追放の真意〜そんなものは無かったが、仲間も敵も王族も、みんな勝手に深読みしてくる〜 作:目下−1
国宝指定遺物——儀礼剣『スヴァル=アールヴァテラ』
その名は古い言語で『静謐なる創造』を意味すると言う。
静謐、創造。音も無く積み上げられるもの。誰にも気付かれぬまま、世界の根底で形を成していく力。喧騒とは無縁の、しかし確かに存在する営み。
その名を冠する剣が、果たしてどの様な在り方をしていたのか。想像するだけで胸の奥に僅かな緊張が走る。
館長代理、アルゴールから渡された資料に目を落とす。
館内の間取図や展示物の詳細、保管記録、過去の移送遍歴に至るまで、整然と記された紙束。一般に公開された情報に加え、盗難事件に関する既知の情報、証言、当時の警備体制の配置図。そして破壊箇所の簡易的な見取り図。
それ等が幾重にも重なり、綴られている。
最早資料と言うより、一つの記録書だ。
紙の厚みは指先に確かな重さを伝え、その重みがそのままこの遺物の価値を物語っている。
頁を捲る度、紙が擦れる乾いた音が小さく響く。館内の静けさの中では、その音すらどこか異質に感じられた。
そしてその資料の中程に、本来ここにある筈である宝剣が描かれている。
精密な写し絵。特殊な魔術を用いて描かれたそれは単なる図では無い。まるで存在そのものを閉じ込めた様な、映像記録としての側面を持つ。
刀身は細く、直線的。しかしその直線は完全な物では無く、見る者の視線に応じて微かに揺らぐような、不確かな輪郭を帯びている。硬質的である筈の金属に、どこか流動的な気配が宿っている。
その刃には繊細な紋様が刻まれており、ただの装飾とは思えない規則性を持って連なっている。それは紋様でありながら文字のようでもあり、また別の何か、意図を持って構成された仕組みのようにも見えた。
光を受ける度に、その刀身は銀とも白金ともつかぬ輝きを放つ。いや、単に光を反射しているのでは無い。光を内部に取り込み、僅かに遅れて返しているような、深みのある明滅。
まるで地の底で燃え続ける炉の残光を、そのまま閉じ込めたかのようだった。
柄には宝石が散りばめられている。
赤、青、緑、そして透き通るような無色の結晶。それぞれが異なる色を宿し、しかし互いに干渉する事無く、独立した輝きを放っている。
その配置には明確な秩序があり、無造作に嵌め込まれている訳では無い事は一目で分かる。
それ等は単なる装飾では無く、魔術的な触媒としての意味合いがあるらしい。
資料の注釈にはそう記されているが、寧ろそれは機構の一部と呼ぶべき物に見えた。
鍔は薄く広がり、まるで花弁の様な形をしている。その造形は自然の花とは異なり、規則的で人工的な整合性を帯びている。
幾重にも重なる曲線は、装飾でありながら機能を感じさせた。その縁には微細な刻印が施されており、古代の祈祷文が連なっていると言う。
全体としては、それは剣と言うよりも一つの芸術。しかし同時に、芸術という言葉だけでは到底収まりきらない意図がそこにはあった。
凡そ武器として使われる事は無く、祭事の際の、文字通り儀礼用の剣と言ったところだろう。
——と、資料にはそう簡潔に言い纏められている。
その一文の裏側にあるものは、決して軽いものでは無い。これは単なる象徴では無い。何かを行う役割を持っている。
殆ど無意識に、指先でその図の輪郭をなぞっていた。紙の上に描かれた線であるにも関わらず、そこに触れた瞬間、微かな違和感。
冷たいような、熱を帯びているような。実体を持たない筈の、魔術で写し取られただけの筈のそれが、確かに何かを伝えてくる。
思わず指を離す。この感覚が何だったのか、言葉には出来ない。ただ一つ確かな事がある。
この剣は、ただ美しいだけの物では無い。
アルゴールと話した後、案内された展示室は他と比べても明らかに厳重だった。
