追放の真意〜そんなものは無かったが、仲間も敵も王族も、みんな勝手に深読みしてくる〜 作:目下−1
転移陣の光が視界から剥がれ落ちる。瞬きの後、そこは見慣れた王都の雑踏だった。石畳。行き交う人々。市場の喧騒。たった一日ぶりの筈のその景色が、まるで別の世界のもののように遠い。
オレは走った。人波を縫い、荷車を飛び越え、路地を抜ける。誰かの怒声が背中で弾けたが振り返る余裕は無かった。
心臓が痛い。走っているせいじゃない。あの魔術師の囁きが耳の奥に張り付いて剥がれないせいだ。
——スラムの外れの、温い巣穴。
——雛鳥が、よく肥えていた。
やめろ。やめてくれ。頼むから間に合ってくれ。
祈りとも呪いともつかない言葉を胸の内で繰り返す。表通りの整った石畳が途切れ、罅割れた土の道へと変わる。
饐えた匂い。傾いだ家々。落書きだらけの塀。オレが生まれ育ったスラムの景色。ガキの頃は世界の全てだった風景が今はただの障害物の連なりでしかない。それすらもまともに目に入らなかった。
角を曲がる。崩れかけた家並みの先。見慣れた尖塔が視界に飛び込んでくる。
そして——オレは息を呑んだ。
教会の壁が壊れていた。
正面の扉のすぐ脇。石壁が内から外へ弾けたように崩れている。砕けた石材が前庭に散らばり、あの綺麗に掃き清められていた地面を無残に埋めていた。干してあった洗濯物が瓦礫を被って土に塗れている。
長年、雨風に耐えてきた古い壁だ。ガキの頃よじ登っては司祭に叱られた、あの壁だ。それがまるで薄紙のように破られている。
「——っ」
喉の奥が、ひゅ、と鳴った。
頼む。頼む頼む頼む。
もつれそうになる足を叩きつけるようにオレは駆けた。前庭に飛び込む。
子供達がいた。生きて、いた。
安堵で膝から崩れ落ちそうになる。だが次の瞬間にはその安堵は別のものに塗り替えられた。
子供達の様子がおかしい。
泣いている者。呆然と座り込んでいる者。年上の子に縋り付いて震えている者。小さいのを抱えておろおろと歩き回る者。いつもなら真っ先に飛びついてくる連中が誰一人笑っていなかった。壊れた壁を遠巻きに、寄る辺なく固まっている。
「おい……!みんな、無事か!?」
オレの声にいくつもの顔が一斉にこちらを向いた。
「……ミオラ、ねえちゃん……?」
「ミオラねえちゃんだ!」
「ねえちゃん……!ねえちゃぁん……!」
堰を切ったように小さい影が駆けてくる。トトだった。
いつもなら元気一般な顔を涙と鼻水でぐしゃぐしゃにして、転びそうになりながらオレの腰へと縋り付いてくる。小さい身体が燃えるように熱い。そして震えていた。
「ミオラねーちゃん……っ、あの、ね、あのね……っ、こわい、ひとが……っ」
「ああ。ああ、分かった。分かったから」
オレは膝をつき、その小さい背中を抱き締める。掌に伝わる鼓動が痛々しい程に速い。
「落ち着けトト。ゆっくりでいい。何があった」
「エ、エルナ、ねーちゃ、が……っ、ひっく……っ、エルナねーちゃんが……!」
言葉にならない。しゃくり上げる度に喉が詰まり、後はもう泣き声にしかならなかった。それでもトトは必死に何かを訴えようとしている。その必死さが却って最悪の想像を裏付けていく。
祈るように辺りを見渡す。しかし、エルナ。この場にあいつの姿が無い。あいつの姿だけが、無い。
いつもなら真っ先に子供達をまとめて気丈に振る舞っている筈の、あの子の姿が。
「……ミオラお姉ちゃん」
背後から静かな声がした。
振り返ればサラが、目の縁を赤くして、それでも唇を噛み締めて涙を堪えている。小さい子の手を握ったまま。彼女はオレの前に立った。震える膝を隠すように、両の足を踏ん張って。
「サラ。……何があった。話せるか」
「……うん」
