月は、失われた名を憶えている   作:ノイリ

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第21話 百八十年前の震え

大鐘楼の鐘が止まってから、十日目の朝を迎えた。灰鐘市の中央広場では、掲示板の横に設置された時計の前に、数人の通行人が集まっていた。昨日から試験的に使われ始めた時計は、木製の台座に取り付けられた簡素なものだったが、人々はそこに足を止め、時刻を確かめてからそれぞれの目的地へ向かっている。

 

鐘の音が聞こえなくなってから、街には少しずつ新しい習慣が生まれていた。時刻を確かめるために時計を持ち歩く人も増え、商人たちは荷車を止める時間を以前より細かく気にするようになっている。セレネも時計の前で立ち止まった。

 

管理部門の職員が時刻の確認を行っており、掲示板には試験運用中であることを知らせる紙が貼られている。鐘楼の周囲では通行規制が続いていたが、時計の設置によって、少なくとも広場を通る人々には時刻を確かめる手段ができた。

 

「……あら」

 

不意に、聞き覚えのある声がした。振り返ると、少し離れたところにエマとニナが立っていた。エマの手には小さな買い物籠があり、ニナは掲示板の時計を見上げている。

 

「おはよう、二人とも」

 

セレネが声をかけると、ニナが顔を輝かせた。

 

「セレネお姉ちゃん!」

「おはようございます」

 

エマも丁寧に頭を下げた。二人は市場へ向かう途中らしかった。ニナの手には小さな紙片が握られ、そこには買い物の品目がいくつか書かれている。

 

「今日はお買い物?」

 

セレネが尋ねた。

 

「うん。お母さんと一緒に、夕ご飯の材料を買いに行くの」

 

ニナは嬉しそうに答えた。

 

「昨日、お母さんが何を食べたいか聞いてくれたんだ」

「そうなのね」

 

セレネはエマを見た。エマは少し照れたように微笑んだ。

 

「昔、何を作っていたのかは、まだ思い出せません。でも、この子の好きなものなら、もう一度覚えていけると思って」

 

ニナは母親の袖を握った。

 

「今日は、一緒に作るんだよ」

「ええ。教えてもらいながらね」

 

エマは穏やかに頷いた。セレネは二人を見つめた。エマは、娘と過ごした過去の記憶を取り戻したわけではない。ニナが幼かった頃の出来事も、かつて交わした約束も、今は思い出せないままだった。

 

しかし、現在の出来事を覚えることはできる。娘が何を好み、どんな表情で笑うのかを、今のエマは新しく知っていけるのだった。

 

「……楽しみね」

 

セレネが言うと、ニナは大きく頷いた。

 

「うん!」

 

親子は市場へ向かって歩き始めた。セレネは、その後ろ姿をしばらく見送った。失われた記憶が戻らなくても、新しく積み重ねられるものはある。それは希望と呼べるのかもしれないが、失われたものの大きさを小さくする理由にはならなかった。

 

エマが忘れてしまった年月は、確かに存在していたのだから。セレネは大鐘楼へ視線を向けた。鐘楼の調査が進んでも、エマの記憶が戻るとは限らない。そもそも、地下で起きている現象と、人々の記憶が失われることに直接の関係があるのかどうかも、まだ確かめられていなかった。

 

それでも、調べるべきことは残っている。十日前の午前十時十七分に地下の半月の刻印が光ったことと、その後に鐘が止まったことさえ、原因が繋がっているとは確かめられていなかった。セレネは静かに歩き出した。

 

*

 

記録院に到着すると、ミラが閲覧室で書類を整理していた。机には、昨日確認した約百八十年前の旧石面に関する記録の写しが広げられている。その隣には新しい所在確認の結果が置かれ、いくつかの管理番号が赤い印で囲まれていた。

 

「おはよう、ミラ」

「おはようございます、セレネさん。ちょうど連絡が届いたところです」

 

ミラは一枚の書類を差し出した。

 

「昨日お願いしていた、施工後の記録についてです。古い建築図面の保管区画から、関連する可能性のある資料が確認されました」

「……完成後の図面?」

「それを含む可能性がある資料群です。詳しい内容は、原本の状態を確認してからでないとわかりません」

 

セレネは書類を受け取った。そこには、昨日の旧石面に関する記録と同じ工事番号が記されている。ただし、末尾には別の記号が加えられていた。

 

「……この番号は?」

「工事の完成確認に関係する区分のようです」

 

ミラは古い索引を開いた。

 

「施工前の記録と施工後の記録は、別々に管理されていたようなんです。現在は同じ建築資料の区画に移されていますが、整理された時期が違うため、昨日の段階では見つけられませんでした」

 

