大鐘楼の鐘が止まってから、十二日目の朝だった。
灰鐘市の中央広場には、朝の冷たい空気が残っていた。掲示板の横に置かれた時計は今日も静かに針を進め、人々はその前で足を止めては、それぞれの仕事へ向かっていく。
セレネは広場を横切り、大鐘楼へ視線を向けた。
高い石造りの塔は、朝日に照らされている。外から見る限り、以前と何も変わっていないように思えた。しかし、その鐘が最後に鳴ってから、すでに十二日が経っていた。
鐘楼の周囲には、今日も通行を制限する縄が張られている。その内側では、管理部門の職員たちが測定器を運び、昨日と同じ場所で作業の準備を進めていた。
「……今日は、入れ替えて測るのね」
セレネが呟くと、背後から声がした。
「おはようございます、セレネさん」
振り返ると、ミラが書類を抱えて歩いてきた。
「おはよう、ミラ。測定の準備は進んでいるみたいね」
「はい。昨日使った二台の記録器について、基本的な点検は終わったそうです」
「何か問題は見つかったの?」
「今のところ、明らかな故障は確認されていません。ただ、それだけで昨日の記録が正しかったと判断できるわけではないそうです」
ミラは手に持っていた通知書を見せた。
「今日は器具を入れ替えて、同じ二か所で試験測定を行います。管理部門から、昨日と同じ範囲で立ち会いの許可も出ています」
「……地下には入らないのね」
「ええ。安全上の制限は変わっていません」
セレネは頷いた。
昨日の測定では、鐘楼の管理区画と通り沿いの二か所に記録器を設置した。荷馬車の通行時刻に近い時間帯には、両方の器具で針の変化が確認されている。しかし、それとは別に、管理区画側だけで小さな変化が一件記録されていた。
その原因は、まだわかっていない。
「……同じ場所で、もう一度変化が出るかを確かめるのね」
「はい。でも、今日と昨日では通行する荷馬車も違いますから、完全に同じ条件にはできません」
「そうね。それでも、器具を入れ替える意味はあるわ」
二人は管理室へ向かった。
*
管理室の机には、昨日使った二台の記録器が並べられていた。
それぞれの側面には、小さな札が付けられている。
甲号器と乙号器。
昨日、甲号器は鐘楼の管理区画に、乙号器は通り沿いに設置されていた。
リゼットは二台の記録器を確認しながら、セレネたちを迎えた。
「おはようございます。今日は予定どおり、設置場所を入れ替えて測定します」
「昨日の点検では、何かわかったのかしら」
セレネが尋ねた。
「紙送りの機構と針の動きを確認しましたが、明らかな異常は見つかりませんでした。ただ、短時間の点検だけでは、まれに起きる不具合を見落とす可能性があります」
リゼットは甲号器の札を示した。
「昨日、管理区画で小さな変化を記録したのはこちらです。今日は通り沿いへ移します」
次に、乙号器を指さした。
「こちらは、管理区画へ置きます」
「……場所と器具の組み合わせを変えるのね」
セレネが言うと、リゼットは頷いた。
「はい。同じ器具で似た変化が出るのか、それとも同じ場所で変化が現れるのかを調べるためです」
ミラは手帳を開いた。
「ただし、片方だけで変化が出ても、すぐに原因を特定できるわけではありませんよね」
「ええ。通行状況や作業の影響もありますし、器具の感度にも多少の違いがありますから」
リゼットは周辺図を広げた。
「設置位置については、昨日の記録を使ってできるだけ同じ条件にします。器具の向きや台座の状態も、測定前に確認しておきます」
セレネは図面へ目を向けた。
鐘楼の管理区画と、少し離れた通り沿い。
二つの測定地点は、それぞれ異なる環境にあった。管理区画側は鐘楼の外壁に近く、通り沿いは荷馬車が頻繁に行き交う場所だった。
「……もし今日も管理区画だけに変化が出たら、どう考えるの?」
セレネが尋ねると、リゼットは少し考えた。
「少なくとも、場所に関係する条件を調べる理由は増えます。ただ、それが鐘楼の地下から伝わった振動だとは言えません」
「……地上の別の場所から来た可能性もあるものね」
「はい。建物の内部で人が動いたり、離れた場所で重い物を運んだりしても、地面を通して揺れが伝わることがあります」
リゼットは測定記録用紙を取り出した。
