追放の真意〜そんなものは無かったが、仲間も敵も王族も、みんな勝手に深読みしてくる〜   作:目下−1

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ep.20 嵐の後に

 時計塔の最上階はいつも風の音がする。

 

 石積みの古い塔だ。四方に開いた窓には硝子が嵌っているが、それも今は開け放たれている。王都の風がそのまま吹き抜けて、卓に積まれた書類の端を捲り、燭台の炎を頼りなく揺らしていく。

 

 あの霊廟の底から数えて三日が経っていた。

 

 円卓の周りには三人が座っている。大剣を膝に横たえ、油布で手入れをするグレン。窓辺の張り出しに膝を抱えて座り込んだリゼ。杖を壁に立て掛け、背筋を伸ばして座るノエリシア。三人共が俺の顔を見ている。

 

「——それで、結局ルシアは見つからず、ねえ」

 

 俺は円卓に頬杖を付き、努めて残念そうに切り出した。

 

 壁際でグレンの手が止まる。膝に横たえた大剣を油布で拭っていた指も、それと同時にぴたりと動きを止めた。窓辺で膝を抱えていたリゼが半目だけをこちらへ向ける。ノエリシアが杖を握り直した。

 

「三人がかりで、丸一日。それでも駄目だったかあ」

 

「…………」

 

「いやあ?責めてる訳じゃないよ?責めてる訳じゃないけどさ。ほら、こっちは灰翼(アッシュクロウズ)の統領まで片付けてきた訳だし?役割分担としては、まあ、こう、ね?」

 

 そう言いながら大袈裟に肩を竦めて見せる。我ながら酷い言い草だった。

 

 言いながら、内心では正しい採点も済んでいた。あの崩落の縁で『探しといてくれる?』と言い残し、颯爽と駆け出したのは他ならぬ俺だ。

 捜索の一切を丸投げし、等級(レベル)八の威厳を守る為に飛んで行った。誰がどう見ても悪いのは俺である。

 

 しかし、それはそれとして。

 

 正論というのは口にした方が勝ちなのだ。先に殊勝な顔をした側が、その後ずっと殊勝でいなければならなくなる。長い付き合いで学んだ処世術。尤も、それは長い付き合い故の信頼あってのものではあるが。

 

「……お前なあ」

 

 グレンが、ぐ、と喉を鳴らした。太い眉が寄り、口元が歪む。

 言いたい事は山程あるのだろう。丸投げされた事も。勝手に走って行った事も。挙句こうして棚に上げられている事も。

 

 その全部を、大男は一度飲み込んだ。

 

「……いや。まあ、そうだ」

 

 油布を畳みながら、絞り出すように言う。

 

「見つけられなかったのは、こっちだ。それは、そうだ」

 

「……是非も無し」

 

 リゼが窓辺で、ぽつりと零した。膝に顔を半分埋めたまま。視線は外の暮れかけた空へ逃げている。

 

「……面目無い」

 

「私達の落ち度です。それは認めます」

 

 ノエリシアも静かに頭を垂れた。ただ、伏せた睫毛の下から、ちら、と一度だけこちらを窺う。

 

「……認めますが。エイルくん、後で一度きちんとお話ししましょうね?」

 

「あ、はい」

 

 是非も無し。

 

 三人の不満は、確かにそこにあった。しかし、それ以上に、見つけられなかった、という事実が重い。誰かを責める前に、自分の手落ちが先に立つ。『暁と黄昏』はそういう真面目な性分をしている。俺を除いて。

 

 故に、こうして俺の理不尽もひとまず通ってしまう。悪い事をしている自覚はある。あるが、その自覚は今、頭の隅の埃っぽい棚に押し込んでおく事にした。

 

 と、同時に。後からの説教についても考えないでおく事にした。

 

「——まあ、その話は追って詳しくやる」

 

 グレンが大剣を膝から下ろし壁へと立て掛けた。それから腕を組み、椅子を軋ませながらこちらへ向き直る。

 

 その声には詰問の色こそ無いが、三日分の据わりの悪さが確かに滲んでいた。

 

「その前にだ——そっちはどうなった」

 

「それがね——」

 

 俺は頬杖をついたまま、記憶を辿り始めた——

 

 あの後の霊廟は、それはもう大変な騒ぎだった。

 

 まず近衛が動いた。広間の四方に人員が配され。通路が封鎖され。崩れた石柱の一本一本にまで検分の手が入る。数百年の間、年に数度しか人の入らなかった場所へと。一晩で百を越える靴音が持ち込まれた。

 これまでに霊廟に立ち入った人数すら凌ぐ程に。眠っていた王族の皆様には、重ねてお悔やみを申し上げる他ない。

 

 アルゴール・クラウスの遺体は、布に包まれて運び出されていった。

 

 あれだけ喋り。あれだけ吠え。あれだけ光る剣を掲げていた男が、最後には布の下の輪郭でしかなくなる。諸行無常。盛者必衰。奢れる者も久しからずだ。

 

 ミオラは重傷だった。焼けた左肩。無数の裂傷。魔力の枯渇。麻痺も抜けがけで王都を横断し。あの魔術師を斬り。その上でアルゴールとの綱引に抗い続けたのだから大したものだ。

 近衛の従軍治癒師が診察し。応急の手当てを施し。それから馬車で運ばれていった。行き先はスラムの外れの教会だ。それは彼女が頑として譲らなかった。

 

 家に、帰る、と。ミオラは担架の上でそう言った。血の気の失せた顔で、それでも剣だけは離さずに。半ば意識を失いながらも折れる気は無いようだった。

 

