しかし、山を下りる唯一の道は、巨大な岩に塞がれていた。
「剣士は三十年目に岩を切る」
古い言い伝えを信じ、男は毎日一度だけ、岩と切り合う。
男はなぜ、山を下りようとするのか。
なぜ、一度だけ岩に剣を振るうのか。
そして、己は何のために剣を振るうのか――。
そんな古臭い男と、頑固で巨大な岩、そこへ横入りしてきた龍による三角関係(嘘)物語。
この小説はカクヨム様と小説家になろう様でも掲載しております。
我は剣士である。
この道三十年にして、山を下りようと思う。
なぜ山を下りるのか。
簡単な話だ。一人ぼっちになった。
生まれも育ちも、この山だった。
小さな山ゆえに、里の者はみな家族のようなものだった。
しかし、我が留守の間に、みな殺されてしまった。
復讐をするわけでもなければ、助けを求めるわけでもない。
我は料理ができぬ。故に山を下りなければ、自分のまずい飯を食い続ける羽目になる。
しかし、困ったことがある。
山を下りる道を、大きな岩がふさいでいる。
雨で山肌が崩れ、転がり落ちてきたらしい。
我一人でどけるのは不可能だ。
だが、我には剣があった。
この国には、今の我にふさわしい言葉がある。
剣士は一年目に空を切る。
十年目に人を切る。
三十年目に岩を切り、五十年目には龍を絶つ。
そして八十年目には、切った岩で己の墓を建てる。
我はちょうど三十年目である。
ならば伝承にならい、岩を切ってみることにしよう。
いつから剣を握っていたのか。それは曖昧であるため、もしや三十年目ではないかもしれぬ。
自我が芽生えた時には、すでに我の手に小さな枝があった。
枝は細く、すぐに折れてしまった。
しかし、我は一度も忘れたことがない。
その枝こそが、我の道を示した最初の一本だったことを。
我に師はない。
あの枝こそが師であった。
剣を真っすぐ振るう。
ただそれだけを三十年。
されど、これが意外に難しい。
迷いがある時、剣は曲がる。覚悟がある時、剣は真っすぐ振るわれる。
自信に酔う時、剣は折れる。泰然たる時、剣は不動となる。
邪心がある時、剣は荒れる。正義がある時、剣は止まらない。
剣を振るえば、その日の心持ちが分かる。
木の実も採れず、獲物も狩れなかった日は、いつも真っすぐに振れない。
誰かを守らねばならぬ時、剣はどこまでも真っすぐに振れる。
まるで、果てなく広がる地平線のごとく、刃は進み続ける。
しかし、岩に剣を振るうとなると話は別だ。
動く獲物でもなければ、守る相手もいない。
あるのは岩と我の対話のみ。
「今日は少し、元気がなさそうだな。では、切るぞ」
晴天の昼下がりに、すがすがしいまでの破裂音が響き渡る。
山に生きる獣たちはざわめき、どこかへ逃げていった。
「やはり駄目か。そなたは我に似て、頑固よのう」
一日一度、それ以上は切り合わない。
女房でもあるまいし、岩と長話など我の性に合わない。
岩との付き合いとは、そのくらいがちょうどよい。
獲物を狩り、焦げた肉を食らう。
実にまずい。
女房の飯はうまかった。
我の好みの焼き加減を心得ていたし、細かく砕いた木の実を肉に混ぜていた。
まねをしてみたところ、硬い木の実と焦げた肉ができた。
飯を食らえば、あとは寝るだけだ。
「おはよう。今日は雨模様だ。では、さっさと切るぞ」
黒い雲に眺められながら、岩に向かって剣を振るう。
互いにかすり傷を負った。
この剣は、昔に買った安物だ。
かつては旅の商人も山を訪れたが、今では魔物しか訪れぬ。
平和な時代は終わり、魔物と戦う時代になった。
魔王と呼ばれる魔物の主が、人の世を襲っている。
山の外から聞こえてくる、どこか他人事のような話だった。
こんなことなら、里の祠にもっと供物を捧げておくべきだった。
もっとも、その祠は魔物に壊された。
守られるどころか真っ先に壊されたのだから、大した神ではなかったのだろう。
雨が降ってきた。
