追放の真意〜そんなものは無かったが、仲間も敵も王族も、みんな勝手に深読みしてくる〜   作:目下−1

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ep.4 塵掃除

 湿った空気が肺の奥へと纏わり付いてくる。

 

 吸う度に重い。吐き出しても何かが残るような感覚。水を飲んだ訳でも無いのに、体の内側がジワリと濡れていくような、何とも言えない不快感が拭えない。喉の奥に張り付いた物が、どうしても剥がれ落ち無い。

 

 ……くだらねぇ場所だ。

 

 地下深く。昔は鉱脈を掘っていたらしいが、今ではただの穴だ。価値も無い、捨て置かれた空洞。残っているのは削り取られた岩肌と、歪み、腐りかけた支柱と、そして逃げ場を失った湿気だけが、長い時間の澱のように沈澱している。

 一丁前に、地上に頭を出した部分には申し訳程度の小屋が被せられている。それも外界との繋がりを装う為の薄皮に過ぎない。

 入口は王都の外れにある。だがここは既に人の営みから切り離された場所だ。音も。光も。意志さえも。地の底に沈み込んで行く。

 

 壁に手を付けばザラついた感触が返る。湿り気を帯びた岩は冷たいというよりも、じっとりと肌に纏わりつく。まるで生き物の内臓に触れているかのような、不快な温度を孕んでいた。

 

 天井から水が滴る。

 

 ぽつ、ぽつ、と。間延びした音が、空洞に吸い込まれては歪んで返る。

 静寂とは違う。音はある。しかし、その音のどれもが意味を持たず、ただ散らばっている。その中で、この滴る音だけが妙に輪郭を持ち、耳にこびりついて離れない。

 

 焚き火が一つ。

 

 頼りない火だ。煤けて、燻んだ色をしている。揺れる度に影が伸び、歪み、形を変える。その変化には一切の規則が無く、見ているとどこか落ち着かない。影の方が生きているようにさえ思えた。

 

 煙もまた、逃げ場を見つけられずに低く滞留している。

古い坑道の残骸だ。換気など遠に機能していない。視界の端が常に霞み、世界が僅かに濁って見える。

 

 鼻を突く匂いも最悪だった。

 

 酒と汗、泥と鉄。木が腐った匂いと、澱んだ水の匂い。

 それ等が混ざり合い、発酵したような重さを持って鼻腔に纏わり付く。

 

 そして——血。

 

 強く、濃く混ざっている。嗅覚として感じ取るには僅かなもの。意識しなければ気が付かない。否、常人には到底気付き得ない程度には希薄なものだ。

 しかしもっと、根本的な雰囲気の中に存在を主張している。

 

 ここは、そういう場所だ。

 

 連中が騒いでいる。

 

 髭面の大男。歯の抜けた口を隠そうともせずに騒いでいる。血とも泥ともつかない染みをそのまま乾かしたような、醜穢な外套を羽織っている。その身なりはもはや汚れと区別がつかない。

 痩せこけた男が一人。やけに長い腕をだらりと垂らして立っている。袖口は擦り切れ、指先には乾いた黒ずみがこびりついていた。何を触ってきたのかは考えない方が良い類のものだ。

 古びた胸当てを着けた男がいる。磨かれていた頃の名残だけが僅かに光を返すが、肝心の本人の立ち方は崩れていた。嘗ての規律は、遠に抜け落ちている。

 背の低い男がやけに大きな袋を背負っている。中身が何かは分からない。ただ、歩く度に中で硬い物がぶつかる音がした。

 若い男が一人。落ち着き無く辺りを見回している。手にした短剣は新品に近いが、握り方だけが妙にぎこちなかった。買った、或いは拾った。若しくは奪ったばかりなのだろう。

 

 集まっている奴等は、群れというより掃溜めに近かった。色も形も揃わず、ただ同じ場所に押し込まれているだけの存在。

 数だけはいる。だが、その一つ一つに価値は無い。纏めて漸く、群れと呼べる程度の——そんな連中だった。

 

 誰もが勝手に喋り、勝手に苛立っている。規律も秩序も欠片も無い。声は大きいが中身は空虚。聞く気も無ければ、聞かれる気も無い。

 ただ音だけがぶつかり合い、空気を濁らせている。

 

 ……寄せ集め。その通りだ。

 

 だが俺は違う。このラドゥ・シンダー様には相応しくねぇ。俺はこの場にいる中で、少なくとも選ばれる側に近ぇ人間だ。

 

