月は、失われた名を憶えている   作:ノイリ

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第2話 忘れられた者たち

静夜診療所は、灰鐘市の北区に位置する古い建物だった。

 

かつて貴族の屋敷だったという三階建ての建物は、白い石壁と青銅色の屋根を持ち、正面には小さな庭園が広がっている。しかし、手入れの行き届いた外観とは裏腹に、その内部には重苦しい空気が漂っていた。

 

「……随分と混んでいるのね」

 

セレネは診療所の入口で足を止めた。

 

待合室には、十数人の患者とその家族がいた。椅子に座りきれず、壁際に立っている者もいる。誰もが疲れた表情を浮かべていた。

 

だが、不思議なことに、咳をする者も、熱にうなされている者もいない。目立った怪我をしている者すら、ほとんどいなかった。

 

代わりに聞こえてくるのは、奇妙な会話だった。

 

「だから、私はあなたの妻なのよ」

「……申し訳ない。どうしても思い出せないんだ」

 

部屋の隅では、中年の女性が男性の手を握っていた。男性は困惑した様子で首を振る。

 

「結婚したのは二十年前でしょう? 式を挙げた教会だって、まだ残っているのに」

「書類は見たよ。君が嘘をついていないこともわかる。でも……」

 

男性は目を伏せた。

 

「君と結婚した日のことが、何も思い出せない」

 

女性は、それ以上何も言えなかった。

 

少し離れた場所では、年老いた男性が一冊の手帳を握りしめていた。その隣には、若い男性が立っている。

 

「父さん、工房のことは覚えてるんだろ?」

「ああ。道具の置き場所も、仕事の手順もな」

「じゃあ、俺のことは?」

「……すまん」

 

老人は苦しげに首を振った。

 

「お前が息子だということは、聞いている。だが、育てた覚えがない」

 

若い男性は何かを言い返そうとした。しかし、結局は唇を噛み、黙り込んでしまった。

 

セレネは、その光景を見つめていた。

 

記憶を失った者。そして、忘れられた者。

 

どちらも同じように苦しんでいる。ただし、その苦しみ方は異なっていた。

 

忘れた者は、自分の中にあるはずの何かが失われたことに戸惑う。忘れられた者は、自分が確かに存在していた時間を否定されたように感じる。

 

そして、そのどちらも、簡単には救えない。

 

「……セレネお姉さん?」

 

隣から声をかけられ、セレネは視線を落とした。ニナが不安そうに彼女を見上げている。

 

「どうしたの?」

「ここにいる人たち、みんな……」

「ええ」

 

セレネは待合室を見渡した。

 

「あなたのお母さんと、似た症状なのかもしれないわ」

 

ニナは母親の手を握り直した。エマは戸惑いながらも、その小さな手を離さなかった。

 

それを確認すると、セレネは受付へ向かった。

 

*

 

「記憶の欠落、ですか」

 

受付の女性は、エマから事情を聞くと、慣れた手つきで診察票を取り出した。その反応には、驚きも戸惑いもなかった。

 

すでに何度も、同じ説明を聞いているのだろう。

 

「今朝から、娘さんに関する記憶だけが失われているのですね?」

「はい。ほかのことは、普通に覚えていると思います」

 

エマはそう答えた後、隣にいるニナへ視線を向けた。

 

「ただ……この子のことだけが、どうしても」

 

受付の女性は小さく頷いた。

 

「わかりました。院長が診察しますので、少しお待ちください」

 

診察票を受け取ったエマが待合室へ戻ろうとしたとき、廊下の奥から白衣姿の女性が現れた。

 

五十代ほどだろうか。灰色の髪を後ろでまとめ、細い銀縁の眼鏡をかけている。落ち着いた顔立ちだったが、その目元には疲労の色が濃く残っていた。

 

「次の患者さんを……」

 

女性はそこで言葉を止めた。

 

視線が、セレネに向けられている。白銀の髪、黄金の瞳、黒と白の長いドレス。そして、三日月を象った杖。

 

一瞬だけ、女性の表情が変わった。

 

