世界の余白に転生した俺は、物語に存在してはいけない   作:Suinovel

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第30話 返却されなかったもの

『照合人不在時、返却を行わないこと』

 

紙片を持つ指に、わずかな力が入った。

夜の治療所は静かだった。

廊下の奥では医師が薬瓶を片づけているらしく、ときおり硝子の触れ合う音が聞こえる。

ベルクから受け取った紙には、破れた縁を避けるように細い文字が残っていた。

 

「これ、閉鎖命令の裏に挟まっていたんですよね」

「ああ。紙同士が貼りついていて気づかなかった。無理にはがせば文字まで失うところだった」

「照合人がいなければ、返却できない。では、十年前に閉鎖したときはどうしたんでしょう」

「それを調べたい」

 

外套の襟を緩め、向かいの椅子へ腰を下ろす。

疲れた顔だった。

昼から西の丘と詰め所を往復し、夜には古い記録を調べ直していたのだから無理もない。

 

「明日、詰め所で保管している書類を整理する。十年前の記録を扱った兵士にも話を聞くつもりだ」

「まだ村にいるんですか」

「退役してるがな。畑仕事をしてるはずだ」

 

紙を机に置き、日記の余白へ注意書きを写した。

返却。

何を誰に戻すのか、肝心な部分がない。

 

「ひとつ、お願いがあります」

「また無茶なことを言うつもりか」

「鉄の箱を、まだ開けないでください」

 

意外だったのか、顔が上がった。

 

「開けたがっていたのはお前だろう」

「中身は知りたいです。でも、鍵を使うと何が起こるか分からない。少なくとも、ダレンさんが止めた理由を聞いてからにしたいんです」

「……同感だ」

 

短く答え、立ち上がった。

戸口まで見送ると、振り返らずに言った。

 

「それから、あの女だ。ミラと名乗った見舞い客について、少し分かった」

「見つかったんですか」

「いや。西の道にある茶店で、同じ特徴の女が昨日から二度目撃されている。どちらも、荷物を持たずに北の旧道のことを聞いていたそうだ」

「第三倉へ?」

「行き先は知らん。ただ、見舞いだけが目的とは考えにくい」

 

扉が閉じたあとも、紙片の二文字が目に残った。

照合人。

顔も名前も知らないその人物が、誰かの帰りを許していた。

では、許されなかった人間は、どうなったのだろう。

 

*

 

翌朝、治療所の裏庭で薪を割る音がした。

窓を開けると、リシアが束ねた薬草を軒下へ吊るしている。

こちらに気づくと、作業の手を止めた。

 

「起きていたんですね。先生が、今日は少し歩いてもいいって」

「庭まで?」

「庭までです。それ以上は、まだ駄目です」

 

念を押す口調に苦笑した。

右肩は以前より動くようになったものの、脇腹をひねると痛みが走る。

この身体で北の旧道へ向かうなど、考えるだけでも無謀だった。

 

「ダレンさんは?」

「朝ご飯を半分食べられました。それと、約束どおり名前を聞いたんです」

「どうだった?」

「少し怒られました。『毎朝、子ども扱いする気か』って」

 

困ったように笑う。

 

「でも、最後には自分で名前を言ってくれました。紙もそのままです」

「よかった」

「……安心するのは、まだ早いですか」

 

問い返す代わりに、吊るされた薬草を見た。

乾きかけた葉の一枚が風で裏返る。

名前が残ったことは事実だ。

それ以上の意味を与えれば、また別の誰かを傷つけるかもしれない。

 

「今朝のことは、今朝のこととして大事にしたい」

「そうですね」

 

小さく頷いたあと、思い出したように声が低くなった。

 

「昨夜、ダレンさんが妙なことを言ったんです」

「何て?」

「『返してもらうのは、俺じゃない』って」

 

背筋が冷えた。

 

「その言葉、先生も聞いた?」

「はい。眠る前でした。熱は下がっていたから、うわ言とは言い切れません」

 

昨夜の紙片を思い出す。

返却を行わないこと。

あの男は何を知っているのか。

 

「話せるようなら、聞いてみたい。でも無理はさせたくない」

「先生に相談しましょう。今なら、少しだけなら大丈夫かもしれません」

 

二人で廊下へ戻った。

扉を開けると、薬の匂いに混じって焼いた麦の香りがした。

いつもと変わらない朝のはずだった。

 

*

 

「返してもらうのは、俺じゃない」

 

こちらが繰り返すと、ダレンは天井を見つめたまま黙った。

医師は椅子に腰を下ろし、脈を測っている。

今朝は一度に長く話さないという条件で、質問を許してくれた。

 

「昨日、そんなことを言いましたか」

「言った」

「どういう意味ですか」

「……あの帳面を見たとき、妙だと思ったんだ」

 

寝台の脇に置かれた水杯へ目が向く。

リシアが手を添えて飲ませると、少し落ち着いた声になった。

 

