追放の真意〜そんなものは無かったが、仲間も敵も王族も、みんな勝手に深読みしてくる〜 作:目下−1
転移陣の光が剥がれ落ちると、そこは王都の雑踏だった。
行き交う人の波。石畳を鳴らす馬車の車輪。呼び込みの声。焼き菓子の甘い匂いと厩の匂いが混ざり合った、雑多で騒がしい空気。賑やかな喧騒がどっと耳に流れ込んでくる。
夕暮れにはまだ少し早い時刻だった。市場は一日で最後の賑わいを見せ。買い物籠を提げた奥方連中が声を張り合い。仕事上がりの職人達が早くも酒場の軒先に集まり始めている。あの静まり返った廃坑の底から半日と経たずにこれだ。世界というのは、どこかで血が流れていようと崩落が起きていようと、実に呑気に回っている。
さて、と。一度小さく息を吐き、俺は往来の真ん中で立ち止まる。それからぐるりと辺りを見回した。
ミオラの姿は無い。まあ当然だ。あれだけ先行されていたのだから。しかし悲観するような状況でも無い。何せ彼女の髪は桃色である。
桃色の髪というのは非常に珍しい。王都広しと言えど、そうそうお目に掛かれる色ではない。俺の知る限り、あの色の頭はミオラを除けばルシアだけ。近い色はちらほらと覚えがあるが、真に桃色と呼べるのは彼女達だけだろう。
染め物でも出せない、生まれ持った者だけの色だ。言ってしまえば歩く目印である。
血相を変えて駆けていく桃色頭。目撃者には事欠かないだろう。ルシアが見つからなかった方がおかしいのだ。例外であり、外れ値であり、特異点。聞き込みをすれば足取りなんてすぐに——
「……見てないねえ」
「桃色の髪?さあ」
「人違いじゃないのかい」
——掴める筈だった。
おかしい。
俺は大通りの端で腕を組んだ。果物を積んだ露店の親父。市門の衛兵。井戸端の奥方連中。辻馬車の御者。手当たり次第に聞いて回って、収穫は綺麗さっぱり零である。
あの髪で目撃者無し。逆にどういう事?人混みに紛れたか。裏路地を抜けたか。それとも、何かしらの魔術で人目に付かずに移動したか。
……ああ、うん。最後のやつだな多分。
あの時。風抜けの廃坑でミオラが駆け出した際、目で追えなかった。俺が目で追えないとなると高速移動の類では無い。と、なれば転移に近い。
なるほど確かに。往来の真ん中を走る必要なんて無い訳だ。地面を探しても無駄という事である。
参った。追いかけたけど見失いました。では締まらない。実に締まらない。リーダーとしての威厳というものが、また音を立てて目減りしていく。ここ数日で随分と減った気がする。そろそろ底が見えるのでは。
……いや、まだ決定的な失敗は起こしていない筈。グレン達からすれば、俺だって真面目に働いているように見える筈。……たぶん。おそらく。きっと。
仕方ない。足で追えないなら頭で追うとしよう。
大通りを背に足を踏み出す。歩き出しながら、手持ちの札を並べ始めた。
一つ。あの魔術師は灰翼。それもまず間違いなく幹部級。
坑道を崩したらしい魔術。声も無く噛み合う、あの統率の取れた連携。あれを率いていた頭が末端の下っ端という事は無いだろう。組織の中枢に近い人間と見ていい。
もしあれが下っ端ならどれだけ人材の豊富な盗賊団なのか。悪事なんて働かず真っ当に探索者でもすれば、名声に事欠かないのは自明の理だ。
……しかしそんな相手に『なんか思ってたより弱い』とか言ってしまった訳だが。うん。まあ。あれはほら、知らなかったから。
それに『弱い』と『思ってたより弱い』では全く違う。怪遺を見慣れた人間が牛を見て『思ったより小さいね』と言ったとしても牛は大きい。人間よりも一回り以上大きい。それと同じだ。
仕方無い。うん。仕方無い事だった。謝ったし。謝ったのに何故か余計に怒られたが。世の中には謝られると怒る人種もいる。難しいものだ。
一つ。連中の狙いはミオラの持っていたあの剣。
態々幹部級を出張らせて。崩落まで起こして。挙句ミオラを追い回す程の執着ぶりだった。あの剣にはそれ程の価値がある。
それで、肝心のその剣はどんな代物だったかだが——
……どんなだったっけ??
