世界の余白に転生した俺は、物語に存在してはいけない 作:Suinovel
眠れない夜には、音が増える。
廊下の板が冷えて軋む音も、薬を煮た鍋の底で水が鳴る音も、昼間なら気に留めないほど小さなものだった。
治療所の窓際で日記を閉じたあとも、負傷した荷運び人の声が耳に残っていた。
『番人に、渡すな』
何を渡してはいけないのか。
誰が渡そうとしているのか。
その二つが分からないままでは、忠告を受け取ったことにすらならない。
寝台へ戻ろうとしたとき、奥の部屋から陶器の触れ合う音がした。
続いて、誰かが短く咳き込む。
老人の医師が水を飲ませているのだろうと思ったが、廊下へ出ると、薬棚の前にいるはずの先生が見当たらなかった。
「……水を、くれ」
掠れた声が扉の隙間から漏れる。
「先生を呼んできます」
「待て」
足が止まった。
寝台に横たわる男は、薄闇の中でも分かるほど汗をかいていた。
左脚を固定した添え木の下で、包帯がわずかにずれている。
「お前、昨日の……」
「荷車のところにいました。水なら、先生に――」
「戸を閉めろ」
振り返って廊下を確かめた。
誰もいない。
けれど、扉を閉じる気にはなれなかった。
「具合が悪いなら、すぐ呼びます」
「違う。聞かれたくないんだ」
その目は、熱に浮かされているだけのものではなかった。
開いた扉を見つめる視線に、はっきりとした恐怖があった。
「誰にですか」
「……俺を運んだ奴らに」
息を吸いかけたところで、男の表情が歪んだ。
肩を浮かせようとしただけで、脚に痛みが走ったらしい。
「動かないでください。話すなら、そのままで」
「お前は、兵士じゃないのか」
「違います」
「なら……聞いてくれ。俺の荷車には、箱なんか積んでなかった」
昨夜、ベルクから聞いた話を思い出す。
北の旧道で倒れていた男は、第三倉へ箱を運んだと言っていた。
「前に運んだ箱のことですか」
「そうだ。あれは一度、届けた。なのに、戻せと言われた」
「誰に?」
男は唇を噛んだ。
答えようとしたとき、背後で足音がした。
「何をしている」
医師だった。
手には湯を入れた小さな壺を持っている。
男は反射的に口を閉ざし、布団を胸元まで引き上げた。
「目を覚ましたので、先生を呼ぼうと」
「呼ぶ前に話し込むんじゃない。熱が下がりきっておらん」
叱られたのは当然だった。
しかし、男の目がこちらを追っている。
何かを言い残そうとしているのが分かった。
「先生。少しだけ、聞いてもらえませんか」
「何をだ」
「この人、誰かを怖がっています。明日までに、ここへ来るかもしれない人のことを」
老人は寝台へ近づき、男の額に手を当てた。
そのまましばらく黙っていたが、やがて湯の壺を脇へ置いた。
「話すのは一分だ。痛みが増したら終わりにする。それでいいな」
男が小さく頷いた。
「箱は、どこにある」
最初の言葉は、こちらへの問いだった。
「魔石灯の入った箱なら、ノルドさんの工房にあります」
「違う……そっちじゃない」
胸の奥が冷えた。
「ほかにも箱が?」
「木の箱じゃない。薄い、鉄の……」
言いかけた唇が震える。
「……鍵を、渡すな」
そこで息が乱れた。
老人が男の肩を押さえ、こちらへ顎を向ける。
これ以上は無理だという合図だった。
部屋を出る直前、男がもう一度だけ口を動かした。
「番人は……受け取ったら、開ける」
扉の向こうで、医師が静かに水を飲ませ始めた。
*
朝になっても、村の西には焦げた木の匂いが残っていた。
荷置き場の火は消えているのに、道を通る人々は小屋の焼け跡を見て足を緩める。
ベルクが治療所へ来たのは、鐘が二度鳴ったあとだった。
昨日よりも外套の汚れが増えている。
