世界の余白に転生した俺は、物語に存在してはいけない 作:Suinovel
赤い線は、名前のすぐ下に引かれていた。
『ダレン』という文字には触れていない。
細く、まっすぐで、紙の端まで届かないところで途切れている。
日記を持ち上げ、灯りに近づけた。
昨日、本人が震える手で書いた文字だ。
最初の一画が少し曲がり、最後の字が右へ傾いている。
その癖まで覚えている。
だが、下の線には見覚えがなかった。
「……これ、前からありましたか」
リシアが覗き込む。
問いかけられているのが自分だと気づくまで、少し時間がかかった。
「なかったと思う」
「思う、ですか」
「少なくとも、書いてもらったときにはなかった。昨日の夜も、見たはずなんだ」
紙の角を押さえ、裏返す。
裏には何もない。
赤い色が染み抜けた様子もなかった。
「先生を呼んできます」
「待って。先に、これを見てほしい」
先ほど渡された古い紙を机に並べた。
『返却を受ける者は、先に名を告げること』。
裏には丸い印と三本線、そして『受領者記入欄』。
二枚の紙が同じ仕組みに属するかどうかは分からない。
ただ、今夜になって現れた線を、見なかったことにはできなかった。
「どちらも、先生に見せましょう」
今度は引き止めなかった。
廊下へ出ていく足音が遠ざかる。
一人になると、日記の余白に時刻と状況を書きつけた。
『ダレン本人の筆跡による紙に、赤い線を確認。発見時刻、夜。書き加えた人物は不明』
断定できることは、それだけだった。
*
医師は二枚の紙を交互に眺めたあと、窓の掛け金を確かめた。
「夕方から、患者の部屋に入った者は」
「私と先生です。薬を届けたとき、見張りの方も戸口にいました」
「夜の交代は?」
「まだです」
リシアが答える間、紙の端を指で押さえていた。
赤い線には触れない。
「この線がいつ付いたか、誰も見ておらんのだな」
「はい」
「なら、勝手に現れたと決めるな。誰かが書いた可能性から調べる」
もっともな指摘だった。
不思議なことが続くと、普通に考えれば済むことまで異常に見えてしまう。
「ダレンさんには、今すぐ話しますか」
「起こさん。今夜は熱も落ち着いている。眠らせておけ」
古い紙は医師が預かることになった。
自分の手元には、ダレンが書いた名前の紙だけが残る。
「それから、お前も寝ろ。傷は塞がりかけているが、治ったわけじゃない」
「分かっています」
「分かっている奴は、こんな時間まで灯りをつけん」
反論できず、日記を閉じた。
けれど、眠る前にもう一度だけ紙を確かめた。
赤い線は、やはりそこにあった。
*
翌朝、最初に確かめたのは自分の名前ではなかった。
日記を開き、挟んだ紙を取り出す。
線は残っている。
昨夜書いた観察の記録も、そのままだ。
治療所の食堂では、リシアが麦粥を器へ分けていた。
顔を見るなり、小さく首を振る。
「まだ、ダレンさんには話していません」
「ありがとう。先生と一緒に聞こう」
「その前に、一つだけ」
器を置き、声を落とした。
「今朝、名前を尋ねたら、ちゃんと答えてくれました。でも、そのあと、私の名前を聞いたんです」
「初めて?」
「いいえ。昨日も名乗っています。忘れたのかと思ったら、そうじゃなくて」
そこで言葉を切る。
「『お前は、昨日と同じ奴か』って」
胸の奥が重くなった。
名前を忘れたのではなく、目の前の相手が同じ人物かどうかを疑っている。
自分が日々経験している忘却とは、似ているようで違う。
「リシアは、何て答えたの」
「昨日、薬が苦いって文句を言われたことを話しました。そうしたら笑って、間違いないって」
昨日の出来事を共有できる。
それが当たり前のことだと、今までどれほど考えていただろう。
