追放の真意〜そんなものは無かったが、仲間も敵も王族も、みんな勝手に深読みしてくる〜 作:目下−1
王都の喧騒は中心から外れる程に輪郭を失っていく。
人の声は遠のき、代わりに残るのは擦れ合う布の音や、どこかで零れた金属の微かな響き。
石畳は軈て罅割れ、整えられていた筈の街路は歪み、建物は寄り添うように傾き始める。均衡を保っているというより、ただ崩れ損ねているだけの姿だ。
陽は同じように差している筈だった。しかしここでは、光そのものが濁って見える。
空気に混じる匂いが違う。湿り、淀み、長く沈殿した何かが、目に見えない膜となって街を覆っている。
鼻腔に張り付くそれは、吸い込む度に僅かな不快を残し、吐き出しても尚居座り続けた。
王都外縁——所謂スラム街。
人の営みは確かに存在する。しかしそれは整えられた生活ではない。削り取られ、選別から漏れたものが寄せ集められたような、生き延びる為だけの営みだ。そこに秩序はなく、ただ続いているという事実だけがある。
視線が合えば逸らされる。或いは、値踏みするようにじっと覗き込まれる。歓迎など最初から存在しない。踏み込む者は異物であり、利用する対象であり、或いは排除すべきものだ。
決して踏み込む者を歓迎する場所では無い。
居心地が良いとは言えない。
自分の装いに視線を落とす。埃一つ無い訳ではないが、それでもこの場所では十分に整っていると言える。
これでも
浮いている。それは視線の刺さり方で理解できた。
幾つもの目が此方を捉える。単なる物珍しさだけではない。警戒、計算、そして——隙を窺う意図。気を抜いた瞬間に身包みを剥ぎ取り、骨の髄までしゃぶり尽くしてやろうという、あまりにも露骨な欲望。
肌に触れてくる訳でも無いのに、その視線は妙に重い。
何度来てもおっかないな、と。心の中で呟く。それでも足は止まら無い。
踏み込む度に靴裏へ伝わる感触が変わる。乾いた石から、湿った土へ。沈み込むような柔らかさと、ぬめるような滑りが交じり合う。
時折、何かを踏みつける鈍い感触が混じる。それが何であるかをわざわざ確かめようとは思わない。
……と言うか確かめたく無いかな。
ただの塵であればまだいい。いや良くはないが。しかし人糞や吐瀉物であればどうだ。知らなければ『ただの何か』で済むものが、知った瞬間に現実へと形を変える。
確認するまではそれが何かは分からないまま。言うなればシュレディンガーの汚物。知らぬが仏。見ぬは極楽。人生字を識るは憂患の始め。
まあ大丈夫。慣れてるから。
そう言い聞かせる。尤も、慣れているのはこの環境にでは無く、無視する事にではあるが。
ここにある物を見ない振りをし、匂いを嗅がない振りをし、人の気配をただの雑音として処理する。
如何に劣悪な環境とは言え高難易度の『遺跡』には及ばない。命を奪いに来る罠も、理不尽に牙を剥く魔物もいない。少なくとも、即座に殺される事は無い。
大丈夫……大丈夫。毒じゃ無いから……酸でも無いから。
——とは言え気持ち的に死ぬ程嫌なので見ないようにしているのであるが。
しかし、だからこそ。ここには流れてくる。
噂や密告、失踪に裏取引。表に出せないもの、表に出る前に潰されるもの。そういった類の、行き場を失った情報は必ず最後にこの場所へと沈殿する。
そして、その沈殿を掬い上げる場所がある。
暫くこの無秩序を抜けた先。相変わらず薄暗い閑散の中にある、どこか抜けた空間。その片隅にそれはあった。
それは教会——のように見える。
