大鐘楼の鐘が止まって、七日目の朝を迎えた。
灰鐘市の中央広場では、鐘楼の周囲に設けられた柵が、昨日よりも少し広げられていた。通行人たちは職員の案内に従って道を迂回し、商人たちは荷車を止める場所について話し合っている。
鐘が鳴らなくなってから、一週間近くが過ぎようとしていた。
セレネは広場を横切りながら、大鐘楼を見上げた。昨日の非破壊測量は、地下の上部目地から粉が落下したことで中止されている。再立ち入りは認められておらず、測量器具の一部も地下に残されたままだった。
それでも、途中までの測定で新しい事実が確認された。
三つの月相から中央へ向かって伸びる刻線は、いずれも中央の円まで繋がっていることを確認できなかった。欠月と満月の線は円の手前で見えなくなり、半月の線は古い支持石の下に隠されている。
以前の見取り図では、三本の線が中央へ集まるように描かれていた。しかし、それは観察できなかった部分まで補った形だった。
今のセレネたちに必要なのは、見えない部分を想像で埋めることではない。
なぜそこが見えなくなっているのかを、確かめることだった。
記録院へ到着すると、ミラが閲覧室の入口で待っていた。
「おはようございます、セレネさん」
「おはよう、ミラ。何か連絡があったの?」
ミラは手にしていた封書を示した。
「二件あります。どちらも、昨日お願いしていた調査に関するものです」
セレネは顔を上げた。
「一つは、オルフェンさんから。今日の午前中なら、もう一度お話を聞いてもよいそうです」
「……会ってもらえるのね」
「はい。ヴァルトさんを通して、今回の測量結果について相談したいと伝えてあります」
ミラはもう一通の封書を取り出した。
「それから、市立資料保全庫からも回答が届きました。円盤の追加測定が認められています」
「本当?」
セレネの声がわずかに弾んだ。
「ええ。ただし、今回は形状の測定と表面の観察だけです。材質の分析や付着物の採取は、別の許可が必要になります」
セレネは頷いた。
「それで十分よ。まずは、三つの切り込みの位置を知りたいわ」
「私もそう思います」
ミラは封書を鞄へ収めた。
「午前中にオルフェンさんを訪ねて、午後から保全庫へ向かいましょう」
「ええ。そうしましょう」
二人は必要な資料を揃え、記録院を出た。
*
西地区の工房街では、朝から金属を叩く音が響いていた。
石材店や修理工房が並ぶ通りを進むと、以前訪れた小さな工房が見えてきた。扉の横には古い工具が吊るされ、窓際には修理途中の金属部品が置かれている。
セレネが扉を叩くと、中から低い声が返ってきた。
「開いてるよ」
工房へ入ると、オルフェン・リードは作業台の前に座っていた。
白髪の混じる髪を短く整え、片手には小さな金属片を持っている。作業台の端には三十四年前の手帳が置かれていたが、今は閉じられたままだった。
「また来たのか」
オルフェンは顔を上げた。
「お忙しいところ、すみません」
ミラが頭を下げる。
「構わんよ。ヴァルトから話は聞いた。昨日、鐘楼の地下を測ったんだってな」
「はい。ただ、途中で安全上の問題が見つかり、調査は中止になりました」
オルフェンは眉を寄せた。
「……壁が崩れたのか?」
「崩落は確認されていません。ただ、上部の目地から細かな粉が落ち、原因のわからない微振動もありました」
セレネが答えると、オルフェンは静かに頷いた。
「古い壁だからな。無理に近づかなかったなら、それでいい」
彼は手元の工具を置き、二人へ向き直った。
「それで、今日は何を聞きたい?」
ミラは鞄を開いたが、昨日の実測図は取り出さなかった。
「まず、三十四年前にご覧になった壁面について、覚えていることをもう一度教えていただけますか」
オルフェンは少し意外そうな顔をした。
「この前も話したはずだが」
「はい。ただ、今回は形状について詳しく確認したいんです。新しい図面を見る前に、当時の記憶を伺えればと思っています」
オルフェンは二人を見比べたあと、小さく笑った。
