世界の余白に転生した俺は、物語に存在してはいけない 作:Suinovel
窓の外はまだ青く、屋根の端から落ちた夜露が石畳を濡らしている。
枕元の日記を開くと、昨夜書いた三つの名前が残っていた。
オルデン。
ダレン。
レイ。
最後の一つだけ、指でなぞる。
紙に触れたところで、誰かの記憶を確かめられるわけではない。
それでも文字があることに、少しだけ息をつけた。
廊下へ出ると、薬草を煮る匂いがした。
鍋の前にいた医師が、こちらを見もせずに言う。
「歩き方が昨日よりましだな」
「痛み止めが効いているだけかもしれません」
「それが分かっているなら、無茶はせんだろう」
信用されていないらしい。
実際、胸を張って否定できるほど行儀のいい患者でもなかった。
「ダレンさんは?」
「熱は下がった。脚はまだ動かせんが、昨夜ほど怯えてはいない」
「名前を書いた紙は……」
「ああ。あの子から聞いた。まだ見ておらん」
薬匙を置き、ようやく顔が上がった。
「何か心当たりがあるのか」
「確かめたいことがあります。ただ、本人が嫌がるならやめます」
「当然だ」
奥の部屋へ向かう前に、医師はもう一つ付け加えた。
「人を調べるために、人を傷つけるなよ」
返事はすぐに出なかった。
昨日まで、名前を確かめることを手掛かりだと考えていた。
けれど、ダレンにとっては自分が自分であると信じるための、最後の頼みだったのかもしれない。
*
寝台の脇には、四つ折りにした紙が置かれていた。
窓際で布を絞っていたリシアが、足音に気づいて振り返る。
「おはようございます。今、包帯を替えるところです」
「邪魔なら後にするよ」
「少し待ってもらえれば。……あの紙のことですよね」
頷くと、寝台から声がした。
「見たいなら見ろ。俺が頼んだんだ」
ダレンは目を開けていた。
昨日より頬に色が戻っている。
ただ、枕元の紙へ向ける視線だけは、ひどく硬かった。
「先に、確認してもいいですか」
「何をだ」
「今、自分の名前を覚えていますか」
不快そうに眉が寄る。
当然の反応だった。
「ダレンだ。昨日も言った」
「はい。すみません」
「……夜中に、妙な夢を見た」
言いかけて、口を閉じる。
リシアが新しい包帯を結び終えるまで待ってから、続きを聞いた。
「知らない男が、俺の名を呼んでた。顔は見えない。呼ばれるたびに、何て返せばいいか分からなくなった」
「それで、紙を?」
「起きてからだ。夢と現実を混ぜたくなかった」
枕元へ手を伸ばすのを見て、慌てて止めた。
脚に響かないよう、代わりに紙を取る。
「開いても?」
「ああ」
折り目を広げた。
中央には、リシアの整った字で『ダレン』とある。
滲みも欠けもない。
裏にも、紙を透かして見える文字以外は何もなかった。
「残ってるんですね」
安堵した声が自分でも意外だった。
「消えると思っていたのか」
ダレンがこちらを見た。
「消えるものも、あるので」
「名前が?」
「……はい」
少しの沈黙のあと、笑いとも咳ともつかない息が漏れた。
「なら、残ってるうちにもう一枚書いといてくれ。俺の字でもいい」
冗談めかした口調だったが、手は震えていた。
リシアが小さな板と筆を差し出す。
ダレンは右手で筆を握り、膝の上に置いた紙へゆっくり文字を書いた。
『ダレン』
最初の一画が歪み、最後の文字が少し右へ傾いた。
それでも、確かに同じ名前だった。
「これで二枚だ」
「片方は先生に預けますか」
「いや。二枚ともここに置く」
言い切ってから、少し考え直したらしい。
「……一枚は、あんたが持っててくれ」
差し出された紙を受け取る。
「俺がまた妙なことを言い出したら、見せてほしい」
「分かりました」
日記に挟む前に、紙の端へ小さく日付を書き添えた。
誰が書いたか、いつ書いたか。
名前だけでは足りないのだと、昨日のリシアの言葉が教えていた。
*
昼近く、守備隊の詰め所から使いが来た。
西の丘で見つけた木札について、ノルドが話したいことがあるという。
医師に外出を申し出ると、返事は短かった。
「駄目だ」
「まだ行き先も言っていません」
「お前が行きたがる場所は、大抵ろくでもない」
結局、詰め所ではなく治療所へ来てもらうことになった。
ノルドが持ち込んだのは、木札そのものではなく、薄い紙に写した二つの図だった。
一つは井戸から回収した札の輪郭。
もう一つは、古い通過記録器の部品図だ。
「札の穴、二つあったろ。あれは紐を通すためのものじゃなかった」
「では、何に使うんですか」
「金具に留める。取り外しできる記録板の端だ」
図の上に指が置かれる。
二つの穴の間隔が、部品図の留め具と一致していた。