重圧な扉。幾重にも施された魔術刻印。そして、無惨に破壊されたその名残。
扉の一部は抉られたように歪み。金属は裂け。蝶番は無理矢理引き千切られている。暴力的な力が加えられた事は明白だった。
その前には複数の衛兵達が立っている。単なる見張りでは無い。装備の質。立ち居振舞い。視線の配り方。いずれも洗練されている。
門にいた隊長格の男と同等か、或いはそれ以上。
俺達が近付くと衛兵の一人が無言で道を開ける。その視線には警戒と、分からない程度の苛立ち。
お偉いさんの探索者嫌いも、ここまで来れば立派なものだ。
内部に入ると空気が一段と張り詰める。音が沈み、気配が重くなる。今までよりも、より一層深い空気。
広く開けた空間。天井は高く、壁には古い紋様。幾つかの展示物が等間隔に展示されているが、それ等はただの脇役に過ぎないように見えた。
視線は自然と中央へと引き寄せられる。そして、その中央に設けられた台座へ。
——その上には何も無かった。
空白。ただそれだけの筈なのに、その不在は強烈な存在感を放っている。
そこにある筈の剣が無い事で、空間が妙に浮いた雰囲気を醸し出している。重心を失ったような不均衡。不安定さ。
この場所そのものが、本来の形では無いと訴えているようだった。
ゆっくりと近付く。一歩踏み出す毎に、靴音が僅かに遅れて返ってくる。その微かな反響が耳に残る。
台座は石と金属を組み合わせた精巧な造りで、重厚さと精緻さが同時に存在している。表面には複雑で、幾何学的な紋様が刻まれている。
直線と曲線が幾重にも重なり合い、そして互いに干渉し合わない芸術的な装いは、単なる装飾の域を超えている。
何かしら魔術的な役割を持つ機構が組み込まれているのは明らかだった。
そして、その中心。本来、剣が在った筈の位置。
そこだけが歪んでいるかのような錯覚を覚える。
何も無い、空である筈なのに。そこには確かに、失われた物の残穢が留まっている。
台座の縁に手を添わしてみる。直接触れてはいない。表面の空気をなぞるようにして、僅かに指を滑らせる。
冷たい筈の空気が奇妙に重い。そこだけが密度を増しているかのような、そんな錯覚。そして半ば無意識に手を離し、距離を取っていた。
「……妙だな」
背後から、グレンの低い声が落ちる。その声は、空間の張り詰めた静けさに吸い込まれるようにして、短く消えた。
彼は既に台座の周りを一周し、しゃがみ込んで床を観察していた。指先で削られた石床の表面をなぞり、その微細な凹凸を確かめるように目を細める。
「……何?」
リゼがそう言いグレンの手の先を覗き込む。その動きは静かだが、視線は鋭い。
彼は鼻で短く息を吐いた。
「ここを見てみろ」
そう短く言いながら、床の一部を指差した。
そこには、浅いが確かに残る傷跡があった。刃物で引っ掻いたような線。だが、深さも角度も一定ではない。
無造作に振るわれた結果のような。まるで、躊躇も制御も無く振るわれた刃がそのまま石を撫でたような、不揃いな痕。
「刃物……にしては、少し軽いですか」
ノエリシアが静かに言う。
彼女は膝を折り、視線を傷跡と同じ高さに落とした。
「いや、合ってる」
「力が乗っていないか、若しくは扱いに慣れてないか……ってところかな」
「そうだ。その割に——こっちはどうだ」
グレンは少し離れた位置へと移動する。其処には先程のものとは明らかに異なる形跡があった。
床石の一部が鋭く抉られている。
一撃で刻まれた無駄のない断面。刃が迷う事なく通り抜けた軌跡。切断というよりも削ぎ落とされたに近い。
断面は滑らかで余計な欠けが無い。そこには力では無く、技が介入している。
「……同じ現場とは思えませんね」
ノエリシアの声が低くなる。
「こっちの奴は腕が良い。力任せに振るった訳じゃ無い。……少なくとも普段から剣を嗜んでいる奴の太刀筋だ」
「……強い?」
