取り出した。
「これ、何かの配置図でしょうか」
「そうかもしれないわ。でも、形だけではわからないわね」
セレネは円の周囲を見つめた。
そこには、さらに小さな刻みがあった。
文字だった。
*
セレネはランタンの光を頼りに、古い文字を一つずつ確認した。
最初の区画には、細い弧を描く印がある。その下には、二文字が残されていた。
――欠月。
「……欠月」
セレネが読み上げると、ミラが顔を上げた。
「昨日、北西の遺構で見つけた文字ですね」
「ええ」
セレネは隣の区画に視線を移した。
こちらの印は、円を二つに分けたような形をしている。
その下に残されていた文字は、半月だった。
「……半月」
ミラは手元の紙に書き加えた。
「もう一つは?」
セレネは三番目の区画を確認した。
そこには円形の印が描かれている。文字の一部は欠けていたが、残された形から読み取ることができた。
――満月。
しばらく、誰も口を開かなかった。
欠月。
半月。
満月。
古い測量記録に残されていた三つの月相が、鐘楼の地下にも刻まれていた。
「……三つとも、あるのね」
ミラが小さく呟いた。
「ええ。少なくとも、この場所でも三つの月相が区別されていたことになるわ」
ミラは昨日の調査記録を取り出した。
北西の旧街道には欠月の刻印があった。そして、古い測量記録では、北方中央が半月、北東が満月に対応していた。
「これなら、月相と接続地点に関係があったという考えを、もう少し強く支持できそうですね」
「そうね。でも、ここに三つの文字がある理由までは、まだわからないわ」
ヴァルトは二人の会話を聞きながら、古い壁を見つめていた。
「その月相というのは、鐘楼の異常とも関係があるんですか?」
ミラは少し考えてから答えた。
「可能性はあります。ただ、今のところは古い街道の測量記録に、月相と照応という言葉が使われていたことしか確認できていません」
「照応……。この地下施設の名前と同じですか」
「はい」
ヴァルトは眉を寄せた。
「奇妙ですね。鐘楼の管理記録では、そんな言葉が機構の説明に使われているのを見たことがありません」
セレネは円形の刻印に目を戻した。
三つの月相。
その中心には、小さな円がある。
しかし、円の内側に何が描かれていたのかは、摩耗が激しく判別できなかった。
「この中央の部分、何か書かれていたようにも見えるわ」
セレネが指さすと、ミラはランタンを近づけた。
「……本当ですね。文字だったのでしょうか」
中央の石材には、周囲と異なる細かな傷が残されていた。線が削れたようにも、表面そのものが欠けたようにも見える。
「ここだけ、傷み方が違うのね」
「ええ。でも、意図的に削られたものなのか、自然に摩耗したものなのかは判断できません」
ミラはその状態も記録した。
セレネは中央の円を見つめた。
三つの区画は、いずれも中心へ向かって線を伸ばしている。
月相を表すだけなら、なぜ一つの円へ繋げる必要があったのだろう。
その答えを示していたかもしれない部分は、既に読めなくなっていた。
*
調査を続けていると、ヴァルトが通路の壁際にしゃがみ込んだ。
「……少し待ってください」
彼はランタンを低く掲げ、石材の継ぎ目を確認した。
「どうしましたか?」
ミラが尋ねる。
「この溝ですが、扉の周りだけで終わっていないようです」
ヴァルトが示した場所には、石材の隙間に沿って細い線が続いていた。
それは扉の右側から通路の壁へ伸び、やがて新しい石積みの下へ隠れている。
「補修の際に埋められたのでしょうか」
「そう見えます。古い構造の一部だったのかもしれません」
ヴァルトは手元の図面を開いた。
「鐘楼の上部機構は、この壁の向こう側にある支持構造へ荷重を逃がしています。百八十年前の改修で、新しい支持材が設けられたはずです」
セレネは壁を見上げた。
