世界の余白に転生した俺は、物語に存在してはいけない   作:Suinovel

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第25話 封じられた行き先

ノルドの工房で最初に聞こえたのは、金属を叩く音ではなかった。

戸口の奥から、男が誰かを叱りつける声が響いている。

 

「だから、持って帰れと言ってるんだ。修理できないんじゃない。修理するなと言われてる」

「こっちは金を払うと言ってるだろう!」

「金の問題なら、とうに受け取ってるさ」

 

ベルクが扉を押し開けると、店先にいた二人の男が同時に振り返った。

片方はノルド、もう片方は見覚えのない荷運び人だった。

荷運び人の足元には、小さな木箱が置かれている。

箱の蓋には赤い紐が二重に掛けられ、封蝋の跡だけが残っていた。

 

「何の騒ぎだ」

 

ベルクが問うと、荷運び人は目に見えて顔色を変えた。

 

「兵隊さんか。ちょうどいい。ここの親父が、預けた魔石灯を返してくれないんだ」

「返さないとは言ってない。箱ごと持ち帰れと言ってる」

 

ノルドは作業台の端を指で叩いた。

 

「中の部品を外して直すな、元の状態で保管しろ。そういう書き付けが付いてたんだよ」

「誰の指示だ」

「それが分からんから揉めてる」

 

ベルクは箱の前に膝をついた。

その後ろから、蓋に残った封蝋を見つめた。

赤い紐は新しいが、箱そのものは古い。

側面には荷車に擦れたような傷があり、角の金具は片方だけ取り替えられている。

それより気になったのは、底板の端に刻まれた三本の浅い線だった。

 

「この箱、どこから来たんですか」

 

問いかけると、荷運び人は不審そうに目を細めた。

 

「西の荷置き場だよ。俺はそこから運んだだけだ」

「誰に頼まれて?」

「荷置き場の番人だ。昨日の夕方、ここへ届けろと」

「中身は確認したか」

 

ベルクの問いに、男は首を横に振った。

 

「俺の仕事じゃない」

 

ベルクはノルドへ視線を向けた。

 

「預かった書き付けを見せてくれ」

 

ノルドは棚の引き出しを開け、折り畳まれた紙を取り出した。

そこには魔石灯の型と、修理を禁じる短い指示が記されている。

差出人の欄は空白だった。

ただし、紙の右下には、乾いた泥のような黒い印が押されていた。

丸い輪郭の横に、三本の線。

昨日、北の林で拾われた麻布の印と、配置が似ている。

 

「これを誰が書いたか、分かりますか」

「分かれば苦労しない。荷運び人が持ってきたときから、そうなってた」

「俺は紙なんか渡してないぞ」

 

荷運び人が割って入った。

 

「箱は昨日、番人から受け取った。紙が入ってたのは今知ったんだ」

「じゃあ、誰が入れたんだ」

 

ノルドが言い返す。

二人の声がまた高くなりかけたところで、ベルクが掌を上げた。

 

「箱を開ける前に、順番を整理する。荷運び人は昨日の夕方に受け取り、今朝ここへ運んだ。ノルドは預かったあとで書き付けを見つけた。それで間違いないか」

 

二人は渋々頷いた。

 

「荷置き場の番人には、あとで話を聞く。箱はしばらくここに置いてもらう」

「勝手に決めないでくれ」

 

荷運び人は抗議したが、ベルクが自分の名と所属を書いた受領書を渡すと、ようやく口を閉じた。

 

男が出ていったあと、工房には火鉢の炭が弾ける音だけが残った。

ノルドは箱を睨みつけ、低い声で言った。

 

「変なものが集まってきやがる。北門の粉を見に来たんじゃなかったのか」

「そのつもりだった」

 

ベルクは苦い顔で答えた。

 

「だが、こちらを先に調べたい」

 

*

 

箱の蓋を開けると、中には割れた魔石灯が一つ収まっていた。

灯りを覆う金属の輪は歪み、透明な石の表面には細かな亀裂が走っている。

外見だけなら、火災に遭った道具だと言われても不思議ではない。

だが、ノルドは灯りを持ち上げるなり、眉をひそめた。

 

「こいつは、壊れたんじゃないな」

「どういう意味ですか」

「中の石を固定する留め具が、逆向きに入ってる。普通に使っていてこうはならん。誰かが一度外して、戻したんだ」

「修理しようとした可能性は?」

「ある。だが、それなら余計な細工だ」

 

ノルドは小さな器具で留め具を緩めた。

ベルクが制止しかけると、彼は手を止める。

 

「中身を見なきゃ分からんぞ」

「修理するなという指示は、誰が出したか不明だ。調査のためなら構わない。ただし、外した順番を記録してくれ」

「面倒な兵隊だな」

 