セレネは頷いた。昨日確認した資料には、改修前の石壁の状態を伝える記述が残されていた。中央の異材と三方の刻線が接していないという説明に加え、古い石面に直接荷重をかけないための施工方法も示されている。

 

しかし、そこに描かれた石材の一部は、施工予定のものだった。実際にそのとおり工事が行われたかどうかは、完成後の記録を確認しなければわからない。

 

「……閲覧できるの?」

 

セレネが尋ねた。

 

「はい。保存担当の方が状態を確認してくださっています。午前中には、閲覧可能なものから見せていただけるそうです」

 

ミラは机の上の資料を重ねた。

 

「ただし、完成確認の記録が見つかったとしても、すべての施工内容が詳しく残されているとは限りません」

「ええ。それはわかっているわ」

 

セレネは頷いた。二人は昨日の図面を改めて広げ、確認すべき箇所を整理した。

 

中央異材と三方の刻線の間に記録された隙間。半月側の刻線を覆う現在の支持石。そして、旧石面に直接荷重をかけないよう指示されていた施工方法。今日の資料で、それらが改修後にどのような状態になったのかを確かめられるかもしれなかった。

 

*

 

午前の半ば、保存担当の職員が閲覧室へ入ってきた。手には、薄い板に挟まれた古い書類が数枚ある。昨日と同じように透明な覆いが掛けられ、紙の端には細かな破損が見られた。

 

「お待たせしました」

 

職員は机へ資料を置いた。

 

「今回確認できたのは、完成後の検査に関する記録と、その際に添えられたと考えられる図面です。現存する紙がすべて当時の原本であるとは確認されていませんので、その点にはご注意ください」

 

ミラは頷いた。

 

「承知しています。まず、管理番号を確認させてください」

 

二人は工事番号と記載された年代を照合した。昨日の旧石面に関する記録と、今日の完成確認資料には、同じ工事を示す番号が記されている。日付の順序にも食い違いはなく、完成確認の記録には、昨日見つかった施工指示を参照する記述も残されていた。

 

「……同じ工事に関係する資料と考えてよさそうですね」

 

ミラが言った。

 

「はい。ただし、後の時代に整理や転記が行われた可能性は残ります」

 

職員は慎重に答えた。セレネは最初の図面へ目を向けた。そこには、地下北側の石壁と、その前に設置された石材の配置が描かれている。

 

「……これが、完成後の形なのかしら」

 

ミラは図面の上部を確認した。

 

『地下北側基礎 施工完了時配置』

 

その下には、施工前の計画から変更された箇所を示す記号が添えられていた。

 

「……完成時の配置として記録された図面ですね」

 

ミラが答えた。セレネは昨日の旧石面に関する記録を隣へ置いた。二枚を見比べると、中央の円形部分と鉄扉の位置は共通していた。しかし、その前に設けられた石材の配置には、わずかな違いがあった。

 

「……石の位置が変わっている?」

 

セレネが呟いた。ミラは図面を見つめた。

 

「……ええ。計画時の位置から、少しずらされていますね」

 

昨日の図面では、古い壁面の前に補強用の石材を渡す構成が描かれていた。一方、完成時の配置図では、その石材の位置が変更され、両端を支える新しい石積みの形も調整されている。ミラは図面の注記を確認した。

 

『旧面との離隔を確保するため、前渡し材の位置を改む。』

 

セレネは静かに読み上げた。

 

「……古い石面との距離を確保するため?」

 

ミラは頷いた。

 

「そう書かれています」

 

二人は続きを確認した。

 

『荷重は両側の新積石に受けさせ、旧面への直接の接触を避けること。』

 

それは、昨日見つかった施工指示と一致する内容だった。

 

「……計画だけではなく、完成時の記録にも同じ方針が残されていたのね」

 

セレネが言うと、ミラは頷いた。

 

「はい。ただし、記録どおりに施工されたとしても、その状態が現在まで保たれているとは限りません」

 

セレネは図面を見つめた。百八十年前の施工者たちは、古い石面と新しい支持材が直接触れないよう、当初の配置を変更したと記録していた。古い構造をどのように残すかについて、施工中に判断が行われていたらしい。ただし、その理由が保存上の配慮だけだったのかは不明だった。

 

*

 

ミラは完成時の配置図と、現在の鐘楼地下の測量図を並べた。古い図面には、半月側の刻線の前を横切る石材が描かれている。現在の支持石も、それに近い位置に存在していた。しかし、輪郭の描き方や寸法には違いがあり、完全に一致しているわけではない。

 

「……今の支持石は、この工事で設置されたものなのかしら」

 

セレネが尋ねた。

 

「可能性はあります。でも、その後の補修で交換されたのかもしれませんし、図面の精度にも限界があります」

 

