大鐘楼の鐘が止まって、五日目の朝を迎えた。
灰鐘市の中央広場では、商人たちが店先の時計を確かめながら開店の準備を進めていた。鐘の音が聞こえないことに戸惑う人は減ったものの、普段なら時報が響く頃になると、無意識に塔を見上げる者はまだ多かった。
セレネも、その一人だった。
記録院へ向かう途中、彼女は広場の中央で足を止めた。大鐘楼の上部には、いつもどおり大きな鐘が収められている。しかし、管理部門による運用停止は続いており、今朝も時刻を告げる音は聞こえなかった。
五日前、鐘楼の地下では原因不明の振動と異常音が発生した。そのとき発光したのは、壁に刻まれた三つの月相のうち、半月の印だった。
さらに昨日、市立資料保全庫では、鐘楼地下の刻印に関係している可能性がある円盤が発見された。
その包みには、十七年前の日付を持つ一枚の紙が挟まれていた。作成者は不明だったが、そこには円形部材の抜去と、その前後に確認された壁面の微振動について記されている。
セレネは鞄に入れた記録の写しを思い浮かべた。
三十四年前。
十七年前。
そして、数日前。
異なる時代に残された出来事を、これまでは個別に調べてきた。今日の目的は、それぞれの日付を天象記録と照合することだった。
古い測量記録には、月相によって接続地点が異なるという記述が残されている。
もし鐘楼の異常にも月の状態が関わっているなら、過去の記録を比較することで何かが見えてくるかもしれない。
もっとも、関係がないという可能性も十分にあった。
セレネは再び歩き始めた。
*
記録院の閲覧室では、ミラが既に作業を始めていた。
机の上には、昨日見つけた『天象記録対照表』が広げられ、その隣には鐘楼の異常鳴動報告書と保全点検記録が置かれている。
「おはよう、ミラ」
「おはようございます、セレネさん。ちょうど年代の照合を始めたところです」
ミラは机の向かい側の椅子を示した。
「まずは、三十四年前の異常鳴動から確認しましょう」
「ええ。日付は確定しているのよね」
「はい。鐘楼の報告書に記録されています」
ミラは一枚の紙を取り出した。
三十四年前、大鐘楼で予定外の時刻に鐘のような音が響いた。その報告は複数の職員によって残され、後日、上部の打鐘機構に明確な異常が見つからなかったことも記されている。
ただし、鐘体が実際に動いていたのかどうかは、現在確認できる記録から判断できなかった。
「この日付を、天象記録と照らし合わせます」
ミラは対照表の索引を開いた。
冊子には、過去の暦と天象の観測記録を対応させるための表が収められている。月の満ち欠けについても、時期ごとの状態が整理されていた。
しばらく紙をめくり、ミラの指が一つの欄で止まった。
「……ありました」
セレネが身を乗り出す。
「何かわかったの?」
「三十四年前の異常鳴動が報告された日は、現在の暦の区分では満月に当たります」
セレネは対照表へ目を落とした。
該当する日付には、円形の月を示す小さな印が付けられている。
「……満月」
彼女は静かに繰り返した。
古い測量記録では、北東の入口で接続が確認されたときの月相が満月だった。そして、鐘楼地下の壁にも満月の刻印が存在する。
「それなら、三十四年前は満月の印が反応したのかしら」
セレネが尋ねると、ミラは首を横に振った。
「そこまではわかりません。三十四年前の報告書には、地下の刻印が発光したという記述がありませんから」
「そうね。月の状態が一致していても、何が起きたのかは別の問題だわ」
ミラは頷き、手帳に記録した。
『三十四年前の異常鳴動報告日――暦上の満月。』
その下には、古代の照応区分との対応は未確認と書き加えた。
「では、次は十七年前ですね」
ミラは別の資料を手に取った。
*
十七年前の記録は、三十四年前のものよりも複雑だった。
正式な保全点検記録には作業日が残されている。しかし、壁面の微振動について記されていたのは、保全庫で発見された署名のない紙だった。
紙に書かれた日付は、正式な点検日と一致している。それでも、両者が同じ作業の記録であると証明されたわけではなかった。
「まず、正式な点検日だけを確認しましょう」
ミラは対照表をめくった。
セレネは隣で、十七年前の保全点検記録を確認していた。