 喧騒から距離を取り、壁際に寄る。背に滲む湿り気を無視してそのまま体重を預けた。岩の冷たさが衣服越しに染み込んでくる。

 苛立ちに、小さく舌打ちが漏れた。眉を顰め、喧騒から顔を背ける。こんな塵共と同類だとは思われたく無い。

 

 そして、同様に騒ぎから外れている影が二つ。

 

 ゴルムとヘルグ。

 

 言葉に為ずとも分かる。こいつ等もあの喧騒の中に混じる程安くは無い——と。少なくとも自分では思っているのだろう。

 

 尤も——

 

 ゴルム・ダストは木偶の坊。ただ突っ立っているだけだ。

 視線は鈍い。何かを考えている様子も無い。ただ、そこにいる。戦いが終われば死体を漁る。それだけで生き延びてきた男だ。頭が良いのでは無い。考えない事に慣れているだけだ。

 

 ヘルグ・スラッグはその逆だ。

 落ち着きがない。視線が泳ぎ続けている。何かを追う癖が抜けていないのだろう。獲物を追い詰めるまではいいが、最後で外す。詰めが甘い。それを何度も見てきた。

 

 ……まぁ、使えねぇ訳じゃねぇ。

 

 この場の有象無象に比べれば、の話ではあるが。

 

 腕に刻まれた刺青が、ふと視界に入る。翼の下に五芒星。煤けた黒で刻まれたその印は派手さとは程遠い。

線は僅かに歪み、色も沈んでいる。だが、その燻みすら、妙に消えない重みを持っていた。

 

 安物の飾りとは違う。刻まれたという事実そのものが意味を持っている。

 

 ゴルムにも、ヘルグにも——そして俺にも、同じ印がある。

 

 数だけの有象無象とは違う。あの掃溜めの中から、確かに選び上げられた証。

 俺達三人で、一つの形を成す。名だけはある。体裁だけは整っている。

 

 シンドラスト。

 

 上等な響きじゃない。だが、それでいい。

 名の軽さと、この印の重さは別だ。此処に刻まれている以上、俺達はただの寄せ集めとは違う。

 

 這い上がってここまで来た。名も無い底から引き上げられ『翼』の影に触れた。

 それがどういう選別なのか、細かい理屈は知らない。だが一つだけは分かる。

 

 あの時、あの場にいた連中の中で、ここに立っているのは俺達だけ。それで十分だ。この掃溜めの中で腐るだけの連中とは違う。

 

 少なくとも——俺はな。

 

「だからよォ!取り分の話だって言ってんだろうが!」

 

 怒号が耳障りに響く。反響して、どいつの声か分かりにくくなるのがまた鬱陶しい。

 

「まだ終わってねえだろうが!気が早えんだよ!」

 

「終わりみてェなもんだろ。あの剣を持って帰った時点でな」

 

 笑いが起きる。薄っぺらい。喉の奥だけで鳴らしたような、軽い音だ。中身なんてありはしない。何も理解していない連中が、分かったつもりで吐き出しているだけの声。

 

 ……くだらねぇ。

 

 俺は視線を逸らす。ああ言う連中と同じ場所にいるってだけで反吐が出る。混じる必要は微塵も無い。

 

「……ゴルム」

 

 小さく呼ぶ。

 

「あぁ?」

 

 間の抜けた声が、すぐ横から返ってくる。

 

 ゴルムは焚き火の光を半分だけ受けて立っていた。やたらと横に広い体躯。無駄に太い腕がだらりと垂れ、握っていない拳が常に何かを壊せそうな形をしている。

 

 だがその顔は緩い。目は半分程しか開いておらず、焦点もどこか曖昧だ。何かを考えている様子は無い。ただ、呼ばれたから返した。それだけの反応。

 

「終わった後の事……忘れんなよ」

 

「あんだよ、分かってるって」

 

 頬を掻きながら応える仕草も何処か鈍い。

 

 ……たぶん何も分かってねぇな。

 

 だが、そこはどうでもいい。あいつは目の前に物があれば動く。死体でも装備でも、置いてありさえすれば勝手に拾う。考えなくても出来る事しか任せる気はない。

 

 それで十分だ。

 

「ヘルグ」

 

 視線だけを横に滑らせる。

 

「なんだよラドゥ」

 

 低く、即座に返ってくる。

 

