大鐘楼の鐘が止まって、九日目の朝を迎えた。
灰鐘市の中央広場では、鐘楼の周囲に設けられた柵に沿って、人々が行き交っていた。通行規制は続いていたが、今朝は掲示板の前に職員が集まり、何かを取り付ける準備をしている。
セレネは足を止め、その様子を眺めた。
木製の小さな台座が掲示板の横に置かれ、その上には丸い時計が載せられていた。管理部門が保管していた予備の時計を、当面の時刻表示に転用することになったらしい。
時計はまだ固定されておらず、職員たちは別の時計と時刻を照らし合わせていた。その隣では、通行人が安全に時刻を確認できるよう、案内板の位置を調整している。
昨日、ヴァルトに提案したことが、こうして形になろうとしていた。
もっとも、時計を置いたところで鐘楼の異常が解決するわけではない。地下への立ち入り制限も続いており、広場の通行規制がいつ解除されるのかも決まっていなかった。
それでも、街の不便を少しでも減らすための取り組みが始まっている。
セレネは微かに微笑み、記録院へ向かった。
今日は、百八十年前の鐘楼改修に関係するかもしれない資料を確認する予定だった。昨日見つかった工事記録には、古い石面へ直接荷重をかけないという施工指示が残されていた。
さらに、その工事に先立って、旧石面の状態を別に記録したことも判明している。
『旧面記録』
そう呼ばれる資料が、現在も残されているかどうかはわからない。しかし、対応する管理番号に近い資料群が見つかり、今日、その内容を確認できることになっていた。
セレネは記録院の扉を開けた。
*
閲覧室では、ミラが保存担当の職員と話していた。
机の上には、昨日書き留めた旧管理番号の写しが置かれている。その隣には閲覧申請書と、古い建築図面の保管区分を示した目録が広げられていた。
「おはよう、ミラ」
「おはようございます、セレネさん。ちょうど、今日の閲覧について説明を受けていたところです」
ミラは隣の職員を紹介した。
「候補となる資料の保存状態を確認してくださった方です。閲覧にあたって、いくつか注意事項があるそうです」
職員は軽く頭を下げた。
「今回確認されたのは、約百八十年前の改修工事に関係する資料を含む綴りです。ただし、当時作成された書類がすべて揃っているわけではありません」
職員は目録の一項目を指さした。
「一部は綴じ具が失われ、紙がばらばらになっています。また、後の整理作業で別の資料とまとめられた形跡もあります」
「……では、探している記録が含まれているかどうかも、まだわからないのね」
セレネが尋ねると、職員は頷いた。
「はい。ただ、旧管理番号の一部が一致する資料は確認できています。今日は、状態に問題のないものから順にご覧いただきます」
職員は続けた。
「傷みの激しい紙については、こちらで扱いますので、直接触れないようお願いします」
「承知しました」
ミラが答えた。
しばらくして、薄い板に挟まれた古い書類が運ばれてきた。黄ばんだ紙の端には小さな欠損があり、保存用の透明な覆いが掛けられている。
ミラは最初の一枚へ視線を落とした。
そこには、百八十年前の工事に関係する管理番号が記されていた。しかし、末尾の記号は昨日見つけた旧面記録のものとは異なっている。
「……これは、石材の搬入記録ですね」
ミラが言った。
「ええ。番号は近いけれど、内容が違うわ」
セレネは隣の紙を確認した。
こちらは工事に使用された資材の数量を記録したもので、施工場所を示す簡単な位置図が添えられている。だが、古い石面の形状については何も記されていなかった。
二人は一枚ずつ、資料の内容と番号を照合していった。
作業員の配置記録、石材の搬入記録、補修に使われた材料の一覧。同じ改修工事に関する資料ではあったが、探している旧面記録とは異なるものばかりだった。
やがて、職員が新しい板を机へ置いた。
「こちらを確認していただけますか」
ミラが顔を上げる。
板の上には、二枚の紙が並べられていた。一枚は古い図面で、もう一枚は、その図面に添えられていたと考えられる短い説明書だった。
ミラは管理番号を確認した。
「……セレネさん」
その声が、わずかに変わった。
「末尾の記号が、昨日の旧面記録と一致しています」
セレネは身を乗り出しかけ、紙に触れないよう姿勢を正した。
図面の上部には、かすれた文字が残されている。
『鐘楼基礎北側 旧面記録』
