追放の真意〜そんなものは無かったが、仲間も敵も王族も、みんな勝手に深読みしてくる〜 作:目下−1
湿った空気が肺の奥へと纏わり付いてくる。
吸う度に重い。吐き出しても何かが残るような感覚。水を飲んだ訳でも無いのに、体の内側がジワリと濡れていくような、何とも言えない不快感が拭えない。喉の奥に張り付いた物が、どうしても剥がれ落ち無い。
……くだらねぇ場所だ。
地下深く。昔は鉱脈を掘っていたらしいが、今ではただの穴だ。価値も無い、捨て置かれた空洞。残っているのは削り取られた岩肌と、歪み、腐りかけた支柱と、そして逃げ場を失った湿気だけが、長い時間の澱のように沈澱している。
一丁前に、地上に頭を出した部分には申し訳程度の小屋が被せられている。それも外界との繋がりを装う為の薄皮に過ぎない。
入口は王都の外れにある。だがここは既に人の営みから切り離された場所だ。音も。光も。意志さえも。地の底に沈み込んで行く。
壁に手を付けばザラついた感触が返る。湿り気を帯びた岩は冷たいというよりも、じっとりと肌に纏わりつく。まるで生き物の内臓に触れているかのような、不快な温度を孕んでいた。
天井から水が滴る。
ぽつ、ぽつ、と。間延びした音が、空洞に吸い込まれては歪んで返る。
静寂とは違う。音はある。しかし、その音のどれもが意味を持たず、ただ散らばっている。その中で、この滴る音だけが妙に輪郭を持ち、耳にこびりついて離れない。
焚き火が一つ。
頼りない火だ。煤けて、燻んだ色をしている。揺れる度に影が伸び、歪み、形を変える。その変化には一切の規則が無く、見ているとどこか落ち着かない。影の方が生きているようにさえ思えた。
煙もまた、逃げ場を見つけられずに低く滞留している。
古い坑道の残骸だ。換気など遠に機能していない。視界の端が常に霞み、世界が僅かに濁って見える。
鼻を突く匂いも最悪だった。
酒と汗、泥と鉄。木が腐った匂いと、澱んだ水の匂い。
それ等が混ざり合い、発酵したような重さを持って鼻腔に纏わり付く。
そして——血。
強く、濃く混ざっている。嗅覚として感じ取るには僅かなもの。意識しなければ気が付かない。否、常人には到底気付き得ない程度には希薄なものだ。
しかしもっと、根本的な雰囲気の中に存在を主張している。
ここは、そういう場所だ。
連中が騒いでいる。
髭面の大男。歯の抜けた口を隠そうともせずに騒いでいる。血とも泥ともつかない染みをそのまま乾かしたような、醜穢な外套を羽織っている。その身なりはもはや汚れと区別がつかない。
痩せこけた男が一人。やけに長い腕をだらりと垂らして立っている。袖口は擦り切れ、指先には乾いた黒ずみがこびりついていた。何を触ってきたのかは考えない方が良い類のものだ。
古びた胸当てを着けた男がいる。磨かれていた頃の名残だけが僅かに光を返すが、肝心の本人の立ち方は崩れていた。嘗ての規律は、遠に抜け落ちている。
背の低い男がやけに大きな袋を背負っている。中身が何かは分からない。ただ、歩く度に中で硬い物がぶつかる音がした。
若い男が一人。落ち着き無く辺りを見回している。手にした短剣は新品に近いが、握り方だけが妙にぎこちなかった。買った、或いは拾った。若しくは奪ったばかりなのだろう。
集まっている奴等は、群れというより掃溜めに近かった。色も形も揃わず、ただ同じ場所に押し込まれているだけの存在。
数だけはいる。だが、その一つ一つに価値は無い。纏めて漸く、群れと呼べる程度の——そんな連中だった。
誰もが勝手に喋り、勝手に苛立っている。規律も秩序も欠片も無い。声は大きいが中身は空虚。聞く気も無ければ、聞かれる気も無い。
ただ音だけがぶつかり合い、空気を濁らせている。
……寄せ集め。その通りだ。