 ヘルグはゴルムとは対照的に細い。無駄な肉の無い体を僅かに前へ傾け、いつでも踏み出せるような姿勢を崩さない。

 

 焚き火の揺らぎの中で、その目だけが落ち着かない。

 

 細く、粘つくような視線が、絶えず周囲をなぞっている。誰かの動き、影の揺れ、音の変化。何かを見逃すまいとしているのか、それとも追う対象を探しているのか。

 

 どちらにせよ、落ち着きがない。

 

「追い過ぎんなよ。いつもみてぇに外したら笑えねぇぞ」

 

「……今回は違うよラドゥ」

 

 僅かに歯を見せて答える。だが、その笑いは浅く、どこか引き攣っている。その言葉に根拠は無い。

 いつも通りだ。こいつは結局最後で外す。詰めが甘いのだ。追い詰めた気になって、足元を掬われる。

 

 何度も見てきた。……そして、治る気配も無い。だが、わざわざ訂正してやる義理も無い。

 

「……ちっ」

 

 意図せず口から溢れた舌打ちが大きく響いた。

 それだけで騒いでいた何人かが口を閉ざす。言葉の流れが一瞬だけ途切れる。

 今黙ったのは力を理解している連中だ。何処まで踏み込んで良いかを頭では無く、身体で覚えている。

 

 だが——

 

「ンだよ!お高く止まってんじゃねェぞ!」

 

 噛み付く馬鹿は何処にでもいる。

 

 髭面が此方に向かって凄む。手に持った木製の酒杯を振り翳し、今にも飛び掛かって来そうな雰囲気だった。

 無精に伸びた髭に濁った瞳。酒と泥に塗れたような顔付きのまま、此方を睨み付けている。

 

 ……あぁそうか。コイツは理解っていない側か。

 

 ゆっくりと顔を向ける。

 

「あぁ?」

 

 短く返す。それだけで充分だ。言葉を重ねる必要は無い。視線だけを合わせる。逃がさないように。削るように。相手の奥へ、静かに差し込む。

 

 ——沈黙。

 

 焚き火が、ぱちりと弾ける。その音だけが、やけに遠く聞こえた。

 髭面の喉が僅かに動く。さっきまでの勢いは無い。目が泳ぐ。逸らそうとして、逸らせない。

 

 コイツも理解し始めている。踏み込んだ相手を間違えたと。

 

「……ちっ、別に、喧嘩売ってるわけじゃねェよ」

 

 先に視線を外したのは、向こうだった。

 

 肩を竦めるようにして、一歩引く。その瞬間、張り詰めていた空気が音もなく弛緩した。凍りついていたものが、一気に溶けるように。

 

「はっ、なんだよお前。急に日和ってんじゃねぇか」

 

「おいおい!さっきまでの威勢はどうしたよ!」

 

「相手見てから喧嘩売れよぉ、馬鹿野郎が」

 

 笑いが起きる。さっきまでとは違う種類の笑い。誰か一人を下に置いて、安心する為の笑いだ。

 

 髭面は舌打ちしながらも、何も返さない。返せない。

 今、理解したからだ。ここで意地を張れば、どうなるかを。

 

「……ったく」

 

 誰かが肩を竦める。

 

「だから言ったろ、あいつらには触んなって」

 

「見りゃ分かんだろ。あの三人はヤベェって」

 

「まぁ、オレらん中じゃマシな方だわな」

 

 ひそひそとした声。だが、わざと聞こえるように落とされている。

 

 俺は何も言わない。言う必要がない。それで十分だ。

 

 焚き火が揺れる。

 

 影が、また形を変える。さっきまでの張り詰めた空気は、もう残っていない。

 連中は元の喧騒を取り戻す。何事も無かったかのように。あの程度の緊張ですら、この場には長く留まれない。

 

 すぐに崩れ、すぐに流れる。力で押し込める程、この場は整っていなかった。

 誰か一人が上に立てば収まるような、そんな単純な集まりじゃない。踏みつければ沈むが、押さえ続けるには数が多過ぎる。均すには雑過ぎる。

 

 火種は消えず、あちこちに散っている。小さく燻り、機を待つように燻り続けている。

 誰かが少しでも踏み外せば、またすぐに燃え上がるだろう。

 

 ……くだらねぇ。

 

 視線を外す。連中の顔を見る価値も無い。

 

 焚き火の、その少し外。光の縁に影が滲む場所。

 

 そこに粗末な布が置かれている。

 

