朝の記録院には、柔らかな日差しが差し込んでいた。
高い窓から伸びる光が閲覧室の床を照らし、書架の間では職員たちが静かに資料を運んでいる。セレネが扉を開けると、いつもの机に向かっていたミラが顔を上げた。
その前には、一冊の古い台帳と、小さな紙片が置かれていた。
「おはようございます、セレネさん」
「おはよう、ミラ。昨日の資料について、何かわかったの?」
「ええ。ただ、あまりよい知らせではないんです」
ミラは古い台帳を開いた。
「昨日申請していた、月環の丘に関する資料です。保管庫から返答がありましたが、登録された棚には該当する保管箱がなかったそうです」
「……見つからなかったのね」
「はい。別の場所へ移されたのか、それとも管理番号に誤りがあるのか。まだ判断できません」
セレネは台帳の記載を確認した。
月環の丘という地名の横には、古い保管番号が残されている。しかし、その番号が指すはずの箱は、現在の保管場所には存在していなかった。
「記録があるのに、現物がないのね」
「ええ。古い資料では、ときどきあることですが……」
ミラは言葉を切り、隣に置かれた紙片へ視線を移した。
「ただ、関連する資料を調べる中で、これが見つかりました」
セレネは椅子に腰を下ろした。
紙片は手のひらほどの大きさで、端が不規則に破れていた。褪せたインクが表面に残り、中央には細い曲線を組み合わせた紋様が描かれている。
セレネは、思わず身を乗り出した。
「……この印」
三日月を囲む、いくつかの細い線。
一昨日、大鐘楼の地下で見た鉄扉の紋様に似ていた。
「気づきましたか」
ミラが頷いた。
「私も、鐘楼の印に近いと思いました。ただ、紙片の端が失われています。残された部分だけでは、同じ図柄だったのか判断できません」
「……そうね。線の位置にも、少し違いがあるように見えるわ」
セレネは目を凝らした。
鉄扉の紋様は、錆と摩耗によって細部を確認しきれなかった。一方、目の前の紙片も破損しており、元の形を正確に復元することは難しい。
似ているという印象はあっても、同じものだとは言えなかった。
「それから、もう一つあります」
ミラは紙片の下部を示した。
「文字が残っているんです。保管庫の職員には判読できなかったそうですが……」
セレネは視線を落とした。
そこには、古い形式の文字が並んでいた。大部分は擦れているものの、末尾に近い部分だけは、比較的はっきりと残されている。
セレネの指が止まった。
――ルナリア。
「……ルナリア」
気づけば、その言葉を声に出していた。
初めて目にしたはずの名前だった。
けれど、奇妙なことに、見知らぬものだとは思えなかった。胸の奥にかすかな感覚が生まれ、何かを思い出そうとすると、その輪郭だけが遠ざかっていく。
「……読めるんですか?」
ミラが尋ねた。
「ええ。この部分だけなら」
「ルナリア……。地名でしょうか。それとも、誰かの名前?」
「……わからないわ」
セレネは紙片を見つめた。
文字そのものは読める。しかし、その名前が誰を、あるいは何を指していたのかは思い浮かばない。
「古い言葉には、名前と地名で同じ形を使うものもあるわ。前後の文章が残っていれば、もう少し絞り込めるかもしれないけれど」
「残念ながら、そこが失われていますね」
ミラは紙片の破れた端を確認した。
セレネは無意識に右手を伸ばしかけ、途中で止めた。
一昨日の地下調査を思い出したのだ。
あの鉄扉の前で月蝶を使ったとき、伸ばした感覚は何かに遮られるように途切れた。その後、扉に刻まれた三日月の紋様を目にした瞬間、胸が強く痛み、見知らぬ白い回廊が脳裏をよぎった。
高い窓から差し込む月明かりと、遠くで誰かが呼ぶ声。
あれが自分の記憶だったのか、月蝶を通して触れた何かの反響だったのかは、今もわかっていない。
「……ミラ」
セレネは顔を上げた。
「この紙片を、もう少し調べることはできるかしら」