「つまり、古い地下構造と、今の鐘楼が繋がっている可能性があるのね」
「物理的な構造としては、そうかもしれません。ただ、それが鐘の動作に関係しているかどうかは別です」
ヴァルトは慎重に答えた。
ミラは壁の溝を記録し、配置図に書き加えた。
三つの月相を持つ円形の刻印。その近くから続く、古い石材の溝。そして、新しい鐘楼の支持構造。
位置関係は確認できたが、溝が何のために設けられていたのかは不明だった。
「……もう少し、奥まで見たいところですね」
ミラが呟いた。
「今日の許可では無理です」
ヴァルトは首を振った。
「これ以上調べるには、壁の内部構造を確認する必要があります。別の調査許可が必要になるでしょう」
「わかっています。今日は、確認できたことだけを記録します」
ミラは素直に頷いた。
セレネも鉄扉へ視線を向けた。
古い配置図が正しければ、この扉の向こうには円形の部屋があるはずだった。
旧照応施設の中心部と考えられる空間。
そこに何が残されているのかは、今もわからない。
セレネが目を細めた、そのときだった。
足元で、何かが震えた。
*
最初は、ごく小さな振動だった。
通路の奥で、金属が触れ合うような音がした。風もない地下で、ランタンの炎がわずかに揺れる。
セレネは顔を上げた。
「……今、何か」
言い終える前に、再び音が響いた。
今度は先ほどよりも低く、長い。
ゴン、と。
石壁の向こうから、重い金属音が伝わってきた。
「……鐘?」
ミラが呟いた。
ヴァルトはすぐに懐中時計を取り出した。
「おかしい。今は定時ではありません」
その声には、明らかな緊張が混じっていた。
セレネは鉄扉へ目を向けた。
何かが起きている。
月蝶を使ったときの反響とは違う。もっと直接的に、空気そのものが揺れているような感覚だった。
「二人とも、扉から離れてください」
ヴァルトが声を上げた。
ミラは資料を抱え、数歩後退した。
セレネもそれに従おうとしたが、ふと壁の刻印に目を留めた。
三つの月相が描かれた円。
そのうち、半月の印に沿って、ごく細い白い光が浮かんでいた。
「……ミラ」
セレネは思わず声をかけた。
「半月の印を見て」
ミラが振り返る。
「……光っている?」
確かに、そこには淡い光があった。
ランタンの反射ではない。炎が揺れても、光の位置は変わらなかった。
細い線は、石に刻まれた半月の輪郭をなぞるように浮かび上がっている。
その隣にある欠月と満月の印には、変化が見られなかった。
「下がってください!」
ヴァルトの声が響いた。
三人が通路の入口側へ後退した直後、鉄扉の奥から再び低い音が伝わってきた。
それは鐘の音に似ていた。
しかし、いつもの鐘楼が鳴らす澄んだ音とは違う。
もっと深く、厚い石の向こうで鳴っているような響きだった。
やがて、音が止んだ。
壁に浮かんでいた白い光も、ゆっくりと薄れていく。
数秒後には、何事もなかったかのように消えていた。
地下に静けさが戻った。
「……今のは」
ミラが言いかけた。
しかし、言葉が続かなかった。
ヴァルトは懐中時計を確認し、急いで時刻を書き留めた。
「午前十時十七分。異常音と振動を確認」
その声は、先ほどよりも硬かった。
「お二人とも、怪我はありませんか?」
「はい。大丈夫です」
ミラが答える。
セレネも頷いた。
「ええ。でも、今の光は……」
「私も見ました」
ヴァルトは静かに答えた。
「半月の印が発光したように見えました。ただ、原因は不明です」
彼は鉄扉へ視線を向けた。
封鎖標は外れていない。
扉そのものが開いた様子もなかった。
それでも、何かが起きたことは明らかだった。
「調査はここで中止します」
ヴァルトが言った。
「まずは鐘楼の機構を確認しなければなりません。今の音がどこから発生したのか、調べる必要があります」
「わかりました」
ミラは頷いた。
セレネは最後にもう一度、壁の刻印を見つめた。