「さあ、どうだろうな。ただ——」
グレンは言葉を切り、ゆっくりと立ち上がる。そして腕を組み、周囲を見渡した。
「下手な奴と、出来る奴が混ざってる。統率が取れた感じも無い。それだけは確かだ」
その視線は床だけで無く壁や扉の破壊跡にも向けられている。
無造作に叩き壊された箇所。しかし、その隣にある正確に抜かれたような魔術刻印の欠損。それ等が同時に存在している。
「寄せ集め……と言う事でしょうか」
ノエリシアが呟く。
その言葉は静かに空間へと溶けて行く。
寄せ集め。言い得て妙だが、おそらく間違いでは無いだろう。
通常、同一の盗賊団内での実力差はそれ程大きくならない。彼等は等しく社会からの溢れ者だ。近い境遇の奴等が集まり、そして自然と一つの無法者集団となる。
尤も、突出した個人が居ない訳では無い。しかしそう言う存在が居る場合、その個を中心に、歪ながらも一つの形が出来上がる。
統率、秩序。或いは恐怖による支配。何等かの形で纏まりが生まれる。
何にしろこの痕跡の主には成り得ない。
そして——
「極め付けがこの血痕かな」
俺はしゃがみ込み、床の一点を指で叩く。グレン達も此方に視線を向ける。
そこには、僅かに色の変わった染みがあった。乾き切ってはいるが、石に染み込んだそれは完全には消えていない。色は燻み、時間の経過を物語ってはいる。しかしその輪郭はまだ崩れていなかった。
量はそれ程多く無い。血を流したのは一人、と言ったところだろう。
飛び散り方も限定的だ。致命傷では無い。深くも無い。明確に止められている。
目的の為急遽かき集められた『寄せ集め』の盗賊団。質はピンキリ。そして思惑も様々。そうなってくると一つの物語が出来上がる。
「取り分か、裏切りか、それとも主導権か……。まあ、理由は色々あるだろうけど。完璧な計画の下、この部屋に辿り着き、そして最後。仲間内での争いが起きる」
床に残る傷跡。それ等を辿りながら続ける。
「一人が武器を取り、周りも構える」
荒い傷跡。
「猪突猛進。考え無しに一太刀」
鋭い傷跡。
「それに続いて一閃」
そして最後。床に飛んだ血。
「刃を向けられた何者か。そいつが斬り返す」
その瞬間の静寂が、まるで今も残っているかの様に感じられた。そして——
「死人は無し」
言い切った瞬間、静寂が一つ、重く落ちた。
それは音の消失では無く、寧ろ空間そのものが息を顰めたような、濃密な沈黙であった。
誰もすぐに言葉を継がない。しかしその沈黙は否定では無い。寧ろ、今ここにある痕跡の歪さを、輪郭を持って浮かび上がらせるものだった。
本来ならば、ここには『終わり』がある筈だ。
誰かが倒れ、動かなくなり、その場に結果としてその痕跡が残る。血の量が、崩れた体がそれを証明する筈だった。
それが盗賊団、荒くれ者達であるなら尚更。
しかしそれが無い。代わりに残るのは途中で断ち切られた衝突。終わる筈の無かった暴力が、意図的に止められたその痕跡。
血痕を見つめたまま、ゆっくりと息を吐く。肺の奥に留まっていた空気が、少し冷たく感じられた。
「……一人、いるね」
小さく呟く。
「明らかに格が違う。中にはそこそこの奴も居たかも知れないけど。それも含めて、たった一回剣を振るっただけでこの場を収めた人物が」
「間違いなくな」
グレンが頷く。その声音は低く、迷いは無い。
「それなりの奴を雑魚にしてしまうような手練れだ」
「統率のない集団に……後付けで秩序を与えたみたいな……」
ノエリシアが思考をなぞるように言う。
「若しくは、最初からそう言う役割で配置されてたとかね」
混乱を制御する為の蓋。暴走する歯車を、無理矢理噛み合わせる為の存在。
「どっちにしろ妙なのは変わりない」
グレンが小さく舌打ちをして続ける。
苛立ちと言うよりも、腑に落ちないという感情の表れだった。
「こんな実力者がいるなら、もっとまともなやり方ができた筈だ」
