追放の真意〜そんなものは無かったが、仲間も敵も王族も、みんな勝手に深読みしてくる〜 作:目下−1
月明かりが静かに床を這っていた。
窓辺から差し込む銀色の光は、広い室内へ冷たい陰影を落としている。壁際へ並ぶ燭台の火は絶えず揺らめき、その度に金細工の装飾や磨き抜かれた調度品が鈍く光を返した。
重厚な絨毯は足音を呑み込む。時計の音すら無い。あるのは燭火の揺れる微かな気配と、時折窓辺の薄布を揺らす夜風の音だけだった。
静かだ。静か過ぎる。だからこそ、この部屋を満たす空気の異様さが嫌という程分かる。
「なに……剣が、消えただと?」
低く落ちた声が静寂へ沈んだ。部屋の中央に立つ男が、ゆっくりと振り返る。
外套の裾が静かに翻る。鈍色を基調としたその衣には、過剰な程繊細な刺繍が施されていた。銀糸は月光を受ける度に鈍く煌めき、着る者の立場を声無く物語っている。
男の声音に激情は無い。怒鳴り散らす訳でも無ければ、物へ当たる訳でも無い。しかし、だからこそ分かる。押し殺されているのだ。
胸中で荒れ狂う感情を、理性という薄皮一枚で辛うじて押さえ込んでいる。
その証拠のように、男の口元は微かに歪んでいた。奥歯を噛み締める度、頬の筋肉がぴくりと痙攣する。細められた瞳には凍えるような冷たさと、煮え滾る憤怒が同居していた。
——消えた。
その言葉だけが何度も脳裏を反響している。あり得ない。全て、綻びの無いよう進めてきた筈だった。
剣を運ばせた事実を知る者は限られている。表へ出れば厄介になるからこそ、痕跡は徹底して消した。関わる人間も絞り、余計な詮索が入らぬよう幾重にも手を打っている。
誰も知らない。知れる筈が無い。あの剣は、人目から切り離された場所を通り、誰にも辿れぬ道で運ばれていた。
表向きには別件の盗難騒ぎが起こる。人の目はそちらへ向く。本来ならそれで十分だった。少なくとも、あの剣へ疑いが向く事など無い筈だった。
それが消えた。誰にも知られていない筈の場所から。理解出来ない。その事実だけが男の神経を逆撫でしていた。
男は偶然という言葉を嫌っている。世界とは本来、理解出来るものであるべきだった。力ある者が盤を敷き。弱き者はその上で踊らされる。そこへ不可解など入り込む余地は無い。
だからこそ気に入らない。剣が消えた事も。理解不能な形で事態が動いた事も。自らの知らぬ場所で、自らの知らぬ理屈によって盤上へ指が伸ばされた感覚も。それら全てが不快だった。
「詳細を言え」
吐き捨てるように告げる。冷え切った声音だった。しかし、その瞳の奥では抑え込まれた激情が静かに燃えている。静寂に満たされた豪奢な部屋の空気が、じわりと張り詰めていく。
薄氷の上へ立たされているような圧迫感が、その場を支配していた。
「畏まりました」
張り詰めた沈黙の中、男の背後に控えていた人物が静かに一歩前へ出る。年齢の読めない男だった。
黒を基調とした衣服は徹底して簡素でありながら、一目で上質と知れる仕立てをしている。頭髪は乱れ一つ無く整えられ、僅かに刻まれた皺には老いよりも、長い年月を主へ捧げてきた者だけが持つ静かな風格が宿っていた。
男は音も立てず膝を折る。その所作には一切の淀みが無い。まるで呼吸一つすら主を害してはならないとでも言うような、磨き抜かれた従属だった。
「……“翼”からの報告に依りますれば」
低く落ち着いた声音が静かに響く。
『翼』は表には存在しない。名簿も無い。記録も無い。死ねば墓すら残らない。必要とあらば汚泥へ潜り。必要とあらば人知れず消える。王都の影を這う為だけに作られた刃。それが翼だった。
「剣は突如として発光した、との事にございます」
男は黙したまま視線だけを向ける。その視線を受け、従者は更に僅かに腰を折った。