「なるほど。新しい図面を見せると、そっちに記憶を引っ張られるかもしれん、ということか」
「……はい」
ミラが答える。
「正直に言ってくれて助かるよ」
オルフェンは椅子の背に寄りかかった。
「もっとも、三十四年も前のことだ。昨日見た景色みたいには話せんぞ」
「ええ。それは承知しています」
セレネは頷いた。
「覚えていることだけで構わないわ。はっきりしないところは、そう言ってもらえれば」
オルフェンはしばらく目を閉じた。
工房の外から、金属を打つ規則正しい音が聞こえてくる。古い職人はその音に耳を傾けるように沈黙し、やがてゆっくりと口を開いた。
「……あの壁は、鉄扉の右にあった。周りは古い石で、何かの模様が彫られていたな」
彼は指先で机の上に円を描いた。
「中心には、周囲と違う材質のものがあった。俺たちが直したのは、その外側の欠けた石だけだ」
「模様の細かな形は、覚えていますか?」
ミラが尋ねた。
「三つに分かれていたことは覚えている。だが、線がどこまで続いていたかまでは……」
オルフェンは言葉を止めた。
「……いや。少し待ってくれ」
彼は机の上に描いた円を見つめた。
「中央の周りに、細い境目があった気がする」
セレネは顔を上げた。
「境目?」
「ああ。中央のものと周りの石が、ぴったり一つになっていたようには見えなかったんだ」
オルフェンは指先で、円の外側をなぞった。
「ただ、それが最初からある隙間だったのか、石の継ぎ目だったのかはわからん。俺たちはそこを触っていないからな」
ミラは手帳へ書き留めた。
「中央の部材と、周囲の刻線についてはどうでしょうか」
オルフェンは首を横に振った。
「繋がっていたかどうかは覚えていない。そこまで細かく見ていなかったんだろう」
セレネは静かに頷いた。
期待していた答えではなかった。しかし、覚えていないことを明確にしてもらえたのは重要だった。
「……ありがとう。もう一つだけ聞かせて」
セレネは静かに言った。
「中央の部材を避けるように補修したのは、なぜだったの?」
オルフェンは少し考えた。
「責任者から指示されていたからだ。古い加工痕には触れるな、と」
「理由は説明されなかったの?」
「保存対象かもしれん、という話はあった。だが、正式な調査を頼まれたわけじゃない」
彼は小さく肩をすくめた。
「俺たちの仕事は、剥がれかけた石を補修することだった。それ以上のことを勝手にやれば、責任問題になる」
ミラは頷いた。
その説明は、三十四年前の正式な補修作業票とも一致していた。
「……わかりました」
ミラが手帳を閉じかけたとき、オルフェンが再び口を開いた。
「ただな。一つだけ、妙に覚えていることがある」
セレネとミラは顔を上げた。
「何かしら?」
「補修に使う材料を準備していたとき、若い職人が中央の近くまで目地材を詰めようとしたんだ」
オルフェンは作業台の隅へ視線を向けた。
「それを責任者が止めた。古い加工痕を埋めるな、と」
「……その部分に、目地材を入れようとしたのね」
セレネが尋ねる。
「ああ。だが、どの位置だったかまでは覚えていない。中央の縁だったか、近くの細い溝だったか……」
オルフェンは眉を寄せた。
「昔のことを思い出そうとすると、どうしても後から知った話が混ざる。今のは、確かな証言として扱わんでくれ」
ミラは頷いた。
「はい。ご本人も確信していない記憶として、ほかの証言とは区別しておきます」
オルフェンは小さく息を吐いた。
「……それならいい」
*
聞き取りが一区切りついたところで、ミラは三十四年前の手帳を確認する許可を求めた。
オルフェンが頷くと、彼女は以前写しを取ったページを開いた。そこには、鉄扉の右側にある円形の刻印が、簡単な線で描かれている。
「この図について、一つ確認させてください」
ミラは中央へ向かう線を指さした。
「ここに描かれた三本の線は、実際に中央まで繋がっていることを確認して描いたものですか?」
オルフェンは手帳を覗き込んだ。
「……いや」