手には煤の付いた小袋を提げていた。
「火元が分かった」
「放火だったんですか」
「少なくとも、火鉢の不始末じゃない。床板の下に油が染みていた。そこから燃え広がってる」
小袋から、黒くなった布の切れ端が出てきた。
指で広げると、油に浸した痕が残っている。
「棚の真下に詰め込まれていた。誰かが火をつけた可能性が高い」
「帳面が置かれていた棚ですね」
「ああ。しかも妙なことに、帳面のことを知っていた人間は少ない」
昨夜の負傷者の言葉を伝えた。
魔石灯とは別の、薄い鉄の箱。
そして、渡してはならない鍵。
「鍵、か」
ベルクはしばらく考え込んだ。
「負傷者は、荷車に箱を積んでいなかったと言っていました」
「現場で荷台は調べた。空だった。俺も見ている」
「では、何を戻しに行ったんでしょう」
「分からん。だが、少なくとも今は行き先を調べるより、何を持っていたかを確かめるべきだな」
小袋をしまい、戸口へ向き直った。
「荷置き場の番人を呼ぶ。昨日は火事で詳しく聞けなかった」
「ここへですか」
「守備隊の詰め所だ。負傷者に会わせるつもりはない」
その判断に少し安心した。
けれど、胸の奥の違和感は消えなかった。
「ベルクさん。番人には、負傷者が何を話したか伝えないでください」
「なぜだ」
「誰を怖がっているのか、まだ分かりません。先に相手へ教えるのは危険です」
返事の代わりに、短く頷いた。
「お前はここにいろ。先生にも、外から来た者を勝手に通さないよう伝えておく」
去っていく背中を見送る。
自分ができるのは、せいぜい見落としを減らすことだ。
それでも、誰かが見落とした一つの名前のせいで、今度こそ命を失う人がいるかもしれない。
*
昼前、リシアが薬草の束を抱えて戻ってきた。
土の付いた根を水桶へ沈めると、濡れた袖を肘までまくり上げる。
「先生が、昨日の人には熱を下げる薬を少し減らすって言ってました」
「落ち着いてきたの?」
「はい。でも、足の腫れはまだ強いです。無理に起きたら傷が開きます」
水面に浮いた葉を拾い、籠へ移した。
指先の動きは慣れている。
「今朝、何か話しましたか」
「少しだけ」
「怖いことを言っていませんでした?」
思わず顔を上げた。
「どうして?」
「先生に薬を渡しに行ったら、寝台の下をずっと気にしていたんです。何か落としたのかと思って覗いたら、怒られてしまって」
怒ったというより、触れられるのを恐れたのだろう。
「何かあった?」
「何も見えませんでした。でも、床の板が一枚だけ浮いていたんです。ここ、古い建物ですから」
胸の内側で、昨夜の言葉がつながった。
荷車には何も積んでいなかった。
薄い鉄の箱。
渡してはならない鍵。
「先生を呼べる?」
「え?」
「寝台の下を確かめたい。ただ、勝手に触るのはよくないから」
リシアは一度だけ瞬きをして、それから小さく頷いた。
「分かりました。私も一緒に行きます」
廊下の奥で、負傷者の荒い息が聞こえた。
*
老人に事情を説明すると、最初は険しい顔をされた。
だが、負傷者の寝台の下に誰かが物を隠した可能性があると伝えると、しばらく考えた末に部屋へ案内してくれた。
「患者の許しを取る。嫌だと言ったら、そこで終わりだ」
「はい」
寝台の男は、三人が入るとすぐに顔を強張らせた。
リシアが水差しを置き、声を落として話しかける。
「脚の具合を診るついでに、寝台の下も掃除していいですか。床板が浮いていて、足を引っかけそうなんです」
「……触るな」
「分かりました。無理にはしません」
すぐに引き下がった。
その態度に、男の表情がわずかに緩む。
「ただ、ここには先生もいます。あなたが大事にしている物なら、勝手に誰かへ渡したりしません」
