朝の記録院には、雨の音が響いていた。
高い窓を伝う水滴が、外の景色をぼんやりと歪ませている。灰鐘市の空は厚い雲に覆われ、大鐘楼の上部も霞の向こうに隠れていた。
セレネは閲覧室の机に、三枚の地図の写しを並べていた。昨夜、最も古い地図の余白から読み取った言葉が、頭から離れなかった。
――月門。
月環の丘と旧王領の境界。その近くに記されていた、意味のわからない二文字だった。
門というからには、何かの入口なのだろうか。それとも、土地の境界を示す古い呼び名なのか。文字の形から読みを推測することはできても、それが指すものまではわからない。
何より、昨夜確認したのは自分で書き写した線だった。原本でも同じように読めるのか、確かめる必要があった。
セレネが地図を見比べていると、閲覧室の扉が開いた。
「おはようございます、セレネさん」
ミラが数冊の資料を抱えて入ってきた。
「おはよう、ミラ。昨日の地図で、少し気になることを見つけたの」
「気になること、ですか?」
「ええ。これを見てくれる?」
セレネは最も古い地図の写しを広げ、余白に残された文字を示した。
「月環の丘について書かれた部分に、もう一つ古い言葉があったの」
「……月門?」
ミラは文字を確かめるように顔を近づけた。
「この文字、読めるんですか?」
「月門、と読むように思えるわ。でも、写しだけでは確信が持てないの」
「それなら、先に原本を確認しましょう」
ミラは頷き、地図の管理番号を確かめた。
昨日閲覧した最も古い地図は、すでに保管区画へ戻されていた。二人は担当職員に事情を説明し、余白の文字を再確認するための閲覧を申し込んだ。
しばらくして、保護用の台紙に載せられた地図が運ばれてきた。
「この部分ですね」
職員はセレネの写しと原本を見比べ、余白の位置を確認した。
「紙が傷んでいますから、直接触れずに見てください。必要であれば、照明の角度を変えます」
「ありがとうございます」
セレネは慎重に身を乗り出した。
原本には、昨夜写しで確認した細い筆跡が残っていた。文字の一部は薄くなっていたが、写しでは曖昧だった線の重なりも、いくつか確認できる。
最初の部分には、月環の丘という地名があった。
その下には、旧王領境界と読める文字が続いている。さらに少し離れた位置に、二文字だけの短い記述が残されていた。
「……やっぱり」
セレネは小さく呟いた。
最初の文字は、月。
二つ目は、門。
「月門……そう読むのが自然だと思うわ」
ミラも原本を確認した。
「確かに、その形に見えます。ただ、二文字目の一部が欠けていますね」
「ええ。別の字だった可能性も完全には否定できないわ」
担当職員は二人のやり取りを聞き、閲覧記録に追記した。
「判読案として残すのであれば、欠損があることも併記してください。古い文字の場合、似た形の字が使われることもありますから」
ミラは頷いた。
「では、『月門と判読される可能性あり』として記録します」
セレネも同意した。
言葉を見つけたことと、その意味を確かめたことは別だった。
「……旧王領の境界と一緒に書かれているなら、関所のような施設だったのかもしれませんね」
ミラが言った。
「ええ。私もそう考えたわ。でも、普通の関所なら、地図の中にもう少しはっきりした位置が示されていてもよさそうなの」
「そうですね。月環の丘という地名の位置も、地図によって違っていますし」
二人は原本を傷めないよう注意しながら、三枚の地図の写しを並べ直した。
最も古い地図では、月環の丘は北方中央に記されている。その数十年後の地図では北東、最も新しい地図では北西だった。
河川や集落の位置には多少の違いがあるものの、月環の丘の記載位置ほど大きく離れてはいない。
「昨日は、どの地図でも道が途中で終わっていることに気づいたわね」
「はい。月環の丘へ向かうように描かれた道が、いずれも途中で途切れています」
「その終点を、もう少し詳しく見てみたいの」
セレネは北西の地図の写しを指さした。
道の線は、地図の端まで続いているわけではない。集落や建物を示す記号もなく、丘陵地帯の途中で途切れていた。
「……ここだけ、他の道と描き方が違うように見えるわ」
