世界の余白に転生した俺は、物語に存在してはいけない 作:Suinovel
「その封筒は、まだ開けるな」
ベルクの声に、差し出しかけた手が止まった。
リシアの指には、薬棚から持ってきた封筒が挟まれている。
封蝋は欠けていない。
医師の署名も、昼に見たままだった。
「中に何かあると思うんですか」
「分からん。だが、まずダレンが何を思い出したのか聞く」
机の上には、別の封筒が置かれていた。
本人が書いた名前の紙を入れたものだ。
赤い線を確認したあと、守備隊へ預けてある。
「開けるのは本人の許しを得てから、ですね」
「ああ。それに、二つを同時に開ける必要もない」
リシアがほっとしたように頷く。
その横顔を見ながら、昼のやり取りを思い返した。
二枚の紙を別々に保管する。
誰が、いつ、どの状態を確認したか残す。
それは、何かが変わることを期待するためではなかった。
変わらなかったときにも、そう言えるようにするためだ。
「先生を呼んできます」
廊下へ出ていく背中を見送った。
椅子へ腰を下ろすと、右の脇腹が鈍く疼く。
動き回っていないつもりでも、疲れは確実に溜まっていた。
「お前も座ってろ。今夜はここで話を聞くだけだ」
「分かっています」
「返事だけは立派だな」
皮肉に言い返す余裕はなかった。
ダレンの言葉が頭から離れない。
『赤い線がついたのは、俺の名前じゃない』
『名前を受け取った奴のほうだ』
紙に引かれた線が、書かれた人間ではなく、預かった人間に関係する。
それが本当なら、日記に紙を挟んでいた自分はどうなるのだろう。
*
医師の許しを得て、四人で寝台のそばへ集まった。
ダレンは起きていた。
水を飲んだばかりらしく、唇にわずかな湿り気が残っている。
「話せるのは少しだけだぞ」
「分かってるよ、先生」
いつものように憎まれ口を返したあと、こちらへ目を向けた。
「紙は、まだあるか」
「あります。二枚とも封をしたままです」
「赤い線がついたほうも?」
「はい」
小さく息を吐いた。
「倉の帳面を見たとき、名前の下に線が引いてあると思った。だが、違ったんだ」
「何が違ったんですか」
「名前は二つの欄に書かれてた。片方が、倉から出た奴。もう片方が……そいつの名前を受け取った奴だ」
医師が眉を寄せる。
「名前を受け取る、とは」
「俺にも分からねえ。ただ、帳面にはそう書いてあった。『受領者』ってな」
先日、ダレンの枕元で見つかった紙片にも、同じ言葉があった。
受領者記入欄。
そして、返却を受ける者は先に名を告げること。
「赤い線は、どちらの欄に?」
「受領者のほうだ。……たぶん」
言い切る直前に、視線が落ちた。
「はっきり覚えていないんですね」
「ああ。最初は、出てきた奴の名に印がついてると思った。でも、紙が二枚あったのを思い出して……」
息が乱れかけ、医師が手を上げる。
「ここまでだ」
「待ってくれ。ひとつだけ」
寝台の男は、こちらを見つめた。
「俺の名前を書いた紙、誰が持ってた」
「最初は俺です。今は一枚を治療所、もう一枚を守備隊に預けています」
「お前が、持ってたのか」
その声が少しだけ低くなった。
「……何かあったんですか」
「いや。お前が持ってたなら、赤い線がついた理由が分かるかと思っただけだ」
そこで目を閉じた。
医師が毛布を直し、部屋を出るよう合図する。
「ダレンさん」
立ち去る前に呼びかけた。
「名前を預かったことで、俺に何か起きるとしても、あなたのせいにはしません」
目は開かなかった。
ただ、毛布の端を握る手から、少しだけ力が抜けた。
*
診察室に戻ると、封筒を二つ並べた。
ベルクは机の端へ紙を置き、保管した時刻と封印の状態を確認している。
「まず、薬棚にあったほうを開けますか」
リシアの問いに、医師が頷いた。
「本人は両方を見せてよいと言っておる。だが、記録をつけてからにしろ」
封蝋を割る前に、全員で表面を確かめた。
日付。
医師の署名。
リシアの署名。
傷は見当たらない。
中から出てきたのは、彼女の字で『ダレン』と書かれた紙だった。
赤い線はない。
裏も白い。