「……あえて?」
「そうだろうね。剣を盗むだけなら一人でも可能だったんじゃないかな。それも一切の破壊無く、痕跡も残さずにね」
そう言ってゆっくりと周囲を見渡した。荒らされた展示物に、破壊された扉。そして浮き上がる争いの結末。その全てがちぐはぐに共存している。
「……その人物に、魔術的な素養が全く無かった可能性はどうでしょうか」
ノエリシアが控えめに溢した。彼女は青黒の長髪を撫でながら、伏目がちに扉の方へと視線を向ける。
そこには破壊された刻印の残骸が断片的に残っている。
「この博物館の防護は、単なる物理的な物だけではありません。館内全体に魔術刻印が幾重にも施されています」
彼女はゆっくりと扉に歩み寄り、その刻印の一部へ視線を落とす。それからその紋様をなぞるように、空中で指を滑らせた。
触れずとも、そこに流れる構造を読み取るかのように。
「多層構造の防護術式。侵入。干渉。展示物の持ち出し……それぞれに対して個別の制御が組み込まれている」
その声音は淡々としているが、僅かな緊張を帯びていた。視線は刻印から離れない。
「単純な刻印の破壊だけでは突破出来ません。仮に力で強引に削ったとしても、別の層が補完し、機能を維持する。そう言う設計になっています」
「……つまりだ」
グレンが顎に手を当て、低く唸る。
「正規の手段。それかそれに準ずる理解が必要ってわけか」
「はい」
ノエリシアがそれに頷き、言葉を続ける。
「術式の構造を把握し、要所を正確に無効化する。或いは一時的に機能を遮断するような——そうした処理が必要になります」
壁に残る整い過ぎた欠損を思い出す。荒々しい破壊の中に、異質な静かな空白。あれは確かに壊したものでは無い。しっかりと明確に、意図を持って抜かれていた。
尤も、と彼女は続ける。
「この術式を解除できる人間がどれだけいるのか……。私でも一から解除するのは時間が掛かると思います」
「ノエルでも……」
リゼが小さく言う。
ノエリシア・クローネ。彼女は王都でも指折りの
彼女の真価は単なる魔力量や魔術の破壊力に留まらない。寧ろ、際立つのは術式に対する理解の深さだ。
魔術を構成する理論、刻印、詠唱の一音に至るまでを分解し、最適化し、そして再構築する——知識の深さ。
その思考は、魔術そのものの深層へと至る。そしてそれは時に、より上位の魔術師さえも凌駕する。
故に、彼女は星の数程居る魔術師達から、畏怖を込めて呼ばれる。魔術の『深淵』を覗く者、と。
——因みにリゼからはノエル、と愛称で呼ばれている。
そして、そんなノエリシアでさえも読み解くのに時間の掛かる。それは誇張では無く、寧ろ彼女自身が、自分の実力を正確に把握した上での言葉だった。
「ですが……これは」
ノエリシアは僅かに言葉を切る。そして低く続けた。
「この術式はおそらく短時間で処理されています。しかも必要な箇所だけを正確に。魔術刻印に関してだけ言えば、無駄な破壊は一切無いと言ってもいいです」
空気がゆっくりと重さを増して行く。見えない輪郭が、徐々に浮かび上がる。
正体不明の実力者。そして魔術に高度な理解を持つ者。少なくとも——
「二人は実力者がいる、と」
「可能性は高いんじゃないでしょうか。戦闘技術と魔術解析は必ずしも両立するものではありません。寧ろ……」
「相反する……」
リゼが呟く。剣と魔術。肉体と理論。力と知恵。両立は不可能では無いが、極めるとなれば別の道だ。
でも、と。彼女は小首を傾げ、言葉を続ける。
「……数が多過ぎる」
再び沈黙が落ちる。
ノエリシアの発言を踏まえても、犯行に必要な人数は二人。魔術解析の補佐が居たと考え、多く見積もっても三人と言ったところ。それ以上はただの過剰だ。
また魔術的な素養を持つ人物像と、荒くれ者のそれは余りにも一致していなかった。
「……無駄に荒らして、雑魚を混ぜて、挙げ句の果てに仲間内で一悶着か」