 無造作に投げられたそれは、この場の空気に似つかわしくない程無関心に扱われていた。

 

 細長い形。布越しでも分かる輪郭。中身は考えるまでもない。

 

 ——あの剣だ。

 

 場違いな程整ったそれが、泥と煙の中に放り出されている。

 

 違和感はある。だが、それを口にする程の価値も感じない。

 

「……こんなもん、ありがたがる気が知れねぇな」

 

 誰かが、つま先で布を小突いた。

 

 鈍い感触が布越しに返る。軽く蹴った程度ではびくともしない硬さ。

 中にあるものの形だけが、確かにそこに在ると主張している。

 

「おい、やめろよ」

 

「馬鹿が、壊れるかよ。何てったって国宝様だぞ?」

 

 笑いが起きる。

 

 まただ。軽く、薄い。意味も無く、ただ場を繋ぐだけの音。その言葉に込められている筈の価値も、重みも、ここでは何一つ機能していない。

 

 ……国宝。

 

 その響きだけが浮いている。

 

 あれを見た時のことを思い出す。

 

 ゴルムが扉を吹き飛ばし、あの展示室へと踏み入れた瞬間を。開けた空間の中央で、仰々しく飾られていたあの剣を。

 

 確かに、綺麗ではあった。無駄が削ぎ落とされて、形だけはやけに整っている。光も、線も、隙がない。

 

 ——だが、だからなんだ。

 

 それだけだ。胸が動く事は無かった。息を呑む程でもない。手を伸ばしたくなるわけでもない。

 

 ただ、整っているという印象だけが残った。

 

 ……こんなもんが本当に国宝かよ。

 

 鼻で笑いたくなる。

 

 尤も、価値が分からねぇのは、こっちの問題かもしれねぇがな。

 

 上の連中——金と暇を持て余してる連中は、こういう分かり難い物を有り難がるんだろう。

 手間が掛かっているだの、歴史がどうだの。そういう話で、価値を後から積み上げていく。

 

 ……面倒くせぇ。俺には関係ねぇ話だ。どうせ連中にとっちゃ、見せびらかすための飾りだろ。分かる奴だけが分かればいい、みてぇな顔して。くだらねぇ。

 

 だから、興味は無い。だがそれでも良い。

 

 重要なのはあの連中がどう思うかだ。闇に潜み、闇に生きる顔無しの烏。選ぶ側にいる奴等。

 あそこに届くかも知れない物にはそれだけで意味がある。

 

 この剣がどれだけの価値を持つかなんて関係無い。あの連中の目に留まるならそれで良い。

 

 その可能性があるだけで十分だ。

 

「なあ」

 

 不意にゴルムが口を開く。焚き火の橙に照らされた顔が、のっそりとこちらを向く。大き過ぎる影が背後の岩肌に揺れ、輪郭だけが膨れ上がる。

 

「アレよお、売ったらいくらんなるだろうなあ」

 

 鈍い声。視線は布に落ちているが、見ているのは中身では無い。数字だ。俗物的な金勘定を足りない頭でしているに違いない。

 

「……さぁな。だが、馬鹿な真似はするなよ」

 

 短く返す。ゴルムは、おう、とだけ言って、また頬を掻いた。理解しているかどうかは分からないが、少なくとも今はそれで良い。

 

 その横で、ヘルグが僅かに口角を歪める。

 

「……売る、ねえ」

 

 細い指が顎に触れる。爪の先が微かに音を立てる。

 

「売るには、もったいない気もするけど。ね、ラドゥ」

 

 視線は布の上から外れない。だが、その言葉の向きは、金にだけ向いている訳じゃない。

 

 俺は答えない。代わりに、ほんの僅かに視線をやる。それで足りる。

 

 ヘルグの目が細くなる。ゴルムとは違う、分かっている顔だ。

 

 ゴルムは気づいていない。だが、気づく必要も無い。あいつは、指示された通りに動けばいい。

 

「……どうせ、単なる剣じゃないんじゃない?」

 

 ヘルグが続ける。言葉は曖昧だが、踏み込み過ぎ無い程度に輪郭をなぞっている。

 

「だったらよぉ、渡す先も選ぶって話だ」

 

 焚き火が、ぱちりと弾ける。

 

 その音に紛れて、誰にも聞かれない程度の声量。だが、十分だ。俺は小さく鼻を鳴らす。

 

「分かってるなら、無駄口叩くな」

 

