月は、失われた名を憶えている   作:ノイリ

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第14話 欠けた中心

大鐘楼の鐘が止まって、三日目の朝を迎えた。灰鐘市の中央広場には、普段よりも多くの人が集まっていた。鐘楼の管理部門が設置した掲示板には、時報停止のお知らせと、時計による時刻確認を呼びかける文章が貼られている。

 

商人たちは店先の時計を確かめながら開店の準備を進め、通りを行く人々も、ときおり塔を見上げていた。セレネはその様子を眺めながら、記録院へ向かって歩いていた。

 

鐘の音が聞こえなくなっても、街の時間が止まるわけではない。それでも、長く当たり前だったものが失われると、人々の暮らしには小さな変化が生まれる。

 

セレネは大鐘楼を見上げた。

 

三日前、あの地下では原因不明の振動と異常音が発生した。半月の刻印が光ったことも、今では正式な観測記録として残されている。しかし、その原因はまだ特定されていなかった。

 

昨日は、三十四年前の地下補修に参加した元技術者、オルフェン・リードから話を聞いた。彼の手帳には、現在の鐘楼地下に残る円形の刻印とよく似た図が描かれていた。

 

さらに、刻印の中央部分に、周囲とは異なる材質らしいものが存在したことも記録されている。

 

セレネは鞄に入れた写しを思い浮かべた。

 

三つの月相が囲む円。その中心に、かつて何があったのだろう。

 

記録院の建物が見えてきたところで、セレネは足を速めた。

 

*

 

閲覧室では、ミラが昨日の資料を整理していた。机の上には、オルフェンの手帳の写しと、鐘楼地下で作成した新しい見取り図が並べられている。

 

「おはようございます、セレネさん」

「おはよう、ミラ。昨日の資料を見直していたの?」

「はい。それと、今朝ヴァルトさんから連絡がありました」

 

ミラは一通の封書を差し出した。

 

「三十四年前の補修作業票が見つかったそうです」

「……本当?」

「ええ。管理部門の別の保管庫に、当時の作業関係書類がまとめて残されていたようです」

 

セレネは封書を受け取り、内容を確かめた。ヴァルトからの連絡には、作業票の存在が確認できたことと、記録院の調査への協力を継続する旨が記されていた。

 

「今日、見せてもらえるのかしら」

「はい。午前中なら管理室で確認できるそうです」

 

ミラは机の上の図面を指さした。

 

「昨日の手帳では、中央部分に異なる材質のものがあったことまでしかわかりませんでした。でも、正式な作業票に寸法や状態が残っていれば、もう少し詳しく調べられるかもしれません」

「そうね。現在の刻印と比較するためにも、当時の記録を確かめたいわ」

 

セレネは二枚の写しを見比べた。

 

三十四年前の手帳では、中央の円が比較的はっきり描かれている。一方、現在の刻印では、その部分の表面が不規則に傷み、元の形を判別できなくなっていた。

 

しかし、古い図面が明瞭に描かれているからといって、当時の実物も同じように明瞭だったとは限らない。描いた人物が、見えにくい部分を補っていた可能性もある。

 

「……まずは、作業票を確認しましょう」

「はい。資料を持ってきますね」

 

ミラは写しを丁寧に重ね、鞄へ収めた。

 

*

 

大鐘楼の管理室では、ヴァルトが二人を待っていた。長机には古い書類が広げられ、その隣には昨日までの点検報告書が積まれている。

 

「おはようございます。早速来ていただいて助かります」

 

ヴァルトは席を勧めた。

 

「昨日、保管庫の整理担当から連絡がありましてね。三十四年前の補修作業票が、当時の工事関係書類と一緒に見つかったんです」

「オルフェンさんが参加していた作業の記録ですね」

 

ミラが尋ねると、ヴァルトは頷いた。

 

「ええ。管理番号も一致しています」

 

彼は古い書類を一枚取り出した。紙は黄ばんでいたが、文字は比較的よく残っていた。

 

そこには、鐘楼地下の補修作業について、作業箇所や使用材料、確認事項などが記されている。

 

セレネは慎重に目を通した。

 

『地下北側基礎壁面。表面欠損部の補修。』

 

『旧加工痕を避け、周辺石材のみ処置。』

 

『中央部異材については補修対象外。』

 

最後の一文を見たとき、セレネの指が止まった。

 

「……中央部異材」

 

ミラも書類を覗き込んだ。

 

