大鐘楼の鐘が止まって、六日目の朝を迎えた。灰鐘市の中央広場には、いつもより早い時間から管理部門の職員が集まっていた。塔の周囲には簡単な柵が設けられ、荷車を引く商人たちは、普段より広く道を迂回している。
「いつになったら鐘は鳴るんだ?」
荷車の上から、一人の男性が職員へ声をかけた。
「安全確認が終わるまで、しばらくお待ちください」
「それは何日も前から聞いているよ」
男性は不満そうに答えたが、それ以上言い争うことはなく、荷車を動かした。
セレネはその様子を横目に、大鐘楼へ向かって歩いていた。鐘が止まったことは、もう街の人々に知られている。しかし、その理由について詳しく説明されているわけではない。
管理部門が公表しているのは、原因不明の異常音が確認され、安全点検を続けているという事実までだった。地下で半月の刻印が発光したことも、古い照応施設の存在も、一般には知らされていない。
セレネは塔を見上げた。
今朝は、地下の刻印を詳しく測る予定になっている。三十四年前の補修作業票には、円形の模様が描かれていた。十七年前の移管記録には、鐘楼地下から円形異材が運び出されたという記述が残されている。
そして、市立資料保全庫で見つかった円盤には、三つの切り込みがあった。
それらが本当に関係しているのかは、まだわからない。しかし今日は、少なくとも壁面に残された形を、以前より正確に確かめられるはずだった。
鐘楼の入口に近づくと、ミラが手を振った。
「セレネさん。こちらです」
「おはよう、ミラ。早いのね」
「測量担当の方が、もう準備を始めています」
ミラの隣には、ヴァルトの姿もあった。
「おはようございます。お二人とも、予定どおり来ていただいて助かります」
ヴァルトは手元の書類を確認した。
「ただし、まだ地下へ入れると決まったわけではありません。これから保全担当者による安全確認を行います」
「ええ。昨日聞いているわ」
セレネが答えると、ヴァルトは頷いた。
「問題が見つかれば、調査は延期します。安全上の判断については、リゼット主任の指示に従ってください」
ミラは鞄から許可書を取り出した。
「承知しています。今日の調査範囲も、改めて確認しておきたいです」
ヴァルトは許可書を受け取り、該当する部分を指さした。
鉄扉の外側にある壁面の測量。刻印の位置と形状の記録。そして、周辺石材の損傷状況の確認。
許可されているのは、いずれも非破壊の作業に限られていた。鉄扉の開放や封鎖標の取り外し、壁面への加工は認められていない。
「……扉の向こうには、今回も入れないのね」
セレネが呟いた。
「ええ。封鎖区画については、別の安全評価が必要です」
ヴァルトは静かに答えた。
セレネは頷いた。今日は、扉を開けるために来たわけではない。
今まで何度も見つめてきた壁に、実際には何が刻まれているのか。それを、できる限り正確に記録するためだった。
*
管理室では、リゼットが測量担当者と図面を確認していた。
机の上には、古い地下通路の配置図と、保全工事に向けた新しい図面が並んでいる。測量に使う器具も、壁際の台にまとめられていた。
「おはようございます」
ミラが声をかけると、リゼットは顔を上げた。
「おはようございます。ちょうど最終確認をしていたところです」
彼女はセレネたちを席へ案内した。
「先ほど、先行して入った保全担当者から連絡がありました。通路の入口から鉄扉の手前までは、現時点で大きな変形は確認されていません」
「それなら、調査できるんですか?」
セレネが尋ねた。
「範囲を限定すれば、可能と判断しています。ただし、古い壁面の上部には、劣化した目地があります」
リゼットは図面の一角を指さした。
「壁際へ長時間留まることは避けます。測量担当者以外は、指定された位置から観察してください」
ミラは頷いた。
「記録を取る場所も、決められているんですね」
「ええ。必要なら、測量担当者が確認した数値をこちらへ伝えます」
リゼットは続けた。
「今日は作業時間を区切ります。新しい亀裂や落下物、原因不明の振動が確認された場合は、その時点で調査を中止します」
