記録院の朝は、いつもより静かだった。
高い窓から差し込む光が、閲覧室の長机を淡く照らしている。壁際の書架には古い帳簿が整然と並び、時折、別室から紙をめくる音が聞こえてきた。
セレネは一冊の資料を閉じ、机の上に置いた。昨日、大鐘楼の地下で見た紋様が、頭から離れなかった。三日月を囲む幾つかの細い線。錆びた鉄扉に刻まれていたそれは、古い施設の標識としては奇妙な形をしていた。
何より、紋様を見た瞬間に脳裏を過ぎった光景が気になっていた。
白い回廊。高い窓。差し込む月明かり。そして、誰かが自分を呼ぶ声。
あれが自分自身の記憶なのか、それとも月蝶を通して触れた誰かの記憶なのか、判断することはできなかった。
「お待たせしました」
書類の束を抱えたミラが、閲覧室に入ってきた。
「昨日の紋様について、古い施設記録を中心に調べてみました」
「何かわかった?」
「同じ形のものは、まだ見つかっていません。ただ、気になる資料が一つありました」
ミラは書類を机に広げた。
それは、古い建築物に使われていた標識をまとめた目録だった。用紙は黄ばんでいるものの、記された図柄は比較的はっきりと残っている。
「この地方では、古い施設の扉に管理者や用途を示す印を刻む習慣があったようです。特に、現在の行政制度が整う以前の建物には、独自の標識が使われていました」
セレネは目録に視線を落とした。円や星、植物を模したものなど、様々な印が並んでいる。いくつかは月に似ていたが、鐘楼の地下で見たものとは形が異なっていた。
「でも、あの紋様は載っていないのね」
「ええ。少なくとも、この目録にはありません」
ミラは一枚の紙を抜き出した。
「ただ、標識の分類について書かれた部分に、少し気になる記述があるんです」
そこには、古い施設の標識が必ずしも所有者や建物の用途を示すものではないと記されていた。一部には、施設内部で行われる特定の作業を示す印もあったという。
「作業を示す印……」
セレネが呟くと、ミラは頷いた。
「もし地下の紋様も同じ種類なら、施設の名称ではなく、そこで行われていた何かを示している可能性があります」
「照応という名前とも、関係しているかもしれないわね」
「そう考えています。でも、肝心の照応が何を指しているのか、まだわからないんです」
ミラは困ったように笑った。
「古い技術用語なのか、儀式の名称なのか。それすら判断できません」
「少なくとも、普通の建築用語には見えないわ」
セレネは昨日の図面を思い出した。地下通路の先に描かれた円形の部屋。その周囲に刻まれていた古い文字。
――応じるものを、繋ぎ留める。
文章の一部が欠けているため、正確な意味はわからない。それでも、何かを結びつけようとする意図だけは読み取れる気がした。
「ミラ。もう一度、あの図面を見せてもらえる?」
「もちろんです」
ミラが書類の束から古い配置図を取り出す。セレネは円形の部屋を指さした。
「ここに書かれていた文字だけれど、別の読み方もあるかもしれないわ」
「別の読み方、ですか?」
「ええ。古い文字には、一つの言葉が複数の意味を持つものがあるの。特に、この文字は少し特殊だから」
セレネは指先で、円の周囲にある記号をなぞった。
「『繋ぎ留める』だけでなく、『結びつきを保つ』とも読めると思う」
「それだと、少し意味が変わりますね」
「そうね。ただ、どちらが正しいかは、前後の文章がなければ決められないわ」
ミラは新しい解釈を手元の紙に書き加えた。
「記憶との関係を考えたくなりますけど、今は決めつけない方がよさそうですね」
「ええ。私の力が反応したからといって、施設そのものが記憶に関係しているとは限らないもの」
セレネはそう答えたが、心の中には小さな疑問が残っていた。月蝶は、記憶の痕跡に触れる力だ。それが地下の扉で反応し、昨日は鐘の音にも似た感覚を覚えた。
偶然と言い切るには、気になることが重なっている。それでも、似ているというだけで繋がりを確定させるわけにはいかなかった。
*
昼過ぎ、ミラのもとに鐘楼の管理部門から返答が届いた。
旧照応施設への立ち入りについては、管理権限の確認が必要なため、すぐには許可できないという。ただし、現在の封鎖状況を調査するため、担当部署が古い記録を確認することになったらしい。
「少なくとも、申請を却下されたわけではありません」
ミラは通知書を机に置いた。
「施設の存在自体が現在の管理台帳に載っていないので、少し複雑な手続きになるようです」
「時間がかかりそうね」
「はい。でも、その間に調べられることはあります」
ミラは別の帳簿を開いた。
「昨日、鐘楼の地下で見つけた紋様について、古い地図にも似たものがないか確認していたんです。それで、気になる記述を見つけました」