鐘楼地下保全点検。
旧部材一点の移管。
その内容は簡潔で、作業の詳しい経緯までは記されていない。しかし、少なくともその日に地下の保全作業が行われたことは、管理記録から確認できた。
「……セレネさん」
ミラの声に、セレネは顔を上げた。
「見つかったの?」
「はい。少し、意外な結果になりました」
ミラは対照表の一か所を指さした。
「十七年前の保全点検日ですが、暦上の月相は欠月です」
セレネは一瞬、言葉を失った。
「……欠月?」
「はい。ただし、古代の照応規則でいう欠月と同じ範囲なのかは、まだわかりません」
ミラは慎重に答えた。
セレネは机の上の資料へ視線を移した。
三十四年前は、満月。
十七年前は、欠月。
そして五日前、鐘楼地下で半月の刻印が発光した日は、暦上の半月だった。
「……三つとも、違うのね」
セレネが呟いた。
ミラは頷いた。
「そうなります。ただ、少し注意が必要ですね」
「何かしら?」
「三十四年前は異常鳴動が報告された日です。十七年前は保全点検が行われた日。そして今回は、私たちが発光と振動を直接確認した日です」
ミラは三枚の資料を並べた。
「比べている出来事の種類が違います。同じ現象が三度起きたと考えることはできません」
「そうね。それに、十七年前の振動については、あの紙の信頼性もまだ確認できていないわ」
セレネは頷いた。
三つの月相が揃ったことは興味深い。
しかし、それが何を意味するのかは、まだわからなかった。
そのとき、セレネは机の上の記録を見つめながら、ふと顔を上げた。
「……待って、ミラ」
「どうしましたか?」
「もう一件、調べなければならない出来事があるわ」
ミラは手帳から顔を上げた。
「……数日前の夜に起きた、定時外の鐘の音よ。私たちが最初に異常を調べ始めるきっかけになった、あの出来事」
ミラは目を見開いた。
「あっ……そうでした」
彼女は急いで別の資料を取り出した。
「あの夜の異常鳴動も、比較対象に含めるべきですね」
「ええ。三十四年前の記録と似た出来事として調べていたのに、今回の照合から外してしまっていたわ」
ミラは手帳に新しい行を加えた。
『直近の定時外鳴動――月相未照合。』
セレネは記録を見つめた。
三十四年前の異常鳴動。
十七年前の保全点検。
数日前の夜に起きた、定時外の鐘の音。
そして五日前、鐘楼地下で発生した異常音と発光。
比較すべき出来事は、最初に並べた三件だけではなかった。
「……あの夜の日付も、確認できるのよね」
セレネが尋ねた。
「はい。私たちの調査記録に残っています。ただ、今ここにある資料だけでは、月相の照合まで済ませられていません」
ミラは対照表の索引へ目を向けた。
「記録された日付と、対照表の該当箇所を確認する必要があります。ほかの調査記録との照合も含めて、別に整理しましょう」
「お願いするわ」
セレネは頷いた。
三つの月相が揃ったというだけで、法則が見つかったかのように考えてはいけない。
未確認の出来事を除外したままでは、比較そのものが不完全になってしまう。
「……気づけてよかったわね」
セレネが呟くと、ミラは苦笑した。
「ええ。興味深い結果が出ると、どうしてもそちらに目が向いてしまいますから」
「だからこそ、記録を見直す必要があるのね」
二人は改めて資料を並べ直した。
*
ミラは新しい紙を取り出し、確認できた内容を一覧にまとめた。
三十四年前の異常鳴動報告日――満月。
十七年前の保全点検日――欠月。
直近の定時外鳴動――月相未照合。
五日前の異常音と発光――半月。
「……こうして見ると、わからないことの方が多いですね」
ミラが言った。
「ええ。でも、未確認のものを未確認として残せたわ」
セレネは資料を見比べた。
古い測量記録に登場した三つの月相は、確かに今回の一覧に含まれている。しかし、だからといって月相が異常現象の原因だとは言えない。
ミラも同じことを考えていたらしい。
「そもそも、月の満ち欠けは一定の周期で繰り返されています。異なる年代の出来事が、それぞれ違う月相の日に起きたとしても、それだけでは特別な一致とは言えません」
「そうね。満月や半月になるたびに、鐘楼で異常が起きているわけではないもの」
