月は、失われた名を憶えている   作:ノイリ

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第24話 鳴らなかった時刻

大鐘楼の鐘が止まってから、十三日が過ぎた朝だった。

 

灰鐘市の中央広場では、掲示板の横に設置された時計が静かに針を進めていた。朝の通りを荷馬車が行き交い、商店の軒先では開店の準備が始まっている。鐘の音を聞くために足を止める者は、もうほとんどいなかった。

 

セレネは時計を見上げた。

 

針は朝の九時を少し過ぎている。以前なら、その時刻を知るために鐘楼へ目を向ける必要はなかった。街のどこにいても、決まった時間になれば鐘が知らせてくれたからだ。

 

今は、広場まで来なければ時刻を確かめられない人もいる。それでも、人々は少しずつ新しい生活に慣れ始めていた。

 

「……セレネさん」

 

背後から声がした。

 

振り返ると、ミラが書類を抱えて立っていた。

 

「おはよう、ミラ」

「おはようございます。今日は、先に鐘楼の管理室へ向かいましょう」

「……ヴァルトさんから連絡があったの?」

「はい。昨日お願いした、二十六年前の資料についてです」

 

ミラは手に持った通知書を開いた。

 

「旧管理番号を使った保管一覧が見つかったそうです。ただ、現物が残っているかどうかは、まだ確認できていないとのことでした」

「……番号だけでも、わかったのね」

「ええ。少なくとも、次に探す場所は絞れそうです」

 

セレネは大鐘楼へ視線を向けた。

 

十三日前に鐘が止まって以来、塔は沈黙を続けている。

 

昨日までの調査では、鐘楼の管理区画に置いた記録器が、二日続けて短い変化を記録している。ただし、それぞれ異なる器具で観察されたというだけで、変化の原因が同じだと確かめられたわけではなかった。

 

もう一つの調査は、二十六年前の記憶欠落に関するものだった。

 

当時の施設管理部門が、鐘楼の運用簿について照会を受け付けた記録が見つかっている。

 

その帳簿には、照会に関係する控えが鐘楼管理所に存在した可能性を示す記述も残されていた。

 

「……残っているといいわね」

 

セレネが呟いた。

 

「そうですね。でも、まずは保管場所を確かめましょう」

 

ミラは頷き、管理室へ向かって歩き始めた。

 

*

 

大鐘楼の管理室では、ヴァルトが古い保管一覧を広げていた。

 

机の上には、昨日の振動測定の記録と、新しい保全計画も置かれている。リゼットは少し離れた場所で、管理区画の周辺図を確認していた。

 

「おはようございます」

 

ミラが声をかけた。

 

「おはようございます。ちょうど、古い保管記録を確認していたところです」

 

ヴァルトは二人を机へ案内した。

 

「昨日いただいた番号を調べたところ、対応する可能性のある項目が見つかりました」

「……どんな資料なの?」

 

セレネが尋ねた。

 

ヴァルトは保管一覧を示した。

 

そこには、旧管理番号と新しい保管区分が並べて記されている。二十六年前の記録に対応する番号の一部は、現在の鐘楼管理室ではなく、市の建築・施設関係の保存区画へ移されたことになっていた。

 

「……記録院ではないのね」

 

セレネが言った。

 

「はい。現在の施設管理部門が管理する、古い文書の保存区画です。地上の庁舎内にありますから、地下の立ち入り制限とは関係ありません」

 

ヴァルトは続けた。

 

「ただし、一覧にあるのは資料群の移管記録です。そこに目的の控えが含まれているかどうかは、実際に確認しなければわかりません」

 

ミラは管理番号を書き写した。

 

「……昨日の受領簿には、鐘楼管理所控と書かれていましたよね」

「ええ。その番号に近いものが、こちらにも残っています」

 

ヴァルトは一覧の一行を指さした。

 

『旧鐘楼管理所文書 照会関係控』

 