 それだけ短く言う。それ以上は要らない。

 

 言葉にすれば軽くなる。この場で口に出すべき話じゃない。誰が聞いているかも分からない。尤も、他の連中に理解出来る話だとは思わないが。

 

 だから、これでいい。

 

 ヘルグは肩を竦めるだけで、それ以上は言わない。ゴルムは相変わらずだ。

 

「んー……?」

 

 何かを考える素振りを一瞬だけ見せて、すぐにやめる。分からない事は考えない。

 その方が生き残れると、身体で覚えている。

 

 ……それでいい。

 

 ——その時。

 

「……にしてもよ」

 

 別の声が、少し離れた所から落ちてくる。

 

 焚き火の向こう側。顔は良く見えないが、意識は此方に向いている。俺個人に向けてでは無く、この場の全員に向けて言っているような声音だった。

 

「妙じゃねえか?」

 

 まただ。先程と同じような話題。だが、今度は流せない空気が混じっている。

 

「何がだ」

 

「依頼主だよ」

 

 その一言で、場の温度が僅かに下がる。

 

 誰もが一度は考えていた。口に出すかどうかの違いだけ、大小の違いだけで、その違和感には皆一様に覚えがあった。

 

「顔も見せねえ、名前も出さねえ。何の為にコレを盗むのか、目的も教えねえ。どこの誰なのか微塵も解りゃしねえ」

 

「おまけに、やり取りは全部仲介人を通してときた」

 

「それでいて……金は本物」

 

 ぽつり、ぽつりと続く。

 

 不満では無い。ただの事実確認だ。頭の片隅にこびり着いた釈然としない感情を、誰かが払拭してくれるのでは無いか、と。他人任せに吐き出しているだけ。

 

 当然、誰も答えなど持ち合わせてはいない。だからこそ、余計に気味が悪い。

 

 俺は焚き火を見つめたまま、口を開く。

 

「……それがどうした」

 

 声は低く、短く。

 

「金は出てる。それで終わりだ」

 

 返事は無い。だが、完全には引かない。まだ、引っかかっている。

 

「……あの時もそうだ」

 

 別の誰かが言う。

 

 その一言で、場の温度がすとんと落ちた。

 

 焚き火の揺らぎが、僅かに鈍くなる。橙の光が岩肌を舐めるたび、影が歪み、伸び、戻る。その繰り返しの中で、誰もが同じ記憶へと引きずり込まれていく。

 

「館の中でよ」

 

「あぁ……」

 

 低い相槌。笑いは無い。代わりに顔が歪む。苛立ちとも、恐れともつかない、収まりの悪い表情。

 

 ヘルグの視線が、細く揺れる。普段は獲物を追うためだけに使われるその目が、今は何も捉えきれずにいる。

 ゴルムですら、動きを止めている。太い腕が中途半端に持ち上がったまま、行き場を失っている。

 

「最初から、いたよな……」

 

 ぽつりと落ちる。

 

「気づかなかっただけでよ」

 

 ——そうだ。最初から、いた。

 

 館に入った時には既に。

 

 侵入経路を提示したのも。魔術刻印を無効化したのも。思い返せば、その全てに『あいつ』が絡んでいる。

 

 だが、誰もそれを意識していなかった。

 

 気づいた時には、終わっていたからだ。仕事が片付いていたからだ。

 まるで最初からそうなる事が決まっていたかのように。

 

「取り分で揉めた時もよ」

 

「……あぁ」

 

 言葉が重なる。場面が繋がる。あの空気、あの温度。

 

 くだらねぇ争いだった。有象無象の何奴だったかは覚えていない。取り分がどうの、と。気の急いた言い争いを発端に、その内の一人が刃を抜いた。

 

 凡そ、血が流れる流れだった。

 

 ——俺が割って入った。

 

 抑える為では無い。整える為だった。この場で何方が上かをはっきりさせる為に、潰すつもりだった。

 

 必要ならその場で何人か消しても構わなかった。そのつもりで、踏み込んだ。

 

 その筈だった。

 

 ——なのに。

 

「……次の瞬間、だ」

 

 誰かが低く言う。

 

 焚き火が小さく爆ぜる。その音がやけに耳に残る。

 

 気配は無かった。気づいた時には、そこにいた。最初からいた筈なのに、初めて認識した瞬間。

 

 距離が狂っていた。間合いの外にいた筈のそれが内側にいた。踏み込む余地も、構える余裕も無い位置に。

 