ミラは現在の測量図を指さした。

 

「オルフェンさんの証言からわかるのは、三十四年前には現在の支持石に相当するものが既に存在していたということまでです」

「……百八十年間、同じ石が残っているとは限らないのね」

「はい」

 

セレネは頷いた。二つの図面の間には、長い年月が横たわっている。どれほど丁寧に記録されていても、その間に行われたすべての補修や変化を、一枚の図面から知ることはできなかった。

 

「……でも、少なくとも当時の工事では、古い石面へ直接力をかけないようにしていたのね」

 

セレネが言った。

 

「ええ。それについては、施工前と完成時の記録が同じ方針を示しています」

 

ミラは完成確認の記録を開いた。そこには、工事を終えたあとに確認された事項が列挙されている。新しい石積みの状態、上部の構造との接続、地下通路の通行可能な範囲、そして旧石面の保存状況についての記述だった。セレネは最後の項目へ目を留めた。

 

『旧面との離隔、確認。』

 

短い一文だった。

 

「……工事が終わったあとにも、距離を確かめたのね」

 

ミラは頷いた。

 

「そう記録されています。ただ、どの位置で、どのような方法を使って確認したのかまでは書かれていません」

 

セレネは図面の中央へ目を向けた。古い壁面の前に渡された石材。その両端を受ける新しい石積み。そして、旧石面との直接接触を避けるために残された距離。

 

少なくとも完成確認の記録では、その構成が確保されたとされていた。しかし、現在も同じ状態なのかどうかは、まだわからない。

 

「……リゼットさんに伝えた方がよさそうね」

 

セレネが言った。

 

「ええ。ただ、先に残りの記録も確認しましょう」

 

ミラは次の紙へ目を移した。

 

*

 

完成確認の資料には、施工後の点検記録も含まれていた。工事を終えてから一定の期間を置き、石材の状態を確認したものらしい。複数の日付が並び、石積みの変形や目地の損傷について、簡単な所見が残されている。ミラは最初の項目を読み上げた。

 

「新積石、著しい変形なし。旧面周辺、施工に伴う損傷を認めず……」

 

セレネは頷いた。少なくとも、その点検記録では、工事直後に大きな問題が確認されたとは記されていない。もっとも、実際にどの範囲まで点検したのかは不明だった。二人は次の項目へ目を移した。

 

そこには、別の日付で追加された短い文章があった。

 

『北側旧面に、断続する細かな震えを認む。』

 

ミラの筆が止まった。

 

「……震え?」

 

セレネも顔を上げた。ミラは続きの文章を確認した。

 

『鐘具停止の間にも生ず。』

 

しばらく、二人は何も言わなかった。百八十年前の完成後点検を伝える資料に、地下北側の旧石面で細かな震えが観察されたという記述が残されていた。しかも、鐘具が作動していない間にも生じていたという。

 

「……ミラ」

 

セレネの声が低くなった。

 

「ええ。もう一度、文字を確認します」

 

ミラは紙面へ顔を近づけた。

 

「『北側旧面に、断続する細かな震えを認む』……その次が、『鐘具停止の間にも生ず』」

 

彼女は顔を上げた。

 

「読み方に、大きな間違いはないと思います」

 

セレネは記録を見つめた。三十四年前、オルフェンは補修作業中に、鐘が動いていないときにも壁面に弱い振動があったと証言している。十七年前の非公式な作業メモにも、円形部材を搬出する前に微振動が確認されたという記述が残されていた。そして現在も、地下通路で短い振動が観察されている。

 

百八十年前の記録にある「震え」は、それらと似ていた。しかし、似ているというだけで同じ現象だとは言えなかった。十七年前の記録は非公式な作業メモであり、作成者も正式な点検との対応も確認されていない。

 

「……そんなに昔から、同じことが起きていたのかしら」

 

セレネが呟いた。ミラは首を横に振った。

 

「そこは、まだわかりません。『北側旧面』が、現在の刻印周辺と同じ位置を指すのかも確認できていません」

 

彼女は記録の一文を示した。

 

「それに、鐘具が作動していなかったことと、外部から振動が伝わらなかったことは別です」

「……地上の荷車や、ほかの作業による振動だった可能性もあるのね」

「はい。古い記録には、そこまで調べたかどうかが書かれていません」

 

セレネは頷いた。先日の地下測量でも、地上を通過した荷車が微振動の原因だった可能性が報告されていた。しかし、実際に荷車の振動が地下へ伝わったのかどうかは、確認できていない。百八十年前の記録についても、同じように慎重に考える必要があった。

 

「……でも、重要な記述であることは変わらないわね」

 

セレネが言うと、ミラは頷いた。

 