「オルフェンさんの手帳と同じ表現ですね」

「はい。正式な作業票にも記載されていました」

 

ヴァルトは別の紙を取り出した。

 

「こちらが、そのときの簡単な図面です」

 

そこには、鉄扉の右側にある壁面が描かれていた。大きな円形の刻印と、三つに分かれた区画。そして、その中央には黒く塗られた小さな円がある。

 

セレネは息を呑んだ。

 

昨日見せてもらったオルフェンの手帳よりも、細かな形が記されている。中央の円には輪郭線が引かれ、周囲の石材とは区別して描かれていた。

 

「……何かが埋め込まれているようにも見えるわね」

 

セレネが呟くと、ヴァルトは頷いた。

 

「私もそう思いました。ただ、図面だけで構造を断定することはできません」

「寸法は残っていますか?」

 

ミラが尋ねた。

 

「ええ。中央部の大きさと、周囲の刻線までの距離が記されています」

 

ヴァルトは該当する数字を示した。

 

セレネは現在の見取り図を取り出した。二つの図面を並べると、中央の円の位置はおおむね一致している。しかし、現在の刻印では、輪郭の一部を確認できなかった。

 

「三十四年前の図面では、中央の形が明確に描かれているのね」

「はい。ただ、現在との違いが実際の変化によるものなのか、図面の描き方によるものなのかは、まだ判断できません」

 

ミラは慎重に答えた。

 

「それでも、当時の作業員が中央部分を周囲と区別していたことは確かですね」

 

ヴァルトは作業票を指さした。

 

「ええ。それに、この記録によれば、三十四年前の補修では中央の異材に手を加えていません」

 

セレネはもう一度、作業票を読んだ。

 

中央部異材については補修対象外。

 

その短い記述は、オルフェンの証言とも一致していた。

 

「ヴァルトさん」

 

セレネが顔を上げた。

 

「この中央部分が、今どうなっているのかを確かめることはできないかしら」

 

ヴァルトは少し表情を曇らせた。

 

「それが、簡単にはいかない状況なんです」

 

*

 

ヴァルトは机の上に、別の通知書を広げた。

 

「昨日の安全点検で、地下の古い壁面について、追加の保全措置が検討されることになりました」

 

ミラが顔を上げた。

 

「保全措置、ですか?」

「ええ。原因不明の振動が確認された以上、古い石材がさらに損傷する可能性を考えなければなりません」

 

ヴァルトは図面の一角を指さした。

 

そこは、三つの月相の刻印が残されている壁だった。

 

「現在、あの周辺を仮設の支持材で保護する案が出ています。場合によっては、表面に保護材を取り付けることになるかもしれません」

「……刻印の上にも?」

 

セレネが尋ねると、ヴァルトは頷いた。

 

「施工方法によっては、そうなる可能性があります」

 

ミラはすぐに書類を確認した。

 

「それでは、刻印の状態を直接観察できなくなるかもしれませんね」

「ええ。ただし、まだ工事内容が確定したわけではありません。保全担当者が、どの程度の処置が必要か検討している段階です」

 

セレネは現在の見取り図に目を落とした。

 

中央部分の状態は、まだ詳しく調べられていない。仮に保護材で覆われれば、その機会はさらに遠のくことになる。

 

「……調査が終わるまで、待ってもらうことはできないのかしら」

 

セレネが尋ねた。

 

ヴァルトは少し考えた。

 

「安全上の問題がありますから、無条件に延期することはできません。ただ、文化的な価値を持つ遺構である可能性が示されれば、施工方法を見直す理由にはなります」

 

ミラは古い作業票へ視線を向けた。

 

「この刻印は、少なくとも三十四年前には記録されています。しかも、当時の補修では旧加工痕を残すよう指示されています」

「ええ」

 

ヴァルトは頷いた。

 

「それは重要な情報です。今回の書類が見つかっていなければ、単なる石壁の損傷と判断されていた可能性もあります」

 

ミラは手帳を開いた。

 

「では、古い刻印の保全と、必要な調査の実施を求める意見書を提出したいと思います」

「受け付けることはできます。ただ、判断するのは保全担当部門になります」

 

セレネはミラを見た。

 

「私にも手伝えることはある?」

「もちろんです。セレネさんには、古い文字の読み取りについて確認をお願いしたいです」

 

ミラは作業票と、現在の刻印の写しを並べた。

 

