世界の余白に転生した俺は、物語に存在してはいけない   作:Suinovel

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第27話 渡してはならないもの

眠れない夜には、音が増える。

廊下の板が冷えて軋む音も、薬を煮た鍋の底で水が鳴る音も、昼間なら気に留めないほど小さなものだった。

治療所の窓際で日記を閉じたあとも、負傷した荷運び人の声が耳に残っていた。

 

『番人に、渡すな』

 

何を渡してはいけないのか。

誰が渡そうとしているのか。

その二つが分からないままでは、忠告を受け取ったことにすらならない。

 

寝台へ戻ろうとしたとき、奥の部屋から陶器の触れ合う音がした。

続いて、誰かが短く咳き込む。

老人の医師が水を飲ませているのだろうと思ったが、廊下へ出ると、薬棚の前にいるはずの先生が見当たらなかった。

 

「……水を、くれ」

 

掠れた声が扉の隙間から漏れる。

 

「先生を呼んできます」

「待て」

 

足が止まった。

寝台に横たわる男は、薄闇の中でも分かるほど汗をかいていた。

左脚を固定した添え木の下で、包帯がわずかにずれている。

 

「お前、昨日の……」

「荷車のところにいました。水なら、先生に――」

「戸を閉めろ」

 

振り返って廊下を確かめた。

誰もいない。

けれど、扉を閉じる気にはなれなかった。

 

「具合が悪いなら、すぐ呼びます」

「違う。聞かれたくないんだ」

 

その目は、熱に浮かされているだけのものではなかった。

開いた扉を見つめる視線に、はっきりとした恐怖があった。

 

「誰にですか」

「……俺を運んだ奴らに」

 

息を吸いかけたところで、男の表情が歪んだ。

肩を浮かせようとしただけで、脚に痛みが走ったらしい。

 

「動かないでください。話すなら、そのままで」

「お前は、兵士じゃないのか」

「違います」

「なら……聞いてくれ。俺の荷車には、箱なんか積んでなかった」

 

昨夜、ベルクから聞いた話を思い出す。

北の旧道で倒れていた男は、第三倉へ箱を運んだと言っていた。

 

「前に運んだ箱のことですか」

「そうだ。あれは一度、届けた。なのに、戻せと言われた」

「誰に?」

 

男は唇を噛んだ。

答えようとしたとき、背後で足音がした。

 

「何をしている」

 

医師だった。

手には湯を入れた小さな壺を持っている。

男は反射的に口を閉ざし、布団を胸元まで引き上げた。

 

「目を覚ましたので、先生を呼ぼうと」

「呼ぶ前に話し込むんじゃない。熱が下がりきっておらん」

 

叱られたのは当然だった。

しかし、男の目がこちらを追っている。

何かを言い残そうとしているのが分かった。

 

「先生。少しだけ、聞いてもらえませんか」

「何をだ」

「この人、誰かを怖がっています。明日までに、ここへ来るかもしれない人のことを」

 

老人は寝台へ近づき、男の額に手を当てた。

そのまましばらく黙っていたが、やがて湯の壺を脇へ置いた。

 

「話すのは一分だ。痛みが増したら終わりにする。それでいいな」

 

男が小さく頷いた。

 

「箱は、どこにある」

 

最初の言葉は、こちらへの問いだった。

 

「魔石灯の入った箱なら、ノルドさんの工房にあります」

「違う……そっちじゃない」

 

胸の奥が冷えた。

 

「ほかにも箱が?」

「木の箱じゃない。薄い、鉄の……」

 

言いかけた唇が震える。

 

「……鍵を、渡すな」

 

そこで息が乱れた。

老人が男の肩を押さえ、こちらへ顎を向ける。

これ以上は無理だという合図だった。

 

部屋を出る直前、男がもう一度だけ口を動かした。

 

「番人は……受け取ったら、開ける」

 

扉の向こうで、医師が静かに水を飲ませ始めた。

 

*

 

朝になっても、村の西には焦げた木の匂いが残っていた。

荷置き場の火は消えているのに、道を通る人々は小屋の焼け跡を見て足を緩める。

 

ベルクが治療所へ来たのは、鐘が二度鳴ったあとだった。

昨日よりも外套の汚れが増えている。

手には煤の付いた小袋を提げていた。

 