崩れかけた石壁に不揃いに木板が打ち込まれている。罅割れた彩色硝子はもはや絵を保っていない。辛うじて形を保っているシンボルも継ぎ接ぎだ。信仰の場であった名残は確かにあるが、今はそのどれもが形骸だ。
それでも、人はそこを『教会』と呼ぶ。そして、そこにいる人物を——『司祭』或いは『キョウカイの司祭』と。
一度だけ視線を伏せる。
……ここに来るの何回目だっけ。
数えてはいない。少なくとも両手の指では足りないだろう。決して少なく無い回数此処に足を運んでいる。しかし未だに、その度に感じる違和感は少しも薄れないまま。
信仰の残骸の中に、信仰とは別の何か。そしてその歪さよりも更に、此処にいる司祭こそが異質であった。
軋む扉に手をかける。押し開けると、予想よりも大きな音が内部に響いた。音が逃げ場を見つけられず、壁や天井に反響している。
外の光は確かに差し込んでいる。それなのに、奥は妙に深い影に沈んで見える。まるで光そのものが途中で力尽きているかのように。
一歩足を踏み入れる。その瞬間に空気が変わる。
外よりも静かで、重い。呼吸をする度、肺の内側に何かが薄く付着していくような感覚。
埃っている訳では無い。寧ろ外観よりも内装はずっと綺麗だ。古びてはいるが汚れてはいない。拙くも、知恵を持って修繕された跡が其処彼処にある。
……相変わらずだな。
果たしてそれが不快なのか、安心なのか。或いは別の何かなのか。自分でも判断がつかない。
奥へと進む。何度も踏まれ、薄く擦り切れた絨毯が、足音を吸いきれずに微かに返す。その曖昧な音が、かえって静寂を際立たせる。
そして、崩れかけた祭壇。その前に一人の人影。
「……やあ、待っていたぞ少年」
柔らかい声が静寂の上を滑る。
振り向く仕草は滑らかで、どこか芝居がかっている。光を受けて浮かぶ輪郭は女性的だ。整った顔立ち、細い顎、長い睫毛。
しかし誰も『彼女』とは呼ばない。
纏っているのは修道女の衣では無い。黒を基調とした聖職者の装束に、白いストール。その不均衡が、余計に違和感を際立たせている。
「君が此処に来るのは……はて、どれくらいぶりだったか」
声は低過ぎず、高過ぎず。しかし決して男性的ではない。中性的という言葉で片付けるには、どこか意図的な曖昧さが混じっているような声音。
司祭は微笑む。穏やかで、底の見えない笑み。その笑みは、まるで最初から此方の来訪を知っていたかのように自然だった。
用意されていた舞台に、遅れて役者が現れた——そんな錯覚すら覚える。
数歩、距離を詰める。足音が絨毯に吸われ、完全には消えきらず、どこか曖昧な残響となって耳に残る。その中途半端さがこの場の空気とよく似ていた。
消えきらないもの。残り続ける違和。意識すればする程、輪郭を持って迫ってくる。
「……待っていた、ね」
短く繰り返す。言葉をなぞることで、僅かでも本音を引き出そうとするのは毎度の事だ。尤も、それで満足のいく答えが返ってきた試しは一度も無いが。
司祭は肩を竦める。
「そろそろ来るだろうと思っていただけだ。君はそういう顔をしている」
「そう言う顔ってどう言う顔」
間を置かずに返す。問いというよりは反射に近い。
司祭は一瞬だけ言葉を選ぶ素振りを見せ、それから態とらしく視線を細めた。
「いや、なに。深い意味は無い。ただ——何も考えずに飛び込んで来た時の顔をしていた、と言うだけ」
一拍。思考が遅れて追い付く。
……馬鹿にしてる?阿呆って言いたいの???