だが俺は違う。このラドゥ・シンダー様には相応しくねぇ。俺はこの場にいる中で、少なくとも選ばれる側に近ぇ人間だ。
喧騒から距離を取り、壁際に寄る。背に滲む湿り気を無視してそのまま体重を預けた。岩の冷たさが衣服越しに染み込んでくる。
苛立ちに、小さく舌打ちが漏れた。眉を顰め、喧騒から顔を背ける。こんな塵共と同類だとは思われたく無い。
そして、同様に騒ぎから外れている影が二つ。
ゴルムとヘルグ。
言葉に為ずとも分かる。こいつ等もあの喧騒の中に混じる程安くは無い——と。少なくとも自分では思っているのだろう。
尤も——
ゴルム・ダストは木偶の坊。ただ突っ立っているだけだ。
視線は鈍い。何かを考えている様子も無い。ただ、そこにいる。戦いが終われば死体を漁る。それだけで生き延びてきた男だ。頭が良いのでは無い。考えない事に慣れているだけだ。
ヘルグ・スラッグはその逆だ。
落ち着きがない。視線が泳ぎ続けている。何かを追う癖が抜けていないのだろう。獲物を追い詰めるまではいいが、最後で外す。詰めが甘い。それを何度も見てきた。
……まぁ、使えねぇ訳じゃねぇ。
この場の有象無象に比べれば、の話ではあるが。
腕に刻まれた刺青が、ふと視界に入る。翼の下に五芒星。煤けた黒で刻まれたその印は派手さとは程遠い。
線は僅かに歪み、色も沈んでいる。だが、その燻みすら、妙に消えない重みを持っていた。
安物の飾りとは違う。刻まれたという事実そのものが意味を持っている。
ゴルムにも、ヘルグにも——そして俺にも、同じ印がある。
数だけの有象無象とは違う。あの掃溜めの中から、確かに選び上げられた証。
俺達三人で、一つの形を成す。名だけはある。体裁だけは整っている。
シンドラスト。
上等な響きじゃない。だが、それでいい。
名の軽さと、この印の重さは別だ。此処に刻まれている以上、俺達はただの寄せ集めとは違う。
這い上がってここまで来た。名も無い底から引き上げられ『翼』の影に触れた。
それがどういう選別なのか、細かい理屈は知らない。だが一つだけは分かる。
あの時、あの場にいた連中の中で、ここに立っているのは俺達だけ。それで十分だ。この掃溜めの中で腐るだけの連中とは違う。
少なくとも——俺はな。
「だからよォ!取り分の話だって言ってんだろうが!」
怒号が耳障りに響く。反響して、どいつの声か分かりにくくなるのがまた鬱陶しい。
「まだ終わってねえだろうが!気が早えんだよ!」
「終わりみてェなもんだろ。あの剣を持って帰った時点でな」
笑いが起きる。薄っぺらい。喉の奥だけで鳴らしたような、軽い音だ。中身なんてありはしない。何も理解していない連中が、分かったつもりで吐き出しているだけの声。
……くだらねぇ。
俺は視線を逸らす。ああ言う連中と同じ場所にいるってだけで反吐が出る。混じる必要は微塵も無い。
「……ゴルム」
小さく呼ぶ。
「あぁ?」
間の抜けた声が、すぐ横から返ってくる。
ゴルムは焚き火の光を半分だけ受けて立っていた。やたらと横に広い体躯。無駄に太い腕がだらりと垂れ、握っていない拳が常に何かを壊せそうな形をしている。
だがその顔は緩い。目は半分程しか開いておらず、焦点もどこか曖昧だ。何かを考えている様子は無い。ただ、呼ばれたから返した。それだけの反応。
「終わった後の事……忘れんなよ」
「あんだよ、分かってるって」
頬を掻きながら応える仕草も何処か鈍い。
……たぶん何も分かってねぇな。
だが、そこはどうでもいい。あいつは目の前に物があれば動く。死体でも装備でも、置いてありさえすれば勝手に拾う。考えなくても出来る事しか任せる気はない。
それで十分だ。
「ヘルグ」
視線だけを横に滑らせる。
「なんだよラドゥ」
低く、即座に返ってくる。
ヘルグはゴルムとは対照的に細い。無駄な肉の無い体を僅かに前へ傾け、いつでも踏み出せるような姿勢を崩さない。