「少なくとも、そのような記録は確認できていません」
ミラは手帳に書き加えた。
「ただ、記録がないことと、現象が起きなかったことは別です。小さな異常なら報告されなかった可能性もあります」
「……なら、何も起きなかった日の記録も必要になるのね」
「はい。比較するためには、通常の運用記録も重要だと思います」
セレネは静かに頷いた。
異常が報告された日だけを並べても、原因は特定できない。
同じ月相でも異常が報告されなかった日があるなら、その違いを調べなければならない。さらに、異常が報告されなかったことが、実際に異常が存在しなかったことを意味するのかも考える必要がある。
「……もう一度、最初の測量記録を見せてもらえる?」
セレネが尋ねた。
「はい。こちらですね」
ミラは特殊接続路に関する記録を取り出した。
古い紙には、接続地点の確認についての注意事項が残されている。
『接続点の測定に際しては、日時および天象の記録を併記すること。』
『照応の成立を確認せず、経路の継続を記してはならない。』
そして、
『月相の記録は、別紙に従うこと。』
セレネは最後の一文を見つめた。
その別紙は、まだ見つかっていない。古代の測量者たちが、どのような基準で欠月・半月・満月を区別していたのかも不明だった。
「……今使っている対照表とは、別のものなのよね」
「はい。こちらは一般的な天象記録です。失われた測量規則の別紙そのものではありません」
ミラは頷いた。
「古い測量者たちは、月相だけでなく日時と天象を併記する必要があると考えていたようです。でも、その理由まではわかりません」
「……照応が成立する条件を、あとから確かめるためだったのかもしれないわね」
「可能性はあります。ただ、月門の接続と鐘楼の異常音が、同じ条件で発生するとも限りません」
セレネは静かに頷いた。
似た紋様。
同じ月相の名称。
照応という言葉。
それらが複数の場所で確認されていることは確かだった。しかし、同じ仕組みに関係しているとしても、それぞれが同じ役割を持っているとは限らない。
「……今日の結果は、ここまでにしましょう」
セレネが言うと、ミラは頷いた。
「はい。確認できた月相と、未照合の出来事を分けて記録しておきます」
ミラは資料を揃え、報告書の作成を始めた。
*
昼を過ぎる頃、セレネは記録院を出た。
ミラは午前中の照合結果をまとめ、午後には鐘楼管理部門へ提出する予定だった。セレネも同行するつもりだったが、その前に少し立ち寄りたい場所があった。
静夜診療所。
灰鐘市の一角にある、小さな診療所だった。
セレネはその前で足を止めた。
エマとニナに最後に会ってから、しばらく時間が経っている。二人のその後が気になっていたものの、最近は鐘楼の調査に追われ、顔を出せずにいた。
彼女は少し迷ってから、診療所の扉を開けた。
受付で挨拶を済ませ、待合室へ視線を向ける。
すると、窓際の椅子に見覚えのある二人の姿があった。
「……ニナ?」
セレネが声をかけると、少女は顔を上げた。
「あっ、セレネ!」
ニナは嬉しそうに立ち上がった。
「久しぶり!」
「ええ。元気にしていた?」
「うん!」
セレネは微笑み、隣に座るエマへ視線を向けた。
「こんにちは、エマさん」
「こんにちは。お久しぶりですね」
エマは穏やかに答えた。
以前より表情には落ち着きが見られた。しかし、娘を見る眼差しには、今もどこか戸惑いが残っている。
「今日は、診察なの?」
セレネが尋ねると、エマは頷いた。
「ええ。経過を確認していただくために来ました。まだ、昔のことは思い出せないのですが……」
彼女は隣のニナを見た。
「この子と一緒に、少しずつ生活することには慣れてきました」
セレネは静かに頷いた。
エマはニナが自分の娘であることを、今は理解している。しかし、親子として積み重ねてきた時間の記憶や、それに結びついた感情が戻ったわけではなかった。
「……そう。最近は、どんなふうに過ごしているの?」
セレネが尋ねると、ニナが膝の上の紙を持ち上げた。
「見て、セレネ!」
紙には、二人の人物が並んで描かれていた。
一人はエマ。
もう一人はニナだった。
二人とも、手を繋いでいる。
