静夜診療所は、灰鐘市の北区に位置する古い建物だった。
かつて貴族の屋敷だったという三階建ての建物は、白い石壁と青銅色の屋根を持ち、正面には小さな庭園が広がっている。しかし、手入れの行き届いた外観とは裏腹に、その内部には重苦しい空気が漂っていた。
「……随分と混んでいるのね」
セレネは診療所の入口で足を止めた。
待合室には、十数人の患者とその家族がいた。椅子に座りきれず、壁際に立っている者もいる。誰もが疲れた表情を浮かべていた。
だが、不思議なことに、咳をする者も、熱にうなされている者もいない。目立った怪我をしている者すら、ほとんどいなかった。
代わりに聞こえてくるのは、奇妙な会話だった。
「だから、私はあなたの妻なのよ」
「……申し訳ない。どうしても思い出せないんだ」
部屋の隅では、中年の女性が男性の手を握っていた。男性は困惑した様子で首を振る。
「結婚したのは二十年前でしょう? 式を挙げた教会だって、まだ残っているのに」
「書類は見たよ。君が嘘をついていないこともわかる。でも……」
男性は目を伏せた。
「君と結婚した日のことが、何も思い出せない」
女性は、それ以上何も言えなかった。
少し離れた場所では、年老いた男性が一冊の手帳を握りしめていた。その隣には、若い男性が立っている。
「父さん、工房のことは覚えてるんだろ?」
「ああ。道具の置き場所も、仕事の手順もな」
「じゃあ、俺のことは?」
「……すまん」
老人は苦しげに首を振った。
「お前が息子だということは、聞いている。だが、育てた覚えがない」
若い男性は何かを言い返そうとした。しかし、結局は唇を噛み、黙り込んでしまった。
セレネは、その光景を見つめていた。
記憶を失った者。そして、忘れられた者。
どちらも同じように苦しんでいる。ただし、その苦しみ方は異なっていた。
忘れた者は、自分の中にあるはずの何かが失われたことに戸惑う。忘れられた者は、自分が確かに存在していた時間を否定されたように感じる。
そして、そのどちらも、簡単には救えない。
「……セレネお姉さん?」
隣から声をかけられ、セレネは視線を落とした。ニナが不安そうに彼女を見上げている。
「どうしたの?」
「ここにいる人たち、みんな……」
「ええ」
セレネは待合室を見渡した。
「あなたのお母さんと、似た症状なのかもしれないわ」
ニナは母親の手を握り直した。エマは戸惑いながらも、その小さな手を離さなかった。
それを確認すると、セレネは受付へ向かった。
*
「記憶の欠落、ですか」
受付の女性は、エマから事情を聞くと、慣れた手つきで診察票を取り出した。その反応には、驚きも戸惑いもなかった。
すでに何度も、同じ説明を聞いているのだろう。
「今朝から、娘さんに関する記憶だけが失われているのですね?」
「はい。ほかのことは、普通に覚えていると思います」
エマはそう答えた後、隣にいるニナへ視線を向けた。
「ただ……この子のことだけが、どうしても」
受付の女性は小さく頷いた。
「わかりました。院長が診察しますので、少しお待ちください」
診察票を受け取ったエマが待合室へ戻ろうとしたとき、廊下の奥から白衣姿の女性が現れた。
五十代ほどだろうか。灰色の髪を後ろでまとめ、細い銀縁の眼鏡をかけている。落ち着いた顔立ちだったが、その目元には疲労の色が濃く残っていた。
「次の患者さんを……」
女性はそこで言葉を止めた。
視線が、セレネに向けられている。白銀の髪、黄金の瞳、黒と白の長いドレス。そして、三日月を象った杖。
一瞬だけ、女性の表情が変わった。
「……あなたは?」
「セレネよ」
セレネは簡潔に名乗った。
「この親子に付き添ってきたの。それと、少し調べたいことがあるわ」
女性は眼鏡を押し上げた。
「私はこの診療所の院長です。調べたいこと、とは?」
「最近、この街で増えている記憶の欠落について」
その言葉に、院長の表情が引き締まった。
「……ここでは、少し話しにくいですね」
彼女は廊下の奥へ視線を向けた。
「患者さんの診察も兼ねて、診察室へどうぞ」
セレネは頷き、エマとニナを連れて後に続いた。
診察室は、それほど広くなかった。壁際には薬品棚と医療器具が並び、中央には簡素な診察台が置かれている。
