大鐘楼の鐘が止まってから、十一日目の朝だった。
灰鐘市の中央広場では、掲示板の横に置かれた時計が静かに針を進めていた。荷馬車が石畳を横切り、商人たちが店を開く音が重なる。鐘が鳴らなくなっても、街そのものが眠ってしまったわけではない。
セレネは時計の前で足を止め、時刻を確かめた。針は朝の九時を少し過ぎたところを指している。鐘の音がなくても、一日が始まっていることはわかる。けれど、耳が無意識に待っている音は、今朝も聞こえなかった。
鐘楼の周囲には、昨日と変わらず立ち入りを制限する縄が張られていた。その内側では、管理部門の職員が小さな木箱と、細長い紙を巻いた筒を運んでいる。
「……もう準備を始めているのね」
セレネが呟くと、背後から声がした。
「おはようございます、セレネさん」
振り返ると、ミラが書類を抱えて歩いてきた。
「おはよう、ミラ。地上の振動を測る話、進んだの?」
「はい。リゼットさんから連絡がありました。今朝、管理部門による設置場所の確認が終わったそうです」
「それなら、今日から測れるの?」
「ええ。安全上の条件を満たした場所に限って、短時間の試験測定を行うことになりました」
ミラは手に持っていた通知書を開いた。
許可されたのは、鐘楼の外側にある管理区画と、少し離れた通り沿いの二か所だった。どちらも地表からの調査であり、地下への立ち入りや、古い石材に直接器具を固定する行為は認められていない。
「……地下へは入らないのね」
「はい。以前の測量中に粉塵が落下した原因も、まだ十分に確認できていませんから」
セレネは大鐘楼を見上げた。
十一日前の午前十時十七分、地下では半月の刻印が一瞬だけ光り、その後、鐘は沈黙した。
さらに、約百八十年前の完成後点検を伝える資料には、地下北側の旧石面で細かな震えが観察されたと記されている。現在の地下通路でも短い振動が確認されていたが、古い記録が示す場所と一致しているかは不明だった。
「……地上からでも、何かわかるのかしら」
セレネが尋ねた。
「少なくとも、地表でどの程度の揺れが起きているかは調べられると思います。ただ、それが地下の振動と関係しているかどうかは、別の問題ですね」
ミラは通知書を畳んだ。
「私たちも記録係として立ち会えることになりました。測定器の準備が整っているか、管理室で確認するそうです」
「わかったわ。行きましょう」
二人は大鐘楼の管理室へ向かった。
*
管理室の机には、昨日までの保全計画と、二つの細長い器具が置かれていた。
どちらも木製の箱に金属の部品を組み込んだもので、上面には細い針が取り付けられている。内部の錘とばねが台座の揺れに反応し、その動きを紙の上に線として残す仕組みだった。
リゼットは器具の一つを確認しながら、セレネたちを迎えた。
「おはようございます。今日の測定について、先に説明しておきますね」
「お願いします」
ミラが手帳を開いた。
「鐘楼の外側にある管理区画と、通り沿いの二か所で測定します。どちらも地下へ通じる場所ではありませんし、器具は独立した台座に載せるだけです」
リゼットは周辺図を広げた。
「この二か所を選んだのは、鐘楼からの距離と、周囲の通行状況が違うからです。ただし、測定場所が違えば地盤や舗装の状態も変わります」
「……同じ揺れでも、記録される形が違うかもしれないのね」
「ええ。そのため、線の大きさだけで振動の発生源を判断することはできません」
セレネは器具を覗き込んだ。
針の下には細長い紙があり、一定の速度で送られるようになっている。紙の位置と時刻を対応させることで、いつ揺れが記録されたのかを調べられるらしい。
「……二つの器具で、時刻はどうやって揃えるの?」
セレネが尋ねると、リゼットは机の端に置かれた二つの小さな時計を示した。
「それぞれの記録係が使う時計です。測定開始前に同じ時刻へ合わせ、終了後にもずれを確認します」