口には出さないが、内心ではしっかりと噛み付く。司祭はそれを見透かしたように、すぐに口角を上げた。
「冗談だ。知りたい事がある、と顔に書いてある」
軽い調子であったがその言葉は妙に芯を食っていた。
僅かに目を細める。
……やっぱ胡散臭いなこの司祭。
見透かされている感覚はどうにも居心地が悪い。皮膚の一枚下をなぞられているような、不快な近さ。しかしそれでも、外した事は無い。
これまで、この司祭が決定的に誤ったことは無い。言葉を濁すことはあっても、嘘は吐かない。少なくとも自分にとって致命的な嘘は。
否定する理由が見つからない。それが何より厄介だった。
司祭は僅かに首を傾げたまま此方を眺めている。試すような、それでいて何処か楽しんでいるような視線。観察されているのか、弄ばれているのか、その境界すら曖昧だ。
「さて……と。今日は何だ。悩み相談か?それとも雑談か?或いは——」
そこで司祭は態とらしく目を細める。此方に尋ねるような聞き方であるが、言葉を区切ったその先には既に言葉が用意されている。そう言う確信がある。
何もかも先回りされるのも癪だ、と。司祭が継ぐ前に言葉を差し込んだ。
「盗難事件について聞きたい」
「おや」
司祭の眉がほんの僅かに上がる。驚いた、というよりは興味を持ったという程度の変化。肩を竦めて、その顔には愉快そうな色が浮かんでいた。
「色恋沙汰じゃないのか?君くらいの歳ならば其方の方が切実だと思ったが」
「……帰ろうかな」
「冗談だ。洒落の分からない奴だな君も。そう言う話題であれば、私なら何時でも相談に乗ると言うのに」
「帰ろうかなあ!?」
「そう熱り立つんじゃない。血圧が上がるぞ」
誰のせいかな??
「さて、冗談もこの辺にして本題に移ろうか」
そう言いながら司祭は襟を正す。元から乱れてなどいない。しかし、その仕草一つで空気が僅かに引き締まる。
張り詰める、という程では無い。しかし確実に遊びが削ぎ落とされる。先程までの軽口が嘘のように遠のき、視線の質が変わった。
思わず悪態が喉元まで込み上げるが、小さく息を吐いて押し留める。
呼吸を整える。この司祭はそう言う存在だ。軽薄さと鋭さを同じ温度で扱う。
相変わらず切り替えが早い。尤も、胡散臭さも相変わらずではある。しかし、例えどれだけ怪しくとも。この瞬間の司祭には、余計な揺らぎが。無駄が。遊びが。それ等が一切無い。
胡散臭い、超絶、非常に、極めて、甚だ、大いに胡散臭い。しかし素直に認めざるを得ない。これだけ胡散臭く、怪しくも、どこか信頼が於ける。全くもって、誠に遺憾ではあるが。
「どうした黙り込んで。やはり恋愛相談の方が良かったか?」
前言撤回。帰ります。
「悪かった悪かった。本当に冗談は終わりだ」
軽く手を上げる。今度こそ、という気配だけはある。
司祭は改めて襟を整え、一つ咳払いをする。それから、静かに口を開いた。
「それで……盗難事件。それは国宝指定遺物、儀礼剣スヴァル=アールヴァテラに関する盗難事件で間違いないな」
その言葉が落ちた瞬間。今度こそ、本当に空気が変わった。
先程までの軽やかさは影を潜め、静かな重みだけが残る。司祭の金色の瞳が、真っ直ぐに此方を射抜く。揶揄う色はもう無い。
気付けば、先程まで胸の内にあった苛立ちはどこかへ消えていた。
残っているのは微かな緊張と、そして奇妙な納得。
——ああ、こいつはこういう奴だ。
何故知っているのか、と問うのは無意味だ。この場所でその問いは成立しない。
「相変わらず……耳が早いね」
小さく呟く。半ば呆れ、半ば感心しながら。
司祭は僅かに目を細めた。
「大した事では無い」
その言葉はあまりにも軽く、そして簡潔だった。しかしだからこそ深い。その曖昧さの奥にある確かさを知っている。