部屋の奥には、見慣れない金属製の器具があった。細い輪をいくつも重ねたような形をしており、表面には微細な紋様が刻まれている。
セレネは一瞬だけ、その器具へ視線を向けた。
「……古い形式ね」
「ご存じですか?」
「少しだけ」
セレネはそれ以上、説明しなかった。
正確には、見覚えがあったのだ。だが、どこで見たのかまでは思い出せない。
こうした感覚には、五年前に目覚めてから何度も遭遇していた。
知識は残っている。使い方も、構造も理解できる。それなのに、それを学んだ場所や、教えられた相手の顔だけが思い出せない。
自分の内側に、誰かが意図的に空白を作ったような感覚だった。
セレネはその考えを振り払い、診察台に腰掛けたエマへ視線を戻した。
院長は診察票を確認すると、いくつか質問を始めた。
「お名前を教えてください」
「エマ・エルフェンです」
「年齢は?」
「三十二歳です」
「現在のお住まいは?」
「北区の鐘見通り、十二番地です」
質問は滞りなく続いた。
エマは自分の名前も年齢も、住所も正確に答えられる。仕事についても問題はなかった。
自宅の間取りも、近所の店の名前も覚えている。
しかし。
「ニナさんが生まれた日のことは?」
エマの表情が曇った。
「……わかりません」
「では、娘さんが小さかった頃の思い出は?」
「ありません」
「娘さんの好きな食べ物は?」
「……それも」
エマは膝の上で両手を握りしめた。
「家に帰れば、娘の部屋があるんです。昔の服も、描いた絵も、全部あるのに」
声が震える。
「見ても、何も感じないんです」
ニナは母親を見上げた。
「お母さん……」
エマは少女へ顔を向けた。だが、その瞳に浮かんでいるのは、申し訳なさと戸惑いだけだった。
院長は質問を終えると、診察票に何かを書き込んだ。
「……やはり、同じですね」
「同じ?」
セレネが尋ねる。
院長は頷いた。
「ここ数日で、似た症状の患者さんが急増しています。身体には異常がなく、基本的な知識や技能も失われていない。しかし、特定の人物や出来事に関する記憶だけが、まとめて抜け落ちているのです」
「魔術による精神干渉の可能性は?」
「当然、疑いました」
院長は疲れたように息を吐いた。
「ですが、通常の精神干渉術であれば、残留魔力が検出されます。少なくとも、私たちの検査では何も見つかりませんでした」
セレネは顎に手を添えた。
魔術的な痕跡がない。それ自体は、必ずしも魔術以外の現象であることを意味しない。
通常の検査では捉えられない干渉も存在する。実際、セレネ自身が扱う月律も、一般的な魔術の検査では正しく測定できない。
問題は、何が記憶に触れたのか。そして、失われた記憶がどこへ消えたのか。
「院長」
セレネは顔を上げた。
「患者さんの記憶が、完全に消失したと判断する根拠はある?」
院長は首を振った。
「ありません。正確には、消失したのか、取り出せなくなっているだけなのかも判別できていないのです」
「そう」
セレネは黄金の瞳を細めた。
「なら、確かめる価値はありそうね」
*
「少し、変わった検査をしてもいいかしら」
セレネがそう尋ねると、院長は怪訝そうな顔をした。
「どのような検査ですか?」
「記憶そのものを調べるわけではないわ。記憶に残された痕跡を確かめるの」
「……痕跡?」
「人が経験した出来事には、本人の記憶とは別に、微かな反響が残ることがあるの」
院長は眉を寄せた。
「そのような検査法は、聞いたことがありません」
「一般的な魔術ではないから」
セレネはエマへ向き直った。
「あなたの身体に危害を加えるつもりはないわ。ただし、何が見つかるのか、私にもわからない。確かめてもいい?」
エマは少し迷った。そして、隣にいるニナを見た。
少女は母親の手を握ったまま、黙っている。
「……お願いします」
エマは頷いた。
「何かわかるなら、調べてください」
「わかったわ」
セレネは杖を持ち上げた。
三日月の先端が、淡い銀色を帯びる。しかし、診察室に大きな変化は起こらなかった。
床に魔法陣が現れることも、まばゆい光が満ちることもない。ただ、セレネの黄金の瞳の奥で、月光に似た微かな輝きが揺れた。
――月蝶。
それは、彼女が持つもう一つの月の権能。