「……あなたは?」

「セレネよ」

 

セレネは簡潔に名乗った。

 

「この親子に付き添ってきたの。それと、少し調べたいことがあるわ」

 

女性は眼鏡を押し上げた。

 

「私はこの診療所の院長です。調べたいこと、とは?」

「最近、この街で増えている記憶の欠落について」

 

その言葉に、院長の表情が引き締まった。

 

「……ここでは、少し話しにくいですね」

 

彼女は廊下の奥へ視線を向けた。

 

「患者さんの診察も兼ねて、診察室へどうぞ」

 

セレネは頷き、エマとニナを連れて後に続いた。

 

診察室は、それほど広くなかった。壁際には薬品棚と医療器具が並び、中央には簡素な診察台が置かれている。

 

部屋の奥には、見慣れない金属製の器具があった。細い輪をいくつも重ねたような形をしており、表面には微細な紋様が刻まれている。

 

セレネは一瞬だけ、その器具へ視線を向けた。

 

「……古い形式ね」

「ご存じですか?」

「少しだけ」

 

セレネはそれ以上、説明しなかった。

 

正確には、見覚えがあったのだ。だが、どこで見たのかまでは思い出せない。

 

こうした感覚には、五年前に目覚めてから何度も遭遇していた。

 

知識は残っている。使い方も、構造も理解できる。それなのに、それを学んだ場所や、教えられた相手の顔だけが思い出せない。

 

自分の内側に、誰かが意図的に空白を作ったような感覚だった。

 

セレネはその考えを振り払い、診察台に腰掛けたエマへ視線を戻した。

 

院長は診察票を確認すると、いくつか質問を始めた。

 

「お名前を教えてください」

「エマ・エルフェンです」

「年齢は?」

「三十二歳です」

「現在のお住まいは?」

「北区の鐘見通り、十二番地です」

 

質問は滞りなく続いた。

 

エマは自分の名前も年齢も、住所も正確に答えられる。仕事についても問題はなかった。

 

自宅の間取りも、近所の店の名前も覚えている。

 

しかし。

 

「ニナさんが生まれた日のことは?」

 

エマの表情が曇った。

 

「……わかりません」

「では、娘さんが小さかった頃の思い出は?」

「ありません」

「娘さんの好きな食べ物は?」

「……それも」

 

エマは膝の上で両手を握りしめた。

 

「家に帰れば、娘の部屋があるんです。昔の服も、描いた絵も、全部あるのに」

 

声が震える。

 

「見ても、何も感じないんです」

 

ニナは母親を見上げた。

 

「お母さん……」

 

エマは少女へ顔を向けた。だが、その瞳に浮かんでいるのは、申し訳なさと戸惑いだけだった。

 

院長は質問を終えると、診察票に何かを書き込んだ。

 

「……やはり、同じですね」

「同じ?」

 

セレネが尋ねる。

 

院長は頷いた。

 

「ここ数日で、似た症状の患者さんが急増しています。身体には異常がなく、基本的な知識や技能も失われていない。しかし、特定の人物や出来事に関する記憶だけが、まとめて抜け落ちているのです」

「魔術による精神干渉の可能性は?」

「当然、疑いました」

 

院長は疲れたように息を吐いた。

 

「ですが、通常の精神干渉術であれば、残留魔力が検出されます。少なくとも、私たちの検査では何も見つかりませんでした」

 

セレネは顎に手を添えた。

 

魔術的な痕跡がない。それ自体は、必ずしも魔術以外の現象であることを意味しない。

 

通常の検査では捉えられない干渉も存在する。実際、セレネ自身が扱う月律も、一般的な魔術の検査では正しく測定できない。

 

問題は、何が記憶に触れたのか。そして、失われた記憶がどこへ消えたのか。

 

「院長」

 

セレネは顔を上げた。

 

「患者さんの記憶が、完全に消失したと判断する根拠はある?」

 

院長は首を振った。

 

「ありません。正確には、消失したのか、取り出せなくなっているだけなのかも判別できていないのです」

「そう」

 

