バトル・ロワイアル ようこそ虐殺至上主義の教室へ 作:カツカレー!
長谷部波瑠加が目を覚ましたとき、最初に見えたのは見慣れない灰色の天井ではなく、
薄暗い会議室の隅で壁にもたれながら地図を眺めている啓誠の姿だった。
昨日までなら、その光景を見ても特別なことは感じなかったかもしれない。
啓誠が何かを真面目に調べているのはいつものことであり、
みやっちが必要以上に周囲へ気を配り、愛里が二人の会話を聞きながら静かに笑い、
きよぽんが少し離れた場所から全体を見ているという並びも、放課後のどこかで何度も見てきた。
しかし今は、全員の首に管理装置があり、窓の向こうには大人の姿が一人もなく、
端末の画面には昨夜までに百三十六名まで減った生存者数が残されている。
それでも四人が同じ部屋にいるというだけで、波瑠加は目を覚ました直後に安心していた。
その感覚へ気づいた瞬間、少しだけ嫌になる。
この島では、何かを失う恐怖が一日ごとに増えている。
最初に目を覚ましたときには、誰がどこにいるのか分からないことが怖かった。
愛里と再会すると、今度はみやっちとゆきむーときよぽんを見つけられないことが怖くなった。
四人になれば、残るきよぽんが見つからないことだけが気になった。
そして五人揃ってからは、せっかく見つけた誰かを失うことが怖くなった。
人数が増えるほど安心できるはずなのに、その分だけ失いたくない相手も増えていく。
最後の一人という条件は、その安心と恐怖を同じ場所へ押し込めるように作られているのだと、
波瑠加は少しずつ理解し始めていた。
「起きたか」
啓誠が地図から顔を上げた。
「何時?」
「正確な時刻で言えば、ゲーム開始から十四時間少しだ。
外はまだ暗いが、あと一時間ほどすればかなり見やすくなると思う」
波瑠加は横になったまま顔をしかめる。
「普通なら『おはよう』から始まるところなのに、ゆきむーの場合はいきなり経過時間なんだね。
昨日からずっと数字ばっかり見てるけど、頭の中に時計でも入ってるの?」
「状況を把握しているだけだ。それより、あと少し休んでもいいぞ。
愛里と清隆が見張りをしているから、今すぐ全員起きる必要はない」
「もう起きるよ。これ以上寝たら逆に身体が重くなりそうだし、愛里ばっかり起きてるのも悪いから」
波瑠加はゆっくり身体を起こし、壁際へ視線を向けた。
愛里は小さな窓の近くで外を見ていた。
その隣には清隆がいる。
二人とも声を出してはいない。
愛里は例のピコピコハンマーをバッグへ入れず、膝の上へ置いている。
もはやそれを持っている姿が普通に見えてしまうことへ、波瑠加は自分でも少し可笑しくなった。
「愛里、お疲れ」
波瑠加が声を掛ける。
愛里が振り返り、少し安心したように笑った。
「波瑠加ちゃん、もう起きたの? まだ少し寝てても大丈夫だよ」
「愛里にそれ言われたら寝てられないでしょ。初めての見張りだったのに、ちゃんとできた?」
「うん。最初は外で少し音がするだけで緊張したけど、清隆くんがどの音は気にしなくていいとか、
どの方向だけ見ればいいとか教えてくれたから、途中からは落ち着いて見られたよ」
波瑠加は清隆を見る。
「きよぽん、愛里に先生みたいなことしてたんだ」
「教えたというほどではない。夜は全部の音を確認しようとすると疲れるから、
近いものだけ注意すればいいと言っただけだ」
「そういうのを教えたって言うんだよ。きよぽん、自分が普通だと思ってる基準が時々おかしいからね」
清隆は特に反論しなかった。
その様子を見て愛里が少し笑う。
みやっちはまだ眠っている。
普段なら最も身体を使うことの多い彼が昨夜かなり疲れていたのは全員分かっていたため、波瑠加も起こすつもりはなかった。
「きよぽんも少し寝た?」
「二時間ほどは休んだ」
「少なすぎない?」
「途中で何度か起きただけで、それなりには眠れている」
波瑠加は疑わしそうに清隆を見た。
「その『それなり』が信用できないんだよね。自分だけ平気な顔して限界まで起きてるとかやめてよ。
