月は、失われた名を憶えている   作:ノイリ

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第3話 記録院の研究者

灰鐘市の朝は、鐘の音とともに始まる。

 

街の中央にそびえる大鐘楼が時を告げると、商人たちは店の扉を開き、職人たちは工房へ向かう。学生たちは書物を抱え、石畳の道を急いでいた。

 

昨日、断章獣が出現した街路にも、すでに人々の姿が戻っていた。砕けた石畳は応急的に修復され、建物の壁には補強用の木材が打ちつけられている。異形が暴れた痕跡は残っていたが、人々はいつもどおりの一日を始めようとしていた。

 

セレネは、宿屋の一室で黒い手帳を開いていた。

 

机の上には湯気の立つ紅茶と、昨夜から読み返している数枚の記録が並んでいる。記録には、昨日の診療所で確認した症状が細かく書き込まれていた。

 

記憶の選択的な欠落。通常の精神干渉術では検出されない異常。そして、月蝶によって確認された、不自然な記憶の断絶。

 

いずれも事実として記録したものだった。だが、その原因については、まだ何も断定できない。

 

「……共通点は、ある」

 

セレネは記録を見つめた。

 

記憶の痕跡が途切れているという点では、患者たちの症状は一致していた。しかし、それだけで同じ原因によるものだと決めつけることはできない。

 

異なる病気が似た症状を生むこともある。同じ魔術が、異なる結果を引き起こすこともある。重要なのは、偶然では説明できない一致を見つけることだった。

 

セレネは紅茶を一口飲んだ。少し冷めていたが、香りは悪くない。

 

彼女は手帳の新しい頁を開き、今日の日付を書き込んだ。

 

『灰鐘市滞在二日目』

 

その下に、今日の目的を記す。

 

『市立記録院にて過去の事例を調査』

『研究者ミラ・フェルンとの接触』

 

筆を止め、窓の外へ視線を向けた。

 

遠くには大鐘楼が見える。昨日、予定外に鳴り響いた鐘。あのとき感じた奇妙な反響も、調べるべきことの一つだった。

 

ただし、鐘と記憶の欠落が関係しているという証拠は、まだない。

 

セレネは手帳を閉じた。

 

「……行きましょうか」

 

黒金の杖を手に取り、宿屋を後にした。

 

*

 

灰鐘市立記録院は、街の東側にある学術区の中心に建っていた。

 

白い石材で造られた巨大な建物は、四階建ての本館と二つの別棟から構成されている。正面入口には六本の円柱が並び、その上部には古い文字で一文が刻まれていた。

 

『記されたものは、時を越えて語る』

 

セレネはその言葉を見上げた。

 

記録があれば、過去を知ることができる。たとえ本人が忘れてしまっても、紙に残された名前や出来事は失われない。

 

少なくとも、記録そのものが残っている限りは。

 

セレネは自分の手帳へ視線を落とした。

 

五年前に目覚めて以来、彼女は毎日の出来事を欠かさず書き残していた。最初の頃は単なる習慣のつもりだったが、旅を続けるうちに、その意味は次第に大きくなっていった。

 

自分の記憶は、すでに一度失われている。ならば、今覚えていることも、いつか失われるかもしれない。

 

そう考えると、記録を残さずにはいられなかった。

 

セレネは入口の扉を押し開けた。

 

館内には、古い紙と乾いた木材の匂いが漂っていた。高い天井からは魔術灯が吊るされ、広々とした閲覧室を柔らかな光で照らしている。

 

壁一面には書棚が並び、何人もの研究者や学生が書物を読んでいた。中央の受付では、数人の職員が貸出記録の整理をしている。

 

セレネが近づくと、受付にいた若い男性が顔を上げた。

 

「いらっしゃいませ。閲覧のご利用ですか?」

「ええ。少し調べたいことがあるの」

「調査内容をお伺いしてもよろしいでしょうか?」

「過去に起きた、記憶の欠落について」

 

男性の表情が、わずかに変わった。

 

「……欠月現象ですか?」

「最近は、そう呼ばれているようね」

「それでしたら、医療関係の記録でしょうか。ただ、古い診療記録は一般公開されていないものも多くて……」

「個人の診療記録を、無断で見せてもらうつもりはないわ」

 