セレネは黄金の瞳を細めた。

 

「なら、確かめる価値はありそうね」

 

*

 

「少し、変わった検査をしてもいいかしら」

 

セレネがそう尋ねると、院長は怪訝そうな顔をした。

 

「どのような検査ですか?」

「記憶そのものを調べるわけではないわ。記憶に残された痕跡を確かめるの」

「……痕跡?」

「人が経験した出来事には、本人の記憶とは別に、微かな反響が残ることがあるの」

 

院長は眉を寄せた。

 

「そのような検査法は、聞いたことがありません」

「一般的な魔術ではないから」

 

セレネはエマへ向き直った。

 

「あなたの身体に危害を加えるつもりはないわ。ただし、何が見つかるのか、私にもわからない。確かめてもいい?」

 

エマは少し迷った。そして、隣にいるニナを見た。

 

少女は母親の手を握ったまま、黙っている。

 

「……お願いします」

 

エマは頷いた。

 

「何かわかるなら、調べてください」

「わかったわ」

 

セレネは杖を持ち上げた。

 

三日月の先端が、淡い銀色を帯びる。しかし、診察室に大きな変化は起こらなかった。

 

床に魔法陣が現れることも、まばゆい光が満ちることもない。ただ、セレネの黄金の瞳の奥で、月光に似た微かな輝きが揺れた。

 

――月蝶。

 

それは、彼女が持つもう一つの月の権能。

 

月律が空間の境界へ干渉する力なら、月蝶は記憶の痕跡に共鳴する力だった。

 

ただし、見ることができるのは、あくまで痕跡。本人が経験した出来事のすべてを、自由に覗き見ることができるわけではない。

 

まして、失われた記憶を無条件に取り戻せるものでもなかった。

 

セレネの視界が、わずかに変化した。

 

エマの姿は、そのまま見えている。だが、彼女の周囲に、ごく細い銀色の線が浮かび上がっていた。

 

肉眼では捉えられない、記憶の反響。

 

人が生きてきた時間の痕跡が、月蝶の権能によって輪郭を持っている。

 

セレネはその線を慎重に辿った。

 

幼い頃の思い出。仕事に関する経験。昨日までの日常。

 

それらに結びつく反響が、微かに感じられる。しかし、ある部分で流れが途切れていた。

 

「……これは」

 

セレネは小さく呟いた。

 

途切れた先に、何もないわけではない。むしろ、何かがある。

 

確かに存在しているはずなのに、そこへ辿り着く経路だけが失われている。

 

まるで、一冊の本から特定の章だけを切り離し、別の場所へしまい込んだような状態。

 

ただし、その章が無事に残されているかどうかまでは、判断できない。

 

セレネはさらに注意深く観察した。

 

途切れた部分には、極めて細い銀色の境界が残されていた。自然に薄れていった記憶の痕跡とは、明らかに異なる。

 

「……誰かが、触れた?」

 

思わず漏れた言葉に、院長が反応する。

 

「何か見つかったのですか?」

 

セレネはすぐには答えなかった。

 

もう一度、痕跡を確かめる。

 

見間違いではない。

 

何らかの外部干渉によって、記憶へつながる経路が切り離されている。少なくとも、そう考えれば説明できる状態だった。

 

セレネは杖を下ろした。

 

銀色の線が視界から消える。

 

「……一つ、わかったことがあるわ」

 

院長が身を乗り出した。

 

「何でしょう?」

「記憶が完全に消えたとは、まだ断定できない」

 

エマが顔を上げる。

 

「それは……どういう意味ですか?」

「失われた記憶へつながる痕跡が、不自然な形で途切れているの。普通に忘れてしまった場合とは違う」

「では、娘のことを思い出せるんですか?」

 

エマの声には、初めて明確な期待が宿っていた。

 

セレネは首を振った。

 

「そこまでは言えないわ」

 

希望を否定するような答えだった。それでも、彼女は言葉を続ける。

 

「切り離された先に、記憶が残っている可能性はある。でも、それがどこにあるのかも、無事なのかもわからない」

 