「文字の調査ですか?」
「それもあるけれど……月蝶を使ってみたいの」
ミラはすぐには答えなかった。
机の上の紙片を見つめ、それからセレネへ視線を戻す。
「鐘楼では、具合が悪くなっていましたよね」
「ええ。今回も何か起きるかもしれないわ」
「……それでも、調べたいんですね」
「無理に反応を引き出すつもりはないの。何か感じたら、すぐに止めるわ」
ミラは少し考え、頷いた。
「でしたら、奥の小閲覧室を使いましょう。ただ、紙片は傷みが激しいので、保管担当の方にも確認しておきます」
「ありがとう」
ミラは職員に事情を伝え、紙片の状態を確認してもらった。
古い資料を傷めないことを条件に、別室での観察が認められた。二人は保護用の台紙に載せたまま紙片を運び、静かな小閲覧室へ向かった。
*
小閲覧室には、小さな窓が一つだけあった。
外からの音はほとんど届かず、壁際には資料の状態を確認するための照明が置かれている。机の中央には紙片が保護台ごと載せられ、ミラは少し離れた場所に椅子を用意した。
セレネは紙片の前に立った。
「……始めるわね」
「はい。何かあったら、すぐに声をかけてください」
セレネは静かに右手を上げた。
指先に淡い光が集まり、やがて小さな蝶の輪郭を結んでいく。
月蝶。
失われた記憶の痕跡を探り、そこに残る反響へ触れる力だった。
ただし、過去を自由に見られるわけではない。
何も読み取れないこともあれば、断片的な感覚だけが返ってくることもある。触れたものが誰の記憶に属しているのかさえ、確かめられない場合があった。
蝶は音もなく羽ばたき、紙片へ近づいた。
淡い光が三日月の紋様を覆う。
次の瞬間、セレネの足元が揺らいだ。
「……っ」
彼女は反射的に机へ手をついた。
小閲覧室の壁が遠ざかり、視界が白い光に満たされていく。
目の前に現れたのは、長い回廊だった。
白い石で造られた壁と床。頭上には高い天井が続き、等間隔に並ぶ窓から月光が差し込んでいる。
セレネは、その景色を知っているような気がした。
一昨日、鐘楼地下の鉄扉の紋様を見た瞬間に脳裏をよぎったものと、よく似ていたからだ。
ただし、今回は以前よりも光景がはっきりしていた。
床の石目が見える。
窓の向こうには、暗い夜空が広がっている。
そして、回廊の奥。
一人の人物が立っていた。
白い衣装をまとった、背の高い人物だった。距離のせいなのか、それとも光景そのものが欠けているのか、顔を確かめることはできない。
その人物が、ゆっくりと手を伸ばした。
誰かを招いているのだろうか。
それとも、何かを渡そうとしているのだろうか。
セレネが一歩踏み出そうとしたとき、声が聞こえた。
『……を……』
言葉の途中が欠けている。
セレネは耳を澄ませた。
『……忘れ……』
「……誰?」
問いかけても、返事はなかった。
回廊の奥に立つ人物は、なおも手を伸ばしている。
その姿に近づこうとした瞬間、足元の白い床が輪郭を失い始めた。
景色が崩れる。
窓も、壁も、差し込んでいた月光も、音のない白さへ溶けていく。
セレネは伸ばされた手を見つめた。
けれど、その先へ届くより早く、視界が途切れた。
*
「セレネさん!」
ミラの声で、セレネは目を開けた。
小閲覧室の机が目の前にあった。紙片は保護台の上に残されており、月蝶の光はすでに消えている。
「……ミラ」
「大丈夫ですか? 急に身体が傾いたので……」
セレネは椅子に腰を下ろした。
胸の奥に鈍い痛みがあった。息を整えると少しずつ治まっていったが、先ほど見た光景の鮮明さだけは失われなかった。
「……少し、見えたものがあるの」
「記憶ですか?」
「そうかもしれない。でも、誰のものなのかはわからないわ」
ミラは手帳を取り出した。
「話せる範囲で構いません。覚えていることを教えてください」
セレネは頷き、見えたものを順に説明した。
白い石造りの回廊。
月明かりの差す高い窓。
その奥に立つ、白い衣装の人物。