サラは一度大きく息を吸った。震える声を懸命に押さえ付けながら、ゆっくりと語り始める。
「急に……血だらけの男の人が来たの。ふらふらしてて、最初は怪我した人かと思った。でも……」
その先を思い出したのかサラの肩がびくりと跳ねた。
「壁を魔術で壊して。それで一番近くにいたエルナ姉ちゃんを……捕まえて。抵抗したら他の子も、って……」
「……っ」
「エルナ姉ちゃんは、わたしだけでいいなら暴れないって。それで……連れて、行かれた」
ああ——エルナ。お前って奴は。
胸の奥が軋んだ。あの子はそういう子だ。一番怖い時に一番年下の顔を先に見る。自分の恐怖を後回しにして、小さい手を先に握る。
昔からずっとそうだった。オレが探索者になると言って飛び出した時も、あの子は泣くのを我慢して、チビ達の手前だからと笑って送り出した。
「男の人が、最後にこれを」
サラが握り締めていた紙切れを差し出してくる。皺だらけになったそれを押し付けるように、投げるように男は寄越したのだという。
「ミオラ姉ちゃんに渡せって。それから……ここに一人で来いって」
オレは安心させるように、努めて穏やかな表情を作る。それから優しく頭を撫でて、その紙を受け取った。
サラの指先が震えている。恐怖か、或いは怒りか。他の小さい子達を不安にさせないように、それを必死に抑えている。
渡された紙を広げれば、それは地図だった。
何の変哲も無い王都の市街図。大通りの露店で銅貨数枚も出せば誰でも買える、ありふれた代物。その一部を乱雑に破り取ったものだ。
だがその一点だけが違った。地図のある地点が赤黒く染められている。インクでは無い。指で擦り付けたような染み。
——血だ。あの男の血だろう。乾きかけた赤黒い染みが丸くその場所を囲っていた。まるで獲物に印でも付けるように。
文字は血に汚れて見えない。しかしその場所には覚えがあった。
歴史の眠る王立博物館。その裏手。
「……地下霊廟」
思わず掠れた声が漏れる。
歴代の王族達が眠るとされる古い地下墓所。王都の人間なら誰もが知っている。そして誰も近寄らない場所。祀られているのは死者ばかり。
参るのは年に数度の式典の折だけ。その時でさえ、訪れるのは位の高い貴族や王族だけだ。
普段は静まり返った石の穴倉だった。
なんで、そんな場所に。疑問は湧いた。だが考えている暇は無かった。
「サラ。みんなを頼む。司祭は?」
「分かんない……朝から、いなくて」
「……そうか」
こんな時に限って。いや、いなくて良かったのかもしれない。あの人がいたら無茶をしたかもしれない。
オレは立ち上がる。腰に縋り付いたままのトトの頭をくしゃりと撫でた。
「トト、泣くな。——エルナは、オレが連れて帰る」
「……ほん、と……?」
「ああ。約束だ」
嘘になるかもしれない約束だった。それでも言い切った。言い切らなければオレ自身の足が竦みそうだったから。
泣き噦る子供達を宥めるように笑顔を作る。一人一人の頭を撫でてやれる時間は無い。せめて不安にさせない声音で大丈夫だからとだけ言って、オレは駆け出した。
背中に子供達の視線を浴びながら。振り返らずにスラムの出口へ。
——待ってろ、エルナ。……すまん、ルシア。もう少しだけ待っててくれ。
————————
地下霊廟の入り口は拍子抜けする程あっさりと開いていた。
王立博物館の裏手。手入れの行き届いた植え込みの陰にその古い石段はある。本来なら閂の下りている筈の鉄扉が開け放たれていた。
捩じ切られた様子は無い。初めからそうであったとでも言うように。ただ、口を開いている。
オレは剣の柄に手を添えたまま石段を降りる。一段、また一段。地上の光が遠ざかり、代わりにひやりとした死者の空気が満ちてくる。