セレネは彼女の表情を見つめた。説明は厳格だったが、調査そのものを妨げようとしているわけではない。
安全な範囲であれば、必要な情報を残そうとしている。その姿勢は、昨日の話し合いから変わっていなかった。
「……わかったわ」
セレネが答えると、リゼットは頷いた。
「では、始めましょう」
*
地下へ続く石段には、仮設の灯りが取り付けられていた。
以前訪れたときよりも足元は明るかったが、古い石壁の湿った匂いは変わっていない。階段を下りるにつれて地上の物音が遠ざかり、やがて足音だけが狭い通路に響くようになった。
セレネは最後の段を下り、通路の奥へ目を向けた。
鉄扉は、以前と同じ場所にあった。
表面を覆う錆。中央に取り付けられた封鎖標。その下に残された三日月の紋様。
そして、扉の右側には、三つの月相を刻んだ円形の模様がある。
セレネは足を止めた。
六日前、この場所で半月の刻印が光った。あのときは、床から弱い振動が伝わり、石壁の奥で鐘に似た音が響いた。
しかし今日は、何も起きていない。刻印は古い石壁の一部として、静かにそこに残されていた。
「……こちらから先は、測量担当者だけが近づきます」
リゼットが言った。
セレネとミラは指示された位置へ下がった。
測量担当者たちは、壁から一定の距離を取って器具を設置し始めた。目盛りの付いた枠を基準位置に合わせ、測定棒や細い糸を使って、刻印の位置関係を確認していく。
記録係は少し離れた場所に立ち、測定された数値を紙に書き留めていた。
「……まずは、中央の円からですね」
ミラが呟くと、セレネは頷いた。
「ええ。三十四年前の図面との比較にも必要だもの」
リゼットは測量担当者へ指示を出した。
「中央の輪郭を、見えている範囲だけで記録してください。傷んだ部分を、推測で繋がないように」
「了解しました」
担当者はランタンの位置を調整した。
光が斜めから当てられると、石壁の細かな凹凸が影を作り、正面からでは見えなかった部分が浮かび上がった。
円形の刻印。その中央にある、傷んだ部分。
以前は、そこに何かの文字があったのかもしれないと考えていた。しかし、光の角度を変えて観察すると、単なる削れ跡とは異なる形が見えてきた。
「……段差がありますね」
測量担当者の一人が言った。
リゼットが顔を上げる。
「どの部分ですか?」
「中央の円の外周です。周囲の石面との間に、ごく浅い段差があるように見えます」
担当者は壁へ触れないよう、測定棒で位置を示した。
「円の内側が、周囲よりわずかに低くなっているようです。ただし、全周が確認できるわけではありません」
ミラが手元の見取り図を確認した。
「……中央が凹んでいるということでしょうか」
「その可能性はありますが、今の段階では断定できません。摩耗が激しい部分もありますから」
リゼットは記録係へ向き直った。
「確認できた段差の位置を記録してください。円形の窪みと判断するのは、測定結果を整理してからにしましょう」
セレネは壁を見つめた。
もし中央に何かが収められていたのなら、その外周に段差が残っていても不思議ではない。しかし、それはあくまで一つの可能性だった。
石材を円形に加工した跡かもしれないし、異なる材質のものが接していた境界なのかもしれない。今わかっているのは、中央の円に沿って浅い段差らしいものが確認されたということだけだった。
*
測量は慎重に進められた。
担当者たちは中央部分の輪郭を記録したあと、周囲に配置された三つの月相へ移った。欠月、半月、満月。それぞれの印は摩耗の程度が異なり、細い線の一部は判読できなくなっている。
セレネは、文字が確認できる箇所をミラへ伝えた。
「欠月の二文字は、前に読んだときと変わらないわ」
「はい。位置も記録しておきますね」
ミラは手帳へ書き込んだ。
「半月の印は?」
「輪郭の一部が浅くなっているけれど、文字は残っているわ」
セレネは視線を移した。
六日前、発光した場所だった。しかし、そこに新しい傷や焼けた跡が見られるわけではない。
「……光った痕跡は、残っていないのね」
セレネが呟くと、リゼットが答えた。