「はい。少なくとも、百八十年前の完成後点検を伝える資料に、鐘具の非作動時にも旧石面の震えを観察したという記述が存在することは確認できました」

 

ミラは記録の続きを調べた。その末尾には、さらに短い一文が残されていた。

 

『原因、定まらず。』

 

セレネは、その文字を見つめた。当時の点検記録では、震えの原因は特定されていない。しかし、記録を残した人々が何を調べ、どこまで確かめたのかまでは、今の資料から知ることができなかった。

 

*

 

ミラは点検記録の日付を確認した。施工前の調査、支持材の位置変更、完成時の確認、そして完成後の点検。それぞれの記録は、工事の進行に沿った順序で並んでいる。

 

「……セレネさん。一つ、確認しておきたいことがあります」

 

ミラは顔を上げた。

 

「何かしら?」

「この震えについての記述は、施工後の点検に残されています。少なくとも、工事の配置変更より後の記録です」

 

セレネは少し考えた。

 

「……なら、支持材の位置を変えた理由が、この震えだったとは限らないのね」

「はい。位置変更の理由として書かれているのは、旧石面との距離を確保することです」

 

ミラは二つの資料を並べた。古い石面に直接接触しないよう支持材の位置を変更したこと。そして、その工事が終わったあとの点検で、旧石面の震えが記録されていること。

 

二つは同じ工事に関係する資料に残されている。しかし、それだけで原因と結果として結びつけることはできなかった。

 

「……それでも、両方ともリゼットさんに伝えるべきね」

 

セレネが言った。

 

「ええ。現在の安全評価でも、過去の施工方法と微振動の記録を別々に確認しておく価値はあると思います」

 

ミラは保存担当の職員へ、該当する資料の写しを申請した。セレネはその間に、古い完成時の図面をもう一度見つめた。百八十年前の施工者たちは、旧石面との距離を保つために石材の配置を変更したと記録している。そして完成後には、その距離が確保されていることを確認したとされていた。

 

しかし、その後の点検には微振動の記述が残されている。距離を保つための施工と、旧石面の震え。この二つの間にどのような関係があったのかは、まだわからなかった。

 

*

 

午後、セレネとミラは大鐘楼の管理室を訪れた。ヴァルトはリゼットとともに、地下の安全評価に関する書類を確認していた。机にはこれまでの保全計画が広げられ、新しい支持材の設置方法について、複数の案が残されている。

 

「お二人とも。何か見つかったんですか?」

 

ヴァルトが尋ねた。

 

「はい。百八十年前の完成時の記録です」

 

ミラは写しを机へ置いた。リゼットは資料を受け取り、最初に完成時の配置図へ目を向けた。

 

「……施工前の計画から、位置が変わっていますね」

 

彼女は昨日の図面を隣へ並べた。

 

「はい。旧石面との距離を確保するため、前渡し材の位置を変更したという記述がありました」

 

ミラが答える。

 

「完成時にも、旧面との離隔を確認したと記録されています。ただし、その具体的な測定方法は不明です」

「……なるほど」

 

リゼットは現在の測量図へ視線を移した。半月側の刻線を覆う支持石は、古い完成図に描かれた石材と近い位置にある。しかし、図面の精度やその後の補修履歴を考えると、現在の支持石が当時のものだと断定することはできなかった。

 

「……仮に同じ石材だったとしても、現在まで同じ状態が保たれているとは限りませんね」

 

リゼットが言った。セレネは頷いた。

 

「ええ。百八十年も経っているもの」

 

リゼットは図面の中央を指さした。

 

「長い年月の中で、石材が沈んだり、周囲の目地が傷んだりしていれば、荷重の伝わり方も変化している可能性があります」

 

ヴァルトは顔を上げた。

 

「……それが、現在の地下の振動と関係している可能性もあるのでしょうか」

 

リゼットは少し考えた。

 

「否定はできません。ただし、今の段階では根拠が足りません」

 

彼女は続けた。

 

「現在の振動については、地上の荷車による影響も考えられています。石材の状態だけで説明できるのか、それ以外の要因があるのかは、改めて調べる必要があります」

 

ミラは次の資料を差し出した。

 

「……それについて、もう一つ確認していただきたいものがあります」

 

リゼットは紙を受け取った。百八十年前の完成後点検を伝える記録。そこには、鐘具が作動していない間にも旧石面で微振動が観察されたという記述が残されていた。読み進めるにつれて、リゼットの表情が変わった。

 

「……これは」

 

ヴァルトも顔を近づけた。

 

「百八十年前にも、鐘具を動かしていない間に震えが?」

 

ミラは頷いた。

 

「はい。ただし、当時の鐘の運用状況がすべてわかるわけではありません。また、今回の記録だけでは、観測した具体的な位置も特定できません」

 