静かだった。あの廃坑とはまた質の違う静けさだ。廃坑の静寂が『空っぽ』なら、ここの静寂は『満ちて』いる。
壁の向こうに。床の下に。幾つもの眠りが横たわっている。その気配が石の冷たさになって肌へ染みてくる。息をするのも憚られるような、密度のある沈黙。
通路の壁龕には等間隔に灯りが灯っていた。魔道具だろう。青白い、死人の肌のような光。それが彫り込まれた王家の紋章や古い碑文をぼんやりと浮かび上がらせている。歴代の王の名。功績。祈りの文句。オレには縁の無い、けれど確かに数百年を刻んできた文字の列。
オレの足音だけが、こつ、こつ、と反響した。まるで死者達が寝返りを打つ音のように、遠くで幾重にも重なって返ってくる。
どれ程進んだだろう。通路の先に光が見えた。他より明るい、開けた空間。
オレは足音を殺し——いや、やめた。
どうせ向こうは待ち構えている。隠れて近付いたところでエルナを盾にされるだけだ。それに、こそこそと影を渡る為の魔力は、いざという時の為に残しておきたい。
オレは真っ直ぐにその空間へと踏み込んだ。
高い天井。それを支える太い石柱が円を描くように立ち並んでいる。中央の床には巨大な紋章が刻まれ、壁際には歴代の王達の石棺が静かに並んでいた。
壁一面には王家に名を連ねる者達の名が刻まれている。俗に言えば、家系図だろうか。
そして、数百年の眠りの間。その中央に。
いた。
あの魔術師。そして——その腕の中にエルナが。
「——エルナ!」
「ミオラ、お姉ちゃ……っ!」
エルナの声が途中で詰まる。魔術師の腕がその細い首に回されていた。
男の有様は酷いものだった。夜色の外套は裂け、あちこちが血で黒く固まっている。顔色は死人のそれに近く、立っているのもやっとに見えた。エイルとの戦闘、そして無理な転移。その代償が全身に刻まれている。
だがその瞳だけは死んでいなかった。昏い、粘つくような光がオレを捉えて離さない。
「……来ましたか。ミオラ・シェイド」
掠れた、それでも慇懃さだけは崩さない声。
「エルナを離せ」
「ええ、ええ。離しますとも——その剣と引き換えに」
男の視線がオレの腰の剣へと注がれる。
「剣をこちらへ。そうすればこの娘だけは助けて差し上げましょう。……ああ、妙な気は起こされませんよう。私はこの通り満身創痍でしてね。加減というものが出来そうにない」
男の腕に力が籠る。エルナの顔が苦痛に歪んだ。
「——やめろ!」
オレは思わず一歩踏み出し、そして止まる。
……信じられるか。こんな奴の言葉を。
剣を渡したところでエルナが解放される保証など何処にも無い。目撃者は消す。あの連中はそういう手合いだ。廃坑で嫌という程思い知った。
だが。エルナの首に回された腕を見れば、選択肢などあって無いようなものだった。
考えろ。考えろ考えろ。
剣を渡す。渡した後の一瞬。奴の意識が剣へ向く一瞬。そこしか無い。魔力の残りを数える。魔術を使えるのは——保って、あと二回。仕損じれば、その時は。
エルナと目が合った。怯え切った瞳。それでもあの子は、微かに首を横に振った。剣を渡しちゃ駄目、と。自分を見捨てろ、と。そう言っているのだ。
この剣が何なのか。どうして剣を寄越せと言っているのか。エルナは知らない。当のオレですら知らない。それなのに、この期に及んで。
……馬鹿野郎。誰がお前を見捨てるか。
オレは腰の剣をゆっくりと鞘ごと引き抜いた。
「……分かった」
「賢明です」
「剣は渡す。だからエルナには指一本触れるな」
オレは剣を軽く持ち上げてみせる。そして——放った。
放物線を描いて剣が宙を舞う。鞘に収まったままのそれは、くるり、と回転しながら男とオレとの中間、やや男寄りの床へと硬質な音を立てて転がった。
