灰鐘市の朝は、鐘の音とともに始まる。
街の中央にそびえる大鐘楼が時を告げると、商人たちは店の扉を開き、職人たちは工房へ向かう。学生たちは書物を抱え、石畳の道を急いでいた。
昨日、断章獣が出現した街路にも、すでに人々の姿が戻っていた。砕けた石畳は応急的に修復され、建物の壁には補強用の木材が打ちつけられている。異形が暴れた痕跡は残っていたが、人々はいつもどおりの一日を始めようとしていた。
セレネは、宿屋の一室で黒い手帳を開いていた。
机の上には湯気の立つ紅茶と、昨夜から読み返している数枚の記録が並んでいる。記録には、昨日の診療所で確認した症状が細かく書き込まれていた。
記憶の選択的な欠落。通常の精神干渉術では検出されない異常。そして、月蝶によって確認された、不自然な記憶の断絶。
いずれも事実として記録したものだった。だが、その原因については、まだ何も断定できない。
「……共通点は、ある」
セレネは記録を見つめた。
記憶の痕跡が途切れているという点では、患者たちの症状は一致していた。しかし、それだけで同じ原因によるものだと決めつけることはできない。
異なる病気が似た症状を生むこともある。同じ魔術が、異なる結果を引き起こすこともある。重要なのは、偶然では説明できない一致を見つけることだった。
セレネは紅茶を一口飲んだ。少し冷めていたが、香りは悪くない。
彼女は手帳の新しい頁を開き、今日の日付を書き込んだ。
『灰鐘市滞在二日目』
その下に、今日の目的を記す。
『市立記録院にて過去の事例を調査』
『研究者ミラ・フェルンとの接触』
筆を止め、窓の外へ視線を向けた。
遠くには大鐘楼が見える。昨日、予定外に鳴り響いた鐘。あのとき感じた奇妙な反響も、調べるべきことの一つだった。
ただし、鐘と記憶の欠落が関係しているという証拠は、まだない。
セレネは手帳を閉じた。
「……行きましょうか」
黒金の杖を手に取り、宿屋を後にした。
*
灰鐘市立記録院は、街の東側にある学術区の中心に建っていた。
白い石材で造られた巨大な建物は、四階建ての本館と二つの別棟から構成されている。正面入口には六本の円柱が並び、その上部には古い文字で一文が刻まれていた。
『記されたものは、時を越えて語る』
セレネはその言葉を見上げた。
記録があれば、過去を知ることができる。たとえ本人が忘れてしまっても、紙に残された名前や出来事は失われない。
少なくとも、記録そのものが残っている限りは。
セレネは自分の手帳へ視線を落とした。
五年前に目覚めて以来、彼女は毎日の出来事を欠かさず書き残していた。最初の頃は単なる習慣のつもりだったが、旅を続けるうちに、その意味は次第に大きくなっていった。
自分の記憶は、すでに一度失われている。ならば、今覚えていることも、いつか失われるかもしれない。
そう考えると、記録を残さずにはいられなかった。
セレネは入口の扉を押し開けた。
館内には、古い紙と乾いた木材の匂いが漂っていた。高い天井からは魔術灯が吊るされ、広々とした閲覧室を柔らかな光で照らしている。
壁一面には書棚が並び、何人もの研究者や学生が書物を読んでいた。中央の受付では、数人の職員が貸出記録の整理をしている。
セレネが近づくと、受付にいた若い男性が顔を上げた。
「いらっしゃいませ。閲覧のご利用ですか?」
「ええ。少し調べたいことがあるの」
「調査内容をお伺いしてもよろしいでしょうか?」
「過去に起きた、記憶の欠落について」
男性の表情が、わずかに変わった。
「……欠月現象ですか?」
「最近は、そう呼ばれているようね」
「それでしたら、医療関係の記録でしょうか。ただ、古い診療記録は一般公開されていないものも多くて……」
「個人の診療記録を、無断で見せてもらうつもりはないわ」