セレネは文字を見つめた。

 

「……照会関係控」

「そう記されています。複数の照会記録をまとめた資料群のようです」

 

ヴァルトは説明した。

 

「二十六年前のものだけとは限りません。現在の管理区分では、年代をまたぐ資料が一緒に収められていることがありますから」

 

ミラは頷いた。

 

「では、この資料群の中から、昨日確認した番号を探す必要があるんですね」

「はい。保存担当者には連絡してあります。閲覧できる状態であれば、今日中に確認できるかもしれません」

 

セレネは小さく息を吐いた。

 

一つの記録を探すために、別の管理番号を辿っていく。最初は遠回りのように思えたが、記録が移された経緯を知らなければ、その所在さえ確かめられないのだった。

 

「……ありがとう、ヴァルトさん」

「いえ。こちらとしても、古い鐘楼の運用記録を整理する機会になりますから」

 

ヴァルトは保管一覧を閉じた。

 

そのとき、リゼットが顔を上げた。

 

「……地上の振動測定についても、少し進展があります」

 

セレネは振り返った。

 

「長時間の測定ができるようになったの?」

「まだ正式には決まっていません。ただ、管理区画側で一定時間、作業を続けながら測定する案について、安全上の問題がないか確認しています」

 

リゼットは周辺図を示した。

 

昨日までの測定で使った二か所に加え、鐘楼から少し離れた場所でも比較できないか検討しているという。しかし、追加の器具と人員を確保する必要があり、すぐに測定を始められるわけではなかった。

 

「……同じ場所で変化が続くかを調べるのね」

 

セレネが尋ねた。

 

「ええ。それに、管理区画側で変化が記録されたとき、周囲の別の場所では何が起きていたのかも知りたいんです」

 

リゼットは答えた。

 

「ただ、今の二日分の記録だけで、鐘楼の地下に振動源があると考えることはできません」

「……わかっているわ」

 

セレネは頷いた。

 

地下へ入れないからといって、調査が止まるわけではない。しかし、安全を確かめずに先へ進むこともできなかった。

 

「……また測定が始まるときには、教えてください」

 

ミラが言った。

 

「ええ。準備が整ったら連絡します」

 

リゼットは頷いた。

 

セレネとミラはヴァルトから保管番号の写しを受け取り、管理室をあとにした。

 

*

 

市の施設管理部門が使う保存区画は、記録院から少し離れた庁舎の一角にあった。

 

廊下には古い建築図面や管理帳簿を保管するための部屋が並び、入口には閲覧申請の手続きについて書かれた掲示がある。

 

セレネとミラが受付へ向かうと、年配の職員が顔を上げた。

 

「鐘楼の古い照会記録について、閲覧をお願いしていた者です」

 

ミラが管理番号を示した。

 

職員は用紙を確認し、頷いた。

 

「伺っています。ただ、該当する資料群は整理が途中でしてね。番号に対応する書類が、すべて揃っているとは限りません」

「……確認できる部分だけでも、見せていただけますか?」

 

ミラが尋ねた。

 

「ええ。状態のよいものから準備します」

 

職員は奥の保管室へ入っていった。

 

セレネとミラは、壁際の長椅子に腰を下ろした。

 

窓の外には、灰鐘市の石造りの建物が並んでいる。大鐘楼の上部も、建物の間からわずかに見えていた。

 

「……ミラ」

 

セレネが声をかけた。

 

「はい?」

「昨日見つけた受領簿だけで、二十六年前の記憶欠落事件と鐘楼の照会が同じ調査だったと考えていいのかしら」

 

ミラは少し考えた。

 

「……そこは、もう一度確認したいと思っています」

 

彼女は昨日の写しを取り出した。

 

「照会受領簿には、記憶欠落の関連調査と対応する番号が残されていました。でも、確認できたのは番号の一部と年代の一致までです」

「……同じ種類の調査が、ほかにもあったかもしれないものね」

「はい。だから、元になった調査の登録番号まで確認したいんです」

 