「一体何の為にでしょうか……」
ノエリシアの問いが、静かに空間に沈む。
その答えはまだ形を持たない。しかし——
「……見せる為、かな」
俺は小さく呟いた。誰に向けるでもなく、しかし確信を帯びて。
「事件が起きたって事を。剣が盗まれたって事をちゃんと知らしめる為に」
視線を床へと落とす。破壊、傷、血痕。それ等が全て証拠として並べられている。
「隠す気が無いんじゃない。寧ろ……その逆」
ゆっくりと顔を上げる。
「分かるように残してるんだよ」
そして、俺は小さく溜息をついた。
……うーん……。なら、
思考の中で一つの可能性を切り捨てる。一瞬、あの盗賊団の名前が浮かび、しかしすぐに消される。
彼等はこう言うやり方をしない。痕跡を散らす事も、混ぜる事も、況して残す筈がない。もっと単純で、徹底している。
奪うならば完全に。侵入するなら気付かれずに。
そこにあるのは効率ではない。彼等にはそう言う、美学とも言える矜持があった。
と言うか、そうじゃないと俺達はこんなに苦労してない。尻尾を掴む為に丸一月も掛かったし。
くそ、と心の中で悪態を吐く。
俺の……全部同時に解決作戦が……。
——と、その時であった。
「いいね、エイル。それは“正解”だよ」
外側の廊下の方から声が響く。遅れて足音。規則的で無駄のない歩調。靴底が石を打つ乾いた音が、静まり返った室内に反響する。
衛兵のものとは違う。張り詰めた警戒も、緩んだ隙も無い。ただ一定で、迷いが無い。
グレンが反射的に顔を上げる。その動きは早く、しかし音を立てない。
リゼは小さく息を呑み、ノエリシアは視線だけを静かに扉の方へと滑らせた。
軈て、半壊した扉の向こうに影が差す。光を背負い、ゆっくりと一人の男が姿を現した。
——白銀。
最初に目に入ったのはそれだった。長く流れる銀髪が僅かに揺れる。差し込む光を受けて、それは現実のものとは思えない程淡く輝いていた。
細身な長身。余分な力の抜けた立ち姿。それでいて隙が無い。
空間に溶け込むようでいて、決して同化していない。そこに在るという事実だけが、静かに浮かんでいる。
呼吸が僅かに止まる。視線が合う。その瞬間——
記憶が引き戻される。遠い記憶が、呼水のように溢れ出す。
朝の冷たい空気。手に馴染まない木剣の重さ。何度も繰り返した構え。厳しさの合間に挟まれる、柔らかい言葉。
遠い筈のそれが、今この場に重なる。
「……クロノ……先生……!」
名が溢れた。確認では無い。それはもう、疑いようの無いものだった。
「どうしてここに。と言う顔をしているね」
指を立て、軽い調子で言う。
「僕も君達と同じさ。探索者として依頼を受けて此処に居る。簡単な話だよ」
男は僅かに目を細める。それから——
「久しいね」
穏やかな声だった。低くも無く、高くも無い。ただ静かに耳に馴染む響き。
それは記憶の奥底に沈んでいた音と、寸分違わず重なった。
「……は?」
グレンが短く息を漏らす。間の抜けた声だった。その顔には露骨な困惑が浮かんでいる。現実を認識しきれていない、そんな動揺。
「……嘘」
リゼが小さく言う。視線は男から離れない。
ノエリシアに至っては、完全に言葉を失っていた。僅かに開かれたままの唇と、見開かれた青い瞳。それだけが、彼女の内面の揺らぎを雄弁に物語っている。
目の前に立つ男。クロノ・アストール。
嘗て、俺達四人の師であった人物。幼い頃から十年近い歳月を共に過ごし、戦う術を、そして生きる術を叩き込んだ存在。
父のように厳しく、時に不器用な優しさを見せた男。
——その彼は。ある日なんの前触れもなく、突然姿を消した。理由も、言葉も残さずに。
残されたのは空白と、置き去りにされた時間だけだった。
そして、そのクロノが——彼が、あの日と変わらない姿でそこにいる。
「グレン、リゼ、ノエリシア。……そして、エイル」