そして、途中で途切れた声。
ミラは筆を動かしながら、顔を上げた。
「……一昨日、鐘楼の地下で見た回廊と似ているんですね」
「ええ。あのときは一瞬だったけれど、今回はもっと長く見えたわ」
「人物の姿も、以前から見えていたんですか?」
「いいえ。少なくとも、一昨日はそこまで確かめられなかったと思う」
セレネは目を伏せた。
地下の鉄扉の前では、白い回廊と誰かの声が脳裏をよぎった。今回の紙片では、同じような回廊の奥に人物が現れている。
二つの光景が同じ場所を示していたとしても、不思議ではない。
しかし、似ているというだけで、同じ記憶だと断定することはできなかった。
「……紙片と地下施設に、何か共通するものがあるのでしょうか」
ミラが尋ねた。
「可能性はあるわ。でも、どちらにも似た紋様があるからといって、直接繋がっているとは限らないもの」
セレネは紙片を見つめた。
「それに、この光景が紙片そのものに残されていたのか、紋様を通して別の何かに触れたのかもわからないわ」
「……月蝶の反応を、もう少し詳しく調べる必要がありそうですね」
「ええ。ただ、今すぐ繰り返すのは避けたいわ」
ミラは頷いた。
「その方がいいと思います。まだ、顔色がよくありませんから」
セレネは小さく息を吐いた。
確かに疲労は感じていた。しかし、それ以上に気になっているのは、回廊で聞いた声だった。
「……最後に、一つだけ言葉が聞こえた気がするの」
「何と言っていたんですか?」
「『忘れ』と……そこまでは聞こえたと思うわ」
「……忘れ」
「ええ。でも、前にも後にも別の言葉があったみたい。何を伝えようとしていたのかはわからない」
忘れるな、と告げようとしていたのだろうか。
それとも、忘れてほしい何かがあったのだろうか。
どちらとも決められなかった。
「その人物は、セレネさんに話しかけていたんでしょうか」
ミラが尋ねた。
セレネはゆっくりと首を横に振った。
「……それもわからないわ。私が見たからといって、あの人が私に向けて手を伸ばしていたとは限らないもの」
しばらく、二人は黙っていた。
セレネの胸には、説明できない感情が残っていた。
懐かしさ。
そして、理由のわからない悲しみ。
何を失った悲しみなのかさえ、思い出せなかった。
*
午後、二人は紙片に記された文字を調べることにした。
月蝶をもう一度試すのではなく、古語辞典と王国時代の索引を使って、ルナリアという言葉の用例を探す。午前中に見た光景については別の記録として残し、文字の意味とは分けて考えることにした。
「……ルナリア、という読みは間違いないのよね」
ミラが尋ねた。
「少なくとも、残された文字からはそう読めるわ。ただ、それが固有名詞なのか、別の言葉の一部なのかは判断できないの」
セレネは古語辞典を開いた。
月を意味する言葉と似た音を持つ語がいくつか見つかったが、ルナリアに完全に一致する項目はない。複数の古い言語で似た語尾が使われているため、音だけから意味を特定することも難しかった。
「……王国の名前だった可能性はありますか?」
ミラが尋ねた。
「あるかもしれないわ。でも、人名や土地の名前だった可能性もあるでしょう?」
「そうですね。今の資料だけでは絞れません」
ミラは昨日調べた地名帳簿を取り出した。
「月環の丘について、旧王領という記述がありましたよね」
「ええ。どの王国の領地だったのかは、まだわかっていないわ」
「もしルナリアが王国の名前だったなら、古い地名の資料に残っているかもしれません」
セレネは頷いた。
「そうね。でも、そうだと決めて探すと、ほかの可能性を見落とすかもしれないわ」
「……では、名前そのものと、旧王領の資料の両方から調べましょう」
二人は調査する項目を分けた。
王国や領地の名称。
古い集落の名前。
人名や家系の記録。
そして、月環の丘に関係する資料。
しかし、調べるほどに別の問題が見えてきた。