山の雨は危険だ。すぐに足元をすくわれる。
あの日も雨だった。
それも、ひどい大雨だ。
我は山へ獲物を狩りに出ていた。
遠くから地鳴りを聞き、すぐに里へ戻ろうとしたが、崩れた斜面を転がり落ちた。
意識を失い、雨に打たれながら目を閉じた。
目が覚めた時には、すべてが遅かった。
最初に匂いを感じた。
血の匂いだ。
次に足が見えた。
女房の足だった。
里には魔物の足跡が残されていた。
妙なことに、奴らは家々を荒らすより先に祠へ向かったらしい。
祠は床まで砕かれ、その中央には一本の剣が転がっていた。
高そうだったので拾った。
売ればしばらく、まずい肉を食わずに済むと思った。
その時、割れた床の下から風が吹いた。
長く息を止めていた何かが、初めて息を吐いたような、生ぬるい風だった。
だが、里には生きている者がいなかった。
風のことなど、すぐに忘れた。
我は剣を振るってきた。
しかし、大いなる運命には敵わないようだ。
我は勇者ではない。王でもない。英雄でもないのだから。
今日もまた眠りにつく。
「昨日はひどい雨だった。なのに、そなたは動かないか。立派な志だ」
剣を振るう。
雨に濡れた岩肌を剣が滑り、そのまま地面に当たった。
「すまぬな。地面と切り合ってしまった。明日はきちんと当てる」
我としたことが、剣を滑らせてしまった。
以前であれば、三日は寝込むほど落ち込んだだろう。
これでも、龍を切ったことはなくとも、大きな蛇なら切ったことがある。
里では山の主と呼ばれていた大蛇だ。
里一番の娘をさらったため、我は三日三晩切り合い、最後にはその首を切った。
あれは我の人生における名勝負だった。
その娘が、のちに我の女房となった。
剣の道こそ、我の道である。
故に岩を切り、進む必要がある。
だから、我は今日も眠る。
「どうだ。そなたも、そろそろ我に切られる覚悟はできたか」
岩はぴくりとも動かない。
愛嬌のない岩だ。せめて、言葉の一つや二つは話せぬのか。
「では参るぞ、岩」
剣を振るう。
いつも以上に、岩から強い反発を感じた。
なんじゃ。
そなたも怒りを知っていたか。
「悪かったな、岩。気を悪くしたなら許せ」
岩も怒るというのは、新しい発見だ。
あの怒りようは、息子に似ている。
我が剣ばかり振るっていると、すぐに怒った。
やれ、家事をしろ。やれ、金を稼げ。
口うるさくてかなわない。女房の悪いところが移ってしまった。
そんな息子も今では、あの岩のように無口だ。
何も話さず、地面で眠っている。
そんな地面で、我もまた眠りにつく。
何日、何十日たったのか、忘れてしまった。
そんなある日、岩に見慣れぬ傷がついていた。
小さくだが、確かに存在している。
「なんじゃ。そなた、いつ怪我をしたのだ」
答えは返らない。
無口な岩は、いつも我に察してもらうことしかできない。
昨日はなかった傷が、今はある。
大きな鉤爪で引っかいたような、三本の傷だった。
その形には見覚えがあった。
壊された祠の柱にも、同じ傷が残っていた。
「我以外にも、外へ出ようとした者がいるようだな」
魔物か、化け物か、それとも幻か。
どれでもよかった。
ただ、我より先に岩を壊されるのだけは気に入らない。
その夜、我は眠ったふりをした。
太陽が隠れ、光を失った山で、木々に身を隠して岩を眺める。
岩は朝も昼も夜も変わらず、そこにあり続ける。
誰とも話さず、誰も殺さず、ただ動かない。
不動。
それこそが、こやつには似合う言葉だ。
「やはり、何も来ぬか」
眠気を感じ、家へ戻ろうとした時だった。
あの日、里へ迫った脅威をも超える圧。
強烈な殺気が山を覆った。
地面が揺れる。しかし、暗闇ゆえによく見えない。
我は静かに木々の間から身を出した。
そこにいたのは、巨大な龍だった。
我は思わず腰を抜かした。
大蛇とは違う。
二本の足で大地を踏み、背には巨大な翼を畳んでいる。