ミラは地図に視線を落とした。
通常、街道が集落や建物に到達する場合には、その先に何らかの目印が描かれることが多い。測量範囲の外へ続く道であれば、図面の端まで線が伸びている場合もあった。
しかし、この道はどちらでもなかった。
「確かに、不自然な終わり方ですね」
「ええ。それに、線が薄くなって消えたようには見えないの」
「ただ、測量がそこで終わった可能性はあります。実際の道もそこで途切れていたとは限りません」
セレネは頷いた。
それでも、三枚の地図に似た特徴があることは気になった。
「……もう一度、終点を確かめましょう」
*
二人は保管室の職員に確認を取り、残る二枚の地図についても原本を閲覧した。
紙の状態が比較的よい部分はそのまま観察できたが、傷んだ箇所については職員が照明を調整した。セレネとミラは直接地図に印を付けず、別の紙へ観察結果を書き留めていく。
最初に確認したのは、最も新しい地図だった。
「……ミラ、ここを見て」
セレネが指さしたのは、北西へ伸びる道の終点だった。
そこには、ごく小さな弧のような印があった。
「……三日月、でしょうか」
ミラは顔を近づけた。
「そう見えるわ。でも、ただの線にも見えるわね」
二人は原本の状態を確かめた。
印は道の線とは少し異なる角度で描かれている。地図が折られた部分からも離れており、単なる破れや折り目とは考えにくかった。
次に、北東の森林へ続く道の終点を確認した。
「……こちらにもあります」
ミラが小さく声を上げた。
道の先には、やはり弧のような印が残されていた。ただし、北西のものよりも線が太く、開いている方向もわずかに違っている。
さらに、最も古い地図へ戻る。
北方中央へ伸びる道の終点にも、似た形の印があった。
三つの記号は、完全には一致していなかった。
線の太さも、開く角度も、描かれた位置も少しずつ異なる。しかし、いずれも道が途切れる付近に置かれているという共通点があった。
「……昨日は気づかなかったわ」
セレネは三枚の写しを見比べた。
月環の丘の位置は違う。そこへ伸びる道も、それぞれ別の場所に描かれている。
それなのに、道の終点には似た形の印が残されていた。
「偶然でしょうか」
ミラが尋ねた。
「その可能性もあるわ。でも、三枚とも同じような位置に印があるのは気になるわね」
セレネは鞄から別の紙を取り出した。
そこには、大鐘楼の地下で見た鉄扉の紋様が描かれている。
三日月の周囲に、幾つかの細い線が添えられたものだった。
地図に残された弧は、その一部分を取り出した形にも見える。
「……少し、似ているわね」
ミラが呟いた。
「ええ。でも、同じ印だとは言い切れないわ」
セレネは頷いた。
鉄扉の紋様には、三日月を囲む細い線がある。一方、地図の終点に描かれた印には、それに相当する線を確認できなかった。
「もしかすると、同じ種類の場所を示す簡略化された記号なのかもしれないわね」
セレネが言うと、ミラは少し考えた。
「あるいは、地図ごとに別の意味で使われていた可能性もあります。今の段階では、月相を表しているのかどうかもわかりません」
セレネは頷いた。
三日月に似た形だからといって、月の満ち欠けを表すとは限らない。それに、三枚の地図で同じ意味の印が使われていた保証もなかった。
ミラは調査記録へ、観察した内容を書き加えた。
『月環の丘に関係する三枚の地図において、道の終点付近に類似する弧状の印を確認。』
『記号の意味、相互の同一性、および鐘楼地下の紋様との関係は未確認。』
セレネは最後の一行を見つめた。
もし月門という言葉が、道の終点にある何かを指しているとしたら。
三つの道の先には、それぞれ何があったのだろう。
*
昼前、二人は記録院の古地図保管室を訪れた。
そこには通常の閲覧室には置かれていない、古い測量記録や地理に関する資料が収められている。年代ごとに分類された書架が並び、室内には乾いた紙と革表紙の匂いが漂っていた。
ミラが職員に事情を説明すると、古い地図記号の目録を閲覧する許可が下りた。
「三日月に似た記号、ですか」
保管室の職員は目録を開きながら考え込んだ。