リゼットは慎重に資料を確認した。

 

「……古い建物では、鐘具が作動していなくても外部からの振動が伝わることがあります。その点だけを見れば、不自然とは言い切れません」

 

彼女は続けた。

 

「しかし、地下北側という共通する範囲で、異なる時代に似た記述が残されていることは重要です。ただし、観測した壁面の位置まで一致しているかは、まだ確認できていません」

 

ヴァルトは腕を組んだ。

 

「三十四年前にも、オルフェンが微振動を感じたと話していましたね」

「ええ。十七年前の非公式な作業メモにも、似た記述があります」

 

ミラが答えた。彼女は資料を机へ並べた。百八十年前の完成後点検では、北側旧面の震えが記録されている。三十四年前には、補修作業中のオルフェンが鐘具の非作動時に壁面の微振動を感じたと証言していた。

 

十七年前の非公式な作業メモには、円形部材の搬出前に断続的な微振動が確認され、搬出後、同日の再確認では認められなかったと書かれている。ただし、振動が観測されなかった理由まで特定されたわけではなく、ほかの時代の記録とも同じ条件では比較できなかった。

 

「……三十四年前の予定外の鳴動についても、整理しておいた方がよさそうですね」

 

リゼットが言った。ミラは頷いた。

 

「はい。古い管理記録には、定時外の鳴動が複数回確認されたという記述があります。ただ、その複数回が同じ日に集中していたのか、異なる日に発生したのかは、まだ十分に照合できていません」

 

ミラは手帳を開き、調査済みの一件を示した。

 

「これまでに月相を確認したのは、三十四年前の補修前日に報告された鳴動の日付です。その日は満月に分類されています」

「……ほかの鳴動も満月だったと判断することは、まだできないのね」

 

セレネが尋ねた。

 

「はい。そう判断できる資料は、まだありません」

 

ミラは別の日付を示した。

 

「それから、オルフェンさんが微振動を体感したのは、補修当日です。異常鳴動が報告された前日とは区別する必要があります」

 

ヴァルトは頷いた。

 

「……鳴動と微振動を、同じ日の出来事として扱ってはいけないということですね」

「はい。さらに、それぞれの記録が示す場所と観測条件も確認する必要があります」

 

ミラは答えた。リゼットは資料を見比べた。

 

「十七年前のメモについても、作成者と正式記録との対応は未確認でしたね」

「ええ。正式な保全点検の日付が欠月だったことは確認していますが、非公式なメモに記された作業が、その日に行われたと証明されたわけではありません」

 

ミラは答えた。リゼットは静かに頷いた。

 

「それなら、過去の記録を一つの連続した現象として扱うのは、まだ早いでしょう」

 

彼女は少し間を置いた。

 

「ただし、現在の調査で比較するための資料としては残しておきます。過去の類似記録があるからといって、原因まで同じだとは決めつけないようにしましょう」

 

ヴァルトも頷いた。

 

「……原因を決めるためではなく、確かめるための資料にするわけですね」

「ええ」

 

リゼットは保全計画の余白に、新しい確認事項を書き加えた。

 

*

 

「……今後の調査方法について、一つ提案があります」

 

リゼットが言った。セレネとミラは顔を上げた。

 

「地下への再立ち入りが認められるまでの間、地上側で確認できる振動を記録したいと思います」

「……地上から?」

 

セレネが尋ねる。

 

「ええ。通行規制の範囲内で、安全に立ち入れる場所に限ります」

 

リゼットは中央広場の配置図を広げた。

 

「鐘楼の外側と、立ち入りが認められている管理区画で振動を測定します。荷車が通った時刻や、周囲で大きな物音がした時刻も併せて記録するつもりです」

 

ヴァルトは頷いた。

 

「それなら、地下へ入らずに進められそうですね」

 

リゼットは続けた。

 

「ただし、地上で測定された振動が地下の旧石面にどの程度伝わったのかは、それだけではわかりません。反対に、地上で目立った振動が確認されなくても、地下で振動が生じていなかった証明にはなりません」

 

セレネは少し考えた。

 

「……でも、荷車の通行と地上の振動の関係なら確かめられるのね」

「ええ。少なくとも、地上側で実際にどのような振動が発生しているかは記録できます」

 

リゼットは頷いた。

 

「地下の現象をそれだけで説明することはできませんが、原因を検討するうえで必要な情報になるでしょう」

 

ミラは手帳を開いた。

 

「測定時刻も、正確に記録する必要がありますね」

「はい。通行記録と比較できるようにします」

 

リゼットは保全計画へ、新しい調査項目を書き加えた。地上側での非破壊の振動測定。通行状況と測定時刻の記録。そして、地下への立ち入り制限を継続したまま、安全評価を進めること。