王国時代の記録は、現在の灰鐘市の行政区分で整理されたものではなかった。古い施設の記録は建築資料へ、土地の記録は地理資料へ、儀式や祭礼に関するものは別の区画へ移されている。
しかも、その分類方法は何度か変更されていた。
「……探す名前がわかっていても、簡単ではないのね」
セレネが呟く。
「はい。古い記録では、名前の表記が変わっていることもありますから」
ミラは複数の索引を広げた。
「それに、現在の索引に載っていないからといって、当時その名前が存在しなかったとは限りません」
「……そうね。まずは、資料がどこに残っているのかを確かめるべきかもしれないわ」
セレネは紙片の写しを見つめた。
ルナリア。
その名前が何を示していたのかは、今のところわからない。
しかし、月環の丘に関する資料を探す中で見つかったという経緯は、調査を進める手掛かりになりそうだった。
「……ミラ。紙片が見つかった場所について、もう一度調べられないかしら」
「保管記録ですね?」
「ええ。元の資料がわかれば、名前についても何か見つかるかもしれないわ」
ミラは頷いた。
「保管庫に確認してみます。移動記録が残っているかもしれません」
*
夕方、閲覧室には調査を終えた書類が積み重なっていた。
ルナリアという名前の意味は特定できなかった。しかし、古い索引の中には、まだ所在を確認できていない月環の丘の関連資料がいくつか残されている。
ミラは最後の辞典を閉じた。
「……今日は、この辺りで切り上げましょうか」
「そうね。無理に続けても、読み落としが増えそうだわ」
セレネも資料を整理し始めた。
そのとき、閲覧室の扉が控えめに叩かれた。
「失礼します」
入ってきたのは、地下保管庫を担当する年配の職員だった。
「ミラさん。朝の保管箱について、少し気になる記録が見つかりまして」
「……何かわかったんですか?」
職員は古い管理票を机へ置いた。
「現在の台帳では所在不明になっていますが、以前は別の区画に登録されていたようです」
ミラは管理票を受け取り、記録番号を確認した。
月環の丘に関する資料群と対応する番号が書かれている。ただし、紙の端が傷んでおり、移動先の区画名は途中までしか判読できなかった。
「……移動した記録が残っているんですね」
ミラが言った。
「ええ。ただ、通常の保管区画変更とは少し違う記載があるんです」
職員は管理票の下部を指さした。
そこには、移管の理由と思われる短い言葉があった。
『名称整理』
ミラは眉を寄せた。
「……名称整理、ですか」
「そう書かれています。ただ、何の名称を整理したのかは記されていません」
セレネも紙面を覗き込んだ。
「資料の名前を変更した、ということかしら」
「その可能性はあります。分類名や登録名を変えた際にも、似た処理が行われる場合がありますから」
職員は答えた。
「ただ、同じ時期の管理票で一般的に使われていた表現かどうかは、まだ確認できていません」
セレネは管理票を見つめた。
『名称整理』
文字だけを見れば、特別な意味はないようにも思える。
しかし、月環の丘という地名の資料が見つからず、その保管記録にだけ移管の痕跡が残されていることは気になった。
「……この管理票は、いつ頃のものなの?」
セレネが尋ねた。
「およそ八十年前です。残念ながら、日付の一部が失われています」
ミラは手帳を開いた。
「月環の丘という地名について、今のところ確認できる最も新しい記録は、およそ百二十年前のものでしたね」
「ええ」
セレネは頷いた。
「でも、それは地名が使われなくなった時期を意味するわけではないわ」
「はい。現在確認できた資料の年代が、そこまでというだけです」
ミラは管理票と台帳を並べた。
約百二十年前には、その地名を記した資料が存在していた。
約八十年前には、関連する資料について名称整理を理由とした移管記録が残されている。