探していた名称だった。
*
「……見つかったのね」
セレネが呟くと、ミラは頷いた。
「名称と番号は一致しています。ただ、本当に昨日の工事記録に対応するものか、もう少し確認しましょう」
ミラは百八十年前の施工記録の写しを取り出した。
工事全体の管理番号と、旧面記録を示す末尾の記号。目の前の図面には、それと対応する番号が記されていた。
「……番号は合っています」
ミラは静かに言った。
保存担当の職員も頷いた。
「保管履歴と記載形式にも、今のところ大きな食い違いは見つかっていません。ただし、紙や筆記材料についての詳しい調査は行っていないため、当時の原本なのか、後に作成された写しなのかは未確定です」
職員は添付された説明書を示した。
「こちらには、改修前の旧石面の状態を記録した旨が記されています。百八十年前の工事に関係する資料と考える根拠にはなりますが、来歴の確認は引き続き必要です」
セレネは頷いた。
百八十年前の状態を伝える資料である可能性は高い。しかし、現在残っている紙そのものが百八十年前に書かれたと確定したわけではない。
「……まずは、何が描かれているのか確かめましょう」
ミラが言った。
二人は図面へ目を向けた。
そこには、地下の石壁が描かれていた。
左側には大きな扉の輪郭があり、その右側に円形の模様が記されている。周囲には石材の継ぎ目と寸法らしい数字が書き込まれ、工事に関係すると思われる補助線も添えられていた。
セレネは中央の円へ視線を向けた。
「……あの壁に似ているわ」
ミラは現在の測量図を取り出した。
鉄扉の位置、右側の壁面、三つの区画に分かれた円形の刻印。古い図面と現在の壁面には、複数の共通する特徴があった。
「……同じ場所を記録した可能性がありますね」
ミラは図面の下部を確認した。
そこには、記録対象の位置を示す短い説明が残されていた。
『地下北側。封鎖扉右方、旧加工面。』
ミラは現在の配置図と照合した。
「……位置の説明も一致しています」
セレネは静かに息を吐いた。
現在の大鐘楼が大規模な改修を受ける以前にも、あの場所には扉と円形の刻印が存在していたと考えられる。
ただし、図面に描かれた扉が現在と同じ部材であるかどうかまでは、確認できない。
「……続きを見てもいいかしら」
セレネが尋ねると、職員は頷いた。
「ええ。そのままご覧ください」
セレネは、円形の模様へ目を凝らした。
*
古い図面に描かれた円形の模様は、現在のものより整った形をしていた。
欠月、半月、満月に相当する三つの区画があり、それぞれから中央へ向かって細い線が伸びている。文字の細部は省略されていたが、刻線のおおまかな配置は現在の壁面とよく似ていた。
しかし、セレネの目を引いたのは、三つの線の先だった。
中央の円と、そこへ向かう刻線の間。
そこには、小さな空白が描かれていた。
「……ミラ。ここを見て」
セレネは紙に触れないよう、位置を指し示した。
ミラが顔を近づける。
「……線が、中央まで届いていませんね」
図面の上では、三つの刻線が中央の円に接する前に終わっていた。それぞれの間には、わずかな距離が残されている。
現在の測量では、正確に確認できなかった部分だった。
「……百八十年前にも、隙間があったのかしら」
セレネが呟く。
ミラはすぐには答えなかった。
「図面には、そう描かれています。でも、これだけで当時の実物がその形だったと断定することはできません。施工用の図面なら、細かな部分を省略している可能性もありますから」
彼女は紙の端に記された注記へ目を向けた。
「……こちらに、説明があります」
セレネは文字を追った。
『中央異材の周囲、三方の細線と接せず。』
セレネの視線が止まった。
図面に描かれた空白。
そして、中央異材と三方の細線が接していないという記述。
二つは、同じ状態を示しているように読めた。
「……これは、単に線を描き忘れたわけではなさそうね」
セレネが言うと、ミラは頷いた。
「はい。少なくとも、この記録を作成した人物は、中央の異材と三方の細線が接していないと認識していたようです」
ミラはさらに、次の文章を確認した。
『旧面の細隙、施工に際して埋めず。』
セレネはその一文を読み上げた。
「……古い石面の隙間を、工事で埋めないように?」
ミラは頷いたが、すぐに図面へ視線を戻した。