返事は短かった。
「これは作業する場所を忘れないための図だ。測量図じゃない」
「では、刻線の終端まで正確に写したわけではないんですね」
「そうだな。細かな溝の位置なんて、測っちゃいない」
オルフェンは古い紙を指で押さえた。
「ここに書いたのは、中央に異材があることと、補修の対象外だったこと。それが大事だったんだ」
ミラは頷いた。
三十四年前の手帳の図は、当時の現場に中央の異材が存在したことを示す資料だった。しかし、刻線が中央と接続していたかどうかを証明する図ではなかった。
「……それでは、昨日の実測図を見ていただいてもよろしいですか」
ミラが尋ねると、オルフェンは頷いた。
「見せてくれ」
彼女は新しい図面を広げた。
中央の円と、その外周に確認された浅い段差。中央の手前で見えなくなる二本の刻線。そして、古い支持石の下に隠れる半月側の線。
オルフェンはしばらく無言で図面を眺めていた。
「……随分、細かく調べたんだな」
彼はそう言って、半月側の線を指さした。
「この石は、俺が修理に入ったときにもあった」
「支持石のことですか?」
ミラが尋ねる。
「ああ。少なくとも、三十四年前にはもうあった。模様の一部が隠れていたのも覚えている」
セレネは図面を確認した。
「……ということは、半月側の刻線は、三十四年前にも最後まで見ることができなかったのね」
オルフェンは頷いた。
「俺たちが石を動かした覚えはないからな」
ミラはすぐに記録した。
現在の支持石が三十四年前にも存在していたという証言。これは、当時の作業範囲についての記録とも矛盾しなかった。
「ただし、百八十年前の改修で設置されたものかどうかは、俺にはわからん」
オルフェンは付け加えた。
「そこは、別の工事記録で調べてくれ」
セレネは頷いた。
新しい図面を見せたことで、オルフェンの記憶そのものが正確になったわけではない。それでも、彼の作業経験から得た情報と、現在の測量結果を区別して並べることはできた。
「……最後に、もう一つ」
セレネは中央の円を指さした。
「この外周に、浅い段差が見つかったの。三十四年前にも、こんな形だったと思う?」
オルフェンは図面を見つめた。
長い沈黙があった。
「……わからんな」
彼はゆっくりと答えた。
「昔の俺が見た中央の部材は、確かに周囲の石と違っていた。だが、この段差が当時からあったかどうかは、覚えていない」
セレネは静かに頷いた。
「ありがとう。それで十分よ」
オルフェンは少しだけ笑った。
「何も教えられなかった気がするが」
「そんなことはないわ」
セレネは手帳に視線を落とした。
「少なくとも、昔の図面で何が確認できていて、何が確認できていなかったのかはわかったもの」
オルフェンはしばらく二人を見つめ、それから頷いた。
「……そうか」
*
工房を出ると、昼の鐘が鳴るはずの時刻が近づいていた。
通りの商人たちはそれぞれの時計を確かめ、仕事の手を動かしている。大鐘楼から音が届くことはなく、その沈黙にも少しずつ人々が慣れ始めていた。
「……オルフェンさんの証言、どう思う?」
セレネが尋ねた。
ミラは歩きながら手帳を開いた。
「新しい形状を確定できる情報はありませんでした。でも、三十四年前の手帳が精密な測量図ではないと確認できたのは重要です」
「ええ。あの図に描かれた線が、全部中央まで繋がっていたとは限らないのね」
セレネは頷いた。
「それと、中央の周りに境目があったかもしれないという話もあったわ」
「はい。ただし、ご本人も自信がないと言っています。昨日確認された段差と同じものを見たとは、まだ言えません」
ミラは手帳を閉じた。
古い記憶だけで、今は見えない形を再現することはできない。しかし、当時の職人が何を記録しようとしていたのか、その目的を知ることはできた。
「……午後の測定で、何かわかるといいわね」
セレネが言うと、ミラは頷いた。
「ええ。今度は、実物の形を詳しく確かめましょう」
二人は南地区へ向かった。
*