「少なくとも、外観からわかる変化は確認されていません。ただ、発光が石材に何らかの影響を与えたかどうかまでは、調べていません」
セレネは頷いた。
光が見えたことと、石材が変化したことは別だった。
ミラも、その点を記録に加えた。
「……次は、中心へ向かう刻線です」
測量担当者が声を上げた。
三つの月相を示す区画から、中央の円へ伸びる細い線。これまでの見取り図では、それぞれが中央へ繋がるように描かれていた。
セレネは手元の写しを見下ろした。
最初に調査したとき、三つの線は一つの中心へ集まっているように見えた。それが何を意味するのかはわからなかったが、図面に描く際にも、自然とそのような形になっていた。
しかし、実際の壁は図面ほど明瞭ではない。細い刻線の途中には、摩耗によって見えなくなった箇所がいくつも存在していた。
測量担当者がランタンの角度を変えた。
「……おかしいですね」
小さな声だった。
リゼットが顔を上げる。
「何か確認できましたか?」
「欠月側の刻線ですが、中央の円まで続いていることが確認できません」
セレネは壁へ視線を向けた。
「……どういうこと?」
担当者は、壁に触れないよう測定棒を掲げた。
「見える範囲では、中央の外周から少し離れた位置で線が終わっています」
ミラが手元の見取り図を確認した。
「以前の図面では、中央まで繋がるように描かれています」
「そこが違いますね」
担当者は慎重に答えた。
「ただし、途中の摩耗によって、先の部分が見えなくなっている可能性もあります。元からそこで終わる構造だったとは限りません」
リゼットは頷いた。
「視認できる刻線の終端を記録してください。元の構造については、判断を保留します」
測量担当者は記録を続けた。
次に調べたのは、満月側の刻線だった。
こちらも、中心へ向かって伸びている。しかし、やはり円の輪郭までは、線が連続していることを確認できなかった。
「……こちらも、隙間があります」
ミラは思わず顔を上げた。
「二本とも、ですか?」
「ええ。少なくとも、現在見える部分ではそうなっています」
セレネは二つの線を見比べた。
欠月側の刻線も、満月側の刻線も、中央へ向かって伸びていることは間違いない。しかし、その先が円の外周まで続いているかどうかは、確かめられなかった。
「……では、半月の線は?」
セレネが尋ねた。
担当者は中央の右下へランタンを向けた。
そこには、周囲の石材より新しい支持石が重なっていた。
「この部分は、支持石の下へ入っています」
リゼットが図面を確認した。
「百八十年前の大規模改修で加えられたと考えられる部分ですね。元の刻線が、その下へ続いている可能性があります」
「……その先は、測れないの?」
セレネが尋ねた。
「ええ。現在の許可では、支持石を動かしたり、周辺の石材を削ったりすることはできません」
リゼットは明確に答えた。
「見えている範囲だけを記録してください」
「了解です」
担当者は測量棒を下げた。
半月側の刻線は、途中までしか見えなかった。その先が中央の円へ繋がっているのか、それともほかの二本と同じように見えなくなっているのかは、確認できない。
セレネは古い見取り図を見つめた。
三本の線は、中央へ向かって伸びている。
しかし、中央との連続が確認できた線は、今のところ一本もなかった。
*
「……図面を修正する必要がありますね」
ミラが言った。
彼女は以前の見取り図を板の上に広げ、測量担当者から伝えられた数値を書き込んでいた。
「以前は、三つの区画が中央へ繋がっているように描いていました」
「ええ。でも、それは確認できていない部分まで線を伸ばしていたのね」
セレネは頷いた。
リゼットは二人の会話を聞き、静かに言った。
「最初の見取り図としては、珍しいことではありません。古い刻線は、影の向きによって繋がって見えることがありますから」
彼女は壁に視線を戻した。
「重要なのは、今回の測定で以前の認識を修正できたことです」
ミラは頷いた。
「……そうですね」
セレネは欠月側の刻線を見つめた。