この司祭にとっては本当に大した事ではないのだろう。どれだけの情報であろうと、どれだけの価値があろうと、司祭にとってはただ流れてくるものの一つに過ぎない。
そう思わせるだけの積み重ねがあった。
「それで?」
司祭が静かに続きを促す。声は低く抑えられている。しかし、その奥には確かに聞いているという確信があった。流すでも無く、急かすでも無く、ただ受け止める為に置かれた沈黙。
その視線に応じるように目を細めた。
「実行犯の連中は推定寄せ集めの盗賊団と言ったところ。腕は三流、良くて二流。統率も無い。とてもじゃないけど国宝を盗めるとは思えないかな」
言葉を選ぶ。断定し過ぎず、しかし曖昧にも逃げない。現場に残っていた痕跡。粗い足取り、雑な破壊、無駄に多い人の気配。そのどれもが数で押した痕跡だった。しかしそれだけでは説明のつかない違和感も確かに残っている。
そこまで言って、一度区切る。
視線を司祭へ向けると彼は軽く顎に指を添え、態とらしく思案する素振りを見せていた。まるで舞台の上で役を演じる役者のように、ほんの僅かに誇張された動き。
「……此処までで何か相違は?」
「いいや無い。少年の言う通り、その条件に合致する無法者は確かにいる。近頃この辺りで見かける顔が殆ど。多少腕が良いのはシンドラストと名乗る三人組だけだ。そして——」
「国宝を盗むには足りない、と」
司祭は頷き、言葉を続ける。
「彼等は特定の拠点を持たない。少なくとも昨日までは、と注釈は付くが。つい五日前、目深に外套を纏った人物に集められている。一昨日時点までは各々が勝手に自らの根城で過ごしているな」
淡々と語られる情報。そこに余計な感情は無い。事実だけが、静かに積み上げられていく。
「集められた人物に共通点は?」
「無い。皆一様にならず者ではあるがそれだけだ。このスラムではそんな存在は五万といる。純粋な実力順という訳でも無い。件の三人こそ上から数えた方が早い部類ではあるが、それも此処に限った話。他は言うまでも無い」
断言。余白を残さない言い方。それが逆にこの状況の浅さを際立たせる。だからこそ引っ掛かる。
息を吐き、腕を組む。
司祭からの情報に目新しいものは無い。レグルスの言葉を聞くに、探索者協会が掴んでいる情報も大差無いものだろう。
胸の奥で何かが静かに軋む。理屈では無い。しかし無視できない違和感。小さく息を吐き、言葉を変える。
「“
その名を出した瞬間、僅かに空気が沈む。
司祭はすぐには答え無かった。ほんの一瞬の沈黙。それからゆっくりと視線を細めた。
「灰翼か。少年が少し前から追っている組織だったな」
記憶をなぞるように呟く。短く、ふむ、と息を落とし、それから僅かに眉を顰めた。
「……無い、と言って良いだろう。そもそも奴等は痕跡を残さない。面も割れていない。以前君に教えた情報以上のものは無いな」
一拍。そして、僅かに言葉を付け足す。
「尤も、一切の痕跡を残さず関わっている可能性はあるが、少なくとも私の“視界”には写っていない」
そう言い切る声音は穏やかで、それでいて確かな重みを持っていた。
その言葉を咀嚼する。見えていない。完全な否定では無いが司祭のそれは限りなくそれに近い。
灰翼の拠点が等級五遺跡『風抜けの廃坑』にある可能性が高い事は既に聞き及んでいる。それ以上の情報が無いと司祭が言うのであればそうなのだろう。
俺もこの盗難事件自体に関わっている可能性は低いとは踏んでいたが——
……新情報も無し、と。うーん、全部同時に解決作戦はさすがに無理か……。
まあ、もとより取らぬ狸の皮算用。絵に描いた餅。飛ぶ鳥の献立。
改めて事件について思考を巡らせる。破壊の痕跡、魔術刻印の無効化。そして争いの跡、荒い傷跡と鋭い軌跡。そして——
「盗難に関わった人間に……多分相当な実力者が一人いた。その人物については?」