セレネは落ち着いて答えた。

 

「公開されている事故報告や、過去の異常現象についての資料を探しているの」

「なるほど。それでしたら、歴史資料部門がよろしいかと」

 

男性は館内の案内図を取り出した。

 

「二階の第三閲覧室です。ただ、専門的な資料ですと、担当の研究者へご相談いただいた方が早いかもしれません」

「ミラ・フェルンという人を探しているのだけれど」

 

その名前を聞いた途端、男性は困ったように笑った。

 

「ああ、ミラさんですか」

「知っているのね」

「ええ。現在も勤務中のはずですが……」

 

男性は背後の廊下へ視線を向けた。

 

そのときだった。

 

「その分類は違います!」

 

奥の方から、女性の声が聞こえた。

 

静かな記録院には、少しばかり大きすぎる声だった。

 

「発見された年代と、作成された年代を一緒にしないでください! この文書は後世の写本です!」

「で、ですが、ミラさん……」

「表紙の年代だけで判断したら、百年前の出来事が三百年前の事件になってしまいます!」

 

受付の男性は額に手を当てた。

 

「……ちょうど、あちらにいらっしゃるようです」

 

セレネは声のする方向を見た。

 

廊下の奥で、一人の若い女性が大量の書類を抱えていた。肩まで伸びた濃い茶色の髪を後ろでまとめ、紺色の上着に動きやすそうな長いスカートを合わせている。

 

腕には何冊もの書物。指先には、インクの汚れが残っていた。

 

女性は目の前の職員へ、古い文書を指し示している。

 

「ここを見てください。筆跡も紙の製法も、記載されている年代と一致していません。だから、原本として登録してはいけないんです」

「わ、わかりました。修正します」

「お願いします。あと、この文書の出典も確認しておいてください」

 

そう言い終えると、女性はようやく顔を上げた。

 

その視線が、セレネとぶつかる。

 

一瞬、女性は目を瞬かせた。だが、すぐに書類を抱え直した。

 

「……何か?」

 

セレネは彼女の前へ歩み寄った。

 

「ミラ・フェルン?」

「そうですが」

「少し、話を聞きたいの」

「調査の相談でしたら、受付で申請をお願いします。今、資料の整理中なので」

「静夜診療所の院長から、あなたを紹介されたわ」

 

その言葉に、ミラの手が止まった。

 

「……診療所?」

「記憶の欠落について調べているの」

 

ミラの表情が変わった。

 

先ほどまでの忙しそうな様子が消え、研究者らしい鋭い眼差しがセレネへ向けられる。

 

「……それは、少し詳しく聞きたいですね」

 

*

 

第三閲覧室は、本館の二階にあった。

 

大きな窓から自然光が差し込み、部屋の中央には長い木製の机が並んでいる。ミラは抱えていた資料を整理すると、机の向かい側に腰を下ろした。

 

「改めまして。ミラ・フェルンです。ここで歴史資料の調査と整理を担当しています」

「セレネよ」

「セレネさんですね。それで、記憶の欠落について調べているというのは?」

 

セレネは昨日の出来事を説明した。

 

娘に関する記憶を失った母親。同様の症状を持つ複数の患者。通常の精神干渉術では異常が検出されなかったこと。そして、過去にも似た事例があったらしいこと。

 

ミラは途中で口を挟まずに聞いていた。しかし、説明が終わると、すぐに質問した。

 

「確認させてください。その患者さんたちは、全員同じ症状だったんですか?」

「失われた記憶の内容は違うわ」

「では、同じ現象だと判断した根拠は?」

「記憶の痕跡に、共通する断絶があったの」

 

ミラの眉が動いた。

 

「……記憶の痕跡?」

「ええ」

「それは、どうやって確認したんですか?」

「私の権能で」

 

ミラは黙った。

 

数秒ほど、セレネを見つめる。それから、ゆっくりと口を開いた。

 

「……権能、とおっしゃいました?」

「ええ」

「魔術ではなく?」

「違うわ」

「なるほど……」

 

ミラは腕を組んだ。

 

「ずいぶん大胆な説明ですね」

 

セレネは首を傾げた。

 

