大鐘楼の鐘が止まって、二日目の朝を迎えた。
灰鐘市の人々は、少しずつその静けさに慣れ始めていた。店先では時計を確かめる姿が増え、普段なら鐘の音に合わせて動いていた荷馬車も、それぞれの時間で通りを行き交っている。
セレネは記録院へ向かいながら、大鐘楼を見上げた。
塔の姿は何も変わっていない。しかし、時刻を告げる音がないだけで、街の中心にあるはずの建物が、どこか遠い存在のように感じられた。
昨日、三十四年前の地下補修に関する記録が見つかった。
異常鳴動の翌日に行われた点検。北側基礎壁面の補修。そして、当時の作業に参加した技術者、オルフェン・リード。
ヴァルトは本人への連絡を引き受けてくれたが、面会の承諾が得られるかどうかは、まだわからなかった。
記録院に着くと、ミラは閲覧室の入口で待っていた。
「おはようございます、セレネさん」
「おはよう、ミラ。何か連絡があったの?」
「はい。今朝、ヴァルトさんから返事が届きました」
ミラは手元の封書を差し出した。
「オルフェン・リードさんが、面会に応じてくださるそうです」
「……本当?」
「ええ。ただ、あまり長い時間は取れないとのことです」
セレネは手紙を受け取り、内容を確かめた。
面会の場所は、灰鐘市の西地区にある小さな工房。オルフェンは既に鐘楼の仕事を退いているが、今も個人的に道具の修理などを続けているという。
「今日の昼過ぎなら、お話を聞けるそうです」
「それなら、準備をしておきましょう」
セレネは机の上に、昨日の補修記録を広げた。
「聞きたいことはたくさんあるけれど、まずは本人が何を見たのかを確かめたいわ」
「はい。三十四年前の出来事ですから、記憶が曖昧になっている部分もあると思います」
ミラは手帳を開いた。
「当時の記録と、ご本人が覚えていること。それから、後になって聞いた話。この三つは分けて確認しましょう」
「ええ。それがいいと思うわ」
二人は質問を整理し始めた。
鐘楼で異常音が発生した翌日、地下では何が行われたのか。
北側基礎壁面の損傷は、どのようなものだったのか。
そして、封鎖された鉄扉の周辺で、何か普段と異なるものを見なかったのか。
セレネは最後の質問を書き留め、筆を置いた。
記録には、書かれなかったことがあるかもしれない。
けれど、それを確かめるには、まず当時の現場を知る人物の言葉を聞く必要があった。
*
西地区は、灰鐘市の中心部とは少し雰囲気が異なっていた。
大通りから外れると、石造りの建物の間に小さな工房が並んでいる。金属を叩く音や木材を削る音が通りへ漏れ、職人たちがそれぞれの仕事に取り組んでいた。
オルフェンの工房は、その一角にあった。
低い屋根の建物で、入口の横には古びた看板が掛けられている。窓際には修理を待つ道具が並び、開いた扉から油と木材の匂いが漂っていた。
ミラが入口を叩くと、奥から低い声が返ってきた。
「開いている。入ってくれ」
二人が中へ入ると、作業台に向かっていた男性が振り返った。
年齢は六十代半ばほどだろうか。短く刈られた灰色の髪と、深い皺の刻まれた顔。大きな手には細かな傷が残り、長い間、道具を扱ってきたことが窺えた。
「記録院の人たちか」
「はい。ミラと申します。こちらはセレネさんです」
オルフェンは二人を一度見てから、手元の道具を置いた。
「ヴァルトから話は聞いている。三十四年前の鐘楼のことを知りたいんだってな」
「はい。突然のお願いに応じていただき、ありがとうございます」
「構わんよ。ただし、期待しすぎないでくれ」
オルフェンは椅子を二脚引き寄せた。
「三十四年も前の話だ。昨日のことみたいに覚えているわけじゃない」
セレネは頷いた。
「覚えている範囲で構わないわ。それに、記録と違う部分があっても、無理に辻褄を合わせる必要はないの」
「……そうか」
オルフェンは少し意外そうな表情を浮かべた。
「昔のことを聞きに来る連中は、だいたい最初から答えを決めている。あんたたちは違うらしいな」
彼は作業台の脇に腰を下ろした。
「それで、何から聞きたい?」
ミラは手帳を開いた。
「まず、三十四年前の鐘楼地下の補修作業についてです。オルフェンさんは、実際に作業へ参加されていたんですよね」