半月。
昨日も今日も、暦の上ではその区分に当たっている。
北方中央の入口で接続が確認された古い記録にも、半月という言葉が残されていた。
しかし、だからといって、今この場所で同じ接続が成立したとは限らない。
発光した理由も、午前十時十七分という時刻に反応が起きた理由も、何一つわかっていなかった。
ただ、古い刻印が変化したことだけは、三人が目撃していた。
*
地上へ戻ると、鐘楼の入口付近には数人の職員が集まっていた。
異常音を聞いた者がいたらしく、管理部門の点検員が状況を確認している。
ヴァルトはすぐに事情を説明し、上部の機構について報告を求めた。
「十時十七分頃に、鐘のような音が聞こえたという報告があります」
若い点検員が答えた。
「こちらでも音を確認しました。ただ……」
「ただ、何だ?」
ヴァルトが尋ねる。
点検員は困惑した表情を浮かべた。
「その時刻、私は打鐘機構の点検をしていました。鐘を打つ装置は作動していませんでしたし、鐘体が動く様子も確認できませんでした」
「音がしたときもか?」
「はい。機構のすぐ近くにいました」
ヴァルトは黙り込んだ。
セレネとミラは顔を見合わせた。
鐘に似た音が聞こえた。
しかし、少なくとも上部の打鐘機構が作動した形跡は確認されていない。
数日前、予定外の時刻に鐘が響いたときも、機構に明確な異常は見つからなかった。
三十四年前の報告書にも、定時外の鳴動と、機構に異常が確認されなかったという記述が残されている。
ただし、当時の鐘体が実際に動いていたのかどうかまでは、その記録から判断できない。
今回の現象が、過去の二件と同じ原因によるものなのかは不明だった。
「……ヴァルトさん」
ミラが静かに声をかけた。
「今の出来事は、正式な記録に残していただけますか?」
ヴァルトは頷いた。
「当然です。私自身も目撃していますから」
彼は手元の記録を確認した。
「ただし、鐘が実際に鳴ったとは書けません。機構の作動が確認されていない以上、異常音が発生したと記録することになります」
「それで構いません」
ミラは答えた。
「私たちも、確認できた事実だけを残します」
セレネは大鐘楼を見上げた。
石造りの塔は、何事もなかったかのように街の中心にそびえている。
上部には、大きな鐘が収められている。
しかし、先ほどの音がどこで生まれたのかはわからない。
地下で感じた振動が鐘楼全体に伝わった可能性もあれば、別の原因が存在する可能性もある。
「……あの地下から、聞こえていたのかしら」
セレネが呟くと、ヴァルトは少し考えた。
「地下で振動が発生したことは確かです。ただ、それが上で聞こえた音の直接の原因かどうかは、調査してみなければわかりません」
彼は塔の下部へ視線を向けた。
「地下と上部の支持構造が繋がっているなら、振動が伝わる可能性はあります。しかし、それだけでは説明できないこともあります」
「半月の刻印が光ったことですね」
ミラが言うと、ヴァルトは頷いた。
「ええ。あの現象については、通常の設備点検だけでは判断できそうにありません」
ヴァルトは記録用紙を閉じた。
「地下区画については、安全確認が終わるまで立ち入りを制限します。今回の現象を報告したうえで、追加調査の必要性を判断してもらいます」
ミラは頷いた。
「わかりました。今日確認した刻印については、こちらでも記録を整理します」
「お願いします。特に月相との関係については、私も詳しく知りたい」
ヴァルトは二人へ向き直った。
「昨日の旧街道で、欠月という文字を見つけたとおっしゃいましたね」
「はい」
「それと同じ分類の文字が、鐘楼の地下にもあった」
ミラは頷いた。
「ええ。そして、今日反応したのは半月の印でした」
ヴァルトはしばらく考え込んだ。
「……偶然にしては、妙な一致ですね」
セレネはその言葉を聞き、地下で見た白い光を思い返した。