帳簿には、灰鐘市周辺の古い地名が年代順に記されていた。
都市の拡張や行政区分の変更によって、多くの地名が消えている。現在も使われている名称がある一方、所在を特定できないものも少なくなかった。
ミラが示したのは、そのうちの一つだった。
『月環の丘』
セレネは、その文字を見つめた。
「月環……」
「今の地図には存在しない地名です。記録によると、かつて灰鐘市の北方にあったとされています」
ミラは別の紙を並べた。
「ただし、場所が曖昧なんです。資料によって北西と書かれていたり、北東と書かれていたりして、位置が一致しません」
「同じ名前の場所が、複数あった可能性は?」
「あります。でも、年代の近い資料でも記述が食い違っているんです」
セレネは帳簿を手に取った。地名の横には、小さな印が描かれていた。円を描く細い線と、その内側に置かれた弧。
昨日の鉄扉で見た紋様に、よく似ていた。
「……これ」
セレネが指さすと、ミラも頷いた。
「完全に同じではありません。けれど、形は似ています」
「そうね」
セレネは慎重に印を見比べた。
鐘楼の扉には三日月を囲む細い線があった。一方、帳簿の印は摩耗した写しなのか、線の本数が少ない。単に月を表現した図柄なら、似た形が使われていても不思議ではない。
「この地名は、いつ頃まで使われていたの?」
「確認できた中では、およそ百二十年前の記録が最後です。それより新しい地図には載っていません」
「理由はわからないのね」
「ええ。地名の変更や集落の移転があったのかもしれませんが、今のところ記録がありません」
ミラは少し考え、帳簿の別の箇所を開いた。
「それと、もう一つ。月環の丘に関する記述には、時々『旧王領』という言葉が添えられています」
「旧王領?」
「現在の灰鐘市が属している行政区分より前に使われていた呼び方のようです。ただ、どの王国を指しているのか、この帳簿だけではわかりません」
セレネは無意識に指を止めた。
王国。
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥に微かな違和感が生まれた。しかし、昨日のように景色が浮かぶことはなかった。ただ、何か大切なことを聞き逃しているような、落ち着かない気持ちだけが残った。
「セレネさん?」
ミラが顔を覗き込む。
「……何でもないわ。少し考えていただけ」
セレネは帳簿に目を戻した。
『月環の丘』という地名。旧王領という曖昧な記述。そして、地下の扉に刻まれた三日月。
それらが本当に繋がっているのか、今はまだわからない。けれど、調べる価値はありそうだった。
「この丘について、もう少し詳しい資料はあるのかしら」
「探してみます。ただ、古い地名の資料は別の保管区画にあるので、閲覧申請が必要です」
「お願いできる?」
「もちろんです」
ミラは手元の紙に必要な資料を書き出した。
その横顔を見ながら、セレネは不意に思った。ミラがいなければ、ここまで調べることはできなかっただろう。
自分には月蝶という力がある。けれど、その力だけで過去を知ることはできない。残された記録を読み、人々の言葉を聞き、確かな情報を一つずつ集める必要がある。
セレネは机の上の資料に視線を落とした。
失われたものを探すには、今ここに残されているものを見なければならない。
そんな当たり前のことを、改めて感じていた。
*
夕方、二人は静夜診療所を訪れた。
鐘楼の調査が始まってからも、セレネはエマとニナのことが気になっていた。あの二人の間で起きた記憶の断絶は、まだ解決していない。
診療所の入口では、薬草の束を整理していた職員が二人を迎えた。
「こんにちは。今日はどうされましたか?」
「以前お話を伺ったエマさんとニナさんについて、少し確認したいことがあって」
ミラが答えると、職員は頷いた。
「お二人とも、今日は落ち着いています。ただ、記憶については変わりありません」
案内された部屋では、エマが窓際の椅子に座っていた。手元には刺繍の途中らしい布があり、細い針がゆっくりと動いている。
「こんにちは、エマさん」
ミラが声をかけると、エマは顔を上げた。
「あら、また来てくれたのね」
その表情は穏やかだった。けれど、以前失われた記憶が戻った様子はない。
「今日は、少し変わったことを聞いてもいいかしら」
セレネが尋ねると、エマは不思議そうに首を傾げた。
「何かしら?」
「鐘の音について、何か覚えていることはある?」
エマは手を止めた。
「鐘の音?」
「ええ。一昨夜、街の大鐘楼が予定外の時刻に鳴ったの。何か感じたことはなかった?」
エマは少し考えてから、首を横に振った。
「聞こえたような気はするけれど……特に何もなかったと思うわ」
「そう。ありがとう」
