追放の真意〜そんなものは無かったが、仲間も敵も王族も、みんな勝手に深読みしてくる〜 作:目下−1
「冥土の土産でございます。少し。昔話を致しましょう」
男はそう言うと身嗜みを整える。誇りを払うように服を叩き、襟元を正した。
漸く逆光に目が慣れ、男の姿が顕になる。
まるで名家に使える老執事のような。仕立ての良い濃紺の上衣は膝丈まで伸び、身体の線に沿うように端正に仕立てられている。襟元は高く、胸元には控えめながら精巧な刺繍が施され、袖口や裾には銀糸が細く走っていた。
「何分、今の私は非常に機嫌がよろしいものでしてね」
男はそう続ける。返事など初めから求めていない声だった。オレの意思も。都合も。この場に流れる時間の全ても。
この男の中では既に決まり切った筋書きの一部でしかない。そう思わせる声だった。
オレは何も答えず、ただ、剣の切先を男へ向け続けた。
左腕は使い物にならない。焼けた肩は脈打つ度に痛みを訴え、握った柄がじっとりと汗で滑る。魔力は空。呼吸は未だ整わない。吸い込む空気には土煙と、焦げた石の匂いと、薄い血の匂いが混じっていた。
それでも切先を下げれば、その瞬間に何かが終わる。理屈ではなくそう感じていた。
男はオレの構えなど視界にも入れていないようだった。
ゆっくりと視線を巡らせる。崩れた石柱。抉れた床。砕けた壁龕の灯り。明滅する青白い光の下、数百年の静謐を誇っていた眠りの間は、もう見る影も無い。その惨状を、男はまるで庭園でも眺めるような目で見渡した。
そして——壁際に整然と並んだ、歴代の王達の石棺へ。
「良い場所でございましょう。ここは」
男は言った。慇懃な、絹のように滑らかな声で。
「静かで。暗くて。誰も参りません。——王族という生き物は、死んでからの方がずっと慎ましやかでいらっしゃる」
こつ、と。男が石棺の一つに歩み寄る。数百年の眠りを納めた石の蓋。王家の紋章と、古い文字で刻まれた王の名。その上を男の指先が、つう、と撫でた。
埃を払うような。値踏みするような。或いは、汚らわしい物に態々触れてやっている、とでも言うような。
「眠りをお妨げして申し訳ございません、と。本来ならばそう申し上げるべきなのでございましょうが」
男は嗤った。口元だけが三日月のように吊り上がる。しかし、その笑みは双眸までは届いていない。赤い瞳は忌々し気に歪められている。
「なに。この方々は、文句を仰れるお立場ではございませんので——なあ?そうだろう?」
最後の一言だけ声の質が変わった。石棺へ向かって。眠る死者へ向かって。見下すような。呼び捨てるような。剥き出しの尊大。
それはほんの一瞬で、男はすぐに絹の声へと戻る。だがオレは確かに聞いた。丁寧の皮の下から、別の生き物の声が漏れるのを。
「ふふ……失礼をいたしました。旧知の方々ですと、つい言葉が砕けてしまう」
旧知。死者達と、旧知だと?