「封印術式は即座に起動。拘束維持の為、術者達も対応したようですが……恐れながら、意味を成さなかった、と」
燭台の火が小さく揺れる。その瞬間だけ、壁へ伸びた影が不気味に蠢いた。
「剣は、まるで術式そのものを拒絶するかのように封印を破壊。そしてそのまま宙空を飛翔したとの事でございます」
「……飛んだ、だと?」
「左様にございます。尤も、遥か彼方まで飛び去った訳ではございません。視認可能な距離を直進した後、ある地点へ落下したと」
男の眉が僅かに動く。
「落下地点には、一人の少女がおりました」
静寂が深くなる。月光が男の横顔を青白く照らし、その陰影を鋭く浮かび上がらせた。
「報告では……まるで、その少女へ導かれるような奇跡だった、と」
男の目が僅かに細められる。ほんの一瞬だけ。古びた記録の断片めいたものが脳裏を掠めた。王家へ代々伝わる古い伝承。剣は主を選ぶ。そんな、眉唾じみた話。
だが次の瞬間には霧散していた。
考える価値も無い。仮に選ばれるというのなら、それは自分以外有り得ない。男は最初から、その可能性だけを思考の外へ捨てていた。
「……馬鹿げている」
吐き捨てるような声。冷笑にも近い。
「剣が意思を持って動くとでも?」
鼻で笑う。その声音には揺らぎが無い。最初から答えなど決まり切っていると言わんばかりだった。
「下らん。何らかの誘導術式だろう。その娘が下手人だ。発光も飛翔も、全て目眩しに過ぎん」
静かな口調だった。しかし、その奥には抑え切れぬ不快感が滲んでいる。理解不能な現象など認める気は無い。認める必要も無い。全ては人為。誰かが仕組み、奪った。それだけの話だ。
男はそう結論付けるように窓の外へ視線を向けた。夜空には雲一つ無い。
蒼白い月だけが静かに浮かんでいる。月光は公平だった。王族も、貴族も。スラムの孤児さえも。等しく照らす。だからこそ男は嫌っていた。
世界は本来、平等であるべきでは無い。上に立つ者と。地を這う者。その差は絶対であるべきだった。少なくとも、男はそう信じている。揺るがない。本人は、そう信じ切っていた。
「……恐れながら、もう一件ご報告がございます」
従者の男が静かに口を開く。その声音は変わらず穏やかだった。しかし、僅かな間の取り方にだけ、言葉を慎重に選んでいる気配が滲んでいる。
これ以上主の機嫌を損ねる報告を重ねるべきではない。そう理解した上で、それでも告げねばならない内容だった。
部屋の空気が更に重く沈む。男は窓辺からゆっくりと視線を外し、露骨に眉を顰めた。
「……今度は何だ」
低く漏れた声には、隠し切る気すら無い苛立ちが滲んでいる。次の瞬間、短く舌打ちが鳴った。静まり返った室内では、その小さな音ですら妙に鋭く響く。
男は近くに置かれていた椅子へ腰を下ろした。乱暴では無い。しかし、その動作には抑え込まれた苛立ちが滲んでいた。
重厚な椅子が僅かに軋む。片肘を肘掛けへ預け、男は指先で一定の律動を刻み始めた。
コツ、コツ、と。乾いた音だけが、広い部屋の静寂へ沈んでいく。
誰も声を荒げていない。それなのに、この部屋には剣呑な殺気が満ちていた。呼吸一つ乱すだけで、その音すら不敬として切り捨てられそうな程に。
「言ってみろ」
頬杖をつきながら吐き捨てる。細められた赤色の瞳には鋭利な光が宿っていた。
ただ、視線を向けられるだけで、喉元へ刃を突き付けられているような錯覚を覚える。
従者の男は怯まない。深く頭を垂れたまま、静かに言葉を紡ぐ。
「……三つ、“羽”の反応が消失致しました」
その報告に男の指先が止まった。燭台の火が揺れる。壁へ落ちた影が僅かに歪んだ。
「消失地点より推察するに……おそらくは、“シンドラスト”の三名かと存じます」
「……シンドラスト?」
男は僅かに眉を寄せる。