市立資料保全庫では、フィオナが測定室の準備を整えていた。
机の上には柔らかい布が敷かれ、その隣には目盛りの細かな測定具と、角度を確認するための透明な板が置かれている。室内の照明も、収蔵品の表面を観察しやすい位置に調整されていた。
「こんにちは。お二人とも、予定どおりですね」
フィオナが顔を上げた。
「こんにちは。今日はよろしくお願いします」
ミラが頭を下げる。
フィオナは書類を確認した。
「今回認められたのは、非破壊の形状測定です。円盤の表面と外周、それから三つの切り込みについて、可能な範囲で詳しく記録します」
彼女は続けた。
「付着物を取り除くことや、表面を削って内部を調べることはできません。材質についても、今日は外観上の所見に留めます」
「わかりました」
セレネは頷いた。
フィオナは保管箱を取り出した。
前回の調査で発見された、暗い色の円盤。包みが慎重に解かれると、鈍い光沢を帯びた縁が現れた。
セレネは改めてその姿を見つめた。
手のひらに収まるほどの大きさ。黒に近い灰色の表面。そして外周に残された、三つの切り込み。
前回は見つけたこと自体が大きな出来事だった。しかし今日は、形を正確に確かめるためにここへ来ている。
フィオナは円盤を布の上に置き、測定を始めた。
まず、直径と厚みが記録された。円盤の外周には小さな欠けが存在するため、測る方向によって数値に違いが生じる。
フィオナは複数の位置で測定し、その範囲を記録用紙へ書き込んだ。
「……直径は、おおむね八・七センチメートルですね」
ミラは昨日の測量記録を取り出した。
「鐘楼地下の中央円は、見える部分から推定した直径が約八・九センチメートルでした」
フィオナは頷いた。
「近い数字ですね。ただし、壁側は全周が確認できていないので、推定値の誤差が大きいはずです」
彼女は円盤の縁を確認した。
「それに、仮にこの部材が壁に収められていたとしても、壁側の円と完全に同じ大きさである必要はありません。取り付け方によっては、隙間が設けられていた可能性もあります」
「……大きさが近いだけでは、まだわからないのね」
セレネが言うと、フィオナは頷いた。
「はい。形状の比較だけでも、確認すべきことは多くあります」
彼女は透明な測定板を円盤の上方に固定した。
「ここから、三つの切り込みの位置を調べます」
*
円盤の三つの切り込みは、等間隔には配置されていなかった。
最初の切り込みは幅が比較的狭く、円盤の縁から内側へ短く伸びている。二つ目はそれより少し広く、三つ目には摩耗したような部分が見られた。
フィオナはそれぞれの位置と幅を記録した。
「……やはり、完全に同じ形ではありませんね」
ミラが言った。
「ええ。ただし、元から違う形に加工されていたのか、長い年月の中で変化したのかは不明です」
フィオナは答えた。
セレネは円盤の外周を見つめた。
「この三つは、何かを固定するためのものなのかしら」
「その可能性はあります。位置合わせのための加工や、装飾だった可能性もありますね」
フィオナは測定板の目盛りを確認した。
「切り込みの角度を比較するため、円盤の中心を基準に位置を記録します。ただし、外周が欠けているので、中心位置にもわずかな誤差が生じます」
彼女は測定板を調整し、三つの切り込みを順番に確認していった。
ミラはその様子を手帳へ写していた。
やがて、フィオナは二つの切り込みの間にある角度を示した。
「……この二つの間隔は、およそ百三十九度です」
ミラの筆が止まった。
「百三十九度……」
彼女は昨日の測量記録を開き、該当する項目を探した。
鐘楼地下では、欠月側と満月側の刻線について、中央円に対する方向がおおむね測定されていた。線の一部が摩耗しているため、数値には数度の誤差が見込まれている。
「……セレネさん」
ミラが小さく声をかけた。
「何かしら?」
「昨日測った二本の刻線ですが、その方向のなす角は約百三十八度です」
セレネは目を見開いた。
「……一度しか違わないの?」