「井戸のそばにあった計数台のものですか」
「たぶんな。ただし、これを見ろ」
紙を横に滑らせる。
古い図面には、木札をはめ込む場所が二つ描かれていた。
一方には『通過』、もう一方には『照合』とある。
「照合?」
「数えたものが正しいか確かめることだ。人を数えるだけなら、こんな板は要らん。番号札を合わせる仕掛けだったんだろう」
「名前を照らし合わせていた?」
「そこまでは分からん。木札の文字は削られてるからな」
削り跡の写しを見つめる。
表面を平らにしたのではなく、何かを消すために刃を入れたような筋が残っていた。
「削ったのは、誰でしょう」
「それを俺に聞くな」
もっともだった。
「ただ、木は古い。今朝削ったものじゃない。表面の傷にまで泥が染みていた」
十年前のものか、それより後か。
時間までは分からない。
それでも、文字を消した行為が昨夜の火事だけに結びつくわけではないと分かった。
「それと、鍵の金属片はどうなりました?」
「ベルクが持ってる。鉄の箱とは別にしてある」
頷いたとき、外から複数の足音が近づいた。
戸口に立った兵士が、ノルドへ声をかける。
「西の丘で、もう一つ見つかった。隊長が来てほしいそうだ」
「また土台か?」
「違う。土台の下だ」
兵士はそこでこちらへ目を向けた。
「……お前にも、話を聞いておけと言われている」
胸の奥がざわつく。
「何が出たんですか」
「紙だ。石の下に、油布で包んであった」
*
ベルクが戻ったのは夕方だった。
濡れた外套を脱ぐと、医師の許可を得て小さな診察室へ入る。
机には先ほどの図面が残っていた。
「土台の下を掘ったんですか」
「持ち主の許しを取って、石の縁だけな。中央は動かしていない」
差し出された包みは、手のひらほどの大きさだった。
油布の端に土がこびりついている。
中には薄い紙が三枚、重ねて入っていた。
「湿気で傷んでる。触るなら端だけにしろ」
一枚目には数字が並んでいた。
縦の列に日付らしい記号、横に短い線がいくつもある。
その末尾だけ、見慣れた丸い印と三本線が押されていた。
「退出数ですか」
「そう見える。だが、問題は二枚目だ」
紙がめくられる。
そこには、二つの欄があった。
左は『通過者』。
右は『照合者』。
左側には名前が六つ記されている。
そのうち四つは墨が薄れ、判読できない。
残る二つの一方に、オルデンとあった。
「……本当に、名前が」
「ああ。ダレンの証言と一致する部分が出た」
右側の欄には、名前の代わりに短い数字が並んでいる。
一、二、三。
ところどころに、斜めの線で消された数字があった。
「照合者は番号で管理されていた?」
「それとも、人ではなく札の番号かもしれん」
ベルクの指が最後の行を示した。
「ここを見ろ」
オルデンの名の横だけ、右欄が空白だった。
ただし、何も書かれなかった空白ではない。
紙の表面が毛羽立ち、刃物で薄く削られている。
「木札と同じように……」
「そうだ。文字を消してる」
三枚目は、さらに奇妙だった。
中央に短い文が一つだけ残っている。
『照合不能の場合、退出の承認を保留する』
「承認?」
「人が倉から出るのに、誰かの許しが要ったのかもしれん」
ベルクの声は低かった。
「でも、ダレンさんは第三倉に入って、出てきています」
「今の仕組みが十年前と同じとは限らん。そもそも、あいつが入った場所と、記録の対象が同じかも分からん」
紙の縁には小さな穴が開いていた。
何度も綴じ直したのか、周囲が擦り切れている。
一枚目の数字は、最後の日付だけが途中で途切れていた。
「この紙は、いつのものですか」
「十年前の閉鎖より少し前だろう。紙の端に年号が残っている」
「では、閉鎖のときに隠された?」
「可能性はある。オルデンの家があった場所だ。誰かが、見つけられるように残したのかもしれん」
見つけられるように。
それなら、なぜ土台の下に埋めたのだろう。
持ち主が死ぬまで隠すつもりだったのか。
それとも、見つけてほしくない誰かから守るためだったのか。
「最後の紙に、続きはありませんか」
「裏は白い」
そう言いながら裏返された紙の端に、小さな文字が見えた。
湿気で滲み、ほとんど読めない。
顔を寄せると、二文字だけがかろうじて残っていた。
『返却』
その下には、線が引かれている。
何かの名を書き込む欄だったように見えた。
「何を返すんでしょう」
「分からん。だが、倉庫なら荷だろう」
言葉にしようとして、ためらった。
第三倉は荷を保管する場所だった。
それなのに、出ていく人間を数え、照合し、退出を承認していた。
返すものが荷物とは限らない。
「ベルクさん。第三倉の記録を調べるなら、先にダレンさんの名前を守ってください」