「ああ。あの頃は、まだ親方の下で働いていた。石材の補修や古い建物の保守を任されていたんだ」
オルフェンは少し考えた。
「鐘楼へ行ったのは、妙な音がしたという騒ぎの翌日だった」
「異常音そのものは、聞いていないのね」
セレネが尋ねた。
「いや。あの日は別の現場にいた。鐘楼で何が起きたのか知ったのも、その日の夕方だ」
セレネは手帳に書き加えた。
オルフェンは異常鳴動の直接の目撃者ではない。
しかし、その翌日の地下点検には参加していた。
「それなら、地下で見たものについて聞かせてほしいの」
オルフェンは頷いた。
「ああ。そっちなら、多少は覚えている」
*
工房の外から、金属を打つ音が聞こえてきた。
オルフェンはしばらく考えていたが、やがて作業台に置かれた布を手に取った。
「鐘楼の地下は、湿気の多い場所だった。古い石壁が残っていて、通路の奥には鉄の扉があった」
「封鎖された扉ね」
「ああ。当時から、あれは開けるなと言われていた」
ミラが顔を上げた。
「誰からですか?」
「鐘楼の管理担当者からだ。理由までは聞いていない。俺たちは補修に呼ばれた職人で、管理方針を決める立場じゃなかったからな」
オルフェンは続けた。
「仕事は扉に向かって右側の壁だった。古い石材の表面に損傷があるから、状態を確認して補修してほしいという依頼だった」
セレネは昨日の図面を取り出した。
「この辺りかしら」
鉄扉を通路の西端に描いた見取り図。その右手側は、北側基礎壁面に当たっている。
オルフェンは図面を覗き込んだ。
「そうだ。おおよそ、この場所だな」
ミラは図面に印を付けた。
「三十四年前の補修台帳にも、北側基礎壁面と記されていました」
「なら、同じところだろう」
オルフェンは頷いた。
「ただな。あれを普通の亀裂と言っていいのか、当時から少し疑問だった」
セレネは顔を上げた。
「……どういうこと?」
「石が割れるときには、ある程度の特徴がある。力の掛かり方や石の質によって、割れ目の形も変わるんだ」
オルフェンは作業台に置かれた小さな石材を取り上げた。
「だが、あの壁の線は妙に整っていた。幅が揃っていて、途中で緩やかに曲がっていたんだ」
「人工的な溝だった可能性があるのね」
「そうだ。ただし、俺が見たときには表面が傷んでいたから、最初からそういう形だったのかはわからん」
ミラは記録を書き留めた。
「補修台帳には、亀裂状の損傷とあります」
「間違いじゃない。実際、表面には欠けた部分もあったからな」
オルフェンは石材を戻した。
「俺たちが補修したのは、その欠けた部分だ。溝の全部を埋めたわけじゃない」
「なぜ?」
セレネが尋ねる。
「古い加工の跡かもしれなかったからだ。そういうものを勝手に削ったり埋めたりするわけにはいかん」
オルフェンは少し笑った。
「古い建物を直す仕事は、何でも新しくすればいいというものじゃない。残すべきものと、直すべきものを見極める必要がある」
セレネは静かに頷いた。
その考え方は、今まで二人が続けてきた記録調査とも、どこか似ているように思えた。
「では、当時の補修で刻印そのものを削ったり、埋めたりしたわけではないんですね」
ミラが確認すると、オルフェンは頷いた。
「俺の担当した範囲ではな。ただ、その前にどんな工事が行われていたのかまでは知らんよ」
セレネは図面に視線を戻した。
現在の壁には、三つの月相を表す刻印が残されている。
中央の円は摩耗して読めなくなっていたが、その状態が三十四年前から変わっていなかったのかどうかは、まだわからなかった。
「その壁に、何か模様があることには気づいていた?」
セレネが尋ねると、オルフェンの表情が変わった。
「……ああ」
少し間を置いて、彼は答えた。
「覚えている」
*
オルフェンは立ち上がり、工房の奥にある古い棚へ向かった。
いくつかの引き出しを開け、布で包まれた小箱を取り出す。箱の中には、使い込まれた手帳が数冊収められていた。
「仕事を始めた頃から、現場で気づいたことを手帳に書く癖があってな」
彼は一冊を選び、机の上に置いた。
「正式な記録とは別の、俺個人の覚え書きだ。大したことは書いていないが……」
オルフェンは慎重にページをめくった。