「今日は、管理区画の内側で行われる作業についても、可能な範囲で時刻を残してもらいます。昨日は目視できなかった出来事があったかもしれませんから」
ヴァルトが机の向こうから顔を上げた。
「作業担当者には、器具の近くを通るときや、重い物を移動させるときに記録係へ知らせるよう伝えています」
「……それなら、昨日より詳しく調べられそうね」
セレネが言うと、ヴァルトは頷いた。
「ただ、測定のために普段の作業をすべて止めるわけにはいきません。鐘楼の安全確認も続けていますから」
リゼットは書類を閉じた。
「だからこそ、作業があった時刻を残します。影響を完全になくせないなら、少なくとも何が起きていたかを確認できるようにしたいんです」
セレネは静かに頷いた。
調べる場所は昨日と同じだったが、記録する条件は増えている。その違いも、今日の測定では重要になるのだろう。
*
二台の記録器は、昨日と同じ測定地点へ運ばれた。
ただし、設置される器具は逆になっている。
甲号器は通り沿いへ、乙号器は管理区画へ。
職員たちは台座の位置と向きを確認し、測定開始前に針の動きを確かめた。記録係の時計も同じ時刻へ合わせられ、紙送りの開始位置が記録されていく。
「……準備できました」
管理区画側の職員が声を上げた。
通り沿いからも、同じ返答があった。
リゼットは時計を確かめ、開始の合図を送った。
二台の記録器が、静かに動き始める。
セレネは昨日と同じ場所に立ち、乙号器の針を見つめた。細い金属の先端は、小さく揺れながら紙の上に線を描いている。
しばらくの間、大きな変化はなかった。
通りの向こうでは、商人たちが荷物を運んでいる。木箱を置く音や、石畳を踏む足音が重なり、鐘楼の周囲にも朝の賑わいが広がっていた。
やがて、一台の荷馬車が近づいてきた。
「……北門方向から荷馬車一台」
ミラが時刻を記録した。
車輪が石畳の継ぎ目を越えると、管理区画側の針が小さく揺れた。通り沿いでも、記録器が反応している様子が見える。
「……昨日と似ているわね」
セレネが呟いた。
「荷馬車が通ったときに針が動く、という点ではそうですね。でも、あとで紙の記録を比べるまでは、どれほど似ているかわかりません」
セレネは頷いた。
荷馬車が通り過ぎると、針の動きは小さくなった。
続いて、荷物を積んだ小さな手押し車が通りを横切った。通行した場所は先ほどの荷馬車とは異なっていたが、ミラはその時刻も書き留めた。
測定は、その後もしばらく続いた。
やがて、管理室の方から職員が一人出てきた。
「少し離れた場所で、補修用の資材を運びます」
職員は記録係へ声をかけた。
ミラは手帳へ時刻を書き加えた。
「……昨日は、こういう作業まで確認できていなかったのね」
「はい。今日は管理部門の方にも協力していただいていますから」
資材の移動が終わると、周囲は再び落ち着いた。
しばらくして、セレネは管理区画側の記録器に目を向けた。
針は、絶えず小さく揺れている。それ自体は珍しいことではなかった。測定を始めてから、細かな動きは何度も確認している。
しかし、次の瞬間、細い針がそれまでより少しだけ大きく振れた。
「……ミラ」
セレネが声をかけた。
「はい?」
「今、針が少し大きく動いたように見えたの」
ミラは記録器へ目を向けた。
すでに針は元の小さな動きへ戻っている。
「……時刻を記録します」
彼女はすぐに時計を確認し、手帳へ書き加えた。
周囲では、目立った荷馬車の通過はなかった。管理区画の近くで大きな作業音も聞こえていない。
しかし、建物の内部や見えない場所で何が起きていたのかまでは、その場ではわからなかった。
「……昨日と同じものかしら」
セレネが小さく呟いた。
ミラは首を横に振った。
「まだわかりません。昨日の記録と形を比べないと」
セレネは頷いた。
昨日、小さな変化を記録したのは甲号器だった。
そして今、管理区画へ置かれているのは乙号器である。
もし今回の変化が紙へ残されていたなら、異なる器具で、同じ測定地点に変化が現れたことになる。ただし、その時刻も周囲の状況も、昨日とは違っていた。
セレネはそれ以上考えず、記録器の針へ視線を戻した。
今は、確認できたことだけを残せばよかった。
*
昼前、測定を終えた二人は管理室へ戻った。