ミラは鞄から、以前確認した行政資料の目録の写しを取り出した。

 

『灰鐘市北区・住民生活異常報告』

 

二十六年前の記憶欠落に関する資料だった。

 

その目録には、公共施設の運用状況との関連調査についても登録があり、調査を識別するための番号が付けられていた。

 

「……この番号と、今回の照会が繋がればいいのね」

 

セレネが尋ねた。

 

「ええ。そうすれば、同じ調査の手続きに属することを確認できます」

 

ミラは頷いた。

 

二人はそれ以上話さず、職員が戻るのを待った。

 

しばらくして、保護用の板に挟まれた書類が運ばれてきた。

 

「こちらが、対応する可能性のある資料です」

 

職員は閲覧机へ書類を置いた。

 

「元の綴りから外されていたものもありますので、現在の並びが当時の順序どおりとは限りません。確認できる管理番号と内容から、一つずつ判断してください」

 

ミラは頷いた。

 

「ありがとうございます」

 

セレネは机の上の書類へ目を向けた。

 

古い紙には、褪せたインクで細かな文字が残されている。何枚かは端が破れており、見出しの一部が失われていた。

 

その中に、一枚だけ比較的状態のよい書類があった。

 

『照会取扱記録』

 

ミラは文字を確認し、管理番号の欄へ視線を落とした。

 

「……セレネさん」

 

彼女の声が、少しだけ低くなった。

 

「何か見つかったの?」

「はい。こちらを見てください」

 

ミラが示したのは、照会番号の下に書かれた別の番号だった。

 

『原調査登録番号』

 

その欄には、古い行政資料の番号が記されている。

 

ミラは先ほど取り出した『灰鐘市北区・住民生活異常報告』の目録の写しを開き、そこに記された調査登録番号と照合した。

 

数字と記号を一つずつ確かめていく。

 

すべて一致していた。

 

「……一致しています」

 

ミラは静かに言った。

 

「この照会記録は、あの二十六年前の住民生活異常報告に関係する調査を参照しています」

 

セレネは記録を見つめた。

 

昨日までは、年代と管理番号の一部しか一致していなかった。しかし、今は元の調査を示す番号が確認できた。

 

「……これで、同じ調査の手続きだったとわかったのね」

「ええ。少なくとも、この照会がどの調査に属していたのかは確認できました」

 

ミラは頷いた。

 

ただし、それは鐘楼の運用状況と記憶欠落に関係があったという意味ではない。

 

当時の調査で、鐘楼の資料が照会対象になっていたことが確認できただけだった。

 

「……続きを見ましょう」

 

セレネが言うと、ミラは慎重にページをめくった。

 

*

 

次に確認した書類には、短い表題が残されていた。

 

『鐘楼運用記録 照会控』

 

ミラは昨日の受領簿と管理番号を照合した。

 

末尾の記号まで完全には一致していなかったが、照会の対象、受付時期、元調査登録番号が対応している。

 

「……同じ照会に関係する控えと考えてよさそうですね」

 

ミラが言った。

 

保存担当の職員も、書類の端に残された印を確認した。

 

「当時の鐘楼管理所で保管された控えの一部だと思われます。ただし、別の場所で整理し直された可能性もありますから、綴りの来歴までは断定できません」

 

セレネは頷いた。

 

紙面には、照会を受け付けた際の項目がいくつか並んでいる。

 

まず、対象となる施設。

 

『灰鐘市大鐘楼』

 

その下には、照会の対象期間が記されていた。

 

『事例確認日前日より、確認日翌朝まで。』

 

セレネは小さく息を呑んだ。

 

「……翌朝まで?」

 

ミラも記録を確認した。

 

「昨日の受領簿には、前日から照会することしか書かれていませんでしたね」

「ええ。でも、こちらには終わりの範囲もあるわ」

 