円の手前で見えなくなっている線。それが元からそこで終わっていたのか、年月の中で摩耗したのかはわからない。
もし最初から隙間が存在していたのなら、三つの区画は単純に中心へ繋がる構造ではなかったことになる。一方、摩耗によって失われた部分があるなら、かつては連続していた可能性も残されていた。
「……中央へ向かっていることと、繋がっていることは違うのね」
セレネが呟くと、ミラは顔を上げた。
「ええ。古い測量記録にあった注意事項とも、少し似ていますね」
セレネはミラを見た。
『照応の成立を確認せず、経路の継続を記してはならない。』
以前読み取った一文が、頭をよぎる。
しかし、それは特殊接続路の測量に関する規則だった。目の前の刻線について述べた文章ではない。
「……似ているけれど、同じ意味だとは限らないわ」
セレネが答えると、ミラは頷いた。
「はい。ただ、確認できない部分を繋げて描いてはいけないという点では、私たちも気をつけなければなりませんね」
二人は修正途中の図面を見下ろした。
以前の写しより、中央の周囲に空白が多い。一見すると、不完全な図になったようにも思えた。
しかし、見えない部分を推測で補うよりも、今確認できる形を残す方が正確だった。
*
測量が中央部分の下側へ移ろうとしたとき、通路の奥で小さな音がした。
乾いたものが石に触れるような音だった。
セレネが顔を上げる。
「……今、何か聞こえた?」
ミラも周囲を見渡した。
「ええ。何か落ちたような……」
その直後、測量担当者の一人が声を上げた。
「主任。上部の目地から、細かな粉が落ちています」
リゼットの表情が変わった。
「作業中止。器具はそのままにして、全員通路の入口側へ移動してください」
指示は即座に出された。
測量担当者たちは手を止め、壁から離れた。設置した測量器具は動かさず、記録係は手元の測定用紙だけを持って退避を始めた。
セレネとミラも、ヴァルトに促されて後退した。
そのとき、足元に微かな震えが伝わった。
ほんの一瞬だった。
セレネは思わず鉄扉を振り返った。
六日前に感じた振動を思い出す。しかし、今回の揺れが同じものなのかどうかはわからなかった。
「立ち止まらないでください」
リゼットの声が響いた。
セレネはすぐに視線を戻し、石段へ向かった。
全員が地上へ戻るまで、誰も口を開かなかった。
*
鐘楼の入口に出ると、リゼットは人数を確認した。
幸い、怪我をした者はいなかった。測量担当者たちが状況を報告している間、ヴァルトは地上の職員へ周辺の様子を確認しに行った。
しばらくして、彼は一枚の記録用紙を持って戻ってきた。
「……ちょうど、その時間に大型の荷車が通ったそうです」
セレネが顔を上げる。
「荷車?」
「規制区域の外側を通る石畳の道で、車輪が大きく跳ねたという報告があります。その際、周囲に強い振動が伝わった可能性があるそうです」
リゼットは少し考えた。
「荷車の通過と地下の揺れが関係している可能性はあります。ただし、今の報告だけでは判断できません」
「……地下の振動が、普通の原因で起きた可能性もあるのね」
セレネが言うと、リゼットは頷いた。
「ええ。古い建物では、外部からの振動が石壁を伝わることがあります。もちろん、それだけで今回の現象を説明できるわけではありませんが」
彼女は測量担当者から提出された記録を確認した。
「ただ、原因が何であれ、上部の目地から粉が落ちたことは事実です。安全上の評価が終わるまで、測量を再開することはできません」
ミラは少し残念そうに図面を見つめた。
「……今日の調査は、ここまでですね」
「ええ。少なくとも、これから地下へ戻ることは認められません」
リゼットは明確に答えた。
「測量器具も、現場の安全が確認できるまで残置します。回収のためだけに立ち入ることも、今は避けるべきです」
セレネは大鐘楼を見上げた。
空は明るく、塔も地上から見た限りでは何も変わっていない。しかし、古い石壁の内部がどのような状態にあるのかは、外からではわからなかった。
「……わかったわ」
セレネは静かに答えた。
「まだ測りたいところはあるけれど、無理はできないものね」