「そう?」

「ええ。権能という言葉は、簡単に使えるものではありませんから」

 

その言葉に、セレネは不快そうな顔をしなかった。

 

「証明が必要ということ?」

「少なくとも、私はまだ、あなたが何を観測したのか確認できていません」

 

ミラは机の上へ手を置いた。

 

「記憶の痕跡というものが存在するのか。存在するとして、それが何を意味するのか。そこを確かめない限り、同じ原因による症状とは判断できないと思います」

 

セレネはしばらく彼女を見つめた。それから、小さく頷く。

 

「……そうね」

 

ミラは少し意外そうな表情を浮かべた。

 

「反論しないんですか?」

「あなたの言うことは、もっともだもの」

「…………」

「私が観測したものは、あなたには見えていない。なら、私の説明だけでは判断できないでしょう」

 

セレネは落ち着いた声で続けた。

 

「だから、別の証拠を探しに来たの」

 

ミラは一瞬、言葉を失った。そして、思わず小さく笑った。

 

「……なるほど」

 

彼女は椅子に深く腰掛け直した。

 

「少なくとも、話は通じそうですね」

「通じないと思っていたの?」

「正直に言うと、少しだけ」

「そう」

 

セレネは特に気にした様子もなかった。

 

ミラは咳払いをすると、話題を戻した。

 

「では、過去の記録を調べましょう。ただし、最初から欠月現象という名前で探すのはおすすめしません」

「どうして?」

「その呼び名が、いつから使われているのかわからないからです」

 

ミラは机の上に一冊の資料目録を広げた。

 

「過去に同じ出来事が起きていたとしても、当時の人々が別の名前で記録していた可能性があります」

「……なるほど」

「調査では、現在の呼び名に引っ張られないことが重要なんです」

 

ミラは指先で目録をなぞった。

 

「記憶喪失、人物認識の異常、精神混乱、身元不明。関連しそうな分類から探してみましょう」

 

セレネは、その手元を見つめた。

 

情報を集めるだけなら、自分一人でもできる。だが、どの情報を探し、何を比較すべきか。それを判断するには、別の知識が必要になる。

 

目の前の研究者は、その分野に慣れているようだった。

 

「……頼りになりそうね」

 

セレネがそう告げると、ミラは書類をめくる手を止めた。

 

「まだ何も見つけていませんよ」

「でも、調べ方はわかったわ」

「それはどうも」

 

ミラは少しだけ口元を緩めた。

 

「では、始めましょうか」

 

*

 

調査を始めて一時間ほどが過ぎた。

 

机の上には、古い事故報告書や医療史に関する資料が積み重なっている。最初に見つかったのは、十二年前の記録だった。

 

『北区住民、近親者に関する記憶を喪失』

 

当時は原因不明の精神障害として処理されていたらしい。詳細な診療記録は非公開だったが、市へ提出された調査報告の概要が残されていた。

 

ミラは内容を読み上げた。

 

「患者は成人男性。家族構成や職業に関する知識は保持しているものの、特定の親族と過ごした経験を思い出せなくなった……」

 

セレネは目を細めた。

 

「昨日の患者さんたちと似ているわね」

「似ています。ただ、この記録だけでは同じ原因かどうかはわかりません」

「ええ」

 

ミラは次の資料を取り出した。

 

「こちらは二十六年前の報告です」

 

そこには、夫の存在を認識できなくなった女性について記されていた。女性は自宅の場所も、自分の仕事も覚えていた。

 

しかし、夫との結婚生活についてだけ、記憶を失っていたという。

 

「……ここまで似ていると、偶然とは考えにくいですね」

 

ミラが呟いた。

 

「でも、記録の数が少ないわ」

「そうなんです」

 

ミラは難しい顔をした。

 

「当時は単独の症例として扱われていたようです。記録の保管状況もよくありません」

 

セレネは報告書を手に取った。

 

紙は黄ばみ、端が少し破れている。だが、記載された文字はまだ読めた。

 

患者の年齢、症状、発症時期、担当者による所見。それらを確認しながら、セレネは考えていた。

 