机には、甲号器と乙号器から取り外した記録紙が広げられている。リゼットは昨日の記録も隣に並べ、測定開始時刻と終了時刻を確かめていた。
「……まず、器具の状態については、測定後の確認でも大きな異常は見つかりませんでした」
リゼットが言った。
「それなら、今日の記録は比較できるのね」
セレネが尋ねると、リゼットは頷いた。
「比較はできます。ただし、正確に同じ条件で測れたわけではないことを忘れないでください」
彼女は甲号器の記録を指さした。
通り沿いに置かれていた甲号器には、荷馬車の通過時刻に近い部分で幾つかの変化が残されていた。一方、管理区画の乙号器にも、似た時間帯の変化が見つかっている。
それぞれの形や大きさには違いがあるものの、通行時刻に近い場所で針が動いている点は、昨日の記録と共通していた。
「……それで、こちらなんですが」
リゼットは乙号器の記録の一部分を示した。
そこには、細い線が一度だけ大きく振れた跡が残されている。
セレネは顔を近づけた。
「……さっきの変化ね」
「ええ。セレネさんが気づいた時刻に近い場所です」
ミラも手帳を確認した。
「私が書き留めた時刻とも、おおむね一致しています」
リゼットは昨日の記録を隣へ置いた。
昨日、甲号器が管理区画で記録した小さな変化。
今日、乙号器が同じ場所で記録した変化。
二つの線は、どちらも短い山のような形をしている。しかし、高さも幅も完全には一致していなかった。
「……同じ場所で、二日続けて変化があったのね」
セレネが言った。
「はい。ただし、同じ原因で起きた変化なのかは、まだ判断できません」
リゼットは記録を見つめた。
「少なくとも、特定の一台だけがこのような線を描いたわけではありません。異なる二台の器具で、管理区画側に短い変化が記録されました」
ヴァルトが腕を組んだ。
「……ということは、場所に何か原因があるのでしょうか」
リゼットは少し考えた。
「その可能性を調べる理由は増えました。ただ、まだ器具以外の条件を十分に調べられていません」
彼女は今日の作業記録を取り出した。
「今日の変化が記録された時刻について、管理区画の周辺で大きな資材の移動は報告されていません。しかし、建物の内部や周辺道路の状況まで、すべて把握できているわけではありません」
「……見えなかった場所で、何か動いていた可能性もあるのね」
セレネが尋ねると、リゼットは頷いた。
「ええ。記録された変化がどこから伝わったのかは、まだわかりません」
リゼットは昨日と今日の結果を整理した。
『管理区画側において、二日間の試験測定で短い記録変化を各一件確認。』
『二日目は記録器を入れ替えて測定。異なる器具による記録であることを確認。』
『記録変化の形状および発生時刻は一致せず。発生源、再現性、地下構造との関係は未確認。』
セレネは最後の一行を読み返した。
「……これからは、どうするの?」
リゼットは少し考えた。
「まず、もう少し長い時間で測定を続けたいと思います。短時間では、たまたま似た変化が現れただけなのか判断しにくいので」
彼女は周辺図を開いた。
「必要なら、鐘楼からさらに離れた場所にも記録器を置いて比較したいところですが、それには追加の器具と設置許可が必要です」
「……調べる範囲を広げるのね」
「ええ。引き続き、地上から安全にできる方法で進めます」
ヴァルトは頷いた。
「管理部門で必要な手続きを確認しましょう」
セレネは二枚の記録紙を見つめた。
同じ場所で、別々の器具が短い変化を記録した。
それは確かに、昨日より増えた情報だった。しかし、まだ何が震えているのかまではわからない。
百八十年前の人々も、原因の定まらない震えを記録していた。
今の自分たちは、そこからどれほど先へ進めているのだろう。
セレネは静かに息を吐いた。
少なくとも、次に何を調べるべきかは見えていた。
*
午後、二人は記録院へ戻った。
閲覧室へ入ると、ミラの机には一通の通知書が置かれていた。朝にはなかったもので、封の上には古文書保管区画の印が押されている。
「あら……」
ミラは書類を手に取った。
「昨日申請した資料についての返答みたいです」
「二十六年前の記憶欠落の調査記録?」
セレネが尋ねると、ミラは頷いた。