古い紙には、石材の寸法や補修箇所の簡単な図が並んでいる。文字は細かく、ところどころに汚れが付いていた。
「……あった」
彼が指を止めた。
セレネとミラが覗き込む。
そこには、三十四年前の作業日が書かれていた。
鐘楼の異常鳴動が報告された翌日。
日付は、補修台帳の記録と一致していた。
「これは……」
ミラの声が小さくなった。
ページには、地下通路の簡単な見取り図が描かれていた。
鉄扉。
右側の石壁。
そして、その壁面に刻まれた円形の模様。
セレネは息を止めた。
三つの小さな区画が、中央の円を囲んでいる。
昨日、鐘楼の地下で見た刻印と、よく似た配置だった。
「……これを、当時描いたの?」
セレネが尋ねる。
「ああ。見慣れない模様だったから、手帳に残しておいたんだ」
オルフェンは図の中央を指さした。
「ただし、細かい形までは正確じゃない。寸法を測ったわけでもないし、仕事の合間に描いたものだからな」
「それでも、配置は似ています」
ミラは昨日の写しを並べた。
三つの区画。
中心へ伸びる線。
そして、中央の円。
大まかな形は一致していた。
「つまり、この刻印は少なくとも三十四年前から見えていたのね」
セレネが呟いた。
「そういうことになるな」
オルフェンは頷いた。
ミラは手帳の下部へ視線を移した。
「……ここにも何か書かれていますね」
円形の模様の横には、短い注記が残されていた。
『中央部、異材あり。補修対象外。』
「異材……?」
セレネが小さく繰り返した。
オルフェンは目を細めた。
「ああ。思い出した」
彼は少し考えてから続けた。
「中央の部分だけ、周りの石と見た目が違っていたんだ」
「違う種類の石だったの?」
「そうかもしれん。暗い色をしていたのは覚えているが、材質までは調べなかった」
オルフェンは手帳を指さした。
「その部分には手を加えるなと、親方から言われていた」
「理由は聞いた?」
セレネが尋ねると、彼は首を横に振った。
「古い構造だから、余計なことをするなという話だったと思う。何か特別な意味があったのかは知らん」
セレネは中央の円を見つめた。
現在の刻印では、その部分の表面が不規則に傷み、元の形を判別できなくなっている。
しかし、三十四年前には、そこに周囲とは異なる材質らしい部分が見えていた。
「……ミラ」
セレネが声をかけた。
「ええ。現在の刻印と比較する価値がありますね」
ミラは頷いた。
「ただし、当時の材質が何だったのかは、この記録だけでは特定できません」
「そうね。でも、中央に何かがあった可能性は高くなったわ」
セレネは手帳から目を離さなかった。
三つの月相が囲む中心。
その場所に、周囲とは異なる何かが存在していた。
それが単なる装飾だったのか、それとも別の役割を持っていたのかは、まだわからなかった。
*
オルフェンの手帳には、補修内容についても細かな記録が残されていた。
表面の欠損。
補修材の種類。
作業した範囲。
そして、最後に短い一文が書き加えられていた。
『鐘停止中、壁面に微振動。原因不明。』
セレネの指が止まった。
「……これは?」
オルフェンは手帳を覗き込んだ。
「……ああ」
その表情が、少し険しくなった。
「そんなこともあったな」
ミラが顔を上げた。
「壁が振動したんですか?」
「ああ。補修する場所を確かめていたときだ。石に触れていた手へ、妙な震えが伝わってきた」
オルフェンは自分の右手を見つめた。
「ほんの短い間だった。大きく揺れたわけじゃない。だが、石を触っているときには、そういう細かな違いがわかることもある」
セレネは息を潜めた。
昨日、鐘楼の地下で起きたことを思い出す。
最初に感じたのは、足元から伝わる小さな振動だった。
その後、金属音が響き、半月の刻印が光った。
「そのとき、鐘は鳴っていたの?」
セレネが尋ねると、オルフェンは首を振った。
「いや。点検のために打鐘は止められていたはずだ」
「それは、覚えていること?」
「俺の記憶ではそうだ。ただ、当時の運用記録まで確認したわけじゃない」
ミラは慎重に書き留めた。
「振動を感じたとき、何か音は聞こえましたか?」
オルフェンは考え込んだ。