「……発症した場所は、灰鐘市なのね」

「ええ」

「その前に、どこかへ出かけていた記録は?」

「この報告にはありません」

「家族の証言は?」

「簡単なものだけです。詳細な聴取記録は見当たりません」

 

セレネは資料を置いた。

 

「……情報が足りないわね」

「古い事件を調べると、よくあることです」

 

ミラは別の書類を開いた。

 

「そもそも、何を重要だと思って記録するかは、その時代の人間が決めますから」

「……そうね」

「当時は関係ないと思われたことが、後から重要になることもあります」

 

ミラは少しだけ苦笑した。

 

「だから、記録を読むときは、書いてあることだけでなく、何が書かれていないかも考えないといけません」

 

その言葉に、セレネは手を止めた。

 

何が書かれていないか。

 

彼女は、自分の手帳を思い浮かべた。

 

五年前から続けている、毎日の記録。そこには、起きた出来事ができる限り詳しく書かれている。

 

だが、どれほど細かく記録しても、すべてを残せるわけではない。そのとき何を感じたのか。なぜ、その言葉を選んだのか。何を恐れ、何を願っていたのか。

 

文字に残せるのは、ほんの一部にすぎない。

 

「……難しいものね」

 

セレネが呟く。

 

「ええ。記録は便利ですが、万能ではありません」

 

ミラは頷いた。

 

「ただ、何も残さないよりは、ずっといい」

 

セレネは、その言葉に少しだけ目を細めた。

 

「……同感ね」

 

二人は再び、資料へ視線を戻した。

 

*

 

昼を過ぎた頃、ミラは一冊の古い資料目録を持って戻ってきた。

 

「少し気になるものを見つけました」

「何かしら」

「二十六年前の記憶喪失事件について、別の部署が調査した記録があるようです」

 

ミラは目録を机に広げた。

 

「医療関係ではなく、市の施設管理部門に分類されています」

 

セレネは首を傾げた。

 

「施設管理?」

「私も最初は不思議だったんですが……」

 

ミラは記載された項目を指さした。

 

『灰鐘市北区・住民生活異常報告』

 

その下には、小さな文字で補足が書かれている。

 

『公共施設の運用状況との関連調査』

 

「……公共施設?」

 

セレネが繰り返した。

 

「ええ。当時、何かの施設が関係していると疑われたのかもしれません」

「その調査結果は?」

「まだ確認できていません。資料そのものは別棟の保管庫にあるはずです」

 

ミラは目録を閉じた。

 

「ただし、閲覧には申請が必要です」

「なら、申請しましょう」

「簡単に言いますね」

「難しいの?」

 

ミラは小さく息を吐いた。

 

「古い行政記録は、担当部署の確認が必要なことがあります。それに、所在が目録どおりとは限りません」

 

彼女は積まれた資料を見た。

 

「この記録院、資料の数に対して整理が追いついていないんです」

「それは困ったわね」

「研究者としては、毎日のように困っています」

 

セレネは少し考えた。

 

「あなたが調べれば、見つかる可能性はある?」

「あります。ただ、時間はかかるでしょうね」

「そう」

 

セレネは頷いた。

 

「なら、待つわ」

 

ミラは意外そうに顔を上げた。

 

「……急いでいるんじゃないんですか?」

「急いでいるわ」

「では、どうして?」

「今すぐ資料を開けたところで、間違ったものを読んでいたら意味がないでしょう」

 

セレネは机に積まれた書類を見た。

 

「あなたは資料の管理方法を知っている。私は知らない。なら、あなたの判断に従う方が合理的よ」

 

ミラは黙った。しばらくして、軽く肩をすくめる。

 

「……変わった人ですね」

「よく言われるわ」

「でしょうね」

 

ミラは小さく笑った。

 

「では、申請してきます。その間、こちらの資料を読んでいてください」

 

彼女は数冊の記録を机に置いた。

 

「古い都市地図と、大鐘楼の管理記録です」

 

セレネの手が止まった。

 

「大鐘楼?」

「ええ。公共施設の調査なら、主要施設の記録も確認しておいた方がいいでしょう」

「……なるほど」

 

セレネは資料を受け取った。

 

ミラが閲覧室を出ていく。

 

その後ろ姿を見送りながら、セレネは大鐘楼の記録を開いた。

 