院長は難しい顔で腕を組んだ。

 

「つまり、まだ治療法は見つかっていない……」

「ええ」

 

セレネは認めた。

 

「ただ、何を調べるべきかは少し見えてきたわ」

 

彼女はエマへ視線を戻した。

 

「あなたの記憶に、外から何かが干渉した可能性がある。それを確かめたい」

 

エマはしばらく黙っていた。そして、小さく頷いた。

 

「……お願いします」

 

その声は、先ほどよりも落ち着いていた。

 

確かな希望を得たわけではない。けれど、何もわからないまま待つことよりは、まだ前へ進める気がしたのだろう。

 

ニナは母親の横顔を見つめていた。

 

セレネは、そんな少女へ視線を向ける。

 

「ニナ」

「なあに?」

「今日は、お母さんを少し休ませてあげて」

「……うん」

「あなたも疲れているでしょう」

 

ニナは首を振りかけた。しかし、すぐに小さく頷いた。

 

「ちょっとだけ」

「そう。なら、二人とも休んでいて」

 

セレネはそう告げると、院長へ向き直った。

 

「ほかの患者さんも、同じ状態なのかしら」

 

院長は頷いた。

 

「症状は似ています。ただ、失われる記憶の範囲には個人差があります」

「詳しく聞かせてもらえる?」

「ええ。ただし、ほかの患者さんの診療内容を、許可なくお話しするわけにはいきません」

「それでいいわ」

 

セレネは即座に答えた。

 

「本人に確認してもらいましょう」

 

*

 

午後になる頃、セレネは数人の患者から話を聞くことができた。

 

最初に応じたのは、待合室にいた年老いた職人だった。長年、家具を作る仕事をしていたという。

 

彼は自分の名前も、職業も、住んでいる場所も覚えていた。工具の使い方も、木材の種類も理解している。

 

しかし、息子の存在だけが、記憶から抜け落ちていた。

 

「妙な話だろう」

 

老人は苦笑した。

 

「こいつが息子だってことは、わかるんだ。家には子どもの頃の写真もあるし、昔の手帳には俺の字で名前が書いてある」

 

彼は隣に座る若い男性を見た。

 

「けどな、こいつを抱き上げた覚えも、一緒に仕事をした覚えもないんだよ」

 

若い男性は黙っていた。

 

老人は自分の手を見下ろした。

 

「それなのに、こいつが使っている鉋を見ると、どこを調整したらいいかはわかる。俺が教えたらしいんだが……教えたことだけは、思い出せねえ」

 

セレネは老人の許可を得て、月蝶で記憶の痕跡を確認した。

 

そして、先ほどと同じものを見つけた。

 

不自然に途切れた反響。その境目に残る、極めて細い銀色の線。

 

次に話を聞いたのは、結婚の記憶を失った中年の男性だった。

 

彼は妻の名前を知っていた。だが、それは今朝、本人から教えられたからだという。

 

「妻だと言われれば、信じます」

 

男性は疲れた顔で答えた。

 

「家には二人で写った写真もありました。昔の手紙も残っています」

 

彼は隣にいる女性を見た。

 

「でも、何度見ても、他人の人生を覗いているような気がするんです」

 

女性は俯いた。

 

「……私たち、あんなに一緒にいたのに」

 

男性は何も言えなかった。

 

セレネは、二人の間に入り込むような言葉を選ばなかった。ただ、必要な質問をいくつかした後、男性の記憶の痕跡を確認した。

 

結果は同じだった。

 

三人目の患者は、若い女性だった。

 

彼女は自分が通っていた学校のことを忘れていた。授業で学んだ知識は残っている。

 

文字も読めるし、計算もできる。しかし、教室の風景も、友人たちとの思い出も、卒業した日のことも覚えていなかった。

 

「おかしいですよね」

 

女性は力なく笑った。

 

「試験の問題なら、今でも答えられるんです。でも、誰と一緒に勉強していたのかが、わからない」

 

セレネは、彼女の記憶にも同じ境界を見つけた。

 

記憶の内容は違う。失われた範囲も違う。

 

