大鐘楼の音が止んでも、セレネの耳には微かな余韻が残っていた。灰鐘市の夜を震わせた鐘は、定められた時刻では鳴らなかった。三十四年前の報告書にも、同様の異常が記されていた。
定時外の鳴動、機構の異常なし、原因不明。報告書に残された短い記述は、先ほどの出来事と不気味なほどよく似ている。ただし、今回も同じ原因によるものなのかは、まだわからなかった。
記録院の窓辺で、セレネは静かに目を閉じた。鐘が鳴った瞬間、彼女は確かに何かを感じていた。月蝶が拾い上げた、ごく微かな反響。それは人の記憶に触れたときの感覚に似ていたが、同じものではなかった。
遠くから誰かに呼ばれているような、不思議な感覚だった。
「……セレネさん?」
背後からミラの声がした。
「何か、わかりましたか?」
セレネはゆっくりと振り返った。
「いいえ。ただ、あの鐘の音には、何かが重なっていた気がするの」
「何か、ですか」
「記憶の痕跡に似ていた。でも、誰のものなのかも、本当に記憶なのかもわからないわ」
ミラは考え込むように視線を落とした。机の上には、三十四年前の鐘楼管理報告書が広げられている。そこに書かれた短い記述は、今夜起きた出来事を説明しているようにも見えた。
「明日、正式な管理記録を確認してみます。鐘楼の異常について、現在の管理者が何を把握しているのかも調べたいので」
「今夜のことは、まだ報告されていないの?」
「通報は入っているはずです。ただ、異常の原因まで調査されているかは別です」
ミラは報告書を閉じ、机の端に置いた。
「それと、以前申請していた旧施設の記録も、明日には閲覧できる予定です」
「照応、という施設ね」
「ええ。あの名称が何を意味するのか、まだ資料が足りません」
セレネは窓の外へ目を向けた。夜空には、白い月が浮かんでいた。その光を見つめていると、いつも胸の奥に奇妙な空白を感じる。
懐かしいと思う理由すら、彼女には思い出せなかった。
*
翌朝、灰鐘市の通りには普段と変わらない日常が戻っていた。
行き交う馬車、店先を掃く商人、焼きたてのパンを抱えて歩く人々。昨夜の鐘について話している者もいたが、多くは一時的な故障だろうと考えているようだった。
セレネはその会話を耳にしながら、記録院へ向かっていた。昨夜の鳴動は、市の住人にも確かに聞こえていた。それでも、人々の反応は驚くほど穏やかだった。鐘が予定外に鳴ることは珍しくても、それだけで大きな災厄を想像する者はいないのだろう。
記録院に到着すると、ミラは既に閲覧室で待っていた。机の上には数冊の古い帳簿と、紐で綴じられた薄い書類が並んでいる。
「おはようございます。ちょうど資料が届いたところです」
「早いのね」
「昨夜の件があったので、申請済みの記録を優先してもらえました」
ミラは一枚の書類を手に取った。
「鐘楼の管理部門にも確認しました。昨夜の異常は正式に記録されています。今朝、機構の簡易点検も行われたそうです」
「結果は?」
「目立った損傷は見つからなかった、と。ただ、詳しい調査はこれからだそうです」
セレネは小さく頷いた。少なくとも、鐘が鳴ったこと自体は公的な記録に残されている。昨夜の出来事が、彼女たちの錯覚だったわけではない。
「それから、こちらを見てください」
ミラが差し出したのは、古い施設配置図だった。
灰鐘市の中心部が描かれた地図には、現在の街並みとは異なる建物がいくつも存在していた。その中央には大鐘楼があり、さらにその地下へ向かうように、細い通路が一本伸びている。
「地下通路?」
「そう見えます。ただし、現在の鐘楼の図面には記載されていません」
「埋められたのかしら」
「それも考えられます。でも、埋設工事の記録はまだ見つかっていません」
ミラは地図の端を指さした。そこには、掠れた文字で施設の名称が記されていた。
――旧照応施設。
「これが、例の施設?」
「おそらく。少なくとも、この図面では鐘楼の地下に接続する施設として描かれています」
セレネは地図を見つめた。大鐘楼、地下通路、そして照応と呼ばれた施設。三つの存在が、一本の線で繋がっていた。
だが、それが何のための構造なのかは読み取れない。
「三十四年前の報告書にも、この通路のことは?」
「いいえ。私が持っている写しには記載がありません」
ミラは少し申し訳なさそうに笑った。
「実はあの報告書、以前、鐘楼の歴史を調べていた際に管理記録から複写しておいたものなんです。当時は奇妙な出来事だと思っただけでしたが、まさか実際に同じ現象を目にするとは思いませんでした」
「それで、すぐに見せてくれたのね」
「ええ。ただ、三十四年前の異常と昨夜の異常が同じ原因なのかは、まだわかりません」
「そうね。似ていることと、同じであることは違うもの」
セレネは再び地図に視線を戻した。
照応。
