朝の記録院には、まだ訪れる人の姿が少なかった。
閲覧室の窓からは柔らかな日差しが差し込み、整然と並んだ書棚の間を静かに照らしている。セレネが扉を開けると、ミラは机の上で一通の書類を確認していた。
「おはよう、ミラ」
「おはようございます、セレネさん。ちょうど連絡が届いたところです」
ミラは顔を上げ、書類を差し出した。
差出人は、市立資料保全庫だった。
「昨日の申請について、回答がありました」
「……もう?」
「ええ。対象の管理番号が判明していたので、早めに確認していただけたようです」
セレネは書類を受け取り、内容を確かめた。
記されていたのは、現物の所在確認と外観調査に関する限定的な許可だった。調査には保全庫の担当者が立ち会い、収蔵品の取り扱いは職員のみが行うこととされている。
材質を調べるための試料採取や、魔力を用いた干渉も認められていなかった。
「直接、確かめられるのね」
「はい。ただし、現物が見つかることを保証するものではないそうです」
ミラは別の書類を取り出した。
「受領記録にあった『現物照合未了』という注記についても、詳しい経緯は確認できていないようです。まずは、記録された保管区画から探すことになります」
十七年前、大鐘楼の地下から移管されたという円形の部材。
その受領記録は残されていたが、現在も保全庫に存在するかどうかはわかっていない。仮に見つかったとしても、三十四年前の補修作業票に描かれていた中央の異材と、同じものだとは限らなかった。
「準備しておいた資料を持っていきましょう」
ミラは机の上の図面を揃えた。
三十四年前の補修作業票と、オルフェンの手帳の写し。そして、現在の鐘楼地下で確認した刻印の見取り図。
作成された時代も、記録の精度も異なる資料だったが、比較の手掛かりにはなるはずだった。
「それと、保全庫では古い収蔵品を扱いますから、勝手に触れないよう気をつけてくださいね」
「わかっているわ」
セレネは微かに笑った。
「今日は月蝶も使わないつもりよ。まずは、そこに何があるのかを自分の目で確かめたいもの」
「ありがとうございます」
ミラは書類を鞄へ収めた。
「では、行きましょう」
*
市立資料保全庫は、灰鐘市の南側に位置していた。
街の中心部から少し離れた場所にあり、周囲には古い公共施設や倉庫が並んでいる。人通りはそれほど多くなく、建物の前には荷物の搬入に使われる広い石畳が敷かれていた。
保全庫は厚い石壁に囲まれた建物だった。窓は少なく、入口には頑丈な鉄扉が設けられている。
二人が受付で許可書を提示すると、奥から一人の女性が現れた。
年齢は三十代後半ほどだろうか。暗い栗色の髪を後ろで束ね、落ち着いた色の作業服を身につけている。
「記録院のミラさんですね」
女性は書類を確認した。
「保全庫の収蔵管理を担当している、フィオナです。今回の調査には私が立ち会います」
「よろしくお願いします」
「こちらこそ。調査対象については、事前に目録を確認しています」
フィオナは二人を受付の奥へ案内した。
「ただ、一つお伝えしておかなければならないことがあります」
「何でしょうか?」
ミラが尋ねる。
「今回の管理番号に対応する収蔵品は、最新の台帳では所在確認が完了していません」
セレネは足を止めた。
「……見つかっていないということ?」
「正確には、現在の保管位置と古い記録が一致していない状態です」
フィオナは廊下を歩きながら説明した。
「十七年前に受領したことを示す記録は残っています。しかし、その後に保管区画の整理が行われ、古い管理番号と新しい番号の対応が一部不明確になっています」
「それで、現物照合未了という注記が付けられていた可能性があるんですね」
ミラが言うと、フィオナは頷いた。
「ええ。ただし、注記がいつ付されたのかは不明です。受領時の問題だったのか、その後の整理によって生じたものなのか、現段階では判断できません」
受領したという記録と、現在の所在を示す記録。
その二つが、途中で繋がらなくなっている。
「まずは、元の保管区画を確認します」
フィオナは廊下の奥にある扉を開けた。