月律が空間の境界へ干渉する力なら、月蝶は記憶の痕跡に共鳴する力だった。
ただし、見ることができるのは、あくまで痕跡。本人が経験した出来事のすべてを、自由に覗き見ることができるわけではない。
まして、失われた記憶を無条件に取り戻せるものでもなかった。
セレネの視界が、わずかに変化した。
エマの姿は、そのまま見えている。だが、彼女の周囲に、ごく細い銀色の線が浮かび上がっていた。
肉眼では捉えられない、記憶の反響。
人が生きてきた時間の痕跡が、月蝶の権能によって輪郭を持っている。
セレネはその線を慎重に辿った。
幼い頃の思い出。仕事に関する経験。昨日までの日常。
それらに結びつく反響が、微かに感じられる。しかし、ある部分で流れが途切れていた。
「……これは」
セレネは小さく呟いた。
途切れた先に、何もないわけではない。むしろ、何かがある。
確かに存在しているはずなのに、そこへ辿り着く経路だけが失われている。
まるで、一冊の本から特定の章だけを切り離し、別の場所へしまい込んだような状態。
ただし、その章が無事に残されているかどうかまでは、判断できない。
セレネはさらに注意深く観察した。
途切れた部分には、極めて細い銀色の境界が残されていた。自然に薄れていった記憶の痕跡とは、明らかに異なる。
「……誰かが、触れた?」
思わず漏れた言葉に、院長が反応する。
「何か見つかったのですか?」
セレネはすぐには答えなかった。
もう一度、痕跡を確かめる。
見間違いではない。
何らかの外部干渉によって、記憶へつながる経路が切り離されている。少なくとも、そう考えれば説明できる状態だった。
セレネは杖を下ろした。
銀色の線が視界から消える。
「……一つ、わかったことがあるわ」
院長が身を乗り出した。
「何でしょう?」
「記憶が完全に消えたとは、まだ断定できない」
エマが顔を上げる。
「それは……どういう意味ですか?」
「失われた記憶へつながる痕跡が、不自然な形で途切れているの。普通に忘れてしまった場合とは違う」
「では、娘のことを思い出せるんですか?」
エマの声には、初めて明確な期待が宿っていた。
セレネは首を振った。
「そこまでは言えないわ」
希望を否定するような答えだった。それでも、彼女は言葉を続ける。
「切り離された先に、記憶が残っている可能性はある。でも、それがどこにあるのかも、無事なのかもわからない」
院長は難しい顔で腕を組んだ。
「つまり、まだ治療法は見つかっていない……」
「ええ」
セレネは認めた。
「ただ、何を調べるべきかは少し見えてきたわ」
彼女はエマへ視線を戻した。
「あなたの記憶に、外から何かが干渉した可能性がある。それを確かめたい」
エマはしばらく黙っていた。そして、小さく頷いた。
「……お願いします」
その声は、先ほどよりも落ち着いていた。
確かな希望を得たわけではない。けれど、何もわからないまま待つことよりは、まだ前へ進める気がしたのだろう。
ニナは母親の横顔を見つめていた。
セレネは、そんな少女へ視線を向ける。
「ニナ」
「なあに?」
「今日は、お母さんを少し休ませてあげて」
「……うん」
「あなたも疲れているでしょう」
ニナは首を振りかけた。しかし、すぐに小さく頷いた。
「ちょっとだけ」
「そう。なら、二人とも休んでいて」
セレネはそう告げると、院長へ向き直った。
「ほかの患者さんも、同じ状態なのかしら」
院長は頷いた。
「症状は似ています。ただ、失われる記憶の範囲には個人差があります」
「詳しく聞かせてもらえる?」
「ええ。ただし、ほかの患者さんの診療内容を、許可なくお話しするわけにはいきません」
「それでいいわ」
セレネは即座に答えた。
「本人に確認してもらいましょう」
*
午後になる頃、セレネは数人の患者から話を聞くことができた。
最初に応じたのは、待合室にいた年老いた職人だった。長年、家具を作る仕事をしていたという。
彼は自分の名前も、職業も、住んでいる場所も覚えていた。工具の使い方も、木材の種類も理解している。
しかし、息子の存在だけが、記憶から抜け落ちていた。
「妙な話だろう」
老人は苦笑した。
「こいつが息子だってことは、わかるんだ。家には子どもの頃の写真もあるし、昔の手帳には俺の字で名前が書いてある」