龍の背丈と比べれば、あれほど大きかった岩さえ小さく見えた。
龍は岩を持ち上げようと、大きな鉤爪をかけた。
本来ならば、簡単に持ち上がるはずだ。
しかし、岩は不思議なほど、その場を動こうとしない。
苛立った龍が、鉤爪を岩の頂上へ振り下ろす。
なるほど。
確かに龍の爪ならば、岩にも傷はつく。
驚くべきは、それでも傷がつくだけということだ。
岩は割れもせず、動きもしない。
我が切り合っていた岩は、夜には龍とも切り合っていたらしい。
なぜか、龍に嫉妬した。
気味が悪かったので、すぐにその心は捨てた。
だが、問題は岩ではない。
あの龍に任せれば、いつかは岩を壊してくれるかもしれぬ。
しかし、龍が山を下りれば、我が向かおうとしている町は滅ぼされるだろう。
少し悩んだが、仕方がない。
我が龍を倒す必要があるようだ。
我は離れていく龍の跡を追い、住み処を見つけた。
故に家へ戻り、眠りについた。
「岩よ。そなたは我と違い、浮気性だな。我もそなたのせいで、妙な感情を知ってしまった」
「仕返しとして、今日はそなたから切らない。龍を切ったあとで切ってやろう。そこでいつものように、黙って我の勇姿を見ておくのだな」
今日はまだ岩を切らない。
龍を切った勢いで、こやつも切り裂いてやる。
いつもの剣は安物だ。
さすがに龍と切り合えば、先に剣が折れるだろう。
岩の隣にいつもの剣を置いていった。
そこで、壊れた祠から拾った剣を腰に差した。
町へ下りた時に売ろうと思っていたが、その前に一度くらい使っても罰は当たるまい。
鞘には、我の安物とは違う、洒落た文様が刻まれている。
剣を抜くと、刃にも同じ文様があった。
どこかで見た気がするが、思い出せない。
「ふむ。綺麗な剣だ。我にぴったりだな」
龍は昨日見つけた住み処で眠っていた。
大きないびきをかいている。
生意気な龍め。
我の剣で目を覚ましてやろう。
「邪悪なる龍よ。我と立ち会ってもらうぞ」
我の声に、龍は目を開けた。
我の姿を見るなり鼻を鳴らす。
まるで嘲笑するように。
「我を鼻で笑うとはな。痛い目を見ても、鼻水を垂らして逃げるなよ」
鞘から剣を抜いた。
その瞬間、龍の様子が変わった。
我ではない。
我の手にある剣を見て、龍は初めて一歩退いた。
「なんじゃ。そなた、この剣を知っておるのか」
答えるはずもない。
岩といい龍といい、この山には無口な者しかおらぬらしい。
刃は鋭く、我を照らす朝日を反射した。
きらりと光る刃を、天へ向けて立てる。
我とて剣士。
己の限界は理解している。
我には、龍を切るほどの実力はない。
里も、女房も、息子も守れなかった。
その程度の剣士だ。
されど、我には失うものがない。
岩を切れず、この山で朽ち果てるはずだった。
それが何かの縁で、龍と切り合って死ねるのだ。
悪くない。
そう思ったはずだった。
だが、我に迫る龍の爪を見た時、生きたいと思ってしまった。
生きて、仇を討ちたい。
魔物を切り、魔王を切り、女房と息子を殺した者を切りたい。
それが意味のないことだとは分かっている。
復讐心など、剣を曇らせるだけだとも知っている。
ただ、思い返せば、我が初めて枝を振るった日もそうだった。
あの枝は、里に入り込んだ魔物へ向けて振るった。
幼い我は何もできず、簡単に吹き飛ばされた。
次は負けない。
そう願って、我はここまで剣を振り続けてきた。
ならば、我の剣はどこにあるべきか。
正義など、我には分からぬ。
今の我にあるのは私怨であり、後悔であり、泥臭い未練だけだ。
だが、それでよい。
剣を振るう理由など、岩を切りたいからで十分。
生きたい理由など、まだ切りたいものがあるからで十分だ。
「龍よ。我は剣士である。故に、そなたを切る」
振るわれた剣は、どこまでも真っすぐで、馬鹿正直だった。
その一閃は龍の爪を切り、腕までも切り裂いた。
「GYAAAAAAA!」
龍は動揺を隠せずにいる。