ぞくりと。背筋が粟立った。
言葉遣いだけはどこまでも丁寧だった。慇懃で、折り目正しく、宮廷の作法をそのまま写したような。だがその丁寧さの底に流れているものは敬意ではない。真逆だ。氷のように冷え切った、底無しの侮蔑。死者に向かって最上の礼を尽くしてみせる事で、逆にその死者を徹底的に貶めている。そういう嗤い方だった。
「……さて」
男はそう小さく呟くと、石棺から手を離し、こちらへ向き直る。
「昔話、でございましたね」
輪郭と。口元と。時折ぬらりと光る目だけが見える。
「昔々。この栄えある王国に一人の子供がおりました」
語りは唐突に始まった。子守唄のような、御伽噺のような、間延びした調子で。
「時の王家は、永らく男児に恵まれずにおられました。玉座を継ぐべき御子が、どうしてもお生まれにならない。姫君ばかりが四人、五人と続き……由々しき事でございます。血が絶えれば国が割れる。それ故に、王家の分家筋から一人の男児が選ばれました。万が一の時の、予備として」
予備。その一語だけ、妙に平坦な発音だった。感情を込める価値も無い、とでも言うような。
「その子は、それはそれは大切に育てられましてございます。帝王学を。剣を。魔術を。政を。史書を諳んじ、六カ国の言葉を操り、剣においては近衛の隊長格を十で下し。いずれ王冠を戴く日の為に、ありとあらゆる教育を注ぎ込まれました。教師達は口を揃えて申しました。百年に一度の御器量である、と」
男は語る。誇るでもなく、懐かしむでもなく。ただ、事実を読み上げるように。
「その子も応えました。求められるまま、期待されるまま。誰よりも優れてあらねばならぬと。血を吐くような鍛錬も。眠りを削る学問も。当然の務めとして。……ええ。いずれ王になるのだと。皆がそう申しましたし、その子自身、露程も疑ってはおりませんでした——当然だ。事実、あれ達の誰より優れていたのだから」
また、だ。また、あの声が漏れた。絹の合間から一瞬だけ覗く傲然とした地金。
「——ところが、でございます」
声が、す、と冷えた。
「王妃殿下が、御子をお産みになった。玉のような、男の御子を」
……ああ。
話の行き先が見えた気がした。
「国中が祝いました。鐘が鳴り、花が撒かれ、恩赦が下り。街道には篝火が三日三晩絶えなかったと申します。……実にめでたい。ええ、実に——そして、その日を境に。予備は、不要となりましてございます」
「……不要」
「左様でございます」
男は事も無げに頷いた。
「予備というものは、本物が在る限り、在ってはならぬものでございますから。玉座の傍らに“王になり得た者”が息をしている。それだけで火種になる。担ぐ者が現れる。血が正しいというのは、それだけで罪なのでございますよ。……ふ。笑えるでしょう?優れよと命じたのはあれ達で、優れた事を罪としたのもあれ達だ」
「あんたは——」
「その子は消されました」
オレの言葉を、男は静かに上書きした。
「系譜から。記録から。教師達の記憶から。名を刻んだ書類は焼かれ、住まった離宮は取り壊され、仕えた者達は方々へ散らされ……仕上げに、その子自身も。ある夜、静かに始末される事と相成りました」
「始末……」
「おや。言葉が過ぎましたか」
男は、くすり、と笑った。芝居掛かった仕草で。純白の手袋が一瞬だけ口元を覆う。
「病死、でございますよ。表向きは。流行り病で呆気なく、と。……手厚い葬儀まで挙げていただけたそうで。ええ、それはもう、丁重に。中身の無い棺の為に、聖歌まで歌っていただけたとか。参列した貴族共は皆一様に、涙まで流してみせたそうでございます——見事なものだ。誰一人、棺の中身を確かめもせずに」
オレは息を呑んだ。御伽噺の体裁は、もう欠片も保たれていなかった。三人称の語りのまま、その一言一言に、当事者にしか出せない温度が滲んでいる。