「……金属の音がしたような気もする。だが、そこははっきりしないな」
彼は手帳を見下ろした。
「この日の覚え書きにも、音については何も書いていない。なら、今の俺の記憶だけで判断するのはやめておいた方がいいだろう」
セレネは頷いた。
三十四年前、オルフェンは地下の壁面で微弱な振動を感じていた。
それは本人の手帳にも残されている。
しかし、その振動と異常鳴動が同じ原因だったのかどうかは、不明だった。
「このことは、当時の管理担当者にも伝えたの?」
セレネが尋ねた。
「ああ。親方には話した」
「何と言われたの?」
「建物の振動かもしれないから、今の作業を続けろと言われたよ」
オルフェンは肩をすくめた。
「俺も、その説明がおかしいとは思わなかった。鐘楼なんて大きな建物だからな。何かの振動が石を伝わってきても、不思議ではないだろう」
彼は手帳を閉じかけて、もう一度開いた。
「ただ、気になったから書き残した。それだけだ」
セレネは静かに頷いた。
当時の親方が、振動の正体を知っていたとは限らない。
不明な現象に対して、通常の建築物の振動だと考えた可能性もある。
今となっては、その判断が正しかったのかどうかも確かめられなかった。
「……それでも、残しておいてくれてよかったわ」
セレネが言うと、オルフェンは少し意外そうに目を向けた。
「そうか?」
「ええ。昨日、私たちも鐘楼の地下で振動を感じたの」
オルフェンの表情が変わった。
「……昨日?」
「正確には、一昨日よ。半月の刻印が光ったとき、地下で異常な振動が起きたの」
ミラは観測記録を取り出した。
「私たち三人が確認しています。発生時刻は午前十時十七分です」
オルフェンはしばらく紙を見つめていた。
「……三十四年経っても、同じようなことが起きているのか」
彼はそう呟いたが、すぐに首を振った。
「いや、同じかどうかはわからんか。俺が覚えているのは、壁が震えたということだけだからな」
セレネは頷いた。
「ええ。でも、その証言は大切だと思うわ」
*
しばらくして、ミラはオルフェンの手帳を閉じた。
「貴重なお話をありがとうございました。もしよろしければ、このページの内容を写させていただけませんか?」
オルフェンは頷いた。
「ああ。構わんよ。ただ、原本はここに置いておきたい」
「もちろんです。必要な部分だけ書き写します」
ミラは丁寧に図面を写し始めた。
セレネはその間、工房の壁際に並べられた道具を眺めていた。
古い鑿。
細い金属棒。
石材の表面を整えるための道具。
その多くには長年使い込まれた跡が残っている。
「……一つ、聞いてもいいかしら」
セレネが振り返った。
「何だ?」
「三十四年前の補修で、封鎖された鉄扉を開けなかった理由について、何か覚えている?」
オルフェンは少し考えた。
「扉には触るなと言われていた。それ以上のことは知らん」
「危険だったから?」
「それもわからん。管理担当者が、封鎖を維持するよう指示していたんだ」
オルフェンは椅子の背にもたれた。
「俺たちは石壁を補修するために呼ばれた。扉の向こうを調べる権限はなかったし、開ける必要もなかった」
「そう……」
セレネは小さく頷いた。
特別な理由があったから開けなかったとは限らない。
ただ、仕事の範囲に含まれていなかった。
それだけでも十分に説明できる。
「ただな」
オルフェンが続けた。
「今になって考えると、あの壁は少し変わっていた」
ミラも顔を上げた。
「どのような点ですか?」
「普通の壁なら、石材の継ぎ目は建物を支えるために造られている。だが、あの円形の模様の周りには、継ぎ目とは別の細い線があった」
オルフェンは机の上の見取り図を指さした。
「線は途中で壁の奥へ隠れていた。どこまで続いていたのか、俺にはわからなかったがな」
「昨日、私たちも似た溝を確認しました」
ミラが答えた。
「新しい石積みの下へ続いていたんです」
「なら、同じものかもしれん」
オルフェンは頷いた。
「ただし、内部を見ていない以上、溝が本当に繋がっているのかはわからん。表面の線が続いているように見えただけかもしれない」
セレネは手帳の写しを見つめた。
三十四年前にも確認されていた円形の刻印。