セレネは無理に質問を重ねなかった。
鐘の異常と記憶の欠落に関連があるという証拠はない。必要以上に問い詰めても、エマを困らせるだけだろう。
そのとき、部屋の奥からニナが顔を出した。
「あ、セレネさん」
少女は軽く会釈し、エマの隣に腰を下ろした。
「今日は何のお話?」
「少し、昔のことを調べているの」
セレネが答えると、ニナは興味深そうに目を輝かせた。
「昔って、どれくらい昔?」
「百年くらい前のことかしら」
「そんなに?」
ニナは驚いたように目を丸くした。
「そんな昔のことも、調べられるんだね」
「記録が残っていれば、ある程度はね」
ミラが微笑みながら答えた。
「でも、記録がないこともたくさんあるのよ」
「じゃあ、誰も覚えていなかったら、わからなくなっちゃうの?」
その問いに、セレネは一瞬、言葉を失った。
誰も覚えていなければ。記録にも残っていなければ。その出来事が確かに存在したと、どうすれば証明できるのだろう。
「……そういうことも、あると思うわ」
セレネは静かに答えた。
「でも、全部がなくなってしまうとは限らない。何かの形で、痕跡が残っていることもあるから」
ニナはしばらく考え込んでいたが、やがて小さく頷いた。
「じゃあ、探せば見つかるかもしれないんだね」
「ええ。見つかるかもしれないわ」
そう答えながら、セレネは自分自身にも同じ言葉を向けているような気がした。
五年前より前の、自分の記憶。どこで生まれ、どんな人々と過ごしてきたのか。そのすべてを思い出せる保証はない。
それでも、何も残っていないと決めつける理由もなかった。
*
診療所を出る頃には、すっかり日が暮れていた。
灰鐘市の通りには街灯がともり、石畳の上に長い影が伸びている。遠くに見える大鐘楼は、夜空を背景に黒い輪郭を浮かび上がらせていた。
「エマさんもニナさんも、落ち着いていてよかったですね」
ミラが言った。
「ええ。でも、記憶については進展がなかったわ」
「そうですね。鐘との関係も、今のところはわかりません」
二人は並んで歩き始めた。
「ただ、今日の地名の記録は気になります」
ミラは鞄に入れた帳簿の写しに目を向けた。
「月環の丘。旧王領。そして、あの紋様。偶然かもしれませんが、調べてみる価値はあります」
「そうね。次は、その丘に関する記録を探しましょう」
セレネは夜空を見上げた。雲の切れ間に、月が浮かんでいる。
その光は穏やかで、昨日の地下で感じた痛みを思い出させるようなものではなかった。けれど、月を見ていると、胸の奥の空白がいつもより強く意識された。
何かを忘れている。
それも、とても大切な何かを。
「セレネさん?」
ミラの声に、セレネは視線を戻した。
「ごめんなさい。少し考え事をしていたの」
「無理はしないでくださいね。昨日も地下で具合が悪そうでしたし」
「ありがとう。でも、大丈夫よ」
セレネは微かに笑った。
「急いで答えを出すつもりはないわ。ちゃんと、確かめながら進みたいの」
ミラは安心したように頷いた。二人はそのまま、静かな通りを歩いていった。
*
同じ頃、記録院の地下保管庫では、一人の職員が古い帳簿を整理していた。
昼間に申請された、旧地名に関する資料。その保管場所を確認するため、職員は奥の書架から一冊の台帳を取り出していた。
台帳には、現在使われていない地域の名称が多数記されている。その中に、『月環の丘』という項目があった。
職員は記録番号を確認し、対応する保管箱を探した。しかし、指定された棚には何も置かれていない。
「……あれ?」
職員は台帳を開き直した。
保管場所の記載に間違いはない。けれど、そこにあるはずの資料が見当たらなかった。
古い資料では珍しいことではない。移動の記録が残されていなかったり、整理の途中で別の場所へ収められたりすることもある。
職員はため息をつき、欠品として記録しようとした。そのとき、台帳の下に挟まれていた薄い紙片が床へ落ちた。
拾い上げると、それは古い資料の表紙から剥がれたような紙だった。端は破れ、ほとんどの文字が読めなくなっている。けれど、中央には小さな紋様が残されていた。
三日月を囲む、幾つかの細い線。
その下には、短い文字列が記されている。
職員は目を凝らしたが、古い文字を読むことはできなかった。ただ、末尾に記された一語だけは、比較的新しい時代の文字に似ていた。
――ルナリア。
それが地名なのか、人の名なのか、それとも別の何かなのか、職員にはわからなかった。
紙片を失くさないよう、彼は台帳の間に挟み直した。そして、明日ミラに確認してもらうため、机の上に置いて保管庫を後にした。
古びた紙片に記された名が、セレネの失われた過去と関わっているかもしれないことを、彼はまだ知らなかった。