「……あんたの、事か」
「さあ。何の事でございましょう」
男ははぐらかした。惚けるように首を傾げ。分かり易く肩まで竦める。しかし、はぐらかしながら、隠す気は初めから無かった。
「ただの昔話でございますよ。哀れな子供の——皆に王になれと言われ、王になる為だけに生かされ、本物が生まれた途端に殺された。今もあの豚共は、その子が土の下だと信じておられる事でございましょう。……ふ、ふふ。葬儀の日の空の色すら、その子は覚えているというのに」
豚共。その一言だけが。慇懃な語りの中で。ごとりと異物のように転がり落ちた。
男は並んだ石棺を順に見やった。まるで一人一人の顔を確かめるように。
「……この中の何人かは、その企てを御存知でいらしたでしょうなあ。書類に判を捺した方も、おられるやもしれません——だから申し上げたのです。文句を仰れる立場ではない、と」
棺に視線を向けたまま。此方には目もくれずに吐き捨てる。
「なあ?貴様らが先に、死ねと言ったのだ。順番が逆になったところで、恨まれる筋合いは無いだろう?」
石棺は答えない。当たり前だ。だがその沈黙へ向けて語り掛ける男の姿は正気の沙汰には見えなかった。
いや——違う。恐ろしいのは、この男が狂って見えない事だ。声も所作も理路も、何もかもが整然としている。整然としたまま、底だけが抜けている。
「……で、ございますから」
男はすぐに元の絹の声へと戻る。まるで今の一言など無かったかのように。
「その子は学んだのでございます。与えられるのを待つ者は、奪われる。ならば——奪われたものは、この手で取り返すしかないのだと」
オレは、じり、と足の位置をずらした。
逃げ道を探していた。探して——無い事を再確認しただけだった。広間の出入り口はあの男の背後の一つきり。壁際は瓦礫と石棺。
この身体でこの男の脇を擦り抜けられるとは到底思えない。
なら、話を引き延ばすしかない。せめて息が整うまで。せめて左腕の感覚が、少しでも戻るまで。
「……あんたの身の上話には興味ねえよ」
オレは吐き捨てた。虚勢だと自分でも分かる声で。
「用件を言え。何の用でオレの前に出てきた」
「これは失礼をいたしました。年寄りの話は長くていけません」
男は微塵も気を悪くした風もなく、恭しく一礼までしてみせた。その仕草の完璧さが逆に薄気味悪い。
「用件は一つでございます——ミオラ・シェイド」
男の声音に剣呑さが混じる。辺りの空気が冷えるような錯覚を覚える。
「あなた様がその手にお持ちの剣。……それが何なのか。ご存知でいらっしゃいますか」
……俺の持つ、剣?
オレは思わず手の中の剣に目を落とした。
磨き上げられた刀身。柄に埋まった宝石。文字のような紋様の走る、過剰なまでの装飾。
知っているも何も。こいつは——ただの、飾り剣だ。
脳裏に、あの夜の記憶が過ぎる。
……オレには、昼の顔とは別に、夜にだけ被る顔がある。
月の無い晩を選んで。髪を布で隠して。名乗りもせずにやる仕事。
後ろ暗い金の匂いを辿って、薄汚れた連中の蔵から、薄汚れた稼ぎを抜く。貴族の裏帳簿の金。曰く付きの取引の品。それらがどこへ流れて行くのかは、オレの知った事じゃない。気が付けばスラムの炊き出しが少し豪華になっている。それだけの話だ。
誰に頼まれた訳でもない。ガキの頃、隣で寝ていた奴が朝には冷たくなっていた。そういう冬を幾つも越えた人間の、手癖の悪い弔いみたいなものだ。
近頃は世間がその夜の仕事に勝手な名前を付けて騒いでいるらしい。桃色がどうとか、影がどうとか。人相書きの一枚も出回っていないのに、酒場では随分と好き勝手な姿形を語られていると聞く。
長髪の女だの、熊のような大男だの。……笑わせる。
あの夜もそういう晩だった。木端の癖に妙に羽振りの良い盗賊団がいた。連中の名前くらいはオレも前から知っていた。スラムじゃちょっとした有名人だったからだ。勿論、悪い意味で。