男の視線が一瞬。ほんの一瞬。その剣へと吸い寄せられた。
——今だ。
オレは残された魔力を一息に練り上げる。
脳裏に描くのは影。石柱が落とす影。オレ自身の足元の影。そして男の背後、石棺が壁との間に落とす深い影。
『投影』。
影から影へ。染み込むように潜り、滲み出るように現れる魔術。他に誰かが使うのを見た事はない。理屈も知らない。けれど物心ついた時から何故か使えた唯一の魔術。
廃坑からここまで駆け抜けたのもこの術あってこそ。尤も燃費は最悪で、オレの細い魔力じゃあと数える程しか使えないが。
視界が反転する。一瞬の冷たい暗転。全身が影に溶け、そして——
次の瞬間、オレは男の背後の影から滲み出ていた。
「なっ——」
男が気付く。だが遅い。武器は無い。しかしそれで十分。影から飛び出した勢いをそのままに。オレは渾身の力で男の背を蹴り付けた。
「がっ……!?」
満身創痍の身体は呆気なく泳いだ。エルナを拘束していた腕が解ける。
「エルナ!走れ!」
精一杯に声を張る。よろけた男から目を離す事無く。睨みつけたままに叫ぶ。
それにエルナはたたらを踏んで振り返った。その顔には混乱と恐怖。それからオレを置いていけない、という迷いがぐちゃぐちゃに浮かんでいる。
「でも、ミオラお姉ちゃんが……!」
「いいから走れ!」
腹の底から怒鳴った。空気を痺れさす程の怒声が霊廟に木霊する。
「振り返るな!まっすぐ帰ってみんなの所にいろ!——約束したんだ、トトと!お前を連れて帰るって!だから走れェ!!!」
エルナの目にぶわりと涙が浮かぶ。それでもあの子は賢かった。ぐっと唇を噛み、身を翻す。小さい足音が広間から通路へ。遠ざかって、消えていく。
……よし。これで憂いは無い。
「……小賢しい、真似を」
体勢を立て直した男が憎悪も露わにこちらを睨む。だがその視線はすぐに床に転がった剣へと移った。
「まあ、いい。小娘一人逃げたところでどうとでもなる。……目的は果たされる」
男が剣へと手を伸ばす。血に汚れた指が鞘に触れようとした——その刹那。
オレは念じた。戻れ、と。
剣がひとりでに跳ねた。男の指先を擦り抜けるように鞘ごと宙へ躍り上がる。そして風を切り、一直線にオレの掌へと収まった。
ぱし、と。乾いた音が霊廟に響く。男が自分の空の掌を呆然と見下ろしていた。
「……は?」
「悪いな」
オレは鞘を払う。しゃり、と刀身が姿を現し、淡い紋様の光が青白い霊廟を照らした。
「こいつはオレの剣なんだ」
ルシア。お前の馬鹿げた魔術に二度も救われたよ。
「そんな……まさか!その剣は——!!」
男の顔がみるみる歪んでいく。驚愕から屈辱へ。そして屈辱から憤怒へと。
「……ふ、ざけるな。ふざけるなふざけるなふざけるな……!貴様如き塵芥の分際で……!どこまでこの私を虚仮にすれば気が済む……!」
取り繕う余力ももう無いのだろう。剥き出しの激情が死人のような顔を朱に染めていく。
「もういい……もう、いい!こうなれば!貴様を殺して、その手から毟り取るまでだ!」
男の全身から魔力が膨れ上がった。
——来る。
オレは剣を構えた。
最初の一撃は視認すら出来なかった。
気付けばオレの左頬のすぐ横を灼熱が通り過ぎていた。遅れて背後の石柱が爆ぜる音。飛び散る石礫が背中を叩く。
「——っ!」
反射的に横へ跳ぶ。次弾が今しがたまでオレのいた床を穿った。青白い霊廟が閃光に白く染まり、死者達の眠りの間が轟音に震える。
速い。廃坑で見たものと遜色ない。満身創痍の筈なのに、放たれる魔術の威力そのものは殆ど衰えていなかった。
三発目。四発目。
石柱の陰から陰へ。転がるように渡る。柱の表面が削れ、王家の紋章が砕け散っていく。
五発目が肩を掠めた。
「ぐっ……!」