 

セレネはその内容を確認した。百八十年前の記録に残された震えの原因を、現在の測定だけで知ることはできないだろう。しかし、今の鐘楼で何が起きているのかを調べる方法は、一つ増えた。

 

「……準備は、いつから始めるの?」

 

セレネが尋ねた。

 

「管理部門と測定位置を確認してからです。安全上問題のない場所を選び、測定方法も決める必要があります」

 

リゼットは答えた。

 

「結果を急いで、別の問題を起こすわけにはいきませんから」

「……そうね」

 

セレネは頷いた。過去の記録を見つけたことで、現在の調査にも新しい選択肢が生まれた。それは答えが近づいたことを意味するわけではないが、確かめられることが増えるのは確かな前進だった。

 

*

 

管理室を出たあと、セレネとミラは中央広場を歩いた。掲示板の横では、試験運用中の時計を通行人が見上げている。大鐘楼の上部は静かなままで、いつもの鐘の音が響く気配はなかった。

 

「……ミラ」

 

セレネが声をかけた。

 

「はい?」

「百八十年前にも、鐘具が作動していないときに震えがあったと記録されていたのね」

 

ミラは頷いた。

 

「ええ。ただ、今の鐘のように長期間運用を止めていたという意味ではありません。少なくとも、資料にはそこまで書かれていませんから」

 

セレネは歩きながら考えた。百八十年前の完成後点検、三十四年前の補修作業、十七年前の部材搬出に関係する記録。それぞれに微振動の記述があるものの、建物の状態も観測条件も異なっている。似た言葉で記録されていることと、同じ原因だったことは別だった。

 

「……ずっと同じ原因だったのかしら」

 

セレネが呟いた。ミラは首を横に振った。

 

「わかりません。むしろ、同じ原因だと考える前に、それぞれの条件を整理する必要があります」

 

彼女は手帳を取り出した。

 

「百八十年前は完成後の点検。三十四年前は補修作業中。十七年前は部材搬出前。そして現在は、異常音が確認されたあとの調査中です」

 

ミラは続けた。

 

「同じ場所で観測されたことすら、すべての記録で確定しているわけではありません。似た記述があることと、同じ現象であることは別です」

 

セレネは頷いた。

 

「……そうね」

 

二人はしばらく無言で歩いた。やがて、セレネが足を止めた。

 

「……もう一つ、調べ残していることがあったわね」

 

ミラが顔を上げた。

 

「何でしょうか?」

 

セレネは大鐘楼へ目を向けた。

 

「灰鐘市に来たばかりの頃、予定外の鐘の音が何度も聞こえたでしょう」

 

ミラは少し考えたあと、頷いた。

 

「……最初の日と、その翌日の記録ですね」

 

セレネは頷いた。灰鐘市に到着した日のことを、彼女は覚えていた。通常の鐘が鳴ったあと、次の定時を迎える前に再び鐘が響いた。さらに、滞在二日目には、日中にも定時外の鐘音を聞いている。

 

そして、その夜。部屋の時計が午後九時を少し過ぎた頃、再び鐘に似た音が響いたのだった。

 

「……あの夜だけじゃなかったわね」

 

セレネが呟いた。

 

「はい。少なくとも、最初の日の一件と、翌日の日中、それから夜の一件は区別しておく必要があります」

 

ミラは手帳を開いた。

 

「日中の出来事については、正確な時刻まで確認できていたかを調べ直す必要があります。それでも、出来事が複数回あったこと自体は、記録に残っています」

「……初日と二日目で、月相の記録が違う可能性もあるのね」

「はい。ただし、二日目の日中と夜は同じ暦日です。時刻の異なる二件として整理しますが、暦上の月相は同じ日付に対応させなければなりません」

 

セレネは大鐘楼を見上げた。以前、二人は過去の異常記録と月相を照合していた。

 

三十四年前の補修前日に報告された鳴動日は満月。十七年前の正式な保全点検日は欠月。そして、現在の地下で半月の刻印が発光した日は半月だった。しかし、異なる時代の異なる出来事を並べただけで、月相と異常現象の関係が証明されたわけではない。

 

「……私たち自身が聞いた音についても、同じように調べるべきね」

 

セレネが言った。ミラは頷いた。

 

「はい。まずは当時の手帳を確認しましょう。セレネさんは、滞在二日目の日付を記していましたよね」

「ええ。夜に音を聞いたときも、時計を確かめたわ」

 

セレネは答えた。

 

「ただ、そのとき月の状態までは調べていなかったと思うの」

「なら、記録された日付と、天象記録を照合しましょう」

 

ミラは手帳を閉じた。

 