 俺はというと、近衛の詰所で事情聴取である。何があったか順を追って話せ。と非常に高圧的な尋問を受けた。

 ミオラを追い。聞き込みに空振りし。偶然血痕を見つけ。偶然開いていた門を潜り霊廟に辿り着き。何と無く降りたら戦闘中で。そして流れでそこにいたアルゴールを下した。

 

 全部本当の事だ。本当の事ではあるが、何故か聞き手の顔がどんどん険しくなっていった。

 

 まったく、近頃の衛兵は想像力が足りないな。

 

 一通り尋問を受けた後、レグルスから、後日改めて呼び出す、と告げられた。あの傲岸不遜が、こちらを見もせずに言うのだ。逃げるなよ、と。

 

 逃げも隠れもしないが?恥ずべき事は何もしていない。霊廟の壁に罅を入れたのも、柱を折ったのも、石棺を砕いたのも俺では無い。無断で王族の墓所に立ち入ったのも偶然だ。門が開いてたのが悪い。

 

 ——そして、先生は。クロノ・アストールは、あの後、何も語らなかった。

 

 アルゴールの骸を一瞥したきり、ただ静かに身を引いて。近衛が駆け寄って来ても。レグルスが何事か指示を飛ばしても。その表情は湖面のように凪いだままだった。やがて王子が踵を返すと、当たり前のようにその後ろへ従い、青白い通路の奥へと消えていった。

 

 こちらを一度も見る事無く。

 

 ……いやまあ、そこは。いいか。俺は口の中で言葉を転がして飲み込んだ。

 

 ——俺が語り終えると、時計塔に暫く沈黙が落ちた。風が窓を抜けていく。燭台の炎が細く傾ぐ。

 

「……まさか灰翼の頭があの人だとは」

 

 グレンが額を押さえ、深々と息を吐いた。

 

「十年、王子の傍に飼われてた、ときたか。……道理で尻尾が掴めねえ訳だ。掴もうとしてた手が、そもそも向こうの側にあったんだからな」

 

「痕跡を残さぬ美学。それもあったのかもしれませんが。しかし、そんなものはそもそも必要無かったのですね」

 

 ノエリシアが静かに言葉を継ぐ。

 

「記録する側に近い立場であれば痕跡は残らない。……今回の事件も、全て内側から描かれた筋書きだった訳ですか。不自然に協会に情報提供があったのも頷けます」

 

「……癪に障る」

 

 リゼが窓辺で膝を抱えたまま短く呟いた。事件を起こした張本人が何食わぬ顔で依頼を寄越したのだ。苦虫を噛み潰したような顔をするのも分かる。

 

 しかし事件は無事解決した。灰翼も儀礼剣盗難事件も。何故解決したのか、一才、微塵も、これっぽっちも分からないが、解決は解決。決して未解決にはなりはしない。

 

 ただ、一つだけ引っ掛かる事があった。俺は頬杖をついたまま、天井の梁をぼんやりと見上げる。

 

 人質にされていた少女の事だ。

 

 あの霊廟で、魔術師がミオラを呼び出す際に餌にした子供がいたとミオラが言っていた。それを彼女が逃がし、その子は自力で地上まで辿り着いていたという。無事だったと聞いた。それは結構な話だ。心底、結構な話なのだが。

 

 ……あの通路、一本道だったんだけどなあ。

 

 俺は血の跡を辿りあの石段を降りた。降りて、まっすぐ奥へ進み広間に着いた。途中で分岐は無い。脇に小さな間口はあったが、どれも石棺が納められた行き止まりだ。

 

 で、あるのに。俺は誰ともすれ違っていない。時間の勘定が合わない。俺が降りていく時、人質の少女はまだ通路のどこかにいた筈なのだ。

 アルゴール、或いはレグルスや近衛の隊列と鉢合わせしていてもおかしくない。しかし誰も、そのような少女を見ていないと言う。

 

 ……まあ。脇の間口にでも隠れてやり過ごしたのかもしれない。子供の身の丈ならば、石棺の陰に潜むくらい造作も無いだろう。

 追われていたのだ。物音がすれば身を隠すのが道理である。

 

 うん。多分そうだ。そういう事にしておこう。と、言うか考えたところで分かる話でも無い。俺は引っ掛かりを頭の隅の埃っぽい棚へと押し込んだ。

 

「……で」

 

 グレンが、腕を組み直した。端正な眉の下から、こちらを窺うような視線が向けられる。

 

「そっちの話は分かった。次は、こっちの番だ」

 

 空気の質が変わる。ノエリシアが膝の上の杖を握り直す。リゼが窓の外へ視線を逃がす。その仕草だけでこれから語られる言葉が伺えた。

 

「——さっきの話の続きだが」

 

 グレンが低く言う。一瞬、気不味そうな表情が浮かび、しかしそれも直ぐに硬い表情へと戻る。

 

「結局、ルシアは見つからなかった」

 

 二、三拍溜めて、グレンが続ける。風が、また窓を抜けていった。

 

 三日前。俺が霊廟へと向かった後。三人は指示通りにあの崩落の穴を降りたのだという。丸一日をかけて、下層を隅から隅まで洗った。

 

「落ちた場所自体はすぐに割れた」

 

 ノエリシアが言葉を選ぶようにゆっくりとグレンに続く。

 

「上層から崩れ落ちた岩塊が積み上がっていましたから。その真下です。……そして、そこには何もありませんでした」

 

「何も?」

 

「文字通りです。ルシアちゃんはいませんでした。骨の一片も。潰された痕跡も。血の一滴さえありませんでした」

 