「名前の横に、赤い線が引いてあった。最初は、死んだ奴に印をつけてるのかと思った」

「でも、違った?」

「同じ名前が二度出てくる。片方には日付がある。もう片方には、日付がない」

 

第29話で聞いた話と重なる。

二枚ずつある名前。

赤い線。

オルデンの横に記されていなかった日付。

 

「日付のないほうは、何の記録だと思いました?」

「分からねえよ。だが、帳面の間に挟まってた紙を見た」

「どんな紙ですか」

「薄い紙だ。端に丸い印があって……『返却先』って書いてあった」

 

胸の奥がざわめいた。

 

「誰の名前が?」

「そこまでは読めなかった。墨が滲んでたんだ」

 

医師が手を上げた。

ここで終わりにしろという合図だった。

それでも、ダレンのほうから口を開いた。

 

「俺が怖いのは、箱を開けることだけじゃない」

 

呼吸を整えながら、こちらを見る。

 

「あれを受け取った奴が、誰かの名前を確かめに行くことだ」

「誰の?」

「……帳面に載ってた奴らの」

 

そこで目を閉じた。

質問は終わりだった。

 

部屋を出ると、リシアが壁際で待っていた。

 

「何か分かりましたか」

「返却先という欄があったらしい。でも、誰に何を返すのかは、まだ」

「返す相手がいるなら、その人のところへ行くんでしょうか」

「たぶん。だからダレンさんは怖がってる」

 

廊下の窓から、庭が見えた。

子どもが二人、石を並べて遊んでいる。

一人が並べた石を、もう一人が数え直す。

数が合うと、二人とも笑った。

 

その光景に、妙な違和感を覚えた。

数えるだけなら、名前は必要ない。

名前を確かめるのは、数が合っているかではなく、そこにいるのが誰かを知るためだ。

 

*

 

昼を過ぎたころ、ノルドが詰め所から戻ってきた。

手には古い木札の写しと、折り畳んだ図面を持っている。

 

「ベルクに頼まれてな。見せたいものがある」

 

治療所の食堂に紙を広げる。

前に見た計数台の図面だったが、今日は裏側に細い線が描き足されていた。

 

「井戸のそばの土台と、あの鉄の箱を比べてみた。形は違うが、同じ作りの部品が使われてる」

「三つの穴と、四本の刻みですか」

「それもある。ただ、俺が気になったのは木札のほうだ」

 

図面の二か所を指で示す。

『通過』と『照合』。

 

「木札を差し込むと、片方の数が一つ進む。だが、もう片方は動かない。照合側を動かすには、別の札が必要なんだ」

「別の札?」

「二枚で一組になってるらしい」

 

同じ名前が二度書かれていたという証言が頭をよぎった。

 

「札が二枚あるなら、一枚は通った人が持っていたんでしょうか」

「そういう使い方もできる。だが、図面には持ち主のことは書いてない」

 

古い仕掛けの説明を聞きながら、木札の削られた表面を思い出す。

何かが書かれていたはずの場所。

誰かが意図的に削った文字。

 

「その二枚が揃わなければ?」

「照合できない。少なくとも、この仕掛けではな」

 

ノルドは図面を折り直した。

 

「ただし、今ある鉄の箱が同じ仕組みで動くとは限らんぞ。鍵の部品が合うからって、全部同じだと考えるな」

「分かっています」

「ならいい」

 

そのとき、外で馬の蹄が止まる音がした。

続いて、早足で廊下を進む靴音。

 

「レイ、いるか」

 

ベルクの声だった。

いつもより切迫している。

 

「ここです」

 

食堂へ入ってきた顔には、泥が跳ねていた。

 

「退役した兵士に会ってきた。十年前、閉鎖記録を受け取った男だ」

「何か覚えていましたか」

「ああ。第三倉を閉じる前に、数日間だけ人の出入りを止めたらしい」

「どうして?」

「理由は知らされなかった。ただ、閉鎖命令が届く前夜、二人の男が詰め所へ来たそうだ」

 

椅子を引くこともせず、手帳を開く。

 

「一人はオルデン。もう一人は顔を隠していた。退役兵は、その男が持っていたものを覚えていた」

「何を?」

「木札だ。二枚を紐でつないでいた」

 

ノルドの指が、折ったばかりの図面の上で止まった。

 

「二枚一組……」

「ああ。しかも、その男はこう言ったそうだ。『一枚が戻らない限り、最後の返却はできない』」

 

誰も言葉を続けなかった。

十年前の命令と、現在の鉄の箱。

失われた一枚の札。

それらが同じ出来事に属するとは限らない。

だが、少なくとも誰かが照合を終えないまま、施設を閉じたらしい。

 

「最後の返却って、何だったんでしょう」

「それは聞けなかった。男自身も知らなかったそうだ」

 

ベルクは手帳を閉じた。

 

「もう一つ、妙なことがある。退役兵は、二人が帰るときの様子を覚えている」

「何があったんですか」

「オルデンが先に出ていった。もう一人は、詰め所の戸口で立ち止まっていたそうだ」

 

一拍置いて、続ける。

 