彼は隣に座る若い男性を見た。
「けどな、こいつを抱き上げた覚えも、一緒に仕事をした覚えもないんだよ」
若い男性は黙っていた。
老人は自分の手を見下ろした。
「それなのに、こいつが使っている鉋を見ると、どこを調整したらいいかはわかる。俺が教えたらしいんだが……教えたことだけは、思い出せねえ」
セレネは老人の許可を得て、月蝶で記憶の痕跡を確認した。
そして、先ほどと同じものを見つけた。
不自然に途切れた反響。その境目に残る、極めて細い銀色の線。
次に話を聞いたのは、結婚の記憶を失った中年の男性だった。
彼は妻の名前を知っていた。だが、それは今朝、本人から教えられたからだという。
「妻だと言われれば、信じます」
男性は疲れた顔で答えた。
「家には二人で写った写真もありました。昔の手紙も残っています」
彼は隣にいる女性を見た。
「でも、何度見ても、他人の人生を覗いているような気がするんです」
女性は俯いた。
「……私たち、あんなに一緒にいたのに」
男性は何も言えなかった。
セレネは、二人の間に入り込むような言葉を選ばなかった。ただ、必要な質問をいくつかした後、男性の記憶の痕跡を確認した。
結果は同じだった。
三人目の患者は、若い女性だった。
彼女は自分が通っていた学校のことを忘れていた。授業で学んだ知識は残っている。
文字も読めるし、計算もできる。しかし、教室の風景も、友人たちとの思い出も、卒業した日のことも覚えていなかった。
「おかしいですよね」
女性は力なく笑った。
「試験の問題なら、今でも答えられるんです。でも、誰と一緒に勉強していたのかが、わからない」
セレネは、彼女の記憶にも同じ境界を見つけた。
記憶の内容は違う。失われた範囲も違う。
だが、途切れ方だけが一致している。
偶然とは考えにくかった。
「……やはり、そういうことね」
セレネは小さく呟いた。
院長が顔を上げる。
「何かわかりましたか?」
「少なくとも、三人とも同じ種類の干渉を受けている可能性が高いわ」
「同じ種類……」
「失った内容は異なる。でも、記憶へつながる痕跡の途切れ方が、ほとんど同じなの」
院長は考え込んだ。
「つまり、同じ原因による症状だと?」
「そう考えるのが自然ね。ただし、まだ確証はないわ」
セレネは手元の小さな手帳を開いた。
黒い革表紙の、使い込まれた手帳だった。そこには細かな文字が整然と並んでいる。
日付、土地の名前、出会った人物、経験した出来事。時には、会話の一部まで。
セレネは新しい頁を開き、今日調べた内容を記録し始めた。
『灰鐘市。欠月現象の患者を複数確認』
『記憶の欠落範囲には個人差あり』
『一般的な精神干渉術の残留魔力は検出されず』
『月蝶による観測では、記憶の反響に不自然な断絶を認める』
『原因は未特定』
彼女は筆を止めた。
少し考えた後、最後に一文を加える。
『記憶そのものの消滅は、現時点では確認できない』
「……随分と、細かく記録するのですね」
院長が感心したように言った。
「習慣なの」
セレネは手帳を閉じた。
「忘れないために」
それ以上、説明するつもりはなかった。
しかし、その言葉を聞いた院長は、少しだけ不思議そうな顔をした。
「あなたも、何かを忘れたことがあるのですか?」
セレネはしばらく黙っていた。
「……ええ」
黄金の瞳が、閉じられた手帳へ向けられる。
「随分と、多くのことを」
院長は何かを尋ねようとした。だが、セレネの表情を見て、言葉を飲み込んだ。
*
診察を終えた頃には、窓の外の陽が傾き始めていた。
待合室の患者は、朝よりも増えている。その中には、先ほどまで普通に生活していたという者もいた。
ある者は、親友の名前を忘れた。ある者は、自分が働いていた職場の同僚たちを思い出せなくなった。
そして、別の者は、何を忘れたのかさえ説明できなかった。
セレネは廊下を歩きながら、考えていた。
記憶を失うという現象自体は、決して珍しいものではない。病気、怪我、魔術的な干渉。さまざまな原因によって、人は記憶を失う。
だが、今回の症状はあまりにも不自然だった。
まるで、必要な部分だけを選んで切り離したかのように。しかも、その切断面には共通する痕跡がある。