中央に残されていた異なる材質らしい部分。
そして、石壁の奥へ続くように見える細い溝。
どれも、現在の鐘楼地下で確認されたものと関係している可能性があった。
だが、まだ仕組みそのものを説明できるわけではない。
「……ありがとう、オルフェンさん」
セレネは静かに言った。
「あなたの話で、調べるべきことが少しはっきりしたわ」
オルフェンは小さく笑った。
「そうか。それなら、古い手帳を取っておいた甲斐があったな」
*
工房を出る頃には、午後の日差しが西へ傾き始めていた。
通りには仕事を終えた職人たちの姿が増え、金属を打つ音も少しずつ静かになっている。
セレネとミラは並んで歩きながら、今日の調査内容を確認していた。
「思っていた以上に、具体的な記録が残っていましたね」
ミラが言った。
「ええ。本人の記憶だけでなく、当時の手帳まで見せてもらえるとは思わなかったわ」
「特に、円形の刻印の写しは重要だと思います」
ミラは鞄の中の紙を確かめた。
「三十四年前にも、三つの区画が中央を囲む形で存在していたことがわかりました」
「それに、中央には今と違う状態の部分があったのね」
「はい。ただ、異なる材質だったという記述だけなので、何が使われていたのかまではわかりません」
セレネは頷いた。
「もう一つ、気になることがあるわ」
「壁面の振動ですね」
「ええ」
二人は大通りへ出た。
遠くには、大鐘楼が見えている。
「三十四年前の点検中にも、微弱な振動があったという記録が残っていた」
「はい。一昨日の現象と似ていますが、同じ原因だったとはまだ言えません」
ミラは少し考えた。
「それに、当時は本当に打鐘を停止していたのか、確認が必要ですね」
「そうね。オルフェンさんは覚えていると言っていたけれど、運用記録が残っていれば、確かめられるかもしれないわ」
ミラは手帳に新しい調査項目を書き加えた。
三十四年前の打鐘停止記録。
地下補修の作業票。
そして、中央の円に使われていた材質の確認。
「まずは、ヴァルトさんに報告しましょう」
ミラが言った。
「ええ。今日の資料を見せれば、追加調査の必要性も伝わると思うわ」
二人は記録院へ向かって歩き始めた。
*
夕方、記録院の閲覧室には、オルフェンの手帳から写した図面が広げられていた。
ミラは古い補修記録と、新しく得た情報を照合していた。
セレネは隣で、現在の鐘楼地下の刻印と、三十四年前の写しを見比べている。
二つの図面は、完全には一致していなかった。
線の角度や長さが異なり、古い写しには省略された部分も多い。しかし、三つの区画が中央の円を囲むという基本的な構成は共通していた。
「……ここね」
セレネは古い写しの中央を指さした。
『異材あり。補修対象外。』
短い注記。
三十四年前、そこには周囲と異なる材質らしい部分があった。
「現在の刻印では、その部分がかなり傷んでいましたね」
ミラが言った。
「ええ。もともと文字だったのか、装飾だったのかもわからない状態だったわ」
「もし古い補修図面や作業票に、もっと詳しい形が残されていればいいのですが」
セレネは頷いた。
「でも、少なくとも三十四年前の補修で、中央の部分が新しく造られたわけではなさそうね」
「そうですね。オルフェンさんの話では、作業を始めた時点で既に存在していたようです」
ミラは筆を取り、確認できた情報を書き加えた。
『三十四年前、刻印中央に異材らしい部分を確認。』
『同日の個人手帳に、壁面の微振動を記録。』
『補修対象は周辺の表面欠損。刻印全体の修復ではない。』
セレネはその三行を読み返した。
「……不思議ね」
「何がですか?」
「三十四年前の異常音を調べていたはずなのに、今はそれより古い構造のことが気になっているわ」
ミラは少し考えた。
「原因が現在の設備にあるとは限りませんからね。でも、古い構造が関係しているとしても、そこへ至る経緯を調べる必要があります」
セレネは静かに頷いた。
三十四年前の人々も、古い壁を残したまま補修していた。
そして現在、その壁の刻印が発光し、原因不明の振動が発生している。
二つの出来事の間に直接の因果関係があるかどうかは、まだわからない。