セレネは落ち着いて答えた。
「公開されている事故報告や、過去の異常現象についての資料を探しているの」
「なるほど。それでしたら、歴史資料部門がよろしいかと」
男性は館内の案内図を取り出した。
「二階の第三閲覧室です。ただ、専門的な資料ですと、担当の研究者へご相談いただいた方が早いかもしれません」
「ミラ・フェルンという人を探しているのだけれど」
その名前を聞いた途端、男性は困ったように笑った。
「ああ、ミラさんですか」
「知っているのね」
「ええ。現在も勤務中のはずですが……」
男性は背後の廊下へ視線を向けた。
そのときだった。
「その分類は違います!」
奥の方から、女性の声が聞こえた。
静かな記録院には、少しばかり大きすぎる声だった。
「発見された年代と、作成された年代を一緒にしないでください! この文書は後世の写本です!」
「で、ですが、ミラさん……」
「表紙の年代だけで判断したら、百年前の出来事が三百年前の事件になってしまいます!」
受付の男性は額に手を当てた。
「……ちょうど、あちらにいらっしゃるようです」
セレネは声のする方向を見た。
廊下の奥で、一人の若い女性が大量の書類を抱えていた。肩まで伸びた濃い茶色の髪を後ろでまとめ、紺色の上着に動きやすそうな長いスカートを合わせている。
腕には何冊もの書物。指先には、インクの汚れが残っていた。
女性は目の前の職員へ、古い文書を指し示している。
「ここを見てください。筆跡も紙の製法も、記載されている年代と一致していません。だから、原本として登録してはいけないんです」
「わ、わかりました。修正します」
「お願いします。あと、この文書の出典も確認しておいてください」
そう言い終えると、女性はようやく顔を上げた。
その視線が、セレネとぶつかる。
一瞬、女性は目を瞬かせた。だが、すぐに書類を抱え直した。
「……何か?」
セレネは彼女の前へ歩み寄った。
「ミラ・フェルン?」
「そうですが」
「少し、話を聞きたいの」
「調査の相談でしたら、受付で申請をお願いします。今、資料の整理中なので」
「静夜診療所の院長から、あなたを紹介されたわ」
その言葉に、ミラの手が止まった。
「……診療所?」
「記憶の欠落について調べているの」
ミラの表情が変わった。
先ほどまでの忙しそうな様子が消え、研究者らしい鋭い眼差しがセレネへ向けられる。
「……それは、少し詳しく聞きたいですね」
*
第三閲覧室は、本館の二階にあった。
大きな窓から自然光が差し込み、部屋の中央には長い木製の机が並んでいる。ミラは抱えていた資料を整理すると、机の向かい側に腰を下ろした。
「改めまして。ミラ・フェルンです。ここで歴史資料の調査と整理を担当しています」
「セレネよ」
「セレネさんですね。それで、記憶の欠落について調べているというのは?」
セレネは昨日の出来事を説明した。
娘に関する記憶を失った母親。同様の症状を持つ複数の患者。通常の精神干渉術では異常が検出されなかったこと。そして、過去にも似た事例があったらしいこと。
ミラは途中で口を挟まずに聞いていた。しかし、説明が終わると、すぐに質問した。
「確認させてください。その患者さんたちは、全員同じ症状だったんですか?」
「失われた記憶の内容は違うわ」
「では、同じ現象だと判断した根拠は?」
「記憶の痕跡に、共通する断絶があったの」
ミラの眉が動いた。
「……記憶の痕跡?」
「ええ」
「それは、どうやって確認したんですか?」
「私の権能で」
ミラは黙った。
数秒ほど、セレネを見つめる。それから、ゆっくりと口を開いた。
「……権能、とおっしゃいました?」
「ええ」
「魔術ではなく?」
「違うわ」
「なるほど……」
ミラは腕を組んだ。
