天雨アコ「参ったわ……前髪を拳銃で撃って遊んでたら弾が窓から出ていったわ……どこに着弾したのか探さないとインシデントになる……!!」 作:黑須つくる
原作:ブルーアーカイブ
タグ:ブルーアーカイブ 天雨アコ 空崎ヒナ ヒナアコ 風紀委員会 ゲヘナ コメディ ほのぼの ほのぼの コメディ 一話完結 短編
ほんの出来心で見栄を張ったアコの小さな誤射が、チナツの真面目すぎる勘違い、イブキの有能スイッチ、マコト会長の神がかった扇動演説を経て、ゲヘナ全土を巻き込む未曾有の戒厳令へとエスカレートしていくお話。
※なんでも許せる方向けのドタバタ勘違いコメディです。最後はちゃんとほっこりします。
(主な登場人物:アコ、ヒナ、チナツ、イオリ、マコト、イロハ、イブキ、ハルナ、ジュンコ、セナ、フウカ、先生 ほか)
「参ったわ……前髪を拳銃で撃って遊んでたら弾が窓から出ていったわ……どこに着弾したのか探さないとインシデントになる……!!」
風紀委員会本部、行政官執務室。
漂う微かな硝煙の匂いと、静まり返った室内。二重強化ガラスの窓には、コイン大の綺麗な穿孔が一つ。そこからゲヘナの乾いた秋風が、ヒュウと音を立てて吹き込んでいた。
アコの手には、まだ銃身に微熱を残した愛銃。ほんの五分の仮眠時間。手鏡を見ながら「前髪を銃身で跳ね上げる仕草」を試すだけのつもりだった。トリガーに指が触れたのは、ほんの一瞬の油断。だが、放たれた弾丸は取り返しのつかない現実として、青空の彼方へと消え去っていた。
「落ち着きなさい、天雨アコ……思考を巡らせるのよ。初速、仰角、風速……」
冷や汗が首筋を伝う。脳内で猛スピードの弾道計算が展開される。
「北北西の風、風速三メートル。射角はおよそマイナス十二度。有効射程と放物線を考慮すれば、着弾予測地点は――万魔殿(パンデモニウム・ソサエティー)の正面バルコニー、あるいは風紀委員会の巡回ルート直上……!」
どちらに転んでも破滅だった。
万魔殿に着弾すれば「風紀委員会による反逆・暗殺未遂」として政治的全面抗争へ発展する。街角の建造物に着弾すれば、ただでさえ過熱している自治区のテロリストどもが「風紀委員会の無差別発砲」を口実に暴動を起こす。
そして――そのすべての責任追及の果てに、あの疲弊しきったヒナ委員長が、静かに自分を見つめる姿が脳裏を過った。
『……アコ。これ、なに?』
『ヒ、ヒナ委員長……これはですね……』
『前髪を撃って遊んでた……?』
「死にます。社会的に、そしてヒナ委員長の信頼という意味で確実に死に至ります……!!」
ガタッと椅子を蹴立てて立ち上がり、引き出しから双眼鏡と暗号通信機をひったくったその瞬間、コンコン、とノックの音が響いた。
「アコ行政官。定時報告書類をお持ちしまし――……?」
入室してきた救護担当・チナツの視線が、室内に漂う火薬香と、窓の穿孔、そして銃を握りしめて青ざめるアコへと順番に移動する。
チナツの怜悧な眼鏡の奥が、すっと細められた。
「……アコ行政官。その窓の破損と硝煙反応は、一体?」
「チ、チナツ……! よく来ました、総員に非常呼集を!」
「……はい?」
「敵襲です。風紀委員会本部は今、正体不明の狙撃手(スナイパー)による急襲を受けました!」
アコは一切の動揺をおくびにも出さず、冷徹な仮面を貼り付けて言い放った。
「ヒナ委員長にはまだ伏せておきなさい。余計な心労をかけるわけにはいきません。犯人の特定と弾頭の回収は、私が単独(トップシークレット)で執り行います――!!」
「……ですがアコ行政官、窓の割れ方を見る限り、弾丸は『中から外へ』抜けているように見えますが」
「跳弾を利用した変則狙撃の達人です!! いいから回収班の手配を急ぎなさい!!」
「……ッ! 跳弾ですって……!!」
アコの出任せを聞いた瞬間、チナツの瞳が見開かれ、息を呑む音が静かな執務室に響いた。
何しろ火宮チナツという生徒は、風紀委員会において最も理知的で、かつ生真面目すぎるほどの職務意識の持ち主である。行政官の「敵襲」「変則狙撃」という言葉を、毛筋ほどの疑いもなく“事実”として処理してしまったのだ。
「わかりました。事態は一刻を争います。直ちに万魔殿へ緊急ホットラインを開き、連携してゲヘナ全土への戒厳令発令を要請します」
「――は? ちょ、ちょっと待ちなさいチナツ!? か、戒厳令ですって!?」
あまりの飛躍に、アコは裏返りそうな声を張り上げて制止にかかる。
「な、何もそこまで大袈裟にしなくても……! たかが窓ガラスが一枚割れて、弾丸が一発どこかへ飛んでいっただけの話でしょう!? まずは私とあなただけで内密に現場周辺を捜索して――」
「何を言っているんですか、アコ行政官!」
チナツが眼鏡のブリッジを押し上げ、冷徹なまでの眼差しでピシャリと言い放った。
その声音には、普段の穏やかな救護担当の気配は微塵もない。自治区の危機に直面した防衛担当者の、鋼の決意が宿っていた。
「風紀委員会の本部中枢、それも行政官の執務室の窓を撃ち抜くほどの超高等技術を持つ暗殺者ですよ!? トリニティの強硬派による政治的テロか、あるいはアリウスの残党による報復工作か……いずれにせよ、エデン条約の動乱以来保たれてきたキヴォトスの平穏を根底から吹き飛ばしかねない重大な非常事態です!!」