ミラは頷いた。
「紙送りの速さにも多少の誤差があるんですね」
「はい。だから、記録器を動かし始めた時刻だけでなく、測定を終えた時刻も残します。途中で紙送りに問題があれば、その部分は比較に使えません」
セレネは時計と記録器を見比べた。
百八十年前の点検記録には、旧石面で震えが観察されたと書かれていた。しかし、どのような方法で調べたのか、そのとき何時だったのかまでは残されていない。
今回の測定では、少なくともその違いを記録できる。
「……もし針が動かなかったら、振動はなかったということ?」
セレネが尋ねた。
「いいえ。器具が記録できる範囲より小さな振動だった可能性がありますし、設置の状態によっては正しく反応しないこともあります」
リゼットは器具の台座を示した。
「まずは正常に動くことを確かめ、そのうえで測定します。何も記録されなかった場合も、測定条件と一緒に残すつもりです」
そのとき、ヴァルトが周辺図を持って近づいてきた。
「設置場所の安全確認は終わっています。どちらも現在の通行規制を変更せずに使用できる場所です」
ヴァルトは図面上の二つの印を指さした。
「作業中も職員が立ち会います。異常があった場合は測定を中止し、状況を確認します」
「地下の立ち入り制限は、そのままなんですね」
ミラが尋ねると、ヴァルトは頷いた。
「ええ。今日の測定結果がどうであっても、それだけで地下へ入る許可を出すことはできません」
セレネは静かに頷いた。
今必要なのは、未知の構造を動かすことではない。安全な場所から、実際に何が起きているのかを調べることだった。
「……私たちは、何を記録すればいいの?」
セレネが尋ねた。
リゼットは二枚の用紙を差し出した。
「周囲の状況と時刻をお願いします。荷馬車の通行や大きな作業音など、測定に影響しそうな出来事があれば、確認できた範囲で書き留めてください」
ミラは用紙を受け取った。
「見えない場所で起きたことまでは、推測で書かない方がいいですね」
「ええ。それでお願いします」
リゼットは頷き、職員たちへ設置の準備を指示した。
*
最初の記録器は、大鐘楼の外壁から少し離れた管理区画に置かれた。もう一台は、通りの角にある石畳の上へ設置される。
どちらも建物へ直接固定することはせず、管理用の台座に載せられていた。設置後には職員が針の動きと紙送りの状態を確認し、測定開始時刻を記録していく。
「……こちらは準備できました」
管理区画側の職員が声を上げた。
通り沿いからも、準備が整ったことを知らせる返答があった。
リゼットは二人の記録係が持つ時計を確認した。
「開始時刻を揃えます。終了後の時刻も忘れずに記録してください」
合図とともに、二台の記録器が動き始めた。
セレネは管理区画の内側で、紙の上を進む細い針を見つめた。針は小さく揺れながら、ほとんど真っ直ぐな線を描いている。
「……ずいぶん静かなのね」
セレネが言った。
「今のところ、大きな変化はありませんね」
ミラは手帳へ時刻を書き加えた。
しばらくすると、通りの方から荷馬車の音が近づいてきた。
重い車輪が石畳の継ぎ目を越えるたび、乾いた音が響く。荷台には木箱が積まれており、馬が歩くたびに荷物がわずかに揺れていた。
「……来ましたね」
ミラが顔を上げた。
「北門方向から荷馬車一台。木箱を複数積載……」
彼女は時刻とともに、目視できた情報を書き留めた。
荷馬車が管理区画の前を通り過ぎると、記録器の針が小さく振れた。通り沿いに置かれたもう一台でも、針が動いたことが確認できる。
「……両方とも反応したわ」
セレネが言うと、リゼットは記録器へ目を向けた。
「ええ。ただし、詳しい比較は測定が終わってから行います」
荷馬車が遠ざかると、針の動きは次第に小さくなった。