「誰だ、それは」
興味すら薄い声音だった。従者は恭しく腰を折ったまま答える。
「以前、試験的に下部組織として用立てました、“翼”配下の者達にございます」
声音は変わらない。どこまでも丁寧で。どこまでも静かだ。
「ラドゥ・シンダー。ゴルム・ダスト。ヘルグ・スラッグ」
一人ずつ、確認するように名を並べる。
「以上三名にございます」
窓の外では風が鳴っていた。夜気を孕んだ風が薄布を揺らし、月明かりが床を淡く滑っていく。
「スラム街にて実施されました“第四次選定”に於ける生存者達でございます」
その言葉と共に、僅かに空気が沈んだ。
『第四次選定』
その名を知る者は少ない。そして知っている者の大半は、既にこの世に居ない。全てで七回行われた実験の一つ。
スラム街では時折、人が消える。誰も探さない。探したところで戻らないと知っているからだ。汚泥と腐臭の街では、人命は余りにも軽い。だからこそ、実験場として都合が良かった。
「腕前そのものは決して高いとは申せません」
従者は淡々と続ける。
「ですが、“例の件”に際しましては、一定以上有用でございました」
男は何も答えない。頬杖をついたまま、細めた瞳で虚空を見据えている。
コツ、と。止まっていた指先が再び肘掛けを叩く。その音だけが、静まり返った豪奢な部屋にやけに大きく響いた。
「ああ……アレか」
男は気怠げに呟いた。まるで道端の石でも思い出したかのような声音だった。
しかし実際には違う。名を聞いた瞬間、記憶の片隅へ沈んでいた断片がゆっくりと浮かび上がっていた。
灰に塗れた地下。腐臭の染み付いた路地。選別の為だけに集められた有象無象。その中で、最後まで生き残った数匹。
男はそれを悟らせぬよう、小さく鼻を鳴らした。
「下部に回していた掃き溜めの連中だろう。覚えている」
確かに言い切る。そこに迷いは無い。少なくとも、迷っているようには見せない。
コツ、と。指先が肘掛けを叩く。
「……尤も、数が多過ぎて名前までは一々気にしていなかったがな。薄汚いスラムの人間など全て同じ顔にしか見えん。蛆の一匹一匹を見分ける事が困難であるように。馬の糞の形を、一つ一つ気にも留めぬようにな」
その笑みに温度は無い。ただ、他者を見下す色だけがあった。
月明かりが男の横顔を青白く照らす。細められた瞳には、人の命を数としてしか見ていない冷淡さが宿っていた。
男にとって問題なのは損害では無い。駒が幾つ壊れようと構わない。代わりなど幾らでも居る。重要なのは盤面だ。全てが自らの支配下にある事。自らの理解の内側で動いている事。それだけだった。
「だがまあ。無駄にしぶとかった記憶くらいはある。だから使ってやっていた。それだけの話だ」
コツ、と。再び指先が鳴る。一定の間隔で響くその音だけが、静まり返った室内へ乾いた余韻を落としていく。
窓の外では風が鳴っていた。薄布のカーテンが揺れ、月明かりが床を滑る。燭台の火はその風に煽られ、小さく影を歪ませていた。
男の横顔は冷えている。そこに感慨は無い。死んだ駒を惜しむ色など、一欠片も存在しなかった。
「消えたのなら消えたで構わん。代わりなど幾らでもいる」
吐き捨てるような声音。人を人として扱っていない。必要なのは従順に動く手足だけ。壊れれば、新しいものへ替えれば良い。それだけの事だった。
「……恐れながら」
従者の男が静かに頭を垂れたまま口を開く。
「恐れながら、下手人が“
「それこそどうでも良い」
男は僅かに眉を顰める。興味の薄い声音だった。まるで既に終わった話題へ触れられた事そのものが煩わしいと言わんばかりに。
しかし従者は淡々と続ける。
「念の為にございます。仮に下手人が無関係の第三者であった場合、何処かで不要な騒ぎへ発展する可能性も否定出来ませぬ」