「欠月、半月、満月。それに照応という言葉が、異なる時代の記録に残されています。単なる装飾ではない可能性を、資料に基づいて説明できると思うんです」

「わかったわ」

 

セレネは頷いた。

 

古い建物を残すためには、何が重要なのかを説明する必要がある。ただ守ってほしいと願うだけでは、管理部門も判断できない。

 

そして今、そのための根拠が少しずつ揃い始めていた。

 

「……なら、できることをしましょう」

 

セレネが言うと、ミラも頷いた。

 

*

 

昼前、二人は記録院へ戻った。

 

閲覧室には、古い測量記録と鐘楼地下の資料が広げられている。ミラは意見書の草案を書き、セレネは刻印に関する古い文字を確認していた。

 

三つの月相と特殊接続路。そして、照応という言葉。

 

それらは、作成された時代も場所も異なる資料に残されていた。

 

「……ここまでは、事実として書けるわね」

 

セレネが言うと、ミラは頷いた。

 

「はい。月相と特殊接続路の関係については、古い測量記録がありますし、鐘楼地下にも対応する刻印が確認されています」

 

ミラは文章を書き進めた。

 

意見書には、三つの月相が刻まれた壁面の保存価値と、現時点で確認されている資料の関係を記した。ただし、三つの入口が同じ場所へ繋がるという仮説は、証明された事実として扱わなかった。

 

旧照応施設の正確な役割も未解明であることを明記し、非破壊調査による記録の必要性を訴えた。

 

「……ミラ」

 

セレネが声をかけた。

 

「はい?」

「少し、不思議な気がするわ」

「何がですか?」

「私たちは古い記録を調べていたのに、今度は自分たちが記録を残しているのね」

 

ミラは筆を止めた。

 

そして、少しだけ笑った。

 

「そうですね。でも、記録を残すというのは、そういうことなのかもしれません」

「どういうこと?」

「今わかっていることを、あとから調べる人が確かめられるようにしておくことです」

 

ミラは机の上の古い作業票へ目を向けた。

 

「三十四年前の職人さんたちも、きっと今の私たちのために書いたわけではないと思います。でも、その記録があったから、今回の刻印を詳しく調べる理由ができました」

 

セレネは静かに頷いた。

 

オルフェンの手帳も同じだった。誰かに読ませるためではなく、自分が気づいたことを書き留めていただけだった。

 

それが三十四年後の今、重要な手掛かりになっている。

 

「……なら、私たちも正確に残さないといけないわね」

「ええ。わからないことまで、わかったように書かないように」

 

ミラは筆を取り直した。

 

二人は資料を照合しながら、意見書を完成させた。

 

*

 

午後、ミラは完成した書類を鐘楼管理部門へ提出した。

 

ヴァルトは内容を確認し、保全担当者との協議に持ち込むことを約束した。

 

「安全確認は続けます。ただ、刻印の存在を無視したまま工事を進めることは避けたいと思います」

 

ヴァルトはそう告げた。

 

「ありがとうございます」

 

ミラが頭を下げる。

 

「それと、もう一つお願いがあります」

 

ヴァルトは手元の資料を示した。

 

「三十四年前の作業票には、現在の中央部分とは異なる状態が記録されています。この違いがいつ生じたのか、調べることはできますか?」

 

ミラは少し考えた。

 

「補修履歴を年代順に確認する、ということですね」

「ええ。鐘楼は三十四年前にも、その後にも何度か点検を受けています。すべての記録が残っているとは限りませんが、調べる価値はあると思います」

 

セレネは顔を上げた。

 

「……中央部分に、何か変更が加えられた可能性を調べるのね」

「そうです」

 

ヴァルトは頷いた。

 

「もちろん、古い図面と現在の状態の違いが、実際の変化によるものとは限りません。それでも、途中で部材が交換されたり、取り外されたりしていれば、作業記録が残っている可能性があります」

 

ミラは手帳を開いた。

 

「わかりました。記録院でも、鐘楼関係の工事目録を確認してみます」

「お願いします。管理部門の方でも調べてみましょう」

 

セレネは三十四年前の図面を見つめた。

 

中央の黒い円。

 

そこに何があったのかを知るには、現在との違いが生まれた経緯を確かめる必要がある。

 

今度は、探すべき対象が明確だった。

 

*

 

夕方、記録院の資料整理室には、年代順に並べられた鐘楼の補修目録が広がっていた。

 

ミラは机の上に複数の台帳を置き、三十四年前から現在までの記録を一つずつ確認していた。セレネも隣に座り、古い工事名や作業内容を読み取っている。

 