「昨日、一緒に市場へ行ったの」
ニナは絵を指さした。
「お母さん、昔のことは覚えてないけど、昨日食べたお菓子のことは覚えてたんだよ」
「……ええ」
エマは少し困ったように微笑んだ。
「私には初めて食べたように感じられたんです。でも、ニナは前にも一緒に食べたことがあると言っていて」
「そうなの。前はもっと小さいときだったけどね」
ニナは頷いた。
セレネは二人を見つめた。
失われた過去は、まだ戻っていない。
それでも、昨日の出来事は二人の間に残されている。少なくとも、エマが新しく経験したことまで、次々に忘れている様子はなかった。
「……その絵、とても素敵ね」
セレネが言うと、ニナは嬉しそうに笑った。
「でしょ? これ、お母さんにあげるんだ」
エマは娘の顔を見つめた。
「……ありがとう」
その声には、少しだけ照れくさそうな響きがあった。
セレネは微笑んだ。
以前と同じ関係に戻ったわけではない。けれど、二人は少しずつ、新しい時間を積み重ねていた。
*
しばらくして、ニナがセレネへ尋ねた。
「ねえ、セレネ。鐘、まだ鳴らないの?」
セレネは顔を上げた。
「ええ。今は安全を確かめるために、止めているの」
「……そっか」
ニナは少し残念そうに答えた。
「鐘が止まったら、何か変わるのかなって思ってた」
「変わる?」
セレネが尋ねる。
ニナはエマの方を見た。
「お母さんの記憶とか」
セレネはすぐには答えられなかった。
大鐘楼の異常音と、記憶の欠落。
それらが同じ原因によるものなのかどうかは、まだわかっていない。鐘を止めれば失われた記憶が戻るという根拠もなかった。
「……今のところ、鐘が止まったことと記憶が戻ることに関係があるかは、わからないわ」
セレネは正直に答えた。
ニナは小さく頷いた。
「そっか。でも、調べてるんだよね?」
「ええ。少しずつだけれど、調べているわ」
セレネはニナの目を見た。
「必ず思い出せるとは、まだ言えない。でも、何が起きたのかを確かめるつもりよ」
ニナはしばらく考えていたが、やがて笑った。
「うん。じゃあ、私も昨日のこと、いっぱい覚えておくね」
セレネは思わず微笑んだ。
エマは娘の手を取り、静かに握った。
その仕草が昔から続いていたものなのか、それとも最近になって生まれたものなのかは、セレネにはわからなかった。
けれど、今この瞬間、二人が手を繋いでいることは確かだった。
やがて診察の順番が来ると、エマはニナとともに立ち上がった。
「また、会いに来てくださいね」
エマが言った。
「ええ。二人とも、元気で」
セレネは二人を見送った。
ニナは廊下の角を曲がる前に一度振り返り、小さく手を振った。
セレネも、その手に応えた。
*
午後、セレネが大鐘楼の管理室へ向かうと、ミラとヴァルトが既に話し合いを始めていた。
長机には、午前中の天象記録と、保全工事に関する書類が並べられている。
「セレネさん。ちょうどよかったです」
ミラが顔を上げた。
「今朝の照合結果を、ヴァルトさんに説明していたところです」
ヴァルトは軽く頭を下げた。
「三十四年前の異常鳴動が満月、十七年前の保全点検が欠月。そして今回の発光が半月だったそうですね」
「ええ。ただ、それだけで月相が原因だとは言えないわ」
セレネが答えると、ヴァルトは頷いた。
「ミラさんからも、そのように聞いています」
ミラは手元の報告書を示した。
「それに、直近の定時外鳴動については、まだ月相の照合が終わっていません。比較対象から外さず、引き続き確認する予定です」
「そうでしたね。あの夜の記録も残っていますから、管理部門の方でも確認しましょう」
ヴァルトは頷いた。
彼は机の上の報告書へ視線を落とした。
「ただ、月相と現象の因果関係が未解明であっても、地下に三つの月相を示す刻印があり、その一つが発光したという事実は無視できません」
ミラは頷いた。
「それで、昨日ご提案いただいた非破壊測量についてですが……」
「その件で、保全担当部門から回答がありました」
ヴァルトは新しい書類を取り出した。
「現在の地下区画について、限定的な測量を実施する方針が認められました」
セレネは思わず顔を上げた。
「……調査できるの?」
「条件付きですが」