「ずいぶん大胆な説明ですね」
セレネは首を傾げた。
「そう?」
「ええ。権能という言葉は、簡単に使えるものではありませんから」
その言葉に、セレネは不快そうな顔をしなかった。
「証明が必要ということ?」
「少なくとも、私はまだ、あなたが何を観測したのか確認できていません」
ミラは机の上へ手を置いた。
「記憶の痕跡というものが存在するのか。存在するとして、それが何を意味するのか。そこを確かめない限り、同じ原因による症状とは判断できないと思います」
セレネはしばらく彼女を見つめた。それから、小さく頷く。
「……そうね」
ミラは少し意外そうな表情を浮かべた。
「反論しないんですか?」
「あなたの言うことは、もっともだもの」
「…………」
「私が観測したものは、あなたには見えていない。なら、私の説明だけでは判断できないでしょう」
セレネは落ち着いた声で続けた。
「だから、別の証拠を探しに来たの」
ミラは一瞬、言葉を失った。そして、思わず小さく笑った。
「……なるほど」
彼女は椅子に深く腰掛け直した。
「少なくとも、話は通じそうですね」
「通じないと思っていたの?」
「正直に言うと、少しだけ」
「そう」
セレネは特に気にした様子もなかった。
ミラは咳払いをすると、話題を戻した。
「では、過去の記録を調べましょう。ただし、最初から欠月現象という名前で探すのはおすすめしません」
「どうして?」
「その呼び名が、いつから使われているのかわからないからです」
ミラは机の上に一冊の資料目録を広げた。
「過去に同じ出来事が起きていたとしても、当時の人々が別の名前で記録していた可能性があります」
「……なるほど」
「調査では、現在の呼び名に引っ張られないことが重要なんです」
ミラは指先で目録をなぞった。
「記憶喪失、人物認識の異常、精神混乱、身元不明。関連しそうな分類から探してみましょう」
セレネは、その手元を見つめた。
情報を集めるだけなら、自分一人でもできる。だが、どの情報を探し、何を比較すべきか。それを判断するには、別の知識が必要になる。
目の前の研究者は、その分野に慣れているようだった。
「……頼りになりそうね」
セレネがそう告げると、ミラは書類をめくる手を止めた。
「まだ何も見つけていませんよ」
「でも、調べ方はわかったわ」
「それはどうも」
ミラは少しだけ口元を緩めた。
「では、始めましょうか」
*
調査を始めて一時間ほどが過ぎた。
机の上には、古い事故報告書や医療史に関する資料が積み重なっている。最初に見つかったのは、十二年前の記録だった。
『北区住民、近親者に関する記憶を喪失』
当時は原因不明の精神障害として処理されていたらしい。詳細な診療記録は非公開だったが、市へ提出された調査報告の概要が残されていた。
ミラは内容を読み上げた。
「患者は成人男性。家族構成や職業に関する知識は保持しているものの、特定の親族と過ごした経験を思い出せなくなった……」
セレネは目を細めた。
「昨日の患者さんたちと似ているわね」
「似ています。ただ、この記録だけでは同じ原因かどうかはわかりません」
「ええ」
ミラは次の資料を取り出した。
「こちらは二十六年前の報告です」
そこには、夫の存在を認識できなくなった女性について記されていた。女性は自宅の場所も、自分の仕事も覚えていた。
しかし、夫との結婚生活についてだけ、記憶を失っていたという。
「……ここまで似ていると、偶然とは考えにくいですね」
ミラが呟いた。
「でも、記録の数が少ないわ」
「そうなんです」
ミラは難しい顔をした。
「当時は単独の症例として扱われていたようです。記録の保管状況もよくありません」
セレネは報告書を手に取った。
紙は黄ばみ、端が少し破れている。だが、記載された文字はまだ読めた。