燭台の火が小さく揺れる。影が歪む。男は頬杖をついたまま、つまらなそうに鼻を鳴らした。
「騒ぎになろうが知った事では無い。所詮は贋作だ」
静かな声だった。しかし、その奥には確かな侮蔑が滲んでいる。価値の無い物。不要になった物。既に役目を終えた物。男の中では、それだけだった。
「アレがどうなろうと計画に支障は無い。何なら都合が良いくらいだ」
静かな声だった。男は僅かに口元を歪める。笑みにも似ていた。そこに温度は無い。
しかし、その奥には確かな自負がある。既に全ては盤上へ並べ終えている。多少の誤差など問題にならない。そんな傲慢さが滲んでいた。
「此方の手を完全に離れているなら、余計な詮索も避けられる。何者の仕業かは知らんが……寧ろ感謝してやっても良い」
燭台の火が揺れる。その瞬間、男の影が壁へ大きく伸びた。細められた濃紅の瞳には揺らぎが無い。自分の計画は崩れ無い。崩れる筈が無い。そう信じ切っている者だけが持つ、盲目的な確信だった。
「……それよりも、だ」
小さく吐き捨てる。その声音には再び苛立ちの色が強く滲んでいた。
「先の件についてだ」
静寂が落ちる。燭台の火が小さく揺れ、壁へ伸びた影を歪ませた。重厚な室内は夜の冷気を閉じ込めたように静まり返っている。厚い絨毯は足音を呑み込み、窓辺に垂れた薄布だけが、時折吹き込む風に僅かに揺れた。
男は頬杖をついたまま、暫く何も言わなかった。窓の外に浮かぶ月を眺めるその横顔は静かだ。しかし、その沈黙の下では思考が絶え間無く渦巻いている。
虫以下の塵が幾つ消えようと知った事ではない。使い潰す為の駒が壊れた。ただそれだけ。
しかし——剣の消失だけは別だった。
それも、理解不能な形で。剣が発光した事も。飛翔した事も。そして、導かれるように少女の眼前へ落ちた事も。理解の外側にあるものは、それだけで不快だった。
認識出来無いもの。制御出来無いもの。自らの手を離れて動くもの。それら全てが、男の神経を静かに逆撫でしていた。
世界とは本来、理解出来るものであるべきだ。力ある者が盤を敷き、弱き者はその上で踊らされる。そこに不可解など入り込む余地は無い。だからこそ気に入らない。剣が自ら飛んだなどという報告も。裏道を知るスラムの娘も。自らの知らぬ場所で、自らの知らぬ理屈で動く何かも。
コツ、と。指先が再び肘掛けを叩く。乾いた音が広い部屋の静寂へ沈んでいった。
「下手人が何者か……何か当たりは付いているのか?」
低い声が、静かな室内へ沈む。苛立ちを押し殺した声音。その奥底には明確な不快感が滲んでいる
従者の男は、既にその問いを予期していたかのように静かに一礼した。
「はい。断定には至りませぬが、ある程度は」
穏やかな声音。しかし、その言葉には曖昧さを嫌う慎重さが滲んでいる。
そして、淀みが無い。言葉を選びながらも、主へ不要な不安を与えぬよう整えられた報告だった。
それに、男は視線だけで続きを促した。
「“翼”からの目撃証言によりますれば、対象は桃色の頭髪を持つ少女であったとの事にございます。背丈はそれ程高く無く、華奢な体躯。年の頃は十代後半程度かと」
月光が窓辺から差し込み、床へ淡い銀を流していた。静かな夜だった。その静けさの中で語られる内容だけが、妙に現実味を帯びている。
「そして、“翼”の一人が証言しております」
従者は一度言葉を区切る。
「……その人物は、“ミオラ・シェイド”ではないか、と」
「誰だ、そいつは」
即座に返された声には、露骨な無関心が滲んでいた。
男の眉間へ僅かに皺が寄る。知らない。聞き覚えも無い。それが何より気に入らないと言わんばかりの表情だった。
それに従者は静かに頭を垂れたまま答える。
「スラム街出身の少女にございます。“翼”の構成員とも接点があります。……尤も、その接点はかなり薄いものではございますが」