だが、途切れ方だけが一致している。

 

偶然とは考えにくかった。

 

「……やはり、そういうことね」

 

セレネは小さく呟いた。

 

院長が顔を上げる。

 

「何かわかりましたか?」

「少なくとも、三人とも同じ種類の干渉を受けている可能性が高いわ」

「同じ種類……」

「失った内容は異なる。でも、記憶へつながる痕跡の途切れ方が、ほとんど同じなの」

 

院長は考え込んだ。

 

「つまり、同じ原因による症状だと?」

「そう考えるのが自然ね。ただし、まだ確証はないわ」

 

セレネは手元の小さな手帳を開いた。

 

黒い革表紙の、使い込まれた手帳だった。そこには細かな文字が整然と並んでいる。

 

日付、土地の名前、出会った人物、経験した出来事。時には、会話の一部まで。

 

セレネは新しい頁を開き、今日調べた内容を記録し始めた。

 

『灰鐘市。欠月現象の患者を複数確認』

『記憶の欠落範囲には個人差あり』

『一般的な精神干渉術の残留魔力は検出されず』

『月蝶による観測では、記憶の反響に不自然な断絶を認める』

『原因は未特定』

 

彼女は筆を止めた。

 

少し考えた後、最後に一文を加える。

 

『記憶そのものの消滅は、現時点では確認できない』

 

「……随分と、細かく記録するのですね」

 

院長が感心したように言った。

 

「習慣なの」

 

セレネは手帳を閉じた。

 

「忘れないために」

 

それ以上、説明するつもりはなかった。

 

しかし、その言葉を聞いた院長は、少しだけ不思議そうな顔をした。

 

「あなたも、何かを忘れたことがあるのですか?」

 

セレネはしばらく黙っていた。

 

「……ええ」

 

黄金の瞳が、閉じられた手帳へ向けられる。

 

「随分と、多くのことを」

 

院長は何かを尋ねようとした。だが、セレネの表情を見て、言葉を飲み込んだ。

 

*

 

診察を終えた頃には、窓の外の陽が傾き始めていた。

 

待合室の患者は、朝よりも増えている。その中には、先ほどまで普通に生活していたという者もいた。

 

ある者は、親友の名前を忘れた。ある者は、自分が働いていた職場の同僚たちを思い出せなくなった。

 

そして、別の者は、何を忘れたのかさえ説明できなかった。

 

セレネは廊下を歩きながら、考えていた。

 

記憶を失うという現象自体は、決して珍しいものではない。病気、怪我、魔術的な干渉。さまざまな原因によって、人は記憶を失う。

 

だが、今回の症状はあまりにも不自然だった。

 

まるで、必要な部分だけを選んで切り離したかのように。しかも、その切断面には共通する痕跡がある。

 

自然発生した現象というより、一定の規則に従って処理された結果に見えた。

 

「……規則、ね」

 

セレネは足を止めた。

 

何かが引っかかる。記憶の断絶、不自然な境界、同じ形をした痕跡。

 

どこかで、似たものを知っている気がした。

 

しかし、思い出そうとすると、意識の奥に白い霧がかかる。五年前に目覚めて以来、何度も感じてきた感覚だった。

 

知っているはずなのに、思い出せない。わかるはずなのに、その理由を説明できない。

 

「……厄介ね」

 

セレネは小さく息を吐いた。

 

そのとき、廊下の向こうから院長が歩いてきた。腕には、何冊かの古い診療記録を抱えている。

 

「セレネさん」

「何かしら」

「先ほどのお話が気になって、過去の記録を少し調べてみたのですが……」

 

院長は手にした記録を見下ろした。

 

「どうも、似た症状は最近になって初めて現れたものではないようなのです」

 

セレネの目が細められる。

 

「……詳しく聞かせて」

 

院長は古い診療記録を開いた。

 

「数年前にも、記憶の一部を失った患者がいたようです。当時は原因不明として処理されていますが、記録されている症状は現在のものとよく似ています」

「その患者は、どうなったの?」

「記憶は戻らなかったそうです。ただ、症状が進行したという記録もありません」

「ほかには?」

「さらに古い記録にも、似たような事例があると聞いたことがあります」

 