左肩に灼けるような激痛が走る。布ごと皮膚が焦げた匂い。掠っただけでこれか。直撃すれば胴に穴が開く。
オレは石柱の陰に転がり込み、荒い息を整えた。
化け物め。あの黒髪はこんなのをあんな涼しい顔で捌いていたのか。
柱の陰から様子を窺う。男は広間の中央に陣取り、次々と魔術を練り上げている。踏み込む隙が無い。近接主体のオレにとって間合いを詰められない魔術師は天敵そのものだ。
しかも狙いは正確にオレの居場所を捉え続けている。柱の陰に隠れても着弾は真横を掠める。気配か。魔力の残滓か。魔術師では無いオレには分からない。しかし、何かしらでこちらを捕捉している。
だが。六発目が柱を掠めて飛んでいく。その軌道を目で追ってオレはふと気付いた。
……雑だ。
威力は同じだ。速度も同様に。けれどその一発一発の『形』がどこか歪だった。廃坑で見たあの精緻で無駄の無い構築とは明らかに違う。輪郭が滲み、軌道が僅かに揺れている。狙いも単調だ。オレの動きの先を読まず、ただ今いる場所へ撃ち込んでくるだけ。
試しに、柱から柱へ跳ぶ瞬間に緩急を付けてみる。速く出て、遅く着く。果たして着弾はオレの速いままの未来位置を穿った。誰もいない床が爆ぜる。
……そうか。
エイルとの戦闘。あの絶望的なまでの猛攻で瀕死の重傷を負い、無理な転移までした。魔力の残量も術式を編む集中力もとうに限界を超えている。威力という『量』は残っていても、構築という『質』が崩れ始めているんだ。
ならば——付け入る隙はそこだ。
単調な狙いなら読める。雑な構築なら綻びも生まれる。避けて避けて避け続けて。一瞬の隙に懐へ潜り込む。一撃入れられればそれで終わる相手だ。
オレは剣を握り直した。左肩がずくりと痛む。構うものか。
「——ぅ、おおおっ!」
勢い良く柱の陰から飛び出した。途端、魔術の雨が殺到する。
右。読み通り。半身でいなす。次は足元。跳ぶ。着地点に一発。これも単調だ。跳んだ先じゃなく跳ぶ前の位置に撃っている。空中で身を捻り、爆風を背に受けて寧ろ前へ。
視界の端で光が膨れる。避け切れない分は勘で補う。ここだ、と思った場所から半歩ずらす。灼熱が耳元を掠めていく。髪の焦げる匂い。構わない。前へ。前へ。
石柱が爆ぜ、石棺の蓋が砕け、数百年の眠りの間が轟音に満たされていく。壁龕の灯りが幾つも砕け、広間の明かりが不規則に明滅を始めた。閃光と闇とが交互に世界を塗り替える。その明滅の間隙すら、オレは足場にする。光った瞬間に位置を刻み、闇の間に距離を詰める。
王族達には悪いが少しの間辛抱してもらう。
距離が詰まる。十歩。五歩。三歩。男の顔に初めて焦りが浮かんだ。
——取った!
オレは地を蹴り、剣を振りかぶった。その瞬間。
「——甘い」
男が小さく呟き。指を鳴らした。
オレの足元の床が——爆ぜた。
「——っ!」
視界が白く染まる。轟音。衝撃。
罠か。事前に床へ仕込んでいたのか。跳び退るべきだ。距離を取って仕切り直すべきだ。頭の冷静な部分がそう叫ぶ。
だが——オレの身体は止まらなかった。
爆発のその熱の中でオレは確かに感じ取っていた。
……軽い。
威力が無い。音と光ばかりが派手なだけの張り子の爆発。罠では無い。事前に練り上げていた訳でも無い。咄嗟に有り合わせの魔力で無理矢理組んだ、雑極まりない術式。言うなれば苔威だ。
足の裏が焦げる。脛を石礫が叩く。それだけだ。この程度、廃坑の怪遺の体当たりの方が余程効いた。
だからオレは。怯む事無く、力強く踏み込んだ。
「なっ——!?」
男の目が見開かれる。
そうだろうな。爆発を喰らえば誰だって一度は退く。お前はそう読んで、その隙に次の術を編むつもりだった。現にお前の手元ではもう次の術式が組み上がりかけている。
だがオレは退かなかった。