最初の頁には、建設年代や修復工事についての概要が記されていた。現在の鐘楼は、およそ百八十年前に大規模な改修を受けている。

 

しかし、建物の基礎部分は、それよりも古いものを利用しているらしい。

 

『旧施設の基礎構造を継承』

 

セレネは、その一文を見つめた。

 

「……旧施設?」

 

その下には、改修工事に関する詳しい資料の参照番号が記されていた。

 

だが、参照先の頁は欠けていた。

 

破れたのではない。綴じられた資料の途中から、数枚だけが取り外されている。

 

糸の結び目には、後から綴じ直した形跡があった。

 

セレネは指先で、その部分をなぞった。

 

「……これは」

 

記録そのものが、存在しない。あるいは、どこかへ移された。

 

どちらなのかは、まだわからない。

 

彼女は資料の番号を手帳へ書き留めた。

 

そのときだった。

 

――ゴォン。

 

遠くから、大鐘楼の音が響いた。

 

セレネは顔を上げた。

 

窓の向こうに、灰色の時計塔が見える。

 

鐘の音は、昨日と同じように街へ広がっていく。

 

しかし。

 

「……?」

 

セレネは机の上の時計を見た。

 

針は、まだ次の時刻を指していない。周囲の閲覧者たちも、何人かが不思議そうに顔を上げている。

 

「また……」

 

セレネは目を閉じた。

 

鐘の音に意識を向ける。空気を伝わる振動。石壁に反響する低い響き。

 

そして、その奥にある、別の何か。

 

月蝶の感覚をわずかに広げると、細い銀色の反響が一瞬だけ浮かび上がった。

 

だが、次の瞬間には消えていた。

 

どこから来たのか。何につながっているのか。判断するには、あまりにも短い反応だった。

 

セレネは目を開けた。

 

「……昨日と同じ」

 

記憶の痕跡を調べたときとは、少し異なる感覚。だが、完全に無関係とも思えなかった。

 

彼女は手帳を開き、時刻を書き留める。

 

『大鐘楼、予定外の鳴動を確認』

『月蝶による微弱な反響あり』

 

そこまで記したところで、ミラが戻ってきた。

 

「お待たせしました。申請は受理されましたよ」

「ありがとう」

「ただ、資料を出してもらえるのは明日以降になるそうです」

「そう」

 

セレネは手帳を閉じた。

 

ミラは机の上に開かれている鐘楼の記録を見つけた。

 

「ああ、それを読んでいたんですね」

「ええ。少し気になることがあったの」

「何でしょう?」

「この鐘楼の基礎部分は、以前の施設を利用しているのね」

「そうですね。確か、改修前にも建物があったはずです」

「何の施設だったの?」

 

ミラは少し考えた。

 

「詳しくは覚えていません。ただ、古い都市地図に何か記載があった気がします」

「調べられる?」

「ええ。少し待ってください」

 

ミラは書棚へ向かった。

 

セレネは、その後ろ姿を見つめた。

 

鐘の異常。古い施設。取り外された資料。

 

現時点では、互いを結びつける証拠はない。だが、調べるべき場所は少しずつ絞られてきていた。

 

*

 

「……ありました」

 

しばらくして、ミラが大きな地図を抱えて戻ってきた。

 

古い羊皮紙に描かれた灰鐘市の地図だった。現在の街並みとは、道路の配置も建物の位置も少し異なっている。

 

「これは、およそ百九十年前の都市地図です」

 

ミラは机の上に地図を広げた。

 

「大鐘楼が現在の形になる前のものですね」

 

セレネは身を乗り出した。

 

地図には、古い城壁や水路、当時の公共施設が細かく描かれている。

 

そして、街の中央には、現在の大鐘楼と同じ位置に大きな建物があった。ただし、その形は今とは違っていた。

 

円形の基礎。そこから四方へ伸びる細い通路。中央には、見慣れない紋様が描かれている。

 

「……これは?」

 

セレネが尋ねる。

 

ミラは地図の端に記された注釈を確認した。

 

「古い施設の配置図みたいですね。ただ、名称が……」

 

彼女は顔を近づけた。

 