そのあとに通ったのは、小さな荷車だった。荷物は軽そうに見えたが、車輪の一つが石畳の窪みに落ちると、予想以上に大きな音が響いた。
ミラはその時刻も記録した。
「……荷物が軽くても、音は大きくなるのね」
セレネが呟いた。
「石畳の状態や車輪の動きにも影響されるのでしょうね」
ミラは荷車を見送りながら答えた。
セレネは二つの車を思い返した。荷台の大きさも積荷も異なっていたが、それだけで地面へ伝わる振動の大きさを判断することはできそうになかった。
さらに測定を続けていると、鐘楼から離れた通りで、何かを打ち付けるような音が聞こえた。
セレネは音のした方角へ顔を向けた。
「……今の音は?」
「作業音でしょうか。ここからは見えませんね」
ミラは手帳へ時刻を書き加えた。
音の発生源は確認できなかったため、その欄には『発生源不明の打撃音』と記しておく。
二人はその後も、周囲で起きたことを確認できた範囲で書き留めた。
午前の測定は、そうして進んでいった。
*
昼前、二人は一度管理室へ戻った。
測定を担当した職員たちが記録器の状態を確認し、取り外した紙を机に広げている。リゼットは測定終了時刻と紙送りの位置を照合し、大きなずれがないかを確かめていた。
「……まずは、こちらを見てください」
リゼットは管理区画側の記録を指さした。
紙には、それまで細く続いていた線が何度か大きく振れた跡が残されている。最初の変化は、荷馬車が通過したと記録された時刻に近かった。
「……本当に、線に残るのね」
セレネが呟いた。
「ええ。通り沿いの記録にも、近い時刻に変化があります」
リゼットは二枚の紙を並べた。
同じ時間帯に、それぞれの記録器で針が振れている。しかし、波形の大きさや形は完全には一致していなかった。
「……違う形なのね」
セレネが言った。
「はい。設置場所が違うので、同じ振動が伝わったとしても、記録の形が変わることはあります」
リゼットは答えた。
「ただ、今回は実際の発生源まで確かめていません。荷馬車の通過と時刻が近いことは確認できても、それが原因だったと断定する段階ではありません」
ミラは通行記録を広げた。
二台の記録器で変化が見られた時間帯には、複数の車が通っている。さらに、少し離れた場所では作業音も聞こえていた。
どの出来事がどの変化に対応するのかを判断するには、情報が足りなかった。
「……それなら、何度か測って比べる必要があるんですね」
ミラが言った。
「ええ。まずは、同じ条件で記録できるかを確かめたいところです」
リゼットは次の部分へ目を移した。
そのとき、ミラが手帳を確認しながら声を上げた。
「……リゼットさん。ここを見ていただけますか」
彼女が指さしたのは、午前の測定が終わる少し前の時間帯だった。
管理区画側の記録には、小さな山のような変化が一つ残されている。
しかし、通り沿いの記録には、同じ時間帯に目立った変化が見当たらなかった。
「……片方だけ?」
セレネは二枚の紙を見比べた。
「そのように見えますね」
リゼットは測定時刻と紙送りの状態を確認した。
二台の記録器について、開始時刻と終了時刻の記録は残されている。大きな時間のずれは見つからなかったが、途中の紙送りに細かな誤差があった可能性は残っていた。
「……この時間に、何か起きていましたか?」
ヴァルトが尋ねた。
ミラは手帳を開いた。
「見える範囲では、荷馬車の通過はありません。大きな作業音も記録していませんが……」
彼女は少し考えた。
「管理区画の反対側や、鐘楼内部で起きたことまでは確認できていません」
「……それなら、外からの振動ではなかったとも言えないわね」
セレネが言うと、リゼットは頷いた。
「はい。器具そのものの影響だった可能性もあります」
リゼットは二枚の記録を改めて見比べた。
「まずは記録器を点検しましょう。そのうえで二台を入れ替え、同じ場所でもう一度測ってみたいと思います」