「エ、エデン条約……ッ!?」
「ええ! 我が校の象徴たる風紀委員会への宣戦布告と見做すに十分です。甘い初動対応は自治区民数万人の命を危険に晒します! 今すぐ遊撃隊を全域配備し、自治区内の全検問所を封鎖、空域も飛行禁止区域に指定させます!」
チナツは淀みない手つきで端末を操作し、風紀委員会最高警戒レベルのサイレン起動コードを打ち込もうとする。
「あ、あああ……待ちなさい! ストップ! 指を止めなさいチナツ!!」
「アコ行政官、職務怠慢にも程があります! ヒナ委員長を起こすわけにはいかないとおっしゃるなら、なおさら私たちが先んじて全戦力を動員し、元凶の弾頭を回収・特定して脅威を排除しなければならないはずです!」
「そ、それはそうなんですが、しかしですね……」
アコは額の冷や汗を拭いながら、それでも胸の内ではまだ冷静に計算する。
確かにチナツの行動力は恐ろしい。だが、相手はあの万魔殿だ。
トップの羽沼マコトは己の虚栄心を満たすことしか頭にないポンコツであり、実務を取り仕切る棗イロハは万年サボり気味で、風紀委員会からの緊急要請など「適当に理由をつけて門前払い」するのが常である。
(そうよ……いくらチナツが取り乱して連絡したところで、あの無能と怠惰の巣窟が即座に動くはずがないわ。書類審査だの管轄権の主張だので半日は潰れる……その間に私が這いつくばってでも弾頭を回収すれば――)
「もしもし、万魔殿緊急対策室ですか。風紀委員会、火宮チナツです」
アコの皮算用を余所に、チナツは迷いなく深紅の直通ホットラインの受話器を握りしめていた。スピーカーから返ってきたのは、聞き覚えのある幼くも凛とした愛らしい声である。
『はい! 万魔殿です! 丹花イブキがお電話うけたまわります!』
「イブキさん……!? 今、執務室にはあなた一人ですか?」
『うん! マコト先輩はイブキの描いた絵を全校生徒に配る準備をしてて、イロハ先輩はソファーでお昼寝中だよ!』
(よし……! 勝ったわ……!!)
アコは勝利を確信し、内心で快哉を叫んだ。
よりによって電話番が一番幼いイブキだ。適当にお茶を濁して話を終わらせれば――そう口を挟もうとした瞬間、チナツの容赦のない詳細報告が炸裂した。
「イブキさん、落ち着いて聞いてください。たった今、風紀委員会本部中枢・行政官執務室が何者かによる長距離変則狙撃を受けました。弾頭は窓を貫通し、市街地方向へ消失。トリニティ、あるいはアリウス過激派による治安転覆テロの可能性極めて大です」
『――っ、ふうきいいんかいが、へんそくそげき……!?』
受話器の向こうで、息を呑む気配。
アコはすかさず受話器を奪い取ろうと手を伸ばす。
「イ、イブキちゃん、違うの! これはその、風紀委員会内部のちょっとした事故というか、前髪が――」
『……弾道通過ルートはかくにんできていますか、チナツ先輩?』
ぴたり、とアコの動きが止まった。
受話器から返ってきたのは、普段の天真爛漫な少女の声ではなかった。
万魔殿において時にマコトを操り、イロハすらも舌を巻かせる、真の“神童”としての冷徹で明晰なトーン。
『風紀委員会本部から外へ抜けたということは、着弾予測円のおっきさと、被害の規模をかんがえると、一分一秒を争うことになります! 放置すれば自治区全域のインフラとか、一般生徒への無差別被害、ならびにゲヘナの防衛体制の破綻につながります!!』
「その通りです、イブキさん」
『わかりました。それは一大事です!』
イブキの小さな手が、激しくメモ帳にペンを走らせる音がスピーカー越しに聞こえてくる。
『お昼寝中のイロハ先輩を起こして、虎丸さんを含む戦車大隊に第三種警戒出動命令を出します! マコト先輩には「イブキがピンチ!」とだけ伝えて、全校への戒厳令布告文書にノータイムで承認印を押させます! ゲヘナ全土の防空レーダーを最大出力で起動、風紀委員会と連携して市街地を完全封鎖しますね!』
「感謝します、イブキさん。流石は万魔殿の誇る知性です」
『えへへ、チナツ先輩たちも気をつけてね! ゲヘナの平和は、イブキたちが絶対に守るから……! それでは、後ほど現地で!』
ツーツー、と無情な終話音が響き渡る。
「……あ」
アコの口から、魂の抜けたような声が漏れた。最悪だ。最悪の展開を引いてしまった。マコトであれば「風紀委員会め、ざまあみろ!」と笑って放置したはずだ。
イロハであれば「めんどくさいのでそっちでやってください」と切ったはずだ。
だが――「有能すぎるイブキが本気になり、そのイブキのためにマコトが盲目的に判子を押し、イロハが必死で戦車を走らせる」という、万魔殿が唯一“最強の国家機関”として機能してしまう絶対の起爆スイッチを踏み抜いてしまったのだ。
「チナツ……今すぐ電話をかけ直しなさい……! 嘘でしたって、冗談でしたって言いなさい……!!」
「アコ行政官、何を弱気なことを! 万魔殿がこれほど迅速に呼応してくれたのです、私たちも負けていられません!」
(い、いいえ……まだよ。まだ慌てるような時間じゃないわ……!)