「ただ、この『細隙』が、中央異材と刻線の間にある隙間を指しているかどうかは、まだわかりません」
「……別の石材の継ぎ目かもしれないのね」
「はい。同じ資料に続けて記されているので関係は疑われますが、文章だけでは特定できません」
セレネは改めて中央の円を見つめた。
古い図面に残された小さな空白と、二つの短い注記。そこから読み取れることは、以前より増えていた。
少なくとも、この資料が伝える改修前の状態では、中央の異材と三方の刻線が接していなかったとされている。
それが新しい発見だった。
「……ミラ。三十四年前の補修でも、古い加工痕を埋めないよう指示されていたわよね」
セレネが尋ねた。
「ええ。オルフェンさんも、中央の近くへ目地材を詰めようとした職人が止められた記憶があると話していました」
ミラは手帳を開いた。
「ただ、あちらはご本人も位置をはっきり覚えていません。今回の『細隙』と同じ場所を指していたとは、まだ言えませんね」
セレネは頷いた。
百八十年前と三十四年前。
異なる時代の工事記録には、どちらも古い加工痕を不用意に埋めないという考え方が残されていた。
しかし、それぞれの指示が同じ部分を対象としていたのか、同じ理由で出されたのかは不明だった。
「……それでも、確認する価値はあるわね」
セレネが言った。
「はい。今の壁面では見えなくなっている部分について、過去の状態を知る手掛かりになります」
ミラは現在の実測図を隣へ置いた。
欠月側と満月側の刻線は、中央円の手前で視認できなくなっている。半月側の刻線は、古い支持石に隠されていた。
これまでは摩耗や補修によって線が見えなくなった可能性を考えていたが、今回の資料は別の可能性を示している。
百八十年前の時点でも、刻線と中央異材の間に距離が存在したのかもしれない。
「……最初から繋がっていなかった可能性もあるのね」
セレネが呟くと、ミラは少し考えてから答えた。
「ええ。ただし、『最初』がいつなのかは別です。この資料が伝えるのは、あくまで改修前の状態ですから」
セレネは頷いた。
古代の施設が造られたときから隙間があったのか、それとも長い年月の中で生まれたものなのか。
その違いを確かめるには、さらに古い記録が必要だった。
*
ミラは続けて、図面の右側を確認した。
そこには、現在の壁面には見られない補助線が数本描かれている。石材の位置を示すものらしく、中央の刻印とは筆致も線の太さも異なっていた。
「……こちらは、改修で追加する石材の位置でしょうか」
ミラが呟くと、保存担当の職員が説明書を確認した。
「施工予定位置を示す線が加えられている可能性はあります。ただし、元の状態を記録した線と後から加えられた線を、すべて区別できているわけではありません」
セレネは図面を見つめた。
半月側の刻線が伸びる位置。その前を横切るように、細長い石材の輪郭が描かれている。
「……この石、今の支持石に似ているわ」
ミラは現在の配置図を隣に並べ、位置を比較した。
古い図面に描かれた石材の予定位置は、現在半月側の刻線を隠している支持石と近い場所にあった。しかし、形や寸法には違いがあり、同じものだと判断できるほどの情報はない。
「……百八十年前の改修で、今の支持石が置かれたのかしら」
セレネが尋ねる。
「可能性はあります。でも、これは施工予定を示した線かもしれません。実際にその位置へ設置されたかどうかは、完成後の記録が必要です」
ミラは添付された説明書へ目を向けた。
そこには、古い壁面の前方へ補強用の石材を渡す方法が検討されたことが記されていた。
『前面に渡す石材は、左右の新積石に受けさせること。』
『旧石面への接触を避けること。』
セレネはその文章を読み、ゆっくりと顔を上げた。
「……古い壁を直接支えるのではなく、その前に石を渡す方法を考えていたのね」
ミラは頷いた。
「計画としては、そう読めます」
古い壁面に直接荷重をかけず、周囲の新しい石積みで支える。昨日見つかった施工指示と、考え方は一致していた。
しかし、図面に描かれた方法が実際に採用されたかどうかは、まだ確認できない。
「……刻線が石で隠れていても、壁そのものに力がかかっているとは限らないのね」
セレネが言った。
「ええ。昨日、リゼットさんが説明してくれたことと矛盾しません」
ミラは現在の図面へ視線を移した。
「ただし、今の支持石が同じ方法で設置されているとも限りません。百八十年間に、周囲の石材の状態が変わっている可能性もあります」