文句を言いながらも、ノルドは部品を布の上へ一つずつ並べた。

 

透明な魔石の底には、薄い金属片が挟まっていた。

硬貨より小さく、針の先ほどの穴が三つ並んでいる。

灯りの構造に必要なものには見えなかった。

ノルドはそれを爪の先で持ち上げ、窓の光に透かした。

 

「見たことがない部品ですか」

「いや。似たものなら、古い水車の回転数を数える仕掛けで見たことがある。穴の位置で、通った回数を刻むんだ」

「魔石灯の中で、何を数えるんでしょう」

「それを俺に聞くな」

 

ノルドは鼻を鳴らしたが、すぐに表情を改めた。

 

「ただ、この石が光っていたかどうかなら調べられる。割れた石でも、使った跡は残る」

 

彼は火鉢から離れた机へ魔石を置き、別の小石を近づけた。

小石の内側に淡い青が灯る。

割れた魔石は何も反応しない。

ノルドは角度を変え、今度は金属片を近づけた。

その瞬間、割れた石の奥で、青白い筋が一度だけ走った。

 

ベルクが身を乗り出す。

 

「今のは?」

「残った魔力が引っ張られた。反応したのは、この金属片だ」

「危険はないのか」

「今の程度ならな。だが、勝手に光るなら、まだ力が残ってる。これ以上は分解しない」

 

ラウネの火災で青く光ったという魔石灯の話を思い出した。

目の前の反応は、ほんの一瞬だった。

色が同じというだけで、火災と結びつけるわけにはいかない。

しかし、誰かが灯りに仕込んだらしい金属片が存在する。

これは推測ではなく、今ここで確認できた事実だった。

 

「北門の粉も、見てもらえますか」

 

ベルクが包みを差し出した。

ノルドは指先に少量を取り、皿の上へ落とす。

水を一滴垂らすと、粉は黒い筋を残して広がった。

 

「炭と、石の粉が混ざってる。柵の木が削れたときについたのかもしれん」

「魔石の粉では?」

「魔石なら、この小石に反応するはずだ」

 

彼は先ほどの小石を近づけた。

何も起こらない。

 

「少なくとも、俺が扱う普通の魔石とは違う」

 

ベルクは粉を包み直し、手帳へ結果を書いた。

北門の傷の原因は分からないままだが、魔石が残されていたという見立ては弱くなった。

そのことに落胆するより先に、作業台の木箱へ目を向けた。

三本の線と丸い印。

同じ形が二度現れたなら、偶然で片づけずに調べる価値はある。

 

「荷置き場の番人に、会いに行きたいです」

「歩けるのか」

「西の橋の手前までなら。遠ければ引き返します」

 

ベルクは肩の包帯へ視線を落とした。

 

「無理をしたら、そこで終わりだ。俺が判断して止める」

「分かりました」

 

ノルドは箱の底を指でなぞり、ふいに言った。

 

「西の荷置き場ってのは、古い街道の入口にあるやつか」

「そうだと思います」

「なら気をつけろよ。あそこは最近、荷物より先に人が消えるって噂だ」

 

ベルクの手が止まった。

 

「誰が消えた」

「知らん。見張りに行った奴が戻らないとか、翌日には別の番人になってたとか。酒場で聞いた話だ」

「名前は?」

「だから、知らんと言ってる」

 

噂話の域を出ない。

それでも、胸の内に残る冷たさを無視できなかった。

誰かがいなくなったとき、その人の名を覚えている者がいなければ、何が起きたかを確かめることさえ難しくなる。

 

*

 

西の荷置き場は、村の端から半刻ほど歩いた場所にあった。

途中、ベルクは二度足を止め、こちらの顔色を確かめた。

歩く速度を落としたため、着いたころには太陽が高く昇っていた。

 

古い石垣に囲まれた敷地には、荷車が三台並んでいる。

一台は車輪を外され、別の一台には干し草が積まれていた。

門の脇の小屋から、白髪交じりの男が顔を出した。

 

「守備隊の者だ。今朝、ノルドの工房へ箱を送ったな」

 

ベルクが尋ねると、男は目を細めた。

 

「送ったとも。壊れた灯りだろう。あれがどうかしたか」

「誰から預かった」

「先週の荷車だ。ラウネから来た荷に混ざっていた」

 

レイとベルクは顔を見合わせた。

火災のあった町の名が、ようやく具体的な荷物と結びついた。

ただし、ラウネから運ばれたことと、火災に関わったことは別だ。

ベルクは表情を変えずに続けた。

 

「送り状は残っているか」

「あるはずだ。待ってろ」

 