焚き火の揺らぎの中で、その目だけが落ち着かない。
細く、粘つくような視線が、絶えず周囲をなぞっている。誰かの動き、影の揺れ、音の変化。何かを見逃すまいとしているのか、それとも追う対象を探しているのか。
どちらにせよ、落ち着きがない。
「追い過ぎんなよ。いつもみてぇに外したら笑えねぇぞ」
「……今回は違うよラドゥ」
僅かに歯を見せて答える。だが、その笑いは浅く、どこか引き攣っている。その言葉に根拠は無い。
いつも通りだ。こいつは結局最後で外す。詰めが甘いのだ。追い詰めた気になって、足元を掬われる。
何度も見てきた。……そして、治る気配も無い。だが、わざわざ訂正してやる義理も無い。
「……ちっ」
意図せず口から溢れた舌打ちが大きく響いた。
それだけで騒いでいた何人かが口を閉ざす。言葉の流れが一瞬だけ途切れる。
今黙ったのは力を理解している連中だ。何処まで踏み込んで良いかを頭では無く、身体で覚えている。
だが——
「ンだよ!お高く止まってんじゃねェぞ!」
噛み付く馬鹿は何処にでもいる。
髭面が此方に向かって凄む。手に持った木製の酒杯を振り翳し、今にも飛び掛かって来そうな雰囲気だった。
無精に伸びた髭に濁った瞳。酒と泥に塗れたような顔付きのまま、此方を睨み付けている。
……あぁそうか。コイツは理解っていない側か。
ゆっくりと顔を向ける。
「あぁ?」
短く返す。それだけで充分だ。言葉を重ねる必要は無い。視線だけを合わせる。逃がさないように。削るように。相手の奥へ、静かに差し込む。
——沈黙。
焚き火が、ぱちりと弾ける。その音だけが、やけに遠く聞こえた。
髭面の喉が僅かに動く。さっきまでの勢いは無い。目が泳ぐ。逸らそうとして、逸らせない。
コイツも理解し始めている。踏み込んだ相手を間違えたと。
「……ちっ、別に、喧嘩売ってるわけじゃねェよ」
先に視線を外したのは、向こうだった。
肩を竦めるようにして、一歩引く。その瞬間、張り詰めていた空気が音もなく弛緩した。凍りついていたものが、一気に溶けるように。
「はっ、なんだよお前。急に日和ってんじゃねぇか」
「おいおい!さっきまでの威勢はどうしたよ!」
「相手見てから喧嘩売れよぉ、馬鹿野郎が」
笑いが起きる。さっきまでとは違う種類の笑い。誰か一人を下に置いて、安心する為の笑いだ。
髭面は舌打ちしながらも、何も返さない。返せない。
今、理解したからだ。ここで意地を張れば、どうなるかを。
「……ったく」
誰かが肩を竦める。
「だから言ったろ、あいつらには触んなって」
「見りゃ分かんだろ。あの三人はヤベェって」
「まぁ、オレらん中じゃマシな方だわな」
ひそひそとした声。だが、わざと聞こえるように落とされている。
俺は何も言わない。言う必要がない。それで十分だ。
焚き火が揺れる。
影が、また形を変える。さっきまでの張り詰めた空気は、もう残っていない。
連中は元の喧騒を取り戻す。何事も無かったかのように。あの程度の緊張ですら、この場には長く留まれない。
すぐに崩れ、すぐに流れる。力で押し込める程、この場は整っていなかった。
誰か一人が上に立てば収まるような、そんな単純な集まりじゃない。踏みつければ沈むが、押さえ続けるには数が多過ぎる。均すには雑過ぎる。
火種は消えず、あちこちに散っている。小さく燻り、機を待つように燻り続けている。
誰かが少しでも踏み外せば、またすぐに燃え上がるだろう。
……くだらねぇ。
視線を外す。連中の顔を見る価値も無い。
焚き火の、その少し外。光の縁に影が滲む場所。
そこに粗末な布が置かれている。
無造作に投げられたそれは、この場の空気に似つかわしくない程無関心に扱われていた。
細長い形。布越しでも分かる輪郭。中身は考えるまでもない。
