月は、失われた名を憶えている   作:ノイリ

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第7話 地図から消えた丘

朝の灰鐘市には、薄い霧が立ち込めていた。

 

石畳の通りを行き交う人々の姿は、白く霞んだ空気の向こうにぼんやりと浮かんでいる。遠くにそびえる大鐘楼も、今朝は上半分が霧に隠れていた。

 

セレネは宿の窓辺に立ち、昨夜書き留めた一枚の紙を見つめていた。

 

――名を失くしても、月は憶えている。

 

月を眺めていたとき、不意に浮かんだ言葉だった。誰かに教えられたものなのか、自分自身が考えたものなのか。それすらわからないまま、忘れてはいけない気がして紙に残した。

 

その下には、もう一つの言葉がある。

 

ルナリア。

 

古い紙片に記されていた、意味のわからない名前だった。月蝶を通して見た白い回廊と、顔の見えない人物。その光景が何を示していたのかも、まだ明らかになっていない。

 

セレネは紙を丁寧に折り畳み、鞄へしまった。

 

今日はミラと、月環の丘に関する古い地図を調べる約束をしている。昨日確認した資料では、丘の名がどこから来たのかも、現在のどの場所に対応するのかもわからなかった。

 

それでも、名前が記録に残っている以上、何も手掛かりがないわけではない。

 

記憶を取り戻す方法はわからなくても、残されたものを辿ることはできる。今は、その一つひとつを確かめていくしかなかった。

 

セレネは鞄を肩に掛け、宿を出た。

 

*

 

記録院に到着すると、ミラは大きな地図を机いっぱいに広げていた。

 

古い紙には幾筋もの折り目があり、端には補修用の薄い布が貼られている。年代の異なる小さな地図も、周囲に数枚並べられていた。

 

「おはようございます、セレネさん」

「おはよう。もう調べ始めていたのね」

「はい。昨日お話しした月環の丘について、古い地図を集めてみました」

 

ミラは一枚の地図を指さした。

 

「こちらが、今のところ月環の丘という地名を確認できた中では、最も新しい地図です。およそ百二十年前に作られたものですね」

 

セレネは身を乗り出した。

 

地図には、現在の灰鐘市とは異なる街道や集落が描かれていた。市街地の北には広い森林があり、その先に丘陵地帯が続いている。

 

ミラが指さした場所には、小さな文字が残されていた。

 

『月環の丘』

 

その名前は、灰鐘市の北西に記されていた。

 

「ここなのね」

「この地図では、そうなっています。ただ、別の記録と照らし合わせると、少しおかしいんです」

 

ミラは二枚目の地図を隣に広げた。

 

「こちらは、それより数十年前に作られたものです」

 

セレネは二枚を見比べた。

 

街道の位置や河川の流れには、多少の違いがある。それ自体は珍しいことではない。古い地図は作成目的や測量方法が異なり、必ずしも同じ精度で描かれているわけではなかった。

 

しかし、月環の丘の位置は明らかに異なっていた。

 

一枚目では北西の丘陵地帯。

 

二枚目では北東の森林付近。

 

「……同じ場所を示しているとは思えないわね」

「そうなんです。他の地名は比較的近い位置に残っているのに、月環の丘だけが離れた場所に描かれています」

「地図の作成者が間違えた可能性は?」

「もちろんあります。でも、もう一枚見ていただきたいんです」

 

ミラは三枚目の地図を取り出した。

 

それは他の二枚よりも古く、紙の傷みも激しかった。端が欠け、地名の一部は判読できなくなっている。

 

それでも、月環の丘という文字は残されていた。

 

セレネは地図を覗き込み、眉を寄せた。

 

「……今度は、北方の中央にあるのね」

「はい。こちらが三枚の中で最も古い地図です」

 

三枚の地図は、それぞれ異なる位置に月環の丘を記していた。

 

最古の地図では北方中央。

 

その数十年後の地図では北東。

 

そして、最も新しい地図では北西。

 

セレネは三枚を順に見比べた。

 