クロノはゆっくりと、俺達四人に順に視線を送る。外側をなぞるようなものでは無い。もっと深く、内側を測るような眼差し。
それでいて、その視線は穏やかで、どこか懐かしさを帯びている。
「皆んな、元気そうで何よりだよ」
自然な言葉だった。あまりにも自然で——まるで昨日まで共にいたかのような距離感で。
その違和感の無さが、逆に現実との乖離を際立たせる。
「……おい」
グレンが一歩前に出る。踏み込んだ足が床石を打ち、その音が展示室に強く響いた。静まり返った空間に、不釣合いな程はっきりと。
「クロノ……!お前、今までどこに!なんでっ……、何も言わずに消えた!」
押し殺しきれなかった感情が声に滲む。怒鳴っている訳では無い。怒りでは無い、けれど複雑な感情が音を持って響く。
クロノはその言葉を真正面から受け止めるでもなく、受け流すでも無く、ただ静かにそこに立っている。
「……そうだね。なんで……か」
穏やかな声音。肯定とも、回想ともつかない曖昧な響き。それだけで、グレンは言葉を詰まらせた。
「お前っ……」
続けようとして、止まる。何を言うべきか分からなくなったように。その横で、リゼが一歩前に出る。
「……先生」
声は小さい。けれど震えてはいない。確かめるようにじっと見つめる。
「ほんとに……生きてたんだ」
ぽつりと漏れる。その言葉に込められていたのは、責めでは無く、純粋な安堵だった。
「当たり前だろう?」
クロノはごく自然にそう返した。昔と同じ調子で、まるで居なくなっていた時間など、最初から存在しなかったように。
「当たり前って……!俺達がどれだけ……!」
グレンが食い下がる。言葉が荒くなる。しかし——
「逆に、君達は僕が死んだと思っていたのかい?」
「それ、は……」
グレンが再び言葉に詰まる。クロノの問いは、あまりにも平坦だった。責めるでも無く、感情も無く。ただ事実を確かめるように。
しかし思っていなかったと言い切るには、時間が長過ぎた。
「十年」
暫く推し黙ったグレンが、軈てぽつりと漏らす。
「十年だ。クロノが姿を消してから、十年経った」
低い声だった。けれど、先程よりも力が抜けている。
「そうだね」
クロノの変わらない調子に、グレンは肩の力を抜く。一度大きく息を吐いて、それから少しだけ視線を外した。
「……とにかく、無事でよかった」
最後にそう締める。それから、漸く衝撃を飲み込んだノエリシアが口を開く。
「お久しぶりです。クロノさん」
いつも通りの丁寧な言葉。しかし、その言葉は僅かに揺れていた。
「突然姿を消された時は……正直、理解が追いつきませんでした」
言葉を選びながら、ゆっくりと紡ぐ。そこまで言って、一度区切る。けれど、視線は逸らさない。
「理由は……今でも分かりませんが。こうして再びお会いできた事、嬉しく思います」
感情を抑えた言い方。それが、彼女の偽りの無い本音だった。
クロノは小さく頷く。
「そうだね。僕も、嬉しく思うよ」
短い返答。変わらず、声は穏やかなままで。その変わらなさが、どこか不自然な程に。
「それで……」
俺は口を開く。一歩、前に出る。視線は逸らさない。
「どうして……」
言葉を選ぶ余裕は無かった。
「……どうして、姿を消したんですか」
静かな声。けれど確かに、その音は展示室に響いた。
クロノはその問いを受けて——ほんの僅かに目を細めた。
それは考えていると言うより、何かを確認するような間だった。
「……簡単な話だよ」
穏やかに言う。
「僕がもう必要なかったから。それだけさ」
あまりにもあっさりと。十年と言う歳月を、その一言で片付けるように。
「……どう言う意味だよそれ」
グレンが顔を上げ、眉を寄せる。リゼもノエリシアも言葉にこそしないが、その視線は鋭くクロノを捉えていた。
クロノは俺達を順に見渡し、それから僅かに口元を緩める。