——あの剣だ。
場違いな程整ったそれが、泥と煙の中に放り出されている。
違和感はある。だが、それを口にする程の価値も感じない。
「……こんなもん、ありがたがる気が知れねぇな」
誰かが、つま先で布を小突いた。
鈍い感触が布越しに返る。軽く蹴った程度ではびくともしない硬さ。
中にあるものの形だけが、確かにそこに在ると主張している。
「おい、やめろよ」
「馬鹿が、壊れるかよ。何てったって国宝様だぞ?」
笑いが起きる。
まただ。軽く、薄い。意味も無く、ただ場を繋ぐだけの音。その言葉に込められている筈の価値も、重みも、ここでは何一つ機能していない。
……国宝。
その響きだけが浮いている。
あれを見た時のことを思い出す。
ゴルムが扉を吹き飛ばし、あの展示室へと踏み入れた瞬間を。開けた空間の中央で、仰々しく飾られていたあの剣を。
確かに、綺麗ではあった。無駄が削ぎ落とされて、形だけはやけに整っている。光も、線も、隙がない。
——だが、だからなんだ。
それだけだ。胸が動く事は無かった。息を呑む程でもない。手を伸ばしたくなるわけでもない。
ただ、整っているという印象だけが残った。
……こんなもんが本当に国宝かよ。
鼻で笑いたくなる。
尤も、価値が分からねぇのは、こっちの問題かもしれねぇがな。
上の連中——金と暇を持て余してる連中は、こういう分かり難い物を有り難がるんだろう。
手間が掛かっているだの、歴史がどうだの。そういう話で、価値を後から積み上げていく。
……面倒くせぇ。俺には関係ねぇ話だ。どうせ連中にとっちゃ、見せびらかすための飾りだろ。分かる奴だけが分かればいい、みてぇな顔して。くだらねぇ。
だから、興味は無い。だがそれでも良い。
重要なのはあの連中がどう思うかだ。闇に潜み、闇に生きる顔無しの烏。選ぶ側にいる奴等。
あそこに届くかも知れない物にはそれだけで意味がある。
この剣がどれだけの価値を持つかなんて関係無い。あの連中の目に留まるならそれで良い。
その可能性があるだけで十分だ。
「なあ」
不意にゴルムが口を開く。焚き火の橙に照らされた顔が、のっそりとこちらを向く。大き過ぎる影が背後の岩肌に揺れ、輪郭だけが膨れ上がる。
「アレよお、売ったらいくらんなるだろうなあ」
鈍い声。視線は布に落ちているが、見ているのは中身では無い。数字だ。俗物的な金勘定を足りない頭でしているに違いない。
「……さぁな。だが、馬鹿な真似はするなよ」
短く返す。ゴルムは、おう、とだけ言って、また頬を掻いた。理解しているかどうかは分からないが、少なくとも今はそれで良い。
その横で、ヘルグが僅かに口角を歪める。
「……売る、ねえ」
細い指が顎に触れる。爪の先が微かに音を立てる。
「売るには、もったいない気もするけど。ね、ラドゥ」
視線は布の上から外れない。だが、その言葉の向きは、金にだけ向いている訳じゃない。
俺は答えない。代わりに、ほんの僅かに視線をやる。それで足りる。
ヘルグの目が細くなる。ゴルムとは違う、分かっている顔だ。
ゴルムは気づいていない。だが、気づく必要も無い。あいつは、指示された通りに動けばいい。
「……どうせ、単なる剣じゃないんじゃない?」
ヘルグが続ける。言葉は曖昧だが、踏み込み過ぎ無い程度に輪郭をなぞっている。
「だったらよぉ、渡す先も選ぶって話だ」
焚き火が、ぱちりと弾ける。
その音に紛れて、誰にも聞かれない程度の声量。だが、十分だ。俺は小さく鼻を鳴らす。
「分かってるなら、無駄口叩くな」
それだけ短く言う。それ以上は要らない。
言葉にすれば軽くなる。この場で口に出すべき話じゃない。誰が聞いているかも分からない。尤も、他の連中に理解出来る話だとは思わないが。
だから、これでいい。
ヘルグは肩を竦めるだけで、それ以上は言わない。ゴルムは相変わらずだ。