「気味の悪ぃ仮面してやがったよな」

 

「あぁ。顔、全部隠してやがった」

 

「声も、妙に落ち着いてやがった……」

 

 断片が重なる。だがどれも薄い。

 

 輪郭だけがあって、中身が無い。思い出そうとすればする程抜け落ちる。

 

 おそらく、意図的に印象に残らないようにしている。

 

 ——苛立つ。

 

 ぎり、と。無意識に奥歯に力が入る。思い出す度に腹の底に何かが沈む。

 

 あの時。俺は、確かに踏み込んだ。先を取ったつもりだった。だが、その次の瞬間には——斬られていた。

 

 気づいた時にはもう終わっていた。刃が触れた感触だけが遅れてやってくる。

 

 浅い、肌の表面を撫でただけのような一太刀だった。

 

 出血も僅かで、床には一筋の赤が散ったのみ。致命傷からは程遠く、戦闘不能に至るものでは無い。

 

 だが、それで十分だった。それだけで全部が止まった。

 

 空気が凍りついた。抜き身の剣を振り翳していた連中も、それに野次を飛ばしていた連中も。

 

 ——そして俺自身も。

 

 誰一人、動かなかった。動けなかった。

 

「……アイツ、何なんだよ」

 

 誰かが吐き出す。

 

 苛立ち混じりの声。だが、その奥にあるものは別だ。名前に出来ない何か。

 

 だから、言葉が濁る。

 

 踏み込めない。踏み込めば、自分たちが下であると。あの薄気味悪い仮面野郎が上であると。そう認める事になってしまう。

 

 ……くだらねぇ。

 

 歯が軋む。

 

 ……違ぇ……あれは違ぇんだ。

 

 あんなものと並べて考える必要は無い。別の話だ。切り分けるべきだ。

 

「……関係ねぇだろ」

 

 俺は吐き捨てる。強引に、断ち切る。

 

「あれはあれだ」

 

 それ以上の意味を与えない。

 

「今は、こっちの話だ」

 

 半ば無理矢理、視線を戻す。

 

 焚き火の外。影の中に沈む、細長い形。布越しにでも分かる輪郭。

 

 コイツさえあれば俺は羽ばたく事が出来る。あの場所へ。あの連中の元へ。届かせる事が出来る。

 

 胸の奥に、じわりと熱が残る。

 

 苛立ちとは違う。もっと別のもの、押し殺していた何かが、僅かに顔を出す。

 

 ……次は違ぇ。あのジジイ、次は絶対叩き切ってやる。俺は、俺だけは違う筈なんだ。こんな奴等とは違う。

 

 ぱきり、と。焚き火が大きく爆ぜる。その音が妙に大きく響いた。

 

「……なぁ、なんかよお……」

 

 声が沈むように落ちた。

 

 焚火の向こう側で、誰かが呟いたのが分かる。

 

「静かじゃねぇか?」

 

 ——確かに。

 

 耳に入ってくる音が妙に薄い。

 

 さっきまであれだけ騒いでいたはずの声が遠い。完全に消えたわけじゃない。だが、輪郭がぼやけている。布越しに聞いているような、そんな曖昧さ。

 

 笑い声も、罵声も、どこか奥へ引っ込んでいる。焚火の爆ぜる音ばかりがやけに近い。

 

 空気が沈んでいる。重い。肺に入る息が先程よりも僅かに冷たく、湿り気が濃い。

 

 何となく今までとは違う。そんな感覚。

 

「……気のせいだろ」

 

 誰かが笑う。

 

 乾いた音だ。だが、その笑いは続かず、すぐに途切れた。——引き攣るように、短く。

 

 違和感が消えない。

 

 背中に何か不気味な気配が張り付く。視線が自然と奥へ向く。坑道の奥。焚き火の光が届かない、黒い塊。ただの闇。

 

 その筈だ。だが。

 

 ……何か……誰かがいる。

 

 そんな感覚だけが、じわりと広がる。

 

「……おい」

 

 誰かが呼ぶ。近くにいた筈の奴に向けて。

 

 ——返事は、無い。

 

 代わりに鈍い音が一つ。何かが落ちたような、重い響き。

 

 視線が、そちらへ向く。

 

 ……いない。

 

 さっきまでそこにいた筈の男が消えている。髭面の奴だ。

 

 血も無い。痕も何も無い。ただ、空間だけが空いている。

 