不思議な響きだった。その名称そのものに記憶はない。けれど、建物の配置を見ると、胸の奥で何かが静かに揺れる。初めて見るはずなのに、どこかを知っている気がした。
「……この図面、少し見せてもらってもいい?」
「もちろんです」
セレネは古い紙の上に指を滑らせた。鐘楼の地下には、幾つかの小部屋が描かれている。そのさらに奥には、円形の空間があった。
円の周囲には、通常の建築図面ではあまり見かけない記号が刻まれていた。セレネの指が止まった。
「これは……」
「読めるんですか?」
ミラが身を乗り出す。セレネは答えず、記号を一つずつ追った。
文字は古い形式のものだった。現在の灰鐘市では使われていないが、その読み方を彼女は知っていた。なぜ知っているのかは、説明できない。
五年前に目覚めたとき、彼女はそれ以前の自分について、ほとんど何も覚えていなかった。それでも言葉の意味や文字の読み方、身に染みついた知識の一部は残っていた。
自分がどこで生まれ、誰と生きてきたのかは思い出せない。けれど、古い文字を読むことはできる。知識と記憶は、必ずしも同じように失われるわけではないのかもしれなかった。
「……『応じるものを、繋ぎ留める』」
セレネは小さく呟いた。
「それが、書かれているんですか?」
「ええ。ただ、文章の一部が欠けているから、正確な意味まではわからないわ」
ミラは急いで手元の紙に書き留めた。
「応じるもの……。照応という施設名と、関係があるのでしょうか」
「可能性はあるわ。でも、まだそれだけね」
セレネの言葉に、ミラは頷いた。
二人はその後も資料を調べ続けた。施設の建設年代は不明。管理者の名前も判読できない。保存されている図面は部分的で、施設全体の構造を復元するには足りなかった。
ただ、一つだけ確かなことがあった。
現在の大鐘楼が建つ場所には、かつて別の施設が存在していた。そして、その施設は地下で鐘楼と接続していたらしい。
*
午後、二人は大鐘楼を訪れた。
灰鐘市の中心にそびえる石造りの塔は、近くで見ると想像以上に大きかった。長い年月を経た外壁には幾筋もの亀裂があり、足元の石畳には補修の痕跡が残されている。
塔の入口には、市の管理部門から派遣された職員が立っていた。ミラが身分を示して説明すると、職員は困ったように眉を寄せた。
「地下ですか。通常の管理区域に、そうした場所はありませんが」
「古い図面には記載があるんです。現在は使われていない通路かもしれません」
「でしたら、こちらで確認できる範囲だけになります。今は鐘の異常について調査中ですから、立入禁止区域には入れません」
「それで構いません」
二人は案内され、鐘楼の内部へ入った。
厚い石壁に囲まれた通路は、外の明るさとは対照的に薄暗い。螺旋階段が上方へ続き、その奥からは機械油と古い石の匂いが漂っていた。
職員によれば、鐘楼の機構は今朝点検されたばかりだった。鐘を打つ装置にも、時刻を管理する機構にも、目立った損傷はない。定時外に作動した理由については、引き続き調査されているという。
「昨夜、ここにいた人は?」
ミラが尋ねた。
「夜間の巡回員が一人。鐘が鳴ったときは入口付近にいたそうです」
「何か変わったものを見たとは?」
「いいえ。ただ、音が少しおかしかったとは言っていました」
「おかしかった?」
「普段より長く響いた気がした、と。もっとも、夜ですからね。周囲が静かだったせいかもしれません」
セレネはその言葉に目を細めた。昨夜、自分も同じように感じていた。鐘の余韻が、いつまでも消えないように思えたことを覚えている。しかし、感覚が一致したというだけでは、何の証拠にもならなかった。
案内された管理室で、ミラは職員に古い図面を見せた。職員はしばらく眺めたあと、首を傾げた。
「この場所なら……もしかすると、古い保守区画のことでしょうか」
「心当たりがあるんですか?」
「地下に、現在は使われていない扉があります。ただ、その先は封鎖されています」
「見せていただけますか?」
「扉の前までなら」
職員はそう答えると、ランタンを手に取った。
*
鐘楼の地下は、上階よりもさらに静かだった。
石段を下りるにつれて外の音が遠ざかり、やがて自分たちの足音だけが響くようになった。壁には古い補修の跡があり、ところどころで石材の色が異なっていた。
通路の突き当たりに、一枚の鉄扉があった。扉の表面には錆が浮き、中央には古い封鎖標が打ち付けられている。
「ここです。かなり昔に封鎖された場所だと聞いています」
職員が言った。ミラは図面を広げ、現在地を確かめた。
「位置は……おそらく一致します」
「開けることは?」
「私の権限では無理です。正式な許可が必要になります」
「わかりました。今日はここまでにします」
ミラが答えたとき、セレネは扉の前で立ち止まっていた。
何かがおかしい。
それは視覚でも聴覚でもなかった。扉の向こうから、ごく微かな気配が伝わってくる。