「……思っていたより、多いのね」

 

セレネが呟いた。

 

「ええ。鐘楼は古い建物ですから。外壁の補修や階段の修理、雨水対策など、小さな工事は何度も行われています」

 

ミラは目録をめくった。

 

三十四年前の地下補修。その数年後の支持材点検。さらに別の時期には、通路の補強工事が記録されていた。

 

しかし、地下の円形の刻印について、直接説明した資料は見当たらなかった。

 

「……名称だけでは、内容がわからないものもあるわね」

 

セレネが言うと、ミラは頷いた。

 

「はい。詳しい工事内容は、別の作業記録を見ないとわからない場合があります」

 

ミラは一冊の目録を閉じ、次の台帳へ手を伸ばした。

 

そのとき、セレネがある記述に気づいた。

 

「……ミラ。ここを見てくれる?」

 

指さしたのは、今から十七年前の記録だった。

 

作業名は、鐘楼地下保全点検。

 

通常の点検記録と同じように、実施日と管理番号が記されている。しかし、備考欄には短い一文が残されていた。

 

『旧部材一点、保管移管。』

 

ミラは顔を近づけた。

 

「……保管移管?」

「何かが、別の場所へ移されたということかしら」

「そう読めます。でも、どの部材なのかは、この目録だけではわかりません」

 

セレネは続きを確認した。

 

備考欄には、移管先を示す番号も記されている。ミラは別の台帳を取り出し、保管区分の一覧から対応する番号を探した。

 

しばらくして、一つの項目が見つかった。

 

『市立資料保全庫』

 

「……資料保全庫?」

 

セレネが呟いた。

 

「はい。建築物から取り外された古い部材や、保存対象となった資料などを保管する施設です」

 

ミラは番号を手元の紙に書き写した。

 

「ただし、移管先が記されているからといって、今もそこに現物があるとは限りません。別の施設へ移された可能性もありますから」

 

セレネは十七年前の記録を見つめた。

 

三十四年前、刻印の中央には周囲と異なる材質らしい部分が存在していた。

 

現在、その部分は不規則に傷み、元の形状を確認できない。

 

そして、その間の時期に、鐘楼地下から何かの部材が移管されたという記録が残されていた。

 

これらが同じものを指しているかどうかは、まだわからない。

 

「……まずは、移管された部材が何だったのかを調べましょう」

 

セレネが言うと、ミラは頷いた。

 

「ええ。保全庫の受領記録に、詳しい説明が残っているかもしれません」

 

*

 

市立資料保全庫の収蔵品目録は、記録院にも閲覧用の控えが保管されていた。

 

現物の保管と管理は市立資料保全庫が担当しているが、受領や移管の履歴については、記録院でも確認できる仕組みになっている。

 

二人は資料整理室から、保全庫の目録を扱う別室へ移動した。

 

そこには、古い保管物の受領記録や移送台帳の控えが、管理番号ごとに収められていた。

 

ミラは担当職員に事情を説明し、閲覧が認められた範囲の目録を調べ始めた。

 

セレネは机の上に置かれた移管番号を見つめた。

 

十七年前。

 

自分が五年前に目覚めるよりも、ずっと前の出来事だ。

 

その頃、鐘楼の地下では何らかの保全作業が行われていたらしい。

 

その作業が現在の異常現象に関係しているとは限らない。しかし、中央の円に何があったのかを知るためには、見逃せない記録だった。

 

やがて、ミラが一冊の台帳を持って戻ってきた。

 

「セレネさん。対応する受領記録が見つかりました」

 

彼女は机の上に台帳を広げた。

 

そこには、保全庫が受け入れた物品の名称と数量、移管元が記されている。

 

「……これですね」

 

ミラが指さした。

 

管理番号は、鐘楼の移管記録と一致していた。

 

移管元は、大鐘楼管理部門。

 

記録された受領時期は、十七年前。

 

そして、物品欄には短い名称が記されていた。

 

『旧地下基礎由来 円形異材 一点』

 

セレネは息を止めた。

 

「……円形異材」

 

ミラも、しばらく言葉を発しなかった。

 

三十四年前の補修作業票。

 

そこには、刻印の中央部分について、同じような言葉が使われていた。

 

『中央部異材については補修対象外。』

 

セレネは二つの記録を見比べた。

 

「……同じものなのかしら」

 

ミラは慎重に答えた。

 