アコは青ざめた指先でデスクを掴み、必死に自分へ言い聞かせていた。
いくらイブキが本気になり、戒厳令の文書が回ったところで、ここはあのゲヘナ学園なのだ。校風は「自由と混沌」。自分たちの欲望と我が儘こそが最優先の生徒たちばかりで、組織や命令などという言葉を心底から小馬鹿にしている無法者の集まりに過ぎない。上からの号令ひとつで右向け右をするような殊勝な生徒など、この自治区に一人として存在するはずがない――。
そう、高をくくっていた。その刹那。
『――ゲヘナの同胞たちよ。我が声を聞くがいい』
ジジッ、と街頭ビジョンと校内全域のスピーカーが一斉にノイズを吐き出し、巨大な演説台に立つ長身の少女の姿を映し出した。羽沼マコト。普段の締まりのないニヤケ面は、そこには微塵もなかった。背筋を真っ直ぐに伸ばし、冷徹かつ熱烈な光を双眸に宿したその佇まいは――昼行灯の仮面を脱ぎ捨てた、紛れもないゲヘナの最高権力者たる生徒会長の威容そのものだった。
『風紀委員会本部中枢が、何者かによる精密狙撃を受けた。不可視の凶弾が、我らが誇る牙城の窓を貫いたのだ』
ざわり、と画面越しに自治区全土の空気が凍りつくのが分かった。マコトはあえて声を張り上げず、低く、しかし驚異的な通りの良さで全校生徒の鼓膜を震わせる。言葉の魔術師とも称される、彼女の天性の扇動能力が凄まじい熱量で発揮されていた。
『仕掛けてきたのは何者か? トリニティの狂信者共か? アリウスの亡霊か? あるいは……我らが混沌の自由を買い叩き、切り崩そうと暗躍するカイザーの魔の手か!? いずれであろうと関係ない!』
マコトは力強く拳を振り下ろした。
『我らは日々、己の欲望と信念のために銃を抜き、時には同胞同士で撃ち合ってきた! だがそれは、我らがゲヘナという大地で、誰にも縛られぬ自由を謳歌しているからこそだ! 外部の卑劣な侵略者共が土足で踏み入り、同胞の――たとえそれが気に食わぬ風紀委員会であろうと、あるいは我らの愛すべきイブキであろうと! 脅かすことなど、断じて許されてはならない!!』
『『『うおおおおおおおおおッッ!!』』』
街頭から地鳴りのような歓声が巻き起こった。マコトの言葉は、ゲヘナ生徒たちの最も原始的なプライドを、寸分の狂いもなく射抜いていた。
『いがみ合っている場合ではない! 自由を愛するゲヘナの魂よ、誇りを胸に銃をとれ! 我らが独立と安寧を脅かす見えざる侵略者に、鉄と火の洗礼を浴びせるのだ――!!』
その瞬間、ゲヘナ全土で奇跡――アコにとっては最悪の悪夢――が起きた。
「マコトの言う通りだぜ! アタシたちの自治区を荒らす不届き者は、全員マグマに沈めて温泉の元にしてやるよォ!」
普段は風紀委員会と血で血を洗う抗争を繰り広げている温泉開発部が、巨大掘削機と数千本のダイナマイトを積んだトラックを爆走させて出撃する。
「私たちの至高なる美食の探求と日常を脅かす侵入者……決して見過ごすわけにはいきませんね」
美食研究会・黒舘ハルナは優雅にライフルのボルトを引き、ジュンコやアカリ、イズミを率いて即座にゲヘナ外郭の迎撃ポイントへと展開を開始。
「アタシたちのキラキラな放課後をジャマするヤツとか、ガチでマジでありえないんだけど!」
「そうだよ、キララ! 私たちの自由をふみにじられるなんて、黙ってられないよね!」
キラキラ部のキララとエリカまでもが、スマートフォンで現状を共有しながらサブマシンガンのセーフティを解除し、華やかに、しかし容赦のない手つきで防衛バリケードの構築を始めた。
テロリストも、美食家も、放課後を満喫するギャルたちも。普段は絶対に手を取り合うことなどないゲヘナの怪物たちが、「自分たちの自由と独立を守る」という大義名分のもと、史上かつてない完璧な一枚岩となって銃をとってしまったのだ。
「な、なんで……なんでよりによって今日、こんなに団結してるんですかぁぁぁッ!?」
アコは執務室の床に崩れ落ち、頭を抱えて絶叫した。
「ふぁ〜あ……」
大混乱に陥る執務室のドアがガラリと開き、スナイパーライフルを肩に担いだ銀鏡イオリが、眠たげに目をこすりながら入ってきた。校内中が戦時さながらの喧騒に包まれる中、彼女だけがいつもの気だるげな調子を崩していない。
「何だか外がやけに騒がしいけどさぁ……ほんとにぃ? 敵襲だか暗殺者だか知らないけど、どうせアコちゃんが執務室で銃を暴発させて、適当に誤魔化そうとしてるだけじゃないのぉ……?」
(――ッッ!!)
アコの心臓が跳ね上がった。図星。寸分の狂いもない完全な看破。普段は頭のネジが外れたようなゲヘナ生徒ばかりの中で、長年アコの傍で苦楽を共にしてきた遊撃隊長だけが、彼女の杜撰なミスと悪あがきの本質を正確無比に射抜いていた。
神はいた。救世主はここにいたのだ。もういい。恥を忍んでイオリにだけ真実を打ち明け、二人でこっそり街へ出て弾頭を回収すれば、この狂気のキヴォトス大戦の引き金は解除できる――!
「イ、イオリ……! そ、そうなの……! 実はその通りで、だからお願い、助け――」
――ズドォンッ!!
耳を劈く銃声が、密室を震わせた。硝煙の筋がアコの頬をかすめ、イオリの耳元を猛スピードで通り抜ける。
パラパラと、銀色の髪が宙を舞った。見事に整えられていたイオリのツインテールの右側が、付け根のすぐ下から綺麗さっぱり消し飛んでいた。
「…………え?」
イオリが間抜けな声を漏らし、切断された自らの髪束がハラハラと床に落ちていくのを呆然と見送る。その数歩先。まだ白煙を吹き上げるピストルを構えたまま、眼鏡の奥の瞳を氷点下の冷徹さで細めた少女が立っていた。
火宮チナツ。その顔には、普段の慈愛に満ちた救護担当の面影は微塵もなかった。
「……非常事態ですよ。非ゲヘナ民め……」
「チ、チナツぅぅぅぅぅッッ!?!? あんた何撃ってんだよバッカじゃないのぉぉぉぉッ!?」
我に返ったイオリが、片方だけボブカットのようになった頭を押さえながら絶叫する。だが、チナツは眉一つ動かさず、流れるような手つきで排莢し、次弾を薬室へと送り込んだ。カチャリと金属音が重たく響く。
「ゲヘナ全土が存亡の危機に立ち上がり、自由と独立のために一致団結しているこの戦時下において……風紀委員会の最前線指揮官が、士気を削ぐような利敵発言ですか」
「り、利敵発言!?」
「ええ。背後から味方を撃つような敗北主義者は、我が祖国ゲヘナにおいて最も唾棄すべき反逆者です。次はありませんよ、イオリ特務官。即刻その不敬な態度を改め、遊撃隊を率いて敵弾の捜索最前線へ向かいなさい」
「ひ、ヒィィッ……!? わ、分かった! 行く! すぐ行くから銃口をこっちに向けるなぁぁッ!!」
普段の好戦的な態度はどこへやら、イオリは本能的な生命の危機を感じ取って脱兎のごとく部屋から逃げ出していった。
静寂が戻った執務室。
アコは床にへたり込んだまま、ガチガチと歯の根を鳴らして震えていた。
(……狂ってるわ)
生真面目すぎる優等生が、国家危機の熱狂に当てられて「粛清も辞さない冷酷な戦時監察官」へと完全覚醒してしまっている。
(言えない……絶対に言えない……! 今ここで『実は私の前髪でした』なんて白状した瞬間、あの銃口が私の眉間に向けられる……! 間違いなく即決軍事裁判で銃殺刑に処されるわ……!!)