「先生が診察を終えたら、一緒に聞いてみよう」
頷いたものの、表情は晴れなかった。
*
寝台の脇に椅子を寄せると、ダレンは先に口を開いた。
「また俺の名前か」
「今日は別のことも聞きます」
「何だ」
医師が許可を出すのを待ち、紙を見せた。
自分で書いた名前。
その下の赤い線。
しばらく眺めたあと、顔色が変わった。
「誰が、これを」
「分かりません。昨夜気づきました」
「俺じゃない」
「そうだと思っています。ただ、確かめたくて」
差し出した紙を受け取ろうとして、手が止まる。
指先が線の上を避けるように動いた。
「……あの帳面と同じだ」
「赤い囲みのことですか」
「囲みだけじゃねえ。線を引かれた名前があった。最初に見たとき、死んだ奴の印だと思った」
昨日までの話を思い返す。
同じ名前が二度現れる帳面。
日付のない欄。
赤い印。
「それが違うと分かった理由は?」
「名前の横に、短い言葉があったんだ」
額を押さえる。
医師がすぐに制した。
「無理に思い出すな」
「……いや。あれは、忘れちゃいけねえ」
苦しそうに息を吐いたあと、ようやく続けた。
「『返却待ち』。そう書いてあった」
赤い線へ目を落とす。
紙の上にあるのは一本の線だけだ。
これが同じ意味だという証拠はない。
「誰かが、あなたの名前を帳面に載せようとしているのかもしれません」
「やめろ」
思ったより強い声だった。
「勝手に決めるな。俺は、あそこに戻らねえ」
「すみません」
すぐに謝った。
本人の恐怖を、推理の材料として扱いすぎていた。
「戻る必要があるなんて、言っていません。今ここにいることを、先生もリシアも知っています」
ダレンは視線を伏せた。
長い沈黙のあと、紙をこちらへ返す。
「その線を、消さないでくれ」
「残しておくんですか」
「誰かが俺の名前に何かしたなら、証拠になる。消したら、なかったことにされる」
医師が静かに頷いた。
「紙はここに置いてもいい。だが、本人が望むなら、兵士にも見せよう」
「……ああ。あの隊長ならいい」
ようやく、少しだけ肩の力が抜けた。
*
ベルクが来たのは昼前だった。
赤い線を見せると、まず紙を灯りへかざし、それから机に置いた。
「昨日の夜、誰かが部屋へ入った形跡は?」
「見張りに確認しました。交代の記録では、出入りは先生とリシアだけです」
「記録が正しければ、だな」
そこで話を止め、日記の頁を指した。
「お前が気づいた時刻を書いてあるのはいい。だが、昨日の朝の状態は記録していない」
「はい。赤い線がなかったと、証明できません」
「今からでも、覚えている範囲を分けて書け。見たことと、そう思ったことは別だ」
教えられたとおり、余白へ二つの見出しを作った。
『確認したこと』と『記憶していること』。
同じ出来事でも、分けて記すと曖昧な部分が浮かび上がる。
「それで、詰め所のほうは?」
「退役兵に、もう一度会った。二枚の札の話をした男についてな」
椅子を引き寄せ、手帳を開く。
「顔は覚えていない。だが、声だけは妙にはっきり残っていたらしい」
「何と言っていたんですか」
「『戻った者を、戻っていないことにするな』」
以前聞いた言葉とは少し違う。
『あの人を帰したことにするな』。
同じ夜の別の発言か、十年の間に記憶が変わったのか。
「矛盾していますね」
「ああ。だから、そのまま記録した。どちらが正しいかは決めていない」
手帳には、二つの証言が並んでいた。
消して書き直すことはしていない。
「もう一つ、古い帳面から見つけた。北方保管所へ食料を運んでいた商人の受領記録だ」
紙片が差し出される。
日付と品名の欄は普通の荷の記録だった。
ただ、受け取った者の欄には名前がなく、番号が記されている。