昨日、全員で一人だけ無理しないって決めたんだから、きよぽんにも当然それ適用だからね」
清隆は少し間を置いてから頷いた。
「分かった」
その素直な返事に、波瑠加は少しだけ満足した。
五人でいるなら、一人だけ特別扱いしたくなかった。
みやっちだけが前へ出るのも嫌だった。
ゆきむーだけが考え続けるのも嫌だった。
愛里だけを守られる側へ固定するのも嫌だった。
そして、きよぽんだけが全員を見ながら、自分自身をその中へ入れないような形になるのも嫌だった。
波瑠加は、それを理屈として説明できるわけではない。
ただ、五人なら五人で負担を持ちたい。
誰か一人が欠ける前提で動きたくなかった。
それだけだった。
空が少しずつ明るくなり始めると、みやっちも目を覚ました。
「今何時だ?」
「ゆきむーに聞けば秒単位で教えてくれるよ」
波瑠加がそう答えると、啓誠が呆れた顔をする。
「十四時間三十八分程度だ。秒単位では覚えていない」
明人は苦笑しながら立ち上がる。
「いや、それでも十分細かいだろ。俺は朝になったって分かればそれでいい」
「そのくらいでいいんだよ、普通は」
波瑠加が言う。
五人は残った保存食を少しだけ口にした。
水も飲む。
それぞれのバッグを確認すると、残量の差はほとんどなかった。
だからこそ、問題は明確だった。
今日中に追加の物資を見つけなければならない。
啓誠が地図を机へ広げる。
「次の区域指定を考えると、南東側の住宅地区へ向かうより、北側の旧生活区へ移動した方がいい。
水道設備が残っている可能性もあるし、小規模な店舗がいくつかある」
明人が尋ねる。
「昨日みたいに噂で人が集まってる可能性は?」
「ある。ただ、港ほど大きな倉庫はないから、数十人が一箇所へ集まる可能性は低いと思う」
清隆も地図を見る。
「問題はここだな」
清隆が指したのは、中央施設と旧生活区を繋ぐ大きな道路だった。
「昨夜の禁止区域で東側から人が押し出されている。
一之瀬の集団も人数が増えているなら、中央施設から離れる生徒が出始めていてもおかしくない」
波瑠加が聞く。
「何で?一之瀬さんのところなら、みんなで助け合ってるんじゃないの?」
「人数が増えすぎれば、それだけで維持が難しくなる。食料や水の量が足りなくなるし、
全員の考えを合わせることもできない。協力したい人間だけが集まっているとは限らないからな」
愛里が昨日の話を思い出したように言う。
「一之瀬さん自身を信じてても、一緒にいる人全員を信じられるわけじゃないってことだよね」
啓誠が頷いた。
「そういうことだ。それに最後の一人という条件がある以上、
時間が経てば経つほど集団内の不信感は強くなる可能性がある。
今はまだ十数時間だが、この先食料が減れば、もっと現実的な問題になる」
波瑠加は地図を見ながら考える。
「でも、一人で歩いてる方が怖いって人もいるんでしょ。
じゃあ大人数が危ない、一人も危ないってなったら、結局どうすればいいの?」
清隆が答える。
「完璧な正解はない。自分たちに合う人数と移動方法を選ぶしかない」
波瑠加は四人を見る。
「じゃあ、今のところ五人で正解?」
「少なくとも俺はそう思う」
明人が答えた。
愛里も小さく頷く。
啓誠も反対しない。
清隆も同じだった。
それだけで波瑠加は少し安心した。
五人は日の出を待ってから建物を出た。
外気は思っていたより冷たく、夜露で地面の一部が濡れている。
昨日の港から流れてきた煙の匂いが完全には消えておらず、遠くの空には薄い灰色の雲のようなものが残っていた。
しかし銃声は聞こえない。
チェーンソーの音もない。
昨日の夕方から夜へかけて続いた騒ぎが嘘だったように、朝の島は静かだった。
その静けさが、波瑠加にはかえって不気味だった。
人がいないのではない。
百人以上がまだ島にいる。
それなのに誰も見えない。
どこかの建物の中。
路地の向こう。
森の中。
それぞれが同じように周囲を警戒し、誰かを避けながら動いているのだろう。
「こういう静かな時の方が嫌かも」
波瑠加が呟いた。
明人が横を見る。
「昨日みたいな騒ぎの方がいいのか?」