「可能性はあります。ただ、この受領記録には具体的な寸法がありません。刻印の中央にあったものだと断定するには、まだ情報が足りません」

 

セレネは頷いた。

 

同じ鐘楼地下から移管された円形の異材ではある。しかし、地下の別の場所に存在していた部材である可能性も残されている。

 

「保管されている場所は、わかるの?」

 

セレネが尋ねると、ミラは台帳の次の欄を確認した。

 

「受領時の保管区画が記されています。ですが……」

 

ミラの言葉が止まった。

 

保管番号の下には、別の注記が残されていた。

 

『現物照合未了。』

 

セレネは眉を寄せた。

 

「……照合未了?」

「受領記録は存在していますが、現物との照合が完了していない、という意味だと思います」

 

ミラは注記の周囲を確認した。

 

「ただ、この記述がいつ書き加えられたのかは、わかりません。受領時の確認が未了だったのか、その後の点検で付けられたものなのかも不明です」

「では、今も保全庫に残っているかどうかは……」

「確認できていません」

 

セレネは静かに頷いた。

 

記録上、十七年前に円形の部材が移管され、資料保全庫で受領されたことになっている。

 

しかし、現在の所在は未確認だった。

 

まして、それが三十四年前の図面に描かれていた中央の異材なのかどうかも、判断できなかった。

 

「……調べる方法はあるのかしら」

 

セレネが尋ねた。

 

ミラは少し考えた。

 

「現物の確認を申請することはできます。ただ、収蔵品の閲覧や調査には、保全庫側の許可が必要です」

「それなら、まずは申請しましょう」

 

ミラは頷き、必要な管理番号を書き留めた。

 

「受領記録の控えだけでは、これ以上はわかりませんね。現物が残っていれば、その形や材質を確かめられるかもしれません」

 

セレネは台帳へ目を落とした。

 

三十四年前に記録された、刻印中央の異材。

 

十七年前に移管されたと記されている、円形の部材。

 

その二つを結ぶ証拠が存在するかどうかは、まだわからない。

 

しかし、調べるべき場所は見つかった。

 

*

 

資料保全庫の現物確認を申請するため、ミラは担当職員から必要な書類を受け取った。

 

申請には、調査の目的と対象の管理番号、現物確認が必要な理由を記載しなければならないという。

 

二人は閲覧室へ戻り、申請書の作成に取りかかった。

 

「……理由は、中央異材との比較でいいのかしら」

 

セレネが尋ねた。

 

「はい。ただ、同一物であることを前提に書かない方がいいですね」

 

ミラは資料を確認しながら答えた。

 

「三十四年前の補修作業票に異材の記録があり、十七年前の受領記録にも円形異材が記載されている。その関連性を確認するための調査、としましょう」

 

セレネは頷いた。

 

ミラは申請書を書き進めた。

 

移管記録と受領記録の管理番号。

 

鐘楼地下で発見された刻印の見取り図。

 

そして、比較に必要な項目として、形状、寸法、材質、保存状態を挙げた。

 

「これなら、現物が確認できたときに何を調べるべきか、はっきりしていますね」

 

ミラが言った。

 

「ええ。でも、もし見つからなかったら?」

「その場合は、保管場所の変更記録や、過去の点検記録を確認する必要があります」

 

ミラは筆を置いた。

 

「ただ、どこまで調査できるかは、保全庫の管理状況によります。申請が認められても、すぐに現物を見られるとは限りません」

「そうね。今は、できるところから進めましょう」

 

二人は書類を確認し、記録院の担当窓口へ提出した。

 

受理を確認してから閲覧室へ戻る頃には、窓の外が夕暮れの色に染まり始めていた。

 

*

 

記録院を出ると、中央広場には灯りがともり始めていた。

 

大鐘楼は、今夜も静かだった。

 

セレネとミラは、広場を横切りながら今日の調査を振り返っていた。

 

「……今日は、思わぬ記録が見つかりましたね」

 

ミラが言った。

 

「ええ。鐘楼の地下から、円形の部材が移されたという記録があるなんて、思わなかったわ」

「それが刻印の中央にあったものなら、現在の状態を考えるうえで重要な手掛かりになります」

「でも、まだ同じものだと決まったわけではないのよね」

「はい。まずは現物の確認ですね」

 

セレネは大鐘楼を見上げた。

 

三日前、あの地下では半月の刻印が光った。

 