「……入れ替えるの?」
セレネが尋ねた。
「ええ。もし同じ器具にだけ似た変化が現れるなら、器具の状態を疑う理由になります。反対に、管理区画側で繰り返し記録されるなら、場所に関係する条件を調べる必要が出てきます」
リゼットは続けた。
「もちろん、一度の再測定で原因が決まるわけではありませんが、確認するための方法にはなります」
ヴァルトは静かに頷いた。
「……それなら、安全確認をしたうえで進めましょう」
リゼットは調査記録に二つの事項を書き加えた。
『荷馬車の通行時刻に近い時間帯に、両測定地点で記録変化を確認。原因の同定は未了。』
『管理区画側のみで小さな記録変化を一件確認。器具の点検および入れ替えによる再測定を要する。』
セレネはその文字を見つめた。
百八十年前の記録には、ただ細かな震えがあったと書かれていた。
今日の測定では、そのような短い変化を線として残すことができる。
しかし、線が残ることと、振動の原因を知ることは別だった。
「……明日も測るの?」
セレネが尋ねた。
「器具の点検が終わり、設置の条件を確認できれば、明日にも再測定を行う予定です」
リゼットは答えた。
「今回は短い試験でしたが、次に何を確かめるべきかは見えてきました」
セレネは頷いた。
管理区画側に残された小さな変化。
それが何を示しているのかは、まだわからない。
けれど、確かめるための方法は残されていた。
*
午後、セレネとミラは記録院へ戻った。
地上の振動測定については、管理部門で器具の点検と再測定の準備が進められることになっている。二人が立ち会える次の日時は、改めて連絡される予定だった。
閲覧室へ入ると、ミラは別の帳簿を机に広げた。
「……こちらも進めておきましょう」
セレネは椅子に腰を下ろした。
「私たちが聞いた鐘の音について?」
「はい。それから、二十六年前の記憶欠落に関する調査記録です」
ミラは二つの管理番号を書き出した。
一つは、灰鐘市に到着した頃の鐘音と照合するための天象資料。
もう一つは、以前確認した二十六年前の記憶欠落事件に関係する、公共施設の運用調査資料だった。
「……あのとき申請した資料ね」
セレネが尋ねると、ミラは頷いた。
「はい。ただ、申請した資料そのものは、まだ所在を確認できていません。今日は関連する索引をもう一度調べようと思います」
ミラは古い管理番号の一覧を開いた。
二十六年前の記憶欠落については、医療関係の記録とは別に、市の施設管理部門で関連調査が登録されていた。
公共施設の運用状況と、記憶欠落の事例を比較しようとしたものらしい。しかし、調査の具体的な内容と結果を示す資料は、まだ見つかっていなかった。
「……どうして施設管理部門で調べたのかしら」
セレネが尋ねた。
「それもわかっていません。記憶欠落と公共施設の間に何らかの関係が疑われたのか、単に調査対象を広く設定しただけなのか……」
ミラは索引を確認した。
「実際にどこまで調べたのかを知るには、調査結果の資料を見つける必要があります」
セレネは頷いた。
施設管理部門に記録があるというだけで、施設が記憶欠落の原因だったとは言えない。
しかし、当時の人々がどのような疑問を持ち、何を確かめようとしたのかは知りたかった。
「……鐘楼の記録も、その調査に関係しているのかしら」
セレネが呟くと、ミラは別の索引を開いた。
「それを確かめたいんです。関連資料の分類番号を辿れば、何かわかるかもしれません」
二人は古い索引を照合し始めた。
しばらくすると、ミラの手が止まった。
「……セレネさん。こちらを見てください」
彼女が示したのは、二十六年前の施設運用調査に関係する短い項目だった。
記録には複数の公共施設を示す略号が並んでいる。
現在の分類名とは異なるため、すべてを正確に特定することはできなかった。しかし、その中に一つだけ、比較的はっきりと読める言葉が残されていた。