「はい。ただし、壁側の測定には数度の誤差があります」
フィオナは二つの記録を確認した。
「つまり、二つの角度は、測定誤差の範囲で矛盾しないということですね」
「……そうなります」
ミラは静かに答えた。
セレネは円盤へ視線を戻した。
三つの切り込みのうち、ある一組の間隔。
鐘楼地下に残された、欠月側と満月側の二本の線がなす角。
それらが近い数値を示している。
「……これで、円盤が中央にあったものだとわかるのかしら」
セレネが尋ねると、フィオナは首を横に振った。
「いいえ。まだ判断できません」
彼女は透明な測定板を示した。
「まず、円盤を回転させれば、一つの切り込みの方向を壁側の線に合わせることはできます。重要なのは、ほかの切り込みも対応する位置に来るかどうかです」
ミラは頷いた。
「それに、円盤側には切り込みが三つあります。今比べた一組以外の角度も確認しなければなりません」
「ええ。比較する組み合わせを変えれば、結果も変わります」
フィオナは残る切り込み同士の角度も測定し、記録用紙へ書き加えた。
「円盤側の三つの位置関係は、これで記録できました。ただし、どの切り込みが壁側のどの刻線に対応するかは、まだ決められません」
セレネは壁面の実測図を見つめた。
欠月側と満月側の刻線は、中央の手前で視認できなくなっている。
半月側の線は、古い支持石に隠されている。
つまり、三本すべてについて、円盤との位置関係を確かめられるだけの情報が揃っているわけではなかった。
「……二本が近くても、三本目がまったく違う位置にあるかもしれないのね」
セレネが言った。
「そのとおりです。それに、三本の角度がすべて一致したとしても、それだけで円盤の出所が証明されるわけではありません」
フィオナは慎重に答えた。
「寸法や加工方法、材質、移管記録との対応など、別の情報も必要になります」
ミラは測定結果を書き写した。
「……それでも、比較できる情報は増えましたね」
「ええ。少なくとも、以前のように、数が三つあるというだけの話ではなくなりました」
フィオナは頷いた。
セレネは円盤を見つめた。
角度が近い。
それは確かだった。
しかし、その近さが意味を持つのかどうかは、まだわからなかった。
*
続いて、フィオナは円盤の裏面を確認した。
以前の調査でも見つかっていた灰色の付着物が、外周に沿って部分的に残されている。今回は斜めから光を当て、その分布を詳しく観察することになった。
「……この付着物、全周にあるわけではないのね」
セレネが言った。
「ええ。残っているところと、剥がれているところがあります」
フィオナは測定板を使い、付着物が残る位置を記録した。
「固定材だった可能性もありますが、今の段階では判断できません」
ミラは円盤の見取り図を確認した。
「切り込みの近くにも、付着物が残っていますね」
「はい。ただ、切り込みの内部に最初から存在していたものなのか、あとから入り込んだものなのかは不明です」
フィオナは円盤を慎重に元の向きへ戻した。
「材質を調べれば、何かわかるかもしれません。ただ、試料を採取する前に、非破壊で確認できる方法を検討する必要があります」
セレネは頷いた。
古い収蔵品は、一度傷つければ元に戻らない。調査によって情報を得ようとした結果、残された手掛かりを失わせてしまう可能性もあった。
「……無理に削ったりする必要はないわ」
セレネが答えると、フィオナは頷いた。
「ありがとうございます。今回の記録だけでも、前回より詳しい比較ができるはずです」
ミラは測定結果を整理した。
円盤の直径と厚み。
三つの切り込みの位置と、それぞれの角度。
そして、裏面に残された付着物の分布。
いずれも、現物の状態を変えずに確認した情報だった。
「……フィオナさん」
ミラが顔を上げた。
「今回の測定結果は、鐘楼管理部門にも共有してよろしいでしょうか」
「ええ。今回の許可範囲で得られた情報なら、調査目的に沿って提供できます」
フィオナは頷いた。