思い返そうとして、俺は自分の記憶の薄さに軽く引いた。全然見ていなかった。華美な装飾が付いていた気はする。柄に石が付いていたような気もする。しかし勘違いと言われてしまえば自信が持てない。その程度。
凄みとか威圧感とか、そういうものは欠片も感じなかった。正直、道具屋の棚に並んでいても素通りする程度の印象しかない。
しかし。いや、でも。もしかしてあの剣、儀礼剣スヴァル=アールヴァテラと関係があるのでは。
根拠は無い。見た目も碌に覚えていない。写しを拝んだ時に感じた、あの背筋の凍るような感覚もあの剣からは全く感じなかった。
たかが絵。たかが写し。しかし、そこに映る台座の上の一振りが、絵の中から静かにこちらを値踏みしてくる。国宝とはよく言ったもので、あれは飾って崇める為の剣ではない。崇めさせる為の剣だ。あの威圧感は今でも覚えている。絵姿ですらあれなのだ。本物と対面したらどうなる事やら。
ミオラの剣にはあれが無かった。気がする。
それでも。あの灰翼が幹部を出してまで欲しがる剣。今この王都で『凄い剣』の話題と言えば、消えた儀礼剣を措いて他に無い。時期も被る。騒ぎの規模も被る。何かしら凄い剣であるのは間違いない。だったら、そのものでは無かったとしても——無関係な訳がないのでは?
いや、ない。確実に関係ある。絶対関係ある。十中八九関係ある。多分関係ある。俺の勘がそう言っている。
俺の勘は基本的には当てにならないが、しかし当たる時は嫌になる程当たる。そして今は当たる時の手応えがする。……この手応え自体が当てにならなかった事も数えられない程あるが。
まあ細かい事は良い。数えなければ負けではない。
一つ。あの魔術師は去り際にこう言った。『お前の帰る場所を知っている』と。スラムの外れの温い巣穴。よく肥えた雛鳥。
——うーん、何の話?
巣穴。雛鳥。比喩なのは分かる。分かるが比喩の中身がさっぱり分からない。分かったのはミオラだけだ。あの血相。あの飛び出し方。彼女にだけは一言一句が正確に刺さっていた。
まあいい。兎に角スラムだ。スラム方面に行けば何かしら引掛かるだろう。
俺は指を折りながら進めていた歩調を早め、スラム街に向けて歩き出す。雑踏の脇を抜け。時折見掛ける探索者仲間に軽く挨拶し。気が付けばそこは立派なスラム街である。
スラム街というのは、境界線のある場所ではない。
歩いている内に少しずつ変わっていくのだ。石畳の継ぎ目に草が生え。軈て石畳そのものが途切れ。道は踏み固められた土に変わる。家々の壁から塗りが剥げ、窓から硝子が消え、干された洗濯物の色が燻んでいく。
市場の喧騒は遠退き、代わりに湿った静けさが濃くなる。饐えた匂い。煮炊きの煙。何処からか聞こえる乾いた咳。
道端に座り込んだ男達の視線が値踏みするように俺の全身を撫でていった。仕立ての良い服。手入れされた装備。どこからどう見ても余所者だ。
数日ぶりに感じる不快感に小さく身震いした。
結論から言うと聞き込みは引っ掛からなかった。
スラムの住人というのは、余所者に対してとことん口が重い。それはもう見事なまでに。
「知らねェな」
「桃色?さぁな?」
「あんた、探索者だろ。帰んな」
取り付く島も無い。銅貨を握らせようにも握らせる前に手を引っ込められる。この徹底ぶりは警戒というより流儀に近い。余所者に売る情報は無い。それがここの掟なのだろう。
誰に対しても閉じているのでは無く、俺に対して閉じている。この統制の取れた沈黙は、裏を返せば、内側の人間を守る為の沈黙でもある。
持たざるなりの秩序と言うべきか。少なくとも陽の当たる場所で彼等が口を開くことは無いだろう。
収穫と呼べるものはたった一つ。ぼろ屋の軒先で煙管をふかしていた爺さんが、面倒臭そうに零した一言だけだった。
「血塗れの男なら、今し方見たがね」
「血塗れの男」
「何を焦ってんのか、ふらふらと足早に去っていったさ」
爺さんの顎がしゃくれるように動いた。スラムの奥とは違う方角へ。今来た道を戻れと言いたげに。
「ガキを一人引き連れてた。知ったこっちゃあ無いが、ありゃなんか訳ありだろうよ」
それだけ言うと爺さんはもう口を閉ざしてしまった。行き先も風体の詳細も、それ以上は何も出ない。煙管の煙だけが、ゆるゆると夕方の空気に溶けていった。
……血塗れの男、ねえ。
俺は歩きながら首を捻る。妙だ。噛み合わない。あの魔術師は確かにスラムの外れと言っていた。ミオラも脇目も振らずスラム方面へ飛んで行った……筈だ。多分。
血塗れの男はあの魔術師の事では無い?偶然の一致?