自然発生した現象というより、一定の規則に従って処理された結果に見えた。
「……規則、ね」
セレネは足を止めた。
何かが引っかかる。記憶の断絶、不自然な境界、同じ形をした痕跡。
どこかで、似たものを知っている気がした。
しかし、思い出そうとすると、意識の奥に白い霧がかかる。五年前に目覚めて以来、何度も感じてきた感覚だった。
知っているはずなのに、思い出せない。わかるはずなのに、その理由を説明できない。
「……厄介ね」
セレネは小さく息を吐いた。
そのとき、廊下の向こうから院長が歩いてきた。腕には、何冊かの古い診療記録を抱えている。
「セレネさん」
「何かしら」
「先ほどのお話が気になって、過去の記録を少し調べてみたのですが……」
院長は手にした記録を見下ろした。
「どうも、似た症状は最近になって初めて現れたものではないようなのです」
セレネの目が細められる。
「……詳しく聞かせて」
院長は古い診療記録を開いた。
「数年前にも、記憶の一部を失った患者がいたようです。当時は原因不明として処理されていますが、記録されている症状は現在のものとよく似ています」
「その患者は、どうなったの?」
「記憶は戻らなかったそうです。ただ、症状が進行したという記録もありません」
「ほかには?」
「さらに古い記録にも、似たような事例があると聞いたことがあります」
院長は少し考えた後、首を振った。
「ですが、当院にはそれ以上の資料が残っていません。昔の診療記録は、市立記録院へ移されたものも多いので」
「市立記録院……」
セレネはその名前を繰り返した。
灰鐘市は、学術都市としても知られている。古い文献や歴史的な資料を集めた大規模な記録院があり、多くの研究者が出入りしているという。
過去にも同じ現象が起きていたのなら、そこに手がかりが残っている可能性は高い。
「その記録院には、誰でも入れるの?」
「一般閲覧室は利用できます。ただ、古い資料には閲覧制限があるものも多いですね」
「そう」
セレネは少し考えた。
「なら、まずはそこへ行ってみるわ」
院長は頷いた。
「記憶の欠落について調べるのであれば、一人、話を聞いてみるといいかもしれません」
「誰?」
「ミラ・フェルンという研究者です」
院長は記録を閉じた。
「まだ若い方ですが、古い文献の調査に詳しいと聞いています。過去の異常現象についても調べていたはずです」
「ミラ・フェルン……」
セレネは手帳を開き、その名前を書き留めた。
「ありがとう。助かったわ」
「いえ。こちらこそ、患者さんたちのために協力していただけるなら、ありがたいことです」
院長は深く頭を下げた。
「私たちだけでは、どうにもならないことが多くて……」
セレネは首を振った。
「まだ、何も解決していないわ」
「それでも、原因を調べる方法があるとわかっただけで、十分です」
院長の表情には、わずかな安堵が浮かんでいた。
しかし、セレネはそれを見ても、簡単に安心することはできなかった。
今回の現象は、明らかに通常の病気ではない。そして、何らかの意図を持って記憶が切り離されている可能性がある。
もし、そうだとすれば。
問題は、誰がそれを行っているのか。そして、何のために行っているのか。
その二つだった。
*
診療所を出る頃には、空が薄い橙色に染まり始めていた。
セレネは入口の階段で足を止めた。
庭園の向こうでは、帰宅を急ぐ人々が行き交っている。遠くには、大鐘楼の姿が見えた。
灰色の石造りの塔。その頂上には、巨大な鐘が吊るされている。
朝に聞いた、あの不自然な音。
セレネはしばらく塔を見つめた。
「……偶然、かしら」
記憶の欠落と、鐘の異変。現時点では、両者を結びつける証拠はない。
ただ、あの鐘が鳴ったとき、自分の内側に奇妙な反響が生じたことだけは確かだった。
セレネは手帳を開き、今日の記録に一行を加える。
『大鐘楼の時報に異常あり。欠月現象との関連は不明』
そして、手帳を閉じた。
「セレネお姉さん!」
背後から声がした。
振り返ると、ニナが小走りで近づいてきた。その後ろには、エマが立っている。
「もう帰るの?」
「ええ。今日は調べられることがなくなったから」
ニナは少しだけ寂しそうな顔をした。