ヴァルトは静かに答えた。
「保全担当者による安全確認が済んだ範囲で、壁面の形状と損傷状況を記録します。鉄扉の開放や、壁面への直接的な加工は認められません」
ミラは書類を確認した。
「刻印の測定も、含まれているんですね」
「ええ。記録院から提出された意見書と、保全庫で見つかった円盤の情報が、判断材料になりました」
ヴァルトは頷いた。
「測量に向けた準備は、既に進めています。明日の朝、地下の安全確認を終えたうえで、問題がなければ非破壊測量を実施する予定です」
セレネは安堵したように息を吐いた。
「……明日なのね」
「ええ。ただし、安全確認の結果によっては延期します」
ヴァルトは別の図面を広げた。
そこには、地下通路の古い石壁と、保全工事のために設置する仮設支持材の位置が描かれていた。
「刻印のある壁面の近くに、補強用の支持材を設ける計画が進んでいます。安全上、長期間そのままにしておくことはできません」
セレネは図面を見つめた。
「……支持材を置くと、刻印が隠れてしまうの?」
「施工方法によっては、一部が見えにくくなる可能性があります」
ヴァルトは頷いた。
「そのため、工事の前に現在の形状を詳しく記録しておきたいんです」
ミラは少し考えた。
「明日の測量は、保全工事のためにも必要な調査なんですね」
「そうです。安全の確認と、古い構造の記録を同時に進めることになります」
ヴァルトは書類を閉じた。
「測量担当者と保全担当者が立ち会います。記録するのは、刻印の位置と寸法、周囲の刻線、それから壁面の損傷状況です」
セレネは静かに頷いた。
鐘楼地下で見つかった三つの月相の刻印。
保全庫で発見された円盤。
それぞれの形を正確に測ることができれば、両者の関係を検討するための情報が増える。
「……私たちも、立ち会えるのかしら」
セレネが尋ねると、ヴァルトは頷いた。
「古い文字の判読と記録の照合について、協力をお願いしたいと考えています。正式な立ち会い許可については、現在最終確認を進めています」
「わかりました」
セレネは頷いた。
ヴァルトは続けた。
「ただし、許可が出たとしても調査範囲は限定されます。安全確認で問題が見つかれば、皆さんの立ち入りも認められません」
「ええ。それは理解しているわ」
セレネは静かに答えた。
鉄扉の向こうを確かめたいという気持ちは、今も変わらない。
しかし、古い施設を調べるために、その構造を傷つけるわけにはいかなかった。
*
話し合いが終わりかけたとき、管理室の扉が叩かれた。
「失礼します」
入ってきたのは、作業服を着た女性だった。
年齢は四十代ほど。短く切り揃えた髪と、落ち着いた表情が印象的だった。
ヴァルトが席を立つ。
「ちょうどよかった。こちらが、今回の保全調査を担当するリゼット主任です」
女性は二人へ向き直った。
「保全担当部門のリゼットです。今回の調査記録については、拝見しています」
ミラが頭を下げた。
「記録院のミラです。こちらはセレネさんです」
「よろしくお願いします」
セレネも軽く頭を下げた。
リゼットは机の上の図面を確認した。
「私は建物の安全と保存状態を担当しています。古い文字や照応という仕組みについては専門外ですが、今回の刻印が調査対象として重要であることは理解しています」
彼女は地下通路の図面を広げた。
「ただ、現在の地下は安全が十分に確認されていません。調査のために施設を損傷させたり、危険な場所へ無理に立ち入ったりすることは認められません」
「もちろんです」
ミラが答えた。
リゼットは頷いた。
「そのうえで、昨日提出された円盤の見取り図について、一つ確認したいことがあります」
彼女は机に置かれた写しを指さした。
「この円盤には、外周に三つの切り込みがあるそうですね」
「はい。ただし、正確な寸法と角度については、まだ測定されていません」
ミラが答える。
「鐘楼地下の刻印にも、三つの線が中央へ向かって伸びている」
リゼットは図面を見比べた。
「もし両者が同じ構造の一部だったのなら、中央部分の損傷状態を考えるうえで参考になるかもしれません」
「ええ。私たちも、その可能性を調べたいと思っています」
セレネが答えた。
リゼットは頷いた。
