月は、失われた名を憶えている   作:ノイリ

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第9話 月が選ぶ道

雨上がりの灰鐘市には、澄んだ朝の光が差し込んでいた。

 

石畳にはまだ小さな水たまりが残り、通りを行き交う人々の足音が静かに響いている。遠くにそびえる大鐘楼は、昨日の雨に洗われたように、いつもより輪郭がはっきりして見えた。

 

セレネが記録院に到着すると、ミラは既に閲覧室で待っていた。

 

机の上には、昨日までの調査資料に加えて、新しく書き写された一枚の紙が置かれている。その横には古地図保管室の管理番号が記され、原本の所在を示す短い注記も添えられていた。

 

「おはようございます、セレネさん」

「おはよう、ミラ。昨日の調査で、何か見つかったのね」

「はい。夜に確認した資料の中に、気になる記述がありました」

 

ミラは机の上の紙を差し出した。

 

「特殊接続路の測量方法に関係するかもしれない文章です。古地図保管室の目録に挟まれていた紙から、内容を書き写しました」

「……目録に挟まれていた紙?」

「ええ。ただし、いつ、誰が挟んだものなのかはわかっていません」

 

ミラは管理番号の記された部分を示した。

 

「原本は保管室の職員が別に保護しています。目録との関係も、引き続き調べていただくことになりました」

「……なら、まだ正式な測量規則だったと決まったわけではないのね」

「はい。そこは区別しておく必要があります」

 

セレネは頷き、写しへ目を落とした。

 

『接続点の測定に際しては、日時および天象の記録を併記すること。』

 

その下には、もう一つの文章が続いている。

 

『照応の成立を確認せず、経路の継続を記してはならない。』

 

「……照応」

 

セレネは静かに呟いた。

 

大鐘楼の地下に残されていた施設にも、同じ言葉が使われている。旧照応施設という名称と、この測量に関する文章が同じ意味で「照応」を用いているのかは、まだわからなかった。

 

「偶然かもしれません。でも、街道の測量に関する文章にこの言葉が出てくるのは気になります」

 

ミラが言った。

 

「ええ。それに、照応の成立を確認するまでは、経路の続きを記してはいけないと読めるわね」

「はい。ただ、それが実際にはどのような確認だったのかは書かれていません」

 

ミラはさらに、紙の下部を示した。

 

『月相の記録は、別紙に従うこと。』

 

「……月相。月の満ち欠けね」

 

セレネが言うと、ミラは頷いた。

 

「はい。こちらも気になっています。ただ、どのような形式で月相を記録していたのかは、まだわかりません」

「別紙は見つかったの?」

「いいえ。目録にも挟まれていませんでしたし、対応する管理番号も一部が読めなくなっています」

 

セレネは三枚の古地図の写しへ視線を移した。

 

北方中央、北東、北西。

 

それぞれ異なる位置に記された月環の丘。その近くには途中で途切れる道があり、終点付近には弧状の印が残されていた。

 

もし、これらの道が特殊接続路に分類されていたとしたら、測量時の条件が地図の違いに関係している可能性もある。

 

しかし、その前提自体が確認されていない。

 

「……まずは、地図に対応する測量記録を探しましょう」

 

セレネが言った。

 

「私もそのつもりでした。地図が作られた年代だけではなく、実際に測量した日付や、そのときの記録が残っているかを確かめたいんです」

「ええ。月相の記録があるなら、それも一緒にね」

 

ミラは頷き、古地図の管理帳簿を開いた。

 

二人は必要な番号を書き出し、測量記録の保管区画へ向かった。

 

*

 

古地図保管室には、過去の測量者が残した記録をまとめた帳簿が収められていた。

 

ただし、すべての地図に対応する測量記録が残っているわけではない。測量日誌が失われたものもあれば、地図の作成者や測量時期が明確でないものもあった。

 

ミラは保管室の職員に事情を説明し、三枚の古地図に対応する可能性のある帳簿を探してもらった。

 

「まずは、最も古い地図から確認しましょう」

 