「ただし、円盤と鐘楼の刻印が同一構造の部材だと確定したわけではないことを、明記してください」
「もちろんです」
ミラは答えた。
フィオナは円盤を包み直し、管理番号を確認してから箱へ収めた。
その番号についても、十七年前の受領記録との正式な照合は終わっていない。今回の測定結果は、収蔵品を特定するための資料として追加されることになった。
セレネは箱が閉じられるのを見届けた。
円盤の形について、以前より多くのことがわかった。
しかし、今もその正体を言い当てることはできない。
それは、手掛かりが足りないからだけではなかった。
似ているという理由で、別のものを同じだと決めつけたくなかったからだった。
*
午後の調査を終えた二人は、再び中央広場へ向かった。
大鐘楼の入口には、今日も管理部門の職員が立っていた。地下への立ち入り制限は続いており、塔の周囲では保全工事に向けた資材の搬入準備が進められている。
ヴァルトは管理室で、保全担当部門との協議を終えたところだった。
「お帰りなさい。調査はどうでしたか?」
ミラは測定記録を机に広げた。
「円盤の形状について、詳しい数値が得られました」
彼女は二本の刻線と、円盤の切り込みの角度を比較した図を示した。
ヴァルトはしばらく図面を見つめた。
「……近い数字ですね」
「はい。ただし、一組の角度が測定誤差の範囲で矛盾しないという結果です。三本すべての対応は確認できていません」
ミラは続けた。
「円盤の向きも、もともとの取り付け位置も不明です。十七年前の移管品との正式な照合も終わっていません」
ヴァルトは頷いた。
「それでも、保全工事の判断材料としては重要でしょう」
彼は別の書類を取り出した。
「実は、ちょうど保全担当部門から新しい連絡があったところです」
「……地下の状態について?」
セレネが尋ねた。
「ええ。昨日の落下物と微振動について、追加の安全評価が必要だと判断されました」
ヴァルトは図面を広げた。
「現在のところ、地下での測量再開は認められていません。ただし、壁面を保護するための仮設支持材については、設置位置を再検討しています」
ミラは顔を上げた。
「刻印を覆わない方法を考えてくださっているんですね」
「可能であれば、という条件付きですが」
ヴァルトは頷いた。
「安全性を最優先する必要がありますから、刻印を完全に見える状態で残せるかはわかりません。ただ、今回の測量結果によって、保護すべき範囲が以前より明確になりました」
セレネは図面を見つめた。
以前は、刻印全体の保存価値を示すために資料を集めていた。今は中央の段差や三本の刻線など、記録すべき位置を具体的に示せるようになっている。
「……リゼットさんは、何と言っているの?」
セレネが尋ねた。
「安全と保存を両立できる方法を探す、と」
ヴァルトは答えた。
「ただし、結論が出るまでは、地下での作業を進めない方針です」
「そうね。今は、無理に入るべきではないわ」
セレネは頷いた。
ヴァルトは保全庫の測定結果へ視線を戻した。
「それにしても、三つの切り込みですか……」
彼はしばらく考えたあと、ミラへ尋ねた。
「二本の刻線との角度が近いことはわかりました。しかし、三本目については、古い支持石の下に隠されているんですよね」
「はい。昨日の測量では、そこまで確認できませんでした」
「……もし、その部分を直接見ることができないままだとしたら」
ヴァルトは言葉を区切った。
「別の資料から、元の形を確かめる方法はないでしょうか」
セレネは顔を上げた。
「……別の資料?」
「ええ。三十四年前の補修図ではなく、もっと古い時代の図面です」
ミラは少し考えた。
「支持石が設置される前の記録、ということですね」
「そうです」
ヴァルトは頷いた。
「現在の鐘楼は、およそ百八十年前に大規模な改修を受けています。そのとき、古い地下構造の一部が取り込まれたと考えられています」
彼は図面の一角を指さした。