「古い地図には、現在とは違う記号が使われています。ただ、同じ形でも時代や地域によって意味が違う場合がありますから、注意してください」
「わかりました」
ミラが答えると、職員は数冊の資料を机に並べた。
橋、渡し場、関所、祠、旧街道の終点。さまざまな地図記号が描かれ、それぞれの用途が簡潔に説明されている。
二人は一つずつ照らし合わせたが、月環の丘の地図にあった印と完全に一致するものは見つからなかった。
「……一般的な地図記号ではないのかしら」
セレネが呟いた。
「そうかもしれません。でも、目録に載っていない記号が使われていた可能性もあります」
ミラは慎重に答えた。
セレネは別の目録を開いた。
古い街道の分類がまとめられた資料だった。通常の道路や測量未了の経路が並ぶ中、一つだけ聞き慣れない項目がある。
『特殊接続路』
「……これは何かしら」
セレネが指さすと、ミラも顔を近づけた。
「特殊接続路……。二つの街道を結ぶ道、という意味でしょうか」
「普通ならそう考えるわね。でも、説明が少し違うみたい」
セレネは古い文字を慎重に読み進めた。
『通常の経路として測量できず、接続先の確認を要するもの。』
ミラが眉を寄せた。
「通常の経路として測量できない……ですか」
「ええ。ただ、どうして測量できないのかまでは説明されていないわ」
目録には、特殊接続路という分類に属する古い経路が幾つか記されていた。しかし、その多くは名称のみで、具体的な場所や構造についての説明が残されていない。
セレネは他の分類と見比べた。
測量が終わっていない道については、調査を中断した理由が記されているものもある。険しい地形や崩落、視界の悪さなど、理由はさまざまだった。
一方、特殊接続路には、そのような説明が見当たらない。
代わりに、一つの注意書きが添えられていた。
『接続点の位置は、記録時の状態に従うこと。』
セレネの指が止まった。
「……記録時の状態?」
ミラも文章を覗き込んだ。
「何の状態を指しているのでしょう」
「それがわからないの。地形なのか、道の状態なのか、それとも別のことなのか……」
セレネはもう一度、記述を読み返した。
通常の道路であっても、工事や災害によって経路が変わることはある。そのため、測量したときの状態を記録するという説明自体は、不自然ではなかった。
しかし、この目録では特殊接続路についてだけ、接続点の位置を記録時の状態に従わせるよう注意している。
「……接続点という言葉も、気になりますね」
ミラが言った。
「普通の道であれば、分岐点や合流点と書くこともできそうです」
「ええ。でも、古い測量制度で使われていた言葉かもしれないわ」
セレネは頷いた。
用語の意味が現在と違う可能性もある。特別な仕組みを示す言葉だと決めつけるのは早かった。
「……ミラ」
セレネは三枚の地図の写しを取り出した。
「私たち、最初から月環の丘の位置が違うと思っていたわね」
「はい。三枚とも、異なる場所に地名が記されていましたから」
「でも、もし違うのが丘の位置ではなかったとしたら?」
ミラは少し考え込んだ。
「……どういうことですか?」
「三枚の地図が、丘そのものではなく、そこへ向かう入口の位置を記録していた可能性はないかしら」
ミラは地図へ目を落とした。
北西、北東、北方中央。
異なる地点へ伸びる三つの道。
その終点には、似た弧状の印が残されている。
そして、最も古い地図の余白には、月門と読める文字があった。
「……入口の場所が、それぞれ違っていた?」
ミラが顔を上げた。
「ええ。もし三つの道が別々の入口へ続いていたのなら、同じ地名が異なる位置に描かれた理由を説明できるかもしれないわ」
「でも、それなら地図には入口と目的地を分けて記載する方が自然ではありませんか?」
「そうね。だから、今は一つの仮説にすぎないわ」
セレネは地図を机へ置いた。
三つの道が、本当に同じ場所へ繋がっていたのか。それとも、異なる場所に同じ名前が使われていただけなのか。
現時点では、どちらとも判断できない。
そもそも、月環の丘の地図に描かれた道が特殊接続路に分類されていたという証拠も、まだ見つかっていなかった。
「この分類について、もっと詳しい資料はないのかしら」