自分の月律や月蝶によって起きた現象ではない。
少なくとも、彼女は何の力も使っていなかった。
それにもかかわらず、古い刻印は確かに光った。
そして、その変化を自分以外の二人も目撃していた。
これまで記録の中でしか語られていなかった何かが、現在の世界で姿を現した。
セレネには、そう感じられた。
*
午後、二人は記録院へ戻った。
閲覧室の机には、今日の調査記録が広げられている。ミラは時刻と観測内容を整理しながら、壁の刻印を描き直していた。
セレネは隣に座り、古い測量記録と比較していた。
「……三つの月相が、同じ場所に刻まれていたのね」
ミラが言った。
「ええ。昨日の北西の遺構では欠月だけだったけれど、鐘楼には三つともあったわ」
「それなら、鐘楼の施設は一つの入口だけでなく、複数の接続地点に関係していたのかもしれません」
ミラは図面の中央を指さした。
三つの月相を示す区画。
それぞれから中心へ伸びる細い線。
そして、摩耗して読めなくなった中央の円。
「この配置が仕組みを表したものなら、三つの区画にはそれぞれ役割があったはずです」
「そうね。でも、中央が何を示していたのかはわからないわ」
セレネは古い配置図を取り出した。
大鐘楼の地下に描かれた円形の部屋。旧照応施設の中心部と考えられる空間だった。
壁の刻印も円形だが、それだけで部屋の配置と結びつけることはできない。
「扉の向こうを調べられれば、何かわかるかもしれませんね」
ミラが言った。
「ええ。でも、今は安全確認が先ね」
セレネは机の上の観測記録へ視線を移した。
『午前十時十七分。』
『暦上の月相区分は半月。』
『地下で異常音および振動を確認。』
『半月の刻印に発光を確認。』
『鉄扉の開放なし。』
『上部打鐘機構の作動確認なし。』
ミラは記録の末尾に、一文を書き加えた。
『異常音の発生源および発光原因は不明。』
「……これで、今日確認できたことは一通り整理できました」
ミラは筆を置いた。
「ただ、半月という記録には注意が必要ですね」
「古い月相の区分と、今の暦が同じとは限らないから?」
「はい。今の暦では、半月という区分にはある程度の期間があります。でも、古い照応の規則がどのように月相を判定していたのかは、まだわかっていません」
セレネは頷いた。
昨日と今日、どちらも暦上は半月だった。
しかし、昨日の北西の遺構では何も起こらず、今日は鐘楼で異常な現象が発生した。
場所も違えば、施設の状態も違う。月相以外の条件が関わっていたとしても不思議ではなかった。
「だから、今日の反応が半月によって起きたのかどうかも、まだ判断できないのね」
「ええ。対応する印が光ったことは事実ですが、それが原因と結果の関係を示しているかどうかは、別の問題です」
セレネはしばらく記録を見つめた。
「……でも、今日わかったことが一つあるわ」
ミラが顔を上げた。
「何ですか?」
「半月の刻印が光り、地下で異常な振動が起きたことは確かよ。それが古い照応機構の反応なのかは、まだわからないけれど」
セレネは記録の末尾を指さした。
「今までとは違って、私たちの推測だけではないわ。管理官も、地上の点検員も、異常を確認しているもの」
ミラは静かに頷いた。
「そうですね。少なくとも、追加調査を求めるための根拠にはなります」
彼女は観測記録を一枚にまとめ、正式な報告書として提出できるよう整理し始めた。
セレネは窓の外へ視線を向けた。
大鐘楼は、夕暮れの光の中に静かにそびえていた。
あの地下で何が起きたのか。
答えはまだ出ていない。
けれど、今日の出来事によって、調査は新しい段階へ進んだ。
古い記録に残された仕組みを推測するだけでなく、現在起きている現象を調べる必要が生まれたのだ。
*
その夜、セレネは宿の部屋で今日の記録を読み返していた。