「君が言うならその“相当”は余程なのだろう。しかし——」
言葉を区切る。数瞬の思考。確かめるように、記憶をなぞるように。顎に手を当て首を傾げる。
「……その特徴に当てはまる人物はいない。少なくとも、集められた連中の中にはな。あれはあくまで“質より量”の集まりだ」
司祭は淡々とした口調で答える。しかしそれで十分だった。
集められた連中にはその実力者はいない。だとすれば——
「集めた奴が、その別格の線は?」
問いというより確認。それに司祭は僅かに笑みを深めた。
「悪く無い推察だ」
否定は無い。肯定もまた無い。その曖昧さが逆に答えを補強する。
「連中を集めた人物。その情報について何か分かってる?」
「断片的に、ではあるが……」
司祭は指先で顎をなぞり、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「性別は男。そして年齢はそれなり……少なくとも若くは無い。外套を深く被っていた故顔は確認出来ていないが、視認出来た手部から相当な手練れである事は分かる。逆に言えば、それ以上は分からない」
「……決め手は無しか」
自然と言葉が溢れる。胸の奥に小さな苛立ちが滲む。それを押し出すように息を吐き出した時だった。
「そういえば」
軽い声音が空気に差し込む。顔を上げる。司祭はいつもの調子で此方を見ていた。
「件の盗賊団だが、最後に目撃された場所がある」
態とらしく間を置く。試されているような感覚に僅かに眉を顰める。しかし口は挟まない。
司祭はその反応を楽しむように、微かに口角を上げた。
「このスラムの更に外れだ。人もあまり寄り付かない、王都の端のその更に端。そこへ向かって行ったらしい」
「……それで?」
「細長い、布に包まれた“何か”を運んでいた、と言う話もある」
その言葉が落ちた瞬間。思考が一気に収束する。散らばっていた断片が、無理矢理にでも形を成す。繋がるべき場所へ、強引に嵌め込まれていく感覚。
間違いない。それが何かをわざわざ考える必要は無かった。国宝、儀礼剣スヴァル=アールヴァテラ。
ここまで揃えば、もはや偶然で済ませる方が難しい。
胸の奥で確かな手応えが生まれる。——しかし同時に。
いや……それ先に言えよ!!
内心で、思い切り顔を顰める。ここまで積み上げた推論が、一言で殆ど確定した事実に塗り替えられた気分だった。無駄では無い。無駄では無いが、順番というものがあるだろう。
視線を上げる。司祭はこちらの反応を面白がるように口角を上げていた。——絶対に分かってやっている。
確信に近い疑念。しかし口には出さない。出したところで、どうせ軽く流されるだけだ。
深く息を吐く。気が付けば司祭の雰囲気は最初のものへと戻っていた。その金色にはあからさまに此方を揶揄う色が宿っている。
「随分と良い顔をするじゃないか」
くすり、と。司祭は喉の奥で笑う。
「知りたかった事の一つは知れただろう?何をそんな苦虫を噛み潰したような顔をしている」
「……誰のせいかなあ」
「ふむ、然しもの私でも分からないな」
全く悪びれる様子も無い。
……やっぱ胡散臭い。知ってたけど。
ふう、と。小さく息を吐き、思考を切り替える。既に結論は出た。ならば次にやるべき事も決まっている。
身体が僅かに前へと傾く。しかしそれを見逃すような司祭ではなかった。
「……おや」
司祭が芝居がかった仕草で目を細める。
「もう行くのか?随分と忙しない」
「……場所は分かったから。もう十分」
「本当にか?」
その一言に足がほんの僅かに止まる。振り返りはしない。しかし続きを促すように沈黙を置く。
司祭はその反応を楽しむように、口角を上げた。
「君の、“暁と黄昏”のパーティメンバー。確か名前はルシア・アシュレーヌ……だったか。彼女の事も聞きに来た。そうだろう少年」