セレネは頷いた。
今ある支持石が何を支え、どこへ荷重を伝えているのか。それを確かめずに、古い施工計画と同じ構造だと考えることはできなかった。
*
「……もう一枚、確認していただきたい資料があります」
保存担当の職員が言った。
彼女は最初の図面の下に重ねられていた紙を、慎重に取り出した。
そこには、地下の基礎部分を横から見たような図が描かれている。上部に新しい石積みがあり、その下には古い石面を示す線が引かれていた。
ミラは注記を確認した。
「……荷重の伝わり方を示すための図のようですね」
図には左右の石積みへ向かう線が描かれ、中央の旧石面へ直接荷重を伝えない構成が示されているように見えた。しかし、紙の端が欠けているため、施工箇所の全体像はわからない。
「……この図も、同じ壁を描いているの?」
セレネが尋ねた。
ミラは番号を確認した。
「工事番号は一致しています。でも、詳しい位置を示す部分が欠けています」
「では、鐘楼地下の刻印のある壁とは限らないのね」
「はい。工事全体に関係する図面の一つだった可能性もあります」
保存担当の職員は、紙の裏面を確認した。
「こちらに、追加の注記があります」
二人は顔を上げた。
そこには、かすれた文字で短い一文が記されていた。
『旧面の状態により、施工位置を改めること。』
セレネは静かに読み上げた。
「……古い壁の状態によって、工事の位置を変える?」
ミラは頷いた。
「そうですね。現場の状態を見て、設置位置を調整する余地を残していたようです」
セレネは最初の図面を振り返った。
そこに石材の予定位置が描かれていても、実際には変更された可能性がある。
現在の支持石が、その改修で設置されたものかどうか。そして、設置されたとしても、どの位置だったのか。
それらは、改修前の計画だけでは判断できなかった。
「……完成後の記録が必要なのね」
セレネが呟く。
「はい。今回見つかった図面が、どこまで実際の工事に反映されたのかを確認しなければなりません」
ミラは二枚の図面を見比べた。
改修前の状態を記録したと考えられる図面。
荷重の伝わり方を検討した図面。
それぞれの目的は異なり、どちらも現在の構造をそのまま示しているわけではなかった。
それでも、百八十年前の工事で古い石面との接触を避ける方法が検討されていたことは、記録として残されている。
「……リゼットさんに見てもらいましょう」
セレネが言った。
「ええ。今日確認できたことと、まだわからないことを分けて伝えましょう」
ミラは頷き、保存担当の職員へ写しの作成を申請した。
*
午後、二人は大鐘楼の管理室を訪れた。
ヴァルトは机の上に保全計画を広げており、リゼットも既存の点検資料を確認していた。地下への立ち入り制限は続いているが、保全担当部門では記録に基づく安全評価が進められていた。
「お二人とも。何か見つかったんですか?」
ヴァルトが尋ねた。
「はい。百八十年前の旧面記録に対応すると考えられる資料が見つかりました」
ミラは写しを机へ置いた。
ヴァルトは顔を上げ、リゼットも手を止めた。
「……旧面記録が?」
ミラは頷いた。
「名称と管理番号は、昨日の工事記録に対応しています。ただし、現存する資料が原本なのか写しなのかは、まだ確認できていません」
彼女は、図面と説明書を並べた。
「改修前の状態を伝える資料には、鉄扉の右側に円形の刻印が描かれています。そして、中央の異材と三方の細線が接していないという記述がありました」
リゼットは図面を受け取り、じっくりと確認した。
「……中央との間に、隙間がある」
セレネは頷いた。
「ええ。少なくとも、この記録を作った人は、そういう状態だと認識していたみたいなの」
「……なるほど」
リゼットは現在の実測図を隣へ置いた。
欠月側と満月側の刻線は、中央の手前で視認できなくなっている。半月側については古い支持石の下に隠され、終端を確認できていなかった。
その三本に対し、旧面記録と考えられる図面では、中央異材との間に小さな空白が描かれている。
「……これは重要な情報ですね」
リゼットが言った。
ヴァルトは図面を覗き込んだ。
「刻線が中央へ繋がっていないことを、証明できるのでしょうか」
「百八十年前の改修時の状態を伝える資料には、そう記されています」
リゼットは慎重に答えた。