読みが外れた。組みかけの術式を放つにはまだ早い。捨てるには惜しい。その逡巡が致命的な硬直を生んだ。
「ぉおおおっ!!」
剣が。過剰な程に装飾された雅な剣が。その荘厳さとは掛け離れた殺意を持って迫る。
男は悲鳴じみた声と共に、組みかけの術式を——暴発させた。
制御を投げ捨てた魔力が男自身を中心に爆ぜる。衝撃波がオレの身体を弾き飛ばした。
「ぐ、あっ……!」
床を二度、三度と転がる。剣だけは離さなかった。受け身を取り、片膝で止まる。口の中に血の味が広がっていた。
効いた。効いたが浅い。顔を上げる。土煙の向こうで男もまた膝をついていた。
自らの暴発に自らが巻かれたのだ。ただでさえ満身創痍だった身体から、最後の血の気が失われていく。肩が大きく上下している。もう立っているのもやっとの筈だ。
互いに肩で息をしながら睨み合う。
数百年の死者達の眠りの間で、生者二人の荒い呼吸だけが響いていた。砕けた石棺。抉れた床。明滅する灯り。静謐だった霊廟は見る影も無い。
そして——男が嗤った。
「……認めましょう。塵芥、などと。……とんだ見込み違いだ」
男がゆらりと立ち上がる。そして、その全身から残された魔力の全てが立ち昇り始めた。
「ですが。これで終いです」
男の頭上に光が生まれていく。
一つ。二つ。十。二十。数え切れない。無数の光弾が天井を埋め尽くすように次々と紡がれていく。それは最早術式の枠を超えていた。残りの命ごと魔力を搾り尽くす、破れかぶれの最後の大技。
霊廟の天井が、偽物の星空のように輝いていた。青白い死者の灯りを、殺意の光が塗り潰していく。
構築は粗い。だがこの数は。この規模は。躱し切れる量じゃない。術式の構築を止める時間も無い。
退路は。振り返るまでもない。この広間に入った時から、逃げ場なんてものは最初から無かった。
なら——
オレは一つ深く息を吸った。剣を低く構える。脚は震えている。肩は焼けている。魔力は最後の一滴が、腹の底に残っているだけ。だが、やる事は決まっていた。
オレは——真正面から突っ込んだ。
「はははっ!自棄になりましたか!」
光の雨が降り注ぐ。床が爆ぜ、柱が砕け、視界の全てが白と轟音に埋め尽くされていく。オレはそのただ中を真っ直ぐに駆けた。一直線に。愚直に。逃げ場を自ら捨てたように。
男の顔に勝利の確信が浮かぶ。そうだ。それでいい。そう思え。オレがただ真っ直ぐ突っ込むだけの命知らずの馬鹿だと。
一直線に走る獲物ほど狙いやすいものは無い。だからお前の光弾は今、オレという一点に集束しつつある。降り注ぐ雨が、束ねられて槍になる。
眼前に一際大きな光弾が迫る。躱せない。否。躱さない。オレは腹の底に残った最後の魔力を——搾り出した。
『投影』
視界が冷たく反転する。降り注ぐ光弾が。崩れる瓦礫が。無数の影を床に落としている。
閃光が強ければ強い程、影もまた濃くなる。皮肉な話だ。お前の全力こそが、オレの道を照らしている。
オレはその一つに溶け、そして、数歩先の別の影から滲み出た。
直撃だった筈の光弾が誰もいない床を穿つ。
「——な、っ!」
男の声が裏返った。捉えた筈の獲物が消えた。狙いが外れた。その動揺がそのまま術の精度に跳ね返る。
光弾の雨が目に見えて乱れた。軌道が散り、狙いが泳ぐ。集束していた槍が、ばらけてただの雨に戻る。
——そこだ。
オレは駆けた。乱れた弾道の隙間を縫う。崩れ落ちてくる瓦礫を盾にする。頭上の一撃を砕けた石棺の蓋の陰でやり過ごし、その爆風が収まるより早く飛び出す。
肺が焼ける。左腕はもう感覚が無い。それでも脚だけは止めない。止めた瞬間に終わる。
柱を蹴る。軌道を変え、真横から。着弾の爆風が背中を押した。痛みはもう感じない。ただその爆圧すら推進力に変えて——オレは加速した。