リゼットは頷いた。
「ご理解いただけて助かります。今回の落下物については、安全評価に反映します」
ヴァルトは記録用紙を取り出した。
「異常音や振動についても、別に記録しておきます。地上の荷車による影響があった可能性も含めて」
「ええ。それがいいと思います」
ミラが答えた。
今回の振動が、六日前の現象と同じものだったとは限らない。半月の刻印が光ったわけでもなく、鐘に似た深い音が響いたわけでもなかった。
それでも、観測された出来事として残しておく必要がある。
リゼットは最後に、地下へ続く入口を振り返った。
「古い建物には、特別な仕組みがなくても揺れが伝わります。まず、それを理解しなければなりません」
セレネはその言葉を聞き、静かに頷いた。
不思議な現象を調べるためにも、普通に起こり得ることを見落としてはいけない。
それは、今まで何度も確認してきたはずのことだった。
*
午後、セレネとミラは管理室に残り、測量担当者たちが持ち帰った記録を整理していた。
器具の一部は地下に残されたままだったが、測定値を書き留めた用紙は退避の際に回収されている。そのため、途中までの結果については、地上でも確認することができた。
ヴァルトは測量記録の写しを二人に渡した。
「途中で中止になりましたが、中央部分と二本の刻線については、以前より詳しい記録が取れています」
ミラは三十四年前の補修作業票を隣へ置いた。
「……中央部分の大きさは、古い図面と近いですね」
ヴァルトは頷いた。
「ええ。ただし、測り方も精度も違いますから、数値が近いことだけでは同一の構造だと断定できません」
セレネは中央の円を指さした。
「今日確認された段差については、どう記録されているの?」
ヴァルトは該当する箇所を示した。
『中央円周部に、周囲石面との差とみられる段差を確認。』
『全周の連続性は未確認。』
『構造上の用途は不明。』
セレネはゆっくりと読み上げた。
「……何かを収めるための場所だった可能性もあるけれど、まだわからないのね」
「そうです」
ヴァルトは頷いた。
「保全庫で見つかった円盤と大きさが近いという点は興味深いですが、その円盤がここに取り付けられていたことを示す直接の証拠にはなりません」
ミラは次の項目を確認した。
「……刻線についても、修正が必要ですね」
図面には、三つの月相から中央へ向かう線が描かれていた。
しかし、以前の見取り図とは異なり、欠月と満月の線は、中央の手前で視認できなくなった位置までしか記録されていない。
半月側については、古い改修時の支持石に隠れる位置で測定が終わっていた。
「……これまで、全部が中央に繋がっているように考えていたわ」
セレネが言った。
ミラは頷いた。
「ええ。でも、今の状態では、そう確認できません」
ヴァルトは二枚の図面を見比べた。
「刻線が元からそこで終わっていたのか、それとも摩耗や補修によって見えなくなったのかは、現状では判断できません」
ミラは古い補修図を確認した。
「三十四年前の図面では、三本とも中心へ向かう線として描かれています。ただ、こちらも細かい部分までは記録されていませんね」
「ええ。線の終端を調べるための図面ではなかったのでしょう」
ヴァルトは答えた。
セレネは二つの図を見比べた。
一方には、中心へ集まる三本の線。
もう一方には、中央の手前で見えなくなる二本の線と、先を確認できない一本の線。
似た図ではある。
しかし、そこから読み取れる情報は、同じではなかった。
「……ねえ、ミラ」
セレネが声をかけた。
「はい?」
「もし、あの円盤が中央にあったものだとしたら……」
彼女は保全庫の円盤の写しを取り出した。
外周には、三つの切り込みがある。
「壁の刻線は、円盤そのものには届かず、切り込みの近くで終わる形だった可能性もあるのかしら」
ミラは図面を見つめた。
「……考えられます。でも、まだ位置関係を比較できるほど測定値が揃っていません」
彼女は円盤の写しを指さした。
「切り込みの正確な角度と幅は、保全庫での追加調査を待たなければなりません。それに、壁に円盤をどの向きで取り付けていたのかもわかりません」