「最初の日の音、二日目の日中の音、同じ日の夜の音。それぞれについて時刻の確かさを分け、月相は日付ごとに照合します」

「……三つとも、別の出来事として扱うのね」

「はい。同じ原因で起きたかどうかも、まだわかりませんから」

 

セレネは頷いた。以前は、予定外に鐘が鳴ることを、一つの異常として考えていた。しかし、複数の出来事をまとめてしまえば、それぞれの違いが見えなくなるかもしれない。

 

「……今夜、最初の日からの手帳を確かめるわ。日中の記録と、夜に覚えていることを混同しないようにしたいの」

 

セレネが言うと、ミラは頷いた。

 

「はい。私は月相の照合に必要な日付を整理しておきます」

 

*

 

夕方、記録院へ戻った二人は、今日確認した資料を整理した。ミラは百八十年前の完成時の配置図と、その後の点検記録を別々の封筒に収めた。工事の予定と、完成したと記録されている状態を混同しないためだった。

 

「……これで、今日の資料は一通り整理できましたね」

 

ミラが言った。

 

「ええ。思っていたよりも、いろいろなことがわかったわ」

 

セレネは机の上の図面へ目を向けた。昨日までに確認した資料には、改修前の状態として、中央異材と三方の刻線が接していないという記述があった。今日の完成時の記録には、旧石面との距離を確保するために支持材の位置を変更したと書かれている。さらに完成後の点検資料からは、鐘具が作動していない間にも地下北側の旧石面で微振動が観察されたという記述が見つかった。

 

三つの情報は、同じ改修工事に関係していた。しかし、それらが一つの理由によって繋がっているとは限らなかった。

 

「……ミラ」

 

セレネは顔を上げた。

 

「はい?」

「百八十年前の人たちは、何を守ろうとしていたのかしら」

 

ミラは少し考えた。

 

「古い構造を保存しようとしたのかもしれません。でも、石材に直接荷重をかけないようにした理由が、保存だけだったとは限りません」

「……構造上の問題があった可能性もあるのね」

「はい。ただ、今回の記録ではそこまで判断できません」

 

セレネは頷いた。古い構造を残すための工事と、そのあとに記録された微振動。二つの間に何らかの関係があったとしても、現在残されている資料からそれを確かめることはできなかった。

 

「……今のリゼットさんたちも、似た問題に向き合っているのかもしれないわね」

 

セレネが言った。ミラは少し考えてから答えた。

 

「そうかもしれません。でも、百八十年前と現在では、建物の状態も調査方法も違います。過去の判断を、そのまま繰り返す必要はありません」

 

ミラは机の上の資料を重ねた。

 

「むしろ、当時何が確認され、何がわからなかったのかを知ることが大切なんだと思います」

 

セレネは静かに頷いた。

 

「……そうね」

 

ミラは次に調べる項目を書き留めた。百八十年前の微振動に関する追加記録の有無。現在の地上側で予定されている振動測定の結果。そして、灰鐘市に到着してから聞いた複数の定時外鳴動について、記録日時と月相の照合。

 

その下には、二つの項目を加えた。三十四年前の管理記録にある複数回の異常鳴動について、発生日を個別に確認すること。そして、二十六年前の記憶欠落と公共施設の運用を照合した調査について、実際の結果が残っているかを確かめること。

 

「……少し、調べることが増えましたね」

 

ミラが言うと、セレネは微かに笑った。

 

「ええ。でも、何を確かめるべきなのかは、前よりはっきりしてきたわ」

 

二人は資料を保管し、閲覧室をあとにした。

 

*

 

その夜、セレネは宿の机に百八十年前の完成時の記録の写しを広げていた。古い石壁の前に渡された支持材。その両端を受ける新しい石積み。そして、旧石面との間に確保されたと記録されている距離。

 

図面には、施工前の計画から変更された部分が示されていた。古い壁面へ直接荷重をかけないために、石材の配置を調整したと読める。セレネはその隣に、完成後の点検記録の写しを置いた。

 

『北側旧面に、断続する細かな震えを認む。』

 

『鐘具停止の間にも生ず。』

 

『原因、定まらず。』

 

三つの短い文章だった。百八十年前の点検を伝える資料には、地下北側の旧石面で細かな震えが観察され、原因を特定できなかったと記されている。しかし、それ以上の調査が行われたのかどうかは、今もわからない。セレネは筆を取り、今日の調査記録を開いた。

 

『百八十年前の施工完了時配置図を確認。旧石面との離隔を確保するため、前渡し材の位置を変更した旨の記録あり。』

 

『完成時に旧面との離隔を確認した旨の記載あり。ただし、測定方法と現在までの維持状況は不明。』

 