セレネが尋ねると、ミラは目録を閉じた。
「探してみましょう。少なくとも、古い測量制度の中に特殊接続路という分類が存在したことは確認できましたから」
二人は職員に追加資料の所在を尋ね、関連する目録の確認を依頼した。
*
午後になると、雨は上がっていた。
窓の外には薄い陽光が差し込み、濡れた石畳が静かに輝いている。閲覧室へ戻った二人は、午前中に見つけた情報を整理していた。
机の上には、三枚の地図の写しと特殊接続路に関する記録が並んでいる。
「もう一つ、確認しておきたいことがあります」
ミラが言った。
「何かしら?」
「三枚の地図の作成時期です。これまで大まかな年代しか確認していませんでしたが、測量記録が残っていれば、もう少し詳しくわかるかもしれません」
ミラは古い地図の管理帳簿を開いた。
最も古い地図は、北方中央に月環の丘を記している。その数十年後に作られた地図では北東、確認できた中で最も新しい地図では北西だった。
年代だけを並べれば、月環の丘という地名の位置が、中央から東へ、さらに西へ変わったようにも見える。
「……地図を作った人が、違う場所を調べていた可能性もあるわね」
セレネが言った。
「ええ。同じ地名を使っていても、地図の作成目的が違っていたのかもしれません」
ミラは三枚の記録番号を書き並べた。
「それぞれの地図が、いつ、何を目的に作られたのか。それを確かめないと、年代の違いだけでは判断できませんね」
「測量した人の日誌のようなものは残っていないの?」
「古い測量記録なら、別の目録にまとめられています。ただ、地図と一緒に保管されているとは限りません」
セレネは頷いた。
もし特殊接続路という分類が関係していたなら、地図の作成時に何を記録する必要があったのかも知りたいところだった。
「……その目録も調べてみましょう」
ミラが新しい調査項目を書き加えたとき、閲覧室の扉が叩かれた。
「ミラさん、よろしいでしょうか」
入ってきたのは、鐘楼の管理部門から通知を届けに来た職員だった。
「先日申請された、地下施設の調査について返答が届いています」
ミラは立ち上がり、書類を受け取った。
封を開いて内容を確認すると、彼女の表情が少し明るくなった。
「……セレネさん」
ミラが顔を上げた。
「旧照応施設の入口周辺について、限定的な調査が認められました」
「……中に入れるの?」
「いえ。封鎖された扉を開く許可ではありません」
ミラは通知の内容を確かめながら続けた。
「以前は職員の案内による目視確認でしたが、今回は管理担当者の立ち会いのもと、入口周辺の寸法測定や刻印の詳細な記録が認められています」
セレネは小さく頷いた。
以前、地下の鉄扉の前まで案内されたときには、内部の調査は認められていなかった。今回の許可も同じく鉄扉の封鎖を維持するものだが、外側の構造を詳しく調べることはできるらしい。
「……扉に触れることはできるの?」
セレネが尋ねた。
「いいえ。封鎖状態を変える行為や、表面を削るような調査は認められていません。あくまで、外側からの観察と測定です」
「そう。それでも、前より詳しい記録を残せるわね」
「はい。調査日時は管理部門と調整する必要がありますが」
ミラは通知書を丁寧に畳んだ。
「鉄扉の紋様についても、寸法や線の位置を確認できると思います」
「ええ。地図の印と比較するには、もっと正確な形を知りたいわ」
セレネは机の上の地図へ目を向けた。
三つの道の終点に描かれた印と、鐘楼地下の鉄扉に刻まれた紋様。どちらも三日月に似ているが、同じ由来を持つとは限らない。
だからこそ、現物の形を正確に確かめる必要があった。
「……忙しくなりそうですね」
ミラが苦笑した。
「ええ。でも、ようやく調べられることが増えてきたわ」
セレネは微かに微笑んだ。
昨日までは、地図の中にしか存在しなかった道。
今日は、その終点に何らかの目印が描かれていたことがわかった。
まだ答えには遠いが、何を確かめるべきかは、少しずつ明らかになっていた。
*
夕方、セレネは一人で大鐘楼の近くを歩いていた。
雨上がりの空は澄み、石造りの塔が夕焼けの中に浮かび上がっている。通りには家路を急ぐ人々の姿があり、店先では夜に備えて灯りがともされ始めていた。