ミラが開いたのは、灰鐘市北方の測量記録をまとめた一冊だった。

 

黄ばんだページには細かな文字が並び、測量地点の名称と日付、使用した器具などが記されている。ところどころには簡単な地形図も添えられていた。

 

「この辺りのはずなんですが……」

 

ミラが慎重にページをめくる。

 

セレネも隣から記録を確認していたが、月環の丘という名前はなかなか見つからなかった。

 

しばらくして、ミラの手が止まった。

 

「……ありました」

 

開かれたページには、見覚えのある管理番号が記されていた。

 

最も古い地図の索引に残されていたものと、対応する番号だった。

 

「……同じ番号ね」

 

セレネが言った。

 

「はい。管理上は、この測量記録があの地図に対応しているようです」

 

ミラは帳簿の表題と記録された地域を確認した。

 

北方中央の旧街道。

 

月環の丘が記されていた地図と、場所の説明にも大きな食い違いはなかった。

 

「……内容を見てみましょう」

 

セレネが言うと、ミラは頷いた。

 

記録には周辺地形や距離、測定方法についての記述が並んでいる。地図が完成した日付ではなく、現地で測量を行ったとされる日付も記されていた。

 

その途中に、小さな欄が設けられている。

 

『天象記録』

 

「……ここね」

 

セレネが指さした。

 

欄には、測量日とともに短い言葉が残されていた。

 

『半月』

 

ミラが顔を上げた。

 

「月相が書かれていますね」

「ええ。でも、これだけでは普通の天象記録かもしれないわ」

 

セレネは記録の続きを確認した。

 

『接続確認。経路終端を記録。』

 

文章は、それだけだった。

 

何と何の接続を確認したのか。どのような方法で確かめたのか。その先に何があったのか。

 

詳しい説明は残されていない。

 

「……接続確認」

 

ミラが小さく繰り返した。

 

「昨日の挟み込み資料には、照応という言葉がありましたね」

「ええ。でも、この記録に書かれているのは接続確認よ」

 

セレネは二つの文章を見比べた。

 

似た意味で使われているのかもしれない。しかし、同じ判断を示す言葉だったとは限らなかった。

 

「……まずは、書かれているとおりに整理しましょう」

 

セレネが言った。

 

ミラは頷いた。

 

「北方中央の測量記録。天象欄には半月。結果欄には接続確認と経路終端の記録……ですね」

 

二人は職員の許可を得て、必要な部分を別紙に書き写した。

 

続いて、二枚目の地図に対応する記録を探し始めた。

 

*

 

二枚目の地図に関係する帳簿は、比較的早く見つかった。

 

北東の森林地帯を測量した際の記録だった。

 

当時から周辺には木々が密集していたらしく、帳簿には街道の位置を確かめるため、複数の地点から測定したという記述が残されている。

 

「……こちらも、管理番号が対応しています」

 

ミラは表題を確かめた。

 

地図の索引と測量帳簿には、同じ地域を示す記述が残されている。二人は日付と測量地点を確認してから、天象記録の欄へ目を移した。

 

『満月』

 

セレネは最初の帳簿と見比べた。

 

半月。

 

満月。

 

二つの測量記録には、異なる月相が書かれていた。

 

「……続きは?」

 

セレネが尋ねる。

 

ミラは視線を下へ移した。

 

『接続確認。経路終端を記録。』

 

最初の帳簿と同じ形式の文章だった。

 

「……こちらにも、接続確認と書かれています」

 

ミラが言った。

 

「ええ。ただ、測量された場所も、月相も違うわね」

 

セレネは二枚の地図の写しを見比べた。

 

最も古い地図では、月環の丘という地名が北方中央に記されている。次の地図では、その名前が北東の森林付近へ移っていた。

 

しかし、それが丘そのものの位置を意味しているのか、経路の終点を意味しているのかは不明だった。

 

「……三枚目も確かめましょう」

 

ミラが言った。

 

「ええ。まだ二つの記録が似ているというだけだもの」

 