番人は小屋へ戻り、しばらくして分厚い帳面を持ってきた。

頁の端は指の脂で黒ずみ、日付の横には荷車の数と積み荷の種類が書き込まれている。

男が指した行には、確かにラウネの地名があった。

 

『灯具一箱。旧道北側の保管所へ』

 

その下には、受取人の署名欄がある。

そこだけが、不自然に白かった。

紙を削った跡はない。

名前が消えたのか、最初から書かれていなかったのか、帳面だけでは判別できない。

 

「受取人は誰でしたか」

「……あれ?」

 

番人が眉を寄せた。

 

「確かに、誰かが受け取りに来たんだ。俺がここへ運んだんじゃない。だが、名前が出てこない」

「顔は覚えているか」

「若い男だったような……いや、年寄りだったかもしれん」

 

彼は額を押さえ、いらだったように帳面を閉じかけた。

ベルクが手で制する。

 

「今のうちに、覚えていることだけ話してくれ」

「荷車は夕方に来た。雨が降りそうだった。受取人は、旧道の先へ運ぶと言って……」

 

番人の声が途切れた。

 

「どうしました」

「いや。おかしいな」

 

彼は敷地の奥へ目を向けた。

 

「あの道は、もう使えないはずだ」

 

石垣の切れ目から、北へ向かう細い道が伸びていた。

草が深く、荷車の轍は途中で途絶えている。

以前見つけた、消えた道標の場所とは方角が違う。

しかし、古い街道がどこかでつながっている可能性はあった。

 

「使えないというのは、道が崩れたんですか」

「崩れたんじゃない。通行止めになったんだ。十年くらい前かな。北の保管所が閉まって、それきりだ」

「理由は?」

「火事だったか、地滑りだったか……」

 

男は首を振った。

 

「すまん。はっきりしない」

 

ベルクは帳面の該当頁を書き写した。

小屋の壁に掛けられた古い地図へ目を留める。

紙は黄ばみ、端が何度も補修されていた。

村の北から西へ回り込む道が描かれ、その先に小さな四角がある。

四角の横には、文字があったはずの空間が広く残されている。

 

「この地図、見せてもらえますか」

「好きにしろ。もう使わんものだ」

 

壁から外すと、地図の裏に別の紙が貼りついていた。

補修用に重ねたものらしい。

端が少し剥がれ、下の紙に書かれた古い文字が透けている。

ベルクが灯りにかざすと、かすれた一行が読めた。

 

『北方保管所――第三倉』

 

「第三倉……」

 

ベルクが呟く。

番人は初めて聞く言葉のように首を傾げた。

 

「そんな名前だったか?」

「地図の下に残っている」

「妙だな。表の地図には何も書いてないのに」

 

紙の重なりを見つめた。

名前が消える現象と同じだと、今は言えない。

表の地図が単に書き換えられただけかもしれない。

だが、古い紙を剥がさず残したことで、誰かが失った情報の一部が守られていた。

初めて、調査が目に見える場所へ進んだ気がした。

 

そのとき、外で馬の嘶きが響いた。

続いて、荷車の軋む音。

門の外から一人の少年が飛び込んできた。

 

「おじさん! 北の道に人が倒れてる!」

 

番人が椅子を蹴って立ち上がった。

 

「どこだ!」

「通行止めの杭の向こう。荷車を引いてた人だと思う。血が……」

 

ベルクは地図を机に置いた。

 

「案内しろ。レイ、お前はここに残れ」

「でも」

「今度は譲らん。怪我人を二人に増やすわけにはいかない」

 

少年が駆け出し、ベルクと番人が後を追う。

戸口まで出たが、そこから先へは進まなかった。

悔しさはあった。

しかし、今の自分が走っても、誰かを助けるより先に足手まといになる。

それなら、戻ってきたときに必要なものを用意するほうがいい。

 

小屋の棚から清潔な布を探し、番人の許可を得て水桶を満たした。

近くで荷を積んでいた男に、村の治療所へ伝令を頼む。

男はすぐに馬へ乗り、南へ走っていった。

戸口に腰を下ろし、北の道を見つめた。

 

*

 

ベルクたちが戻ったのは、それからしばらく経ってからだった。

番人と少年が一人の男を両側から支え、ベルクが後ろで荷車を押している。

男は三十代ほどに見えた。

左脚の布が赤く染まり、顔は泥で汚れていたが、意識はあるようだった。

 

「荷車が横転した。脚を挟まれていたらしい」

 

ベルクは短く説明した。

 

「水をくれ。それと、医者は?」

「村へ使いを出しました。もう向かっているはずです」

「助かる」

 

男を小屋の長椅子へ寝かせる。

傷口へ布を当てるのはベルクに任せ、水を差し出した。

男は少し口を湿らせると、息を荒くしながら呟いた。

 