にやり、と。意図して作られたそれと分かる笑みが、静まり返った教会の空気に不釣り合いな軽さを落とす。
そんな司祭の表情に、俺はあからさまに顔を顰めた。
……そう言えばそうだった。
聞いておきたいという気持ちが半分。無視したい気持ちが半分。その両方が胸の内で鬩ぎ合う。出来る事ならこのまま踵を返して外に出てしまいたい。
この司祭にそれを口にすること自体が、目の前の人物を調子付けるようで癪に障る。しかし、それで済む話では無い事も分かっている。
舌打ちが喉元まで込み上げる。それをどうにか押し殺し、息と一緒に飲み込んだ。
「……そうだけど」
渋々、本当に、心底、甚だ渋々ではあるが認める。その声音に滲む不機嫌さすら、司祭にとっては愉快な材料でしかないのだろう。
「なんだ。やはり色恋沙汰ではないか」
案の定だった。軽い調子。揶揄うような響き。まるで最初からその結論に決め付けていたかのような言い方。
先程の司祭とのやり取りを思い出し、眉間に皺が寄るのが分かる。
「そんなつもりはないよ」
再度込み上げて来た舌打ちを噛み殺し即答する。しかしその言葉はどこか素っ気無く、必要以上に切り捨てるような響きを持っていた。
司祭はそれをどう受け取ったのか、一瞬だけ目を細める。それから一拍、ゆっくり間を置いてから息を落とした。
「ふむ……まあ良いだろう」
含みを残すようにそう言った。それ以上は追及しない。しかし、理解したとも言っていない。その瞳には依然として喜色が滲んでいる。
はあ、と。大きく息を吐く。これ以上この話題を引き延ばされるのは面倒だ。さっさと本題に戻すに限る。
「……それで?」
促すように言う。司祭は肩を竦め、ようやく情報屋の顔へと戻った。
「ルシア・アシュレーヌ。薄桃色の髪色をした小柄な少女。歳は君よりも幾分か下だったな。……そして、彼女の特徴に合う人物が目撃されている」
「いつ?」
「つい昨日の事だ」
短く差し込んだ言葉に、司祭が即答する。そして続く言葉。
「真、奇妙な事ではあるが。目撃地点は先程の連中達が向かった先だ」
「……その先には何が?」
意図せず声が低くなる。焦りを押し殺した声音。
司祭はほんの僅かに視線を逸らし、記憶を手繰るように言葉を探した。
「強いて言えば……古い坑道の残骸だな」
「坑道?」
「ああ。今は使われていない。随分と昔に放棄されたものだ」
淡々とした説明。しかし、その言葉の奥にある過去の気配が僅かに空気を重くする。
司祭はそこで一度言葉を区切り、ゆっくりと続ける。
「入口には小さな小屋が建っている」
「小屋?」
「十年程前だったか。王族が主導して建てたらしい」
さらりと告げられたその一言に、思考が僅かに引っ掛かる。
何故王族が?スラムの外れ。放棄された坑道。そして、その入口に建てられた小屋。それを、王族が主導して?
あまりにも不釣り合いな組み合わせだった。王族に利が無い。少なくとも、表向きには。
一体何の為に。監視か。封印か。或いは——
考えが幾つか浮かび、しかし何れも決定打に欠ける。
司祭はその内心を見透かしたように小さく笑った。
「……尤も、その頃の私はまだ此処にはいなかった。詳しい事情までは知らないがね」
そう言って軽く肩を竦める。それ以上の情報は無い、と言外に示す仕草。しかし今はそれで十分だった。
場所は絞られている。線は繋がっている。で、あるならば確かめるだけだ。胸の内に浮かんだのは焦燥でも無く、不安でも無い。単純な計算。
昨日か……。ならまだいる可能性全然あるな。と言うか寧ろ高いまである。ルシアはあれでいて結構ビビリだし、流石にそんなあから様な場所に入りはしないでしょ。
偶然スラムに迷い込んで、逃げるように向かった先が更に外れの廃坑。でもスラムに戻るのは嫌。動くに動けず立ち往生。うん、これだ。そうに違いない!