「アコ行政官」
「ひゃ、ひゃいッ!?」
チナツが眼鏡のブリッジを押し上げ、冷酷な軍医の声音で振り返る。
「害虫の処理は終わりました。万魔殿の重戦車大隊が市街地の包囲を完了したとのことです。さあ……私たちも出撃しましょう。ゲヘナの尊厳を汚した不届き者に、風紀委員会の鉄槌を下すために」
「は、はは……え、ええ……そうね……徹底的に、探しましょうね……(白目)」
外に出た瞬間、アコの全身を叩きつけたのは、いつの間にか降り始めていた容赦のない土砂降りの雨だった。鉛色の雲がゲヘナの空を覆い尽くし、冷たい雨水がアスファルトを激しく打ち据えている。視界を遮る雨煙の向こうに広がっていた光景は、もはや一つの野戦病院であり、戒厳令下の最前線そのものだった。
「こっちの壁面には弾痕なし! 次は三番街の裏路地を当たるぞ!」
「泥に埋もれてるかもしれん、足元も見落とすな!」
血眼になった生徒たちが、雨に打たれ、泥にまみれながら、懐中電灯やライフル備え付けのガンライトの光を激しく振り回している。無数の鋭い光条が、雨粒を白く照らし出しながら夜のように暗い街筋を縦横無尽に交差する。誰もが唇を噛み締め、見えざる敵への怒りと、自分たちの自治区を守るという純粋な使命感に瞳を燃やしていた。
ただ一発の、窓から飛び出した弾丸を探すために。ずぶ濡れになりながら、必死の形相で。
「みなさーん! 風邪引いちゃいますから、温かいものを口にしてください!」
雨音をかき分けて響いてきたのは、聞き覚えのある健気な少女の声だった。見れば、ビニール合羽を着込んだ給食部の愛清フウカが、雨よけのシートを張った手押し車を押しながら、ずぶ濡れの生徒たちへ駆け寄っていた。
「給食部総出で、急いでおにぎりを握ってきました! 鮭と昆布と、梅干しもあります! 温かいお茶も用意してありますから、交代で休んでくださいね!」
「フウカさん……! ありがてえ、生き返るぜ……!」
「ううっ、美味い……! よし野郎共、フウカさんのためにも絶対にあの暗殺者の弾頭を見つけ出すぞ!!」
『おおおおおおおおッ!!』
寒さに震える不良生徒たちが、湯気の立つおにぎりを両手で握りしめ、涙を流しながら団結を深めている。泥臭くも美しい、銃後の支え合い。互いにいがみ合っていたはずのゲヘナの民が、雨の中で温もりを分かち合い、崇高な愛校心のもとに一つになっている。
「…………っ」
それを見た瞬間、アコの視界がぐにゃりと歪んだ。 激しいめまいが彼女を襲う。
(……人の心……)
彼女たちが雨の中で震えながら探しているのは、国家の危機などではない。フウカが睡眠時間を削って握り、不良たちが涙を流して頬張っているその活力の向かう先は――。
(私の……前髪……! 鏡の前でカッコつけた私の、愚かな一発の前髪ごときのために……みんなが雨に打たれ、泥を這いずり、おにぎりを配っている……!?)
罪悪感という名の巨大な鉄槌が、アコの胃袋を容赦なく粉砕した。吐き気と冷や汗が同時に込み上げ、足から急速に力が抜けていく。
「おい、見ろ……! あそこにいるの、アコ行政官じゃないか!?」
「えっ、本当だ……! あのアコ行政官だ……!」
雨煙の立ち込める街頭で、誰かが上げた声を皮切りに、捜索にあたっていた生徒たちの視線が一斉にアコへと集中した。無数のガンライトと懐中電灯の眩い光条が、雨に濡れそぼるアコの全身をスポットライトのように照らし出す。
「ひっ……!?」
針の筵どころではない。 純粋な信頼、敬意、そして期待に満ちた数千の眼差しが、一斉に自分へと向けられている。あまりの居たたまれなさと羞恥、そして底知れぬ罪悪感に押し潰されたアコは、耐えきれずに両手でぐしゃりと顔を覆い、その場にうずくまってしまった。
(見ないで……! お願いだから私を見ないでぇぇぇ……ッ!!)