……いや、待てよ。そもそも、だ。あんなに分かりやすく目的地を口にするか?
思い返せば、あれはミオラにだけ届けば良い囁き方だった。声を潜めて風の音に紛らせて。巣穴だの雛鳥だの、彼女にだけ通じる隠語めいた言い回しで。
つまりあのスラムの外れと言う表現も、額面通りの待ち合わせ場所とは限らない。場所を教えたのでは無く何かを仄めかした。人質か弱みか。そういう類の。実際の呼び出し場所は別にある可能性もある。
うーむ。分からん。
その辺の機微には詳しく無い。人の心の裏を読むのはノエリシアの領分であり、裏社会の符牒ならリゼの領分だ。生憎、両方とも今頃は遺跡でルシアを探している。
適材適所とは良く言ったものだが、彼方も此方も彼女達の適所であったとは。
ならば、餅は餅屋。蛇の道は蛇。スラムの事ならスラムの主——あの司祭に聞くのが一番早い。
そうと決まれば教会だ。俺は軽やかに踵を返し——
——かけて、止まった。
……あ。
思い出してしまった。
そう言えば前の情報料まだ払ってないな??
いや、待って欲しい。弁明の機会をいただきたい。
まず第一に。踏み倒すつもりは無い。断じて。神に誓ってもいい。教会だけに。ただ、そう。色々と立て込んでいた。儀礼剣の足取りを掴む為、ルシアの足取りを掴む為に。仲間の所に顔を出したり出さなかったり。俺は俺なりに多忙だったのである。
第ニに、今は手持ちが心許ない。貯蓄はあるが懐には無い、と言う意味で。
第三に……第三に、なんだ。ああ、そう。時間だ。今は一刻を争う。悠長に司祭の世間話に付き合っている場合ではない。奴は話が長い。長い上に本題は最後の一口にしか出ない。効率が悪い。緊急時に選ぶべき選択肢ではない。
完璧な論理である。三本柱だ。三本もあれば神殿だって建つ。物事の根幹を支えるのに何ら支障の無い数である。
今日のところは止めておこう。未払いの客が追加の注文をしに行くのは道義に反する。これは逃げではない。礼儀だ。礼儀の問題。灰翼の一件が片付いたら、耳を揃えて、利子とお詫びの菓子折りでも付けて払いに行く。行くとも。多分。
俺は誰にともなく頷いて、教会とは別の方角へそっと進路を変えた。
さて、困った。当てが消えた。
スラムは空振り。司祭は礼儀の問題で不可。ミオラの足取りは影も形もない。手持ちの札は三枚とも単体では何処にも繋がらない。
……いや。単体では、だ。
俺は歩調を緩め、頭の中で札を並べ直す。
灰翼が欲しがる剣。儀礼剣スヴァル=アールヴァテラに関係ある気がする剣。盗難事件。全滅した盗賊。そしてミオラ。
やはり全て、一本の糸の上に乗っている気がする。と言うかそうするしか手が無い。根拠のこの字も無いが、無理矢理に関連付ける他無い。藁にも縋る思いで。一縷の望みに賭けて。一筋の光明を辿るしか無い。