セレネは静かに頷いた。

 

*

 

三枚目の測量記録は、別の保管区画に収められていた。

 

最も新しい地図に対応する帳簿だったが、紙の傷みは他の二冊よりも激しかった。表紙の一部が破れ、ページの端にも補修の痕跡が残されている。

 

ミラは職員の立ち会いのもと、慎重に帳簿を開いた。

 

「……管理番号は一致しています。記録された地域も、北西の丘陵地帯です」

 

セレネは頷き、文字を追った。

 

旧街道の測量。

 

周辺地形の確認。

 

測定地点と距離の記録。

 

帳簿の形式は、先ほど確認した二冊と大きく変わらなかった。

 

そして、天象記録の欄に一つの言葉が残されていた。

 

『欠月』

 

セレネの指が止まった。

 

「……欠月」

 

ミラも記録を覗き込んだ。

 

「三枚とも、違う月相が書かれていますね」

 

セレネは静かに頷いた。

 

北方中央の測量記録には半月。

 

北東の測量記録には満月。

 

そして、北西の測量記録には欠月。

 

三つの異なる場所で行われた測量に、それぞれ異なる月相が記録されていた。

 

「……結果の欄は?」

 

セレネが尋ねると、ミラは視線を下げた。

 

そこにも、他の二冊と同じ文章があった。

 

『接続確認。経路終端を記録。』

 

しばらく、二人は何も言わなかった。

 

やがて、ミラが三枚の地図の写しを机に並べた。

 

「……セレネさん。これは、単なる偶然なんでしょうか」

 

セレネはすぐには答えなかった。

 

三つの場所。

 

三つの月相。

 

そして、三度繰り返される接続確認の記録。

 

それだけを見れば、何らかの規則が存在するようにも思える。

 

しかし、測量者がなぜ月相を書き残したのかは不明だった。三つの月相が揃っていること自体も、接続の条件を証明するものではない。

 

「……偶然の可能性は残るわ」

 

セレネはゆっくりと答えた。

 

「でも、月相を記録するよう求めた文章が見つかっていることも気になるわね」

「はい。ただ、あの文章がこの三つの測量に適用されていたかどうかは、まだ確認できていません」

 

ミラは手帳を開いた。

 

「それでも、地図と対応する記録が三つ見つかったことは大きいと思います」

 

セレネは頷いた。

 

「ええ。次は、同じ地点を別の日に測った記録がないか調べてみたいわ」

「同じ地点を、ですか?」

「そう。違う場所の記録を比べるだけでは、場所の違いと月相の違いを分けられないでしょう?」

 

ミラは少し考え込んだ。

 

「……確かに。同じ地点の記録があれば、比較できる条件が増えますね」

 

彼女は北西の帳簿を見つめた。

 

「少し待ってください。ここには、同じ街道を複数回測量したような記述があります」

 

セレネが顔を上げる。

 

ミラは帳簿を慎重にめくり、先ほど確認した記録より前の日付を探し始めた。

 

*

 

昼過ぎ、閲覧室には柔らかな陽光が差し込んでいた。

 

ミラは北西の測量帳簿から必要な箇所を書き写した紙を広げ、ある行を指さした。

 

「……セレネさん。ここを見てください」

 

そこには、先ほどの欠月の記録より少し前の日付が記されていた。

 

測量地点は北西の旧街道。

 

さらに、地点を示す番号が、後の測量と一致している。

 

「……同じ地点なのね」

 

セレネが尋ねた。

 

「はい。少なくとも帳簿では、同じ測量地点として扱われています」

 

ミラは記録の続きを示した。

 

天象欄には、別の月相が書かれていた。

 

『半月』

 

セレネは眉を寄せた。

 

先ほど確認した北西の測量では、欠月と記されている。

 

しかし、この先の記録では半月だった。

 

「……結果は?」

 

セレネが尋ねる。

 

ミラは文章を指で示した。

 

『照応不成立。経路継続記録なし。』

 

セレネは息を呑んだ。

 