弱い者からしか奪えない連中だった。老人の薬代を巻き上げ、娼婦の稼ぎを毟り、ガキの使いから銅貨を叩き落とす。そんな屑どもが何を思ったか寄せ集まっていた。
スラムに巣食う病巣は数あれど、あれは膿むだけ膿んだ切除するしかない類の出来物だった。
だからあの晩根城に踏み込んだ。その時、数日前の仕事で長年連れ添った相棒が砕けていた。寿命だった。安物を騙し騙し使ってきた報いだ。それでも構わなかった。あの程度の連中なら素手で足りる。
そんな折。偶々、一際浮いた代物が転がっているのに気が付いた。馬鹿みたいに装飾過多な観賞用の剣。刃は付いているが実戦向きとは言い難い。
それでも丸腰よりはましだ、と。次の相棒が見つかるまでの繋ぎに丁度良い、と。それくらいの気持ちで体良く拝借した。それだけの代物。
曰く付きですらない。ただの盗品の飾り剣。
それをルシアが作り変えた。堅く。鋭く。謎に輝き。そして呼べば帰る剣に。今のこいつは確かに常識外れの代物だが、それはあくまで、あいつの馬鹿げた魔術のお陰であって——
「……何が言いたい。コイツは見た目だけの鈍だ」
オレはそれだけ答えた。出所を語る訳にはいかない。語れば夜の顔ごと明かす事になる。
「飾り物だ。それ以上でも以下でもねえ」
「——ふ、ふふ」
男が笑った。嘲りではなかった。それはもっと質の悪い、憐れみの笑いだった。まるで物を知らぬ子供を見る大人の笑いのような。
「鈍。飾り物——」
心底可笑しくて堪らない、とでも言うように。くつくつ、と喉を鳴らす。
「ええ、ええ。そう見えるのでございましょうとも。そのように在るのが、あれの習い性でございますから」
「……何?」
「儀礼剣スヴァル=アールヴァテラ」
男はその名を。まるで祈りの文句のように、一音一音を舌の上で転がしながら口にした。
「建国王の腰に在りし剣。王権の象徴。この国が国宝と定めし一振り。……本来ならば王立博物館の最奥、荘厳なる台座の上に安置され、幾重の硝子と術式の檻の中、衆目を集めておられる筈の剣。ご覧になった事は?——ああ、いえ。あなた様のようなお育ちでは、博物館とは縁が無うございますか」
さらり、と。とんでもない侮辱を、絹の声のまま挟んでくる。否、侮辱しているつもりさえ無いのだろう。
男の瞳には愉快そうな色こそあれ、蔑むような表情は無い。
「台座の上の剣は、それはそれは美しくございますよ。拝観に訪れた民は皆言葉を失う。あれこそが王権かと。膝の震える思いをすると申します」
男はそこまで言うと一度言葉を切る。
「……ですが、そんなものは単なる一側面にございます」
男の声が僅かに低くなる。背筋が冷たいものが走る。更に一段空気が重たくなったような気がする。
「操り手を選び、選ばれし者に比類無き加護を与える。そして、その選ばれし物以外には力を巧妙に隠します。俗な言い方をすれば、眠っておられる。見る者の目には精巧なだけの飾り剣として映るように」
男の視線がオレの手の剣へねっとりと注がれた。
「——あなた様がその手にお持ちなのは、それでございますよ」
……は?
一瞬、本気で言葉の意味が分からなかった。
儀礼剣スヴァル=アールヴァテラ。その名前くらいはオレでも知っている。王都の人間なら誰でも知っている。年に一度の式典でしか持ち出されない、王家の権威そのもの。
それが。これだと?
「……頭でも打ったか、あんた」
はは、と。思わず乾いた笑いが漏れた。
「こいつはただの飾り剣だ。国宝なんて上等なもんじゃ——」
と。そう言いかけて。オレの手に無意識の力が籠った。
警戒。苛立ち。混乱。それらがぐちゃぐちゃに混ざったまま。柄を握る指に力が入り——その拍子に、乗った。乗ってしまった。ほんの微かな。オレ自身も気付かぬ程の魔力が。