院長は少し考えた後、首を振った。

 

「ですが、当院にはそれ以上の資料が残っていません。昔の診療記録は、市立記録院へ移されたものも多いので」

「市立記録院……」

 

セレネはその名前を繰り返した。

 

灰鐘市は、学術都市としても知られている。古い文献や歴史的な資料を集めた大規模な記録院があり、多くの研究者が出入りしているという。

 

過去にも同じ現象が起きていたのなら、そこに手がかりが残っている可能性は高い。

 

「その記録院には、誰でも入れるの?」

「一般閲覧室は利用できます。ただ、古い資料には閲覧制限があるものも多いですね」

「そう」

 

セレネは少し考えた。

 

「なら、まずはそこへ行ってみるわ」

 

院長は頷いた。

 

「記憶の欠落について調べるのであれば、一人、話を聞いてみるといいかもしれません」

「誰?」

「ミラ・フェルンという研究者です」

 

院長は記録を閉じた。

 

「まだ若い方ですが、古い文献の調査に詳しいと聞いています。過去の異常現象についても調べていたはずです」

「ミラ・フェルン……」

 

セレネは手帳を開き、その名前を書き留めた。

 

「ありがとう。助かったわ」

「いえ。こちらこそ、患者さんたちのために協力していただけるなら、ありがたいことです」

 

院長は深く頭を下げた。

 

「私たちだけでは、どうにもならないことが多くて……」

 

セレネは首を振った。

 

「まだ、何も解決していないわ」

「それでも、原因を調べる方法があるとわかっただけで、十分です」

 

院長の表情には、わずかな安堵が浮かんでいた。

 

しかし、セレネはそれを見ても、簡単に安心することはできなかった。

 

今回の現象は、明らかに通常の病気ではない。そして、何らかの意図を持って記憶が切り離されている可能性がある。

 

もし、そうだとすれば。

 

問題は、誰がそれを行っているのか。そして、何のために行っているのか。

 

その二つだった。

 

*

 

診療所を出る頃には、空が薄い橙色に染まり始めていた。

 

セレネは入口の階段で足を止めた。

 

庭園の向こうでは、帰宅を急ぐ人々が行き交っている。遠くには、大鐘楼の姿が見えた。

 

灰色の石造りの塔。その頂上には、巨大な鐘が吊るされている。

 

朝に聞いた、あの不自然な音。

 

セレネはしばらく塔を見つめた。

 

「……偶然、かしら」

 

記憶の欠落と、鐘の異変。現時点では、両者を結びつける証拠はない。

 

ただ、あの鐘が鳴ったとき、自分の内側に奇妙な反響が生じたことだけは確かだった。

 

セレネは手帳を開き、今日の記録に一行を加える。

 

『大鐘楼の時報に異常あり。欠月現象との関連は不明』

 

そして、手帳を閉じた。

 

「セレネお姉さん!」

 

背後から声がした。

 

振り返ると、ニナが小走りで近づいてきた。その後ろには、エマが立っている。

 

「もう帰るの?」

「ええ。今日は調べられることがなくなったから」

 

ニナは少しだけ寂しそうな顔をした。

 

「明日も来る?」

「そうね。必要があれば、また来るわ」

「……そっか」

 

少女は俯いた。そして、何かを決心したように顔を上げた。

 

「ねえ、お姉さん」

「何?」

「お母さん、今日も私のこと思い出せなかったけど……」

 

ニナは後ろにいるエマを見た。

 

「さっきね、一緒にお茶を飲んだの」

「そう」

「お母さん、私が甘いもの好きなの知らなかったから、教えてあげた」

 

セレネは少女の話を聞いていた。

 

「そしたらね、今度は甘いお菓子も用意するって言ってくれたの」

 

ニナは少し笑った。

 

「前のお母さんも、同じこと言ってくれたんだよ」

 

その言葉に、セレネは何も答えなかった。

 