中央部分の役割がわからないままでも、発光と振動が発生したことは事実として残されている。

 

もし十七年前に中央の異材が取り外されていたのだとしても、それだけで発光の仕組みを説明できるわけではない。

 

「……セレネさん」

 

ミラが声をかけた。

 

「何かしら?」

「今日の移管記録について、一つ気になっていることがあります」

 

セレネは視線を戻した。

 

「何?」

「三十四年前の補修では、中央部分は手を加えずに残されていますよね」

「ええ」

「でも、その後に中央の部材が取り外されたのだとしたら、何か理由があったはずです」

 

セレネは少し考えた。

 

「保全のためだったのかもしれないわ。それに、移されたものが別の部材だった可能性もあるもの」

「……そうですね」

 

ミラは頷いた。

 

「取り外されたと決めつけるより、まずは移管の経緯を調べた方がよさそうです」

「ええ。理由がわかれば、当時の人たちが何を守ろうとしていたのかも、少しは見えてくるかもしれないわね」

 

二人は通りの分かれ道で足を止めた。

 

「それでは、また明日」

「ええ。また明日ね」

 

ミラを見送ったあと、セレネは宿へ向かって歩き始めた。

 

*

 

その夜、セレネは机の上に三枚の図面を並べていた。

 

一枚は、三十四年前の補修作業票に添えられていたもの。

 

もう一枚は、オルフェンが個人的な手帳に残した写し。

 

そして最後は、三日前に鐘楼地下で確認した現在の刻印だった。

 

どの図にも、三つの月相が中央を囲む構成が残されている。

 

欠月。

 

半月。

 

満月。

 

それぞれの区画から、中央へ向かって細い線が伸びていた。

 

セレネは二枚の古い図面を手に取った。

 

作業票に添えられた図では、中央の円が黒く塗られ、その輪郭も比較的明瞭に描かれている。

 

オルフェンの手帳では、そこに『異材あり』という短い注記が付けられていた。

 

一方、現在の見取り図には、中央部分の表面が不規則に傷み、形状を読み取れないことが記されている。

 

古い図面が正確だったのなら、三十四年前には現在よりもはっきりした形が残っていたのかもしれない。

 

しかし、実際に部材が変化したのか、描き方の違いによるものなのかは、現時点では判断できなかった。

 

セレネは図面を机に戻した。

 

そして、新しく手に入れた移管記録の写しを広げた。

 

『旧地下基礎由来 円形異材 一点』

 

短い名称だけが、その部材について記されている。

 

材質も、正確な寸法も、用途も書かれていない。

 

ただ、十七年前に大鐘楼の地下から移管されたという記録があり、受領先も残されていた。

 

セレネは筆を取り、調査記録に新しい項目を書き加えた。

 

『十七年前、大鐘楼地下から円形異材一点が市立資料保全庫へ移管された記録あり。』

 

その下に、さらに二行を記す。

 

『現物の所在および保存状態は未確認。』

 

『三十四年前に記録された中央異材との同一性は不明。』

 

セレネは筆を置いた。

 

今夜、答えが出たわけではない。

 

それでも、かつて刻印の中央に何が存在していたのかを調べるための、新しい手掛かりが見つかった。

 

もし現物が残されているなら、その材質や形状を直接確認できるかもしれない。

 

そして、古い作業票に描かれた中央の円と比較することもできる。

 

セレネは窓辺に立った。

 

雲の向こうには、白い月が浮かんでいる。

 

大鐘楼は今夜も沈黙していた。

 

三十四年前、職人たちは古い刻印の中央にあるものを、補修の対象から外していた。

 

その判断が何を意味していたのかは、わからない。

 

けれど、彼らが残した記録は、今も確かに存在している。

 

そして十七年前には、鐘楼地下から円形の部材が移管されたという記録が残されていた。

 

二つの記録は、まだ繋がっていない。

 

その間に何があったのかも、わからない。

 

セレネは静かに目を閉じた。

 

次に確かめるべきものは、古い言葉でも、図面でもない。

 

記録の中に残された、円形の部材そのものだった。

 

もし、それが今もどこかに保管されているのなら。

 

三十四年前の職人が見たものを、自分たちも確かめられるかもしれない。

 

セレネは机の上の資料を丁寧に重ねた。

 

窓の外では、風が静かに街を通り抜けていった。

 

鐘の音は聞こえなかった。

 

ただ、月明かりだけが、三枚の図面に描かれた小さな円を淡く照らしていた。

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