患者の年齢、症状、発症時期、担当者による所見。それらを確認しながら、セレネは考えていた。
「……発症した場所は、灰鐘市なのね」
「ええ」
「その前に、どこかへ出かけていた記録は?」
「この報告にはありません」
「家族の証言は?」
「簡単なものだけです。詳細な聴取記録は見当たりません」
セレネは資料を置いた。
「……情報が足りないわね」
「古い事件を調べると、よくあることです」
ミラは別の書類を開いた。
「そもそも、何を重要だと思って記録するかは、その時代の人間が決めますから」
「……そうね」
「当時は関係ないと思われたことが、後から重要になることもあります」
ミラは少しだけ苦笑した。
「だから、記録を読むときは、書いてあることだけでなく、何が書かれていないかも考えないといけません」
その言葉に、セレネは手を止めた。
何が書かれていないか。
彼女は、自分の手帳を思い浮かべた。
五年前から続けている、毎日の記録。そこには、起きた出来事ができる限り詳しく書かれている。
だが、どれほど細かく記録しても、すべてを残せるわけではない。そのとき何を感じたのか。なぜ、その言葉を選んだのか。何を恐れ、何を願っていたのか。
文字に残せるのは、ほんの一部にすぎない。
「……難しいものね」
セレネが呟く。
「ええ。記録は便利ですが、万能ではありません」
ミラは頷いた。
「ただ、何も残さないよりは、ずっといい」
セレネは、その言葉に少しだけ目を細めた。
「……同感ね」
二人は再び、資料へ視線を戻した。
*
昼を過ぎた頃、ミラは一冊の古い資料目録を持って戻ってきた。
「少し気になるものを見つけました」
「何かしら」
「二十六年前の記憶喪失事件について、別の部署が調査した記録があるようです」
ミラは目録を机に広げた。
「医療関係ではなく、市の施設管理部門に分類されています」
セレネは首を傾げた。
「施設管理?」
「私も最初は不思議だったんですが……」
ミラは記載された項目を指さした。
『灰鐘市北区・住民生活異常報告』
その下には、小さな文字で補足が書かれている。
『公共施設の運用状況との関連調査』
「……公共施設?」
セレネが繰り返した。
「ええ。当時、何かの施設が関係していると疑われたのかもしれません」
「その調査結果は?」
「まだ確認できていません。資料そのものは別棟の保管庫にあるはずです」
ミラは目録を閉じた。
「ただし、閲覧には申請が必要です」
「なら、申請しましょう」
「簡単に言いますね」
「難しいの?」
ミラは小さく息を吐いた。
「古い行政記録は、担当部署の確認が必要なことがあります。それに、所在が目録どおりとは限りません」
彼女は積まれた資料を見た。
「この記録院、資料の数に対して整理が追いついていないんです」
「それは困ったわね」
「研究者としては、毎日のように困っています」
セレネは少し考えた。
「あなたが調べれば、見つかる可能性はある?」
「あります。ただ、時間はかかるでしょうね」
「そう」
セレネは頷いた。
「なら、待つわ」
ミラは意外そうに顔を上げた。
「……急いでいるんじゃないんですか?」
「急いでいるわ」
「では、どうして?」
「今すぐ資料を開けたところで、間違ったものを読んでいたら意味がないでしょう」
セレネは机に積まれた書類を見た。
「あなたは資料の管理方法を知っている。私は知らない。なら、あなたの判断に従う方が合理的よ」
ミラは黙った。しばらくして、軽く肩をすくめる。
「……変わった人ですね」
「よく言われるわ」
「でしょうね」
ミラは小さく笑った。
「では、申請してきます。その間、こちらの資料を読んでいてください」
彼女は数冊の記録を机に置いた。