「箱を……戻さなきゃ」

「どの箱だ」

 

ベルクが尋ねる。

 

「灯りの箱だ。あれを、持っていくなって……」

「誰に言われた?」

「……分からない」

 

男の指が、何かを掴もうとするように空を動いた。

 

「俺が運んだ。確かに、あの倉まで……」

「北方保管所の第三倉か」

 

ベルクが問いかけると、男の目が大きく見開かれた。

 

「その名前を、どこで聞いた」

「古い地図に残っていた」

「嘘だ」

 

男は震える声で言った。

 

「もう、どこにも書いてないはずだ」

 

小屋の空気が変わった。

番人が息を呑み、ベルクは男の顔をじっと見つめた。

無意識に日記を押さえていた。

 

「なぜ、そう思うんですか」

 

問いかけると、男は初めてこちらを見た。

その目には、痛みとは別の恐怖が浮かんでいる。

 

「俺が消したからだ」

 

誰もすぐには言葉を返せなかった。

男は荒い呼吸を繰り返し、唇を噛んだ。

 

「地図も、帳面も、標識も。残ってた名前は、全部消せと言われた。なのに……」

 

彼はベルクの袖を掴んだ。

 

「頼む。第三倉へは行くな。あそこには、まだ――」

 

言葉が途切れた。

男は顔を歪め、目を閉じた。

ベルクが呼びかけると、かすかに頷く。

意識を失ったわけではない。

痛みで、これ以上話せないのだ。

 

「続きは医者が来てからだ」

 

ベルクは男の手をそっと外した。

 

「今は脚を助ける」

 

頷き、傷を押さえる布を新しいものへ替えた。

今聞いた言葉を忘れないよう、頭の中で繰り返す。

地図、帳面、標識。

名前を消したのは、少なくともこの男の手でもあった。

それが、世界から文字が失われる現象とどう関わるかは分からない。

けれど、これまで不可解な力のせいだと思っていた空白の一部に、人間の意思があったことだけは確かだった。

 

*

 

治療所の老人が到着したころには、日が西へ傾いていた。

男の脚は骨を痛めている可能性があり、荷車で村へ運ぶことになった。

ベルクは同行を決め、番人へ地図を預けたままにしないよう頼んだ。

 

「明日、正式に写しを取る。今日は誰にも触らせるな」

「分かった。だが、あの男は本当に第三倉を知ってるのか」

「知っているからこそ、怖がったんだろう」

 

ベルクは答え、すぐに付け加えた。

 

「ただし、話の真偽は確かめる」

 

机の地図をもう一度見た。

補修紙の下に残る『第三倉』の文字。

もし誰かが本当に、道の先にある場所を人々の記憶から遠ざけようとしているのなら、何を隠したかったのだろう。

魔石灯に仕込まれた金属片も、そのための道具なのか。

答えはまだない。

だが、調べるべき場所が初めて名前を持った。

 

帰り際、ベルクが声をかけた。

 

「今日はよく残ったな」

「……正直、走りたかったです」

「だろうな。だが、医者を呼んだのはお前だ。あいつが助かれば、それで十分だろう」

 

その言葉を聞いて、少しだけ肩の力が抜けた。

救うために前へ出ることと、救うために踏みとどまること。

どちらも選べるようにならなければ、同じ傷を何度も繰り返すだけなのだろう。

 

村へ戻る道すがら、ベルクは地図の写しを見つめていた。

 

「レイ。明日から、俺は第三倉について調べる。お前には記録を頼みたい」

「分かりました」

「ただし、誰かが名前を消そうとした場所だ。俺たちの調査も、歓迎されないかもしれん」

 

風が草を揺らし、古い道の向こうから土の匂いを運んできた。

以前、消えた道標の前に立ったときは、何が失われたのかさえ分からなかった。

今は違う。

誰かが隠した場所があり、そこへ荷物を運んだ人間がいる。

その人間は、傷を負ってなお、行くなと告げた。

 

恐れる理由が、少しずつ輪郭を持ち始めている。

 

日記を開き、今日確かめたことを記した。

 

『北方保管所、第三倉。古い地図の補修紙の下に名称が残る』

『負傷した荷運び人は、地図・帳面・標識から名前を消したと証言した』

『消去を命じた人物、理由、第三倉の現状は不明』

 

最後の一行を書き終えたとき、遠くで拍子木が鳴った。

村の見張りが交代する合図だ。

乾いた音は二度続き、やがて静かになった。

 

その静けさの中で、ふと気づいた。

男は第三倉の名前を聞いて、驚いたのではない。

その名が、まだどこかに残っていたことを恐れたのだ。

 

そして、消せと命じた誰かは、今もその名が失われたと思っているかもしれない。

 

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