「……地名が移されたのかしら」

「可能性はあります。でも、地名の変更や移転を示す記録は、今のところ見つかっていません」

 

ミラは地図の位置を揃えた。

 

「それに、周囲の地形が大きく変わっているわけでもないんです。河川や集落の位置を基準にすると、月環の丘という名前だけが異なる場所に現れているように見えます」

「……丘そのものが動いたとは考えにくいわね」

「ええ。少なくとも、通常の地形変化では説明しにくいと思います」

 

セレネは地図に目を落とした。

 

同じ名前が異なる場所に記されているからといって、そこに一つの丘が存在したとは限らない。同じ地名が別の場所に使われていた可能性もあれば、後世の写しや測量に誤りが含まれている可能性もある。

 

ただ、三枚とも月環の丘という名前を記していることは確かだった。

 

「……名前が変わったのではなく、名前の指すものが違っていた可能性もあるのね」

 

セレネが言うと、ミラは頷いた。

 

「はい。まずは、三枚の地図に共通する特徴がないか調べてみましょう」

 

二人は改めて地図を広げた。

 

*

 

二人は地図の縮尺を確認しながら、周辺の地形を比較していった。

 

河川の合流地点、丘陵の形、古い集落の位置。現代の地図と対応させられる場所を探し、少しずつ位置関係を整理していく。

 

古い地図の中には、測量の基準点が不明なものもあった。そのため、線を重ねれば正確な位置がわかるというわけではなく、確実に対応すると判断できる地形を一つずつ確認する必要があった。

 

しばらくして、ミラが手を止めた。

 

「セレネさん。ここを見てください」

 

彼女が指さしたのは、最も新しい地図だった。

 

月環の丘の近くには、細い街道が描かれている。現在の主要街道とは異なり、その線は丘陵地帯の途中で途切れていた。

 

「こちらにも、似た道があります」

 

ミラは二枚目の地図を示した。

 

北東の森林へ伸びる道。その先には月環の丘という文字があり、道はそこで終わっている。

 

さらに、最も古い地図にも同じような特徴があった。

 

「……どの地図にも、道があるのね」

 

セレネが呟いた。

 

「はい。ただし、それぞれ違う場所に描かれています」

 

ミラは三枚を見比べた。

 

「これだけ離れていると、一つの街道が時代ごとに少しずつ移動した、と考えるのは難しそうです」

「そうね。それに、道の終わり方も気になるわ」

 

セレネは最も古い地図へ目を向けた。

 

道は北方へ向かって伸びているが、その先で突然途切れていた。地図の端に到達しているわけでも、別の街道と交わっているわけでもない。

 

「……道が、何もないところで終わっているように見えるわ」

「ええ。ただ、古い地図では測量できなかった区間を省略することもあります。実際に道がそこで終わっていたとは限りません」

「でも、三枚とも似た描き方なのね」

「そうなんです。そこが気になっていて」

 

二人は道の終点付近を改めて確認した。

 

いずれの地図でも、月環の丘という文字は道の終点に近い場所に記されている。ただし、地名そのものが道の終点を示しているのか、その先にある丘を示しているのかは判然としなかった。

 

セレネは腕を組んだ。

 

「……もしかすると、私たちは地図の読み方を間違えているのかもしれないわね」

「どういうことですか?」

「月環の丘という名前が、必ずしも地図に描かれた地点そのものを指しているとは限らないでしょう?」

 

ミラは少し考えた。

 

「……その場所へ向かう経路を示している可能性ですか?」

「ええ。ただ、今はそういう可能性もある、というだけよ」

 

セレネは三枚の地図を見つめた。

 

異なる三つの位置に描かれた道と、同じ地名。

 

それらが一つの目的地へ繋がっていたのか、別々の場所へ続いていたのか。現時点では、どちらとも判断できなかった。

 

「……道の管理記録を調べてみましょう」

 

ミラが言った。

 

「いつまで使われていたのか、どこへ向かう道だったのか。何か残っているかもしれません」

「ええ。地図だけで考えるより、確かめられることが増えそうね」

 