「古い都市地図と、大鐘楼の管理記録です」
セレネの手が止まった。
「大鐘楼?」
「ええ。公共施設の調査なら、主要施設の記録も確認しておいた方がいいでしょう」
「……なるほど」
セレネは資料を受け取った。
ミラが閲覧室を出ていく。
その後ろ姿を見送りながら、セレネは大鐘楼の記録を開いた。
最初の頁には、建設年代や修復工事についての概要が記されていた。現在の鐘楼は、およそ百八十年前に大規模な改修を受けている。
しかし、建物の基礎部分は、それよりも古いものを利用しているらしい。
『旧施設の基礎構造を継承』
セレネは、その一文を見つめた。
「……旧施設?」
その下には、改修工事に関する詳しい資料の参照番号が記されていた。
だが、参照先の頁は欠けていた。
破れたのではない。綴じられた資料の途中から、数枚だけが取り外されている。
糸の結び目には、後から綴じ直した形跡があった。
セレネは指先で、その部分をなぞった。
「……これは」
記録そのものが、存在しない。あるいは、どこかへ移された。
どちらなのかは、まだわからない。
彼女は資料の番号を手帳へ書き留めた。
そのときだった。
――ゴォン。
遠くから、大鐘楼の音が響いた。
セレネは顔を上げた。
窓の向こうに、灰色の時計塔が見える。
鐘の音は、昨日と同じように街へ広がっていく。
しかし。
「……?」
セレネは机の上の時計を見た。
針は、まだ次の時刻を指していない。周囲の閲覧者たちも、何人かが不思議そうに顔を上げている。
「また……」
セレネは目を閉じた。
鐘の音に意識を向ける。空気を伝わる振動。石壁に反響する低い響き。
そして、その奥にある、別の何か。
月蝶の感覚をわずかに広げると、細い銀色の反響が一瞬だけ浮かび上がった。
だが、次の瞬間には消えていた。
どこから来たのか。何につながっているのか。判断するには、あまりにも短い反応だった。
セレネは目を開けた。
「……昨日と同じ」
記憶の痕跡を調べたときとは、少し異なる感覚。だが、完全に無関係とも思えなかった。
彼女は手帳を開き、時刻を書き留める。
『大鐘楼、予定外の鳴動を確認』
『月蝶による微弱な反響あり』
そこまで記したところで、ミラが戻ってきた。
「お待たせしました。申請は受理されましたよ」
「ありがとう」
「ただ、資料を出してもらえるのは明日以降になるそうです」
「そう」
セレネは手帳を閉じた。
ミラは机の上に開かれている鐘楼の記録を見つけた。
「ああ、それを読んでいたんですね」
「ええ。少し気になることがあったの」
「何でしょう?」
「この鐘楼の基礎部分は、以前の施設を利用しているのね」
「そうですね。確か、改修前にも建物があったはずです」
「何の施設だったの?」
ミラは少し考えた。
「詳しくは覚えていません。ただ、古い都市地図に何か記載があった気がします」
「調べられる?」
「ええ。少し待ってください」
ミラは書棚へ向かった。
セレネは、その後ろ姿を見つめた。
鐘の異常。古い施設。取り外された資料。
現時点では、互いを結びつける証拠はない。だが、調べるべき場所は少しずつ絞られてきていた。
*
「……ありました」
しばらくして、ミラが大きな地図を抱えて戻ってきた。
古い羊皮紙に描かれた灰鐘市の地図だった。現在の街並みとは、道路の配置も建物の位置も少し異なっている。
「これは、およそ百九十年前の都市地図です」
ミラは机の上に地図を広げた。
「大鐘楼が現在の形になる前のものですね」
セレネは身を乗り出した。
地図には、古い城壁や水路、当時の公共施設が細かく描かれている。
そして、街の中央には、現在の大鐘楼と同じ位置に大きな建物があった。ただし、その形は今とは違っていた。