 ノエリシアはそこで一度言葉を切る。それから僅かに眉を寄せた。

 

「代わりに残っていたのは魔術の残滓です。極微かなものでしたが、間違いなくルシアちゃんの魔術です。おそらく術式は落下の衝撃を殺す類のもの。身体能力の強化に近い補助魔術です」

 

「なら——」

「はい。ルシアちゃんは、無事に着地しています。それは断言できます」

 

 被せるようにノエリシアが続ける。それに俺は小さく安堵の息を吐いた。

 

 ……まあ、そうだろう。ルシアの補助魔術は、自分に掛ける時が一番冴える。高い所から落ちた程度でどうこうなる筈が無い。分かってはいたが、実際に確認するのとでは訳が違う。

 

 僅かに強張っていた肩の力が抜ける。しかし、話はそこで終わらなかった。

 

「問題はここからです。……魔術の残滓は、着地点から数十歩ほど続き、そこで途切れていました」

 

「途切れた?」

 

「はい。緩衝の魔術が解け、代わりに軽度の知覚強化のようなものへ切り替わり、しかしそれも、すぐに。まるで世界が切り取られたみたいに」

 

 ノエリシアの声が僅かに硬くなる。

 

「そこから先は何もありません。足跡もない。争った跡もない。怪遺に襲われた形跡も皆無です。……ただ、下層の坑道がどこまでも続いているだけでした」

 

「一日、歩き回った」

 

 グレンが吐き捨てるように言った。

 

「風抜けの廃坑を端から端まで。枝道も。水の溜まった穴も。崩れた区画も。声も嗄れるまで張り上げた。下層の更に奥。反対側に繋がる出口まで抜けて、外の荒野も見て回った、が」

 

 グレンはそこまで言うと小さく眉を顰める。僅かに逡巡するような色を見せ、口を歪めたまま続ける。

 

「——何も無い」

 

「……消えたみたいに」

 

 リゼがぽつりと零した。膝を抱えたまま、窓の外の暮れかけた空を見ている。半目の奥にいつもの気怠さは無かった。

 

「……落ちて。降りて。歩いて。……それから消えた」

 

 時計塔に再び沈黙が落ちた。グレンが拳を握り、卓の上で震わせている。

 彼はこういう時に一番不器用になる。誰かを殴れば済む話なら、いくらでも殴りに行くのだ。殴る相手がいない事態にだけ酷く弱い。模範的な脳筋である。

 

「……くそ。あと半日早く着いていれば」

 

「グレンさんのせいではありません」

 

「そういう話をしてるんじゃない」

 

 ノエリシアの慰めをグレンは苛立たしげに払った。それから、すぐに済まなそうに目を伏せる。

 

 そんな彼等のやり取りを、俺は頬杖をついたまま眺めていた。一通りを眺めて、頭上で腕を組む。体を反り。天井に視線をやり。力を抜いて息を吐いた。

 

 ルシアが消えた。落下でも。怪遺でも。灰翼絡みでもない形で。無事に降りて。無事に歩いて。しかしそれから跡形も無くなった。

 

 ……うーん。

 

「まあ、大丈夫じゃない?」

 

 俺はなるべく軽く聞こえるように言った。組んでいた腕を解き、伸びをしながら続ける。

 

「三人が一日中探し回っても見つからないなら、もう下層にはいないんでしょ。だったら自分で出たって事じゃないかな。案外、今頃どこかの街で呑気にご飯でも食べてるかもね」

 

「エイル。お前なあ……」

 

 グレンが何か言いかけて、結局は口を噤んだ。呆れ半分、諦め半分の顔で。そしてやはり、勝手に何か納得したように首を振った。

 

 何を納得したのか。

 

 ……しかし、まあ大丈夫だろう、と言うのも全く無根拠な話では無い。

 落ちた時点で怪我が無いのであれば、風抜けの廃坑の怪遺は問題無い。灰翼も既に壊滅。頭を失った烏が羽ばたく事が無いように。仮に構成員が残っていても烏合の衆に他ならない。

 

 戦闘が本職では無いとは言え、ルシアが対処出来ない道理は無かった。

 

 しかし、気になる点は残る。魔術の痕跡が数十歩で途切れた、という話だ。

 

 あれは妙だ。妙どころではない。落ちた直後の暗い坑道で、ルシアが身を守る魔術を早々に解く理由が無い。仮に解除したとしても暫く魔力の痕跡は残る。魔術の使用に比べれば塵芥も同然の些細な痕跡ではあるがノエリシアであれば追えない訳がない。

 

 まあ魔術的追跡の達人と言えるノエリシアと五感で追跡の達人と言えるリゼの二人掛かりで分からなかった事を分かる訳が無い。

 

 案外、世界が切り取られたなんてノエリシアの比喩も的外れじゃ無かったり——

 

 俺は考えを途中で止め、卓の上の空の杯を指で弾いた。かん、と乾いた音がして、風の中に溶けていく。

 

 考えても分からない事は、今考えても分からない。尤も、いつ考えて分かる話でも無いが。

 

 

 ——————

 

 王城からの呼び出しは、その二日後に来た。

 

 通されたのは謁見の間では無く、王立博物館の一室だった。分厚い絨毯。壁一面の書架。硝子越しに並ぶ古物。以前、写しの絵姿を見せてもらったのと同じ部屋だ。

 案内で先導したのは若い書記官。アルゴール程の風格も物腰の柔らかさも薄い。ぎこちなさを残した雰囲気で彼は応接室の扉を開いた。

 