二人は調査内容を書き留め、街道に関する帳簿を探すことにした。

 

*

 

昼前、ミラが古い街道管理帳簿を持って戻ってきた。

 

「セレネさん。少し気になる記録がありました」

 

彼女が開いたのは、かつて灰鐘市の北方を通っていた街道の一覧だった。古い道の名称と補修状況が年代順にまとめられており、すでに使われなくなった道についても、一部の情報が残されている。

 

その中に、一つの見慣れない名前があった。

 

『旧月環道』

 

「……月環の丘と関係があるのかしら」

「名前から考えれば可能性はあります。ただ、具体的な経路がはっきりしていないんです」

 

ミラは帳簿の注記を示した。

 

『旧月環道。起点不詳。終点不詳。』

 

「……起点も終点もわからないのね」

「はい。少なくとも、この記録だけでは特定できません」

 

ミラは記録の続きを示した。

 

旧月環道は、およそ百年前に補修対象から外されていた。ただし、それ以前にいつまで利用されていたのか、どのような理由で補修対象から外されたのかは書かれていない。

 

セレネは帳簿を覗き込んだ。

 

「……使われなくなった道なら、位置が記録されていてもおかしくないわね」

「そうなんです。もちろん、古い記録が失われた可能性もありますが」

 

ミラは別の帳簿を開いた。

 

「例えば、土砂崩れで廃道になった道については、以前の経路や崩落箇所が残されていることがあります。でも、月環道については、それに相当する記述が見つかりません」

 

セレネはしばらく考えた。

 

月環の丘という地名が確認できる最も新しい地図は、およそ百二十年前のものだった。一方、旧月環道という名称は、およそ百年前の管理記録にも残されている。

 

さらに、昨日までの調査では、月環の丘に関係する資料が約八十年前に「名称整理」という理由で別の区分へ移されていたこともわかっていた。

 

「……少なくとも、三つは違う時期の出来事なのね」

 

セレネが言うと、ミラは頷いた。

 

「ええ。百二十年前は、今のところ確認できる最も新しい地図の年代です。地名が使われなくなった時期とは限りません」

「旧月環道が補修対象から外されたのが、およそ百年前」

「そして、関連資料が名称整理の名目で移されたのが約八十年前です」

 

ミラは三つの年代を書き留めた。

 

「時間的には並んでいますが、同じ事情で起きた出来事かどうかはわかりません」

「……そうね。資料が移された理由も、まだ確かめられていないもの」

 

セレネは頷いた。

 

月環の丘に関する地図。

 

旧月環道という名称。

 

そして、名称整理によって移された資料。

 

それぞれに関係がある可能性はあった。しかし、その関係を説明する記録は、まだ見つかっていなかった。

 

「……ミラ。旧月環道について、現在の道路図から調べることはできないかしら」

 

セレネが尋ねた。

 

「それなら、道路管理部門に確認する方法があります。古い道の跡が残っていれば、位置を調べられるかもしれません」

 

ミラは帳簿を閉じた。

 

「ただし、旧月環道という名前だけでは場所を特定できません。現在残っている旧道が、すべて月環道と関係しているわけではありませんから」

「ええ。まずは、記録に対応する可能性のある場所を探しましょう」

 

二人は必要な資料を書き写し、午後に北門の道路管理所を訪れることにした。

 

*

 

午後、セレネとミラは灰鐘市の北門を訪れた。

 

門の周辺には、旅人や商人が多く集まっていた。荷馬車が石畳を軋ませながら通り抜け、門番たちが通行証を確認している。

 

門の外には広い街道が伸び、その先に緩やかな丘陵地帯が見えていた。朝の霧はすでに薄れ、遠くの森林まで見渡せるようになっている。

 

二人は北門に隣接する道路管理所へ向かった。

 

「旧月環道、ですか」

 

事情を聞いた職員は、古い帳簿の写しを見ながら首を傾げた。

 