「んー……?」
何かを考える素振りを一瞬だけ見せて、すぐにやめる。分からない事は考えない。
その方が生き残れると、身体で覚えている。
……それでいい。
——その時。
「……にしてもよ」
別の声が、少し離れた所から落ちてくる。
焚き火の向こう側。顔は良く見えないが、意識は此方に向いている。俺個人に向けてでは無く、この場の全員に向けて言っているような声音だった。
「妙じゃねえか?」
まただ。先程と同じような話題。だが、今度は流せない空気が混じっている。
「何がだ」
「依頼主だよ」
その一言で、場の温度が僅かに下がる。
誰もが一度は考えていた。口に出すかどうかの違いだけ、大小の違いだけで、その違和感には皆一様に覚えがあった。
「顔も見せねえ、名前も出さねえ。何の為にコレを盗むのか、目的も教えねえ。どこの誰なのか微塵も解りゃしねえ」
「おまけに、やり取りは全部仲介人を通してときた」
「それでいて……金は本物」
ぽつり、ぽつりと続く。
不満では無い。ただの事実確認だ。頭の片隅にこびり着いた釈然としない感情を、誰かが払拭してくれるのでは無いか、と。他人任せに吐き出しているだけ。
当然、誰も答えなど持ち合わせてはいない。だからこそ、余計に気味が悪い。
俺は焚き火を見つめたまま、口を開く。
「……それがどうした」
声は低く、短く。
「金は出てる。それで終わりだ」
返事は無い。だが、完全には引かない。まだ、引っかかっている。
「……あの時もそうだ」
別の誰かが言う。
その一言で、場の温度がすとんと落ちた。
焚き火の揺らぎが、僅かに鈍くなる。橙の光が岩肌を舐めるたび、影が歪み、伸び、戻る。その繰り返しの中で、誰もが同じ記憶へと引きずり込まれていく。
「館の中でよ」
「あぁ……」
低い相槌。笑いは無い。代わりに顔が歪む。苛立ちとも、恐れともつかない、収まりの悪い表情。
ヘルグの視線が、細く揺れる。普段は獲物を追うためだけに使われるその目が、今は何も捉えきれずにいる。
ゴルムですら、動きを止めている。太い腕が中途半端に持ち上がったまま、行き場を失っている。
「最初から、いたよな……」
ぽつりと落ちる。
「気づかなかっただけでよ」
——そうだ。最初から、いた。
館に入った時には既に。
侵入経路を提示したのも。魔術刻印を無効化したのも。思い返せば、その全てに『あいつ』が絡んでいる。
だが、誰もそれを意識していなかった。
気づいた時には、終わっていたからだ。仕事が片付いていたからだ。
まるで最初からそうなる事が決まっていたかのように。
「取り分で揉めた時もよ」
「……あぁ」
言葉が重なる。場面が繋がる。あの空気、あの温度。
くだらねぇ争いだった。有象無象の何奴だったかは覚えていない。取り分がどうの、と。気の急いた言い争いを発端に、その内の一人が刃を抜いた。
凡そ、血が流れる流れだった。
——俺が割って入った。
抑える為では無い。整える為だった。この場で何方が上かをはっきりさせる為に、潰すつもりだった。
必要ならその場で何人か消しても構わなかった。そのつもりで、踏み込んだ。
その筈だった。
——なのに。
「……次の瞬間、だ」
誰かが低く言う。
焚き火が小さく爆ぜる。その音がやけに耳に残る。
気配は無かった。気づいた時には、そこにいた。最初からいた筈なのに、初めて認識した瞬間。
距離が狂っていた。間合いの外にいた筈のそれが内側にいた。踏み込む余地も、構える余裕も無い位置に。
「気味の悪ぃ仮面してやがったよな」
「あぁ。顔、全部隠してやがった」
「声も、妙に落ち着いてやがった……」
断片が重なる。だがどれも薄い。
輪郭だけがあって、中身が無い。思い出そうとすればする程抜け落ちる。
おそらく、意図的に印象に残らないようにしている。