 部屋を覗けば、既に一人の人間が古風な椅子に腰掛けている。窓を背に立つ金糸の頭。第四王子、レグルス・ルクス・ヴェスペリア。その傍らに先導した書記官とは別の書記官が二人、扉の脇に近衛が四人。

 

 そして、部屋の隅の椅子に。最早見慣れた桃色が一つ。

 

 厳格な雰囲気の中に。場違いに不遜な態度でミオラが腰掛けていた。包帯の目立つ姿だ。左腕は吊られ、首元にも当て布が覗いている。しかし顔色は悪くない。膝の上には、あの装飾過多な剣が鞘ごと横たえられていた。

 

 目が合うとミオラは小さく顎を引いた。髪の毛と同じ桃色の眉は不満気に顰められ、眉間には分かりやすく皺が寄っている。

 不機嫌を隠そうともせず、ふん、と小さく鼻を鳴らした。

 

「来たか」

 

 流れるような金髪をした男、レグルスがこちらに気付き口を開く。眉目秀麗な顔は泰然としたまま、赤い瞳だけがこちらを射抜く。

 

 俺は胸に手を当て深く一礼をする。顔を下げたまま、恭順の姿勢を崩さずに口を開いた。

 

「お呼びと伺いましたので」

 

「……ふん」

 

 俺の態度にレグルスは鼻を鳴らして応える。顔を上げろ、と続ける彼の顔には酸でも飲んだような色が浮かんでいた。不承不承、やむを得ず、忸怩たる思いで、とでも言いたげに唇が真一文に結ばれている。

 

 数瞬の葛藤の後、レグルスは諦めたように口を開いた。

 

「……まずは、これだ」

 

 王子が目配せをすると書記官が卓に一つ革袋を置いた。両手で抱える程の大きさだ。ずしり、という重みが音になって伝わってくる。

 

「探索者協会からの報奨。灰翼討伐に関わる一切だ。元締の首を取った功が加算されている。単一の盗賊団討伐の報奨金としては例を見ない額との事だ」

 

「おお」

 

「そして、もう一つ」

 

 レグルスが再び書記官へと視線をやれば、今度はもう一人の書記官が前へと出る。それから先程と同様に皮袋を机の上に置いた。

 皮袋から伝わる男が心なしか、一つ目の物よりも重く聞こえる。

 

「国宝、儀礼剣スヴァル=アールヴァテラの奪還に対する謝礼だ。王立博物館館長として私の名で出す」

 

 ……奪還?して無いな、それ。

 

 一瞬、ミオラの方へと視線をやる。その膝には相変わらず大事そうに一振りの剣が抱えられている。

 美術品と神具を兼ね備えたような装いは非常に神秘的だ。花弁のように広がる鍔がその絢爛豪華かに拍車を掛けている。神秘と威厳を纏った荘厳な一振り。まさに王国の象徴……のように見える。けど、多分偽物なんだよなあ。

 

 しかし、それを素直に伝えたところで納得するとは思えない。と言うか寧ろ、偽物だと露呈してしまえば何かしらの罪に問われるのでは?

 詐欺罪?偽証罪?侮辱罪とか不敬罪とか?国家反逆とか言われる可能性もあるな……。

 

 一瞬の内に思考が巡る。二巡三巡、と。凡ゆる可能性を検証し——

 

 うん、言わない。と言うか言う理由無いな。後から偽者だと露見したら、その時はその時だ。国外逃亡もやむ無し。今死ぬか後で死ぬかの二択だ。

 

 心中で理屈を捏ね、問題を先送りする事にした。と言うか、気付かない方が悪い。王国側が気付かない事に、単なる一王国民である俺が気付ける方がおかしい。悪いのは言わなかった俺では無く、気付けなかったレグルスだ。うん、間違いない。

 

 殺しきれなかった苦笑を浮かべたまま、改めて一礼する。

 

「……有り難く頂戴致します」

 

「……随分と、複雑そうな顔をす——」

「気のせいでございます」

 

 被せるように言葉を継いだ。それ自体が不敬罪と言われればそれまで。しかし、レグルスは訝しげに眉を寄せるだけで、それ以上は追及しなかった。

 代わりに、卓の縁に指を置き、こちらを正面から見据える。

 

「さてエイル・エルシディア。貴様の働きについてだが」

 

 金色の瞳が、値踏みするように細められた。

 

「無断で王家の墓所へ立ち入り、先祖の眠りの間を半壊させ、国宝級の遺構に修復不能な損傷を与えた。論ずるまでも無く大罪だ。何なら今この場で縛り首にしてやってもいい」

 

 流れ変わったな……。

 

「……しかし、それは————」

「言い訳は聞かん」

 

 ぴしゃり、と。言葉を紡ぐ前に切り捨てられる。

 

 いや、でも。本当に壊してないんです。当たったらやばい魔術を避けてただけで……。避けなければ破壊は無かったって事ですかね……そんな……御無体な……。

 

 まあでもこれが絶対王政だ。これは国外逃亡も本格的に視野に入れるべきか、と。考えていた時だった。

 

「……だが」

 

 レグルスはそこで一度言葉を切った。窓の外へと視線を逃がし、それから面倒臭そうに続ける。

 

「十年、私の足元に潜んでいた鼠を……私は見抜けなかった。クロノから聞かされなければ、おそらく今後もずっとそうだったであろう。被害も国宝盗難では済まなかった事は想像に難く無い」

 

 眉間の皺が一層濃くなる。何かを言い掛けて口篭る。それを二、三度繰り返し、最後に小さく舌打ちをしてから続けた。

 