「はい。関連する管理番号の所在を調べてもらっていたんです」
ミラは封を開いた。
中には、古い資料の保管状況を記した短い通知が入っている。彼女は数行読み進めると、少し表情を変えた。
「……セレネさん」
「何かわかったの?」
「調査結果そのものではありませんが、当時の照会手続きに関する記録が見つかったそうです」
セレネは顔を上げた。
「……照会の記録?」
「はい。二十六年前の施設管理部門で受け付けられた照会を記録した帳簿です。昨日の索引に残っていた番号と、一部が対応しています」
ミラは通知書を机へ置いた。
「保管担当の方が状態を確認してくださっていて、閲覧できる部分があるそうです」
「……それなら、見せてもらいましょう」
二人は保管担当の職員へ連絡し、資料の閲覧を申し込んだ。
しばらくして、薄い帳簿が保護用の台紙に載せられて運ばれてきた。
表紙には、古い文字で短い題名が記されている。
『施設運用照会受領簿』
「……これが、二十六年前のもの?」
セレネが尋ねた。
ミラは管理番号と年代を確認した。
「ええ。記憶欠落の関連調査が登録された時期と一致しています。ただし、この帳簿が調査結果をまとめたものではないことには注意が必要ですね」
職員も頷いた。
「この受領簿は、施設管理部門で受け付けた照会について、対象となる資料や担当部署などを記録したものです。実際に資料を受け取ったかどうかや、どのような回答があったかまでは、別の記録を確認する必要があります」
セレネは頷いた。
照会が受け付けられたことと、その照会に答えが出たことは違う。
少なくとも、帳簿が示しているのは当時の調査手続きの一部だった。
二人は帳簿を傷めないよう注意しながら、該当する管理番号を探した。
古い文字で書かれた項目が、いくつも並んでいる。
施設名、照会の受付日、対象資料の種類、そして担当部門を示す記号。
しばらく読み進めたところで、ミラの手が止まった。
「……ありました」
彼女が示したのは、昨日確認した索引と対応する番号だった。
その横には、短い言葉が残されている。
『鐘楼運用簿 照会』
セレネは文字を読み返した。
「……鐘楼の運用簿について、問い合わせがあったということ?」
ミラは頷いた。
「はい。少なくとも、この帳簿には鐘楼運用簿に関する照会を受け付けた記録が残されています」
彼女は昨日の索引を取り出した。
「昨日は、鐘楼運用が調査の候補として挙げられていたことしかわかりませんでした。でも、今回は実際に照会手続きが受け付けられていたことを確認できました」
「……一歩、進んだのね」
セレネが言うと、ミラは頷いた。
「ええ。ただし、運用簿が提出されたかどうかも、照会に対する回答があったかどうかも、まだ確認できていません」
セレネは帳簿へ目を戻した。
鐘楼の運用記録。
二十六年前の記憶欠落事件。
二つは、少なくとも当時の調査手続きの中で接点を持っていた。
しかし、それは現象そのものに関係があった証拠ではない。
セレネはさらに、記録の続きを読んだ。
その下には、照会対象となった期間についての短い記述がある。
『確認日前日より照会。』
「……前日?」
セレネは思わず声に出した。
ミラも顔を近づけた。
「……事例が確認された日の前日分から、鐘楼の運用記録を照会対象にしていたんですね」
セレネは昨日見つけた注意書きを思い出した。
『事例確認日時と、施設運用日時を区別のこと。』
「……確認された日だけではなく、その前日の運用状況も調べようとしていたのね」
セレネが呟いた。
ミラは少し考えた。
「そう読めます。ただし、実際に前日分の記録が提出されたかどうかはわかりません。それに、どの日までを照会対象にしていたのかも、この記述だけでは判断できません」
ミラは一度言葉を切った。
「記憶が失われた時刻と、周囲の人が異変に気づいた時刻が違うかもしれない、と考えていた可能性はあります。でも、通常の運用状況と比較するために、前日から調べようとしたのかもしれません」
「……そうね。理由までは、まだわからないわ」
セレネは頷いた。
それでも、当時の調査者たちが、事例の確認日だけに照会対象を限定していなかったことは読み取れた。
ミラは照会番号と対象期間を書き写した。