「もし、その改修以前の形を記録した図面が残っていれば、現在隠されている部分について何かわかるかもしれません」
セレネは図面を見つめた。
これまで調べてきたのは、主に三十四年前と十七年前の補修記録だった。しかし、鐘楼の地下施設は、それよりもはるかに古い。
「……百八十年前の改修記録は、残っているのかしら」
セレネが尋ねた。
ヴァルトは首を傾げた。
「一部は管理部門にも残っています。ただ、当時の地下構造をどこまで記録しているかは、確認しなければなりません」
ミラは手帳を開いた。
「それなら、記録院でも探してみます。古い建築図面や改修前の測量記録が、別の分類で保管されている可能性がありますから」
ヴァルトは頷いた。
「お願いします。ただし、存在するかどうかもわからない資料です。あまり期待しすぎない方がいいでしょう」
「ええ。それはわかっています」
セレネは答えた。
鉄扉の向こうへ進むことはできない。
古い支持石を動かすこともできない。
しかし、現在見えない部分が、過去には記録されていた可能性がある。
それを調べることなら、今の自分たちにもできるはずだった。
*
記録院へ戻ると、ミラは保全庫で得た測定結果を正式な調査記録にまとめた。
円盤の一組の切り込みと、鐘楼地下の二本の刻線について、角度が近いことは確認された。しかし、これは対応関係を証明するものではない。
ミラはその点を明記し、記録を保管した。
「……これで、今日の測定結果は整理できましたね」
ミラが言った。
「ええ。次は、百八十年前の記録ね」
セレネは机の上の古い目録へ視線を向けた。
ミラは記録院の管理台帳を取り出し、大鐘楼の改修に関係する項目を探し始めた。
現在の分類では、大鐘楼の資料は建築物の管理記録として整理されている。しかし、古い時代には別の名称や区分が使われていた可能性があった。
「……今の鐘楼と同じ名前で記録されているとは限らないのね」
セレネが言うと、ミラは頷いた。
「はい。古い建築記録では、建物の名称が変わっていることもあります。それに、地下の基礎部分が独立した項目になっている場合もありますから」
二人は年代別の目録を確認した。
百八十年前の大規模改修については、いくつかの記録が残されていた。工事に使われた材料や管理区分の変更については確認できたが、地下構造の詳しい図面は見つからない。
「……やっぱり、簡単には見つからないわね」
セレネが呟いた。
「ええ。でも、関連する記録が存在することは確認できました」
ミラは古い台帳をめくった。
そのとき、セレネの目に一つの項目が留まった。
「……ミラ。ここを見て」
セレネは紙面を指さした。
そこには、大規模改修に関する簡単な記述が残されていた。
『鐘楼基礎部改修。旧構造の一部を継続使用。』
ミラは顔を近づけた。
「……旧構造の一部を、継続使用?」
セレネは頷いた。
「ええ。そう書かれているわ」
ミラはすぐに管理番号を確認した。
「百八十年前の改修時にも、すべてを新しく作り直したわけではなかった、ということですね」
「……そうみたいね」
二人は続きを調べた。
記録には、改修後の管理区分と、新しい基礎材の使用について簡単な説明が残されていた。しかし、旧構造のどの部分を残したのかまでは記されていない。
「……この記録だけでは、刻印が残された理由まではわからないわね」
セレネが言った。
「はい。それに、現在の支持石がこの改修で設置されたものかどうかも、まだ確定していません」
ミラは項目の末尾を確認した。
そこには、古い管理番号が記されていた。
現在の記録院で使われているものとは、形式が異なっている。
「……この番号、今の分類とは違いますね」
ミラは別の台帳を取り出した。
古い資料が現在の保管区分へ移された際には、番号の対応を記録した一覧が作られることがある。
しかし、目の前の台帳には、その対応先が直接書かれていなかった。
「……別の資料を探す必要があるのね」
セレネが尋ねると、ミラは頷いた。