『鐘楼運用』
「……鐘楼?」
セレネは顔を上げた。
「はい。少なくとも、この索引では鐘楼の運用に関する資料が、照合候補として挙げられていたようです」
ミラは続けた。
「ただし、実際に運用記録を調べたのかどうかは、まだわかりません」
「……調べる予定だっただけかもしれないのね」
「ええ。それに、調査したとしても、何も関係が見つからなかった可能性もあります」
セレネはその言葉を見つめた。
二十六年前の記憶欠落事件。
そして、鐘楼の運用。
二つが同じ調査の索引に並んでいる。
それは偶然ではないのかもしれない。しかし、調査結果が残されていない以上、二つの出来事に関係があったことを意味するわけではなかった。
「……もう少し、続きを見てもいいかしら」
セレネが尋ねた。
「もちろんです」
ミラは索引の下部を示した。
そこには、短い注意書きが残されていた。
『事例確認日時と、施設運用日時を区別のこと。』
セレネはその文章を読み返した。
「……事例確認日時?」
ミラは少し考えた。
「記憶欠落が確認された日時、という意味だと思います。ただし、記憶が実際に失われた瞬間とは限りません」
セレネは静かに頷いた。
エマは、娘と過ごした年月の記憶を失っている。しかし、セレネ自身がその記憶の失われた瞬間を目撃したわけではなかった。
本人が異変に気づいた時刻と、記憶が失われた時刻が一致していたという保証もない。
「……確認した時刻がわかっていても、実際に何が起きた時刻なのかは別なのね」
セレネが言った。
「はい。当時の調査でも、その点を区別しようとしていたのかもしれません」
ミラは慎重に答えた。
「ただ、この注意書きがどの程度守られていたのかは、調査結果を確認しないとわかりません」
セレネは索引へ視線を戻した。
鐘の音を聞いた時刻。
地上の記録器が変化を残した時刻。
そして、記憶の欠落が確認された時刻。
どれも記録できる情報だった。
しかし、同じ時刻が記されていたとしても、その出来事が同じ原因によるものだとは限らない。
「……この調査の続きを探しましょう」
セレネが言った。
ミラは頷いた。
「はい。管理番号の末尾に、添付資料を示す記号があります。まずは、それが何を指しているのか確認します」
彼女は新しい閲覧依頼書を取り出した。
続いて、天象資料についても確認を進める。
灰鐘市に到着してから聞いた三件の異常な鐘音について、セレネは昨日、黒い手帳の記録と自身の記憶を照合し、別紙へ整理していた。
初日に聞いた定時外の鐘音。
二日目の日中、記録院で聞いた鐘音。
そして、二日目の夜、午後九時を少し過ぎた頃に宿で聞いた鐘に似た音。
三件は別々の出来事だった。
ただし、二日目の日中と夜は同じ暦日に起きている。月相を照合する際には、別々の出来事として記録しながら、日付が同じであることも考慮する必要があった。
「……月相の資料は、見つかりそう?」
セレネが尋ねた。
「日付に対応する索引はあります。ただ、実際の観測記録と、暦上の月相を分けて調べる必要がありますね」
ミラは答えた。
「観測記録には、雲で月が見えなかった日もあります。月が見えなかったことと、暦上の月相がわからないことは同じではありませんから」
「……そうね。古い測量記録との比較なら、なおさら慎重にしないと」
二人はそれぞれの資料について、閲覧を申請した。
調べるべきことは増えていた。
しかし、その中でも二十六年前の調査に残された『鐘楼運用』という言葉は、セレネの頭から離れなかった。
*
日が傾く頃、セレネとミラは再び中央広場を通った。
夕方の人の流れが戻り、通りには荷車の音と商人たちの声が響いている。大鐘楼は静かなままで、その周囲に張られた規制の縄も朝と変わらなかった。
管理室の入口では、リゼットとヴァルトが測定器の点検について話していた。