セレネは足を止め、大鐘楼を見上げた。
地下で見た鉄扉のことを思い出す。
三日月の紋様と、その周囲に刻まれた細い線。
そして、月蝶の反響を遮った、正体不明の何か。
数日前、初めて地下へ案内されたとき、セレネは鉄扉の前で月蝶を使用した。伸ばした感覚は途中で押し戻されるように途切れ、何かに遮られたような違和感が残った。
その後、扉に刻まれた紋様へ目を留めた瞬間、胸の奥に鋭い痛みが走った。
脳裏をよぎったのは、白い石造りの回廊だった。
高い窓から差し込む月明かり。そして、遠くから聞こえた誰かの声。
あまりにも短い光景だったため、細かな部分までは思い出せなかった。
しかし、そこで見た回廊に似た場所を、セレネはもう一度見ている。
一昨日、記録院でルナリアと記された紙片に月蝶を使用したときだった。
あのときは、白い回廊が以前より鮮明に現れた。床の石目や月光の差し込む窓が見え、その奥には白い衣装をまとった人物が立っていた。
顔を確かめることはできなかったが、その人物は誰かに向かって手を伸ばしていた。
そして、途切れた声。
『……忘れ……』
セレネは静かに目を閉じた。
地下の鉄扉で脳裏をよぎった回廊と、紙片に月蝶を使って見た回廊。
二度の光景は、よく似ていた。
しかし、本当に同じ場所を示していたのかはわからない。そもそも、どちらも自分自身の過去だったという証拠さえなかった。
「……月門」
セレネは小さく呟いた。
その言葉を口にしても、記憶が蘇ることはなかった。
ただ、胸の奥にかすかな違和感が残る。
以前の彼女なら、その感覚を手掛かりに何かを思い出そうとしていたかもしれない。しかし、今は記憶だけに頼るべきではないと考えていた。
自分の感覚が正しいとは限らない。
古い地図にも、誤りがあるかもしれない。
それでも、調べれば確かめられることがある。
セレネは視線を下ろした。
三つの道が、もし同じ場所へ続いていたのだとしたら。
その先には、何があったのだろう。
月環の丘、旧王領、ルナリアという名前。そして、月門と読める古い文字。
それぞれに関係がある可能性はあったが、まだ一つの答えへ繋がってはいなかった。
セレネは再び歩き始めた。
通りの向こうでは、母親に手を引かれた小さな子どもが、雨上がりの水たまりを避けながら歩いている。
その姿を見て、セレネはエマとニナのことを思い出した。
二人の間に失われた記憶は、今も戻っていない。
鐘楼や月環の丘を調べることが、欠月現象の解明に繋がる保証はなかった。しかし、最初にこの街で調べようと思ったのは、古い施設の謎ではなく、人の記憶が失われるという出来事だった。
そのことを、忘れてはいけない。
セレネは静かに歩を進めた。
夕暮れの光が、白銀の髪を淡く照らしていた。
*
その夜、記録院の古地図保管室では、ミラが追加の資料を調べていた。
昼間に見つけた特殊接続路という分類が、どうしても気になっていたのだ。保管室の職員に閲覧可能な資料を確認してもらい、関連する測量目録をいくつか取り寄せていた。
室内にはまだ職員が残っており、閲覧時間も夜間の許可が下りた範囲に限られている。
ミラは記録番号と目録の表題を照らし合わせながら、一冊ずつ確認していった。
しかし、大半の資料には具体的な事例が残されていなかった。
特殊接続路という分類は存在していたものの、どの経路に適用されたのかを示す一覧は見当たらない。古い測量制度そのものについても、説明は断片的だった。
「……やっぱり、簡単には見つかりませんね」
ミラは小さく息を吐いた。
最後の一冊を閉じようとしたとき、ページの間から薄い紙の端が覗いていることに気づいた。
他のページよりも小さく、後から挟み込まれたもののように見える。
ミラは手を止めた。
無造作に引き出せば、紙が傷むかもしれない。そもそも、それが目録に付属していたものなのか、後の時代に誰かが挟んだものなのかもわからなかった。
「すみません。こちらを確認していただけますか」
ミラは近くにいた職員へ声をかけた。
職員は目録を受け取り、紙の状態を確かめた。
「……挟み込みの紙ですね。この目録の付属資料かどうかは、管理記録を確認しないとわかりません」