『照合人 二』
「番号があったんですね」
「十年前には少なくとも、二番と呼ばれる照合人がいたらしい」
「一番も?」
「まだ見つからん。番号が役職なのか、交代の順なのかも分からん」
見覚えのある数字だった。
土台の下から出た紙には、照合者の欄に一、二、三と並んでいた。
「それなら、名前の代わりに番号を使っていた可能性が高くなりますね」
「そうだ。ただし、照合人が三人いたとまでは言えん」
紙片の下端に、別の筆跡で短い追記があった。
『受領後、控えを西の番小屋へ』
西の丘。
井戸と、石の土台が残る場所。
「控えが残っているかもしれない」
「探すつもりだ。畑の持ち主にも、もう一度話を通してある」
立ち上がりかけたところで、思わず声をかけた。
「俺も行けませんか」
「駄目だ」
即答だった。
「まだ何も言ってません」
「今、言っただろう」
脇腹の傷を見透かされたようで、言葉に詰まる。
「見つけたものは持ってくる。それまで、お前はここでダレンの話を聞いておけ。無理のない範囲でな」
仕方なく頷いた。
*
午後、治療所の窓辺で、リシアと紙を並べた。
ダレンの名前を書いた二枚。
一枚は本人の筆跡で、赤い線がある。
もう一枚は彼女の筆跡で、線はない。
「同じ名前なのに、違うんですね」
「書いた人が違うからかもしれない。でも、偶然かもしれない」
「なら、試してみますか」
驚いて顔を上げると、少し困ったように笑った。
「ダレンさんに何度も書いてもらうんじゃなくて、私たちが紙を管理するんです。今ある二枚を、別々の場所に置いて」
「本人の許しが必要だね」
「はい。それと、勝手に開けたりしないよう、先生にも相談します」
慎重な提案だった。
紙が変わるなら、いつ、どこで変わったのか確かめたい。
ただし、それが人を試すことになってはいけない。
医師とダレンの承諾を得て、一枚を治療所の薬棚へ、もう一枚を守備隊の封筒へ収めることになった。
どちらも封をし、日付と保管者の名を書く。
赤い線のある紙は、本人の希望でそのまま残した。
「もし、また変わったら」
封筒を押さえる指に力が入る。
「そのときは、誰かのせいだと決める前に、皆で確かめよう」
リシアが頷いた。
「分かりました。私も、見たことだけを記録します」
紙の端に、丁寧な字で今日の日付が加えられた。
何気ない仕草だった。
けれど、自分の名を覚えてもらうことだけを願っていたころには、想像もしなかった光景だった。
*
夕方、西の丘から使いが来た。
ベルク本人ではなく、同行していた若い兵士だった。
外套の裾に土が付き、額には汗が浮いている。
「隊長が、ノルドを呼んでくれと。石の下に空洞が見つかった」
「紙の続きですか」
「まだ分からん。木の蓋みたいなものがあるが、動かせないらしい」
ノルドはすぐに工具を取りに向かった。
こちらへ向けられた視線に、期待が混じっている気がした。
「お前は?」
「ここにいます。先生から許可が出ませんから」
若い兵士は気まずそうに笑った。
「それがいい。丘までの道は、雨で滑る」
去っていく足音を聞きながら、窓の外を見た。
西の空には低い雲がかかっている。
そのとき、奥の部屋から声がした。
「……レイ」
振り向いた。
ダレンの声だった。
名前を呼ばれたことより、その声音に覚えがあった。
何かを急いで伝えようとしている。
「どうしました」
「さっき、女が来た」
息が止まった。
「ミラと名乗った人ですか」
「知らねえ。顔は見てない。窓の外で声がしたんだ」
「何て?」
布団を握る手が震える。
「『赤い線を見たか』って」
すぐに医師を呼んだ。
窓の下には人影がない。
庭の土には古い足跡が重なっていて、どれが今のものか分からなかった。