タイミング的に寧ろ当たりじゃないか?これは全部同時に解決作戦も一歩前進だな。
ほんの少しだけ口元が緩む。俺の勘も捨てたもんじゃ無い。
教会の外へと足が僅かに向く。それを司祭は見逃さない。
「もう行くつもりか?」
「うん」
軽い返事。振り返りもせずに、そのまま一歩、また一歩と進む。靴裏が絨毯を押し、床が鈍い音を立てる。その音も今は軽快に聞こえる。
「随分と気楽だな。もう少しこう……心配するとかは無いのか?」
「いや」
肩越しに、少しだけ顔を向ける。
「今行けばまだ居るかもしれないし。寧ろラッキーって感じじゃない?」
司祭が一瞬、言葉を失った。その反応に内心で少しだけ満足するが——
何だその顔。こっちとしては割と真面目に言ってるんだけど?
司祭の、心底吃驚したような、鳩が豆鉄砲を食ったような表情に納得がいかない。
「……君は時々、本当に読めないな」
「そう?」
「ああ、そうだとも」
はあ、と。呆れたように息を吐く音。しかし、その声音は何処か楽し気でもあった。
その言葉がどう言う意味かは分からない。分からないが、何と無く馬鹿にされているような気がする。この司祭の事だ。そうに違いない。
このまま去るのも癪だ、と。雰囲気を中和するように真面目な表情を作り——
「危険は無い。そう判断しただけだよ」
そう得意気に、為たり顔で、自信満々に言い切った。
これでも等級八。少し格好付ければ様になる。……と、グレン達に半笑いで言われた事もある。如何にこの胡散臭さの極みのような司祭とは言え小馬鹿にする事は出来無いだろう。
「……まあ、君がそう言うのであれば……そう、なのだろうな?」
司祭は納得したような、し切れないような、曖昧な表情をしている。小首を傾げ、語尾には疑問符まで浮かべていた。
まあ、こう言うのは勢いだ。ここで俺が颯爽と去れば司祭も納得する他無い。
扉へと向かう足を早める。響く足音の感覚が狭くなる。
「あ、おい。まだ話は——」
あ、そう言えば忘れてた。
「情報料は後で送るよ」
被せるように言い切る。軋む扉を押し開ける。外の光が一気に流れ込み、教会の薄暗さを押し退ける。
そのまま迷いなく踏み出した。石畳を蹴る音が軽快に響く。
……危ない。折角作った重厚で厳粛な押しも押されもせぬ空気が壊れるところだった。
さて、全部同時に解決作戦……は無理そうな為諦め、大体同時に解決作戦再始動だ。
――――――
エイルが忙しなく教会を去った後の事。シンと静まった室内に、一つ溜息が落ちる。
「……まったく。話は最後まで聞くものだよ、少年」
誰もいない教会に声が溶ける。それから、ぽつりと。
「まだ、その少女が“そうである”と言ったわけでは無いのに」
言葉はそこで途切れた。しばしの静寂。司祭は閉じかけた扉の方を暫く見つめたまま動かない。
差し込んだ光がゆっくりと細くなっていく。軈て完全に閉じ切ると、教会の中は元の薄暗さへと戻った。
そのまま一歩、二歩と歩み寄り。扉に触れかけた手を、しかし僅かに浮かせたまま止める。何かを確かめるように指先が空を撫でた。
軈てその手は静かに下ろされる。
「……ミオラ」
小さく零れた名は殆ど音に成らず。拾う者も無いまま、空気の奥へと沈んでいった。
司祭はそれ以上何も言わない。ただ、ほんの僅かに視線を落とし——
それから何事も無かったかのように踵を返す。しかしその足取りは、ほんの僅かにだけ、いつもより遅かった。