記憶欠落の事例が確認された日の前日から、翌朝まで。

 

少なくとも、この控えでは、その期間の鐘楼運用記録を照会対象としていたことになる。

 

「……どうして、翌朝まで調べようとしたのかしら」

 

セレネが尋ねた。

 

「比較のためかもしれませんし、事例が確認された時刻の前後を確かめようとしたのかもしれません」

 

ミラは答えた。

 

「ただ、理由はここには書かれていません」

 

セレネは頷いた。

 

その先には、照会項目が並んでいた。

 

『一、定時鳴動の実施状況。』

 

『二、定時外鳴動の有無。』

 

『三、鐘具の停止および点検の記録。』

 

『四、予定された鳴動が実施されなかった時刻。』

 

セレネの目が、最後の一行で止まった。

 

「……鳴らなかった時刻?」

 

ミラも文字を読み返した。

 

「……ええ。そう書かれていますね」

 

セレネは顔を上げた。

 

鐘が鳴った時刻を調べることは理解できた。定時外の鐘音があったかどうかも、鐘楼の運用を確かめるうえでは自然な項目だった。

 

しかし、当時の照会では、鳴らなかった時刻まで調べようとしていたらしい。

 

「……どういう意味なのかしら」

 

セレネが尋ねた。

 

ミラは少し考えた。

 

「予定された時刻に鐘が鳴らなかったことがあるか、という意味でしょうね。故障や点検で鐘を止めた場合も、対象に含まれるのかもしれません」

「……それなら、普通の運用調査でも必要な項目ね」

「はい。ただ、なぜ記憶欠落に関する調査で、この項目まで求めたのかは不明です」

 

セレネはもう一度、四つの項目を見つめた。

 

定時の鐘。

 

定時外の鐘。

 

機構の停止。

 

そして、鳴るはずだったのに鳴らなかった鐘。

 

いずれも、鐘楼がどのように運用されていたのかを確かめるための情報だった。

 

しかし、それらを記憶欠落の事例と比較しようとした理由までは、まだわからなかった。

 

「……ミラ。回答は残っているの?」

 

セレネが尋ねた。

 

ミラは紙面の下部を確認した。

 

そこには、回答に関する欄が設けられていた。しかし、文字は記されていなかった。

 

「……空欄ですね」

 

ミラが呟いた。

 

セレネはその部分を見つめた。

 

「……回答がなかったということ?」

「いいえ。空欄だからといって、回答がなかったとは限りません」

 

ミラは首を横に振った。

 

「別の書類で回答した可能性もありますし、この控えには結果を記入しない運用だったのかもしれません」

 

保存担当の職員も頷いた。

 

「古い照会控には、受付に関する事項だけが記されているものもあります。回答書を別に綴じていた場合、こちらの欄は使われないことがありますから」

 

セレネは静かに頷いた。

 

書かれていないことを、そのまま起きなかったこととして扱うわけにはいかない。それは、昨日までの振動測定でも繰り返し確かめてきたことだった。

 

*

 

二人は残る書類を調べ始めた。

 

照会控のほかには、古い管理番号を記した紙片や、別の部署への移管を示す短い記録が残されている。ただし、どれも完全な資料ではなかった。

 

「……ミラ、これは?」

 

セレネが指さしたのは、照会控の裏面に残された小さな記述だった。

 

紙の端に近い位置に、細い文字が書き加えられている。

 

『照合用別綴を参照。』

 

その横には、別の管理番号が記されていた。

 

ミラは顔を近づけた。

 

「……別綴?」

 

彼女は番号を慎重に書き写した。

 

「照会控とは別に、照合のための資料をまとめた綴りがあったのかもしれません」

「……それが回答書なの?」

「まだわかりません。照合用と書かれているだけですから、運用簿の写しなのか、比較表なのか、それとも別の資料なのかは判断できません」

 