円形の基礎。そこから四方へ伸びる細い通路。中央には、見慣れない紋様が描かれている。
「……これは?」
セレネが尋ねる。
ミラは地図の端に記された注釈を確認した。
「古い施設の配置図みたいですね。ただ、名称が……」
彼女は顔を近づけた。
文字の一部がかすれ、読み取りにくくなっている。
「『旧……応施設』でしょうか」
セレネはその文字を見た。
使われているのは、古い形式の表記だった。現代の人々には読みづらいかもしれないが、セレネには意味を取ることができた。
「……照応」
ミラが顔を上げた。
「え?」
「最初の文字は、照らすという意味の『照』。合わせて『照応』と読むのだと思うわ」
ミラは地図を見直した。
「……本当ですね。古い略字だったんだ」
「この施設について、ほかに記録はある?」
「少なくとも、この地図には詳しい説明がありません」
ミラはしばらく考えた。
「ただ、照応という言葉は、昔の記録技術に関する文献で見かけたことがあります」
セレネの視線が動いた。
「記録技術?」
「はい。今ではほとんど使われない古い技術です」
ミラは地図の中央を指さした。
「ただ、具体的に何を記録していたのかまでは、私も知りません」
「……そう」
セレネは地図を見つめた。
円形の基礎。四方へ伸びる通路。そして、その中心に描かれた、奇妙な紋様。
なぜだろう。
初めて見るはずなのに、どこか懐かしい。
いや。懐かしいというよりも、知っている。
その感覚の方が近かった。
「……セレネさん?」
ミラの声で、意識が戻った。
「どうかしました?」
「少し、気になることがあるだけよ」
「この施設についてですか?」
「ええ」
セレネは地図から目を離した。
「でも、まだ何もわからないわ」
ミラは頷いた。
「なら、調べましょう」
その言葉に、セレネは目を瞬かせた。
「……いいの?」
「何がですか?」
「あなたの仕事もあるでしょう」
「ありますよ」
ミラは当然のように答えた。
「でも、これも立派な歴史調査です。それに、記憶の欠落と古い記録施設に何らかの関係があるなら、放っておけません」
「まだ、関係があるとは限らないわ」
「もちろんです」
ミラは地図を丁寧に畳み始めた。
「だからこそ、調べて確かめるんでしょう?」
セレネは黙った。それから、ほんのわずかに口元を緩めた。
「……そうね」
ミラはその表情を見て、少し意外そうな顔をした。
しかし、何も言わなかった。
*
夕方。
記録院の閉館時刻が近づき、閲覧室にいた研究者たちが次々と書物を片づけ始めていた。
セレネも、机の上の資料を整理していた。
今日わかったことは、決して多くない。
過去にも、現在の欠月現象と似た症状が報告されていた。少なくとも数十年前から、灰鐘市では原因不明の記憶喪失が散発的に発生している。
また、大鐘楼の地下には、現在の建物よりも古い施設の基礎が残されている可能性がある。
そして、その施設には『照応』という言葉が関係していた。
ただし、どれもまだ断片的な情報にすぎない。
「明日は、申請した行政記録を確認しましょう」
ミラがそう言った。
「それと、鐘楼の古い改修記録も探してみます」
「ありがとう」
セレネは頷いた。
「随分と助かったわ」
「いえ。私も興味が出てきましたから」
ミラは軽く笑った。
「それに、あなたと話していると、少し不思議な気分になるんです」
「どうして?」
「知らないはずの古い文字を、当たり前のように読んでしまうでしょう」
セレネは少しだけ視線を逸らした。
「……昔、覚えたのかもしれないわ」
「昔?」
「ええ」
セレネは手帳を鞄にしまった。
「私は、自分の過去をほとんど覚えていないの」
ミラの表情が変わった。
「……記憶喪失、ということですか?」
「そうね」
「いつから?」
「五年前に目覚めたときには、もう失っていたわ」