「現在の管理記録には、その名前の道はありませんね」

「百年以上前の記録に残っていたんです。現在も道の跡が残っていないか、確認したくて」

 

ミラが説明すると、職員は道路図を広げた。

 

「それでしたら、北方の旧道について確認してみましょう」

 

図面には現在使われている街道のほか、廃道になった道や調査の終わっていない区域が記されていた。職員は古い地図の写しと見比べながら、一つの場所を指さした。

 

「北西の丘陵地帯には、今も古い石畳が残っています。ただし、現在の街道とは直接繋がっていません」

 

「……北西」

 

ミラが小さく呟いた。

 

最も新しい地図では、月環の丘が北西に描かれている。

 

「その石畳が、旧月環道だった可能性はありますか?」

「否定はできませんが、証拠はありません。昔の道は他にもありますし、いつ造られたものなのかも、まだ詳しくわかっていないんです」

 

職員は慎重に答えた。

 

「それに、長く使われていない道です。石畳が残っていても、周囲の地盤が安全とは限りません。無断で立ち入るのは避けてください」

 

セレネは道路図へ視線を落とした。

 

北西の丘陵地帯に、古い石畳が残されている。

 

位置だけを見れば、最も新しい地図に描かれた道と重なる可能性がある。しかし、それが月環の丘へ続いていた道なのかは、まだわからなかった。

 

「……現地を調べるには、どうすればいいのかしら」

 

セレネが尋ねると、職員は別の書類を取り出した。

 

「地形調査の申請が必要です。古い遺構が見つかる可能性もありますので、調査目的と範囲を明確にしていただければ、担当部門で確認します」

 

ミラは頷いた。

 

「わかりました。必要な手続きを教えてください」

 

職員は申請書の記入方法を説明し、調査対象となる区域を図面で示した。

 

セレネはその間、窓の外に広がる丘陵を眺めていた。

 

北西の丘。

 

もし、そこに月環の丘に関係する道が残されているなら、何か手掛かりが見つかるかもしれない。

 

しかし、古い石畳が月環道のものだという証拠はない。現地調査が認められたとしても、必ず答えが得られるとは限らなかった。

 

「セレネさん?」

 

ミラの声に、セレネは振り返った。

 

「申請の方法がわかりました。少し準備が必要ですが、調査できる可能性はありそうです」

「そう。なら、資料をもう少し集めておきましょう」

「はい。古い地図に描かれた道と、現在の石畳の位置関係も詳しく確認してみます」

 

二人は職員に礼を述べ、管理所を後にした。

 

*

 

夕方、記録院へ戻った二人は、集めた資料を机に並べた。

 

月環の丘が描かれた三枚の地図、旧月環道の管理記録、そして北西の丘陵に残る古い石畳の情報。それぞれに関係がある可能性は見えてきたが、決定的な証拠はまだなかった。

 

「北西の旧道については、調査許可を申請してみます」

 

ミラは手元の書類を確認しながら言った。

 

「ただ、実際に調べるのは、もう少し資料を集めてからの方がよさそうですね」

「そうね。他の二つの道についても、何かわかるかもしれないもの」

 

セレネは古い地図を見比べた。

 

最も新しい地図に描かれた北西の道は、現在の道路管理図に残る石畳と、位置がおおむね重なっているように見える。しかし、縮尺も測量精度も違うため、それだけで同じ道だと判断することはできない。

 

「北東と中央の道については?」

「今のところ、対応する遺構は確認できていません。次は古い測量記録も探してみます」

 

ミラは調査項目を書き加えた。

 

「それから、鐘楼の地下施設についても、まだ正式な返答がありません。詳しい調査を行うには、管理部門の許可が必要なので」

「……前に見せてもらったときとは違うのね」

 

セレネが尋ねると、ミラは頷いた。

 

「はい。以前は職員の案内による目視確認だけでした。今回は入口周辺の寸法や紋様を詳しく記録したいので、そのための許可を申請しています」

「鉄扉を開けるための申請ではないのね」

「ええ。扉の封鎖状態を変えることは認められていません」

 