ただし、それらが同じ資料を指しているのか、いつまで地名が使われていたのかは不明だった。
「……保管先が変わっただけなら、別の場所に残っているかもしれないわね」
セレネが言った。
ミラは頷いた。
「はい。まずは移管先を調べましょう。その後、同じ時期に似た処理を受けた資料があるかも確認したいです」
「それなら、整理の理由についても何かわかるかもしれないわ」
職員は二人の話を聞き、管理票の写しを取ることを認めた。
「移動先の記録については、こちらでも調べてみます。古い番号に対応する一覧が残っているかもしれません」
「ありがとうございます」
ミラは丁寧に礼を述べた。
職員が退室すると、セレネは改めて紙片の写しへ目を向けた。
月環の丘の資料を探す中で見つかった、ルナリアという名前。
そして、月環の丘に関する資料の移管を示す管理票。
二つの間に何らかの関係があった可能性はある。しかし、紙片が元の資料の一部だったのかどうかは、まだ確かめられていなかった。
「……ミラ。あの紙片は、見つからなかった資料の一部だったのかしら」
セレネが尋ねた。
「可能性はあります。でも、紙片が元々どの資料に属していたのかは、記録されていません」
ミラは答えた。
「それに、紙片と移管された資料が同じ時期のものかどうかも、まだ確認できていないんです」
「……なら、そこも調べる必要があるわね」
セレネは頷いた。
名前が消されたのか。
単に記録の分類が変わっただけなのか。
どちらとも判断するには、まだ資料が足りなかった。
*
記録院を出ると、灰鐘市は夕暮れに包まれていた。
通りには仕事を終えた人々が行き交い、商店の軒先からは温かな料理の匂いが漂ってくる。セレネとミラは大通りを並んで歩いていた。
その先には、夕空を背にした大鐘楼がそびえている。
「……今日は、最後に思いがけない記録が見つかりましたね」
ミラが口を開いた。
「ええ。保管箱が見つからない理由について、少し手掛かりが増えたわ」
「移管先を特定できれば、元の資料が残っているかもしれません」
セレネは頷いた。
「……でも、移された理由まではわからないのね」
「はい。名称整理という言葉だけでは、通常の分類変更だったのか、別の事情があったのかは判断できません」
ミラは鞄に入れた写しへ目を向けた。
「それでも、資料が完全に失われたと決まったわけではありません」
「……そうね」
セレネは大鐘楼を見上げた。
一昨日、その地下で見た三日月の紋様。
今日、記録院で見つかった紙片の印。
どちらも似た形を持っている。
そして、二つに触れたとき、白い回廊の光景が現れた。
けれど、二度の経験が同じ原因によるものなのかは、まだわからなかった。
「……セレネさん」
ミラの声に、セレネは顔を向けた。
「何かしら?」
「今日は、少し疲れていませんか」
「……そんなふうに見える?」
「月蝶を使ったあと、しばらく具合が悪そうでしたから」
セレネは微かに目を伏せた。
胸の痛みはすでに治まっていた。しかし、白い回廊の奥に立っていた人物と、途切れた声は今も頭から離れない。
「……気になることが増えてしまったのかもしれないわ」
「無理に思い出そうとしなくてもいいと思います」
ミラは少し間を置いた。
「少なくとも、今日見つかった資料は逃げません。調べられることを、一つずつ確認していきましょう」
「……ええ。そうね」
セレネは微かに微笑んだ。
自分には月蝶という力がある。
しかし、その力が示す断片だけで過去を知ることはできない。残された記録を調べ、そこに書かれた内容を確かめることも必要だった。
「……ミラ」
セレネが呼びかけた。
「はい?」
「明日は、月環の丘について古い地図を調べられるかしら」
「もちろんです。名前が記されていた場所を、年代ごとに整理してみようと思います」
ミラは頷いた。
「地図によって位置が違っていた理由も、少しはわかるかもしれません」