「そこに現物がなければ、移動記録を辿りましょう」
*
保管室の中は、外よりも涼しかった。
高い天井の下には頑丈な棚が並び、木箱や布に包まれた収蔵品が整然と置かれている。それぞれには管理番号を記した札が付けられ、棚ごとに保管区画が分けられていた。
フィオナは手元の台帳を確認し、通路を進んでいった。
「こちらです」
案内されたのは、壁際に設けられた古い保管棚だった。
棚には大小さまざまな木箱が並んでいる。その中には長い年月を経たためか、表面の文字が薄くなっているものもあった。
フィオナは一つずつ番号を確認した。
やがて、棚の中段で手を止める。
「……この位置ですね」
セレネは示された棚を見つめた。
そこには小さな木箱が二つ並んでいた。しかし、どちらにも探している管理番号は付けられていない。
「……ないの?」
セレネが尋ねた。
「少なくとも、記録された位置にはありません」
フィオナは台帳へ目を落とした。
「数年前に、この区画の整理が行われています。古い収蔵品の一部は、別の部屋へ移されたようです」
ミラは受領記録を確認した。
「移動先はわかりますか?」
「整理時の台帳を調べてみます」
三人は保管室の入口近くにある作業机へ戻った。
フィオナは別の台帳を取り出し、該当する区画の移動記録を確認し始めた。セレネとミラはその間、古い番号と現在の管理番号の対応表を見比べていた。
しばらくして、フィオナが一つの記録を見つけた。
「……ありました」
ミラが顔を上げる。
「移動先がわかったんですか?」
「完全には。ただ、手掛かりはあります」
フィオナが示した記録には、保管区画の整理に伴い、複数の建築部材をまとめて移したことが記されていた。
しかし、個別の物品名ではなく、移送に使われた箱の管理番号だけが並んでいる。
「この時期、古い建築部材の一部を乾燥保管室へ移しています。今回の収蔵品が含まれていた可能性があります」
「では、そちらを調べれば……」
「候補は絞れます。ただ、移動先でも再分類が行われているので、別の管理番号になっているかもしれません」
フィオナは立ち上がった。
「確認してみましょう」
*
乾燥保管室には、比較的小さな収蔵品が集められていた。
石材の破片や金属製の装飾品、古い建築物から取り外された部材などが、種類ごとに整理されている。
フィオナは棚の一角へ向かった。
「ここには、出所が判明しているものと、再分類の途中にあるものが混在しています」
セレネは周囲を見渡した。
石に刻まれた文字。欠けた装飾。使い道のわからない小さな金属片。
どれも、かつては何かの一部だったのだろう。しかし、元の場所から取り外され、こうして並べられていると、それぞれが何のために使われていたのかを想像することは難しかった。
「……随分、たくさんあるのね」
セレネが呟いた。
「ええ。建物を補修するとき、撤去した部材をすべて元に戻せるとは限りませんから」
フィオナは棚の札を確認しながら答えた。
「保全のために取り外されたものもあれば、安全上の理由で撤去されたものもあります。出所や用途がわからなくなったからといって、簡単に処分するわけにはいきません」
ミラは頷いた。
「あとから、元の場所が判明することもありますものね」
「そうです。そのためにも、受領時の記録が重要になります」
フィオナは一つの箱を取り出した。
表面には新しい管理番号が記されている。しかし、その下には古い札の一部が残っていた。
「……この番号」
フィオナは目を細めた。
古い札の文字は擦れていたが、受領記録に残された番号と末尾が似ていた。
彼女は箱を作業机へ運び、台帳と照合した。
「番号の一部は一致していますね」
「では、これが探していたものですか?」
ミラが尋ねる。
「まだわかりません。同じ時期に受領した物品には、番号が近いものもありますから」
フィオナは箱の側面を指さした。
そこには、小さな紙札がもう一枚貼られていた。
『金属製板材 一点』
セレネは眉を寄せた。
「……円形異材ではないのね」
「再分類の際に、形状ではなく材質で名称を付け直した可能性はあります」
フィオナは答えた。