「ですが、形が似ているという理由だけで、元の部材だったと決めつけることはできません。その点は理解していますね」
「ええ。保全庫でも、正式な照合はまだ終わっていないわ」
セレネは静かに答えた。
リゼットは少しだけ表情を和らげた。
「それなら、調査の目的は同じですね」
彼女は図面の中央を指さした。
「私たちは、今そこに何が残っているのかを正確に知りたいんです」
セレネは頷いた。
失われた部材を探すこと。
古い機構の仕組みを知ること。
そして、現在の施設を安全に保つこと。
目的は違っていても、まず必要なのは正確な記録だった。
「……一つ、質問してもいいかしら」
セレネが尋ねた。
「何でしょう?」
「明日の調査では、壁面に触れずに形を測ることができるの?」
リゼットは頷いた。
「測量用の枠と目盛りを使って、位置関係を記録します。刻線の角度についても、可能な範囲で測定する予定です」
彼女は続けた。
「ただし、表面が摩耗している部分は、測定値に誤差が生じます。元の形を完全に再現できるわけではありません」
「それでも、今の見取り図よりは詳しく調べられるのね」
「ええ。少なくとも、推測で線を補うことは避けられます」
ミラは手帳を開いた。
「保全庫の円盤については、こちらも追加の非破壊調査を申請しています。測定結果が得られれば、比較できる範囲が広がると思います」
「それは助かります」
リゼットは頷いた。
「ただ、明日の測量では、鐘楼の壁面だけを調べます。円盤を持ち込んだり、元の場所へ戻したりすることはありません」
「わかっています」
セレネは答えた。
二つのものが本当に関係しているかどうか。
その答えを出す前に、まずはそれぞれの状態を正確に確かめなければならなかった。
*
記録院へ戻ると、ミラは午後の話し合いで決まった内容を整理し始めた。
机の上には、翌日の測量に関する資料と、午前中に作成した月相の照合結果が並べられている。
「……少し、調査の進め方が変わってきましたね」
ミラが言った。
「ええ。今までは記録の中から手掛かりを探していたけれど、明日は実際の壁を測ることになるもの」
セレネは頷いた。
ミラは新しい紙を取り出した。
「今回の調査で確認したいことを、もう一度整理しておきましょう」
二人は鐘楼地下の見取り図を広げた。
中央部分の寸法。
三つの刻線の位置と角度。
壁面の損傷状態。
そして、古い図面との比較。
「……ここまでなら、今回の調査範囲に収まるわね」
セレネが言うと、ミラは頷いた。
「はい。円盤との関係については、測定結果を得てから考えましょう」
ミラは続けて、午前中の月相照合結果を整理した。
「それと、直近の定時外鳴動の月相についても、忘れずに確認しなければなりませんね」
「ええ。三つの月相が揃ったというだけで、そこで調査を終えてはいけないわ」
セレネは頷いた。
異常が報告された日だけを選んで比較すれば、都合のよい一致が見えてしまうこともある。
本当に何らかの条件を探すなら、異常が報告されなかった日も含めて調べる必要があった。
「通常の運用記録も、役に立つかもしれないわね」
セレネが言った。
ミラは少し考えた。
「そうですね。定期点検や打鐘の記録が残っていれば、異常報告の有無を比較できます」
彼女は手帳に新しい調査項目を書き加えた。
『通常運用日の記録との比較。』
『異常報告のない月相期間の確認。』
セレネはその二行を見つめた。
答えを探す方法が、少しずつ変わってきている。
以前は、失われた記録を見つけることが目的だった。しかし今は、残された記録が何を意味するのかを確かめる必要があった。
「……明日の測量が終わったら、こちらも進めましょう」
セレネが言うと、ミラは頷いた。
「はい。まずは、目の前の調査を確実に終わらせましょう」
*
夕方、ミラが資料を保管するために席を立つと、セレネは一人、閲覧室の窓辺に立った。
外では、人々が仕事を終えて帰路についている。大鐘楼は夕暮れの空に黒い輪郭を浮かべ、今も静かに街を見下ろしていた。
セレネは昼間、静夜診療所で会ったエマとニナのことを思い返した。
二人の失われた時間。
そして、新しく積み重ねられた記憶。