「……今、何が——」

 

 言葉が途中で止まる。

 

 また一つ、音が消える。

 

 今度はもっと近い。

 

 息が詰まる。

 

 振り向く。

 

 誰もいない。

 

 だが——何かが通った。

 

 確かに。視界の端のほんの隅。見間違いだと言われて仕舞えば、確信を持って違うと言えない程度の一瞬だけ。

 

 色が揺れた気がした。薄汚れた廃道に不釣合いな桃色だった。

 

 煙の揺らぎでは無い。焚き火の光でも無い。

 

 背筋が冷える。——その時。

 

 ふと、違和感に気づく。視線が勝手に落ちる。焚き火の外の影の縁。そこにあった筈の、細長い形を目が探す。

 

 ……無ぇ。布はある。だが、中身が無ぇ!

 

「……剣」

 

 誰かが掠れた声で呟く。

 

 同じ事に気づいたのだろう。しかしその声が何かを続ける事は無い。

 

 空気が更に冷える。

 

 その中心に。——影が、立っていた。

 

 いつからいた?分からねぇ。

 

 最初からそこにいたかのように、自然に。

 

 影の輪郭は霞むように掴めない。大柄にも、小柄にも見える。肩程までに伸ばされた桃色が揺れる事だけが分かる。その淡い光が焚火を受けて、僅かに滲む。

 

 そして、その手には——剣。

 

 細く、真っ直ぐで。余計なものが削ぎ落とされた、異様な程整った形の剣。

 その刀身が光を受けて、静かに輝いている。

 

 その有様は暗闇の中にあるのが不自然な程に綺麗だった。だが——

 

 ……静かすぎる。

 

 何も感じない。威圧も、殺気も、気配すらも。ただ、、在る。それだけだった。

 

 影が、一歩足を踏み出す。その刹那、薄桃色が奇跡を描く。音は無い。足音も、衣擦れの音さえ無い。

 

 次の瞬間。

 

 ゴルムが崩れた。重い音が響く。遅れて血が広がる。

 太い首元が深く裂けていた。切り口から覗く骨までが見事に断たれている。

 

 コイツ!いつの間に!見えなかった!

 

「……ぁ?」

 

 ゴルムが、声にならない音を漏らす。喉を断たれ、口腔にあった空気が抜ける、掠れた音だけを残す。

 

 何が起きたのか理解しないまま、ただ膝が折れ、そのまま前に倒れる。

 どさりと、地面に顔を打ちつけ、動かなくなる。それで終わりだ。あまりにも、あっさりと。

 

 ……遅い。思考が追いつかない。身体が反応しない。これではまるで——

 

「——ッ!」

 

 横でヘルグが動く。

 ゴルムが完全に倒れ切ってから、遅れて、漸く。

 

 細い体が後ろへと跳躍する。額に脂汗をかき、必死の形相で何処かへと逃げる動きだ。

 

 ヘルグの視線が『それ』を追っている。

 

 逃げる先では無い。迫る切先を、剣が描く軌道を、見ている。

 

 桃色の影が揺れ、一閃。

 

 今度は見えた。——いや、見えた気がしただけだった。結果だけがそこにある。

 

 ヘルグの身体が途中で止まる。跳躍した勢いのまま、身体の力を失い、次の瞬間崩れる。

 

 胴がズレている。肉が、斬られた事に気が付かないみたいに、ゆっくりと落ちる。遅れて血が噴き出した。

 目が見開かれたまま。何かを理解しようとして、出来ないまま。その瞳は何も映していない。

 

 ——静かだ。

 

 さっきまでの喧騒が、嘘のように消えている。

 

 誰も叫ばない。

 

 ——違う。叫ばないのでは無い。声が出ないのでも無い。もう残っていないだけだ。

 

 ゴクリ、と。俺の喉が僅かに動く。呼吸が浅い。足が動かない。

 

 ……違う。俺は違ぇ!あいつらとは違う!ゴルムとも!ヘルグとも!こんな所で終わる側じゃねぇ!終わる訳が無ぇ!俺は!あの場所に届く筈の——

 

 焚火が、大きく揺れる。

 

 影が歪む。——桃色が、揺れる。

 

 近い。

 

 いつの間にか、目の前にいる。

 

 剣が、僅かに光を返す。

 

 音が消える。

 

 全部が遠くなる。

 

 ——まだだ。

 

 俺は、こんな所で。こんな連中と、同じ——

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