セレネは番号を見つめた。

 

別の管理番号があるということは、かつて対応する資料が整理されていた可能性がある。しかし、現在も残っているかどうかは不明だった。

 

「……この番号から探せるかしら」

 

セレネが尋ねた。

 

ミラは保存担当の職員へ視線を向けた。

 

「この別綴に対応する管理番号を、現在の保管一覧から調べることはできますか?」

 

職員は書き写された番号を受け取り、少し考えた。

 

「古い分類番号ですね。今の管理番号に対応する一覧が残っていれば、探せるかもしれません。ただ、この番号だけでは難しい可能性もあります」

「……そうですか」

 

ミラは頷いた。

 

「それでも、一度確認していただけますか」

「ええ。関連する管理票を調べてみましょう」

 

職員は記録を受け取り、保管室へ戻っていった。

 

セレネは照会控へ視線を戻した。

 

二十六年前の調査では、記憶欠落の事例が確認された日の前日から翌朝までを対象に、鐘楼の運用状況が照会されていた。

 

しかも、求められていたのは鐘が鳴った記録だけではない。

 

鳴らなかった時刻についても、確認しようとしていた。

 

そして、その照会控には、別の照合資料を参照するよう記されていた。

 

「……ミラ」

 

セレネが声をかけた。

 

「はい?」

「もし別綴が見つかったら、二十六年前の鐘楼の様子が、もう少しわかるかもしれないわね」

「ええ。ただし、それが記憶欠落との関係を示すものとは限りません」

 

ミラは答えた。

 

「でも、当時の人たちが何を比較しようとしていたのかは、今より詳しくわかるかもしれません」

 

セレネは頷いた。

 

その違いは、今ではよく理解していた。

 

*

 

午後、二人は記録院へ戻った。

 

ミラは今日見つかった照会控の内容を整理し、これまでの調査記録と照合していた。

 

机には、二十六年前の住民生活異常報告に関係する資料の写しと、新しく見つかった照会取扱記録が並んでいる。

 

「……まず、調査番号の関係は確認できましたね」

 

ミラが言った。

 

「ええ。昨日までは、同じ調査なのかどうかも確かではなかったもの」

「はい。元調査登録番号が一致しているので、今回の照会がどの調査に属していたのかは明確になりました」

 

ミラは手帳に新しい項目を書き加えた。

 

『二十六年前の鐘楼運用簿照会について、元調査登録番号を照合。住民生活異常報告の関連調査に属することを確認。』

 

続いて、照会対象の期間と内容を書き写していく。

 

『照会対象期間は、事例確認日の前日から翌朝まで。』

 

『定時鳴動、定時外鳴動、鐘具の停止・点検、予定鳴動の不実施について照会。』

 

『回答欄は空欄。回答の有無および内容は未確認。』

 

『照合用別綴への参照あり。所在未確認。』

 

セレネは最後の二行を見つめた。

 

回答欄は空欄。

 

しかし、別の照合資料を参照するよう記されている。

 

「……別綴に、回答がまとめられていた可能性もあるのね」

 

セレネが言った。

 

「はい。でも、照会控に記された参照先が、回答書だったと決まったわけではありません」

 

ミラは頷いた。

 

「当時の書類の整理方法を調べれば、少しはわかるかもしれません」

「……そうね」

 

セレネは机の上の資料を見つめた。

 

二十六年前、誰かが記憶欠落の事例を調べていた。

 

その調査では、公共施設の運用状況が比較対象として挙げられている。

 

そして、鐘楼については、実際に運用記録の照会が受け付けられていた。

 

調査の手続きは、少しずつ明らかになっていた。しかし、肝心の結果はまだ見つかっていない。

 

「……ミラ」

 

セレネは顔を上げた。

 

「何でしょうか?」

「どうして、鳴らなかった時刻まで調べようとしたのかしら」

 

ミラは少し考えた。

 