「ただ、この箱が目的の収蔵品だと判断するには、まだ情報が足りません」
ミラは古い受領記録を取り出した。
『旧地下基礎由来 円形異材 一点』
二つの記録を見比べる。
現在の札には、移管元も形状も書かれていなかった。
「中を確認することはできますか?」
ミラが尋ねた。
フィオナは許可書を確認した。
「今回の調査範囲なら、私が開封して外観を確認することはできます」
彼女は二人へ向き直った。
「ただし、現物が似ているというだけで管理記録を変更することはできません。正式な照合には、古い番号との対応を確認する必要があります」
「わかりました」
ミラが答えた。
セレネも静かに頷いた。
フィオナは作業台に柔らかい布を広げ、箱を慎重に開いた。
*
箱の中には、さらに小さな包みが収められていた。
古い布で幾重にも包まれ、細い紐で固定されている。外側には黄ばんだ紙札が付けられ、文字の一部が擦れていた。
フィオナは包みを取り出し、状態を確認した。
「……少なくとも、外側の紐はしっかり結ばれていますね。ただ、いつからこの状態で保管されていたのかは不明です」
彼女は慎重に紐をほどいた。
布が一枚ずつ開かれていく。
やがて、中から暗い色をした円形の物体が現れた。
セレネは思わず身を乗り出した。
それは、手のひらに収まるほどの大きさの円盤だった。
表面は黒に近い灰色をしている。石のようにも見えたが、縁には鈍い金属光沢があり、一目で材質を判断することはできなかった。
円盤の輪郭は完全な円ではなく、一部がわずかに欠けている。
「……これが」
セレネの声が小さくなった。
フィオナは円盤を布の上に置いたまま、外観を確認した。
「少なくとも、円形の部材ではありますね」
ミラは手帳を取り出した。
「古い記録と比較してもよろしいですか?」
「ええ。ただし、現物には触れず、こちらから見える範囲でお願いします」
セレネは三十四年前の補修作業票を広げた。
図面には、刻印の中央に黒い円が描かれていた。
ミラはそこに残された寸法を確認する。
フィオナは保管庫の測定具を使い、円盤の直径を慎重に測った。
「……おおむね、記録の範囲に収まります」
ミラが顔を上げた。
「一致しているんですか?」
「古い図面の数値とは近いですね。ただし、計測条件も精度も異なりますから、これだけで同一物とは言えません」
フィオナは測定結果を記録した。
「厚みについては、比較できる記録がありません」
「材質は?」
セレネが尋ねた。
「外観だけでは判断できません。金属質の部分が見えますが、石材と組み合わされたものかもしれませんし、表面の変質によってそう見えるだけかもしれません」
フィオナは円盤へ視線を戻した。
「詳しい材質の確認には、別の調査が必要ですね」
セレネは頷いた。
受領記録に残された名称。
古い図面に近い寸法。
そして、目の前にある円形の部材。
互いに関連している可能性はあった。しかし、まだ決定的な証拠にはならなかった。
そのとき、ミラが小さく声を上げた。
「……待ってください」
彼女は円盤の縁を指さした。
「ここに、何かあります」
セレネは目を凝らした。
円盤の外周に、浅い切り込みが一つ残されている。
自然に欠けたような不規則な形ではなかった。幅の揃った、細い溝だった。
「……加工の跡かしら」
セレネが呟いた。
フィオナは確認し、頷いた。
「その可能性があります。少なくとも、周囲の欠けとは形が違いますね」
彼女は円盤の向きを変え、別の部分を確認した。
すると、さらに二つの切り込みが見つかった。
合計で三つ。
ただし、互いの間隔は完全に等しいわけではなかった。
「……三つあるのね」
セレネは呟いた。
ミラは鐘楼地下の見取り図を取り出した。
そこには、三つの月相を示す区画から、中央へ向かって伸びる細い線が描かれている。
「……もし、この円盤が中央に収められていたのなら」
ミラが言いかけた。
セレネは図面を見つめた。
「三つの切り込みが、周囲の線に対応していた可能性があるのね」
「ええ。ただ、位置まで一致するかどうかは、今の資料では確認できません」
フィオナは二人の会話を聞きながら、円盤へ目を向けた。