見張りにも知らせ、周囲を調べてもらう。
ダレンは、もう一度だけ繰り返した。
「『見たなら、まだ渡すな』。そう言ってた」
渡すな。
最初に聞いた警告と、同じ言葉だった。
「何を渡すなと?」
「それは言わなかった。……ただ、女の声じゃなかった」
背筋に冷たいものが走った。
「男だったんですか」
「ああ。年寄りみたいな、掠れた声だった」
医師が水を飲ませる。
今度は無理に聞き出さなかった。
窓を閉め、見張りの交代を増やしてもらう。
*
夜の鐘が鳴るころ、ベルクが戻ってきた。
外套を脱ぐ前に、窓辺の出来事を伝える。
最後まで聞くと、疲れた顔がさらに険しくなった。
「男の声、か。茶色い外套の女とは別かもしれんな」
「はい。ダレンさんは顔を見ていません」
「見張りに聞く。丘のほうで見つけたものも、関係があるかもしれん」
机へ置かれたのは、小さな木箱だった。
泥を落としたばかりなのか、角が湿っている。
「土台の下にあった。木の蓋は腐りかけていたが、中は油布で守られていた」
「開けたんですか」
「外側だけな。中の紙は傷んでるから、ノルドに任せた」
蓋の裏には、短い文章が刻まれていた。
『返却控え 照合人二』
その下に、細い溝が一本。
赤い塗料の跡が、木目の奥に残っている。
「赤い線……」
「気づいたか。だが、これだけでダレンの紙と同じだとは言えん」
頷いた。
けれど、次に差し出された薄い紙を見て、言葉が出なくなった。
それは箱の中に入っていた控えの一枚だった。
文字のほとんどは湿気で滲んでいる。
それでも、中央の二行だけは読めた。
『受領者の名が確認できない場合、返却を保留する』
『受領者本人が名を告げた場合、再照合を行う』
「ダレンさんが、自分の名前を確かめたがっていたのは……」
「関係があるかもしれん。ただ、あいつがこの文を読んだとは限らない」
紙の下には、さらに小さな欄があった。
『返却対象』。
その隣は水に濡れて読めない。
「肝心なところが、また……」
「いや。もう一枚ある」
ベルクが別の紙を取り出した。
端が欠け、折り目の部分で二つに割れている。
片方には番号が並び、もう片方には、赤い線で囲まれた小さな四角があった。
四角の中に、文字はない。
代わりに、外側へ細い注記が付いている。
『未受領のまま退出した者については、照合人が追跡すること』
心臓が一度、大きく鳴った。
十年前の制度が今も動いているとは限らない。
だが、誰かがダレンの名を確かめようとしている。
その事実と、古い注意書きが、同じ方向を指していた。
「追跡って、何をするんでしょう」
「分からん。だが、少なくとも見舞い客を装って近づく奴がいる。今夜から治療所の見張りを二人にする」
言い終えたとき、廊下の向こうで扉が開いた。
リシアが立っている。
手には、薬棚に保管した封筒があった。
「先生に頼まれて持ってきました。封は、まだ開けていません」
赤い線のないほうの紙を入れた封筒だ。
封蝋は割れていない。
表には今日の日付と、医師の署名が残っている。
「どうして持ってきたの?」
「ダレンさんが、これを見てほしいって。さっき、急に思い出したことがあるそうです」
封筒を受け取ろうとして、手を止めた。
「本人は、何て?」
リシアは、少し戸惑ったように答えた。
「『赤い線がついたのは、俺の名前じゃない』って」
意味が分からず、聞き返した。
「じゃあ、何に?」
「『名前を受け取った奴のほうだ』って……」
机の上には、赤い線のある紙。
そして、封を切っていない、もう一枚の紙。
自分の名が忘れられる世界で、誰かの名を預かることに、どんな意味があるのか。
その問いを口にするより早く、ベルクが低い声で言った。
「その封筒は、まだ開けるな」