「……通常の運用記録との違いを確かめたかったのかもしれません」

 

彼女は照会項目を指さした。

 

「予定どおり鐘が鳴ったか。予定外に鳴ったことはないか。点検や故障で止めたことはないか。それらを調べれば、その期間の鐘楼の運用状況を整理できます」

 

セレネは頷いた。

 

「……そうね。特別な理由がなくても、必要になりそうだわ」

「ええ。ただ、当時の調査者が何を疑っていたのかまでは、まだわかりません」

 

ミラは記録を閉じた。

 

セレネは窓の外へ目を向けた。

 

大鐘楼は、今日も鳴っていない。

 

今の灰鐘市なら、鐘が鳴らなかった時刻を記録することは難しくないだろう。

 

十三日前の午前十時十七分を境に、鐘楼は沈黙を続けている。

 

しかし、二十六年前の運用状況はわからない。

 

当時、鐘は通常どおり鳴っていたのか。

 

予定外の鳴動があったのか。

 

あるいは、何らかの理由で止められていたのか。

 

どの可能性についても、今の資料だけでは判断できなかった。

 

「……結果を探しましょう」

 

セレネが静かに言った。

 

「ええ。別綴の所在について、返答が届いたらすぐに確認します」

 

ミラは頷いた。

 

*

 

夕方、セレネは再び中央広場を歩いていた。

 

掲示板の横では、数人の住民が時計を見上げている。市場から戻ってきた商人が時刻を確かめ、荷物を運ぶ若者たちがその横を通り過ぎた。

 

大鐘楼の周囲には、今も立ち入りを制限する縄が張られている。

 

セレネは足を止め、塔を見上げた。

 

十三日前の午前十時十七分。

 

地下で半月の刻印が光り、同じ時刻に大鐘楼の鐘は止まった。

 

その事実は変わらない。

 

一方、二十六年前の照会控には、予定された鐘が鳴らなかった時刻を調べるよう求める記述が残されていた。

 

二つの出来事の間に関係があるという証拠はない。

 

そもそも、二十六年前に鐘が鳴らなかった時間が存在したのかどうかさえ、不明だった。

 

しかし、セレネの心には一つの疑問が残っていた。

 

自分たちは、鐘が鳴った時刻ばかりを気にしていたのではないだろうか。

 

灰鐘市へ到着した日の定時外の鐘音。

 

翌日の日中に聞いた音。

 

そして、その夜の鐘に似た音。

 

いずれも、何かが聞こえたことを手掛かりにしている。

 

けれど、定時に鐘が鳴らなかったことがあったとしても、それを聞き逃したままにしていた可能性はある。

 

「……鳴らなかった時刻、ね」

 

セレネは小さく呟いた。

 

鐘の音が聞こえなかったことと、鐘が鳴らなかったことは同じではない。

 

建物の中にいれば、外の鐘音に気づかなかったかもしれない。遠くにいれば、風や街の騒音に紛れた可能性もある。

 

そう考えると、実際の運用記録を確かめる必要があるのだろう。

 

セレネは静かに歩き始めた。

 

大鐘楼の沈黙は、今も続いている。

 

しかし、今日の調査で知ったのは、現在の沈黙についてではなかった。

 

二十六年前の人々が、鐘が鳴った時刻だけでなく、鳴るはずだった時刻に鳴らなかったことがあるかどうかまで、調べようとしていたことだった。

 

*

 

夜、セレネは宿の机に今日の資料を広げていた。

 

二十六年前の照会取扱記録。

 

鐘楼運用記録の照会控。

 

そして、別綴を示す管理番号。

 

いずれも、当時の調査結果そのものではなかった。

 

しかし、今日の調査で、以前より確かなことが一つ増えている。

 

鐘楼の運用記録に関する照会は、二十六年前の住民生活異常報告に属する調査の手続きだった。

 

セレネは黒い手帳を開いた。

 