男は小さく鼻を鳴らした。その程度の存在等、記憶に留める価値も無いと言わんばかりに。
従者は淡々と続ける。
「証言を行った者も同じくスラム街の出にございます。加えまして、桃色の頭髪は極めて特徴的。背格好も一致しております」
燭台の火が揺れる。影が微かに蠢いた。
「彼女はスラム街では相応に名の知られた存在であったとの事。無論、確証と呼べる程ではございません。ですが、証言の信憑性としては一定以上担保されているかと存じます」
男は黙って聞いている。頬杖をついたまま、真紅の瞳だけが冷たく光っていた。
「……何より、彼女は以前より忽然と姿を消す事があったとの話が残っております」
その言葉に、男の指先が止まる
「詳細は不明。ですが、何らかの手段により“裏道”を把握、あるいは利用していた可能性がございます」
裏道。その単語が部屋の空気を僅かに重くする。
正規の道では無い。記録にも残ら無い。人の目から零れ落ちた抜け道。それを知る者は限られている。
存在そのものが半ば噂話のようなもの。男とてその存在を知ったのは偶然であった。十年程前に、偶然。ある探索者がぽつりと溢した言葉を聞いただけ。
戯言のように零した一言。最初は笑い飛ばした。しかし調べる内に、確かにあると知った。そして、その存在へ辿り着けたのは——己の立場と権力があったからこそだ。
それを、スラムの娘が知っている。その事実が、男の胸中へ静かな苛立ちを落としていた。
「無論、ミオラ・シェイドが今回の計画そのものを把握していたとは考え難いかと存じます」
従者は静かに頭を垂れたまま続ける。
「しかしながら……偶然その場へ居合わせた可能性は十分にございます」
沈黙。男はゆっくりと目を細めた。桃色の髪。裏道。偶然の遭遇。そして、剣の消失。
点が線として繋がっていく。男の中では、それだけで十分だった。偶然だろうが何だろうが関係無い。そこに居た。剣は消えた。それだけで良い。
男はゆっくりと口元を歪める。笑みにも見える程冷たく。そこにあるのは愉悦ではない。獲物へ狙いを定めた肉食獣のような悍ましさだけだった。
「……ならば、その下手人はそのミオラ・シェイドで間違いないだろう」
低い声音だった。その表情と共に、冷え切っている。最初から異論など存在しないと言わんばかりの断定。
月明かりが静かに床を這っていた。
窓辺へ落ちた銀色の光は、豪奢な室内へ冷たい陰影を刻み込んでいる。揺れる燭台の火だけが僅かな熱を残していたが、それすらこの部屋を満たす空気の冷たさを拭い去る事は出来無い。
この部屋を満たしているのは温度ではなく、張り詰めた静寂だった。
コツ、と。乾いた音が響く。男の指先が、一定の律動で肘掛けを叩いていた。
「……どうにかして捕えろ」
低く落ちた声音は鋭かった。怒鳴っている訳では無い。激情を露わにしている訳でも無い。それでも、その一言だけで空気が更に重く沈む
「ミオラ・シェイド。剣ごと、必ず確保しろ」
滲み出た怒気が、言葉の端々へ静かに絡み付いていた。異論も反論も許さない。否を口にした瞬間、その場で切り捨てられても不思議ではない——そんな覇気がある。
男の声は決して荒々しくはない。だからこそ恐ろしい。抑え込まれた激情だけが、静かに燃えている。
それを受けても尚、従者の男は冷静だった。音も無く一礼し、静かに口を開く。
「……一つ、提案がございます」
その声音には余計な感情が無い。怯えも無ければ、取り繕う焦りも無い。ただ、長年主へ仕えてきた者特有の、磨き抜かれた落ち着きだけが存在していた。
男は視線だけを向ける。続きを話せ、と。その意思を、瞳だけで示している。