——苛立つ。
ぎり、と。無意識に奥歯に力が入る。思い出す度に腹の底に何かが沈む。
あの時。俺は、確かに踏み込んだ。先を取ったつもりだった。だが、その次の瞬間には——斬られていた。
気づいた時にはもう終わっていた。刃が触れた感触だけが遅れてやってくる。
浅い、肌の表面を撫でただけのような一太刀だった。
出血も僅かで、床には一筋の赤が散ったのみ。致命傷からは程遠く、戦闘不能に至るものでは無い。
だが、それで十分だった。それだけで全部が止まった。
空気が凍りついた。抜き身の剣を振り翳していた連中も、それに野次を飛ばしていた連中も。
——そして俺自身も。
誰一人、動かなかった。動けなかった。
「……アイツ、何なんだよ」
誰かが吐き出す。
苛立ち混じりの声。だが、その奥にあるものは別だ。名前に出来ない何か。
だから、言葉が濁る。
踏み込めない。踏み込めば、自分たちが下であると。あの薄気味悪い仮面野郎が上であると。そう認める事になってしまう。
……くだらねぇ。
歯が軋む。
……違ぇ……あれは違ぇんだ。
あんなものと並べて考える必要は無い。別の話だ。切り分けるべきだ。
「……関係ねぇだろ」
俺は吐き捨てる。強引に、断ち切る。
「あれはあれだ」
それ以上の意味を与えない。
「今は、こっちの話だ」
半ば無理矢理、視線を戻す。
焚き火の外。影の中に沈む、細長い形。布越しにでも分かる輪郭。
コイツさえあれば俺は羽ばたく事が出来る。あの場所へ。あの連中の元へ。届かせる事が出来る。
胸の奥に、じわりと熱が残る。
苛立ちとは違う。もっと別のもの、押し殺していた何かが、僅かに顔を出す。
……次は違ぇ。あのジジイ、次は絶対叩き切ってやる。俺は、俺だけは違う筈なんだ。こんな奴等とは違う。
ぱきり、と。焚き火が大きく爆ぜる。その音が妙に大きく響いた。
「……なぁ、なんかよお……」
声が沈むように落ちた。
焚火の向こう側で、誰かが呟いたのが分かる。
「静かじゃねぇか?」
——確かに。
耳に入ってくる音が妙に薄い。
さっきまであれだけ騒いでいたはずの声が遠い。完全に消えたわけじゃない。だが、輪郭がぼやけている。布越しに聞いているような、そんな曖昧さ。
笑い声も、罵声も、どこか奥へ引っ込んでいる。焚火の爆ぜる音ばかりがやけに近い。
空気が沈んでいる。重い。肺に入る息が先程よりも僅かに冷たく、湿り気が濃い。
何となく今までとは違う。そんな感覚。
「……気のせいだろ」
誰かが笑う。
乾いた音だ。だが、その笑いは続かず、すぐに途切れた。——引き攣るように、短く。
違和感が消えない。
背中に何か不気味な気配が張り付く。視線が自然と奥へ向く。坑道の奥。焚き火の光が届かない、黒い塊。ただの闇。
その筈だ。だが。
……何か……誰かがいる。
そんな感覚だけが、じわりと広がる。
「……おい」
誰かが呼ぶ。近くにいた筈の奴に向けて。
——返事は、無い。
代わりに鈍い音が一つ。何かが落ちたような、重い響き。
視線が、そちらへ向く。
……いない。
さっきまでそこにいた筈の男が消えている。髭面の奴だ。
血も無い。痕も何も無い。ただ、空間だけが空いている。
「……今、何が——」
言葉が途中で止まる。
また一つ、音が消える。
今度はもっと近い。
息が詰まる。
振り向く。
誰もいない。
だが——何かが通った。
確かに。視界の端のほんの隅。見間違いだと言われて仕舞えば、確信を持って違うと言えない程度の一瞬だけ。
色が揺れた気がした。薄汚れた廃道に不釣合いな桃色だった。
煙の揺らぎでは無い。焚き火の光でも無い。
背筋が冷える。——その時。
ふと、違和感に気づく。視線が勝手に落ちる。焚き火の外の影の縁。そこにあった筈の、細長い形を目が探す。
……無ぇ。布はある。だが、中身が無ぇ!