職員は目録の管理番号と、紙が挟まれていた位置を記録した。
「内容を見るだけなら問題なさそうですが、紙が弱くなっています。こちらで取り出しますので、そのままお待ちください」
ミラは頷いた。
職員が慎重に紙を取り出すと、そこには古い形式の文字で短い説明が記されていた。
表題の一部は判読できない。
ただ、その下には測量に関する注意書きらしい文章が続いている。
ミラは文字を追った。
『接続点の測定に際しては、日時および天象の記録を併記すること。』
「……天象?」
ミラは眉を寄せた。
日時を記録する理由はわかる。
しかし、街道の位置を測るために、なぜ空の状態まで記録する必要があったのだろう。
普通の測量でも、天候や視界の状態を記録することはある。そのため、この一文だけで特別な意味があるとは言えなかった。
けれど、ここには天候ではなく、天象という言葉が使われている。
ミラは続きを確認した。
『照応の成立を確認せず、経路の継続を記してはならない。』
その文字を読んだ瞬間、彼女の手が止まった。
「……照応?」
それは、大鐘楼の地下施設に使われていた名称だった。
旧照応施設。
その名称の中にも、同じ言葉がある。
ただし、同じ言葉が使われているからといって、必ずしも同じ仕組みを指しているとは限らない。
ミラはもう一度、文章を読み返した。
『照応の成立を確認せず、経路の継続を記してはならない。』
照応というものが成立したことを確認しなければ、経路の先を記録してはいけない。
少なくとも、文章からはそう読めた。
「……だから、道が途中で終わっていた?」
ミラは小さく呟いた。
三枚の地図には、月環の丘へ向かうように描かれた道がある。そして、どの道も途中で途切れている。
もし特殊接続路の記録方法が、それらの地図にも適用されていたのなら、道が途中で終わっているのは、先の経路を確認できなかったためかもしれない。
しかし、そこまで考えたところで、ミラは首を横に振った。
月環の丘の道が特殊接続路だったことは、まだ確認できていない。それに、地図の終点で照応が成立しなかったという記録も見つかっていなかった。
今わかるのは、ある種の古い測量記録に、照応の成立を確認するまで経路の続きを記してはいけないという注意書きが存在することだけだった。
「……でも、これは重要ですね」
ミラは職員に確認し、紙の内容を別の用紙へ書き写した。
そのとき、紙の下部に小さな印が残されていることに気づいた。
三日月に似た記号だった。
そして、その隣には、もう一つ短い文章がある。
『月相の記録は、別紙に従うこと。』
「……月相」
ミラは思わず声に出した。
月の満ち欠けを表す言葉だった。
先ほどの天象という記述と、何らかの関係があるのだろうか。
ミラは紙を見つめた。
しかし、文章には、どの月相のときに何が起きるのかという説明はない。月相の記録方法を定めた別紙が存在したことを示しているだけだった。
「……この別紙は残っていますか?」
ミラが尋ねると、職員は首を横に振った。
「少なくとも、この目録には挟まれていません。関連する管理番号が残っていれば探せるかもしれませんが……」
二人は紙の裏面と目録を確認した。
しかし、別紙に対応すると思われる番号の一部は傷んでおり、完全には読み取れなかった。
「……すぐには見つかりそうにありませんね」
ミラが言った。
「そうですね。こちらの紙についても、まず付属資料だったのかどうかを調べる必要があります」
職員は紙を保護用の台紙へ載せた。
「発見した位置と目録の番号は記録しておきます。閲覧後はこちらで別に保護しますので、元のページへ無理に挟み直すことはしません」
ミラは頷いた。
「ありがとうございます。写しについては、調査資料として使ってもよろしいでしょうか」
「内容の筆写は構いません。ただし、元の資料との関係が未確認であることも記録してください」
「わかりました」
ミラは手元の用紙に、三つの文章を書き写した。
『接続点の測定に際しては、日時および天象の記録を併記すること。』
『照応の成立を確認せず、経路の継続を記してはならない。』