しばらく沈黙が続いた。
窓の外で荷車が通り、車輪の軋む音が遠ざかる。
「……誰にも、見せたくなかった」
男の声は、昨日より少しだけはっきりしていた。
「どうしてですか」
「俺が、あそこから持ち出したからだ」
医師が椅子を引き寄せた。
無理に話を急がせることはしない。
「北方保管所から?」
こちらの問いに、男は頷いた。
「倉の奥に、鉄の箱があった。閉鎖したはずなのに、十年経っても、誰かが手入れしていた」
「中身は?」
「知らない。鍵がなかったから」
胸元の布を握りしめる。
「俺は荷を運ぶ仕事をしてる。頼まれれば、道が悪くても行く。あの倉へ灯りの箱を運んだのも、そうだった」
「戻せと言われたのは、その灯りの箱ですか」
「そうだ。だが、戻しに行ったときには、灯りはもうなかった。代わりに、鉄の箱だけが置いてあった」
言葉が途切れる。
「それを、持ち出した?」
「ああ。……俺の名前で、受け取りの印を押せと言われた。中身も知らない物に、そんなことできるか」
負傷者は唇を歪めた。
「だから持って帰った。荷車には積めなかった。小さすぎたからな。上着の中に隠したんだ」
あの夜、荷台が空だった理由がようやく分かった。
「どうして、道で倒れていたんですか」
「後ろから別の荷車が来た。すれ違おうとして、車輪を溝に落とした。相手は止まらなかった」
事故か、追跡か。
男自身にも分からないのだろう。
「その鉄の箱が、ここにあるんですね」
長い沈黙のあと、寝台の下へ目が向いた。
「……床板の隙間だ。誰かが探しに来る前に、隠した」
医師が屈み込み、板の端をそっと持ち上げた。
乾いた埃が舞い、薄い鉄の容器が姿を現す。
掌二つ分ほどの大きさで、蓋には錆びた留め金が付いていた。
木の箱ではない。
装飾もない。
ただ、側面に小さな穴が三つ、わずかに高さをずらして開いている。
ノルドの工房で見た金属片と、同じ並びだった。
「……これです」
思わず声が漏れた。
「何が?」
リシアが顔を上げる。
「魔石灯の中に、似た形の部品がありました」
医師は鉄の箱を床へ戻さず、布の上にそっと置いた。
「これ以上は兵士に見せたほうがいいな。患者の物を勝手に開けるつもりはない」
男は目を閉じたまま、かすかに首を振った。
「兵士も……信用できるとは限らない」
その言葉に、リシアが手を止めた。
「なら、あなたが選んでください。誰に見せるか。誰に預けるか」
しばらくして、男が目を開けた。
こちらではなく、彼女を見ている。
「……あんたは、ここで働いてるのか」
「はい。先生のお手伝いをしています」
「だったら、あんたが持っててくれ。誰かが来たら、知らないと言ってくれ」
一瞬、リシアの表情が曇った。
「嘘はつけません」
意外なほどはっきりした声だった。
「でも、あなたの許しなく渡しません。それなら約束できます」
男の肩から、わずかに力が抜けた。
「……それでいい」
*
ベルクが戻ってきたのは、午後の陽が傾き始めたころだった。
鉄の箱は医師の立ち会いのもと、布に包んで薬棚の鍵付きの引き出しに収めてある。
負傷者自身が、ベルクには見せてもいいと許した。
「荷置き場の番人は?」
「逃げた」
思わず息を止めた。
「呼びに行った兵士が、小屋の裏で荷物をまとめているところを見つけた。止まれと言ったら、塀を越えて逃げたそうだ」
「捕まったんですか」
「まだだ。村の外へ出る道は見張らせている」
ベルクは机に手をついた。
「それで、鉄の箱というのは」
事情を話すと、医師が引き出しから包みを取り出した。
負傷者の承諾を改めて確認し、留め金には触れずに外側だけを調べる。
「三つの穴……」
ベルクが顔を近づけた。