しかし、同じ壁面に関する記録が、時代を隔てて残されていることは確かだった。
「……ミラ」
セレネが口を開いた。
「はい?」
「三十四年前の作業票が見つかれば、補修前の状態をもう少し詳しく確認できるかもしれないわね」
「ええ。管理部門に保管先の照会をお願いしていますから、返答を待ちましょう」
ミラは図面を丁寧に重ねた。
「その間に、当時の打鐘記録も探してみます」
「お願いするわ」
セレネは机の上の写しへ、もう一度視線を向けた。
三つの区画。
中央の円。
その外側へ続く細い線。
三十四年前に描かれた粗い図だったが、そこには今も確かめられていない情報が残されていた。
*
その夜、セレネは宿の部屋で、オルフェンの手帳の写しを眺めていた。
机には、鐘楼地下の新しい見取り図も広げている。
二つを並べると、中央の円に関する記録の違いがよくわかった。
三十四年前の手帳には、異なる材質の部分があると書かれている。
しかし、現在の図面には、摩耗して判別できない部分として記録されていた。
いつ、どのように変化したのか。
それを知るには、もっと古い記録が必要だった。
セレネは写しを手に取った。
オルフェンは、古い壁に残された模様を理解していたわけではない。
ただ、職人として気になったことを記録していただけだった。
それでも、その短い記述は三十四年後の今、重要な手掛かりになっている。
セレネは窓の外へ視線を向けた。
大鐘楼は、今夜も沈黙していた。
定時になっても鐘は鳴らず、街には人々の生活音だけが響いている。
彼女はその静けさに耳を澄ませた。
一昨日、地下で起きた振動。
三十四年前、オルフェンが石壁に触れたときに感じた震え。
二つが同じものだったのかは、まだわからない。
しかし、どちらも古い壁の近くで確認されていた。
「……何が、残されているのかしら」
セレネは小さく呟いた。
旧照応施設。
その名前を持つ地下の構造は、現在の鐘楼よりも古い。
百八十年前の大規模改修でも撤去されず、三十四年前の補修でも残されていた。
そして今も、封鎖された鉄扉の向こうへ続いている。
セレネは机の上の図面へ視線を戻した。
三つの月相の刻印。
それぞれが中央の円へ向かって繋がっている。
昨日まで、その中央には文字が刻まれていたのかもしれないと考えていた。
けれど、オルフェンの手帳に残された記述は、別の可能性を示していた。
そこには、何かが埋め込まれていたのかもしれない。
石とは異なる材質の、何かが。
それが単なる装飾だったのか、古い構造の一部だったのかは、今もわからなかった。
セレネは手帳の余白に、一つの疑問を書き加えた。
『中央の異材は、何のために設けられていたのか。』
そして、もう一つ。
『三十四年前の振動と、現在の異常現象に共通する原因はあるか。』
書き終えたあと、筆を置いた。
今日の調査で、答えが見つかったわけではない。
それでも、三十四年前の出来事は、以前よりも具体的なものになった。
異常鳴動の翌日に地下を訪れた技術者がいた。
その人物は、石壁に刻まれた模様を見ていた。
そして、壁面の微弱な振動を感じ、そのことを手帳に残していた。
セレネは静かに紙を畳んだ。
失われた記録の中にも、まだ探すべきものがある。
しかし、今夜の彼女が最も気にしていたのは、三十四年前の作業票でも、鐘楼の古い図面でもなかった。
オルフェンの手帳に残されていた、短い一文だった。
――中央部、異材あり。補修対象外。
三十四年前の職人たちは、そこに何かがあることを知りながら、手を加えなかった。
それは、古いものを残すための判断だったのかもしれない。
だが、もしその部分が、単なる装飾ではなかったとしたら。
セレネは窓の外を見上げた。
雲の間から、淡い月の光が差し込んでいる。
大鐘楼は、静かに街を見下ろしていた。
その地下には、三十四年前から変わらず封鎖された鉄扉がある。
そして、扉のすぐ近くには、役割のわからない円形の刻印が残されている。
セレネは最後に、古い手帳の写しへ視線を戻した。
三十四年前の職人が、何気なく描き残した小さな円。
その中心に何があったのか。
それを知ることが、鐘楼で起きている異常の正体に近づく手掛かりになるのかもしれなかった。