先ほどまでの三つの記録とは、明らかに違う文章だった。

 

「……照応不成立」

 

彼女は小さく読み上げた。

 

ミラは二つの記録を並べた。

 

同じ北西の旧街道。

 

同じ測量地点を示す番号。

 

しかし、記録された月相と結果が異なっている。

 

先の測量では、半月。

 

『照応不成立。経路継続記録なし。』

 

後の測量では、欠月。

 

『接続確認。経路終端を記録。』

 

セレネはしばらく、その二つを見つめていた。

 

「……ミラ。先の記録には、照応不成立と書かれているのね」

「はい」

「でも、後の記録は接続確認。照応成立とは書かれていないわ」

 

ミラは頷いた。

 

「ええ。言葉が違います」

 

セレネは二つの文章を見比べた。

 

照応が成立しなかったという判断と、何らかの接続を確認したという記録。

 

互いに対応する結果だった可能性はある。しかし、同じ基準で判断されたものだったとは、まだ確かめられていない。

 

「……それでも、同じ地点について異なる結果が残されていることは確かね」

 

セレネが言った。

 

「はい。これは重要な違いだと思います」

 

ミラは測量日を確認した。

 

二度の記録は同じ調査に属しているようだった。先の測量では経路の続きを記録せず、後日に同じ地点を再び測っている。

 

その後の記録には、接続確認と経路終端の記述が残されていた。

 

「……なぜ、もう一度測ったのかしら」

 

セレネが尋ねる。

 

「それが、まだわからないんです」

 

ミラは帳簿を読み返した。

 

再測量を命じた人物の名前や、詳しい理由は記されていない。先の測量で何を確認しようとしたのかについても、説明は見つからなかった。

 

「月相が変わるのを待っていた、という可能性はあると思います」

 

ミラが言った。

 

「ええ。でも、別の理由で測り直したのかもしれないわね」

 

セレネは帳簿へ視線を落とした。

 

二度の測量では、日付だけでなく現地の状況も違っていた可能性がある。測量者や使用した器具、天候などが結果に影響したことも考えられた。

 

そのため、月相だけが違っていたとは言えなかった。

 

「……ほかの条件も調べましょう」

 

セレネが言った。

 

ミラは頷き、二度の記録に残された情報を比較し始めた。

 

*

 

二人は北西の測量記録を、最初から読み直した。

 

測量地点の番号は一致している。記録された地域も同じであり、二度目の測量が先の調査を引き継いでいるように読めた。

 

しかし、詳しい観測条件については、すべてが揃っているわけではなかった。

 

「……測量器具の記載は、こちらには残っていますね」

 

ミラが言った。

 

「でも、もう一方は一部が欠けているわ」

「はい。これでは同じ方法で測ったのか、判断できません」

 

二人は天候についても確認した。

 

記録には当日の空の様子を示す言葉があったが、それが実際の測量にどの程度影響したのかまでは書かれていない。視界や現地の足場など、結果に関わりそうな情報も十分ではなかった。

 

「……同じ地点だったことは重要だけれど、それだけでは条件を揃えた比較にならないのね」

 

セレネが言った。

 

ミラは頷いた。

 

「はい。先の測量で照応不成立と判断された理由も、後の測量で接続確認と記された理由も、まだわかりません」

 

セレネは二つの記録を見つめた。

 

それでも、前より一つだけ確かなことがあった。

 

同じ場所について、異なる月相の日に異なる結果が報告されている。

 

「……なら、私たちが調べるべきこともはっきりしたわね」

 

セレネが言った。

 

「何でしょうか?」

「月相以外の条件を確かめることよ。ほかの条件に違いがあったのなら、それを見落としてはいけないわ」

 

ミラは頷いた。

 

「それから、接続確認と照応成立が同じ意味なのかどうかも調べる必要がありますね」

「ええ。言葉の違いには、理由があるかもしれないもの」

 

ミラは調査記録に二つの項目を書き加えた。

 

『北西旧街道の再測量について、観測条件の差異を確認すること。』

 