——王立博物館。
儀礼剣が消えた、事件の起点。あそこに行けば何か分かるかも知れない。根拠は例によって無い。無いが他に当ても無い。仮にこれらが全て無関係だとしても、事件に何か進展があった可能性もある。
思い返せばあの第四王子もそんなに悪人って感じじゃ無かった気もするし。
確かに初対面の印象は最悪だった。傲慢。尊大。態度がでかければ声もでかい。いや、声はでかくなかったか。
しかし、厭味を多分に含みながらではあるが、あの時点での事件の詳細を語っていた。少なくともレグルスが掴んでいた三流盗賊が実行犯、と言う情報は間違いでは無い。
尤も、その盗賊団が全滅していたからこそここまで事態が複雑化している訳であるが。しかし、それをあの時点でレグルスが知れる筈も無い。
ならば分かり得る限りの情報を渡してくれていた、と。そう言っても過言では無い。ならば今回も何か教えてくれるかもしれない。門前払いなら門前払いで、それはそれで一つの答えだ。何かを隠したがっている、という答えが。
うん。行く価値はある。俺は踵を返し、博物館へと足を向けた。
大通りを北へ。街並みは進む程に姿を変えていく。スラムの土の道が嘘のように。この辺りは白い石造りの建物が整然と並び、街路樹が等間隔に影を落としている。行き交う人の身なりも上等になり、馬車の車輪の音まで心なしか上品になった気がする。
軈て通りの先に、博物館の白い偉容が見え始めた。夕陽を受けて、壁面が薄く金色に染まっている。
暫く歩き、博物館まであと数街区という辺りだった。
夕暮れの気配が差し始めた街路。石畳の継ぎ目に、ぽつり、と。赤黒い染みが溜まっていた。
俺は足を止め、しゃがみ込んで覗き込む。表面は乾いて、縁の色が濃い。しかし、まだ完全に乾き切ってはいない。
視線を上げれば数歩先にもう一つ。その先にまた一つ。点々と途切れがちに。しかし確かに続いている。
往来の人々は誰も気に留めない。夕餉の買い物客も家路を急ぐ職人も。足元の小さな染みになど目もくれず通り過ぎて行く。
まあそんなものだ。仮に血の一滴など、気付いたところで関わりたくもないだろう。綺麗な街というのは、汚れを見ない訓練が行き届いた街の事でもある。
染みの間隔を目で測る。歩幅が乱れている。広く。狭く。時々よろけたように逸れて。壁際に寄った箇所では染みが縦に擦れていた。壁に手をついて身体を支えたのだろう。
相当な深手。それでいて倒れてはいない。歩き続けている。重傷ではある。しかしまだ歩ける。そして手当てもせずに歩き続けなければならない事情がある。
……これさ。あの爺さんの言ってた、血塗れの男だよね?そして血塗れの男ってのは——つまり、あの魔術師だよね?