「装飾の一部だった可能性もありますし、別の部材と組み合わせるための加工だった可能性もあります」
彼女は静かに続けた。
「重要なのは、今ある形を正確に記録しておくことです。役割を判断するのは、そのあとでも遅くありません」
セレネは頷いた。
円盤の縁には、確かに三つの切り込みが存在していた。
今は、その数が一致していることだけを記録すればよかった。
*
外観の測定が終わると、フィオナは円盤の裏側を確認するため、保護具を使って慎重に向きを変えた。
裏面は表側よりも凹凸が多く、古い付着物が残されている。縁には薄い灰色の物質が付着し、部分的に剥がれた跡も見られた。
「……何かに固定されていたようにも見えますね」
ミラが言った。
「可能性はあります。ただ、固定材なのか、長い年月の間に付着したものなのかは、分析しなければわかりません」
フィオナは円盤の側面を確認した。
三つの切り込みは、裏側にも続いている。しかし、表面から裏面まで完全に貫通しているわけではなかった。
「切り込みの幅も、少しずつ違うように見えるわね」
セレネが言うと、フィオナは頷いた。
「ええ。ただ、深さについては正確に測定できていません。表面の摩耗によって、そう見えている可能性もあります」
ミラは観察結果を書き留めた。
切り込みの位置と形状。
欠けている部分。
裏面に残された付着物。
いずれも、円盤が元の場所でどのように使われていたのかを考えるうえで、手掛かりになるかもしれなかった。
「外観については、ここまでにしましょう」
フィオナは測定具を片づけた。
「これ以上の調査には、新たな許可が必要になります」
「ありがとうございます。十分な記録が取れました」
ミラが答える。
フィオナは円盤を元の布へ戻そうとした。
そのとき、包みの内側に折り畳まれた小さな紙が挟まっていることに気づいた。
「……これは?」
彼女は手を止めた。
紙は薄く、端が少し破れていた。表面には細かな文字が書かれている。
「受領時の札でしょうか」
ミラが尋ねると、フィオナは紙を慎重に広げた。
「……違うようです」
そこには、作業日と簡単な確認事項が記されていた。
日付は、今から十七年前。
「……鐘楼の記録かしら」
セレネが呟いた。
フィオナは紙の上下を確認した。
「保全庫の受領票ではありませんね。鐘楼側の作業に関する覚え書きのようにも見えますが……」
彼女は紙を裏返した。
「署名も、管理番号も見当たりません。誰が書いたものなのかは不明です」
ミラは持参した資料を開いた。
十七年前の鐘楼地下保全点検。
そこには、作業を実施した年月日が残されている。
「……日付は一致しています」
ミラが言った。
「では、同じ作業の記録なの?」
セレネが尋ねる。
「その可能性はあります。ただ、日付が同じというだけでは、正式な作業記録だとは判断できません」
フィオナも頷いた。
「現時点で確認できるのは、十七年前の日付が書かれた紙が、円盤と同じ包みから見つかったということだけです。いつ、誰が入れたものなのかもわかりません」
セレネは静かに頷いた。
それでも、内容は確かめる必要があった。
「……何が書かれているの?」
フィオナは紙を机の上に置き、文字を読み上げ始めた。
『地下北側壁面、円形部材を確認。』
『周囲石材に細かな損傷あり。』
『部材抜去。保存処置のため搬出。』
セレネは息を止めた。
部材抜去。
何かを取り外したという記述だった。
「……中央の異材を取り外したのかしら」
彼女が呟くと、ミラは慎重に答えた。
「北側壁面の円形部材と書かれています。鐘楼地下の刻印にあったものかもしれませんが、まだ断定できません」
フィオナは紙に視線を戻した。
「……まだ続きがあります」
最後に、二つの項目が記されていた。
『作業前、壁面に断続的な微振動を確認。』
『抜去後、同日の再確認にて振動認めず。』
三人の間に、短い沈黙が落ちた。
*
「……振動?」
最初に口を開いたのは、セレネだった。
「そう記されていますね」
フィオナは紙を改めて確認した。
ミラは鞄から別の写しを取り出した。