「明日も来る?」
「そうね。必要があれば、また来るわ」
「……そっか」
少女は俯いた。そして、何かを決心したように顔を上げた。
「ねえ、お姉さん」
「何?」
「お母さん、今日も私のこと思い出せなかったけど……」
ニナは後ろにいるエマを見た。
「さっきね、一緒にお茶を飲んだの」
「そう」
「お母さん、私が甘いもの好きなの知らなかったから、教えてあげた」
セレネは少女の話を聞いていた。
「そしたらね、今度は甘いお菓子も用意するって言ってくれたの」
ニナは少し笑った。
「前のお母さんも、同じこと言ってくれたんだよ」
その言葉に、セレネは何も答えなかった。
失われた思い出は、まだ戻っていない。けれど、新しい思い出は生まれている。
それが過去の代わりになるわけではない。ニナが望んでいるのは、あくまで母親に自分を思い出してもらうことなのだから。
それでも、失われたものだけが、二人のすべてではない。
「……そう」
セレネは僅かに微笑んだ。
「よかったわね」
ニナは嬉しそうに頷いた。
それから、ふと思い出したように尋ねた。
「お姉さんは、明日何するの?」
「少し、本を調べに行こうと思っているの」
「本?」
「ええ。この街の昔の出来事について、知りたいことがあるの」
ニナは首を傾げた。
「本を読んだら、お母さんのことがわかるの?」
「まだ、わからないわ」
セレネは正直に答えた。
「でも、調べる価値はあると思う」
少女は少し考えた後、頷いた。
「じゃあ、頑張ってね」
「ええ」
セレネは頷いた。
「あなたも、無理をしないで」
ニナは母親のもとへ駆け戻った。
エマは少女の手を取り、セレネへ頭を下げる。
「今日は、本当にありがとうございました」
「気にしないで」
「それでも、お礼を言わせてください」
エマはニナの手を握ったまま、言葉を続けた。
「私はまだ、この子のことを何も思い出せません。でも……」
彼女は少女へ視線を落とした。
「少なくとも、今日一緒に過ごした時間は覚えています」
ニナが母親を見上げる。
「……お母さん」
エマは困ったように微笑んだ。
「これから、少しずつ教えてくれる?」
ニナは大きく頷いた。
「うん!」
二人は手をつないだまま、街路を歩き出した。
セレネはその後ろ姿を見送った。やがて、小さな親子の姿が人混みの向こうへ消えていく。
彼女はしばらく、その場に立っていた。
そして、ゆっくりと黒い手帳を取り出した。
今日の頁を開く。
そこには、診察した患者たちの症状と、調査で得られた情報が記されていた。
最後の余白に、セレネは新しい一文を書き加える。
『ニナ・エルフェン。母親の記憶から失われた少女』
筆先が止まった。
セレネは、その文章を見つめた。
少し考えた後、ゆっくりと線を引いて消す。そして、改めて書き直した。
『ニナ・エルフェン。今日、母親と新しい思い出を作った少女』
セレネはその文字をしばらく眺めていた。
記憶は、失われる。人は、忘れる。
どれほど大切な出来事でも、どれほど強く願っていても。いつか、思い出せなくなることがある。
彼女自身も、そうだった。
自分が何者だったのか。誰と生きてきたのか。何を守ろうとしていたのか。
そのほとんどを、忘れてしまった。
だからこそ、せめて、今日出会った人々の名前だけは忘れずにいたかった。
セレネは手帳を閉じた。
そして、大鐘楼の方角へ視線を向ける。
明日は、市立記録院へ向かう。過去の記録を調べ、失われた記憶の手がかりを探す。
その先に何が待っているのかは、まだわからない。
ただ一つ、確かなことがあった。
この街で起きている記憶の欠落は、単なる病気ではない。
そして、同じように失われた記憶を持つ自分にとっても、決して無関係な出来事ではないのだろう。
「……さて」
セレネは黒金の杖を手に、歩き出した。
「まずは、記録を調べましょうか」
夕暮れの街に、白銀の長い髪が揺れる。
遠くの大鐘楼は、沈みゆく太陽を背に、静かにそびえ立っていた。
その地下に何が眠っているのか。今はまだ、誰も知らない。
そして、数百年もの間閉ざされてきた記録が、再び開かれようとしていることも。
灰鐘市の一日は、こうして終わろうとしていた。
だが、忘却の連鎖は、まだ始まったばかりだった。