そのとき、帳簿の欄外に小さな注記があることに気づいた。
「……こちらにも、何かあります」
セレネは目を凝らした。
文字の一部は薄くなっているが、短い言葉が残されている。
『管理所控』
その前には、鐘楼を示す略号が記されていた。
「……鐘楼管理所に、控えがあったの?」
セレネが尋ねた。
「少なくとも、そう読めます」
ミラは慎重に答えた。
「ただ、控えがどの書類を指しているのかは不明です。照会の依頼書なのか、運用簿の写しなのか、それとも別の手続きに関する書類なのか……」
セレネは帳簿を見つめた。
もし鐘楼管理所に当時の控えが残されているなら、調査で何を確認しようとしていたのか、もう少し詳しく知ることができるかもしれない。
「……ミラ。この番号から、今の保管先を探せるかしら」
セレネが尋ねると、ミラは頷いた。
「調べてみます。ただ、二十六年前ですから、すでに別の場所へ移されている可能性もあります」
ミラは帳簿の管理番号を書き留めた。
その横に、小さく注記を加える。
『鐘楼管理所控の所在未確認。内容および現存の有無も未確認。』
セレネはその文字を見つめた。
昨日までは、鐘楼運用という言葉が索引に残されているだけだった。
今日は、実際の照会受付を示す記録が見つかった。そして、当時の控えがどこかに残されている可能性も生まれた。
まだ調査結果には辿り着いていない。
それでも、次に探すべき資料は少しずつ明らかになっていた。
*
夕方、セレネとミラは大鐘楼の管理室を訪れた。
管理室では、ヴァルトが新しい振動測定の計画について書類を確認していた。リゼットは少し離れた机で、今日の記録を整理している。
「……お二人とも。記録院で何か見つかったんですか?」
ヴァルトが尋ねた。
「はい。二十六年前の記憶欠落に関する、施設管理部門の照会受領簿です」
ミラは控えてきた管理番号を差し出した。
「当時、鐘楼運用簿についての照会が受け付けられていたことを示す記述が見つかりました」
「……鐘楼の運用簿が?」
ヴァルトは眉を寄せた。
「はい。ただし、実際に運用簿が提出されたか、照合が行われたかは、まだわかりません」
ミラは続けた。
「確認できたのは、照会を受け付けた記録と、その対象期間についての記述までです」
ヴァルトは頷いた。
「……なるほど。それで、こちらへ来られたのは?」
ミラは管理番号の下に書き添えた言葉を示した。
『鐘楼管理所控』
「当時の帳簿に、こう記されていました。こちらに何らかの控えが残されていた可能性があるんです」
ヴァルトはしばらく文字を見つめた。
「……二十六年前の資料ですか」
彼は机の上にあった管理一覧を取り出した。
「現在の管理室で日常的に使っている記録は、もっと新しいものが中心です。古い資料は保存庫へ移されているはずですが……」
ヴァルトは少し考えた。
「過去の帳簿については、旧管理番号を残した一覧があるかもしれません」
「……調べていただけますか?」
ミラが尋ねた。
「ええ。ただし、管理室に控えがあったという記述だけでは、現物が残っているとは限りません」
ヴァルトは答えた。
「まずは保管一覧を確認してみます。もし該当する資料があれば、閲覧の手続きについてお知らせします」
セレネは静かに頷いた。
「……ありがとう」
ヴァルトは受け取った番号を書き留めた。
その様子を見ていたリゼットが、顔を上げた。
「……二十六年前の記憶欠落の調査ですか」
「ええ。鐘楼の運用記録について照会したことが、当時の受領簿に残されていたの」
セレネが答えた。
リゼットは少し考えた。
「そのとき、鐘楼に何か異常があったのでしょうか」
「……それは、まだわからないわ」
セレネは首を横に振った。
「何かを疑って照会したのかもしれないし、念のため運用状況を確認しようとしただけかもしれないもの」
「……そうですね」
リゼットは頷いた。
「もし当時の運用記録が残っているなら、異常鳴動の有無とは別に、鐘楼がどのように使われていたのかを確認できますね」
「ええ。それも知りたいと思っているの」
セレネは答えた。
ヴァルトは書類を閉じた。
「保管一覧については、明日、担当者に確認します」
ミラは礼を述べた。
リゼットは再び今日の測定記録へ目を向けた。