ミラは言葉を失った。
それから、慎重に尋ねた。
「では、あなたが記憶の欠落を調べているのは……」
「自分のことを知るためでもあるわ」
セレネは隠さずに答えた。
「でも、それだけではない」
黄金の瞳が、窓の外へ向けられる。
「昨日、ある少女に出会ったの」
ミラは黙って聞いていた。
「母親に忘れられてしまった子よ」
「……それは」
「その子に、記憶を取り戻せるかと聞かれたわ」
セレネは一度、言葉を止めた。
「私は、今はできないと答えた」
ミラは何も言わなかった。
「だから、調べることにしたの」
「……それだけですか?」
セレネは彼女を見た。
「ほかに理由が必要?」
ミラはしばらく考えた。そして、小さく首を振った。
「いいえ」
彼女は机に置いていた書類を抱え直した。
「十分だと思います」
セレネは頷いた。
二人は並んで閲覧室を出た。
廊下の窓からは、夕暮れの灰鐘市が見える。遠くの大鐘楼が、赤く染まり始めた空を背に立っていた。
「……そういえば」
ミラが足を止めた。
「昨日から、鐘の音がおかしいという話を聞いていますか?」
セレネは彼女へ視線を向けた。
「ええ」
「時報でもない時間に、鐘が鳴るらしいんです」
「昨日も今日も、聞いたわ」
「そうなんですか?」
ミラは驚いたように目を開いた。
「私は昨日、別棟の資料室にいたので気づかなかったんですが……」
「あなたは、いつから異常な鐘の音が鳴っているか知っている?」
「正確にはわかりません。ただ、以前にも似た報告があったはずです」
「以前にも?」
「ええ。確か、古い設備点検の記録に……」
ミラは考え込んだ。
「……少し待ってください」
彼女は抱えていた書類を見直した。
その中から、薄い紙を一枚取り出す。古い施設管理報告の写しだった。
「これです」
セレネは紙を受け取った。
そこには、三十四年前の大鐘楼についての報告が記されていた。鐘楼の内部設備に異常がないか調査した際の記録らしい。
記載された内容は、簡潔だった。
『定時外の鳴動を複数回確認』
『鐘楼上部の機構に異常なし』
『原因特定に至らず』
セレネの指が止まった。
「……機構に、異常はなかったのね」
「そう書かれていますね」
「なのに、鐘が鳴った」
「ええ」
ミラは首を傾げた。
「古い設備ですから、記録に残らなかった故障があったのかもしれません」
「その可能性はあるわ」
セレネは紙を見つめた。
「でも、今も同じ異常が起きている」
「……そうですね」
ミラの表情が、少しずつ真剣なものへ変わっていく。
「もしかして、鐘と記憶の欠落に関係があると?」
「まだ、わからないわ」
セレネは即答した。
「ただ、昨日も今日も、あの鐘が鳴ったときに奇妙な反響を感じたの」
「反響?」
「月蝶による感覚よ。通常の鐘の音とは違う、何かが混じっている」
ミラは考え込んだ。
「……それが記憶の欠落と同じ原因なのかは、まだ不明ですね」
「ええ」
「でも、調べる理由にはなる」
セレネは頷いた。
「そういうことよ」
ミラは手元の報告書を見た。
「明日、関連する記録をもう少し探しましょう。鐘楼の管理記録なら、比較的見つけやすいはずです」
「お願いするわ」
二人は記録院の入口へ向かった。
外に出ると、夕暮れの冷たい風が頬を撫でた。街路には帰宅する人々の姿があり、遠くでは商人たちが店じまいを始めている。
ミラはセレネへ向き直った。
「では、明日もここで」
「ええ」
「……ああ、それと」
ミラは少し迷った後、口を開いた。
「あなたの権能については、まだ完全に信じたわけではありませんからね」
セレネは目を瞬かせた。
「そうなの?」
「そうです。私は自分で確認できないことを、簡単には事実として扱いません」
「……いい姿勢ね」