漏れ出た魔力に呼応し、刀身が淡く光る。
紋様が内から滲むように灯る。月の光に似た、あの仄かな輝き。ルシアの付与した、大した意味も無い筈の発光機能。
もう既に見慣れた、ただそれだけの光。単なる子供騙し。格好良いから、と。ルシアがおまけで付けただけの権能。
だが。男の様子が変わった。
「——ああ」
吐息が漏れた。それまで一分の隙も無く保たれていた慇懃な仮面。その口元が緩んだ。目が細められた。逆光の中でも分かる。男は今、恍惚としていた。
「ああ、ああ……。その輝き。やはり。やはり、やはり……!」
「……お、い?」
「やはり!目覚めていた!報告を聞いた時、まさかとは考えたが!そして、やはり!こうして私の元へと!」
男は胸の前で両手を組み、天でも仰ぐように顎を上げた。それから目を伏し、力尽き倒れる魔術師の男へと視線を向ける。
「下らない小娘の欺かしだと。一笑に付したのは謝らねばな。……尤も、死者への手向けではあるが」
倒れ伏す男へと向けられる瞳に。オレは、心底からぞっとした。
剣が光った。ただそれだけだ。ルシアの魔術が律儀に仕事をした、ただそれだけの事だ。なのにこの男は、まるで神託でも授かったかのように打ち震えている。何を見ている。こいつの目には、この安い光が、一体何に見えているんだ。
「……十年」
男は繰り返した。今度は低く。地を這うような声で。
「十年だ。……頭を垂れた。あの、何の値打ちも無い、飾り立てただけの豚めに。膝を折り。心にも無い世辞を並べ。あれの癇癪に付き合い。あれの道楽の後始末をし……名ばかりの主に代わって、何もかもをこの手で回してやった。あれは判を捺す事しか能の無い置物よ。それでも私は笑って仕えた。煮湯を、飲み続けた——十年だぞ。この私が、だ」
豚。飾り立てただけの。名ばかりの主。誰の事だ。分からない。分からないが、その声に籠った憎悪の密度だけは肌が焼ける程に伝わってきた。丁寧な物言いの鋳型が内側の熱で軋みを上げ罅割れていく。
「近付く為でございますよ。……全ては、あれに。その剣に近付く為に。この身が正統である事を、証し立てる為に」
男は、ふ、と息を整えた。罅割れた鋳型が、また滑らかな絹に覆い直される。しかしそれも一瞬で。今度は割れんばかりの憎悪を持って真紅の双眸が此方へと向けられる。
「——それを、あの夜。横合いから掠め取って行った下賤な輩がいた」
そう言うと、男は一度深く息を吐く。それから、滲み出る怒気を無理矢理隠すように、柔和な仮面を貼り付けた。
「……随分と、お手間を取らせていただきました。ミオラ・シェイド様。この十年の総仕上げを、よりにもよって、あのような形で搔き乱されるとは」
……何の話だ。掠め取った?オレが?
冗談じゃない。オレがこいつを拾ったのは盗賊共の根城で、それも成り行きで——いや、待て。
妙だ。噛み合っていない。この男の言う『あの夜』と、オレの『あの夜』は本当に同じ夜なのか?こいつの口ぶりはまるで、剣を横から奪われた、とでも言うような。だがオレが押し入ったのはあの盗賊共の根城で。あそこにこの男はおろか、運び手のような上等な奴も——
引っ掛かった。確かに引っ掛かった。だが、その違和感の正体を掴む前に男は続けた。
「ご存知でしょうか。ミオラ・シェイド。……儀礼剣スヴァル=アールヴァテラは、ただの遺物ではございません」
声はまた絹に戻っていた。戻っていたが、もう遅い。一度覗いた底は忘れられない。
「あれは選ぶのでございます——持ち主を」
「……選ぶ、だと」
「左様でございます。相応しき使い手の下へ、自ずから引き寄せられる。歴史を紐解けば逸話には事欠きません。玉座を簒奪した偽王の手からは滑り落ち、流浪の正嫡の下へ渡った、と。戦火に失われた筈の剣が、幼き王子の枕辺に立っていた、と。三百年前の内乱の折には、七人の将が我先にと剣を奪い合い……剣は七人の誰の手にも留まらず、戦火の外におわした幼君の下へ、独りでに渡ったと申します」