心の中で悲痛な絶叫を上げるアコ。だが――その「顔を覆って震える姿」は、過熱したゲヘナ生徒たちの目に、あまりにも都合よく、そして悲壮的に映ってしまった。
「……見ろよ、あの姿を」
「英雄だ……! 緊急事態を誰よりも早く察知し、全校に報告してくれた、あのアコ行政官だぞ……!」
ざわり、と雨音を切り裂くような感嘆の囁きが、波紋のように広がっていく。
「おい、知ってるか? 聞くところによると、敵スナイパーの狙撃はアコ行政官を直接狙ったものだったらしい!」
「なっ……暗殺未遂!?」
「ああ! すんでのところで凶弾を紙一重で回避し、自分も負傷したかもしれないのに、退避もせず身を挺してゲヘナ全土に危機を知らせてくれたんだってよ……!」
「なんて人だ……! 風紀委員会なんて普段は口うるさい連中だと思ってたが、ここまで身体を張って自治区を守ってくれてたのか……!?」
「ち、違……っ、そんな美談じゃ――」
アコが顔を覆った指の隙間から蚊の鳴くような声で否定しようとした、その時だった。最前列にいた不良生徒の一人が、アコの顔元を指差し、目を見開いて叫んだ。
「――おい! 見ろよ、前髪だ!!」 「えっ!?」 「前髪の毛先が、少し焦げているぞ……!!」
ドッと街中が沸き立った。
「本当だ……! 銃弾の熱風で毛先がチリチリに焦げてる……!」
「あんな至近距離を掠め飛んだのかよ!? あと数ミリ狂ってたら命がなかったぞ……!」
「戦いの証だ……! これこそ、ゲヘナの自由と独立を守るために最前線で凶弾を潜り抜けた、生ける英雄の証拠だッ!!」
「うおおおおおおおおッ!! アコ行政官万歳!! 風紀委員会万歳ッッ!!」
割れんばかりの大歓声。
(ち、ち、ち……違うのよぉぉぉぉぉぉぉぉッッ!!!!)
手鏡の前で、ゼロ距離で前髪を撃った時のマズルフラッシュでチリチリに焼けただけなのだ。
熱狂に包まれる街頭路の奥から、ザッ、ザッ、と泥水を力強く踏みしめる軍靴の音が響いてきた。
群衆がざわめき、自然と左右に割れて道を開ける。
「……アコ行政官」
雨のカーテンを割り、ぬかるんだアスファルトを踏み抜いて現れたその人物の姿を見た瞬間、アコは息を呑み、目を見開いた。
「イ……イオリ……!?」
そこに立っていたのは、見慣れた遊撃隊長のようでいて、まるで別人のような空気を纏った少女だった。
トレードマークだった銀髪のツインテールは、綺麗さっぱり消え去っている。
チナツに片方を吹き飛ばされた直後、手近なコンバットナイフで残る片側も迷いなく削ぎ落としたのだろう。雨水に濡れた銀髪は耳元でシャープに切り揃えられ、吹き飛ばされた右側をカバーするように斜めに流した、驚くほど端正なアシンメトリー・ショートに仕上がっていた。
本人はただ視界の邪魔になる毛束を乱暴に切り落としただけのつもりなのだろうが――銀鏡イオリという少女が元来持つシャープな顔立ちと褐色の肌が、雨の冷気と相まって、まるで歴戦の精鋭特務兵のような鋭利な美しさを醸し出してしまっている。
そして――その双眸には、爛々と、狂信的なまでの使命感と闘志の炎が燃え盛っていた。
イオリはアコの正面に直立不動の姿勢で立つと、バッと顎を引き、右の頬を差し出した。
「私を殴ってくれ……ッ!」
「は……!? な、殴……!?」
「そうだ、殴ってくれ! 先刻の執務室での私の無礼と、恥知らずな発言に対する鉄拳制裁だ!」
イオリは羞恥に頬を赤らめつつも、一歩も引かずに叫んだ。
「……街へ出て、雨に打たれながら必死に弾痕を探すみんなの姿を見て……冷たい手でおにぎりを配るフウカたちの姿を見て、目が覚めた」
「め、目が……?」
「ああ! 我が校がエデン条約の騒乱以来の平穏を揺るがす未曾有の危機に直面し、アコ、お前が前髪を焦がしながら命懸けで凶弾を回避したというのに……! 私は『暴発の誤魔化しじゃないの』などと、あまりにも愚かで浅ましい疑念を口にした! 己の惰弱さと平和ボケが、心の底から恥ずかしいッ!」
クッと唇を噛み締め、イオリは雨に濡れる短い襟足に手をやる。
「二度と照準の邪魔にならぬよう、この髪も覚悟と共に切り落とした! アコ行政官、どうかこの愚鈍な私を殴り倒し、その上で命令を下してくれ! ゲヘナの自由を脅かす不届き者を、この手で八つ裂きにするための命令を……ッ!!」
(似合ってるのが余計に腹立つのよぉぉぉぉぉぉぉぉッッ!!!!)
アコの脳内で、全ての理性のヒューズが一斉にショートした。
あなたの推理が百パーセント正解だったのだ。それなのに何で覚悟を決めて無駄にスタイリッシュな短髪イケメンになって帰ってきてしまうのか。
土砂降りの雨は一向に弱まる気配を見せず、冷たい水滴が生徒たちの体温と体力を容赦なく奪い去っていく。どれほど泥を掘り返し、街路樹を調べ、建物の壁面をライトで照らしても――当たり前だが、ただの一発の小口径弾など見つかるはずもなかった。
張り詰めた緊張の糸が、限界を迎えようとしていた。そして、ついにその限界を突破してしまったのが、美食研究会の赤司ジュンコだった。
「や、やだぁ……ッ! 寒いよぉ……! もうずぶ濡れだし、指先の感覚ないし……一旦帰りたいよぉ……! お腹すいたぁぁ……ッ!!」
泥水の中にへたり込み、二本の角を垂らして泣き言を漏らすジュンコ。
(――キタッ!!)
アコの瞳に、一条の光明が差し込んだ。これだ。この空気に乗っかるしかない。ここで一度捜索を打ち切らせて全員を解散させれば、明日の朝までに自分が一人でこっそり泥を漁って弾頭を回収・処分できる!
アコは今度こそチャンスを逃すまいと、必死の慈愛の表情を作って前へ躍り出た。
「そ、そうよね……! ジュンコさんの言う通りよ! こんな土砂降りの中、これ以上みんなに無理をさせるわけにはいきません! 皆さん、一旦引き揚げましょう! せめて雨が止むまでは――」
――ズドンッッ!!