「……それを貴様はたった数日で叩き伏せた——結果は結果だ」

 

 喉に小骨でも刺さったような口ぶりで。

 

「……働きは、認めてやる」

 

 へえ。

 

 俺は思わず、まじまじとその横顔を見てしまった。

 

 なるほど、古株連中の評はまんざら外れてもいないらしい。傲慢で尊大で口が悪いのは間違いない。しかしこの王子は、認めるべきものを認めない類の人間ではない。

 間違い無くヴェスペリア王家の血を引いた傑物の一人だ。反抗期のようなものとは、確かに言い得て妙である。

 

「……何を見ている」

 

「いえ。殿下は良い方だなと」

 

 レグルスの顔が今までの不機嫌さとは違う形に歪む。

 

「気色の悪い事を言うな」

 

 反射的に言葉を返したが、予想の斜め上の返答に面食らったような。一拍遅れて理解が追い付き、代わりに得体の知れない違和感が込み上げて来たかのような。

 

 沈黙が落ちる。奇妙な静寂が場を満たし、どこか居心地の悪い空気が流れる。数瞬の後、口火を切ったのはレグルスだった。

 

「——さて」

 

 小さく咳払いをし、空気を切り替えるように言う。濃赤の瞳が、部屋の隅に座るミオラへと向く。

 

「本題だ。ミオラ・シェイド」

 

 ミオラの肩が僅かに強張った。膝の上の剣に無意識に手が触れる。

 

「まず確認だ。貴様は儀礼剣スヴァル=アールヴァテラをどのようにして手に入れた」

 

「……何度も言ってるだろ」

 

 掠れた声で、それでもミオラははっきりと答えた。

 

「盗賊から奪った」

 

 書記官の羽根ペンが走る音がする。

 

「経緯をもう一度」

 

「……盗賊団の根城に踏み込んだ。元々スラムで好き勝手やってた無法者連中の寄せ集めだ。別に法で規制された行為でもねえだろ。で、その時、たまたま剣が転がってた。オレの得物は少し前に寿命で砕けてたから、丸腰よりましだと思って持ち出した」

 

「その盗賊団の名は」

 

「知らねえよ。看板出して商売してる訳じゃねえ」

 

 そう吐き捨てると、小さく舌打ちをして視線を背ける。足を組み、頬杖を吐き、表情は苛立ちを隠そうともしていない。

 肝が太いと言うか、王族相手に良い度胸だ。この場で侮辱罪で極刑になっても不思議ではない。

 

 しかし、レグルスは怒らなかった。能面のように波の無い表情のまま、ただ探るように目を細める。

 

「貴様……探索者だな。何故そのような真似を」

 

「スラム育ちなんだよ。あそこの連中がどんな目に遭ってるか見て育った。……そんだけだ」

 

 顔を背けたまま、視線だけを寄越して答える。口をへの字に曲げ、これ以上語る事はないと口を噤んだ。

 

 書記官の一人が王子の耳元で何事か囁いた。それにレグルスは短く頷く。

 

「……法の上では確かに筋は通る。シンドラストの連中は討伐令が出ている。それに連なる者を殺害したとして罪に問われる事は無い。そして討伐者が現場から得た物品は、原則としてその者に帰属する」

 

「なら━━」

「但し」

 

 ミオラの言葉に、レグルスが声を被せる。威圧的な声音が応接室に木霊する。

 

「但し、所有権が第三者に認められる財物、国家・王家・教会その他公的機関の所有物、または法により管理を要する禁制品についてはこの限りではない」

 

 レグルスはそこで一度言葉を切る。それから一度姿勢を正し、咳払いをしてから続けた。

 

「儀礼剣スヴァル=アールヴァテラは国宝指定遺物だ。所有権は国家にある。返還を求めるのは当然の道理だ……分かるな」

 

 ミオラは唇を噛んだ。膝の上の剣を、包帯の巻かれた手が握り締める。ぎゅう、と。指の先が白む程に力が込められている。

 

 彼女にとって、それはもう単なる得物ではない。それだけは傍から見ていても嫌という程分かった。詳しい経緯は知らない。剣を拾得してから何があって執着を抱くに至ったのかは分からない。

 しかしそうなるだけの何かがあった事だけは確かだ。

 

 しかし、道理は道理。相手は国家そのもの。ここで頑なに抗えば、悪くなるのはミオラの立場である事は自明。

 

 ミオラは、長い長い呼吸を一つした。瞳を閉じ、ゆっくり瞼を開けて、改めて手元に視線を落とす。

 それから震える手で剣を持ち上げ、差し出した。

 

「……分かった」

 

 近衛の一人が進み出て、恭しくそれを受け取る。両手で捧げ持ち、王子の前の卓へと運ぼうとして——

 

 その瞬間だった。ひゅん、と。剣が近衛の手の中から消えた。

 

「な——!?」

 

 装飾過多な一振りが空を滑る。弧も描かず、一直線に。差し出したままの姿勢で固まっているミオラの手元へ。

 ぱし、と。その掌に、当然のように収まった。

 

 しん、と。部屋が静まり返る。

 

 書記官の羽根ペンが止まる。近衛達が反射的に槍の柄へ手を掛け、レグルスの目が見開かれる。

 

 ミオラの顔色がみるみる青白く変わって行く。

 

「……ち、違う。オレは、何も」

 

 あれはミオラが呼んだのではない。呼ぼうとして呼んだのならあんな顔にはならない。

 ただ、離したくないと思ったのだ。手放す瞬間に、ほんの一瞬。それだけ。しかし、それで剣が手元に戻るのは既に見ている。

 