『照応不成立と接続確認の用語上の関係を調査すること。』

 

セレネはその文字を見つめた。

 

月の状態が道に関係していたのだとしても、それだけで道の仕組みがわかるわけではない。

 

しかし、何を確かめればよいのかは、以前より明確になっていた。

 

*

 

午後の調査では、三枚の地図に残された弧状の印についても改めて確認した。

 

セレネとミラは写しを並べ、それぞれの印の形や位置を比べていった。原本は傷みがあるため、細部については午前中までに確認した記録を参照している。

 

北方中央の道には、細い弧を描く印。

 

北東の道にも、似た形の印がある。

 

北西の道にも、同じような特徴が残されていた。

 

「……三つとも、三日月に似ていますね」

 

ミラが言った。

 

「ええ。でも、月相そのものを示しているとは限らないわ」

 

セレネは三枚の写しを見比べた。

 

満月と記録された測量に対応する地図にも、弧状の印が使われている。もし印が測量時の月相をそのまま表しているなら、形が一致しないように思えた。

 

「……共通する地図記号なのかもしれませんね」

 

ミラが言った。

 

「ええ。あるいは、別々の記号がたまたま似ているだけかもしれないわ」

 

セレネは頷いた。

 

最も古い地図の余白には、月門と読める文字が残されている。

 

しかし、三つの印が月門を示しているとわかったわけではない。そもそも、その言葉の意味さえ確定していなかった。

 

「鐘楼の調査では、鉄扉の紋様をもう少し詳しく記録したいですね」

 

ミラが言った。

 

「ええ。形を正確に比べられるようにしたいわ」

 

ミラは管理部門から届いた通知書を確認した。

 

旧照応施設の入口周辺については、限定的な寸法測定と外側からの詳細な記録が認められている。ただし、調査日時はまだ調整中であり、封鎖された鉄扉を開く許可は出ていなかった。

 

「管理部門から日程が届けば、詳しい測定ができますね」

 

ミラが言った。

 

「ええ。でも、扉に残された紋様が月門と関係しているとは限らないわ」

「はい。そこも、形を比べてから考えるべきですね」

 

セレネは静かに頷いた。

 

大鐘楼の地下施設と、月環の丘に関する古い地図。

 

共通するように見えるものは、少しずつ増えていた。

 

照応という言葉。

 

三日月に似た紋様。

 

そして、接続に関する記録。

 

しかし、それらが同じ仕組みに属することを示す直接的な証拠は、まだ見つかっていなかった。

 

*

 

夕方、二人は記録院の閲覧室で、今日の調査結果を整理していた。

 

窓の外では日が傾き始め、書架の影が床に長く伸びている。ミラは三枚の地図の写しを並べ、その横に測量記録から確認できた内容を書き出した。

 

最古の地図に対応する北方中央の測量記録には、半月。

 

中期の地図に対応する北東の測量記録には、満月。

 

確認できた中で最も新しい地図に対応する北西の測量記録には、欠月。

 

いずれにも、接続確認と経路終端の記述が残されていた。

 

さらに、北西の同じ測量地点について、先に半月の日の記録が存在していた。

 

そこには、照応不成立と記されている。

 

「……こうして並べると、何か規則があるように見えますね」

 

ミラが言った。

 

「ええ。でも、規則があるように見えることと、その規則を確かめたことは別よ」

 

セレネは北西の二つの記録を示した。

 

「私が気になるのは、ここなの。同じ地点で違う結果が残されている理由を知りたいわ」

 

ミラは頷いた。

 

「月相が関係していた可能性はあります。でも、それ以外の条件が違っていたのかもしれません」

「ええ。それに、当時の人たちが『接続』を何と考えていたのかも、まだわからないもの」

 

セレネは地図へ目を落とした。

 

月環の丘という地名は、異なる三つの場所に記されている。しかし、地図に描かれた地点が丘そのものを示していたのか、そこへ向かう道の終点を示していたのかは、依然として不明だった。