「……セレネさん、ミラさん」
二人に気づいたリゼットが声をかけた。
「今日の記録について、一つ確認できました」
「……何かわかったの?」
セレネが尋ねる。
「管理区画側で小さな変化が記録された時間帯について、紙送りの状態を調べました。少なくとも、その間に紙が停止した形跡はありませんでした」
セレネは顔を上げた。
「……なら、実際に揺れがあったの?」
「そこまでは言えません。針の機構や台座の状態が影響した可能性は残っています」
リゼットは続けた。
「ただ、紙送りが途中で止まったために生じた線ではなさそうです。次は器具を入れ替えて、同じ二か所で測定する準備を進めます」
ミラは頷いた。
「器具に関係する変化なのか、場所に関係するものなのかを確かめるんですね」
「ええ。もちろん、ほかの条件もできるだけ揃える必要があります」
リゼットは二人へ視線を向けた。
「次の測定でも、通行や作業の時刻を記録していただければ助かります」
「わかりました」
ミラが答えた。
ヴァルトは中央広場の時計を見上げた。
「……鐘が止まってから、毎日が長く感じます」
その声には、わずかな疲れが混じっていた。
「時計のおかげで街の人たちも少しは落ち着きましたが、鐘楼そのものの問題は、まだ残っていますからね」
セレネも時計へ目を向けた。
掲示板の横では、何人かの住民が足を止め、針の位置を確かめている。
鐘の音がなくても、人々は新しい方法で時刻を知るようになっていた。しかし、それが鐘楼の異常を解決したことにはならない。
「……明日も、鐘は鳴らないのでしょうか」
ヴァルトが呟いた。
リゼットは少し間を置いた。
「安全が確認されるまでは、運用を再開できません」
彼女は静かに答えた。
「今は、できる調査を続けるしかありません」
「……そうですね」
ヴァルトは頷いた。
セレネは二人の様子を見つめていた。
鐘楼の沈黙は、調査を行う者たちだけの問題ではない。毎日その音を聞いてきた街の人々にとっても、生活の一部が失われたようなものなのだろう。
「……何かわかったら、また教えてください」
セレネが言うと、リゼットは頷いた。
「ええ。次の測定が終わったら、結果をお伝えします」
二人は管理室をあとにした。
*
夜、セレネは宿の机に、今日の記録を広げていた。
地上の測定結果を示す二枚の写し。荷馬車が通った時刻を書き留めた紙。そして、二十六年前の行政調査に関する索引の控え。
セレネはまず、振動記録器の線を見つめた。
荷馬車が通った時刻に近い位置で、二台の記録器が反応している。
その一方で、管理区画側にだけ、小さな変化が一件残されていた。
紙送りが途中で止まった形跡はないという。しかし、その線が実際の振動を示しているのか、器具の状態によるものなのかは、まだ確かめられていなかった。
セレネは筆を取り、今日の調査について書き加えた。
『大鐘楼周辺の地上二地点で、短時間の試験測定を実施。地下への立ち入りはなし。』
『荷馬車の通行時刻に近い時間帯に、両地点で記録変化を確認。発生源は未特定。』
『管理区画側のみで、小さな記録変化を一件確認。紙送りの停止は認められず。器具交換による再測定を予定。』
書き終えると、セレネは次の紙を開いた。
そこには、二十六年前の施設管理部門の索引から書き写した言葉がある。
――鐘楼運用。
セレネはその文字を見つめた。
記憶欠落に関する調査の中で、鐘楼の運用記録が照合候補として挙げられていた可能性がある。
しかし、その調査が実際に行われたのか。
行われたとして、何がわかったのか。
どちらも不明のままだった。
セレネは調査記録へ、さらに二行を書き加えた。
『二十六年前の記憶欠落に関する施設管理部門の調査索引に、「鐘楼運用」の記載あり。実際の照合実施と結果は未確認。』