文字の一部がかすれ、読み取りにくくなっている。

 

「『旧……応施設』でしょうか」

 

セレネはその文字を見た。

 

使われているのは、古い形式の表記だった。現代の人々には読みづらいかもしれないが、セレネには意味を取ることができた。

 

「……照応」

 

ミラが顔を上げた。

 

「え?」

「最初の文字は、照らすという意味の『照』。合わせて『照応』と読むのだと思うわ」

 

ミラは地図を見直した。

 

「……本当ですね。古い略字だったんだ」

「この施設について、ほかに記録はある?」

「少なくとも、この地図には詳しい説明がありません」

 

ミラはしばらく考えた。

 

「ただ、照応という言葉は、昔の記録技術に関する文献で見かけたことがあります」

 

セレネの視線が動いた。

 

「記録技術?」

「はい。今ではほとんど使われない古い技術です」

 

ミラは地図の中央を指さした。

 

「ただ、具体的に何を記録していたのかまでは、私も知りません」

「……そう」

 

セレネは地図を見つめた。

 

円形の基礎。四方へ伸びる通路。そして、その中心に描かれた、奇妙な紋様。

 

なぜだろう。

 

初めて見るはずなのに、どこか懐かしい。

 

いや。懐かしいというよりも、知っている。

 

その感覚の方が近かった。

 

「……セレネさん?」

 

ミラの声で、意識が戻った。

 

「どうかしました?」

「少し、気になることがあるだけよ」

「この施設についてですか?」

「ええ」

 

セレネは地図から目を離した。

 

「でも、まだ何もわからないわ」

 

ミラは頷いた。

 

「なら、調べましょう」

 

その言葉に、セレネは目を瞬かせた。

 

「……いいの?」

「何がですか?」

「あなたの仕事もあるでしょう」

「ありますよ」

 

ミラは当然のように答えた。

 

「でも、これも立派な歴史調査です。それに、記憶の欠落と古い記録施設に何らかの関係があるなら、放っておけません」

「まだ、関係があるとは限らないわ」

「もちろんです」

 

ミラは地図を丁寧に畳み始めた。

 

「だからこそ、調べて確かめるんでしょう?」

 

セレネは黙った。それから、ほんのわずかに口元を緩めた。

 

「……そうね」

 

ミラはその表情を見て、少し意外そうな顔をした。

 

しかし、何も言わなかった。

 

*

 

夕方。

 

記録院の閉館時刻が近づき、閲覧室にいた研究者たちが次々と書物を片づけ始めていた。

 

セレネも、机の上の資料を整理していた。

 

今日わかったことは、決して多くない。

 

過去にも、現在の欠月現象と似た症状が報告されていた。少なくとも数十年前から、灰鐘市では原因不明の記憶喪失が散発的に発生している。

 

また、大鐘楼の地下には、現在の建物よりも古い施設の基礎が残されている可能性がある。

 

そして、その施設には『照応』という言葉が関係していた。

 

ただし、どれもまだ断片的な情報にすぎない。

 

「明日は、申請した行政記録を確認しましょう」

 

ミラがそう言った。

 

「それと、鐘楼の古い改修記録も探してみます」

「ありがとう」

 

セレネは頷いた。

 

「随分と助かったわ」

「いえ。私も興味が出てきましたから」

 

ミラは軽く笑った。

 

「それに、あなたと話していると、少し不思議な気分になるんです」

「どうして?」

「知らないはずの古い文字を、当たり前のように読んでしまうでしょう」

 

セレネは少しだけ視線を逸らした。

 

「……昔、覚えたのかもしれないわ」

「昔?」

「ええ」

 

セレネは手帳を鞄にしまった。

 

「私は、自分の過去をほとんど覚えていないの」

 

ミラの表情が変わった。

 

「……記憶喪失、ということですか?」

「そうね」

「いつから?」

「五年前に目覚めたときには、もう失っていたわ」

 

ミラは言葉を失った。

 

それから、慎重に尋ねた。

 

「では、あなたが記憶の欠落を調べているのは……」

「自分のことを知るためでもあるわ」

 

セレネは隠さずに答えた。

 

「でも、それだけではない」

 

黄金の瞳が、窓の外へ向けられる。

 