「ただし、現存する資料の来歴も含めて、確認は必要です。それに、当時の状態が現在まで変わらず残されているかどうかも不明です」
ミラは頷いた。
「はい。古代に造られた時点で同じ形だったかどうかも、まだわかりません」
リゼットは次の注記へ視線を移した。
『旧面の細隙、施工に際して埋めず。』
「……こちらの『細隙』は、中央の周りを指しているのでしょうか」
ミラは首を横に振った。
「そこは確認できていません。同じ資料に記されていますが、中央と刻線の間の隙間を直接指すものなのか、別の継ぎ目なのかは不明です」
リゼットは頷いた。
「……わかりました」
彼女は現在の保全計画を開いた。
「それでも、施工時に注意するべき情報です」
セレネが顔を上げる。
「……何か変わるの?」
リゼットは頷いた。
「現在の計画では、刻印のある壁面へ直接加工を加えない方針です。ただ、周辺の目地を補修する必要が生じた場合、古い加工痕との境界をどう扱うかが問題になります」
彼女は中央の円を指さした。
「今回の資料には、中央異材と刻線の間に距離があったという記述が残されています。また、旧面の細い隙間を埋めないという指示もあります」
リゼットは続けた。
「それぞれが同じ箇所を指すと確定したわけではありませんが、現在確認できない隙間を、無関係な欠損と判断して埋めてしまうのは避けるべきでしょう」
「……何かの機能があるかもしれないから?」
セレネが尋ねる。
「それも否定はできません。ただ、私が今気にしているのは構造上の影響です」
リゼットは図面の中央を示した。
「隙間を埋めることで、石材同士の力の伝わり方が変わる可能性があります。反対に、隙間を残すことが不安定な状態を生む場合もあるかもしれません」
彼女は静かに言葉を続けた。
「どちらが安全なのかは、現在の状態を確認しなければ判断できません。だから、確認する前に埋めたり削ったりしないということです」
セレネは頷いた。
隙間に特別な機能があると証明されたわけではない。
しかし、理由がわからないまま、その形を変えてしまうべきではなかった。
ヴァルトは保全計画を確認した。
「……では、施工前の確認事項に加えましょう」
リゼットは頷いた。
「はい。中央周辺の形状と、三本の刻線については、現在の状態を保持する方針を明記します」
彼女は新しい紙を取り出し、指示事項を書き加えた。
『旧面中央周辺の細隙について、追加確認前の充填・切削を行わないこと。』
『新設支持材の設置に際し、旧石面への荷重伝達を再評価すること。』
『改修前の記録図と現状の差異を、保全計画の参考資料として添付すること。』
セレネはその三行を見つめた。
今回の記録によって、百八十年前の隙間が現在も同じ形で存在すると証明されたわけではない。
それでも、今の保全作業で不用意に形を変えてはいけない部分として、具体的な確認事項が加えられた。
古い図面の発見が、現在の判断に影響を与えたのだった。
*
協議が一段落すると、ヴァルトは改めて図面へ目を向けた。
「……それにしても、不思議ですね」
セレネが顔を上げる。
「何がかしら?」
「この記録を作った人は、中央の異材と三方の細線が接していないことを、わざわざ文章に残している」
ヴァルトは円形の刻印を指さした。
「単なる装飾だったとしても、そこまで記録する理由があったのでしょうか」
リゼットは少し考えた。
「装飾の形を正確に残すためだった可能性もあります。旧加工痕を保護するための記録だったのかもしれません」
「……ええ。そういう考え方もありますね」
ヴァルトは頷いた。
セレネは図面を見つめた。
中央の円と、三本の刻線。その間には、百八十年前の状態を伝える記録において、隙間が描かれている。
しかし、何のために作られたものなのかを説明した記述は見つかっていない。
「……一つ、気になることがあるの」
セレネが言うと、ミラが顔を上げた。
「何でしょうか?」
「九日前、半月の印が光ったとき、中央の円に光が浮かんだかどうかは、確認できていなかったわよね」
ミラは頷いた。
「はい。私たちが確かに目撃したのは、半月の印の発光です」
セレネは現在の測量図へ視線を移した。
「……そのとき、刻線が中央と繋がっていたのかどうかも、確かめられていないわ」
ミラは頷いた。
「ええ。今回の旧面記録は、百八十年前の状態についての手掛かりです。発光したときの構造を、そのまま証明するものではありません」