従者は再び、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「“風抜けの廃坑”へ誘導するのは如何かと存じます」
その瞬間、男の指先が僅かに止まった。燭台の火が揺れる。
従者は変わらぬ口調のまま続けた。
「“翼”から上がった情報によりますれば、ミオラ・シェイドはスラム街の孤児院出身との事にございます。そして、彼女自身、そこへ浅く無い恩義を感じているとも。彼女はどうやら、現在探索者として活動しているようです。しかし、それで孤児院から疎遠になるとは考え辛い」
男は何も言わない。ただ静かに聞いている。
「でしたら、その孤児院の子供達へ“トルメリア”の話を流すのでございます」
夜風が窓辺の薄布を揺らした。月光が流れ込み、床へ淡い銀を広げていく。
「トルメリアは古くより“感謝を伝える石”として知られております。贈り物としての価値も高く、殊に孤児達のような子供でも耳にする程度には有名な話かと。仮に孤児達が知らなかったとしても。ミオラ・シェイドがその存在を知らない可能性はかなり低い」
従者の声音は穏やかだった。まるで世間話でも語るように。
「そして、ルクス=ヴェスペリア王国内に於いて、高品質のトルメリアが採掘される場所は“風抜けの廃坑”のみ。……無論、市場にも流通はしております。しかし、それらは大半が諸外国からの輸入品。質は低く、本来の輝きには程遠い。探索者である彼女がその程度の知識を持っていても不思議ではございません」
コツ、と。男の指先が再び肘掛けを叩いた。静かな音だった。しかし、その一定の律動は、男が思考を巡らせている証でもある。
「孤児達が“本物のトルメリアを手に入れたい”と願えば、彼女は動く可能性がございます」
従者はそこで一度言葉を切る。
「無論、偶然の要素はございます。確実とは申し上げられません」
燭台の火が揺れる。壁に映る影が微かに歪んだ。
「……ですが、勝算は決して低くないかと」
男は黙って聞いていた。頬杖をついたまま、冷えた瞳だけが静かに細められている。
「何より利点がございます」
従者の声音は変わらない。どこまでも丁寧で、どこまでも冷静だ。
「直接我々へ繋がり得る証拠が残りません」
その言葉に、男の口元が僅かに歪む。従者は続けた。
「スラム街で直接捕縛する事も不可能ではございません。ですが、あの場所は余りにも入り組み過ぎております」
スラム街。汚泥と腐臭。崩れかけた建物。積み重なった廃材。蜘蛛の巣のように入り組んだ路地。人一人消える程度、何でもない場所。
「加えまして、“裏道”を利用している可能性がある以上、逃走される危険性が高過ぎます」
静かな口調だった。しかし、その分析には現実的な重みがある。
「そして何より、“翼”の姿を日の下へ晒す危険がございます」
男の瞳が僅かに鋭くなる。それは避けねばならない。翼の存在は、表へ出して良いものではない。
自らの、痕跡を残さぬ手足として。何より、自分自身へ繋がる導線を持たぬまま使える駒として。男が決して失う訳にはいかない手札だった。
「天秤に掛けるには、勝算が低過ぎるかと存じます」
沈黙が落ちる。窓の外では風が鳴っていた。
男は頬杖をついたまま、ゆっくりと目を細める。
風抜けの廃坑。地下深くまで穿たれた古い採掘場が映し出された
その脅威度は高過ぎず、低過ぎない。腕に覚えのある探索者が単独で赴くには丁度良い難易度だ。
そして何より閉ざされている。広く複雑なスラム街と違い、逃げ隠れするには余りにも不向き。『裏道』も、その性質上王都から離れれば利用は困難。
加えて——男自身、その場所を知り過ぎていた。構造も。死角も。獲物を追い詰める為の地形も。誘い込み、待ち構えるにはこれ以上無い場所。
そして偶然を装うには十分な餌。悪くない。少なくとも、無駄に路地を駆け回るよりは遥かに。