「三十四年前のオルフェンさんの手帳にも、壁面の微振動について記録が残されています」
彼女は二人にその部分を示した。
『鐘停止中、壁面に微振動。原因不明。』
三十四年前、地下の補修中に確認された振動。
そして今回見つかった紙に記された、十七年前の振動。
セレネたちは数日前、鐘楼地下で異常音とともに、足元から伝わる微弱な揺れを感じていた。
「……似ているわね」
セレネが呟いた。
「はい。ただ、振動の強さや継続時間は記録されていません。三つの出来事が同じ現象だったとは、まだ言えませんね」
ミラは慎重に答えた。
フィオナは十七年前の日付が書かれた紙を指さした。
「それに、この最後の一文には注意が必要です」
「……抜去後の再確認?」
セレネが尋ねると、フィオナは頷いた。
「ええ。ここに書かれているのは、部材を取り外したあと、その日の再確認では振動が認められなかったということです」
彼女は少し間を置いた。
「それ以降、振動が発生しなくなったという意味ではありません。また、部材の抜去によって振動が止まったとも断定できません」
「もともと断続的な振動だったなら、偶然そのときだけ起きなかった可能性もあるのね」
「そのとおりです」
セレネは頷いた。
もし、紙に書かれた円形部材が目の前の円盤だったとしても、振動との因果関係はまだ不明だった。
「……それでも、気になるわ」
セレネが言った。
「取り外す前とあとで、振動の有無を記録しているのね」
「ええ。作業員が振動を気にかけていた可能性はあります」
ミラは手帳に書き加えた。
フィオナは紙を保護用の薄い台紙に挟んだ。
「この資料については、円盤と関連する未整理資料として登録します。今までの目録には記載されていませんでしたから」
彼女は新しい管理用紙を取り出した。
「また、今回発見した円盤についても、正式な現物照合は保留とします」
「古い管理番号との対応が確認できていないからですね」
ミラが尋ねると、フィオナは頷いた。
「はい。円形という形状や寸法、十七年前の日付を持つ紙の存在は、関連を示す材料になります。しかし、それだけでは十七年前の移管品と同一だと確定できません」
セレネはその言葉を聞き、静かに頷いた。
目の前に現物があることと、それが探していたものだと証明できることは違う。
今後、円盤について何かを説明する際にも、その区別を忘れてはいけなかった。
*
調査を終えたあと、三人は保全庫の小さな閲覧室へ移動した。
窓の外には中庭が見え、石畳の隙間から伸びた草が風に揺れている。フィオナは現物確認の記録を整理しながら、今回の調査結果を記録院へ提供するための手続きを進めていた。
「円盤の見取り図と外観測定の結果については、写しをお渡しできます」
フィオナは書類を揃えた。
「ただし、包みから見つかった紙については、原本をこちらで保管します。記載内容の転記は可能ですが、作成者や出所は未確認であることを明記してください」
「わかりました。調査報告書にも、そのように記載します」
ミラが答えた。
フィオナは続けた。
「円盤そのものについても、当面は保全庫で管理します。持ち出しや別の施設への移送には、新たな許可が必要です」
「ええ。今すぐ鐘楼へ戻すつもりはないわ」
セレネが答えると、フィオナは頷いた。
「それがよいと思います。仮に元の部材だったとしても、取り外された理由を確認せずに戻すのは危険です」
セレネは先ほどの紙を思い返した。
『保存処置のため搬出。』
そこには、そのように書かれていた。
しかし、実際に何を守るための処置だったのかはわからない。
円盤そのものだったのか。
壁面の構造だったのか。
あるいは、振動とは無関係の保存上の判断だったのか。
「……フィオナさん」
セレネは顔を上げた。
「はい?」
「この円盤について、もっと詳しく調べることはできるのかしら」
フィオナは少し考えた。
「非破壊の材質調査や、細かな形状の測定なら、申請することはできます。ただし、保存状態を確認したうえで、実施できる方法を判断することになります」
「その場合、三つの切り込みの位置も詳しく測れるんですね」
ミラが尋ねる。