「変わっていませんね」
声に安堵が混じる。
「次は守備隊の封筒だ」
こちらも封印は無事だった。
取り出した紙には、ダレン本人の歪んだ文字がある。
その下に、細い赤い線。
昨夜と同じ位置だ。
「増えていない」
「そうだな」
ベルクは二枚を重ねず、少し離して置いた。
「赤い線が誰かの手で引かれたなら、封印する前だ。封印したあとに変化が起きた証拠はない」
それは大事な区別だった。
不思議な印があることと、不思議な力で印が増えたことは違う。
「じゃあ、誰が引いたんでしょう」
リシアの問いに、答えは返らなかった。
「もう一つ、確認したいことがあります」
口にすると、三人の視線が集まった。
「ダレンさんが書いたとき、紙を受け取ったのは俺です。でも、赤い線がついているのは、その紙だけ。受け取った人間に印がつくなら、なぜ紙に現れるんでしょう」
「受け取った証拠として、かもしれん」
医師が言った。
「昔の薬の受領簿も、受け取った者が印を押す。物を受け取るのと、名を受け取るのが同じ意味かは知らんがな」
受領。
返却。
照合。
三つの言葉が、ようやく同じ机の上に並んだ気がした。
「名前そのものを渡すわけじゃなくて、本人だと確認する責任を預ける……?」
声に出してから、首を振った。
「すみません。まだ、そう決められる材料はありません」
「だが、調べる方向にはなる」
ベルクが手帳を閉じた。
「明日、詰め所の受領簿を洗い直す。『照合人二』の印が残っていた帳面からな」
*
翌朝、治療所の裏庭へ出ると、冷えた土の匂いがした。
医師に許されたのは、軒先までの短い散歩だけだ。
それでも、部屋の外の空気を吸えるだけで気分が違う。
リシアが洗った布を干していた。
風に煽られた一枚を押さえながら、こちらを見る。
「昨日、眠れましたか」
「少しは」
「少し、ですか」
「……正直に言うと、何度か目が覚めた」
呆れられるかと思ったが、返ってきたのは小さな溜息だった。
「私もです」
干し終えた布の端を整える。
「ダレンさんが、自分の名前を何度も確かめる理由が、少し分かった気がします」
「怖いから?」
「それもあります。でも、誰かに確かめてもらいたいんじゃないでしょうか。自分だけで言い続けるのは、きっと疲れます」
言葉が胸に残った。
名前を覚えてもらえないことには慣れたつもりだった。
けれど、何度も名乗ることに疲れなかった日はない。
「……そうかもしれない」
返すと、彼女は不意にこちらを見た。
「そういえば、お名前を聞いてもいいですか」
一瞬、呼吸が止まる。
昨日は何度も話した。
一緒に封筒を開き、ダレンの紙を見た。
それでも、彼女の目には、初めて会った相手へ向ける遠慮が戻っていた。
「レイです」
「レイさん。昨日、先生と一緒にいた方ですよね」
「うん。そうだよ」
覚えているのは、出来事の輪郭だけだ。
そこに自分の名が結びついていない。
「失礼しました。何だか、前にも聞いた気がして」
「気にしないで」
彼女がもう一度布へ手を伸ばす。
その指先が少し荒れていることに気づいた。
怪我人の包帯を替え、薬を煎じ、夜には見張りの交代まで気にかけている。
こちらの名前を忘れても、その働きが消えるわけではない。
「昨日のこと、ありがとう」
「え?」
「ダレンさんのこと。怖がっていたのに、一緒にいてくれたから」
少し考えたあと、柔らかく笑った。
「患者さんですから。それに、私も気になっているんです。あの人が安心して眠れるようになるかどうか」
答えを聞き、胸の奥の痛みがわずかに和らいだ。
*
昼前、守備隊から若い兵士がやって来た。
ベルクは詰め所を離れられないらしい。
代わりに、薄い写しを一枚預かっていた。
「隊長からだ。古い帳面の裏表紙に、受領印の一覧があったそうだ」
紙には三つの丸印が写されている。
それぞれの下に、一、二、三の数字。
三本線を伴うものと、伴わないものがある。
「照合人の番号ですか」
「そう聞いてる。ただ、隊長が見せたかったのはそこじゃない」
指先が、二番の印の下を示した。
小さな追記がある。