明確な根拠は無い。時間の整合性。転移の直前の俺との戦闘等。それらしい理屈は後から幾らでも付く。確固たる証拠は無い。しかし偶然の一致としてはあまりにも出来過ぎている。と言うか流石にそうとしか考えられない。
そして、その血痕の伸びていく先は、というと。
俺は視線を上げる。博物館の白い偉容が街並みの向こうに見えていた。血の点線は、そこから逸れていた。緩やかに、しかし明確に別の方角へ。
「……博物館に行くつもりだったんだけどなあ」
俺はぼやいた。ぼやきながら、もう足は血痕の行先へ向いていた。
王立博物館と、血の道標。どちらにも根拠は無い。しかしどちらを取るかなんて考えるまでもない。それにほら、勘が言っている。こっちだと。こっちに行けば
俺は点々と続く赤黒い染みを辿って、夕暮れの街路を進んだ。
道は次第に人通りを失っていく。表通りから一本裏へ。裏から更にもう一本。建物の背中側ばかりが並ぶ静かな通りへ。夕陽は建物の陰に切り取られて、道の半分は既に青い薄闇に沈んでいた。血痕はその薄闇の中を、迷いの無い一本の点線になって続いていく。
傷の具合からすれば、寄り道をする余裕等無かったのだろう。ふらつきながら、それでも行き先だけは一度もぶれていない。余程確かな目的地があるらしい。
点々と続く血痕は思い掛け無い場所で終わっていた。
王立博物館の裏手。手入れの行き届いた植え込みの、その陰。地面に向かって口を開けた古い石段だった。
降り口には門がある。両開きの重厚な金属の門扉。高さは俺の背丈の倍近く。表面には王家の紋章と、細かい文様が刻まれている。文様は装飾であると同時に術式の一部でもあるらしく、目を凝らせば刻線の底に微かな魔力の残光が沈んでいた。
遺跡産の鉱物で出来ている。それもかなり上等な。
並の鋼とは光の返し方が違う。鈍いのに深い独特な艶。この手の金属は生半可な魔術では傷一つ付かない。破城槌で突いても凹みすらしないだろう。火にも錆にも強く、経年で風化もしない。加工が絶望的に難しいから、門一枚仕立てるだけで小さな城が建つと言われる代物だ。門としては殆ど反則である。
そして錠前。門扉の合わせ目に下がったそれも同じ鉱物製だった。大人の拳より二回りは大きい。加えて此方にも表面に薄く術式の光が這っている。
察するに施錠の魔術。それも一重や二重じゃない。俺が読み取れるだけで五層。恐らくもっとある。合鍵はおろか、解錠魔術の類も真っ向から拒む構えだ。物理的にも魔術的にも、開ける事を徹底的に拒む造り。
ここまでやるという事は、この先はそれだけ大事な場所という事。地下霊廟だ。歴代の王族が眠るという、あの。
そして。
その徹底的に拒む造りの門が。
——開いていた。
「…………」
俺は門扉と錠前をまじまじと眺めた。壊されていない。傷一つ無い。刻線の術式も乱れていない。錠前は外され、何層もの術式は順を追って解かれ、門扉は静かに内側へ開かれている。つまり正規の手順で開けられたという事だ。鍵で。しかるべき権限で。しかるべき人間の手で。
……これ、開いてていいやつ??
いや良くないでしょ、多分。王族の墓だよ、ここ。年に数度の式典以外は固く閉ざされている筈の場所だ。それが夕暮れ時に開けっ放しって。不用心にも程がある。管理者は何をしているのか。
血痕は開かれた門を潜り、石段の闇の中へと続いている。
王家の墓所に無断で立ち入る。……いいのかな、これ。不敬罪とかでは?バレたら怒られるのでは?いや、怒られるだけで済むのか?王族の墓荒らしなんて、下手をすれば縛り首。等級八剥奪どころの話ではないのでは???
俺は数秒、逡巡し。
……まあ、開いてるし。
うん。開いてる方が悪い。俺は悪くない。第一この血痕だ。重傷人が墓所に入っていったのだ。放っておく方が薄情というものだろう。これは巡回である。防犯意識の高い善良な探索者による、人道的見地に基づく巡回。何なら人命救助の可能性すらある。誰に説明する事になっても、この筋書きで押し通せる。よし。
誰に見られても訝しまれないよう、極自然に。散歩にでも向かうような、何気ない足取りで。石段へと一歩踏んだ。
石段は長かった。一段降りる毎に、地上の音が薄れていく。人の声。車輪の音。街の温度。それらが背中の向こうで一枚ずつ剥がれ落ちて、代わりに冷えた静けさが足元から染み上がってくる。