「ええ。旧管理番号を現在の分類へ置き換えた記録が見つかれば、関連資料の所在を調べられるかもしれません」
ミラは番号を書き留めた。
「ただし、対応表が残っているかどうかは、まだわかりません。資料そのものが現存するとも限りませんから」
セレネは頷いた。
新しい記録が見つかった。
しかし、それは答えそのものではなかった。
百八十年前の改修で、旧構造の一部が残されたという事実。
その一部が何だったのかを知るには、さらに古い資料を探す必要がある。
「……今日は、ここまでにしましょう」
ミラが言った。
窓の外には、夕暮れの光が差し込んでいた。記録院の閉館時刻も近づいている。
「ええ。明日は、この番号から調べてみましょう」
セレネは静かに答えた。
二人は目録を閉じ、新しく見つかった項目の写しを保管した。
*
その夜、セレネは宿の机に一枚の古い記録を置いていた。
『鐘楼基礎部改修。旧構造の一部を継続使用。』
百八十年前の改修に関する、短い一文だった。
今まで、鐘楼地下に残る旧照応施設は、古い建物の下に埋もれたものとして考えていた。
しかし、この記録は、少なくとも改修当時の人々が旧構造の一部を認識し、それを残して利用していたことを示している。
偶然、古いものが残っただけではなかったのかもしれない。
セレネは机の上に、三十四年前の手帳の写しを並べた。
そこには、中央の異材について、補修対象外とする記述がある。
古い加工痕を避け、周囲の石材だけを補修するという判断。
百八十年前の改修と三十四年前の補修では、時代も目的も違う。
それでも、古い構造の一部を残すという判断が、異なる時代に記録されていた。
セレネはしばらく、その二枚を見つめた。
二つの判断が同じ理由によるものだったとは限らない。しかし、なぜ残されたのかを知ることは、今の調査にとって重要だった。
彼女はさらに、保全庫の円盤の見取り図を取り出した。
三つの切り込みを持つ、黒い円盤。
今日の測定では、その一組の角度が、鐘楼地下に残る二本の刻線と近いことがわかった。
しかし、それだけで円盤が中央にあったものだと証明されたわけではない。
三本目の角度は、まだ比較できていない。
そして、仮に三本すべてが対応したとしても、その円盤がいつ、どこに取り付けられていたのかは、別に調べなければならなかった。
セレネは筆を取り、調査記録へ書き加えた。
『円盤の一組の切り込みと、壁面の二本の刻線は、測定誤差の範囲で角度が矛盾しない。』
『半月側の刻線は未照合。円盤の出所および中央異材との同一性は未確定。』
それから、百八十年前の改修記録についても一文を記した。
『旧構造の一部を継続使用した記録あり。使用された部分の範囲は不明。』
セレネは筆を置いた。
七日前、半月の刻印は発光した。
そのとき中央に何が存在していたのか、すべてを確かめることはできなかった。
今も地下の鉄扉は閉ざされ、古い支持石に隠れた刻線の先を調べることはできない。
けれど、今日見つかった記録は、もう一つの調べ方があることを示していた。
現在の壁を直接調べられないのなら、以前の姿を記録した資料を探せばいい。
もちろん、そのような資料が残っているとは限らない。
見つかったとしても、正確な図面とは限らない。
それでも、探す理由はあった。
セレネは窓の外へ目を向けた。
大鐘楼は夜空に黒い輪郭を浮かべ、今も静かに街を見下ろしていた。
その地下には、百八十年前の改修でも失われなかった古い構造が残されている。
誰が、何を残そうとしたのか。
なぜ、すべてを取り壊さなかったのか。
その答えは、今もどこかの記録に残されているのだろうか。
セレネは最後に、古い管理番号を書き留めた紙を手に取った。
短い数字と記号の組み合わせ。
そこには、まだ何の意味も見出せない。
しかし、明日その番号を辿れば、百八十年前の改修に関する資料へ近づけるかもしれなかった。
セレネは紙を封筒へ収めた。
次に探すべきものは、円盤そのものではない。
現在は隠されている、古い壁面の姿を記録した資料だった。