轟音。
言葉の途中で、アコの耳朶を至近距離の炸裂音が引き裂いた。
ジュンコの額に直撃した高初速弾が、強烈な衝撃波を巻き起こす。頭を勢いよく後ろに跳ね上げられたジュンコは、後頭部を地面にめり込ませ、白目を剥いてパタリと泥水の中へ崩れ落ちた。
(※幸いにも神秘とヘイローに守られたキヴォトス人であるため、たんこぶと脳震盪だけですんでいる)
「…………え?」
アコの思考が完全に凍りついた。硝煙を吐き出す美しいスナイパーライフルの銃口を静かに下げながら、そこに立っていたのは――美食研究会会長、黒舘ハルナだった。
「……至高なる美食とは、自治と平穏という肥沃な土壌があってこそ咲き誇る一輪の花。我らが聖域を脅かす見えざる侵略者を前に、寒さと空腹ごときに屈して背を見せるなど……美食研究会として、あまりにも不作法ですね」
「ジュ、ジュンコさぁぁぁぁぁぁぁんッッ!?!?!?」
アコは喉が千切れるほどの悲鳴を上げた。撃った。弱音を吐いたというただそれだけの理由で、部活の仲間を、何の躊躇もなく眉間から撃ち抜いて気絶させた。
「アコ行政官」
ハルナが、血も涙もない氷の微笑をたたえてアコを見据えた。
「先ほど、何かおっしゃろうとしましたか? 『引き揚げる』……などという、この崇高な戦意を侮辱するような言葉が、私の耳に微かに届いた気がしたのですが」
「……な、なんでも……なんでもありません……」
もはや何も救いはない。ずぶぬれになり、指先の感覚も無くなることすら誇りとばかりにうずくまり弾痕を探す数千人の生徒を、アコは呆然と見わたした。
「助けて先生……助けて、ヒナ委員長……」
降り注ぐ冷たい雨の中、アコは濡れそぼった前髪の隙間から、消え入りそうな声で祈るように呟いた。
「もう二度と、ふざけたことなんて言いません……。もう絶対に、委員長にも先生にも口答えなんてしませんから……だから、お願いですから誰か助けて……」
――ここで、一つの注釈を挟まねばなるまい。
天雨アコという少女は、その常軌を逸した露出度の高い服装や、高飛車で棘のある言動ばかりが取り沙汰されがちである。
しかし実のところ、彼女はあの混沌極まるゲヘナ学園において、間違いなく指折りのワーカホリック(仕事中毒者)であった。
空崎ヒナという絶対的な象徴が背負う超人的な激務には及ばずとも、アコが日々処理している事務書類、各部活の活動の監視、自治区内の治安データ分析、そして風紀委員会の兵站管理は、常人の許容量を遥かに超えている。
過労が生んだ、ほんのたまの現実逃避による悪戯心を、一体誰が責められよう。
だが――最初のボタンの掛け違いは、あまりにも残酷な連鎖を引き起こし、すでに不可逆の臨界点を遥かに突破してしまっていた。
アコが絶望に胃を痛め、泥水を啜る思いで震えていた、その時だった。
――けたたましいサイレンが豪雨を切り裂いた。
泥水を跳ね上げて急停車した一台の大型救急車。降りてきたのは救急医学部部長、氷室セナだった。
彼女は鉄面皮のまま泥水に横たわるジュンコへと歩み寄り、冷徹に見下ろす。
「……お待たせしました。本日の死体は、こちらですか」
「死んでません! 気絶してるだけです!!」
「ええ、確認しました。前頭部への直撃弾による脳震盪です。……ん?」
ジュンコを抱え上げようとしたセナの指先が止まった。
ジュンコの頭部がめり込んでいたアスファルトの裂け目。そこに、雨水に洗われて鈍く光る金属片。
セナは医療用ピンセットでそれを引き抜くと、眼鏡の奥の瞳を戦時さながらの鋭さで光らせた。
「……検分しました。激しく変形していますが間違いありません。市街地へ消失したとされる――『敵の凶弾』です」
「えっ……!?」
セナはピンセットを高く天へと掲げ、群衆へ告げた。
「この死体が、身を挺して暴き出してくれました。……我が校の誇りを傷つけた不届き者の痕跡、救急医学部が確かに確保しましたよ。……さあ風紀委員会、敵の首級をあげるための検分を」
「「「――うおおおおおおおおおおッッ!!!!」」」
地鳴りのような歓声が巻き起こり、ゲヘナ生徒たちが狂喜乱舞する。
セナがジュンコの両足を掴んでズリズリと引きずり、トランクへ無造作に放り込む光景すら、英雄的行為として涙ながらに称賛されていた。
(――ッッ!!!!)
アコの全身の血の気が完全に引いた。
泥まみれで変形した金属片。細かな口径など今の混乱の中で確かめる者はおらず、誰の目にも「敵の弾」としか映っていない。
だが、鑑識に回されれば一瞬だ。スキャナーを当てられただけで『天雨アコの銃創痕と完全一致』という真実が暴かれる。
「おい、鑑識班! 弾頭のライフリング照合を急げッ!」
「どの勢力の仕業だ!? トリニティか、カイザーの工作部隊かッ!?」
泥まみれのマコトとサツキが怒号を上げ、陣頭指揮を執る。
「敵組織の特定が完了し次第、報復攻撃の準備を! HQの設置準備に移行する!!」
「まかせてぇ。キヴォトス全土を射程とした長距離ミサイルのサイロへの移送は完了してるわよ!」
雨煙を切り裂いて、怒号が幾重にも交錯する。
生徒会長・羽沼マコトも、その側近の元宮サツキですらも、自慢の軍服を泥まみれにしながら最前線で生徒たちを怒鳴り散らし、血気迫る形相で陣頭指揮を執っていた。
その熱狂の片隅で、アコは完全に生気を失った、魚のような瞳で灰色の雨空を見上げていた。
(……死のう。それ以外にお詫びする方法はないわ……。でも、最後に……せめて最後にもう一度だけ、ヒナ委員長にお会いして、泥水に頭を擦りつけてお詫びしたい……)
そこでふと、アコの思考の片隅に、ささやかな疑問が浮かび上がった。
(……そういえば、ヒナ委員長は……? これほどの全校規模の大騒動になって、あの委員長が現場に出てこないなんてことが……)
『――ふ、ふふふ……ワーーーッハッハッハッハッ!!』
その時だった。
重苦しい雷鳴すらも力業でねじ伏せるような、どこかぎこちなく、あからさまに芝居がかった高笑いが、鉛色の空から突如として降り注いだ。
突風が吹き荒れ、雨雲の切れ間から一陣の突風が吹き下ろす。
天より舞い降りてきたのは――漆黒の翼を広げた、頭部全体に茶色の紙袋をすっぽりと被った小柄な人影だった。
ドォォォンッ!!