男の声が熱を帯びて滑っていく。
「王権の証とは、玉座の事ではございません。冠の事でもございません——資質でございますよ。正統なる、王家の血。そして絶対なる上位者としての資質。あの剣を正しく扱えるのはそれを持つ者のみ。如何に飾り立てた豚が硝子の檻に囲い、国宝と崇め奉ったところで、あれは決して応えない。当然であろう?剣が選ぶのだ。豚に選ばれてやる剣など、この世の何処にも無い。……ですが」
男の指が、ゆっくりと己の胸を指した。
「それを持つ者が、ここに。一人、おりますれば」
——ああ。やっぱり、そういう事か。
王家の予備として育てられた子供。生まれた本家の男児。始末された偽物。空の棺。全ての語りが一本の線で繋がる。この男は本気で信じている。自分こそが正統な支配者で、あの国宝の正当な持ち主なのだと。
狂っている。そう切り捨てられたらどれだけ楽だったか。だがこの男の語りには、狂人の熱に混じって、嫌になる程の筋が通っていた。男の語る御伽話が真実であるのだと、そう思わせる説得力があった。それが何より恐ろしかった。
「……買い被りだ」
オレはそれでも言った。
「こいつは鈍だ。国宝なんかじゃねえ。あんたの探し物は、こんな所には——」
「では、確かめて御覧に入れましょう」
男は静かに遮った。それから、まるで舞踏会で踊りにでも誘うように。淑女に付き添うように。ゆっくりと手が差し出される。
「それが真に儀礼剣スヴァル=アールヴァテラであるならば。そして私が正統な繰り手であるならば——呼べば応える」
差し伸べられた掌が開かれる。そして男は。ただ、一言。
「来い。スヴァル=アールヴァテラ」
その瞬間。オレの手の中で剣が跳ねた。
「——っ!?」
ぐん、と。柄がオレの掌の中で暴れる。男の方へ。あの開かれた掌へ向かって、剣そのものが引かれていく。まるで見えない糸で手繰られるように。
馬鹿な。
オレは咄嗟に両手で柄を握り締めた。死んでいた筈の左腕を無理矢理動かす。激痛が走る。痛みに眉が歪む。構うものか。歯を食いしばり、足に力を込める。
馬鹿な。馬鹿な、馬鹿な。
これはルシアの魔術だ。呼べば手元に戻る。自分の剣だと、強く認識している者の下へ。意思に乗る魔力を辿り、持ち主を識別して。
そう聞いた。実際に使った。遺跡で、そしてこの場でも。その度に、確かに俺の手元へと戻ってきた。この剣は確かに俺の剣だ。
なのに、なんで。なんでこいつの呼び声に、応えてるんだ——!
「ほう」
男の声に愉悦が滲む。
「抗うか。……健気な事だ。だが、その足掻きこそが何よりの証明。ただの鈍が、呼び声に応える道理はあるまい?」
引力が増した。オレの踵が床を擦る。ずり、と。身体ごと引き摺られる。焼けた左肩が悲鳴を上げ、視界の端が白む。オレは奥歯を食い縛り。床を踏み締め。全身で剣を抱え込んだ。
オレの剣だ!
そう念じる。念じ返す。こいつはオレの剣だ。オレが振ってきた。廃坑で、盾頭を何十と屠った。投げて、呼んで、共に戦った。ルシアが、オレの為に作り変えてくれた。オレの——
——本当に?
ふ、と。頭の芯に、冷たいものが差した。
本当に、オレの剣か?
こいつは元々盗品だ。盗賊の根城から、オレが体良く持ち出しただけの。オレは買ってすらいない。夜陰に紛れて、死体の転がる部屋から拾っただけだ。今のこいつを形作っているのも、何もかもルシアの魔術だ。堅牢も。修復も。光も。帰還も。オレがした事など何一つ無い。挙句、こいつが本当に国宝だとしたら。オレは国の宝を懐に入れて歩き回っていた、ただの——
違う。違う!そんな事はありえない!国宝な訳がない!本当に儀礼剣スヴァル=アールヴァテラであるのならば!たったの数振りで罅割れたりはしない!