セレネは頷いた。

 

地下の鉄扉を思い出す。

 

三日月の紋様と、その周囲に刻まれた細い線。以前、月蝶を使ったときには、何かに反響を遮られるような感覚があった。

 

あの場所には、まだわからないことが多い。

 

「……地図の印と、扉の紋様を比べられるかもしれないわね」

 

セレネが言うと、ミラは頷いた。

 

「はい。ただ、似ているというだけで関係があるとは限りません。まずは正確な形を記録したいと思っています」

 

ミラは鐘楼地下の調査項目を、月環の丘の調査とは別の紙に書き留めた。

 

二つの調査には、共通する紋様が存在する可能性がある。しかし、それ以上の関係はまだ確認できていない。

 

無理に結びつけず、それぞれの資料を確かめる必要があった。

 

「ミラ」

「はい?」

「今日は、ありがとう。地図を調べるだけでも、こんなに多くのことがわかるのね」

 

ミラは少し驚いたように顔を上げた。

 

「まだ、確かな答えが出たわけではありませんけどね」

「ええ。でも、何も手掛かりがないわけではないとわかったわ」

 

セレネは机の上の地図に目を落とした。

 

五年前に目覚めてから、自分の過去は空白のままだった。思い出そうとしても、そこには何も浮かんでこない。

 

けれど、今は少し違う。

 

記憶に頼らなくても、過去に残されたものを調べることはできる。記録が不完全だったとしても、そこから新しい疑問を見つけることはできるのだ。

 

「……私、ずっと思い出すことばかり考えていたのかもしれないわ」

 

セレネが呟いた。

 

「セレネさん?」

「自分のことを知るには、記憶を取り戻さなければならないと思っていたの。でも、それだけが方法ではないのね」

 

ミラはしばらく考え、静かに頷いた。

 

「そうですね。記録というのは、誰かが忘れてしまったことを、別の形で残しておくためのものでもありますから」

「……そうね」

 

セレネは微かに微笑んだ。

 

自分の過去が、どこかに記録として残されている保証はない。しかし、失われた記憶のすべてが、世界から消えてしまったとは限らなかった。

 

少なくとも、そう信じて調べ続ける理由はあった。

 

*

 

その夜、セレネは宿の部屋で地図の写しを広げていた。

 

机の上には、月環の丘が描かれた三枚の地図が並んでいる。記録院で閲覧した原本から、地形と地名、道の位置関係を書き写したものだった。

 

最古の地図は北方中央。

 

その後の地図は北東。

 

最も新しい地図は北西。

 

それぞれ異なる場所に、同じ名前が記されていた。

 

セレネは今日確認した旧月環道の情報を、別の紙に書き加えた。そして、三枚の地図を一つずつ見直していく。

 

調べるうちに、改めて気になることがあった。

 

三枚とも、月環の丘へ向かうように描かれた道が、途中で終わっている。

 

地図の端や測量範囲の境界ではなく、何もない場所で線が途切れていた。

 

最初は、古い紙の傷みによるものだと思っていた。しかし、写しを見比べると、どの地図でも道の終点が比較的はっきりと描かれているように見える。

 

もちろん、原本の細部を正確に写せているとは限らない。

 

それでも、気になる共通点だった。

 

「……不思議ね」

 

セレネは小さく呟いた。

 

普通の街道なら、その先に集落や建物、別の道が続いていることが多い。しかし、三枚の地図では、いずれも道が何もない場所で終わっているように見えた。

 

地図に描かれていない建物があったのかもしれない。あるいは、測量を終えた地点までしか道を描いていなかった可能性もある。

 

セレネは一枚目の地図へ目を向けた。

 

月環の丘という文字は、道の終点付近に添えられている。

 

二枚目も、三枚目も同じだった。

 

それは、道の先に丘があったことを示しているのか。

 

それとも、道の終点そのものが、月環の丘という地名と関係していたのか。

 

まだ、判断することはできなかった。

 

セレネは紙の余白に疑問を書き留めた。

 