「……剣」
誰かが掠れた声で呟く。
同じ事に気づいたのだろう。しかしその声が何かを続ける事は無い。
空気が更に冷える。
その中心に。——影が、立っていた。
いつからいた?分からねぇ。
最初からそこにいたかのように、自然に。
影の輪郭は霞むように掴めない。大柄にも、小柄にも見える。肩程までに伸ばされた桃色が揺れる事だけが分かる。その淡い光が焚火を受けて、僅かに滲む。
そして、その手には——剣。
細く、真っ直ぐで。余計なものが削ぎ落とされた、異様な程整った形の剣。
その刀身が光を受けて、静かに輝いている。
その有様は暗闇の中にあるのが不自然な程に綺麗だった。だが——
……静かすぎる。
何も感じない。威圧も、殺気も、気配すらも。ただ、、在る。それだけだった。
影が、一歩足を踏み出す。その刹那、薄桃色が奇跡を描く。音は無い。足音も、衣擦れの音さえ無い。
次の瞬間。
ゴルムが崩れた。重い音が響く。遅れて血が広がる。
太い首元が深く裂けていた。切り口から覗く骨までが見事に断たれている。
コイツ!いつの間に!見えなかった!
「……ぁ?」
ゴルムが、声にならない音を漏らす。喉を断たれ、口腔にあった空気が抜ける、掠れた音だけを残す。
何が起きたのか理解しないまま、ただ膝が折れ、そのまま前に倒れる。
どさりと、地面に顔を打ちつけ、動かなくなる。それで終わりだ。あまりにも、あっさりと。
……遅い。思考が追いつかない。身体が反応しない。これではまるで——
「——ッ!」
横でヘルグが動く。
ゴルムが完全に倒れ切ってから、遅れて、漸く。
細い体が後ろへと跳躍する。額に脂汗をかき、必死の形相で何処かへと逃げる動きだ。
ヘルグの視線が『それ』を追っている。
逃げる先では無い。迫る切先を、剣が描く軌道を、見ている。
桃色の影が揺れ、一閃。
今度は見えた。——いや、見えた気がしただけだった。結果だけがそこにある。
ヘルグの身体が途中で止まる。跳躍した勢いのまま、身体の力を失い、次の瞬間崩れる。
胴がズレている。肉が、斬られた事に気が付かないみたいに、ゆっくりと落ちる。遅れて血が噴き出した。
目が見開かれたまま。何かを理解しようとして、出来ないまま。その瞳は何も映していない。
——静かだ。
さっきまでの喧騒が、嘘のように消えている。
誰も叫ばない。
——違う。叫ばないのでは無い。声が出ないのでも無い。もう残っていないだけだ。
ゴクリ、と。俺の喉が僅かに動く。呼吸が浅い。足が動かない。
……違う。俺は違ぇ!あいつらとは違う!ゴルムとも!ヘルグとも!こんな所で終わる側じゃねぇ!終わる訳が無ぇ!俺は!あの場所に届く筈の——
焚火が、大きく揺れる。
影が歪む。——桃色が、揺れる。
近い。
いつの間にか、目の前にいる。
剣が、僅かに光を返す。
音が消える。
全部が遠くなる。
——まだだ。
俺は、こんな所で。こんな連中と、同じ——