「ええ。外周の角度や幅、可能であれば深さも記録できます」
ミラは頷いた。
「では、正式な照合調査とあわせて申請したいと思います」
フィオナは書類を取り出した。
「必要な項目をまとめてお渡ししますね」
セレネは窓の外へ目を向けた。
保管室で見つけた黒い円盤。
その縁に残された、三つの切り込み。
今はまだ、鐘楼地下に刻まれた三つの月相と対応しているとは言えない。
しかし、それぞれの形状を正確に記録できれば、単に数が一致しているだけなのか、構造的な関係があるのかを確かめる手掛かりになるだろう。
*
保全庫を出た頃には、午後の日差しが西へ傾き始めていた。
セレネとミラは中央広場へ向かう道を歩いていた。ミラの鞄には、保全庫で作成した測定記録と、円盤の見取り図の写しが収められている。
通りには荷馬車が行き交い、店先では商品を並べ直す商人の姿が見えた。
「……現物が見つかるとは思わなかったわ」
セレネが言った。
「私もです。最初の保管棚に何もなかったときは、見つからない可能性も考えていました」
ミラは鞄に手を添えた。
「ただ、今回の調査で円盤が見つかったことと、正式な管理記録の照合が完了したことは別です」
「ええ。そこは、これから確かめなければならないわね」
セレネは頷いた。
二人が中央広場へ近づくと、大鐘楼の姿が見えてきた。
鐘は、今も止められている。
入口には管理部門の職員が立ち、建物への出入りを確認していた。
「ヴァルトさんにも、今日の結果を伝えましょう」
ミラが言った。
「ええ。保全工事の判断にも関わるかもしれないものね」
二人は鐘楼の管理室へ向かった。
*
ヴァルトは、円盤の写しを見た瞬間、表情を変えた。
「……これが、保全庫で見つかったものですか」
彼は机の上の図面を手に取った。
「はい。材質はまだ特定できていませんが、三十四年前の図面と寸法がおおむね近い円形の部材です」
ミラは保全庫で確認した内容を説明した。
外周に三つの切り込みがあること。
裏面に付着物が残されていること。
そして、同じ包みから十七年前の日付を持つ紙が見つかったこと。
ただし、どの情報も未確認の部分を含んでいるため、その限界もあわせて伝えた。
ヴァルトは紙の転記を読み、しばらく黙り込んだ。
「……抜去前に微振動があり、抜去後の再確認では認められなかった、と」
「はい。ただし、作成者は不明です。正式な作業記録なのかどうかも確認できていません」
ミラが答えた。
「それに、部材の抜去が振動を止めたと断定することもできません」
「ええ。そこは理解しています」
ヴァルトは頷いた。
彼は円盤の見取り図を机に置き、鐘楼地下の構造図を取り出した。
「しかし、これだけの情報が揃ったのなら、保全担当者にも共有する必要がありますね」
彼は地下の図面を広げた。
三つの月相を示す区画。
その中心に残された、傷んだ円形の部分。
ヴァルトは円盤の図と並べて確認した。
「……三つの切り込みですか」
彼はその位置を見比べた。
「数は一致していますね。ただ、地下の刻線と角度まで一致するのかは、今の図面ではわかりません」
ミラは頷いた。
「はい。現地で作成した見取り図も、厳密な測量図ではありませんから」
「それなら、確認する方法があります」
ヴァルトは机の引き出しから新しい書類を取り出した。
「現在、地下の古い壁面について、保全工事の方法を検討しています。その前に、壁面の状態を記録する非破壊調査を実施する案があるんです」
セレネは顔を上げた。
「……もう一度、地下を調べられるの?」
「まだ決まったわけではありません。ただ、今回の資料を踏まえて、調査内容の追加を正式に提案しようと思います」
ヴァルトは図面の中央を指さした。
「刻線の位置と角度、中央部分の寸法、それから壁面の損傷状況。これらを、保全担当者の立ち会いのもとで詳しく測るんです」
ミラは少し考えた。
「それなら、保全庫の円盤と数値を比較できますね」
「ええ。もちろん、地下への立ち入り制限が解除されるわけではありません。安全が確認された範囲で、必要な測定だけを行うことになります」
ヴァルトは続けた。