 

「……やっぱり、現地を調べる必要がありそうね」

 

セレネが言った。

 

「はい。北西の旧道については、昨日、調査申請を提出しました。ただ、まだ正式な許可は下りていません」

 

ミラは管理部門から受け取った申請書の控えを取り出した。

 

「許可が出たとしても、最初は地形と残された石畳を確認するところからですね」

「ええ。いきなり道の先へ進めるとは限らないもの」

 

セレネは地図を見つめた。

 

灰鐘市の北西。

 

丘陵地帯の一角に、古い石畳が残されているという。

 

最も新しい地図に描かれた道と位置が近いことは確認できたが、それが同じ道だったという証拠はまだない。

 

「……そこへ行けたら、何を最初に調べましょうか」

 

ミラが尋ねた。

 

「まずは、古い地図に描かれた道と同じものなのかを確かめたいわ。それから、終点に何か残されているかを調べましょう」

 

セレネは答えた。

 

「月門があるかどうかは、そのあとで考えればいいと思うの」

「……そうですね」

 

ミラは微笑んだ。

 

調査するべきことは、まだ多かった。

 

しかし、記録の中にあった疑問を、現地で確かめられる可能性が見えてきたことは大きい。

 

二人は資料を整理し、今日の調査を終えることにした。

 

*

 

記録院を出る頃には、空が夕暮れの色に染まっていた。

 

石畳には昼間の温もりが残り、街のあちこちから夕食の支度をする音が聞こえている。セレネとミラは、帰宅する人々に混じって大通りを歩いていた。

 

「セレネさん。ひとつ聞いてもいいですか?」

 

ミラが不意に口を開いた。

 

「何かしら?」

「もし、月門というものが本当に存在したとして……どうしてそんなものを造ったんでしょうね」

 

セレネは少し考えた。

 

三つの異なる場所に、同じ種類の門があったとしたら。

 

それは、普通の街道とは違う目的で使われていたのかもしれない。

 

しかし、そもそも門が三つ存在したことさえ、まだ確認できていない。

 

「……何か理由はあったのでしょうね」

 

セレネが答える。

 

「例えば、特定の人だけが通れるようにするため、とかでしょうか」

「そうかもしれないわ。でも、道を使う人を選ぶためだったのか、何か別の事情があったのかはわからないわね」

 

ミラは頷いた。

 

「……それに、月相と接続の関係もまだ仮説ですしね」

「ええ。今の記録だけでは、月が道を変えていたとまでは言えないわ」

 

二人は大鐘楼の前を通りかかった。

 

石造りの塔は、夕暮れの空を背に静かにそびえている。

 

その地下には、旧照応施設と呼ばれた場所が残されていた。

 

セレネは塔を見上げた。

 

灰鐘市に来てから、何度も定時外の鐘の音を聞いている。その原因さえ、まだ明らかになっていなかった。

 

大鐘楼の地下と月環の丘に関係があるのか。

 

それとも、似た言葉や紋様が残されているだけなのか。

 

その違いを確かめることが、これからの調査では必要になるだろう。

 

「……不思議ね」

 

セレネが小さく呟いた。

 

「何がですか?」

「私たちは、失われた場所を探しているはずなのに、今はそこへ続く道のことばかり調べているわ」

 

ミラは少し考えた。

 

「でも、場所がわからないなら、道を調べるのも一つの方法だと思います」

「……そうね」

 

セレネは小さく笑った。

 

「その道が、本当にそこへ続いているのならね」

「はい。だから、それを確かめに行くんです」

 

ミラの答えに、セレネは微かに目を細めた。

 

二人は通りの分かれ道で別れた。

 

「それでは、また明日」

「ええ。また明日ね」

 

ミラを見送ったあと、セレネは宿へ向かって歩き始めた。

 

*

 

その夜、セレネは机の上に三枚の地図の写しを並べていた。

 

北方中央、北東、北西。

 

それぞれ異なる位置に、月環の丘という名前が記されている。

 