「火元が分かった」

「放火だったんですか」

「少なくとも、火鉢の不始末じゃない。床板の下に油が染みていた。そこから燃え広がってる」

 

小袋から、黒くなった布の切れ端が出てきた。

指で広げると、油に浸した痕が残っている。

 

「棚の真下に詰め込まれていた。誰かが火をつけた可能性が高い」

「帳面が置かれていた棚ですね」

「ああ。しかも妙なことに、帳面のことを知っていた人間は少ない」

 

昨夜の負傷者の言葉を伝えた。

魔石灯とは別の、薄い鉄の箱。

そして、渡してはならない鍵。

 

「鍵、か」

 

ベルクはしばらく考え込んだ。

 

「負傷者は、荷車に箱を積んでいなかったと言っていました」

「現場で荷台は調べた。空だった。俺も見ている」

「では、何を戻しに行ったんでしょう」

「分からん。だが、少なくとも今は行き先を調べるより、何を持っていたかを確かめるべきだな」

 

小袋をしまい、戸口へ向き直った。

 

「荷置き場の番人を呼ぶ。昨日は火事で詳しく聞けなかった」

「ここへですか」

「守備隊の詰め所だ。負傷者に会わせるつもりはない」

 

その判断に少し安心した。

けれど、胸の奥の違和感は消えなかった。

 

「ベルクさん。番人には、負傷者が何を話したか伝えないでください」

「なぜだ」

「誰を怖がっているのか、まだ分かりません。先に相手へ教えるのは危険です」

 

返事の代わりに、短く頷いた。

 

「お前はここにいろ。先生にも、外から来た者を勝手に通さないよう伝えておく」

 

去っていく背中を見送る。

自分ができるのは、せいぜい見落としを減らすことだ。

それでも、誰かが見落とした一つの名前のせいで、今度こそ命を失う人がいるかもしれない。

 

*

 

昼前、リシアが薬草の束を抱えて戻ってきた。

土の付いた根を水桶へ沈めると、濡れた袖を肘までまくり上げる。

 

「先生が、昨日の人には熱を下げる薬を少し減らすって言ってました」

「落ち着いてきたの?」

「はい。でも、足の腫れはまだ強いです。無理に起きたら傷が開きます」

 

水面に浮いた葉を拾い、籠へ移した。

指先の動きは慣れている。

 

「今朝、何か話しましたか」

「少しだけ」

「怖いことを言っていませんでした?」

 

思わず顔を上げた。

 

「どうして?」

「先生に薬を渡しに行ったら、寝台の下をずっと気にしていたんです。何か落としたのかと思って覗いたら、怒られてしまって」

 

怒ったというより、触れられるのを恐れたのだろう。

 

「何かあった?」

「何も見えませんでした。でも、床の板が一枚だけ浮いていたんです。ここ、古い建物ですから」

 

胸の内側で、昨夜の言葉がつながった。

荷車には何も積んでいなかった。

薄い鉄の箱。

渡してはならない鍵。

 

「先生を呼べる?」

「え?」

「寝台の下を確かめたい。ただ、勝手に触るのはよくないから」

 

リシアは一度だけ瞬きをして、それから小さく頷いた。

 

「分かりました。私も一緒に行きます」

 

廊下の奥で、負傷者の荒い息が聞こえた。

 

*

 

老人に事情を説明すると、最初は険しい顔をされた。

だが、負傷者の寝台の下に誰かが物を隠した可能性があると伝えると、しばらく考えた末に部屋へ案内してくれた。

 

「患者の許しを取る。嫌だと言ったら、そこで終わりだ」

「はい」

 

寝台の男は、三人が入るとすぐに顔を強張らせた。

リシアが水差しを置き、声を落として話しかける。

 

「脚の具合を診るついでに、寝台の下も掃除していいですか。床板が浮いていて、足を引っかけそうなんです」

「……触るな」

「分かりました。無理にはしません」

 

すぐに引き下がった。

その態度に、男の表情がわずかに緩む。

 

「ただ、ここには先生もいます。あなたが大事にしている物なら、勝手に誰かへ渡したりしません」

 

しばらく沈黙が続いた。

窓の外で荷車が通り、車輪の軋む音が遠ざかる。

 