灰鐘市に来てからの出来事を記したページが並んでいる。

 

その隣には、定時外の鐘音を三件に分けて整理した別紙を置いた。

 

一日目。

 

二日目の日中。

 

そして、同じ日の夜。

 

セレネは記録を見比べた。

 

初日の鐘音と、二日目の日中に聞いた音。

 

その二つについては、定時外に鐘が響いたという認識が残っている。

 

一方、二日目の夜に聞いたものは、鐘に似た音だった。

 

実際に鐘の機構が動いたかどうかは、確認できていない。

 

セレネはさらに、今日の照会控を手に取った。

 

そこには四つの調査項目が並んでいる。

 

定時鳴動。

 

定時外鳴動。

 

鐘具の停止と点検。

 

そして、予定された鳴動が実施されなかった時刻。

 

セレネは最後の項目を見つめた。

 

これまで、自分が聞いた異常な鐘音については整理してきた。けれど、滞在初日から鐘が止まるまでの間に、予定された鐘が鳴らなかったことがあるのかどうかは、詳しく調べていなかった。

 

「……私たちも、調べる必要があるのね」

 

セレネは静かに呟いた。

 

今の鐘楼は、すでに停止している。しかし、停止する前の記録については、確認できることが残っているはずだった。

 

管理部門の運用日誌。

 

鐘の時刻を確認するための記録。

 

そして、もし残されているのなら、予定された鳴動が実施されなかったことについての報告。

 

セレネは手帳の余白に一文を書き加えた。

 

『鐘が鳴った時刻だけでなく、鳴らなかった時刻も確認する。』

 

筆を置くと、彼女はしばらくその文字を見つめた。

 

何かが起きたことを調べるのは、比較的わかりやすい。

 

音がした。

 

光が見えた。

 

何かが動いた。

 

そうした出来事は、少なくとも目撃した者の記憶や記録に残りやすい。

 

しかし、起きるはずだったことが起きなかった場合は違う。

 

誰かが気づかなければ、記録さえ残らないかもしれない。

 

セレネは机に置いた照会控へ視線を戻した。

 

二十六年前の調査者たちは、なぜ鳴らなかった時刻まで確認しようとしたのだろう。

 

記憶欠落の事例と何かを比較するためだったのか。

 

それとも、単に施設の運用状況を詳しく調べるためだったのか。

 

答えは、まだわからなかった。

 

ただ、当時の照会では、確認日前日から翌朝までの運用記録が求められていた。

 

その事実は、今の自分たちが調査を進めるうえでも、一つの参考になるはずだった。

 

セレネは黒い手帳を閉じた。

 

窓の外には、淡い月が浮かんでいる。

 

大鐘楼は、今夜も沈黙していた。

 

百八十年前の地下で記録された震え。

 

十三日前の午前十時十七分に起きた異常。

 

そして、二十六年前に行われた鐘楼運用簿への照会。

 

それぞれが同じ原因に結びつくのかどうかは、わからない。

 

しかし、今日見つかった資料は、これまで意識していなかった一つの調査項目を示していた。

 

鐘が鳴った時刻ではない。

 

鐘が鳴るはずだったのに、鳴らなかった時刻。

 

セレネはランタンの灯りを落とした。

 

暗くなった部屋に、月明かりが差し込んでくる。

 

明日は、ミラとともに現在の鐘楼運用記録を調べよう。

 

二十六年前の照合用別綴についても、所在を確かめる必要がある。

 

そのどちらに答えが残されているのかは、まだわからない。

 

それでも、調べるべきことは明らかになっていた。

 

セレネは静かに目を閉じた。

 

音がないことは、何も起きていないことを意味しない。

 

けれど、沈黙に意味があるのかどうかも、確かめなければわからない。

 

大鐘楼の鐘は、今夜も鳴らなかった。

 

その静けさの中に、まだ見落としている何かがあるのかもしれなかった。

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