『完成後の点検資料に、鐘具の非作動時にも北側旧面で断続する微振動を観察したとの記述あり。原因は当時も未確定。』

 

『資料の原本性・転記の有無、震えの具体的な観測位置、および過去・現在の微振動との同一性は未確認。』

 

セレネは筆を置いた。記録の上では、百八十年前にも原因のわからない震えがあった。そして現在の鐘楼でも、理由のわからない現象が起きている。しかし、その二つの間には長い年月があり、同じ現象だと判断できるだけの情報は揃っていなかった。

 

窓の外には薄い雲が流れ、大鐘楼は今夜も時刻を告げることなく沈黙している。地下の鉄扉は閉ざされたままだ。その右側には三つの月相を刻んだ古い壁面が残され、保全庫には壁面の円形部分と関係するかもしれない円盤が収められている。形状に似た部分はあっても、同じ機構の部品だという証拠はない。

 

どのような仕組みだったのかは、まだわからない。セレネは点検記録を重ね、黒い手帳を取り出した。灰鐘市に到着した日から使っている手帳だった。

 

最初のページには、街へ来た日付と、その日に起きた出来事が記されている。記録を辿ると、通常の鐘が鳴ったあと、次の定時を迎える前に再び音が響いたことが書き留められていた。セレネはページをめくった。次の日の記録には、ミラと出会った記録院で聞いた、日中の定時外鳴動についての記述がある。

 

さらに、同じ日の夜にも鐘に似た音を聞いている。宿の時計は、午後九時を少し過ぎたところだった。セレネは該当するページを確かめた。しかし、今開いている手帳には、その夜の音を何時何分に聞いたかを明記した記述が見当たらない。

 

時計を見たことは覚えている。けれど、それは今の自分が思い出している時刻であって、当時の筆記記録ではなかった。

 

「……ここは、分けて書かないと」

 

セレネは新しい調査用紙を引き寄せ、三つの出来事を別々に書き留めた。

 

『滞在一日目。次の定時前に予定外の鐘音を確認。詳細時刻は要確認。』

 

『滞在二日目、日中。記録院で定時外の鐘音を確認。詳細時刻は要確認。』

 

『滞在二日目、午後九時過ぎ。宿で鐘に似た音を聞いた。時刻は当時見た時計についての記憶に基づく。』

 

その下には、調査の状態を記した。

 

『各記録の日付と天象記録との照合は未実施。二日目の日中と夜は同じ暦日として月相を照合する。』

 

セレネは筆を置いた。三つの出来事は、必ずしも同じ性質のものではない。最初の日と二日目の日中に聞いた鐘音は、定時外に聞こえたものだった。一方、夜の音については、実際に鐘具が動いたかどうかを確認できていない。

 

音が似ていることだけで、すべてを同じ鳴動として扱うことはできなかった。セレネはさらに、三十四年前の記録についての写しを取り出した。その時代にも、定時外の鳴動が複数回確認されている。しかし、それぞれがいつ発生したのか、すべての日付が確定しているわけではなかった。

 

満月だったと確認されているのは、補修前日に報告された鳴動の日付である。その翌日、補修作業中のオルフェンが感じた微振動とは別の出来事だった。セレネは二つの記録を並べた。

 

古いものも、新しいものも、似ているというだけでは繋げられない。いつ、どこで、何を確認したのかを分けなければ、違う出来事まで一つにしてしまう。彼女は静かに息を吐いた。過去の記録を読み進めるうちに、いくつもの出来事が一つの道へ集まっているように思えた。

 

だが、そこに本当に道があるのかは、まだわからない。大鐘楼の地下には、中央へ向かって伸びる三本の刻線が残されている。しかし、百八十年前の記録では、その線は中央の異材と接していなかったとされていた。見た目には、繋がっているように思えるもの。

 

けれど、確かめなければわからないもの。セレネは手帳を閉じ、窓の外へ目を向けた。明日から、現在の振動を地上側で測るための準備が進められる。そして、自分たちが直接聞いた三つの音についても、残された日付をもとに天象記録との照合を進めることになる。

 

どちらの調査でも、すぐに答えが得られるとは限らない。それでも、確かめられることは残っていた。セレネはランタンの灯りを落とした。百八十年前の震えと、現在の鐘楼の異常。

 

その間に本当に繋がりがあるのか。まだ、答えは出ていない。だが、答えがわからないことと、確かめる方法がないことは違う。窓の外で雲が流れ、隠れていた月が静かに姿を現した。

 

セレネはその光を見つめた。遠い過去に残された記録も、自分たちが経験した出来事も、まずは一つずつ確かめなければならない。繋がっていると考えるのは、そのあとでいい。そうして初めて、失われたものへ続く道を、見誤らずに済むのかもしれなかった。

 

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