「壁を削ったり、封鎖された扉を開いたりすることも認められません。ですが、刻印を保護材で覆う前に、正確な記録を残すことには十分な理由があります」
セレネは静かに頷いた。
「それなら、私たちも協力できるかしら」
「調査が承認されれば、古い文字の確認に協力していただくことも検討できます。ただし、正式な許可が必要です」
「わかったわ」
ヴァルトは申請書に筆を走らせた。
それは、単なる調査の希望ではなかった。
鐘楼の安全を守るために必要な保全作業と、古い構造を記録するための調査を、両立させようとする提案だった。
ミラは完成した書類を確認した。
「……これなら、調査の目的も明確ですね」
「ええ。まずは保全担当者と協議します」
ヴァルトは頷いた。
「それと、十七年前の正式な工事記録についても、改めて照会してみます。今回見つかった紙と同じ内容が残っていれば、記録の信頼性を確かめる助けになるでしょう」
「ありがとうございます」
ミラは頭を下げた。
セレネは机に並んだ二つの図面を見つめた。
離れた場所に保管された円盤と、封鎖された地下に残る刻印。
今すぐ二つを組み合わせることはできない。
けれど、形を測り、記録を照合することで、関係の有無を調べる道が開かれようとしていた。
*
記録院へ戻った頃には、窓から差し込む日差しが夕暮れの色に変わっていた。
ミラは閲覧室の机に今日の資料を広げ、確認できた事実を整理し始めた。セレネは隣で、円盤の見取り図と鐘楼地下の刻印を見比べていた。
「……この三つの切り込み、よく見ると同じ形ではないのね」
セレネが言うと、ミラは頷いた。
「はい。一つはほかの二つよりも幅が広いようです。ただ、摩耗の影響も考えられるので、正確な数値が必要ですね」
ミラは今日の記録を確認した。
「保全庫への追加調査の申請と、鐘楼地下の非破壊測量。それぞれが認められれば、形状を比較するための情報が揃うはずです」
「ええ。数が同じというだけでは、関係があるとは言えないものね」
セレネは図面を机に置いた。
ミラは続けて、十七年前の日付が書かれた紙の内容を整理した。
『地下北側壁面、円形部材を確認。』
『周囲石材に細かな損傷あり。』
『部材抜去。保存処置のため搬出。』
『作業前、壁面に断続的な微振動を確認。』
『抜去後、同日の再確認にて振動認めず。』
その下には、資料の出所について注記を添えた。
『円盤と同じ包みから発見。署名および管理番号なし。作成者・作成時期の確証なし。』
セレネは最後の一文を読み、静かに頷いた。
記録の内容が興味深いからといって、信頼性まで高いとは限らない。
その点は、今後の調査でも忘れてはならなかった。
「……ミラ」
セレネが声をかけた。
「はい?」
「三十四年前の異常鳴動と、十七年前の部材抜去。それぞれの日付を、もう一度詳しく確認できるかしら」
ミラは顔を上げた。
「日付、ですか?」
「ええ。年だけではなく、月と日まで」
セレネは二つの記録を示した。
「古い測量記録では、月相によって照応の結果が違っていたでしょう。なら、過去に振動が確認された日にも、何らかの共通点があるかもしれないわ」
ミラは少し考えた。
「……なるほど。三十四年前の異常鳴動には日付が残っていますし、十七年前の保全点検にも作業日が記されています」
彼女は手帳を開いた。
「ただし、現代の暦上の月相と、古代の照応区分が一致するとは限りません。そこは分けて調べた方がよさそうですね」
「ええ。まずは、当時の月の状態を確かめたいの」
ミラは頷いた。
「わかりました。天象記録の対照表を探してみます」
彼女は席を立ち、閲覧室の奥へ向かった。
*
セレネは一人、机の上の円盤の写しを見つめていた。
黒い円。
三つの切り込み。
その形状は、鐘楼地下で発見された刻印の中央部分と、何らかの関係があるようにも思える。
しかし、まだ証明されたことではなかった。
仮に円盤が刻印の中央に収められていたとしても、それがどのような役割を持っていたのかはわからない。
十七年前の紙には、取り外し前後の振動について記されていた。
そして数日前には、鐘楼地下で再び異常な振動が起きている。