彼女は静かに右手を持ち上げた。指先の周囲に、淡い月光のような光が集まる。やがて小さな蝶の形を取り、音もなく宙に浮かんだ。
月蝶。それは、失われた記憶の痕跡を探る、彼女の力だった。
「セレネさん?」
ミラが声を潜めた。
「少しだけ、確かめたいことがあるの」
月蝶はゆっくりと鉄扉へ近づいた。いつもなら、人や物に残された記憶の断片に触れると、その輪郭に応じた反響が返ってくる。
だが、今回は違った。
蝶が扉の前に到達した瞬間、反響が途切れた。消えたのではない。その先へ進もうとした何かが、途中で遮られたようだった。
セレネは眉を寄せた。
これは、静夜診療所で感じたものに似ている。
エマとニナの周囲で確かめた、不自然な記憶の断絶。失われたはずの繋がりが、その先に残されているかもしれないという感覚。ただし、あのときと同じ現象なのかはわからない。
目の前にあるのは人間ではなく、古い鉄扉だった。
「……どうですか?」
ミラの問いに、セレネは少し間を置いて答えた。
「何かの痕跡はある。でも、ここから先は調べられないわ」
「記憶の痕跡、ですか?」
「そう断定するには早いわね。ただ、昨日の鐘の音と、似た反響を感じるの」
ミラは扉を見つめた。
「だとすると、この地下施設が鐘の異常に関係している可能性も……」
「あるかもしれない。でも、今わかっているのは、鐘楼の地下に古い施設が存在していたことと、ここで私の力が奇妙な反応を示したことだけよ」
セレネは月蝶を消した。
目に見えない何かを感じ取ることはできても、その正体まではわからない。だからこそ、確かめる必要があった。
ミラは図面を丁寧に畳んだ。
「正式な調査許可を申請してみます。古い施設の管理権限も確認しなければなりません」
「お願いするわ」
「でも、少し時間がかかると思います」
「構わないわ。急いで答えを出して、間違えるよりはいいもの」
セレネは最後にもう一度、鉄扉を見つめた。
錆びた金属の表面に、何かが刻まれている。長い年月のせいでほとんど見えなくなっていたが、封鎖標の下に、小さな円形の紋様が残されていた。
三日月を囲む、幾つかの細い線。
その形を見た瞬間、セレネの胸が強く痛んだ。
「……っ」
思わず手を胸元に当てる。
ほんの一瞬、知らない景色が脳裏を過ぎった。白い石で造られた長い回廊。高い窓から差し込む月明かり。そして、遠くで誰かが呼ぶ声。
けれど、声の主も、その言葉も思い出せない。次の瞬間には、すべてが消えていた。
「セレネさん、大丈夫ですか?」
ミラが心配そうに尋ねた。
「……ええ。少し、眩暈がしただけ」
セレネはゆっくりと息を整えた。
今のは、記憶だったのだろうか。それとも、月蝶が拾い上げた誰かの記憶が、自分の中に流れ込んだだけなのだろうか。判断することはできなかった。
ただ一つ、どうしても無視できない感覚が残っていた。
あの紋様を、彼女は知っている。
見たことがある、というだけではない。もっと深いところで、何かと結びついている。
「ミラ」
「はい?」
「この扉の紋様も、調べてもらえるかしら」
ミラは扉へ目を向けた。
「何か、気になることが?」
「……まだ、うまく説明できないの」
セレネは小さく首を振った。
「でも、確かめたいのよ」
ミラはそれ以上追及しなかった。
「わかりました。図面や古い記録に、同じものがないか探してみます」
セレネは静かに頷いた。
*
鐘楼を出る頃には、空が夕暮れの色に染まり始めていた。
大通りには人々の声が戻り、店先には灯りがともされている。セレネはしばらく立ち止まり、塔の上部を見上げた。
昨夜のような異常は、今のところ起きていない。けれど、あの地下に何かが残されていることだけは、確かだった。
「明日から、少し忙しくなりそうですね」
隣でミラが言った。
「そうね」
「セレネさんは、あの場所に何があると思いますか?」
セレネはすぐには答えなかった。
地下施設の用途も、鐘との関係も不明なままだ。三十四年前の異常と、エマたちの記憶の欠落を繋ぐ証拠もない。
それでも、彼女の中には一つの疑問が芽生えていた。
失われた記憶は、本当に消えてしまったのだろうか。
もし、消えたのではなく、どこかに繋がったまま届かなくなっているのだとしたら。
「……まだ、わからないわ」
セレネは答えた。
「でも、何も残っていないわけではなさそうね」
ミラはその言葉を聞き、小さく頷いた。二人は夕暮れの通りを歩き始めた。
その背後で、大鐘楼は静かに街を見下ろしていた。
そして、誰もいなくなった地下の鉄扉には、かすかな月光が差し込んでいた。
扉に刻まれた三日月の紋様。その下に隠れていた、もう一つの古い文字。長い年月の中で摩耗し、今ではほとんど読めなくなったその文字は、かつて一つの意味を持っていた。
――名。
だが、それが何を指していたのかを知る者は、もういなかった。
少なくとも、この街には。