失われた思い出は、まだ戻っていない。けれど、新しい思い出は生まれている。

 

それが過去の代わりになるわけではない。ニナが望んでいるのは、あくまで母親に自分を思い出してもらうことなのだから。

 

それでも、失われたものだけが、二人のすべてではない。

 

「……そう」

 

セレネは僅かに微笑んだ。

 

「よかったわね」

 

ニナは嬉しそうに頷いた。

 

それから、ふと思い出したように尋ねた。

 

「お姉さんは、明日何するの?」

「少し、本を調べに行こうと思っているの」

「本?」

「ええ。この街の昔の出来事について、知りたいことがあるの」

 

ニナは首を傾げた。

 

「本を読んだら、お母さんのことがわかるの?」

「まだ、わからないわ」

 

セレネは正直に答えた。

 

「でも、調べる価値はあると思う」

 

少女は少し考えた後、頷いた。

 

「じゃあ、頑張ってね」

「ええ」

 

セレネは頷いた。

 

「あなたも、無理をしないで」

 

ニナは母親のもとへ駆け戻った。

 

エマは少女の手を取り、セレネへ頭を下げる。

 

「今日は、本当にありがとうございました」

「気にしないで」

「それでも、お礼を言わせてください」

 

エマはニナの手を握ったまま、言葉を続けた。

 

「私はまだ、この子のことを何も思い出せません。でも……」

 

彼女は少女へ視線を落とした。

 

「少なくとも、今日一緒に過ごした時間は覚えています」

 

ニナが母親を見上げる。

 

「……お母さん」

 

エマは困ったように微笑んだ。

 

「これから、少しずつ教えてくれる?」

 

ニナは大きく頷いた。

 

「うん!」

 

二人は手をつないだまま、街路を歩き出した。

 

セレネはその後ろ姿を見送った。やがて、小さな親子の姿が人混みの向こうへ消えていく。

 

彼女はしばらく、その場に立っていた。

 

そして、ゆっくりと黒い手帳を取り出した。

 

今日の頁を開く。

 

そこには、診察した患者たちの症状と、調査で得られた情報が記されていた。

 

最後の余白に、セレネは新しい一文を書き加える。

 

『ニナ・エルフェン。母親の記憶から失われた少女』

 

筆先が止まった。

 

セレネは、その文章を見つめた。

 

少し考えた後、ゆっくりと線を引いて消す。そして、改めて書き直した。

 

『ニナ・エルフェン。今日、母親と新しい思い出を作った少女』

 

セレネはその文字をしばらく眺めていた。

 

記憶は、失われる。人は、忘れる。

 

どれほど大切な出来事でも、どれほど強く願っていても。いつか、思い出せなくなることがある。

 

彼女自身も、そうだった。

 

自分が何者だったのか。誰と生きてきたのか。何を守ろうとしていたのか。

 

そのほとんどを、忘れてしまった。

 

だからこそ、せめて、今日出会った人々の名前だけは忘れずにいたかった。

 

セレネは手帳を閉じた。

 

そして、大鐘楼の方角へ視線を向ける。

 

明日は、市立記録院へ向かう。過去の記録を調べ、失われた記憶の手がかりを探す。

 

その先に何が待っているのかは、まだわからない。

 

ただ一つ、確かなことがあった。

 

この街で起きている記憶の欠落は、単なる病気ではない。

 

そして、同じように失われた記憶を持つ自分にとっても、決して無関係な出来事ではないのだろう。

 

「……さて」

 

セレネは黒金の杖を手に、歩き出した。

 

「まずは、記録を調べましょうか」

 

夕暮れの街に、白銀の長い髪が揺れる。

 

遠くの大鐘楼は、沈みゆく太陽を背に、静かにそびえ立っていた。

 

その地下に何が眠っているのか。今はまだ、誰も知らない。

 

そして、数百年もの間閉ざされてきた記録が、再び開かれようとしていることも。

 

灰鐘市の一日は、こうして終わろうとしていた。

 

だが、忘却の連鎖は、まだ始まったばかりだった。

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