「……そうね」
セレネは頷いた。
三つの切り込みがある。
三つの刻線がある。
それだけで、互いに対応していると決めることはできなかった。
しかし、今日の測量によって、以前とは違う疑問が生まれた。
三本の線は中央へ向かって伸びている。
だが、その先が見えなくなっている理由は何なのだろう。
元から隙間があったのか。
それとも、年月の中で失われたのか。
その違いを確かめるには、まだ情報が足りなかった。
*
書類の整理を終えようとしていたとき、リゼットが管理室へ戻ってきた。
手には、新しい点検報告書を持っている。
「お待たせしました」
彼女は机に書類を置いた。
「測量中に記録した上部目地の状態と、以前の点検資料を照合しました」
「……どうでしたか?」
ヴァルトが尋ねた。
「現在残っている記録からは、急激な構造変形が起きたと判断できる証拠は見つかっていません。ただし、古い目地材の劣化が進んでいる可能性があります」
リゼットは図面の一角を指さした。
「現地での追加確認は、まだ行っていません。安全な立ち入り方法が決まるまで、あの壁面での作業は停止します」
「では、地下への立ち入り制限も続くのですね」
ミラが尋ねると、リゼットは頷いた。
「ええ。測量器具の回収も含め、再立ち入りには改めて安全確認が必要です」
ヴァルトは書類を確認した。
「保全工事については、どうなりますか?」
「必要な仮設支持材の設置を優先して検討します。ただし、安全を確保できる施工方法が決まるまでは、工事を始めることもできません」
リゼットは少し間を置いた。
「今回の測量記録は、保全計画に反映します。可能な範囲で、刻印の見える部分を残せる方法を検討したいと思います」
セレネは顔を上げた。
「……本当?」
「ええ。すべてを見える状態にできるとは限りませんが、保存価値がある可能性を無視するつもりはありません」
リゼットは静かに答えた。
「もっとも、建物が危険な状態になれば、話は別です。調査のために人が怪我をしては意味がありませんから」
「……そうね」
セレネは頷いた。
まだ確かめられていないことは多い。しかし、今日の測量で得られた情報を残すことはできた。
リゼットは図面を重ねた。
「それと、今後のためにお願いがあります」
「何でしょうか?」
ミラが尋ねた。
「保全庫の円盤について、詳しい形状が確認できたら、測定値を共有していただけますか?」
「はい。追加調査の許可が出れば、結果をお渡しします」
「ありがとうございます。元の構造を検討するためにも、比較できる資料は多い方がいいですから」
ヴァルトも頷いた。
「管理部門の方でも、十七年前の工事記録の照会を続けます」
セレネは机の上に並んだ資料へ視線を落とした。
今日の調査は、途中で終わった。しかし、何も得られなかったわけではない。
今まで一つに繋がっていると考えていた線が、実際にはそう確認できないことがわかった。その違いを正確に記録できたことが、今回の成果だった。
*
夕方、二人は記録院へ戻った。
閲覧室の机に測量記録を広げると、ミラは最初に作った見取り図を取り出した。そこには、三つの月相から中央へ伸びる線が、ほとんど切れ目のない形で描かれている。
「……これ、修正しておきましょう」
ミラは新しい紙を用意し、測量結果に従って中央の円と三つの刻線を描き直し始めた。
セレネは隣に座り、今日の記録を読み上げた。
「欠月側は、円の手前で刻線が見えなくなっているわ」
「はい。見えている終端だけを描きますね」
「満月側も同じ。半月側は、古い支持石の下に隠れているから、その先は描けないわ」
「……わかりました」
ミラは測定値を確認しながら線を引いた。
三つの月相から伸びる刻線は、いずれも中央の円まで達していない形で描かれた。ただし、それは実際に線が途切れていると確定したことを意味しない。
見えない部分には線を引かず、観察できなかった範囲を別の印で示した。
「……こんな形ですね」
ミラは描き終えた図を見せた。
以前の図面よりも、中央の周囲に空白が多い。