石の匂い。土の匂い。そして長い時間の匂い。古い書庫にも似ているが、あれよりもっと重い。紙ではなく骨の眠る場所の重さだ。
降り切った先には、青白い灯りの通路が奥へと伸びていた。
壁龕に等間隔で灯る魔道具の光。蝋燭のように揺れもせず、ぼう、と死人の肌の色で灯り続けている。誰も来ない場所の灯りを絶やさない為だけの術式。それが何百年も律儀に働き続けているのだと思うと、少し感心する。うちの時計塔の灯りは三日で付け放しを怒られるのに。
壁には彫刻が続いていた。王家の紋章。歴代の王の名。治世の功績。祈りの文句。読める文字と読めない文字が半々といったところ。古語はあまり得意では無い。
ノエリシアがいれば嬉々として全部読み上げてくれるのだろうが、生憎彼女は風抜けの廃坑に押し込んで来た。
通路の左右には時折、脇へ逸れる間口が口を開けていた。奥に石棺の輪郭がぼんやり見える。誰かの眠りの間。その前を通る度、空気が僅かに重くなる気がした。気のせいだろうが、気のせいと言い切るには少々場所が悪い。
……ふうん。静かでいい所だね。
俺は素直にそう思った。うるさい隣人もいない。日当たりは無いが雨風も無い。贅沢な石造り。灯りは絶えず、掃除も行き届いている。眠るには申し分ない。俺もいずれ死ぬなら、こういう静かな所がいい。まあ王族に生まれ直すところから始めなければいけないが。来世の目標としておこう。
血痕は通路の床にも点々と続いていた。青白い灯りの下では、血の赤は殆ど黒に見える。俺はそれを辿って、奥へ、奥へ。と——
ずん、と。足の裏に微かな振動が届いた。
続いて、籠った音。爆音だ。石壁に幾重にも吸われて丸くなった、けれど間違いなく破壊の音。一度。二度。連続して。天井からぱらぱらと細かい砂が落ちてくる。壁龕の灯りが一斉に、心細げに明滅した。
戦闘中だ。それもかなり派手にやっている。
俺は歩調を上げた。走る、という程ではない。少し早歩き程度。
だって通路は暗いし床には瓦礫も転がっているし、転んだら格好悪いし。それにこの音の具合なら、着く前に転がり込んで流れ弾を貰うより、着いた時に全体を見渡せる方がいい。
音は続いていた。爆ぜる音。崩れる音。時折混じる甲高い炸裂音。魔術の応酬——いや、これは一方的に撃っている音だな。撃って、撃って、撃ちまくって。応じる側の音がしない。撃たれる側は避けているのか、或いは凌いでいるのか。
軈て音の質が変わった。単発の、重い炸裂が立て続けに。数え切れない連射。まるで嵐だ。誰かが手持ちの全部を吐き出している。
そして。一際大きな轟音が、どん、と腹に響き。ふつり、と。音が止んだ。
静寂が戻る。砂の落ちる微かな音だけが残る。
どうやら決着が付いたようだ。
俺は頭を掻いた。間に合わなかったらしい。まあ勝敗がどちらに転んだにせよ、行けば分かる事だ。
通路そのものは拍子抜けする程に無傷だった。壁の彫刻も。壁龕の灯りも。床の石畳も。どれも傷一つ無く、さっきまでの轟音が嘘のように青白い静けさを保っている。血痕だけが変わらず点々と奥へ続いていた。
つまり戦場はここではない。あれだけの轟音が壁越しにここまで届いて、尚この通路には余波の一つも漏れていない。相当に広く。相当に頑丈な空間で。存分に暴れたという事だろう。音の響き方からして奥に大きな空洞がある。広間か、大聖堂めいた祈りの間か。何にせよ、この霊廟で一番大事な場所だろう。
……そんな所で大立ち回りとは、恐れ知らずというか何というか。王族の皆様もさぞ寝苦しかった事だろう。お悔やみ申し上げる。二度目の。
軈て通路の先に、一際明るい空間が見えてきた。
近付くにつれ空気が変わる。土煙の匂い。焦げた石の匂い。薄い血の匂い。無傷の通路に、開いた口の方からだけ戦いの残り香が流れ出してきている。
それまでよりも少しだけ歩調を早めた、その時だった。通路の先、戦闘の気配が残る広間から声が漏れ聞こえてくる。
『——見ておるか、豚共!貴様らが土に埋めた予備が!貴様らの宝を抱いて!貴様らの墓の上に立っているぞ!』
誰かの勝ち名乗り。哄笑。演説。
豚共。予備。宝。墓。単語だけ拾うとなかなかに剣呑で、なかなかに趣味が悪い。墓の中で墓の主に啖呵を切る趣味というのは、中々お目に掛かれ無い。というかこの声、どこかで聞いた事があるような、無いような?