セレネは、その横に今日確認した測量記録を書き留めた。

 

『北方中央。天象記録、半月。接続確認、経路終端を記録。』

 

『北東。天象記録、満月。接続確認、経路終端を記録。』

 

『北西。天象記録、欠月。接続確認、経路終端を記録。』

 

三つの記録を並べたあと、彼女は少し離れた場所に、もう一つの記録を書き加えた。

 

『北西。同一測量地点の先行記録。天象記録、半月。照応不成立、経路継続記録なし。』

 

セレネは筆を置いた。

 

北西の二度の測量では、月相だけでなく結果の記述も異なっていた。

 

その違いに意味があるのかもしれない。

 

しかし、観測条件が揃っていたとは確認できず、接続確認と照応成立の関係も不明だった。

 

「……月が、道を選んだのかしら」

 

セレネは小さく呟いた。

 

窓の外には、雲の切れ間から淡い月明かりが差し込んでいる。

 

もし月相によって通れる道が変わっていたのなら、三枚の地図の違いを説明できるかもしれない。

 

けれど、それはまだ一つの仮説だった。

 

そもそも、当時の測量者たちが何を見て接続確認と記したのかがわからない。

 

セレネは地図の終点に残された印を見つめた。

 

三つの道は、地図の上では交わらない。

 

しかし、三枚とも月環の丘という地名の近くで途切れている。

 

もし、異なる場所に記された三つの道が同じ目的地へ続いていたのだとしたら。

 

その関係を確かめるには、まだ足りないものがあった。

 

「……ルナリア」

 

セレネは静かに呟いた。

 

古い紙片に残されていた名前だった。

 

その言葉と月門、月環の丘の間に関係があるのかどうかは、何も確かめられていない。

 

ただ、名前を読んだときに感じた違和感は、今も記憶に残っていた。

 

セレネは机に向き直った。

 

古い地図に残された地名も、測量記録に書かれた月相も、それを残した人々にとっては確かな意味を持っていたのかもしれない。

 

しかし、その意味を後の時代の自分たちが正しく受け取れるとは限らなかった。

 

記録された言葉を、そのまま理解したつもりになるのは危うい。

 

だからこそ、確かめる必要がある。

 

セレネは新しい紙を取り出し、今日の調査について短くまとめた。

 

『三つの地図に対応する測量記録を確認。北方中央、北東、北西の記録には、それぞれ異なる月相が記されていた。』

 

『北西の同一測量地点について、異なる月相の日に異なる結果が記録されている。』

 

『月相と結果の因果関係、照応と接続確認の用語上の関係、三つの道の目的地は未確認。』

 

最後に、もう一つの項目を書き加えた。

 

『北西旧道の現地調査許可を待つ。』

 

セレネは筆を置き、しばらく紙を見つめた。

 

五年前より前の記憶は、今も戻っていない。

 

かつて自分がどこで暮らし、何を見てきたのか。思い出そうとしても、答えは浮かんでこなかった。

 

それでも、今は確かめられることがある。

 

誰かが残した記録を読み、そこに書かれた言葉の意味を考えること。

 

自分の目で見たものと、他人の記録に残されたものを区別すること。

 

そして、わからないことを、わからないまま残しておくこと。

 

セレネは静かに息を吐いた。

 

今日見つかった記録が、月門の存在を証明したわけではない。

 

三つの道が同じ月環の丘へ続いていたとも、まだ言えない。

 

しかし、北西の同じ場所で、異なる結果が記録されていたことは確かだった。

 

その理由を知るために、次は現地へ行く必要がある。

 

セレネは地図を丁寧に重ね、鞄へしまった。

 

窓の外では、雲がゆっくりと流れていた。

 

月が道を選ぶのか。

 

それとも、人が月を見て、道の状態を記録していたにすぎないのか。

 

今は、どちらとも決められない。

 

けれど、その違いを確かめるための手掛かりは、残されている。

 

セレネはランタンの灯りを落とした。

 

静かな部屋には、窓から差し込む月光だけが残っていた。

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