セレネはしばらく眺めてから、頷いた。
「ええ。今わかっている形に近いと思うわ」
ミラは古い見取り図を隣へ置いた。
三つの線が、一つの中心へ向かって伸びている。整った形だった。
「……前の方が、わかりやすい図だったわね」
セレネが呟くと、ミラは少し笑った。
「そうですね。でも、わかりやすいことと、正確なことは違いますから」
セレネも微かに笑った。
「……そうね」
ミラは新しい図面の下に、短い注記を書き加えた。
『刻線の終端および中央円との連続性は、現状では未確認。』
それから、三十四年前の補修作業票を開いた。
「……ひとつ、確認しておきたいことがあります」
セレネが顔を上げる。
「何かしら?」
「古い図面では、中央の円が黒く塗られていますよね」
ミラは該当する部分を指さした。
「今日の測量では、中央の外周に浅い段差らしいものが確認されました。でも、図面を描いた職人が、その段差を表現するために黒く塗ったのかはわかりません」
「……異なる材質だったから、区別して描いたのかもしれないわね」
「ええ。ただ、そういう描き方が当時の工事図面で一般的だったのかも、調べる必要がありそうです」
セレネは頷いた。
古い図面の表現を、そのまま実物の形だと考えることはできない。描いた人物が何を記録するためにその線を引いたのか、その目的も確かめなければならなかった。
「……オルフェンさんなら、何か覚えているかしら」
セレネが尋ねると、ミラは少し考えた。
「三十四年前の図面の描き方についてなら、聞いてみる価値はありますね。ただ、同じ質問を繰り返すだけでは、新しい情報は得られないかもしれません」
「それなら、今日の測量結果を見てもらうのはどう?」
ミラは顔を上げた。
「……なるほど」
「昔の壁を見たとき、どの部分を確かに見たのか。それなら、もう少し具体的に聞けるかもしれないわ」
ミラは頷いた。
「ただし、最初から新しい図面を見せるのは避けましょう」
「どうして?」
「今の形を先に見せると、三十四年前の記憶を、それに合わせて思い出してしまう可能性があります」
セレネは少し考えた。
「……なら、まずは何も見せずに、当時覚えていることを聞くのね」
「はい。そのあとで実測図を見てもらい、違いについて尋ねる方がよいと思います」
セレネは頷いた。
三十四年前の職人が見た壁と、今日の自分たちが見た壁。その間には長い時間が流れている。
同じものが残っている部分もあれば、変化した部分もあるのだろう。しかし、その変化がいつ、何によって起きたのかは、まだわからなかった。
「……明日、連絡を取ってみましょう」
セレネが言うと、ミラは頷いた。
「ええ。ヴァルトさんを通して、面会をお願いしてみます」
*
その日の記録整理を終える頃には、窓の外が暗くなり始めていた。
ミラは新しい測量図を保管用の封筒へ入れ、古い資料とは別にまとめた。図面の下には、観察できた範囲と、確認できなかった範囲を区別した注記も添えられている。
「……今日は、途中で調査が止まってしまいましたね」
ミラが言った。
「ええ。でも、安全に戻ってこられたわ」
セレネは静かに答えた。
「それに、以前の見取り図も修正できたもの」
「そうですね。実際に確認できた形と、私たちが想像していた形の違いもわかりました」
ミラは封筒の表に日付を書き込んだ。
「今度は、わからない部分まで繋げて描かないようにします」
セレネは頷いた。
以前の見取り図には、三本の線が一つの中心へ集まる姿が描かれていた。それは整っていて、何かの仕組みを表しているようにも見えた。
しかし、今日残された実測図は違う。線の先には、確認できなかった部分がそのまま残されている。
「……不完全に見えるけれど、こちらの方が正確なのね」
セレネが言うと、ミラは頷いた。
「はい。あとから新しい情報が見つかれば、そこへ書き加えることもできますから」
セレネは静かに微笑んだ。
調査を進めるほど、わからないことが増えているようにも思える。しかし、以前の思い込みを一つ修正できたことは、確かな前進だった。
「……明日は、どうしましょうか」