机の上には、北西の旧街道で見つけた紋様と、鐘楼地下の円形の刻印が並んでいる。
二つの紋様には共通する特徴があった。
しかし、鐘楼の刻印には三つの月相が配置され、その中心に何かが描かれていた痕跡が残っている。
セレネは中央の円を見つめた。
何が記されていたのかはわからない。
ただ、三つの区画が中心へ向かって線を伸ばしていることが気になった。
旧照応施設。
三つの道。
そして、月環の丘。
それらが本当に一つの仕組みに属していたなら、中央の円には何らかの意味があったのだろう。
しかし、今夜セレネの心を占めていたのは、別の疑問だった。
昼間、地下で聞いた音。
ゴン、と。
石壁の向こうから伝わってきた、重い金属音。
あの音は、今も耳の奥に残っていた。
上部の点検員は、打鐘機構が動いていなかったと証言している。鐘体が動く様子も確認できなかったという。
それでも、地下と地上の両方で鐘に似た音が聞こえた。
「……本当に、鐘が鳴った音だったのかしら」
セレネは小さく呟いた。
数日前の異常鳴動。
そして、三十四年前に残された記録。
どちらも、鐘の機構に明確な異常が見つからなかったという点で、今日の出来事と似ていた。
しかし、同じ現象だったとは限らない。
過去の記録には、今日のような地下での発光や振動についての記述はない。鐘体が実際に動いていたかどうかも、不明なままだった。
それでも、一つの可能性が頭を離れなかった。
もし、鐘楼の中に、鐘とは別の音を生み出すものが存在していたとしたら。
そして、その音が塔を伝わり、鐘の音のように街へ響いていたのだとしたら。
異常鳴動の原因は、これまで考えられていた場所とは違うところにあるのかもしれない。
セレネは机の上の配置図を広げた。
旧照応施設の奥には、円形の部屋が描かれている。
そこには、以前読み取った古い文章が添えられていた。
――応じるものを、繋ぎ留める。
セレネはその文字を指でなぞった。
照応とは、何が何に応じることを意味していたのだろう。
月の状態か。
離れた場所か。
それとも、自分たちがまだ知らない何かか。
答えを考えようとして、セレネは手を止めた。
思いつくことはいくらでもある。
けれど、今必要なのは、新しい想像を重ねることではなかった。
今日聞いた音が、どこから生まれたのかを確かめること。
そして、半月の刻印がなぜ光ったのかを調べること。
まずは、その二つだった。
セレネは調査記録の余白に、短く書き加えた。
『異常音の発生源を特定する。』
『発光条件を確認する。』
それから筆を置き、窓の外へ目を向けた。
灰鐘市には、夜の静けさが訪れていた。
大鐘楼はその中心で、何も語らずにそびえている。
昼間の異常が嘘だったかのように、塔の周囲には変化が見られなかった。
しかし、セレネは三人が目撃した白い光を覚えていた。
石壁に刻まれた半月の印。
その輪郭をなぞるように浮かび上がった、淡い輝き。
あれは、自分の記憶から生まれた幻ではない。
ミラも、ヴァルトも、同じものを見ていた。
セレネは静かに息を吐いた。
五年前より前の記憶は、今も戻っていない。
ルナリアという名が何を指しているのかも、わからないままだ。
それでも、今日は一つの現象を確かに目撃した。
過去を思い出せなくても、今起きていることを調べることはできる。
そう考えると、胸の奥にあった焦りが、少しだけ和らいだ。
セレネはランタンの灯りを落とした。
窓の外では、雲の切れ間から月が覗いている。
白い光が、静かな部屋に差し込んだ。
昼間、地下で聞いたあの音は何だったのだろう。
鐘が動かなかったという証言が正しいのなら、何があの響きを生み出したのか。
そして、なぜ古い刻印が、その瞬間に光ったのか。
セレネはしばらく月を見つめていた。
今夜、大鐘楼は沈黙している。
けれど、今日聞いたあの音は、まだ終わっていない謎として、彼女の中に残されていた。