強く。改めて強く念じる。だが一度差した疑念は根を張るのが速かった。握力が。踏ん張りが。満身創痍の体が軋む。
軈て。じり、と。剥がされ始める。
「……無駄な事だ」
男の声はもう勝利を確信していた。
「まだ分からないか?剣は既に選んでいる。選び終わっている。当然だろう?片や、どこの馬の骨とも知れぬスラムの野良犬。片や——この一時の為に十年を捧げた正統な血族。天秤に掛けるまでも無い。紙と鉄の重さを比べるまでも無いようにな」
十年。その言葉の重さが引力に上乗せされる。気のせいだと分かっていても、そう感じた。この男の確信には一片の曇りも無い。疑いの余地すら無い。十年間、ただの一度も揺らがなかった『これは私の物だ』という認識。
対してオレの手の中には、たった今生まれたばかりの疑念がある。勝てる訳が無かった。
「あ——」
指が。一本ずつ。剥がれていく。
「や、めろ……っ、返せ……!それは、オレの——」
「返せ?」
その瞬間だった。崩れかけていた平静が。偽られていた本性が。押し込められていた激情が。内側から砕けるように弾け飛んだ。
「——返せだと?誰に向かって口を利いている、野良犬風情がァ!!」
空気がびりびりと震える程の恫喝。慇懃の仮面の下から、剥き出しの尊大が牙を剥いた。
「元より貴様の物であった事など一瞬たりとも無い!それは私の物だ!生まれた時から!この血に流れる権利として!王座も!誉れも!何もかも!本来は全て私の物だった!」
男から昏い魔力が迸る。可視化する程に濃密などす黒い魔力が。濁流のように溢れ出る。
「——それを!返せ、だと?それは私の台詞だ!!」
引力が、爆ぜた。オレの指が完全に剥がれる。
剣は宙を滑った。回転もせず。ぶれもせず。一直線に。まるで初めからそこが在るべき場所だったかのように——男の掌へと吸い込まれた。
ぱし、と。オレの掌が受け止めたのと、同じ音で。
「——ああ」
男が震える息を吐いた。それから剣を両手で捧げ持ち、顔の高さへ。
その瞬間。青白い灯りの下、刀身が眩い程に光り輝く。男を。壁を。石棺を。オレを。黒い閃光が照らす。
男の魔力にルシアの付与が律儀に応えているだけの光。込められた魔力量に比例して強く煌めくだけの光。だが男にとってそれは、何よりの証明なようだった。
「やはり!応えた!この私に!ふ、ふふ、はは……!見ておるか、豚共!貴様らが土に埋めた予備が!貴様らの宝を抱いて!貴様らの墓の上に立っているぞ!剣は選んだのだ!正しき王は!この、私であると!!」
哄笑が死者達の眠りの間に反響する。並んだ石棺は何も答えない。その沈黙すら男には跪拝に見えているのだろう。
男に気圧されたのか、或いは単純に力尽きたのか。気が付けばオレは膝をついていた。
空になった両手を見下ろす。指先がまだ柄の感触を覚えている。じん、と痺れるように残っている。なのに、そこには何も無い。
取られた。
オレの剣が。ルシアがくれた剣が。オレの手の中から。オレの認識ごと、圧し折られて。
悔しさよりも先に奇妙な空虚が胸に落ちた。底の抜けたような。自分の輪郭が一回り削られたような。
「……ご協力、心より感謝申し上げます。ミオラ・シェイド」
男はもう元の絹の声に戻っていた。剣を恭しく胸元へ引き寄せ、オレへと一礼までしてみせる。
「長らくの御保管、御苦労様でございました。……ああ、それと。あなた様の処遇でございますが——」
男の足がこちらへ一歩踏み出された。男の手へと収まった剣が。その切先が。ゆっくりと此方へと狙いを定める。
——その時だった。
「——あー。いたいた」
場違いに軽い声が広間に転がり込んできた。通路の方から、ぺたぺたと、緊張感の欠片も無い足音。
「いやあ、探したよ。君、本当に足が速いね。おかげで道を二回も間違えた」
黒い髪。赤い瞳。背に扇のように従えた七本の漆黒。
エイルだ。エイル・エルシディア。あの掴み取りどころが無い男が。散歩でもするように通路から顔を覗かせた。
男の動きが止まっていた。
温度が消える。あの恍惚も。哄笑も。一瞬で拭い去られ、能面のような無表情だけが残る。ただ、その瞳には。児戯を邪魔された子供のような。餌を横取りされた獣のような。憤慨の赤色だけが燃えている。
それを知ってか知らずか。エイルは、広間をぐるりと。ゆっくりと見回した。
倒れ伏した魔術師。砕けた石棺。抉れた床。膝をついたオレ。一つ一つ確認するように。
そして最後に——男へと視線を止めた。
「…………」
数拍の沈黙。
エイルが、きょとんと首を傾げる。その赤い瞳が、瞬きを二つ。それから記憶の抽斗でも探るように視線が斜め上へ泳いで。
ぽん、と。手を打った。
「あれ?アルゴールさん。どうしてこんなところに??」
男の口元から。初めて笑みの形が消えた。
ごう、と。地下の筈の霊廟のどこか遠くで。風の唸る音が、全てを掻き消すように響いた。