男は小さく鼻を鳴らした。
「……いいだろう」
低い声だった。
月明かりが、その冷え切った横顔を静かに照らしていた。
「ならば誘い出せ。餌に食い付いた瞬間、袋へ叩き込めば良い」
コツ、と。乾いた音が静寂へ沈んだ。男の指先が、肘掛けを一定の律動で叩いている。まるで思考そのものを刻み付けるような音だった。広過ぎる室内では、その微かな音ですら妙に大きく響く。
男は暫く何も言わなかった。細められた赤色の瞳だけが、静かに闇を見据えている。
窓辺から差し込む月光は冷たく、床へ細長い銀を流していた。揺れる燭台の火は、その光へ抗うように小さく明滅している。しかし、この部屋を支配しているのは暖色ではない。夜の冷気と、押し殺された威圧感だった。
沈黙の裏側で、男の思考は既に次の盤面を描き始めていた。
風抜けの廃坑。地下深くへ穿たれた古い採掘場。崩落した坑道。湿った岩肌。吹き抜ける風の唸り。人の気配を呑み込む薄暗い通路。そして——逃げ場の無い閉鎖空間。
男の脳裏には幾つもの光景が浮かんでいた。坑道を駆ける少女。荒い呼吸。石床を蹴る足音。その背後を、影のように迫る影。逃走経路を塞がれ、徐々に追い詰められていく姿。闇の中で行き場を失い、恐怖に目を見開く瞬間。
そして最後には——剣を抱いたまま、力尽きるように膝を折る。
そこまで想像し、男は僅かに口元を歪めた。
愉悦ではない。快楽とも違う。それは、乱された盤面が本来あるべき形へ戻っていく感覚に近かった。
自らの理解の外側へ転がり落ちた駒を再び掌の内へ引き戻す。その感覚だけが胸中へ微かな安堵を齎している。
理解出来ないものは不快だった。制御出来ないものは醜悪だった。世界とは本来、選ばれた者が形を定めるべきなのだ。力ある者が盤を敷き、価値無き者はその上で踊らされるだけで良い。
だからこそ、自らの知らぬ理屈で動く存在を許せない。スラムの娘風情が。己の盤上を乱したという事実そのものが。
「……廃坑内部へは誰を回す」
低い声だった。従者は即座に答える。
「既に数名選定しております。“翼”の中でも地形把握に優れた者を中心に」
「口封じは」
「必要に応じて」
淀みの無い返答だった。それに男は小さく鼻を鳴らす。
実に使い易い。長年仕えてきただけはある。余計な感情を挟まない。命令の意図を汲み取る。必要とあらば自ら泥を被る事すら厭わない。
だからこそ重用している。人は感情を持つ。恐怖。躊躇。罪悪感。そういった脆弱さは時として計画を狂わせる。しかし、この男にはそれが無い。或いは、長い年月の中で既に削ぎ落としてしまったのか。
どちらでも構わない。重要なのは、使えるか否かだけだ。
「生死は問わん」
男は静かに告げた。
「剣さえ回収出来れば良い」
その言葉に一瞬だけ沈黙が落ちる。従者は静かに頭を垂れた。
「……承知致しました」
燭台の火が揺れる。窓の外では風が鳴っていた。まるで遠く離れた廃坑から吹き抜けてくるかのような、不気味な夜風だった。
男はゆっくりと立ち上がる。外套が翻り、月光を受けた銀糸が鈍く煌めいた。
「失敗は許さん」
その声音に激情は無い。しかし、だからこそ重い。
「“翼”へ伝えろ。今回の件は最優先事項だ」
男は窓辺へ歩み寄る。眼下には王都の夜景が広がっていた。煌びやかな街並み。光に満ちた表通り。そして、その下に広がる汚泥の街。
男はそれら全てを見下ろしている。まるで王都そのものを掌へ載せているかのように。
「逃がすな」
静かな声が落ちる。
「二度と盤上を乱せぬよう、確実に潰せ」
その瞬間。燭台の火が、ふっと大きく揺れた。
壁へ映し出された男の影が不自然な程大きく歪む。それはまるで。王都の夜を覆い尽くそうとする、巨大な怪鳥のようだった。