『二番不在のため、仮受領を認める』
「仮受領……」
十年前、照合人二がいないときにも、誰かが名前を受け取っていた。
そう読める。
「誰が代わりに?」
「そこが問題なんだ」
兵士はもう一枚、紙を差し出した。
受領簿の一頁を写したものだった。
日付の隣に、二つの欄がある。
左は『退出者』。
右は『仮受領者』。
左欄の名前は滲んでいた。
右欄には、同じ印が繰り返し押されている。
丸い印と、三本の線。
ただし、名前を書く場所は空白だった。
「全部、同じ印ですね」
「ああ。隊長は、同じ人物が何度も受け取ったのか、同じ役目の人間が交代していたのか調べている」
最後の行だけ、印の下に短い注記があった。
『本人確認を後日行うこと』
後日。
その日は来たのだろうか。
「この頁、何年前のものですか」
「閉鎖の二日前だそうだ」
第三倉の出入りが止められたころだ。
その直前に、仮受領が繰り返されている。
「ベルクさんは、今どこに?」
「退役兵のところだ。もう一人、当時の書記が生きてると分かったらしい」
兵士が去ったあとも、写しを見つめていた。
仮に受け取る。
あとで本人を確かめる。
確かめられなければ、返却は保留される。
誰かが名を預かり、そのまま返さなかった。
そんな出来事が、十年前にあったのかもしれない。
*
午後、医師から頼まれた紙を整理していると、治療所の戸口で言い争う声がした。
「だから、面会はできないと言っているでしょう」
「面会じゃない。預け物を返しに来たんです」
女の声だった。
廊下へ出ると、茶色い外套が見えた。
以前、リシアが不審に思った見舞い客の女だった。
手にはあのときと同じ籠がある。
「ミラさん、でしたね」
呼びかけると、女が振り向いた。
こちらの顔を見ても、驚いた様子はない。
「ええ。あなたは?」
「治療所にいる者です。荷物なら、先生が預かります」
「本人に渡さなければ意味がないんです」
医師が間に立った。
「患者は安静が必要だ。中身を見せられないなら、持ち帰ってもらう」
「……それでは困ります」
籠の持ち手が軋んだ。
「何が入っているんですか」
問いかけると、女は一瞬だけ目を伏せた。
「木の札です」
背筋が冷たくなった。
「どこで手に入れたんですか」
「頼まれて持ってきただけです」
「誰に?」
返事はなかった。
代わりに、籠の覆い布を少しだけめくる。
中には乾燥した果物が並んでいた。
その隙間に、細い木片が一本挟まれている。
「これを、荷運びの男に渡してほしいと言われたんです」
木片の端には二つの穴。
中央には、削られた跡。
西の井戸から見つかった札と似ていた。
「どうして本人に?」
「受け取ったと言ってもらわなきゃ、仕事が終わらないから」
その言葉は、妙に切実だった。
「渡した相手の名前を、確認するように言われていますか」
女の顔から血の気が引いた。
「……あなた、何を知ってるんです」
医師が戸口を塞ぐ。
「ここでは話せん。守備隊を呼ぶ」
「待ってください。私は、何も――」
言いかけた声が途切れた。
庭の向こうで、馬の蹄が鳴ったからだ。
「ベルクさん!」
リシアの声が外から聞こえる。
帰ってきたらしい。
女は籠を抱え直し、逃げるように後ずさった。
だが、医師が静かに言った。
「逃げる必要はない。誰に頼まれたのか、それだけ話してくれ」
長い沈黙のあと、ようやく口が開いた。
「名前は、知らないんです」
「顔は?」
「……見ていません。荷置き場の焼け跡に、紙と金が置いてあったんです」
「誰からの仕事か分からないまま引き受けたんですか」
自分の声が、思ったより硬く響いた。
「最初は普通の届け物だと思ったんです。だけど、一度断ったら、家の戸に同じ紙が挟まっていて……」
震える指が籠の縁を掴んだ。
「『渡さなければ、お前が受領者になる』って」
*
夕刻、診察室の机に木札が置かれた。
女は守備隊の立ち会いのもと、預け物を差し出すことに同意した。
医師が中身を確認し、ベルクが記録を取る。
ダレンにはまだ知らせていない。
「脅されていたのか」
「本人の話では、そうです」