『事例確認日時と施設運用日時を区別する旨の注記を確認。記憶欠落が発生した時刻との一致は未証明。』
セレネは筆を置いた。
鐘楼の異常を調べるようになってから、何度も時刻を確かめてきた。
午前十時十七分。
三十四年前の異常鳴動が報告された日付。
そして、百八十年前の完成後点検に記された、断続的な震え。
いずれも、調査を進めるための手掛かりだった。
しかし、時刻や日付がわかることと、その出来事の意味を理解することは別だった。
セレネは窓を開けた。
夜の灰鐘市には、遠くの人声と風の音が混じっている。時計の針が進んでも、大鐘楼は時刻を知らせなかった。
その沈黙の下で、今も何かが震えているのだろうか。
百八十年前の点検者が記した震えと、今日の紙に残された小さな山。
どちらも、原因はわかっていない。
同じ現象だと考えれば、過去から現在まで続く一つの謎として見ることもできる。
しかし、その考えを裏づけるには、まだ多くの確認が必要だった。
セレネは窓を閉め、黒い手帳を取り出した。
灰鐘市へ来た日からの記録が残されている。
その隣には、昨日になって三件の鐘音を整理し直した別紙を置いた。
最初の日に聞いた音。
二日目の日中、記録院で聞いた音。
そして、同じ日の夜、宿で聞いた鐘に似た音。
それぞれについて、残された記録と記憶の確かさは異なっている。
夜の音については、午後九時を少し過ぎていたという記憶がある。しかし、その時刻を当時の手帳に明記していたとは確認できていなかった。
だから、昨日の整理では、その違いを残した。
セレネは別紙を見つめた。
同じ日に起きた二つの出来事でも、同じ原因で起きたとは限らない。
逆に、異なる日に起きた出来事が、同じ原因によるものである可能性もある。
それを知るには、一つずつ条件を比べる必要があった。
セレネは新しい紙を取り出した。
そして、短い一文を書き加えた。
『時刻が一致しても、出来事が一致するとは限らない。』
筆を置いたあと、彼女は二十六年前の索引をもう一度手に取った。
『事例確認日時と、施設運用日時を区別のこと。』
そこには、同じような注意が残されていた。
当時の調査者も、時間の一致だけでは判断できないことを理解していたのかもしれない。
けれど、その人々が実際に何を確かめ、どのような結論へ至ったのかはわからない。
「……結果は、どこにあるのかしら」
セレネは小さく呟いた。
二十六年前の調査が、記憶欠落の原因を明らかにしていたとは限らない。
それでも、何を調べ、何がわからなかったのかを知ることには意味があるはずだった。
セレネはエマとニナのことを思い出した。
二人の間に失われた年月は、今も戻っていない。
だからこそ、鐘楼の構造を調べることだけで満足するわけにはいかなかった。
この街で最初に調べようとしたのは、人の記憶が失われるという出来事だった。
その原因を知ること。
少なくとも、何が起きたのかを確かめること。
それは、今も変わっていない。
セレネは手帳を閉じた。
明日は、地上の振動測定を改めて行うための準備が進められる。
同時に、二十六年前の行政調査についても、添付資料の所在を確認する予定だった。
どちらも、すぐに答えが見つかるとは限らない。
それでも、今日より一つ多く、確かめられることがある。
セレネはランタンの灯りを落とした。
月光が、机の上の記録用紙を淡く照らしている。
細い線。
古い索引。
そして、そこに残された短い言葉。
どれも、それだけでは答えにならなかった。
けれど、誰かが記録を残したからこそ、今の自分たちは調べることができる。
セレネは静かに目を閉じた。
鐘の音が失われた街で、今日も新しい記録が残された。
その線が何を意味するのか。
二十六年前の調査者たちが、何を確かめようとしていたのか。
答えは、まだ見つかっていない。
しかし、次に辿るべき記録は、確かに存在していた。