「どういう意味だ」
「昨夜、自分の名前を紙に書いてほしいと頼んだんです。本人も、何かを恐れています」
今朝の二枚の紙について話した。
リシアの筆跡で一枚。
本人の筆跡で一枚。
どちらも朝には残っていたことも。
「その紙は今どこにある」
「一枚は枕元。もう一枚は、俺の日記に挟んでいます」
「分かった。俺の手帳にも書いておく。ただし、本人の許しを取ってからだ」
その返事に、肩の力が抜けた。
誰かの名を守るために、その人の意思を奪ってはいけない。
朝、医師に言われたことを思い出す。
*
日が落ちる前に、ダレンの部屋を訪ねた。
リシアが薬を飲ませたばかりで、寝台の脇には空の杯がある。
「ベルクさんが、あなたの名前を記録しておきたいそうです」
「……また、俺の名前か」
「嫌なら断れます」
少し考えたあと、枕元の紙を見た。
「書いてくれ。俺が頼んだってことも、書いといてくれ」
「分かりました」
医師が新しい紙を用意してくれた。
ベルクは目の前で『ダレン』と記し、本人の承諾を得た日付を添える。
その紙を守備隊の封筒へ入れようとしたとき、寝台から小さな声がした。
「……あの倉の帳面にも、そういうのがあった」
手が止まる。
「名前の横に、何か書いてあったんですか」
「違う。紙が、二枚ずつあったんだ」
ダレンは目を閉じ、思い出すように眉を寄せた。
「同じ名前が、別の頁にも書いてあった。一枚は普通の字で、もう一枚は……赤い線で囲われてた」
「オルデンの名前だけではなかった?」
「いや、あれだけだと思った。でも、端のほうに、同じような赤い線がいくつもあった」
今までの証言と少し違う。
けれど、熱の中で見た記憶を責めても仕方がなかった。
「今、思い出したんですね」
「ああ。紙を見たら……」
声が途切れる。
「俺の名前も、あそこにあったらどうする」
誰もすぐに答えなかった。
「まだ見つかっていません」
ようやく、それだけ言った。
「見つかったら、教えてくれ。隠さないでくれよ」
「約束します」
こちらの言葉を聞いて、ダレンは目を閉じた。
ベルクも、それ以上は尋ねなかった。
部屋を出ると、リシアが廊下の壁に寄りかかっていた。
「怖がっていましたね」
「うん」
「でも、話してくれました」
薬草の匂いが、薄暗い廊下に漂っている。
「名前が残っていれば安心できると思っていたけど、それだけじゃないのかもしれない」
「どういうことですか」
「誰が書いたか。誰に見せるか。本人がそれを知っているか。全部、大事なんだと思う」
リシアは少し考えてから、頷いた。
「だから、明日も聞きます。お名前は、ダレンさんで合っていますかって」
「毎日?」
「はい。嫌がられたらやめますけど」
真面目な顔だった。
その言葉に、胸が少しだけ温かくなる。
「きっと、助かると思う」
答えると、彼女は控えめに笑った。
*
夜、日記へ今日の出来事を書き写した。
土台の下から出た三枚の紙。
退出の承認。
照合者の番号。
オルデンの名の横だけ削られた欄。
そして、二枚ずつ記されたという名前。
最後に、ダレンから預かった紙を取り出す。
自分で書いた『ダレン』の文字は、朝と同じ形で残っていた。
ふと、三枚目の記録にあった『返却』という文字を思い出した。
返却とは、もともと持っていたものを持ち主へ戻すことだ。
もし第三倉が、何かを人から預かっていたのだとしたら。
そこから出るとき、返されるべきものは何だったのだろう。
そのとき、戸を叩く音がした。
「起きてるか」
ベルクの声だった。
こんな時間に戻ってくるのは珍しい。
扉を開けると、手帳ではなく、細長い紙片を持っていた。
「さっき、閉鎖記録の破れた印を調べ直した。紙の下に、薄い写しが挟まってたんだ」
「写し?」
「印の名前は読めない。だが、役職だけは残っていた」
差し出された紙には、かすれた二文字があった。
『照合』
その下に続く文字は、端が破れていた。
けれど、最後の一字だけが残っている。
『人』
「照合人……?」
「そう読める。閉鎖を確認したのは、ただの役人じゃなかったのかもしれん」
息を呑む。
木札を照らし合わせ、退出を承認する者。
ダレンが恐れていた『番人』という言葉が、別の重みを持って胸に落ちた。
「それと、もう一つある」
紙片の裏がこちらへ向けられた。
短い注意書きが、細い文字で残っている。
『照合人不在時、返却を行わないこと』
窓の外で風が鳴った。
第三倉から出るために必要だったのは、鍵だけではなかった。
誰かが、何かを返す役目を負っていた。
その誰かが今もいるのなら。
鉄の箱を開けることは、ただ中身を見るだけでは済まないのかもしれない。