「こちらも、もう少し長い時間で測定するための準備を進めています。設置場所と人員について、管理部門の確認が必要ですが」
「……すぐに始められそう?」
セレネが尋ねた。
「まだ日程は決まっていません。器具を追加する必要があるかも検討しています」
リゼットは答えた。
「ただ、今日の結果から、管理区画側の変化を継続して調べる理由は増えました」
セレネは頷いた。
振動の測定と、二十六年前の運用記録。
二つは別々の調査であり、現時点では互いに関係があると考える根拠はない。
だからこそ、それぞれを独立した記録として残しておく必要があった。
*
管理室を出ると、中央広場には夕暮れの光が差し込んでいた。
人々は仕事を終え、買い物袋を抱えて通りを歩いている。掲示板の横では、数人の住民が時計を見上げ、時刻を確かめていた。
セレネとミラは、その横を並んで歩いた。
「……今日は、二つのことがわかったわね」
セレネが言った。
「二つ、ですか?」
「ええ。振動の記録器を入れ替えても、管理区画側に小さな変化が残ったこと。それから、二十六年前に鐘楼の運用記録について照会が受け付けられていたこと」
ミラは頷いた。
「はい。どちらも、昨日より確かめられたことが増えました」
「……そうね。でも、まだ調べることは多そうね」
セレネは大鐘楼を見上げた。
鐘が止まってから、セレネたちは地下の構造を詳しく調べようとしていた。しかし、地下測量中に粉塵が落下し、安全上の問題が見つかったため、現在は再び立ち入ることもできなくなっている。
その代わりに、地上で振動を測り、古い運用記録を探している。
最初に考えていた道とは、違う方向へ進んでいるようにも思えた。
「……不思議ね」
セレネが呟いた。
「何がですか?」
「地下を調べられなくなってから、記録を探すことが増えたでしょう」
ミラは頷いた。
「ええ。今は安全な範囲でしか調査できませんから」
「でも、探してみると、思っていたより多くの記録が残されているのね」
セレネは静かに続けた。
「百八十年前にも、三十四年前にも、十七年前にも。そして、二十六年前にも……誰かが何かを調べていた」
ミラは少し考えた。
「その人たちも、理由のわからないことを確かめようとしていたのかもしれませんね」
「……ええ。でも、同じ答えを探していたとは限らないわ」
セレネは頷いた。
百八十年前の人々は、地下の石材の状態を調べていた。
三十四年前には、定時外の鳴動や補修中の振動が記録されている。
十七年前には、円形部材の搬出に関係する資料が残されていた。
そして二十六年前には、記憶欠落の事例と公共施設の運用状況を比較するため、鐘楼運用簿に関する照会が受け付けられていた。
それぞれの記録は、異なる目的で作成されたものだった。
しかし、どの資料にも、当時の人々が何を確かめようとしたのかを示す痕跡が残されている。
「……ミラ」
セレネは顔を向けた。
「はい?」
「二十六年前の調査結果が見つかったら、まず何を確かめるべきだと思う?」
ミラは少し考えた。
「……最初に、何を調査対象にしていたのかを確認したいです」
「結果より先に?」
「はい。調べた対象や条件がわからなければ、結果が何を意味するのか判断できませんから」
セレネは静かに頷いた。
「……そうね。その方がいいわ」
二人は通りの分かれ道で足を止めた。
「それでは、また明日」
「ええ。また明日ね」
セレネは微かに微笑み、宿へ向かって歩き始めた。
*
その夜、セレネは宿の机に今日の記録を広げていた。
一枚は、地上の振動測定についての写し。
もう一枚は、二十六年前の施設運用照会受領簿から書き写した内容だった。
セレネはまず、振動の記録を確認した。
昨日、管理区画に置かれた甲号器が、小さな変化を一件記録した。今日、同じ場所に置かれた乙号器にも、短い変化が一件残された。
二つの記録は、同じ器具によるものではない。しかし、発生時刻も周囲の状況も異なり、同じ現象が再現されたと断定できるほどの情報はなかった。
セレネは筆を取り、今日の結果を書き加えた。
『大鐘楼管理区画にて、記録器を入れ替えた再測定を実施。』
『昨日は甲号器、本日は乙号器に短い記録変化あり。両記録の同一性および発生源は未確認。』