セレネは素直に答えた。
「その方が、間違いも少ないでしょう」
ミラは一瞬、驚いた顔をした。そして、苦笑する。
「本当に、変わった人ですね」
「今日、二度目ね」
「ええ。たぶん、明日も言うと思います」
セレネは少しだけ目を細めた。
「……そう」
それだけ答えると、彼女は歩き出した。
*
宿屋へ戻った頃には、すでに夜になっていた。
セレネは部屋の机に向かい、今日の調査内容を手帳へ書き込んでいた。
『過去にも欠月現象と類似する事例あり』
『十二年前、二十六年前の記録を確認』
『大鐘楼は旧施設の基礎を利用して建設された可能性』
『旧施設の名称に「照応」の文字あり』
『三十四年前にも定時外の鐘の鳴動を記録』
筆先を止める。
これらの情報を並べても、まだ答えは見えない。しかし、昨日よりも確実に前へ進んでいた。
セレネは手帳の頁をめくった。
今日、出会った人物の名前を記録する。
『ミラ・フェルン』
その下に、短い説明を加えた。
『灰鐘市立記録院の研究者』
『古い記録の調査に詳しい』
『証拠のない推測を、容易には受け入れない』
そこで、少しだけ筆が止まった。
セレネは今日の会話を思い返した。
自分の説明を疑い、根拠を求めたこと。古い資料を丁寧に比較していたこと。そして、まだ確かではない調査に協力すると言ってくれたこと。
しばらく考えた後、もう一文を書き加える。
『調査の進め方について、参考になる意見が多い』
それだけ書くと、手帳を閉じた。
窓の外には、月が昇っていた。雲の切れ間から覗く、淡い銀色の月。
セレネは椅子を離れ、窓辺へ歩み寄った。
月明かりが、長い白銀の髪を照らす。遠くには、大鐘楼の黒い影が見えた。
昼間に見つけた、古い地図。円形の基礎、四方へ伸びる通路、そして『照応』という言葉。
なぜだろう。
その形を思い出すたび、胸の奥にかすかな違和感が生じる。
懐かしいような。恐ろしいような。
しかし、その感覚に結びつく記憶はない。
「……何を知っているのかしら、私は」
問いかけても、答える者はいなかった。
セレネは目を閉じた。
自分の記憶。この街で失われている記憶。そして、古い記録の中に残された、正体のわからない施設。
それらが同じ原因へつながっているのかは、まだわからない。だが、確かめる必要はあった。
そのとき。
――ゴォン。
大鐘楼から、低い鐘の音が響いた。
セレネは目を開けた。
部屋の時計へ視線を向ける。時刻は、午後九時を少し過ぎていた。
定時の鐘が鳴る時間ではない。
「……また、ね」
セレネは窓を開けた。
夜風が部屋へ流れ込み、白銀の髪を揺らす。
鐘の音が街に広がっていく。その響きの奥に、やはり微かな異質さがあった。
セレネは黄金の瞳を細めた。
昨日よりも、少しだけ長く感じられる。だが、どこへつながっているのかまではわからない。
やがて、鐘の音は途切れた。街には静けさが戻る。
セレネはしばらく、大鐘楼を見つめていた。
そして、小さく呟いた。
「……鐘の下に、何があるの?」
答えは返ってこなかった。
ただ、古い時計塔が月明かりの中にそびえ立っている。まるで、何百年もの間、何かを隠し続けてきたかのように。
セレネは窓を閉じた。
明日、もう一度記録院へ向かう。そして、あの鐘の正体を確かめる。
少なくとも、今はそれが最も合理的な選択だった。
黒い手帳を机に置き、灯りを落とす。部屋は静かな闇に包まれた。
それでも、セレネの意識には、先ほどの鐘の音が残っていた。
忘れられた記憶。取り外された記録。古い施設の名前。
すべてはまだ、別々の断片でしかない。
だが、断片を一つずつ集めていけば、やがて失われた全体の形が見えてくるかもしれない。
セレネは目を閉じた。
月明かりだけが、机の上の手帳を静かに照らしていた。