「……もう一度」

 

 レグルスが絞り出すように言った。

 

 二度目。近衛が受け取る。数歩進む。再び同じ事が起きた。剣は指の間を擦り抜け、ミオラの手へと戻る。

 三度目。今度は鞘ごと布に包み、箱に納めさせた。近衛が箱を持ち上げる。箱の蓋を内側から吹き飛ばした。

 

 部屋の空気が変わった。

 

 近衛達の顔から警戒が消え、代わりに畏れが浮かぶ。書記官の一人が無意識のように胸元で印を切った。

 

 国宝が人の手を拒み、一人でに少女の元へと帰る。それを三度、目の前で見せられた。驚愕に目を剥くのも無理は無い。

 

 しかし。おそらく、あれは……。

 

 俺は口を開きかけて、少し考えた。

 

 おそらく、あれはルシアが後付けした機能だ。剣士から得物を失わせない無法の魔術。

 時計塔の倉庫に眠る備品の剣。その幾つかにも同様の魔術が施してある。

 

 意思を媒介に手元に戻る。ただ、それだけの話である。ミオラが手放したくないと思う限り、剣は永久に彼女の元へと帰り続ける。

 

 これを馬鹿正直に説明したらどうなるか。

 

 まず信じてもらえないだろう。この場の誰一人として。仮にそれが信用されたとして、それはあの剣を『補助魔術師が細工したただの剣』と言い張るという事に他ならない。つまり、国宝は別にあると主張するに等しい。

 

 結果として何が起きるかは想像に易い。詐欺罪どころでは無い。不敬の上塗り、打首まっしぐらである。

 

 ……うん。誰も得をしない。特に俺が。

 

 故に。俺は、思い出したように、あの男の言葉を借りる事にした。

 

「僭越ながら申し上げます」

 

 合計八人。十六の瞳が一斉にこちらを向いた。

 

「儀礼剣スヴァル=アールヴァテラは持主を選ぶ、と。そう聞き及んでおります」

 

「——何?」

 

「三日前、霊廟にてアルゴールがそのように話しておりました。また、博物館の資料にも同様の記述があったかと存じます」

 

 部屋の空気がざわりと揺れた。書記官達が顔を見合わせ、何事か囁き交わす。

 古い文献に確かにそういう記述がある、という声が漏れ聞こえた。近衛達の目に浮かんだ畏れが、確信に変わっていく。

 

 そして、レグルス・ルクス・ヴェスペリアは。これ以上無い程、苦り切った顔をしていた。

 

「……剣の伝承か……。眉唾だと思っていたが、まさか……」

 

 端正な眉が八の字に曲げられ、溜息を吐きながら眉間を揉む。

 

 まさか真実だとは、と。言葉を紡ぐ事無く口を閉じる。王権の証たる国宝が、王家の人間では無く、スラム出身の小娘を選んだ。この場でそう認めるという事はそういう体裁を飲むと言う事だ。

 

 レグルスは長い事黙っていた。窓の外を睨み、こめかみに指を当て、書記官と二言三言やり取りし、それからまた黙り。軈て深々と息を吐いた。

 

「……良いだろう」

 

 静かな声だった。声量は決して大きく無い。しかし、この場の全員が無意識に姿勢を正す重みがある。

 レグルスはミオラへと視線を向け直す。正面からスラムの少女を見据え、ゆっくりと口を開いた。

 

「当面の間、儀礼剣スヴァル=アールヴァテラはミオラ・シェイドに預ける事とする」

 

「なっ——」

 

 ミオラが目を剥いた。瞠目し、一瞬凍りついたように動きが止まる。暫く口だけが、ぱくぱくと動き。数秒して漸く声となる。

 

「い、いや。オレは別に、そんな——」

「勘違いするな。譲るとは言って無い。あくまで預けるのだ」

 

 レグルスは腕を組んで顎を上げた。

 

「所有権は王家にある。貴様は預かる者に過ぎん。持ち出しは自由だが、紛失も破損も許さん。呼べば来い。返せと言えば返せ。……それと」

 

 金色の瞳が、ぎろりとミオラを見据える。それから応接室を一周ぐるりとし、俺へと止まる。しかしそれも一瞬で再びミオラへと視線を向けた。

 

「近く、王家の祭典がある。王位継承に関わる、重要な儀だと父上から伺っている。儀礼剣は本来、そこで持ち出される予定だった——その時までに、改めて沙汰を下す。それまでの暫定措置だ。分かったな」

 

「……あ、ああ」

 

「返事が聞こえないが」

 

「……分かり、ました」

 

「よろしい」

 

 その言葉が終わると同時に、書記官達の羽根ペンが一斉に走り始める。

 

 国宝は回収された。剣は然るべき記録に納められた。ただ、その保管場所が少々特殊になっただけである。悪は滅び。王家の面目は保たれた。

 

 実に円満な決着だ。剣が偽物である、という一点を除けば。

 

 ともあれ、無事に第四王子レグルス・ルクス・ヴェスペリアとの会談は終わりを迎えた訳である。

 

 博物館を出ると日はもう傾いていた。

 

 白い石畳が夕陽を吸い、飴色に染まっている。街路樹の影が長く伸び、行き交う人々の足元を撫でていた。

 

「——おい」

 

 背後から声が掛かる。振り返ればミオラが立っていた。吊った左腕を庇うようにして、右手には布に包んだ剣を大事そうに抱えている。

 

「お前」

 

「うん?」

 

「絶対、分かっててやっただろ」

 

 じとり、とした目つきだった。

 

「あの場で、態々あんな事言って。剣がオレの所に残るように仕向けただろ。……あれ、そういう話じゃねえって、お前が一番分かってた筈だ」

 

 分かってた?何が?