「そうね。私も、旧王領の記録をもう一度確認してみたいわ」
二人は通りの分かれ道で足を止めた。
「それでは、また明日」
「ええ。また明日ね」
ミラを見送ったあと、セレネは宿へ向かって歩き始めた。
*
夜、セレネは宿の窓辺に座っていた。
机の上には、ミラが書き写した三日月の紋様と、ルナリアという名前が並んでいる。ランタンの光に照らされた紙を見つめていると、昼間に見た白い回廊が、再び脳裏に浮かんだ。
月光の差し込む長い通路。
奥に立つ、顔の見えない人物。
こちらへ伸ばされた手。
そして、途切れた声。
『……忘れ……』
セレネはゆっくりと目を閉じた。
何度思い返しても、声の前後にあったはずの言葉は戻ってこない。回廊のどこにいたのかも、誰がそこに立っていたのかも、思い出すことはできなかった。
そもそも、あれが自分の過去であるという証拠さえない。
それでも、胸に残る懐かしさは消えなかった。
「……ルナリア」
セレネは静かに呟いた。
その名前を口にすると、白い衣装の人物が伸ばしていた手を思い出す。
しかし、名前と人物が関係しているのかどうかはわからない。
ルナリアは、国の名前かもしれない。
土地の名前かもしれない。
あるいは、誰か一人の名前だったのかもしれない。
セレネは紙片の写しを手に取った。
文字は残っている。
けれど、それが何を意味していたのかは、今の自分にはわからない。
名前だけが残り、その名を知る人々がいなくなったのだとしたら。
それは、どこかエマとニナの間に起きた出来事に似ているようにも思えた。
エマは娘と過ごした年月を忘れてしまった。けれど、ニナがその記憶を失ったわけではない。
同じ出来事でも、覚えている者と忘れた者がいる。
ならば、自分が忘れてしまった過去にも、それを覚えている誰かがいるのだろうか。
セレネは窓の外へ目を向けた。
雲の切れ間から、白い月が姿を現している。
五年前に目覚めてから、彼女は自分の過去について多くのことを知ろうとしてきた。
しかし、確かな答えはほとんど得られていない。
それでも、今日見つかった紙片には、知らない名前が残されていた。
古い記録の中に、今も誰かが書き残した言葉が存在している。
その事実が、少しだけ心を落ち着かせた。
セレネは月を見つめた。
すると、不意に一つの言葉が浮かんだ。
――名を失くしても、月は憶えている。
「……今のは」
セレネは思わず呟いた。
誰かの声が聞こえたわけではない。
自分の中に、いつの間にかその言葉が生まれていた。
以前に聞いたことがあったのか、それとも、今の自分が考えたものなのか。何度確かめようとしても、答えは浮かばなかった。
ただ、忘れてしまいたくないと思った。
セレネは机へ戻り、一枚の紙を取り出した。
そして、ゆっくりと筆を走らせる。
――名を失くしても、月は憶えている。
書き終えると、その下へもう一つの言葉を記した。
ルナリア。
二つの言葉の間に関係があるという証拠はない。けれど、どちらも今夜の自分にとって、書き残しておきたいものだった。
セレネは紙を見つめた。
知らない名前。
知らない回廊。
そして、自分を呼んでいたのかもしれない、顔の見えない人物。
どれも、まだ答えには結びつかない。
それでも、確かめることはできるはずだった。
明日は、月環の丘について古い地図を調べる。
もし、ルナリアという名前がその場所と関係しているのなら、何か新しいことがわかるかもしれない。
セレネは紙を丁寧に折り畳み、鞄へしまった。
月明かりが机の上に落ちている。
その光の中に、紙片の紋様を写した線が浮かび上がっていた。
セレネはランタンの灯りを落とした。
窓の外では、月が静かに灰鐘市を照らしている。
その光を見つめても、失われた記憶が戻ることはなかった。
けれど、明日もまた、残された記録を調べることはできる。
セレネは静かに目を閉じた。
ルナリアという名前の意味を、まだ知らないまま。