俺は首を傾げながら歩みを進める。青白い暗がりの通路から、開けた空間へと。一歩、踏み出した。
「あー。いたいた」
広間に足を踏み入れながら俺は声を上げた。特徴的な桃色が眼に映る。その髪色は無機質な色が広がる霊廟の中で、より一層鮮やかに見えた。
「いやあ、探したよ。君、本当に足が速いね。おかげで道を二回も間違えた」
スラムに向かうのと、博物館に向かうのと。計二回。尤も彼女の足の速さは微塵も関係無いが。
数歩進んで立ち止まる。それから、ゆっくりと広間を見回した。
派手にやったなあ。
円形の広間。高い天井をぐるりと支えていた筈の石柱は半分近くが崩れ、床は方々が抉れ、中央に刻まれていたらしい大きな紋章は原形を留めていない。壁際に整然と並んでいた石棺は幾つか蓋が砕け、青白い灯りは半分以上が死んで、生き残った灯りが不規則に明滅している。土煙がまだ薄く漂っていた。さっきの轟音の正体はこれか。
そして床に。人が倒れていた。夜色の外套。見覚えのある顔。あの魔術師だ。坑道を破壊し、いきなり襲いかかって来た挙句、最後に遺物で転移していったあの慇懃な魔術師。
それが胴を深く斬られて血の海の中に沈んでいる。ぴくりとも動かない。確かめずとも理解できる。既に息は無い。先程の戦闘。勝者はおそらくミオラだったのだろう。
そして、少し離れた床にそのミオラが膝をついていた。
満身創痍だ。左肩は焼け焦げ。全身煤と血に塗れ。肩で息をしている。それでも生きている。大きな欠損も無い。上出来だ。
つまり状況はこうだ。ミオラとあの魔術師が、この広間でやり合った。派手な撃ち合いの末にミオラが競り勝った。さっきまでの轟音はその決着で——
——いや、待て。じゃあさっきの声は?
俺は視線をぐるりと一周させる。ミオラ。崩れた石柱。石棺。明滅する灯り。そして最後に手前まで見渡して——
男が立っていた。正面に。ミオラよりもまず先に気がつくべきでは。
倒れた魔術師でもミオラでもない、第三の男。仕立ての良い濃紺の膝丈の上衣。高い襟元。銀糸の走る袖口。名家に仕える老執事のような、隙の無い身なり。この血と土煙の惨状の中で、その男の周りだけが場違いに清潔だった。
そして。
……あれ?
俺はその顔に目を留めた。見覚えがある。どこでだったか。記憶の抽斗を上から順に開けていく。協会?違う。夜会?出た事無いから違う。遺跡?もっと違う。えーと、えーと……もっと最近だ。そんなに古い記憶じゃない。仕事絡み。事件絡み。白い建物。飾られた絵姿。腰の低い、感じの良い——
あ。
ぽん、と。俺は手を打った。
「あれ?アルゴールさん。どうしてこんなところに??」
王立博物館館長代理、アルゴール・クラウス。
盗難事件の調査で博物館を訪ねた時、応対してくれた御仁。物腰が柔らかくて話が早く。儀礼剣の写しまで快く見せてくれた。
第四王子レグルスが館長として名を刻む博物館で。実務は全てこの人が回していると聞いた記憶がある。感じの良い人だった。帰り際には出口まで見送ってくれた。
そのアルゴールがなんでまた、王家の墓の底で、血と瓦礫にまみれて演説など——
男の口元から。すう、と。笑みの形が消えた。
広間の空気が一段冷えた気がした。倒れそうだったミオラまでもが凍り付いたようにこちらを見ている。
……あれ?俺、なんか、まずい事言った?
俺は首を傾げ——そこで、ふと。男が胸元に抱えた一振りの剣に目が留まった。ごてごてと装飾過多な、どこかで見たような、見ていないような。
「あれ、それ——」
ごう、と。
地下の筈の霊廟のどこか遠くで。風の唸る音が、俺の言葉ごと、全てを掻き消すように響いた。