「昨日、ある少女に出会ったの」

 

ミラは黙って聞いていた。

 

「母親に忘れられてしまった子よ」

「……それは」

「その子に、記憶を取り戻せるかと聞かれたわ」

 

セレネは一度、言葉を止めた。

 

「私は、今はできないと答えた」

 

ミラは何も言わなかった。

 

「だから、調べることにしたの」

「……それだけですか?」

 

セレネは彼女を見た。

 

「ほかに理由が必要?」

 

ミラはしばらく考えた。そして、小さく首を振った。

 

「いいえ」

 

彼女は机に置いていた書類を抱え直した。

 

「十分だと思います」

 

セレネは頷いた。

 

二人は並んで閲覧室を出た。

 

廊下の窓からは、夕暮れの灰鐘市が見える。遠くの大鐘楼が、赤く染まり始めた空を背に立っていた。

 

「……そういえば」

 

ミラが足を止めた。

 

「昨日から、鐘の音がおかしいという話を聞いていますか?」

 

セレネは彼女へ視線を向けた。

 

「ええ」

「時報でもない時間に、鐘が鳴るらしいんです」

「昨日も今日も、聞いたわ」

「そうなんですか?」

 

ミラは驚いたように目を開いた。

 

「私は昨日、別棟の資料室にいたので気づかなかったんですが……」

「あなたは、いつから異常な鐘の音が鳴っているか知っている?」

「正確にはわかりません。ただ、以前にも似た報告があったはずです」

「以前にも?」

「ええ。確か、古い設備点検の記録に……」

 

ミラは考え込んだ。

 

「……少し待ってください」

 

彼女は抱えていた書類を見直した。

 

その中から、薄い紙を一枚取り出す。古い施設管理報告の写しだった。

 

「これです」

 

セレネは紙を受け取った。

 

そこには、三十四年前の大鐘楼についての報告が記されていた。鐘楼の内部設備に異常がないか調査した際の記録らしい。

 

記載された内容は、簡潔だった。

 

『定時外の鳴動を複数回確認』

『鐘楼上部の機構に異常なし』

『原因特定に至らず』

 

セレネの指が止まった。

 

「……機構に、異常はなかったのね」

「そう書かれていますね」

「なのに、鐘が鳴った」

「ええ」

 

ミラは首を傾げた。

 

「古い設備ですから、記録に残らなかった故障があったのかもしれません」

「その可能性はあるわ」

 

セレネは紙を見つめた。

 

「でも、今も同じ異常が起きている」

「……そうですね」

 

ミラの表情が、少しずつ真剣なものへ変わっていく。

 

「もしかして、鐘と記憶の欠落に関係があると?」

「まだ、わからないわ」

 

セレネは即答した。

 

「ただ、昨日も今日も、あの鐘が鳴ったときに奇妙な反響を感じたの」

「反響?」

「月蝶による感覚よ。通常の鐘の音とは違う、何かが混じっている」

 

ミラは考え込んだ。

 

「……それが記憶の欠落と同じ原因なのかは、まだ不明ですね」

「ええ」

「でも、調べる理由にはなる」

 

セレネは頷いた。

 

「そういうことよ」

 

ミラは手元の報告書を見た。

 

「明日、関連する記録をもう少し探しましょう。鐘楼の管理記録なら、比較的見つけやすいはずです」

「お願いするわ」

 

二人は記録院の入口へ向かった。

 

外に出ると、夕暮れの冷たい風が頬を撫でた。街路には帰宅する人々の姿があり、遠くでは商人たちが店じまいを始めている。

 

ミラはセレネへ向き直った。

 

「では、明日もここで」

「ええ」

「……ああ、それと」

 

ミラは少し迷った後、口を開いた。

 

「あなたの権能については、まだ完全に信じたわけではありませんからね」

 

セレネは目を瞬かせた。

 

「そうなの?」

「そうです。私は自分で確認できないことを、簡単には事実として扱いません」

「……いい姿勢ね」

 

セレネは素直に答えた。

 

「その方が、間違いも少ないでしょう」

 

ミラは一瞬、驚いた顔をした。そして、苦笑する。

 