 

 確かに、あの剣がルシアの細工である事は分かっていた。説明しても誰も信じない事も分かっていた。仮に説明すれば俺が困る事も分かっていた。いたが……。

 

 仕向けた、と言うよりは。

 

「まあ、結果的にはよかったんじゃない?」

 

 そう言いながら俺は伸びをして、欠伸を噛み殺す。

 

 全ては誤魔化した末の、偶然の結末だ。俺の利害とミオラの利害が偶然に一致しただけ。

 

「だってさ、その剣、君のでしょ?」

 

 ミオラが一瞬言葉に詰まった。それから視線を落とす。布越しに。剣の輪郭を確かめるように。指がゆっくりと動いた。

 

「……ああ」

 

 短く、そう答えた。

 

「オレの剣だ」

 

 夕陽がミオラの桃色の髪を橙に染めていた。

 

 あの霊廟で、剣を奪われた時の彼女の目には、まだ迷いがあった。本当に自分の剣なのかと。揺れる何かが。それが今は無い。ただ静かに。当たり前のものとしてそこにある。

 

「なあ」

 

 ミオラが、ふと顔を上げた。

 

「ルシアは」

 

 俺は少しだけ返事に間を置いた。

 

「まだ見つかってない。下層にはいなかった。……ただ、無事に着地した痕跡はあった。怪我もしてないと思うよ」

 

「……そうか」

 

 ミオラは俯き、それから深く息を吐いた。安堵と。落胆と。その両方を無理矢理飲み下すような息だった。

 

「オレのせいだ。あいつを置いて、走った」

 

「うーん」

 

 俺は頭を掻いた。

 

「置いて走らなかったら、教会の子はどうなってたと思う?エルナちゃんだっけ?」

 

「……」

 

「両方は取れなかった。取れない時に、どっちかを選んだ。それだけの話でしょ。君が悪い訳じゃないよ」

 

 仮にミオラが残っていたとしても。ノエリシアやリゼ以上に捜索に役に立っていたとは思えない。

 あの場で誰が悪かったのかを論ずるならば、それは凡そ俺であるが。

 

 そんなのは結果論なので?もし見つかってたら一挙両得してた訳で?これは実質、灰翼と儀礼剣とルシアの三件同時解決と言っても過言では無いのでは?

 

「……まあ、たらればを言っても仕方ないよ」

 

 俺は誰に言うでも無くそう呟いた。

 

 それに、ミオラは何も言わなかった。ただ、暫くして小さく頷く。それから真っ直ぐに此方に視線を向ける。

 

「……何か分かったら教えてくれ」

 

「うん」

 

「オレも、探す」

 

「そっちは体治してからね」

 

 じゃあまたね、と。そう言い置いて俺は歩き出した。少し行ってから振り返ると、ミオラはまだそこに立ち、剣を抱えたまま夕陽を見ていた。

 

 ——————

 

 その夜。時計塔の自室で。俺は二つの革袋を卓に並べていた。

 

 協会からの報奨。博物館からの謝礼。どちらもずしりと重い。数えるのが面倒になる程度には重い。

 灰翼の統領を討った。実質的な王命も解決した。ルシアも実質見つけたに等しい。等級八の威厳も鰻登り。完璧だ。文句の付けようが無い。

 

 なのに。

 

 ……晴れないんだよなあ。

 

 俺は椅子の背もたれに深く沈み込み天井を見上げた。窓の外は夜だ。王都の灯りが点々と散らばり、遠くで酒場の喧騒が微かに聞こえる。風が吹き抜けて、燭台の炎を揺らしていく。

 

 あの、最後の言葉が。

 

 アルゴールの言葉が、耳の奥から離れない。

 

 ——まさか、貴様は。

 ——何、故。

 

 そこまでは、はっきり聞こえた。血泡に濡れた声だったが、確かに聞き取れた。問題はその先だ。

 最後の一言は、掠れて、途切れて。殆ど音になっていなかった。喉の奥で潰れた息のような、それだけの音。

 

 ……裏切ったのか、と。そう言った……のだろうか。

 

 俺は何度も、記憶の中でその音を再生してみた。裏切った。うらぎった。そう聞こえた気もするし、全く違う気もする。もっと短い言葉だったかもしれない。あるいは、意味を成さないただの呼吸だったのかもしれない。

 

 分からない。誰に向けた言葉なのかさえも。

 あの時、アルゴールの目は確かに先生を捉えていた。だが、死に行く人間の目が何を見ているかなど、誰にも分かりはしない。

 

 クロノ・アストールは何も答えなかった。

 

 表情一つ変えず。骸を一瞥して。それから静かに身を引いた。それだけだ。何もおかしな事はしていない。

 

 その筈だった。その筈なのに。何かが違う。あの変わらない筈の横顔に、どこか薄寒さのようなものを覚えたのだ。

 

 結局、この事は誰にも言っていない。グレンにも。リゼにも。ノエリシアにも。報告の場でも、意図的にクロノ先生の事だけを省いた。

 

 ……口に出したら、後戻りできなくなる気がしたのだ。

 

 言葉というのは厄介だ。頭の中でぼんやりと漂っている間は、ただの気のせいで済む。しかし、一度誰かに向けて喋ってしまえば、それは形を持つ。形を持ったものは無かった事にできない。

 