ミラが尋ねた。
「保全庫の追加調査について、回答が届いているか確認したいわ。それと、今日の図面をオルフェンさんに見てもらえるか、相談してみましょう」
ミラは頷いた。
「わかりました。連絡を取ってみます」
セレネは窓の外へ目を向けた。
大鐘楼は夕闇の中にそびえ、今も時刻を告げることなく沈黙している。その地下では、古い石壁の保全が必要になっていた。
刻印の一部は、今後設置される仮設支持材によって見えなくなるかもしれない。しかし、今日残された測量記録があれば、少なくとも現状をあとから確かめることはできる。
「……帰りましょう、ミラ」
「はい。お疲れさまでした」
二人は資料を片づけ、閲覧室をあとにした。
*
その夜、セレネは宿の机に新しい測量図を広げた。
以前の見取り図と比べると、中央の周囲には多くの空白が残されている。欠月側と満月側の刻線は、円の手前で視認できなくなっていた。
半月側についても、古い支持石に隠れた先がどうなっているのかはわからない。
三本とも、中央まで繋がっていることを確認できていなかった。
セレネは保全庫の円盤の写しを隣へ置いた。
三つの切り込みを持つ、黒い円盤。
もしそれが刻印の中央にあったものなら、周囲の線とどのような位置関係にあったのだろう。切り込みは刻線に対応するものだったのか。それとも、まったく別の目的で設けられたものなのか。
答えを出すには、まだ情報が足りなかった。
セレネは図面を見つめながら、六日前の出来事を思い返した。
半月の刻印が発光したとき、中央の円に光が浮かんだという記録はない。彼女が確かに見たのは、半月の輪郭に沿った淡い輝きだった。
ミラもヴァルトも、同じ部分が光ったと証言している。しかし、中央の状態を詳しく観察する余裕はなかった。
あのとき、三本の刻線にも何か変化が起きていたのだろうか。
それとも、半月の印だけが光っていたのだろうか。
セレネはしばらく考えたあと、筆を取った。
『六日前の異常発光時、中央部分および刻線全体の状態は未確認。』
自分が見たものと、見ていないもの。
その境界を、今は曖昧にしたくなかった。
続けて、今日の測量結果について書き加える。
『欠月側・満月側の刻線は、現状では中央円との連続を確認できない。』
『半月側の刻線は、古い改修時の支持石により終端未確認。』
『中央円周部に浅い段差らしい形状を確認。用途不明。』
セレネは筆を置いた。
今日の調査は、予定していたすべての測定を終えることができなかった。地下では粉の落下が確認され、安全評価が終わるまで立ち入りも制限されている。
保全庫の円盤についても、正式な照合はまだ完了していない。
それでも、以前の図面に描かれた三本の線が、実際には中央へ繋がっていると確認できないことはわかった。
セレネは古い測量記録を思い返した。
『照応の成立を確認せず、経路の継続を記してはならない。』
あの一文は、月門の接続地点を測るための規則だった。鐘楼地下の刻線について、直接説明したものではない。
しかし、今日の調査を終えた彼女には、その言葉が以前より重く感じられた。
見えている方向だけで、繋がっていると決めてはいけない。
その先がどこへ続くのかは、確かめなければわからない。
セレネは窓の外を見上げた。
灰鐘市の夜空には、薄い雲が流れている。大鐘楼は、今夜も沈黙していた。
地下の鉄扉は閉ざされたままであり、黒い円盤は今も資料保全庫に置かれている。三つの刻線は、長い年月を経た石壁に残されていた。
それぞれが何のために存在していたのかは、まだわからない。
セレネは新しい測量図へ視線を戻した。
中央の周囲には、線を引かずに残された小さな空白がある。
以前の図面にはなかったものだ。
そこに本来何が存在していたのか、今の彼女には確かめることができない。
しかし、空白を勝手に埋めてしまえば、まだ見つかっていない答えを、自分たちの想像で置き換えることになる。
セレネは静かに資料を重ねた。
次に調べるべきなのは、繋がっているはずの線を探すことではない。
線が中央へ届く前に見えなくなっている、その理由だった。