「……誰にも、見せたくなかった」

 

男の声は、昨日より少しだけはっきりしていた。

 

「どうしてですか」

「俺が、あそこから持ち出したからだ」

 

医師が椅子を引き寄せた。

無理に話を急がせることはしない。

 

「北方保管所から?」

 

こちらの問いに、男は頷いた。

 

「倉の奥に、鉄の箱があった。閉鎖したはずなのに、十年経っても、誰かが手入れしていた」

「中身は?」

「知らない。鍵がなかったから」

 

胸元の布を握りしめる。

 

「俺は荷を運ぶ仕事をしてる。頼まれれば、道が悪くても行く。あの倉へ灯りの箱を運んだのも、そうだった」

「戻せと言われたのは、その灯りの箱ですか」

「そうだ。だが、戻しに行ったときには、灯りはもうなかった。代わりに、鉄の箱だけが置いてあった」

 

言葉が途切れる。

 

「それを、持ち出した?」

「ああ。……俺の名前で、受け取りの印を押せと言われた。中身も知らない物に、そんなことできるか」

 

負傷者は唇を歪めた。

 

「だから持って帰った。荷車には積めなかった。小さすぎたからな。上着の中に隠したんだ」

 

あの夜、荷台が空だった理由がようやく分かった。

 

「どうして、道で倒れていたんですか」

「後ろから別の荷車が来た。すれ違おうとして、車輪を溝に落とした。相手は止まらなかった」

 

事故か、追跡か。

男自身にも分からないのだろう。

 

「その鉄の箱が、ここにあるんですね」

 

長い沈黙のあと、寝台の下へ目が向いた。

 

「……床板の隙間だ。誰かが探しに来る前に、隠した」

 

医師が屈み込み、板の端をそっと持ち上げた。

乾いた埃が舞い、薄い鉄の容器が姿を現す。

掌二つ分ほどの大きさで、蓋には錆びた留め金が付いていた。

木の箱ではない。

装飾もない。

ただ、側面に小さな穴が三つ、わずかに高さをずらして開いている。

 

ノルドの工房で見た金属片と、同じ並びだった。

 

「……これです」

 

思わず声が漏れた。

 

「何が?」

 

リシアが顔を上げる。

 

「魔石灯の中に、似た形の部品がありました」

 

医師は鉄の箱を床へ戻さず、布の上にそっと置いた。

 

「これ以上は兵士に見せたほうがいいな。患者の物を勝手に開けるつもりはない」

 

男は目を閉じたまま、かすかに首を振った。

 

「兵士も……信用できるとは限らない」

 

その言葉に、リシアが手を止めた。

 

「なら、あなたが選んでください。誰に見せるか。誰に預けるか」

 

しばらくして、男が目を開けた。

こちらではなく、彼女を見ている。

 

「……あんたは、ここで働いてるのか」

「はい。先生のお手伝いをしています」

「だったら、あんたが持っててくれ。誰かが来たら、知らないと言ってくれ」

 

一瞬、リシアの表情が曇った。

 

「嘘はつけません」

 

意外なほどはっきりした声だった。

 

「でも、あなたの許しなく渡しません。それなら約束できます」

 

男の肩から、わずかに力が抜けた。

 

「……それでいい」

 

*

 

ベルクが戻ってきたのは、午後の陽が傾き始めたころだった。

鉄の箱は医師の立ち会いのもと、布に包んで薬棚の鍵付きの引き出しに収めてある。

負傷者自身が、ベルクには見せてもいいと許した。

 

「荷置き場の番人は?」

「逃げた」

 

思わず息を止めた。

 

「呼びに行った兵士が、小屋の裏で荷物をまとめているところを見つけた。止まれと言ったら、塀を越えて逃げたそうだ」

「捕まったんですか」

「まだだ。村の外へ出る道は見張らせている」

 

ベルクは机に手をついた。

 

「それで、鉄の箱というのは」

 

事情を話すと、医師が引き出しから包みを取り出した。

負傷者の承諾を改めて確認し、留め金には触れずに外側だけを調べる。

 

「三つの穴……」

 

ベルクが顔を近づけた。

 