視界の全てが引き延ばされたようにゆっくりと流れる。
男の見開かれた目。振り上げようとして間に合わない腕。掠れた悲鳴。
その胴。オレは、すれ違いざまに——一太刀、振り抜いた。確かな手応え。
しん、と。音が消えた。
光の雨は止んでいた。土煙だけがゆっくりと青白い霊廟に立ち込めている。
オレの背後で、どさり、と。重いものが崩れ落ちる音がした。
振り返らない。振り返らなくても分かる。もうあの男に立ち上がる力は残っていない。
「……はっ……、……は……っ」
肩で息をする。吸い込む空気が灼けるように熱い。左肩は焦げた布が傷口に張り付いて、腕を上げる度に激痛が走った。
脚も震えている。魔力は底をついた。もう投影の一回分も残っていない。
それでも——まだ立てる。まだ動ける。オレは剣を杖代わりに深く息を吐いた。
……早く戻らないと。
エルナはちゃんと帰れただろうか。あの様子なら大丈夫だとは思うが。トトはまだ泣いているだろうか。壊れた壁はどうしたものか。それから——
ルシア。
あいつは無事だろうか。あの黒髪の男は大丈夫だと言った。仲間らしき連中もあの場にいた。きっと大丈夫だ。大丈夫の筈だ。それでも、この目で見るまでは——
と。その時だった。
ぱち。
ぱち。
ぱち。
——拍手の音が、響いた。
オレは弾かれたように顔を上げた。土煙の向こう。広間の入り口に、人影が一つ。
青白い灯りを背に、その男はゆっくりと手を打ち鳴らしながら歩いてくる。急ぐでもなく、警戒するでもなく。まるで観劇の帰りのような、場違いに優雅な足取りで。
「——いやはや。お見事でございます」
柔らかい声だった。柔らかいのに、体温というものがまるで感じられない声。
全身が、勝手に強張った。
おかしい。気配が無かった。いつからそこにいた。あれだけの轟音の中とはいえ、この距離まで、何一つ感じさせずに。
「素晴らしい戦いでございました。ええ、実に——彼も、良い試金石になってくれた」
男の視線が、倒れ伏した魔術師へと落ちる。
そこには労わりも、怒りも、何も無かった。道端の石ころを見る目ですらない。使い終えた道具の勘定をする、ただそれだけの目。
し、きん、せき。
その言葉の意味が、じわりと染みてくる。
……こいつは。この男は、今の戦いを見ていたのか?仲間が斬られるのを。黙って。値踏みしながら?
「……誰、だ」
掠れた声で、オレは問うた。剣を構え直そうとして、左腕が悲鳴を上げる。それでも切先だけは男へと向けた。
男は答えない。ただ、笑った。そして、崩れ落ちた瓦礫を、倒れた魔術師の身体を。視線一つ落とさず跨いで、こちらへ歩を進めてくる。
こつ。
こつ。
靴音が、死者達の眠りの間に響く。
逃げろ、と。
本能が。全身の血が。そう叫んでいた。あの廃坑で黒髪の男を前にした時とも違う。あれは底の見えない強さだった。だが、これは——底の見えない『何か』だ。強いとか弱いとか、そういう類では無い。
逃げるべきだ。今すぐにでも駆け出すべきだ。なのに、脚が動かない。
魔力は空。左腕は死んでいる。息は上がり切っている。それら全部を差し引いても尚、動けない。蛇に睨まれた蛙というのは、きっとこういう心地なのだろう。
男が足を止めた。オレの、剣の間合いの、ほんの一歩外で。測ったように。嘲笑うように。正確に、一歩だけ外で。
「——さて。ミオラ・シェイド」
男は、ゆっくりと首を傾げた。青白い灯りが逆光になって、その顔は、まだ影の中にある。見えるのは輪郭と笑みの形に吊り上がった、口元だけ。
「冥土の土産でございます。少し。昔話を致しましょう」
ごう、と。
地下の筈の霊廟の何処かから、風の唸る音が、聞こえた気がした。