セレネはしばらく考えた。
「……そうね。なら、刻線が中央と繋がっていることが発光の条件なのか、それとも関係がないのか。今はどちらとも言えないわ」
リゼットは二人の会話を聞き、静かに答えた。
「少なくとも、今ある資料から機能を推定するのは難しいでしょう。発光がどのような仕組みで起きたのかも、わかっていませんから」
セレネは頷いた。
古い図面に隙間が描かれていることと、九日前に半月の刻印が光ったこと。
その二つが、どのように関係しているのかは不明だった。
そして、保全庫で見つかった円盤が、かつて中央にあったものなのかも確定していない。
仮に同じものだったとしても、円盤の有無が発光に影響したかどうかを判断するには、まだ証拠が足りなかった。
「……まずは、記録からわかることを一つずつ確かめるしかないのね」
セレネが言うと、ミラは頷いた。
「はい。それと、今回の図面が実際の施工にどこまで反映されたのかも、調べる必要があります」
ヴァルトは資料へ目を向けた。
「百八十年前の施工後の記録ですね」
「ええ。現在の支持石が、あの改修で設置されたものなのかも、まだわかっていませんから」
ミラは答えた。
リゼットは頷いた。
「完成後の図面が残っているなら、ぜひ確認したいですね。ただし、見つかるまでは現在の安全評価を優先して進めます」
その方針は、昨日と変わらなかった。
*
管理室を出た二人は、中央広場へ向かった。
朝、掲示板の横に置かれていた時計は、台座へ固定されていた。近くには試験運用中であることを知らせる案内が貼られ、何人かの商人が時刻を確かめている。
セレネは足を止めた。
時計の前では、荷車を引いた男性が職員へ何かを尋ねていた。職員は時計の時刻合わせについて説明し、男性は礼を言ってから通りへ戻っていく。
「……設置されたのね」
セレネが呟いた。
ミラも隣に立った。
「昨日の提案ですね」
「ええ。今は試験的なものみたいだけれど、少しは役に立っているのかしら」
二人はしばらく時計を眺めた。
鐘の音が戻ったわけではない。通行規制も続いており、鐘楼の安全が確保されたわけでもなかった。
それでも、今できることが一つ進んでいた。
「……セレネさん」
ミラが声をかけた。
「何かしら?」
「今日の旧面記録についてですが、記録院では関連資料の確認を続けるそうです」
ミラは手帳を開いた。
「特に、改修後の状態を記録した資料が残されているかどうかを調べることになりました」
「……今の支持石が、いつ設置されたのかを確かめるためね」
「はい。それに、今回見つかった計画が、実際にどのような形で施工されたのかも確認したいです」
セレネは頷いた。
今回見つかった図面には、古い壁面の前に石材を渡す方法が描かれていた。しかし、その計画が採用されたとは限らず、採用されていたとしても、後の補修で形が変わった可能性がある。
「……明日は、その記録を探しましょう」
セレネが言った。
「ええ。まずは、同じ資料群の中に施工後の記録が含まれているかを確認したいと思います」
二人は広場をあとにした。
*
夕方、記録院へ戻った二人は、今日確認した資料を整理した。
ミラは旧面記録と考えられる資料の写しを封筒へ収め、管理番号と来歴に関する注意事項を添えた。現存する紙が原本なのか写しなのか未確認であることも、記録の冒頭に明記している。
セレネはその隣で、現在の実測図と古い図面を見比べていた。
百八十年前の状態を伝える図面には、三本の刻線が中央の異材と接していない形が描かれている。そして、そのことを説明する文章も残されていた。
しかし、現在の壁面では、欠月と満月の刻線が中央の手前で見えなくなり、半月側は支持石に隠れている。
両者を完全に比較できるわけではなかった。
「……ミラ」
セレネは顔を上げた。
「はい?」
「今までは、見えなくなっている線の先を探せば、何かわかると思っていたわ」
「……ええ」
セレネは古い図面を見つめた。
「でも、今回の記録では、線が中央に接していないと書かれていた。なら、見えない部分に、最初から線がなかった可能性もあるのね」
ミラは少し考えた。
「そうですね。ただ、百八十年前に隙間が存在したとしても、古代に造られたときから同じだったとは限りません」
セレネは頷いた。
「……それは、まだわからないわね」