『月相の記録は、別紙に従うこと。』
続いて、昼間に確認した注意書きも並べた。
『接続点の位置は、記録時の状態に従うこと。』
四つの文章には、接続点、日時、天象、照応、月相という言葉が使われている。
ただし、最初の注意書きが記された目録と、今見つかった紙が同じ時期に作られたとは確認できていない。
ミラはその点も忘れずに記した。
『挟み込み資料の来歴未確認。測量制度との対応は要調査。月相に関する別紙は未発見。』
筆を置くと、ミラは椅子の背にもたれた。
もし、これらの文章が同じ測量制度に関係するものなら、特殊接続路の記録には単なる位置情報だけでなく、測定時の条件が求められていたことになる。
しかし、それが月環の丘に描かれた三つの道へ適用されていたかどうかは、別の問題だった。
「……まずは、地図を作ったときの記録ですね」
ミラは小さく呟いた。
三枚の地図に対応する測量の日付。そのときの観測条件。そして、もし残されているのなら、月相に関する記録。
それらを調べれば、今日見つかった文章と地図の関係を検討できるかもしれない。
ミラは写しを整理し、原本の管理番号を控えた。
明日、セレネに見せよう。
三つの道が示しているものについて、これまでとは違う角度から考えられるかもしれなかった。
*
同じ頃、セレネは宿の窓辺に座っていた。
机には、三枚の地図の写しが広げられている。
北方中央、北東、北西。
三つの道は、地図の上では交わっていない。しかし、それぞれの終点には、似た弧状の印が残されていた。
セレネは紙に三つの小さな印を書き写した。
並べてみると、形の違いが改めて目についた。
同じ記号を別の人が描いたために形が違っているのか。それとも、最初から異なる記号だったのか。
それすら、まだわからない。
セレネはその下に、一つの言葉を書き加えた。
月門。
昨夜、自分で写した文字から読み取った言葉だった。
今日、原本を確認したことで、その読み方には以前より根拠が増えた。しかし、文字の一部が欠けていることも、意味が不明なことも変わっていない。
「……門、ね」
セレネは小さく呟いた。
門という言葉は、何かを通す場所を思わせる。
街の門、建物の入口、国や領地の境界に設けられた関所。そうしたものなら、古い地図に記されていても不思議ではなかった。
けれど、三つの道の終点に、実際に門が存在したのかどうかはわからない。
昼間に見つけた特殊接続路という分類も気にかかる。
通常の経路として測量できず、接続先の確認を要する道。そして、接続点の位置は記録時の状態に従うという注意書き。
もし、月環の丘に関係する道がその分類に属していたとしたら、三枚の地図に描かれた場所の違いにも、何らかの理由があるのかもしれない。
だが、それはまだ推測だった。
セレネは筆を取り、今日の調査で確かめられたことを書き留めた。
『三枚の地図の道の終点付近に、類似する弧状の記号あり。』
『最古の地図の余白に、「月門」と読める文字を確認。ただし一部欠損。』
『特殊接続路という測量分類が存在することを確認。月環の丘との関係は未確認。』
そこまで書き終えると、セレネは筆を止めた。
数日前、地下の鉄扉で見た白い回廊。そして、一昨日、ルナリアの紙片を通して見た人物。
二つの光景が自分の過去に関係しているのかは、わからない。
ただ、今は無理に思い出そうとするよりも、目の前の手掛かりを確かめていきたかった。
セレネは窓の外へ目を向けた。
雨雲がゆっくりと流れ、その切れ間から月が姿を現していた。白い光が静かな部屋に差し込み、机の上に並んだ三つの印を照らしている。
三つの道は、どこへ続いていたのだろう。
そこに本当に門があったのなら、誰が、何のために造ったのだろう。
セレネは地図を丁寧に重ね、ランタンの灯りを落とした。
今日見つかったのは、答えではなかった。
けれど、古い地図に残された小さな印は、かつて誰かがその場所を記録しようとした痕跡だった。
そして、その記録が残っている限り、確かめる方法を探すことはできる。
セレネは静かに目を閉じた。
失われた過去へ続く道筋は、まだ見えていない。
けれど、その道が存在しないと決まったわけでもなかった。