我のような小さな生き物に切られたことを理解できぬらしい。
やがて、その目に怒りが宿った。
「そうか、そうか。龍よ、そなたも怒るのだな。当然か。龍とて生き物、我と同じように怒るものだ」
「さて、龍よ。とことん切り合おうぞ」
それからのことは、あまり覚えていない。
ただ、ひたすらに切り合った。
剣が龍の鱗を切り裂く。龍の尾が我を吹き飛ばす。
龍の炎が森ごと焼き払おうとする。
その炎を我は切り裂いた。
何度も、何度も切り合った。
朝日は天へ昇り、やがて夕陽へと変わった。
その夕陽が山の向こうへ沈もうとした時、我の剣が龍の首を切り落とした。
「はあ、はあ……龍よ。我が剣の勝ちだ」
気を許せば、すぐにでも意識を失うだろう。
だが、我にはまだ仕事があった。
今日はまだ、岩を切っていない。
それでは我が浮気をしたようではないか。
龍の血を払うと、刃に刻まれた文様が赤く浮かび上がった。
そこでようやく思い出した。
崩れた祠の床にも、同じ文様が刻まれていた。
「なるほど。そなたら、知り合いだったか」
それ以上は分からない。
考えても仕方がないので、我は岩のもとへ戻った。
足を地面に引きずり、剣を杖のように突きながら進む。
岩はいつもと変わらず、そこに佇んでいた。
「なあ、岩よ。伝承になぞらえるつもりが、三十年目で龍を切ることになるとはな。人生、何があるか分からないものだ」
「悪いな。そなたには感謝している。恨みなどない。だが、我の道にある以上、そなたは切らなければならぬ。ここから先へ進めぬからな」
我は祠の剣を鞘に収めた。
これは龍と切り合った剣だ。
岩との勝負に持ち出すものではない。
岩のそばに立てかけておいた、いつもの安物を手に取る。
「待たせたな。では、いつもの続きをしようではないか」
大地に足を踏み込む。
いつもと同じ動作。
龍を倒したというのに、緊張を隠せない。
岩を切る。
龍より簡単なはずだ。
しかし、岩は龍よりも強大に見えた。
このまま逃げても、何も問題はない。我を心配する者も、怒る者もいない。
岩を切らず、迂回してもよい。誰かが助けに来るまで待ってもよい。
そうやって我は、何度も迷い続けてきた。
「これ以上は、そなたに失礼だな」
三十年間、剣を振り続けた。
それがたとえ実らずとも、我はこれからも振り続ける。
「我は剣士なり。故に、岩を切らせてもらう」
剣を振り下ろした。
たった一度、剣を振るう。
それだけで、岩はあっけなく二つに分かれた。
断面は、驚くほど滑らかだった。
そして我は、家に帰って眠った。
当然だ。
このまま山を下りれば、町に着く頃には深夜になってしまう。
「夢ではなかったか」
翌朝見ても、岩は綺麗に切れていた。
我が切ったはずなのに、どこか信じられずにいる。
「切ってしまったことは悪かったな。ただ、そなたは岩だ。半分になっても、さほど問題はないだろう」
我はその日、山を下りた。
何十年ぶりになるのかは、忘れた。
これからどう生きるのか、何も考えていない。
されど、我には大した問題とも思えない。
なにせ、我は剣士だ。
剣と、それを振るう腕があれば、どうにかなる。
せっかくだ。
魔王でも切ってみるか。
そうして世界を救い、最後にはあの岩で墓でも建てれば、なかなか愉快な人生になるだろう。
このような馬鹿なことを考えていると知れば、息子と女房に怒られそうだ。
我は一歩、また一歩と、山を下りていった。
その歩みは、もう二度と止まることはなかった。
ここまで読んでくださり、ありがとうございました。
普段書いている長編とは違うものにも挑戦してみようと思い、今回、この短編を書きました。
書き終えてみると、思っていた以上にこの剣士に愛着が湧き、彼のその後も書いてみたいと思うようになりました。
もし好評でしたら、続編を書くかもしれません。
その時は、また読んでいただけるとうれしいです。