 だから飲み込んだ。呑気な顔で報奨金を数えて、明日からまた普通に暮らす。それでいい。それが一番丸い。それで全部解決だ。

 

 ……まあ、気になる事自体は他にもあるが。

 

 あの通路の少女の事もまだ引っ掛かっている。一本道を誰ともすれ違わずに。

 

 俺は棚に押し込んだ埃っぽい引っ掛かりを、もう一度取り出して、しばらく眺めて、また戻した。考えても分からない事は、今考えても分からない。

 

 その内誰かが答えを持ってきてくれる事だろう。例えば司祭とか。

 

「……まあ」

 

 俺は革袋を一つ持ち上げ、放り投げ、受け止めた。じゃらり、と重たい音がする。

 

 丁度現金で手元にあるし。これであの司祭への借りを返しに行こう。利子と、菓子折り付きで。ついでに聞きたい事も山積みだ。

 

 そして。

 

「ルシアも、そのうちひょっこり出てくるでしょ」

 

 誰もいない部屋で、声に出して言ってみた。

 

 根拠は無いが、無事ではあるだろう。ある日突然、何食わぬ顔で扉を叩いて『ただいまー』とでも言いそうな気さえする。

 

 気がする、のだが。追い出しちゃったのは俺なんだよね……。

 

 俺は窓辺に立ち、王都の夜を見下ろした。点々と散らばる灯りの一つ一つに、誰かの生活がある。その灯りの向こう。闇に沈んだ地平のどこかに、彼女はいるのだろう。

 

 風が頬を撫でて通り過ぎていった。

 

 ——————

 

 同じ頃。王都から遠く離れた名も知らぬ場所で。

 

 薄桃色の髪の少女が、大きく伸びをしていた。

 

「んー……っ」

 

 凝り固まった肩が、こきり、と鳴る。

 

 私は立ち上がりながら身体をぱんぱんと払った。上衣の裾も。袖も。膝も。うっすらと土埃を被っている。掌で叩く度に、細かい粉が舞い上がって、光の中でちらちらと躍った。

 

 髪にも付いていたらしい。指で梳くと、ぱらぱらと小さな粒が落ちてきた。

 

「……うわぁ。埃だらけ」

 

 情けない声が出る。でも、それだけだった。擦り傷一つ無い。打ち身も。捻挫も。痣すらも。

 あれだけの崩落に巻き込まれて。あれだけの高さを落ちて。それでどこも痛くない。補助魔術を齧っておいて良かったと思う。

 

「……うーん。どうしよう」

 

 そのまま、ぐるりと辺りを見回した。

 

 見覚えの無い景色だった。風が吹いている。乾いて、澄み切った空気。遠くには稜線。足元には痩せた草が疎らに生えていて、風に押されて身を伏せている。

 

 風抜けの廃坑ではない。少なくとも、坑道の中ではない。

 

「……ここ、どこだろ」

 

 首を傾げてみるが、当然答えは返ってこない。

 

 落ちて。着地して。それから確か、暗い坑道を少し歩いて。それから——

 

 そこから先が少し曖昧だった。

 

 うん、と唸ってみる。何か大事な事を忘れているような気もするが思い出せない。まあ、いいか。頭を強く打った訳でもないし。多分、疲れていただけだ。

 

 それより。

 

「ミオラ、無事かなあ」

 

 あの時、坑道が崩れる直前。ミオラは暗器使いの男と斬り結んでいて、奥にはもう一人、恐ろしく強い魔術師がいた。ミオラは強い。あの剣もある。だから大丈夫だとは思うのだけれど。

 

 思うのだけれど、心配は心配だ。

 

 早く戻らなくてはいけない。合流して、無事を確かめて、それから怒られよう。多分、すごく怒られる『勝手に落ちるな』とか言われるかもしれない。

 

「よし」

 

 ぱん、と両手で頬を叩いた。それから、腰に佩いた剣の柄に、何気なく手を添える。

 

 無骨な剣だった。装飾の一つも無い。飾り気の欠片も無い。刃も鍔も柄も、ただ斬る事だけを考えて研ぎ澄まされた形をしている。地味と言えばあまりに地味だ。

 あのミオラの剣とはまるで正反対である。

 

 でも不思議と手に馴染む。不思議なくらい、しっくりくる。掌の形に添うように、当たり前のようにそこにある。

 

「……まあ何とかなるよね」

 

 そう呑気に呟いて、柄を軽く撫でた。

 

 ここが何処かは分からない。けれど、手には不思議と馴染む剣。怪遺が出てきても大丈夫だ。尤も、こんな遺跡でも何でも無い所に出てくるとは思えないけど。

 

 顔を上げ、風の吹いてくる方角へと目を細める。

 

 道は無い。街道らしきものも。人影も。煙の一筋も見えない。ただ、延々と荒野が広がっているだけ。

 

「うーん……。方角も分かんないなあ」

 

 困った。困ったけど。まあ大丈夫でしょ。

 

 だって歩いていれば、そのうち何かに行き当たる。人でも、道でも、街でも。世界は繋がっているのだから、どこかに向かって歩けば、いつかはどこかに着く。

 

「うん!」

 

 そのまま大きく頷いた。埃を払った服の裾を整えて、無骨な剣を腰に佩いて、一歩を踏み出す。

 

「とりあえず、進んでみれば着くよね」

 

 風が薄桃色の髪を攫っていった。

 

 その足取りは、どこまでも軽やかで。そして何一つ疑っていなかった。自分が今どこにいるのかも。自分が腰に佩いているものが何なのかも。

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