「魔石灯の部品と同じです。ただ、穴の位置を見ただけなので、合うかどうかまでは」
「ノルドに見せたい。だが、ここから持ち出すのは危険だな」
そのとき、リシアが口を開いた。
「ノルドさんに来てもらうのはどうですか」
ベルクが顔を上げる。
「工房から道具を運べるか、聞いてみます。患者さんも、ここなら落ち着いていられますし」
それが一番よかった。
誰かが箱を狙っているのなら、運搬するだけで危険が増える。
「俺が呼んでくる。お前たちは、箱を開けるなよ」
ベルクが出ていくと、部屋には薬草の匂いと静けさが戻った。
「さっきの人、ずっと手を震わせていました」
リシアが小さな声で言った。
「怖いんだと思う」
「はい。でも、私に預けるって言ってくれたとき、少しだけ安心したみたいでした」
窓の外を見た。
焼けた荷置き場の向こうには、畑と丘が続いている。
あの先にあるはずの第三倉は、まだ姿を見せない。
それでも、そこから持ち出された物だけが、少しずつ村へ集まってきていた。
*
夕刻、ノルドが工具箱を抱えて治療所へ現れた。
足音も荒く、部屋へ入るなり机の上の布包みを睨む。
「これか。俺の工房にある灯りと同じ印だってのは」
「印じゃなくて、穴の並びです」
「穴?」
布を開くと、すぐに顔つきが変わった。
小さな定規を取り出し、三つの穴の間隔を測る。
それから懐から薄い金属片を出した。
魔石灯の内部で見つかった部品だった。
「やっぱりな」
金属片を箱の側面に重ねる。
三つの穴が、ぴたりと一致した。
「鍵なんですか」
「鍵の一部だ。だが、これだけじゃ開かない。裏の四本の刻みが、内側の爪を動かす仕掛けになってるはずだ」
ノルドは金属片を外し、指先で刻みをなぞった。
「魔石灯の中に、なぜ鍵が?」
「隠すためだろうな。普通の修理屋なら、こんな部品を見つけても用途が分からん。しかも修理するなと書かれていた」
ベルクの表情が険しくなる。
「開けられるか」
「開けられる。だが、箱の中に何があるか分からん。力をかけていいものかどうかもな」
沈黙が落ちた。
「明日まで待つか」
ベルクの問いに、ノルドは首を横に振った。
「待つなら、先に見せたいものがある」
工具箱の底から、一枚の薄い紙を取り出した。
折り目の付いた紙には、細かな寸法と、四本の線が描かれている。
「今日、井戸のそばの石を測った。ベルクが持ってきた寸法を見て、昔の図面を探したんだ」
紙の中央には、四角い土台と丸いくぼみ。
四隅に長さの異なる溝がある。
「これ、どこかで見たことがあるんですか」
「昔の水車の回転計だ。正確には、その土台だな。上に箱を固定して、通った回数を記録する。今じゃほとんど使わん」
鉄の箱へ目を戻した。
小さな穴が三つ。
四本の刻み。
十年前に閉鎖された保管所。
「つまり、第三倉に運ばれた荷を数えていた?」
「それだけなら、わざわざこんな仕掛けにする必要はない」
ノルドは紙の下端を指で叩いた。
そこに、小さな文字が書かれている。
『通過記録器 北方保管所・第三倉 外部計数台』
ベルクが息を呑んだ。
「第三倉の外に、これがあったのか」
「図面にはそうある。だが、もっと変なのはその下だ」
指先が、最後の一行へ移る。
『搬入数ではなく、退出数を記録すること』
喉の奥が乾いた。
荷を運び込む倉庫で、出ていくものだけを数える。
それが何を意味するのか考えるより先に、奥の寝台から声がした。
「……開けるな」
負傷者が、扉の隙間からこちらを見ていた。
「箱を開けるな。中にあるのは、荷の記録じゃない」
ノルドの手が止まる。
「じゃあ、何が入ってる」
男は青ざめた顔で、言葉を絞り出した。
「第三倉から……出てきた人間の、名前だ」