ミラは古い図面の隅を指さした。
「それに、今回の資料は改修前の状態を伝えるためのものです。刻線の細かな形を記録しようとしていたのか、それとも施工上の注意事項を示すためだったのか。そこも考えなければなりません」
セレネは静かに頷いた。
図面に描かれているからといって、そのすべてが正確とは限らない。
文章が添えられていても、何を重要と考えて記録したのかは、作成者によって異なるはずだった。
「……まずは、施工後の記録ね」
セレネが言うと、ミラは頷いた。
「はい。今回の図面に描かれた構造が、改修後にどうなったのかを確認しましょう」
二人は資料を片づけ、閲覧室をあとにした。
*
その夜、セレネは宿の机に旧面記録の写しを広げていた。
中央には、黒く描かれた円がある。その周囲には三つの月相を示す区画が配置され、細い線が中央へ向かって伸びていた。
しかし、線は中央の円に接していない。
図面の上では、その間に小さな空白が残されている。
セレネはしばらく、その部分を見つめていた。
これまでは、線が途中で見えなくなっている状態を、不完全なものだと考えていた。しかし、今回の記録は、それとは異なる可能性を示している。
中央と刻線の間には、百八十年前の時点で距離があったと記録されている。
その隙間が、元から存在していたものなのかはわからない。
長い年月の中で生まれたものだった可能性もある。
それでも、当時の人々が中央と刻線の接していない状態を認識し、記録していたことには意味があるように思えた。
セレネは隣に、保全庫の円盤の見取り図を置いた。
三つの切り込みを持つ、黒い円盤。
その一組の角度は、鐘楼地下に残る二本の刻線と近かった。しかし、三本目の対応は未確認であり、円盤がかつて中央に収められていたものなのかも、まだ証明されていない。
仮に中央にあったとしても、周囲の刻線と直接接していたとは限らない。
それがどのような構造だったのか、今ある資料だけでは判断できなかった。
セレネは静かに息を吐いた。
繋がっていないように見えるものを、繋がっていると考えてきた。
しかし、最初から距離を置くように造られた可能性もある。何かを繋ぐためではなく、離しておくために設けられた隙間だったのかもしれない。
もちろん、そこまで考えるには、まだ証拠が足りなかった。
セレネは筆を取り、今日の調査記録を開いた。
『百八十年前の旧面記録に対応すると考えられる資料を確認。現存資料の原本・写しの別は未確定。』
『中央異材と三方の細線が接していない旨の記述あり。』
『旧面の細隙を施工時に埋めないよう指示した記録あり。ただし、細隙の位置は特定できず。』
『古代の原形および発光現象との関係は未確認。』
四つの事項を書き終え、セレネは筆を置いた。
窓の外では、薄い雲が流れている。雲の切れ間から覗く月の光が、机の上の古い図面を淡く照らしていた。
大鐘楼は、今夜も沈黙している。
地下の鉄扉は閉ざされたままであり、その奥に何が残されているのかは、まだわからない。半月の刻印が光った理由も、中央の異材が何のために存在していたのかも、解明されてはいなかった。
それでも、今日見つかった資料によって、現在の壁面に対する見方が少し変わった。
見えないものを、失われたものだと決めつけることはできない。
繋がっていないことも、必ずしも壊れていることを意味しない。
セレネは図面へ視線を戻した。
三つの線と、中央の円。
その間に描かれた、小さな隙間。
なぜ百八十年前の記録には、その距離が書き残されていたのだろう。
単に古い形状を記録しただけなのか。
保存上の理由があったのか。
それとも、さらに古い時代から受け継がれた、別の事情が存在したのか。
今は、どの可能性も確かめられていない。
セレネは資料を丁寧に重ねた。
明日は、改修後の記録を確認することになる。今日見つかった図面が、実際の施工にどこまで反映されたのかを確かめるためだった。
そこに必要な情報が残されているとは限らない。しかし、少なくとも今は、何を探すべきなのかが以前より明確になっている。
セレネは最後に、改修前の図面をもう一度開いた。
中央の円と三本の刻線。
その間に残された、わずかな空白。
百八十年前の施工を終えたとき、その隙間は本当に残されていたのだろうか。
そして、残されていたのなら。
それは、誰が、何を理由に下した判断だったのだろうか。