ニナは、昔のことを覚えていない母親に、昨日の出来事を嬉しそうに話していた。
その姿を見たとき、セレネは少しだけ羨ましいと思った。
自分には、五年前より前のことを教えてくれる人がいない。
どこで生まれたのか。
誰と暮らしていたのか。
何を大切にしていたのか。
その答えは、今も見つからないままだった。
けれど、エマとニナの姿は、失われた過去がすべてを決めるわけではないことも示していた。
セレネは静かに目を閉じた。
過去を知りたいという気持ちは変わらない。しかし、今の自分が誰と出会い、何を選び、何を残すのかも、大切なことなのかもしれなかった。
「……セレネさん」
ミラの声がした。
セレネが振り返ると、彼女は一通の書類を手にしていた。
「ヴァルトさんから、正式な連絡が届きました」
「……明日の調査について?」
ミラは頷いた。
「はい。明朝の安全確認を条件として、私たちの立ち会いも認められました」
セレネは書類を受け取った。
そこには、調査の対象と立ち会い条件が細かく記されている。
刻印の外観確認。
中央部分の位置と寸法の測定。
周辺の刻線についての記録。
いずれも、非破壊の範囲に限られていた。
「……これで、もう一度あの壁を調べられるのね」
「はい。ただし、明日の安全確認で問題が見つかれば中止になります」
ミラは念を押した。
セレネは頷いた。
「わかっているわ」
彼女は書類の最後に目を通した。
そこには、保全工事のための仮設支持材の設置が、測量後に予定されていることも記されていた。
施工方法によっては、刻印の一部が見えにくくなる可能性がある。
今回の測量が、刻印全体を現在の状態で直接確認できる、当面最後の機会になるかもしれなかった。
「……ミラ。明日は、今までの図面を全部持っていきましょう」
「ええ。三十四年前の作業票と、現在の見取り図ですね」
「それに、保全庫の円盤の測定記録も」
ミラは頷いた。
「わかりました。今夜のうちに整理しておきます」
セレネは静かに微笑んだ。
「ありがとう」
*
その夜、セレネは宿の机に資料を広げていた。
三十四年前の補修図。
十七年前の移管記録。
保全庫で確認された円盤の見取り図。
そして、現在の鐘楼地下に残る刻印の写し。
それぞれの資料は、異なる時代に作られたものだった。
古い図面には、省略された部分がある。
現在の見取り図にも、摩耗によって読めない線が残されていた。
そして、円盤については、そもそも刻印の中央にあったものなのかさえ確定していない。
セレネは一枚ずつ確認し、机の端へ重ねた。
最後に残ったのは、明日の測量に関する許可書だった。
許可されたのは、壁面の形状を記録することだけ。
鉄扉を開くことも、古い構造に手を加えることも認められていない。
それでも、今まで曖昧なままだった刻線の位置を、詳しく確かめることはできる。
セレネは筆を取り、新しい調査記録を開いた。
『明日、安全確認を条件として鐘楼地下の非破壊測量を実施予定。』
続けて、確認すべき項目を記す。
『中央部分の寸法。』
『三つの刻線の位置と角度。』
『周囲の損傷状態。』
そして最後に、一文を書き加えた。
『元の構造を推測で補わず、現状を記録すること。』
セレネは筆を置いた。
明日、旧照応施設の鉄扉が開かれるわけではない。
月門が再び繋がるわけでもない。
けれど、鐘楼地下に残された古い刻印を、これまでより正確に調べることはできるかもしれなかった。
彼女は窓の外へ目を向けた。
夜空には、雲の切れ間から月が浮かんでいる。
数日前とは、その形も少しずつ変わり始めていた。
月は満ち、欠け、また満ちていく。
三十四年前にも。
十七年前にも。
そして今も。
その繰り返しの中で、古い施設には何が起きていたのだろう。
セレネは机の上の円盤の写しを見つめた。
三つの切り込みを持つ、黒い円。
もしそれが鐘楼地下の刻印にあったものなら、中心と周囲の線は、どのような位置関係にあったのだろうか。
明日の測量では、その一部を確かめられるかもしれない。
セレネは資料を丁寧に重ね、ランタンの灯りを落とした。
大鐘楼は、今夜も沈黙している。
その地下には、まだ正体のわからない古い構造が残されていた。
明日、彼女たちは再び、その前に立つことになる。