「魔石灯の部品と同じです。ただ、穴の位置を見ただけなので、合うかどうかまでは」

「ノルドに見せたい。だが、ここから持ち出すのは危険だな」

 

そのとき、リシアが口を開いた。

 

「ノルドさんに来てもらうのはどうですか」

 

ベルクが顔を上げる。

 

「工房から道具を運べるか、聞いてみます。患者さんも、ここなら落ち着いていられますし」

 

それが一番よかった。

誰かが箱を狙っているのなら、運搬するだけで危険が増える。

 

「俺が呼んでくる。お前たちは、箱を開けるなよ」

 

ベルクが出ていくと、部屋には薬草の匂いと静けさが戻った。

 

「さっきの人、ずっと手を震わせていました」

 

リシアが小さな声で言った。

 

「怖いんだと思う」

「はい。でも、私に預けるって言ってくれたとき、少しだけ安心したみたいでした」

 

窓の外を見た。

焼けた荷置き場の向こうには、畑と丘が続いている。

あの先にあるはずの第三倉は、まだ姿を見せない。

それでも、そこから持ち出された物だけが、少しずつ村へ集まってきていた。

 

*

 

夕刻、ノルドが工具箱を抱えて治療所へ現れた。

足音も荒く、部屋へ入るなり机の上の布包みを睨む。

 

「これか。俺の工房にある灯りと同じ印だってのは」

「印じゃなくて、穴の並びです」

「穴?」

 

布を開くと、すぐに顔つきが変わった。

小さな定規を取り出し、三つの穴の間隔を測る。

それから懐から薄い金属片を出した。

魔石灯の内部で見つかった部品だった。

 

「やっぱりな」

 

金属片を箱の側面に重ねる。

三つの穴が、ぴたりと一致した。

 

「鍵なんですか」

「鍵の一部だ。だが、これだけじゃ開かない。裏の四本の刻みが、内側の爪を動かす仕掛けになってるはずだ」

 

ノルドは金属片を外し、指先で刻みをなぞった。

 

「魔石灯の中に、なぜ鍵が?」

「隠すためだろうな。普通の修理屋なら、こんな部品を見つけても用途が分からん。しかも修理するなと書かれていた」

 

ベルクの表情が険しくなる。

 

「開けられるか」

「開けられる。だが、箱の中に何があるか分からん。力をかけていいものかどうかもな」

 

沈黙が落ちた。

 

「明日まで待つか」

 

ベルクの問いに、ノルドは首を横に振った。

 

「待つなら、先に見せたいものがある」

 

工具箱の底から、一枚の薄い紙を取り出した。

折り目の付いた紙には、細かな寸法と、四本の線が描かれている。

 

「今日、井戸のそばの石を測った。ベルクが持ってきた寸法を見て、昔の図面を探したんだ」

 

紙の中央には、四角い土台と丸いくぼみ。

四隅に長さの異なる溝がある。

 

「これ、どこかで見たことがあるんですか」

「昔の水車の回転計だ。正確には、その土台だな。上に箱を固定して、通った回数を記録する。今じゃほとんど使わん」

 

鉄の箱へ目を戻した。

小さな穴が三つ。

四本の刻み。

十年前に閉鎖された保管所。

 

「つまり、第三倉に運ばれた荷を数えていた?」

「それだけなら、わざわざこんな仕掛けにする必要はない」

 

ノルドは紙の下端を指で叩いた。

そこに、小さな文字が書かれている。

 

『通過記録器 北方保管所・第三倉 外部計数台』

 

ベルクが息を呑んだ。

 

「第三倉の外に、これがあったのか」

「図面にはそうある。だが、もっと変なのはその下だ」

 

指先が、最後の一行へ移る。

 

『搬入数ではなく、退出数を記録すること』

 

喉の奥が乾いた。

荷を運び込む倉庫で、出ていくものだけを数える。

それが何を意味するのか考えるより先に、奥の寝台から声がした。

 

「……開けるな」

 

負傷者が、扉の隙間からこちらを見ていた。

 

「箱を開けるな。中にあるのは、荷の記録じゃない」

 

ノルドの手が止まる。

 

「じゃあ、何が入ってる」

 

男は青ざめた顔で、言葉を絞り出した。

 

「第三倉から……出てきた人間の、名前だ」

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