もし円盤が取り外されたままなら、その状態でも何らかの現象が生じたことになる。
セレネは調査記録の余白に、短い一文を書き加えた。
『中央部材の有無と、照応現象の成立条件は同一とは限らない。』
半月の刻印は光った。
鐘に似た音も響いた。
だが、月門の接続が成立したことは確認されていない。
古い仕組みの一部が反応することと、仕組み全体が正常に機能することは、別なのかもしれなかった。
セレネは筆を置いた。
そのとき、閲覧室の扉が開いた。
「セレネさん」
ミラが戻ってきた。
手には、厚い冊子を一冊抱えている。
「天象記録の対照表が見つかりました」
「……もう?」
セレネが顔を上げると、ミラは少し笑った。
「記録院には、古い暦を換算するための資料がまとめられているんです。今回の出来事と直接関係があるものではありませんが、当時の月の状態を調べる助けにはなると思います」
ミラは冊子を机に置いた。
表紙には、古い形式の文字で題名が記されている。
『天象記録対照表』
セレネはゆっくりと表紙へ目を向けた。
第8話で見つけた特殊接続路の測量規則にも、日時と天象を併記するよう指示が残されていた。
さらに、月相の記録については別紙に従うよう記されている。
しかし、その別紙は今も見つかっていない。
「……これは、あの別紙とは違うのね」
セレネが尋ねた。
「はい。こちらは一般的な天象記録を整理したものです。古い照応規則に使われていた月相の区分まで、直接わかるわけではありません」
ミラは冊子を開いた。
「ただ、三十四年前と十七年前の月の状態を確認することはできそうです」
「それなら、まずはそこからね」
セレネは椅子を引き寄せた。
ミラは最初のページに目を通し、年代別の索引を確認した。
「三十四年前の異常鳴動の日付は、こちらに残っています」
彼女は報告書の写しを取り出した。
「十七年前については、保全点検の日付と、今日見つかった紙の日付が一致していますね」
ミラは二つの日付を手帳に並べた。
ただし、十七年前の振動そのものが何時に発生したのかはわからない。三十四年前の異常鳴動についても、正確な時刻まで比較できるかは記録次第だった。
「……同じ月相だったら、どうする?」
セレネが尋ねた。
ミラは少し考えた。
「その場合は、共通する条件の候補が一つ増えます。でも、それだけで月相が原因だとは言えません」
「違っていたら?」
「月相以外にも条件があるのか、それとも異なる現象だったのかを考える必要がありますね」
セレネは頷いた。
いずれにしても、確かめる意味はある。
彼女は机の上に置かれた二枚の記録を見つめた。
三十四年前の異常鳴動。
十七年前の保全点検。
そして、数日前の半月の刻印の発光。
これまでは別々の出来事として調べていたものだった。
しかし、もしそれぞれの日に、天象上の共通点が存在したなら。
古い照応規則を考えるための、新しい手掛かりになるかもしれない。
ミラは冊子の該当する年代に印を挟んだ。
「……今日は、ここまでにしましょう。続きは明日、記録を一つずつ照合したいと思います」
「ええ。その方がよさそうね」
セレネは頷き、資料を整理した。
窓の外では、夕暮れの光が少しずつ薄れていた。
大鐘楼は、今も沈黙している。
その地下に何が残されているのかは、まだわからない。
しかし今日は、記録に残された円形の部材に似た現物を確認することができた。
その縁には三つの切り込みがあり、同じ包みからは、十七年前の作業に関係するかもしれない紙も見つかっている。
いずれも、まだ正体が確定したわけではない。
それでも、次に確かめるべきことは明確になった。
セレネは最後に、机の上の対照表へ視線を向けた。
『天象記録対照表』
その文字の下には、古い年代を示す細かな数字が並んでいた。
失われた照応規則そのものは、まだ見つかっていない。
けれど、過去に起きた現象と、その日の月を比べることはできる。
セレネは静かに冊子を閉じた。
三十四年前と十七年前。
二つの日に浮かんでいた月は、どのような姿をしていたのだろう。
その答えを確かめるのは、明日だった。