「今を見れば分かるさ」
変わらぬ調子でそう言った。
「さっきも言ったけど。エイル。君の推測は正解だよ。ここを見ただけでそう判断できている。……君達はちゃんとここまで来れた。それが答えさ」
淡々とそう告げ、言うなれば、と言葉を続ける。
「もう教えることは無い。と言うやつだね」
沈黙が落ちる。数瞬の後、リゼがその沈黙を破った。
「それで……いなくなった?」
ぽつりと、溢れるように。
「それだけで?」
重ねられた問いは軽くは無かった。音としては静かで、けどその奥には確かな重みがある。
クロノは答えない。ただ無言で、此方に笑を向ける。その沈黙は拒絶では無い。しかし許容でも無い。
少しだけ空白が生まれる。その間が、不自然な程に長い。ほんの数秒の筈なのに、その間だけ時間の流れが歪んだように感じられる。
誰も言葉を挟まない。否、挟めない。軈て——
「それ
クロノがゆっくりと口を開く。言葉を選ぶように。或いは選ぶ
「君達が決める事じゃないけどね」
柔らかい声音だった。拒む響きでは無い。突き放す物でも無い。だが、その奥に硬さが混じる。ほんの僅か、触れれば分かるかどうかと言う程度の、微かな硬さが。
それが妙に生々しく感じられる。
背筋に薄い違和感が走る。
ぞわり、と。肌を撫でるような、形を持たない感覚。
……今のは?
頭の中で言葉にしようとして、上手く掴めない。
否定でも、肯定でも無い。けれど——線を引かれたような違和感。
嘗て寝食を共にした師としての変わらない態度。その横顔はやはり穏やかで、不自然な程に自然だ。
違和感の正体が少しだけ輪郭を持つような、そんな感覚。
クロノはふと、台座の方へと視線を向ける。その台座の中心。空白を見つめる。そこに在った物を思い描くように。
「空いた場所は良く目立つ」
ぽつりと呟く。独り言のようで、誰かに向けられているような声。
「埋まっている時よりも、ずっとね」
何処か遠くを見つめるような視線だった。
目の前の台座を見ている筈なのに、焦点が少しだけずれている。この場には無い、どこか別の同じような光景を重ねているような。
その視線の奥行きが、僅かに現実から浮いている。それからゆっくりと此方へ顔を向ける。
視線が合う。ほんの一瞬の筈だった。しかしその一瞬がやけに長く感じられる。
昔と同じ、あの頃と同じ瞳の筈だ。その銀の彩光も、光の宿り方さえも、何も変わっていない。
それなのに、何処か遠い気がする。理由は分からない。言葉に出来るような確信は無い。距離がある訳でも無い。声が届かない訳でも無い。
しかしそこに、あの頃には無かった隔たりがあるような。同じ場所に立っているのに、同じ地面を踏んでいないような。そんな奇妙な感覚。
クロノは穏やかに微笑んでいる。
記憶の中と同じ表情で。あの頃と同じように。けれど、どこか違う。例えば、そう。
今目の前にいる彼は、確かに此方を見ている筈なのに、どこか違う場所から観ているような、そんな感覚。
「エイル」
ふと、クロノが名を呼ぶ。思考が引き戻される。顔を上げれば視線が真っ直ぐ此方を捉えていた。
彼の整い過ぎた双眸が俺を穿つ。穏やかに笑う彼の口角が、僅かに上がるような気がした。
「やっぱり君は、よく
その一言は、やはり穏やかな声音で告げられた。
褒めているようにも聞こえる。嘗てと同じように、成長を認める響きにも。しかし——
胸の奥に冷たいものが落ちる。言葉の意味そのものでは無い。その向けられ方が、どこか歪んでいるように思えた。
……見えている?何を?
背筋に薄く、冷たい感覚が這い上がる。言葉にすれば消えてしまいそうな、曖昧な違和感。しかし、確かにそこにある不快感。
クロノはそれ以上何も言わない。ただ静かに此方を見ている。その沈黙が、妙に長く感じられた
その時——
「ふん……くだらん茶番だな」
横合いから、冷ややかな声が割り込んだ。