「本当に、変わった人ですね」

「今日、二度目ね」

「ええ。たぶん、明日も言うと思います」

 

セレネは少しだけ目を細めた。

 

「……そう」

 

それだけ答えると、彼女は歩き出した。

 

*

 

宿屋へ戻った頃には、すでに夜になっていた。

 

セレネは部屋の机に向かい、今日の調査内容を手帳へ書き込んでいた。

 

『過去にも欠月現象と類似する事例あり』

『十二年前、二十六年前の記録を確認』

『大鐘楼は旧施設の基礎を利用して建設された可能性』

『旧施設の名称に「照応」の文字あり』

『三十四年前にも定時外の鐘の鳴動を記録』

 

筆先を止める。

 

これらの情報を並べても、まだ答えは見えない。しかし、昨日よりも確実に前へ進んでいた。

 

セレネは手帳の頁をめくった。

 

今日、出会った人物の名前を記録する。

 

『ミラ・フェルン』

 

その下に、短い説明を加えた。

 

『灰鐘市立記録院の研究者』

『古い記録の調査に詳しい』

『証拠のない推測を、容易には受け入れない』

 

そこで、少しだけ筆が止まった。

 

セレネは今日の会話を思い返した。

 

自分の説明を疑い、根拠を求めたこと。古い資料を丁寧に比較していたこと。そして、まだ確かではない調査に協力すると言ってくれたこと。

 

しばらく考えた後、もう一文を書き加える。

 

『調査の進め方について、参考になる意見が多い』

 

それだけ書くと、手帳を閉じた。

 

窓の外には、月が昇っていた。雲の切れ間から覗く、淡い銀色の月。

 

セレネは椅子を離れ、窓辺へ歩み寄った。

 

月明かりが、長い白銀の髪を照らす。遠くには、大鐘楼の黒い影が見えた。

 

昼間に見つけた、古い地図。円形の基礎、四方へ伸びる通路、そして『照応』という言葉。

 

なぜだろう。

 

その形を思い出すたび、胸の奥にかすかな違和感が生じる。

 

懐かしいような。恐ろしいような。

 

しかし、その感覚に結びつく記憶はない。

 

「……何を知っているのかしら、私は」

 

問いかけても、答える者はいなかった。

 

セレネは目を閉じた。

 

自分の記憶。この街で失われている記憶。そして、古い記録の中に残された、正体のわからない施設。

 

それらが同じ原因へつながっているのかは、まだわからない。だが、確かめる必要はあった。

 

そのとき。

 

――ゴォン。

 

大鐘楼から、低い鐘の音が響いた。

 

セレネは目を開けた。

 

部屋の時計へ視線を向ける。時刻は、午後九時を少し過ぎていた。

 

定時の鐘が鳴る時間ではない。

 

「……また、ね」

 

セレネは窓を開けた。

 

夜風が部屋へ流れ込み、白銀の髪を揺らす。

 

鐘の音が街に広がっていく。その響きの奥に、やはり微かな異質さがあった。

 

セレネは黄金の瞳を細めた。

 

昨日よりも、少しだけ長く感じられる。だが、どこへつながっているのかまではわからない。

 

やがて、鐘の音は途切れた。街には静けさが戻る。

 

セレネはしばらく、大鐘楼を見つめていた。

 

そして、小さく呟いた。

 

「……鐘の下に、何があるの?」

 

答えは返ってこなかった。

 

ただ、古い時計塔が月明かりの中にそびえ立っている。まるで、何百年もの間、何かを隠し続けてきたかのように。

 

セレネは窓を閉じた。

 

明日、もう一度記録院へ向かう。そして、あの鐘の正体を確かめる。

 

少なくとも、今はそれが最も合理的な選択だった。

 

黒い手帳を机に置き、灯りを落とす。部屋は静かな闇に包まれた。

 

それでも、セレネの意識には、先ほどの鐘の音が残っていた。

 

忘れられた記憶。取り外された記録。古い施設の名前。

 

すべてはまだ、別々の断片でしかない。

 

だが、断片を一つずつ集めていけば、やがて失われた全体の形が見えてくるかもしれない。

 

セレネは目を閉じた。

 

月明かりだけが、机の上の手帳を静かに照らしていた。

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