泥水を派手に跳ね上げてアスファルトへ着地する仮面の影。着地の衝撃でぐらりとよろけそうになった足を必死で踏みとどまらせると、バサリと大袈裟にマントを翻し、裏返りそうな声を張り上げた。
『ゲヘナの愚民どもよ……! よくぞ我が放った至高の凶弾を、この広大な自治区の泥の中から見つけ出したな……!!』
その声を聞いた瞬間、群衆が息を呑んだ。
仮面の怪人は、ふっと鼻を鳴らして冷笑を作ると、背負っていた一丁の重厚なスナイパーライフルを、わざとらしくこれ見よがしに泥水の中へと放り投げた。
ピチャリと、チナツの爪先のすぐ前に落ちる銃身。
「チ、チナツ! 即座に鑑識スキャンを!!」
マコトが絶叫する。
「了解しました!」
チナツが猛烈な運指で携帯端末を操作し、泥まみれの銃口へとスキャナーの青い光を照射する。
沈黙の数秒。
やがて――端末がけたたましい照合完了音を鳴り響かせた。
「……っ! こ、これです! 先ほどセナさんにより回収された弾頭の線条痕、およびライフリングの摩耗パターンと――完全一致(コンプリート)しました!!」
「「「うおおおおおおおおおおッッ!! 本物だァァァッ!!」」」
(………………なんなの?????)
アコの思考回路は、ついに次元の彼方へと消し飛んだ。
完全一致? 線条痕が? 自分の愛銃から飛び出したはずの弾丸と、あの謎の怪人が持ってきたライフルが?
混乱に白目を剥きかけるアコを余所に、紙袋を被った小柄な女性は、胸を張って高らかに名乗りを上げた。
『フッ……よくぞ見破った。そう、我こそは――八番目の囚人……! あの悪名高き「七囚人」とは別格の危険度ゆえに連邦矯正管区の最深部に秘匿され、連邦生徒会の上層部ですら、ごく限られた一部の者しかその存在を知らぬ絶対の災厄……!!』
「な、なんだと……ッ!?」
マコトが目を見開き、一歩前へ踏み出して詰問した。
「名を名乗れ! 貴様、何者だッ!!」
マコトの鋭い一喝に対し、紙袋の女性は――。
『えっ……?』
ピタリ、と彫像のように動きを止めた。
不気味な沈黙が流れる。
紙袋に開けられた二つの小さな穴の奥で、瞳が露骨に右往左往し、小さな手が顎に当てられて、ひとしきり激しく悩み始めたのが見て取れた。
どう見ても「名前まで考えていなかった奴の挙動」そのものだった。
そして――気まずい沈黙の果てに、無理やり絞り出された名は。
『り、陸元(りくもと)……ナヒ……?』
(ヒナ委員長だああああああああああああああああああああああッッッ!!!!)
アコは喉を掻きむしらんばかりの勢いで、心の中で絶叫した。
空(そら)に対して陸(りく)!
崎(さき)に対して元(もと)!
ヒナを逆さにしてナヒ!!
あまりにも安直! あまりにもやっつけ! そして声のトーンを必死に低く作っているが、語尾の掠れ具合といい立ち姿の重心といい、どこからどう見ても敬愛してやまない空崎ヒナその人であった。
『――ゴホン! ハ、ハーッハッハッハッ! これぞ、我ら「第八の囚人」からゲヘナへの宣戦布告よ!』
ナヒは誤魔化すように喉を鳴らし、必死に声を張り上げた。
『我が放った凶弾を拾い上げ、ここまで辿り着いたその執念は見事! いつか訪れる決着の日まで、その弾頭とライフルは貴様らに預けておくわ! せいぜい、風紀委員会とやらに潤沢な予算と物資を回して、首を洗って備えておくことね……!! ハーッハッハッハッ!!』
極めて事務的かつ風紀委員会に都合のいい要求を滑り込ませる捨て台詞を吐き捨てると、ナヒはバッと背を向けた。
先ほどまで雨煙の中で威容を誇っていた翼――のように見えていたのは、どうやら周囲の過剰な恐怖が生んだ錯覚だったに違いない。
現実は、彼女の華奢で小柄な背丈には不釣り合いではあるものの、それなりのサイズで愛らしい漆黒の翼だった。
バサバサバサッ、と一生懸命に羽ばたく小さな翼。
泥水に足をもたつかせ、「よいしょ」とばかりに体重を浮かせながら、よちよちと懸命に雨空の向こうへと飛び去っていく。
「虎丸、主砲旋回! 逃しません、叩き落とします!」
イロハが戦車のハッチから身を乗り出して命じようとするのを、マコトが力強く腕を突き出して制止した。
「待て、イロハ! ……あえて背を見せて立ち去るその胆力、ただ者ではない。陸元ナヒとやら……この宣戦布告、ゲヘナ生徒会長たる羽沼マコトが確かに受け取ったわ!」
マコトは不敵にニヤリと笑い、天に向かって拳を突き上げた。
刹那、雨を切り裂いてゲヘナ全軍の地鳴りのような勝ち鬨が響き渡った。
勝ち鬨をいつまでも響かせる街の狂騒から抜け出し、魂の抜け殻となったアコは、トボトボと風紀委員会本部の執務室へと戻ってきた。
ギィ……と軋む音を立てて扉を押し開ける。
室内には、二人の先客がいた。
一人は、雨でビショビショにふやけた茶色い紙袋のカスを、真っ赤な顔をして必死に髪から毟り取っているヒナ。
もう一人は、困ったような苦笑いを浮かべながら、タオルの端でヒナの濡れた頭を優しく拭き、ブラシで髪を梳いてあげている先生だった。
――ドゴォォォッ!!