『長時間測定と周囲の作業記録の継続を検討。地下への立ち入り制限は維持。』
セレネは筆を置いた。
少なくとも、特定の一台だけが変化を記録したわけではない。
だからといって、その原因が場所にあると決まったわけでもなかった。もう少し長い時間を使い、周囲の条件を記録しながら調べる必要があるのだろう。
セレネは別の紙を開いた。
そこには、二十六年前の受領簿から書き写した三つの言葉が残されている。
『鐘楼運用簿 照会』
『確認日前日より照会』
『鐘楼管理所控』
彼女は、その文字を見つめた。
二十六年前。
誰かが、記憶欠落に関する調査の中で、鐘楼の運用記録について照会していた。
しかも、対象には事例が確認された日の前日分も含まれていたらしい。
なぜ、そのような範囲を指定したのだろう。
記憶が失われた時刻が、異変に気づいた時刻より前だった可能性を考えたのか。
それとも、通常の鐘楼運用と比較するためだったのか。
セレネは静かに息を吐いた。
理由は、まだわからない。
実際に運用簿が提出されたかどうかも、その内容が記憶欠落の事例と照合されたかどうかも不明だった。
それでも、当時の調査者が鐘楼の運用記録を確認しようとしていたことは、受領簿から読み取れた。
そして、その手続きに関係する控えが、鐘楼管理所に存在した可能性がある。
「……残っているといいのだけれど」
セレネは小さく呟いた。
もし控えが見つかれば、当時の調査について、もう少し詳しく知ることができるかもしれない。
ただし、それが記憶欠落の原因を示すものだとは限らなかった。
セレネは黒い手帳を開いた。
灰鐘市に来た日からの記録が並んでいる。
初めて聞いた定時外の鐘音。
ミラと出会い、過去の記憶欠落について調べた日。
鐘楼地下の鉄扉。
ルナリアという名前が残された紙片。
三つの道と、北西の丘陵地帯で見つけた遺構。
そして、午前十時十七分に光った半月の刻印。
どれも、まだ一つの答えには繋がっていない。
セレネは手帳のページをめくった。
最初の方には、エマとニナについての記録が残されていた。
エマは、娘と過ごした年月を思い出せない。
しかし、ニナはその年月を覚えている。
同じ時間を過ごしていても、一人だけが記憶を失うことがある。その理由を知りたいと思ったことが、灰鐘市での調査の始まりだった。
セレネは手帳を閉じた。
「……何を失ったのかさえ、わからないこともあるのね」
誰に向けたわけでもなく、そう呟いた。
エマには、娘と過ごした時間を失ったという事実がある。ニナには、母親が忘れてしまった年月の記憶が残されている。
けれど、自分の場合は違う。
五年前より前の記憶がない。
そこに何があったのか、誰と過ごしていたのかさえわからない。失われたものの形を、今の自分は知らないのだ。
セレネは窓の外へ目を向けた。
大鐘楼は、今夜も静かにそびえている。
その周囲では、今日も細い針が紙に線を残した。
二十六年前には、誰かが鐘楼の運用記録について照会した。
百八十年前にも、地下の石面で起きた震えを記録した人々がいた。
それぞれの記録が同じ出来事へ繋がっているかどうかは、まだわからない。
しかし、少なくとも、過去の人々が何かを確かめようとしていたことは、その記録から知ることができた。
セレネはランタンの灯りを少し弱めた。
窓から差し込む月光が、机の上の紙を淡く照らしている。
明日、ヴァルトは鐘楼管理所の古い保管一覧を確認するという。
もし二十六年前の控えが残っているなら、そこには当時の調査者が何を求めたのか、その一部が記されているかもしれない。
セレネは受領簿の写しを丁寧に畳んだ。
記憶を失った者。
記憶が失われた理由を調べた者。
そして、その調査のために資料を探した者。
時間が過ぎても、すべての痕跡が消えるわけではない。
けれど、残された痕跡が何を意味するのかは、確かめなければわからない。
セレネは静かに目を閉じた。
大鐘楼の鐘は、今夜も鳴らなかった。
その沈黙の中で、二つの記録が残されている。
一つは、今日の地上で記録された細い線。
もう一つは、二十六年前に受け付けられた照会の記録。
どちらも、まだ答えではない。
けれど、次に確かめるべき場所は、少しずつ見えてきていた。