外套を脱いだベルクが、木札の端を確かめる。
「二つの穴。削られた表面。西の井戸の札と似ているな」
「同じものですか」
「寸法を測らんと分からん。ノルドに見せる」
裏返すと、細い文字があった。
古い墨ではない。
最近書かれたような濃さだった。
『仮受領者に渡すこと』
その下に、赤い線が一本。
「この札をダレンさんに渡したら、どうなるんでしょう」
リシアの問いに、誰も答えなかった。
「本人に見せるかどうかは、明日、医師と相談する。今夜は保管する」
ベルクの判断に異論はなかった。
ただ、札を持ってきた女の話が引っかかっていた。
渡さなければ、お前が受領者になる。
「ミラさんが受領者になる、というのは脅しでしょうか」
「それを確かめるためにも、女の家を見張らせる。今夜は一人で帰さない」
紙をまとめかけた手が止まった。
「どうした」
「……ひとつ、気になることが」
赤い線のある紙を、最初に受け取ったのは自分だった。
そして今、名前のない差出人は、別の誰かに札を受け取らせようとしている。
「名前を預かる人間が必要なら、なぜダレンさん本人に札を渡すんでしょう」
「本人の承諾が要るのかもしれん」
リシアが答えた。
「でも、無理に渡そうとしているなら、承諾とは違いますよね」
その通りだった。
「……受け取ったと証言させたいのかもしれない」
ベルクが木札を布で包む。
「なら、証言させない。少なくとも、意味の分からないものを渡して、返事を強いるような真似はさせん」
*
夜、日記を開いた。
今日の出来事を書き終え、ダレンの名を記した頁へ戻る。
赤い線のある紙は封筒に入れたまま、守備隊が預かっている。
日記には写しだけを残した。
『ダレン。本人の筆跡。赤い線一本。発見者、レイ』
最後の名前を書いてから、しばらく筆が動かなかった。
誰かの名を預かるというのは、何なのだろう。
忘れないと約束することか。
その人がここにいると、別の誰かへ証言することか。
自分の名を忘れられる身で、他人の名を守れるのだろうか。
答えは出なかった。
けれど、明日になってリシアが自分を忘れても、今日の彼女がダレンを守ろうとしたことは覚えていられる。
そのことだけは、確かだった。
戸を叩く音がした。
「起きてるか」
ベルクだった。
手には、古い受領簿の写しがある。
「退役した書記から、最後の頁を預かってきた」
「何か見つかったんですか」
「ああ。閉鎖前日の仮受領者の欄だ」
紙を広げる。
ほとんどの行には丸印と三本線がある。
だが、最後の一行だけ、印がない。
代わりに名前が書かれていたらしい。
紙はそこだけ削られ、繊維が毛羽立っている。
「読めないですね」
「名前はな。ただ、その下の注意書きは残ってる」
指先が、欄外の小さな文字を示した。
『仮受領者が失われた場合、最後に名を受け取った者を照合する』
息が止まった。
「……最後に、名を受け取った者」
ダレンの名前を書いた紙。
それを最初に預かった、自分の手。
「レイ」
呼ばれて顔を上げた。
「お前、昨日から何か変わったことはないか」
答えようとしたとき、ベルクの視線が机の上を通り過ぎた。
日記の開いた頁。
そこには、たった今書いたばかりの名前がある。
「……おかしいな」
低い声だった。
「どうしました」
「今、お前を何と呼んだ?」
背筋が冷たくなった。
「レイ、と」
「そうか」
視線が日記へ戻る。
「確かにそう呼んだ。だが、なぜその名前を知っているのか、思い出せん」
いつもの忘却だろうか。
そう考えかけて、止まった。
「今、俺がここにいることは分かりますか」
「分かる。お前と話している。今日、ミラのことも一緒に調べた」
ベルクは一度、目を閉じた。
「だが、お前の名を呼んだ瞬間だけ、誰かから借りた言葉を口にした気がした」
机の上の写しに、もう一度目を落とす。
最後に名を受け取った者を照合する。
今まで、忘れられるのは自分だけだと思っていた。
けれど、誰かがこちらの名前を口にしたことまで、確かめられなくなるのだとしたら。
窓の外で、ぱらりと紙をめくるような音がした。