執務室の床が抜けんばかりの勢いで、アコは額を絨毯に叩きつけ、全身全霊の土下座を敢行した。
「ヒナ委員長ッ!! 先生ッ!! 申し訳、申し訳ありませんでしたぁぁぁぁぁッッ!!」
だが、ヒナは頭部の角の先まで湯気が出そうなほど真っ赤に染め上げ、ぷいっと横を向いて腕を組んだ。
「……何の話? 私にはさっぱりわからないけれど」
「ヒ、ヒナ委員長……!」
「それに、あの『第八の囚人・陸元ナヒ』というのは、シャーレの先生だけが独自に追跡していた極秘の秘匿情報らしいわ。……学園の混乱を防ぐためにも、この件は風紀委員会最高機密として箝口令を敷いておくこと。いいわね、アコ」
「そ、それはもう、全身全霊をかけて隠蔽――いえ、秘匿いたします……!!」
「まあまあ、アコも反省してるみたいだしね」
先生が宥めるように笑うと、アコはさらに小さくなって床に縮こまった。
「……はぁ。まったく」
ヒナは深いため息をつくと、机の引き出しから小さなジップ付きポリ袋を取り出し、床に平伏するアコの手元へ放り投げた。
コロン、と乾いた音を立てて転がる小さな金属片。
それは紛れもなく、アコの手から放たれ、万魔殿や市街地を脅かしかけた、彼女自身の拳銃の弾頭だった。
「先生と一緒に、裏路地のゴミ箱の裏で見つけたの。……これを探し出して、あらかじめ用意した偽のライフルとすり替えるのが、今日一番骨が折れたんだから」
「わ、私のために、そこまで……!」
「適正に。……今度こそ絶対に、適正に処分してね」
「はいッ! 直ちに溶解炉へ叩き込みます……!!」
「それと……」
ヒナは呆れたように眉根を寄せ、アコの顔をじっと見つめた。
「前髪。……毛先がチリチリに焦げてるじゃない」
「うっ……」
羞恥で顔から火が出そうになるアコ。
ヒナは救護キャビネットへと歩み寄ると、救急箱から医療用のハサミを取り出し、シャキ、シャキ、と軽快に刃を鳴らした。
「そこへ座りなさい。整えてあげるから」
「えっ……ヒ、ヒナ委員長にそんなことをしていただくわけには……!」
「いいから座るの。……ほら」
促されるまま、アコはおずおずと事務椅子に腰を下ろした。
ヒナの冷たくて細い指先が、アコの額にかかる前髪を丁寧に掬い上げる。
ハサミのリズミカルな金属音が、静かな室内に心地よく響き渡った。その手つきは驚くほど淀みなく、迷いがない。
「私ね……」
チョキ、チョキ、と前髪の長さをミリ単位で揃えながら、ヒナがぽつりと零した。
「委員長なんかに選ばれなかったら……卒業後は、美容の専門学校に行きたかったの」
「えっ……!? ヒナ委員長が、美容師ですか……!?」
目を丸くするアコに、ヒナは悪戯っぽく、ふっと小さなウインクをして見せた。
「内緒よ」
「別に、今から目指したっていいと思うけどな」
傍らでタオルを畳んでいた先生が優しく声をかけると、ヒナは少しだけ困ったように眉を下げ、柔らかく目を細めた。
「いいのよ。……こうしてたまに誰かの髪を整えたり、悩みを聞いてあげたりする方が、私の性に合ってるみたいだから」
ヒナはそうはにかんだように笑った。せっかくだから可愛くしてあげると、後ろ髪のレイヤー部分まで手を付け始めるのを見て、先生は苦笑する。
「ヒナ、アコの髪もだけど、ヒナの髪にこびりついた紙袋のカスもケアしたほうがいいよ」
「あー……まあ最悪切っちゃうから。この機会にショートも良くないかな」
「私のせいで委員長の御髪が失われたら死にます……!」
そう引きつるアコに、ヒナは冗談よと笑った。これでも美容師をちょっとだけ目指してたから、セルフケアは得意なのよというのを聞き、アコは胸を撫で下ろすとともに、かなわないなと思う。
(そんな委員長だからこそ……私は、どこまでもついていきます……)
アコは胸の奥で、熱い誓いを噛み締めていた。
だが――同時に、強く確信してもいた。
この繊細な手捌き、愚直なまでの生真面目さ、そして冷徹な仮面の下に隠された底知れぬ慈愛。もしこの人がハサミを握る道を選んでいたなら、キヴォトス全土から客が押し寄せる伝説のカリスマ美容師になっていたに違いない、と。
「……はい、できたわ」
ヒナがハサミを置き、手鏡をアコの目の前に差し出した。
覗き込んだ瞬間、アコは目を見張り、思わず息を呑んだ。
「……っ! す、すごいです……!」
マズルフラッシュで無惨に焦げていた毛先は跡形もなく消え去り、アコの整った顔立ちを一層引き立てる、完璧で上品なラインが描かれていた。イオリのように刈り上げられることもなく、純粋なプロの技によって蘇った前髪。
ヒナが照れくさそうに、どうかな……と後ろ髪を鏡で映すのを見て、アコは嘆息した。
「完璧です……最近サロンへいけなくて馴染んじゃってた後ろ髪のレイヤー部分までちゃんと綺麗に仕上がってます! 委員長、ほんとにプロ目指したほうがよくないですか!?」
「ほらね、すごく似合ってるよ、アコ。ゲヘナの風紀委員長であることと、美容師の夢は両立できると思うよ。ヒナも三年生だし、これからの進路を考えてもいいんじゃないかな」
先生が温かく微笑むと、アコも椅子から立ち上がり、手鏡を握りしめたまま身を乗り出した。
「全力で応援します!! この御恩は一生かけてお返しします! もし委員長がサロンを開かれるなら、毎月……いえ、毎週通い詰めてみせます!」
「ふふっ……毎週なんて切ってたら、あっという間にイオリみたいなハンサムショートになっちゃうわよ」
ヒナはクスクスと小さく吹き出し、それから手鏡越しにアコと視線を合わせて、悪戯っぽく微笑んだ。
「……でも、まあ。それも似合うかもしれないけれどね」
窓の外からは、いまだに「陸元ナヒ」の襲来に沸き立つ生徒たちのけたたましいシュプレヒコールが遠く響いていた。
しかし、秋風が吹き込む執務室の中には、どこまでも穏やかで温かい、三人の笑い声だけが満ちていた。