「『あの人を帰したことにするな』。そう言っていたらしい」

 

*

 

夕刻、治療所の小さな診察室に集まった。

鉄の箱は医師の許可を得て、鍵のかかる引き出しから出されている。

ベルクが預かっていた金属片は、まだ別の布に包まれたままだ。

 

「開けるつもりはない」

 

机へ置く前に、はっきり告げられた。

 

「外側に残っている印だけを、もう一度確認する」

 

ノルドが灯りを近づけた。

鉄の表面には錆が浮き、三つの穴の周囲だけが不自然に滑らかだった。

何度も何かを当てた跡にも見える。

 

「ここだ」

 

箱の底へ指が移る。

布で汚れを拭うと、小さな長方形の窪みが現れた。

木札を差し込めそうな幅だった。

 

「前に見たとき、どうして気づかなかったんでしょう」

「底まで調べてなかったからだ。無理に動かすのは避けてたしな」

 

窪みの奥に、黒いものが見えた。

錆ではない。

薄い紙の端のようだった。

 

「何か挟まっています」

「待て。引っ張るな」

 

細い木片を使い、慎重に端を浮かせる。

引き出されたのは、爪ほどの大きさに折れた紙片だった。

文字が二つ残っている。

 

『未了』

 

ノルドが息を吐いた。

 

「仕掛けが途中で止まってる印かもしれん。だが、紙に書いてあるだけじゃ分からん」

 

ベルクは紙片を机の端へ置いた。

 

「照合が終わらなかった。そのことを示している可能性はあるな」

 

箱の中で何かが動く気配はなかった。

音もしない。

それでも、ただの古い容器には見えなくなっていた。

 

「鍵は使わないんですよね」

 

リシアの声に、全員が振り返った。

いつから戸口にいたのか分からなかった。

手にはダレンの薬を載せた盆を持っている。

 

「ああ。本人の話を聞くまではな」

「よかった」

 

ほっとした表情が浮かぶ。

 

「さっき、ダレンさんが眠る前に言っていたんです。『箱を開けても、戻ってこない』って」

「何が戻らない?」

「それは……聞けませんでした」

 

盆を持ち直す手が少し震えている。

 

「ただ、私に頼んだことがあります。明日、目が覚めたら、今日のことを全部話してほしいって」

 

その言葉を聞き、日記に挟んだ紙を思い出した。

本人の字で書かれた名前。

それが残っていても、昨日の出来事を覚えていられるとは限らない。

 

「分かった。僕も書いておく」

 

言いかけて、すぐに言い直した。

 

「……俺も、記録しておくよ」

 

リシアは不思議そうに首を傾げたが、それ以上は尋ねなかった。

 

*

 

夜になってから、日記を開いた。

今日見聞きしたことを順に書く。

照合人の注意書き。

二枚一組の木札。

最後の返却。

そして、箱の底に残っていた『未了』の文字。

 

一つずつなら、ただの古い記録だ。

けれど、誰かが名前を残し、別の誰かが削り、十年後の今もそれを探している。

その事実だけは消えない。

 

最後の行を書こうとしたとき、廊下から足音がした。

控えめなノックが二度続く。

 

「入ってもいいですか」

 

リシアだった。

手には、折り畳まれた小さな紙を持っている。

 

「ダレンさんの枕元にあったものです。先生が、あなたにも見てもらってほしいって」

「名前を書いた紙?」

「いいえ。そっちは残っています。これは、別の紙です」

 

開くと、文字は一行だけだった。

 

『返却を受ける者は、先に名を告げること』

 

見覚えのない筆跡だった。

 

「誰が書いたの?」

「分かりません。今朝はありませんでした。夕方、包帯を替えたときにも」

「ダレンさんは?」

「眠っています。先生が見つけたのは、ついさっきです」

 

紙を光に透かした。

端は古く、折り目には黒ずんだ汚れがある。

今夜書かれたものには見えない。

 

「先生は、どこで見つけたって?」

「枕の下です。名前を書いた紙とは、別に」

 

胸の奥が冷たくなった。

誰かが部屋に入ったのか。

ダレンが以前から持っていたのか。

それとも、別の理由でそこに現れたのか。

 

「先生には、誰も勝手に入れないようお願いして」

「もう伝えてあります」

 

返事は早かった。

彼女もまた、何かを恐れている。

 

「それから……もう一つ」

 

差し出された紙の裏へ視線が向いた。

そこには、薄く押された丸い印と三本線があった。

印の下に、ほとんど消えかけた小さな文字が残っている。

 

『受領者記入欄』

 

空欄のはずの場所に、墨が一筋だけ残っていた。

文字の一部か、ただの汚れかも分からない。

けれど、紙を持ち替えたとき、背筋に冷たいものが走った。

 

日記に挟んでいた、ダレン自身の字の紙。

そこには確かに、今朝まで名前があった。

急いで頁を開く。

 

『ダレン』

 

文字は残っていた。

その下に、覚えのない細い線が引かれている。

一本だけ、赤い線だった。

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