『三つの道は、なぜ途中で終わっているのか』

 

その文字を書き終えたとき、遠くから鐘の音が聞こえた。

 

大鐘楼の定時の鐘だった。

 

低く澄んだ音が夜の街へ広がり、石造りの建物の間を抜けていく。セレネは筆を置き、しばらく耳を澄ませた。

 

音は、いつもどおりに聞こえた。

 

以前感じたような奇妙な反響もない。

 

やがて鐘の余韻が消え、部屋に静けさが戻った。

 

セレネは三枚の地図を畳もうとして、ふと手を止めた。

 

最も古い地図の写し。

 

その端に、細い線が残されていることに気づいたのだ。

 

記録院で原本を書き写したとき、余白にあった薄い文字らしいものも、判読できないまま形だけを写していた。本文よりずっと細い筆跡で、原本でも紙の傷みに紛れるように残されていた部分だった。

 

セレネはランタンを近づけ、写しを見つめた。

 

「……これは、文字?」

 

何気なく写した線の一部が、古い文字の形に見えた。

 

彼女は鞄から、昨日調べた紙片についての記録を取り出した。

 

ルナリア。

 

その名が記されていた紙片には、現在あまり使われていない形式の文字が含まれていた。

 

セレネは二つの文字を見比べた。

 

形が、少し似ている。

 

もちろん、写しだけで判断することはできない。紙の傷みを文字として書き写してしまった可能性もある。

 

それでも、一度気づくと、その線は意味を持った文字のように見えてきた。

 

セレネは慎重に、一つずつ形を確かめた。

 

まず、比較的読み取りやすい部分を拾い上げる。

 

『月環の丘――旧王領境界』

 

そう読むことができた。

 

「……旧王領境界」

 

セレネは小さく呟いた。

 

月環の丘と、旧王領の境界。

 

二つを結びつける記述は、これまでの資料にも断片的に現れていた。しかし、その境界が具体的にどこを指していたのかは、まだわからない。

 

セレネはさらに、その下の線を見つめた。

 

古い文字が二つ、続いているように見える。

 

最初の文字は、月。

 

その次は――。

 

「……門?」

 

セレネは息を止めた。

 

二つの文字を繋げると、一つの言葉になる。

 

――月門。

 

「……月門?」

 

彼女は小さく繰り返した。

 

門の名前なのか。

 

それとも、旧王領の境界を示す言葉なのか。

 

古い文字の形から読みを推測することはできても、その言葉が何を意味していたのかまではわからなかった。

 

セレネはしばらく写しを見つめた。

 

判読できたと思ったのは、あくまで自分が書き残した線だった。明日、原本を確かめる必要がある。

 

それでも、もし本当に月門という文字が書かれているなら、重要な手掛かりになるかもしれない。

 

彼女は新しい紙を取り出した。

 

月環の丘。

 

旧月環道。

 

旧王領境界。

 

そして、月門。

 

四つの言葉を書き並べ、最後の一つに小さな印を付けた。

 

『原本での再確認が必要』

 

セレネは筆を置いた。

 

月環の丘は、地図によって異なる場所に描かれている。その近くには、いずれも途中で途切れる道があった。

 

もし月門という言葉が、その道の終点に関係しているとしたら。

 

そこに、何かの入口が存在したのだろうか。

 

あるいは、地図の作成者たちが、別の意味でこの言葉を使っていたのだろうか。

 

考えても、今は答えが出なかった。

 

明日、ミラに見せよう。

 

そして、原本の文字を確かめたうえで、月門という言葉が他の資料にも残されていないか調べてみよう。

 

セレネは地図の写しを丁寧に重ね、ランタンの灯りを少し落とした。

 

窓の外では、雲の切れ間から白い月が覗いている。

 

失われた場所へ続く道が、まだどこかに残されているのだとしたら。

 

その先には、何があるのだろう。

 

セレネは窓辺に立ち、静かな夜空を見上げた。

 

月は何も答えなかった。

 

ただ、その光は今夜も変わらず、灰鐘市を照らしていた。

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