「そうじゃないけど、何も聞こえないと、どこから誰が出てくるか分からないじゃん。
昨日は少なくとも、音がしたらそっち行かないって判断できたし」
啓誠が頷いた。
「その意味では正しい。情報がない状況では、危険がないのか、危険に気づいていないだけなのか判断できない」
波瑠加が嫌そうに言う。
「ゆきむーに肯定されると余計怖くなるんだけど」
「なら聞くな」
「別に質問したわけじゃないよ」
そんな会話を続けながら、五人は北側へ進んだ。
道路を外れ、住宅地区へ入る。
かつて従業員用の社宅として使われていたらしい建物が並び、
その間には小さな公園や集会所、無人の商店が残されている。
最初の店舗は完全に空だった。
棚だけが残され、食品はない。
二軒目も同じ。
三軒目で、ようやく未開封のペットボトルが数本見つかった。
波瑠加は思わず声を上げそうになったが、愛里が口元へ指を当てる。
波瑠加はすぐに声を抑えた。
「愛里に静かにって注意される日が来るとは思わなかった」
愛里は少し恥ずかしそうに笑う。
「私も今、自分でびっくりした。でも、人が来たら困ると思って」
「正解だ」
啓誠が言う。
「持てる範囲だけ確保しよう。全部持っていけば重量が増えるし、
他の生徒がここへ来た時に争いの原因になる可能性もある」
明人がペットボトルを数える。
「五本ある。一本ずつならちょうどいいな」
「そうしよう」
清隆が答えた。
波瑠加は水をバッグへ入れながら、少しだけ嬉しくなった。
ほんの一本。
それでも、この島へ来てから初めて自分たちで見つけた追加物資だった。
それだけで、昨日より前へ進んでいる気がした。
その後、小さな共同住宅の一階で保存可能な食品をいくつか見つけた。
量は多くない。
それでも五人で分ければ、一回分くらいにはなる。
「これなら今日一日は何とかなる」
啓誠が言う。
波瑠加は安心した。
「じゃあ今日の目標、一個クリアだね。次はお風呂」
「まだ言ってるのか」
「言うよ。昨日からずっと言ってるんだから、途中で諦めたら負けみたいじゃん」
明人が笑う。
「何と戦ってるんだよ」
「不快感」
愛里も笑った。
その時だった。
少し離れた道路から複数の足音が聞こえた。
五人の表情が一斉に変わる。
昨日までなら、明人が最初に前へ出ていたかもしれない。
しかし今は清隆が手で制し、全員が建物の内側へ一度下がった。
愛里は窓の隙間から外を見る。
人数は六人。
制服から同学年だと分かる。
その中に見覚えのある人物がいた。
「平田くん?」
愛里が小声で言う。
波瑠加も覗く。
平田洋介。
その隣には佐藤麻耶と松下千秋。
さらに別クラスの男子二人と女子一人がいる。
五人は相談した。
明人が言う。
「平田なら、いきなり何かしてくるとは思えない」
啓誠も同意する。
「少なくとも情報交換はできる。人数もこちらと大差ない」
清隆は窓の外を確認した。
「出てもいいだろう」
五人が店舗から出る。
平田たちもすぐに気づいた。
最初は警戒したが、顔を確認した瞬間に少し空気が緩む。
「綾小路くんたちだったんだね。良かった、知っている人たちに会えて少し安心したよ」
平田の声は普段と同じように穏やかだった。
しかし顔には疲労がある。
波瑠加が周囲を見る。
「平田くんたちは六人で動いてるの?」
「今はね。最初はもっと大勢で中央施設にいたんだけど、夜のうちにかなり分かれてしまったんだ」
その言葉に全員が反応した。
啓誠が尋ねる。
「一之瀬の集団か?」
平田が頷いた。
「僕も途中から合流していたんだけど、最終的には七十人近くまで増えたと思う。
ただ、人が増えすぎて食料や場所の問題が出てきて、さらに誰かの持ち物がなくなったり、
武器を持っている人を別の場所へ移すべきだと言い出す人がいたりして、夜中から少しずつ集団が崩れ始めた」
波瑠加が驚く。
「七十人?そんなにいたの?」
「禁止区域から来た人を一之瀬さんが受け入れ続けたからね。
最初は助け合えていたんだけど、全員が同じ目的で集まっていたわけじゃなかった。
安全な場所が欲しかった人もいるし、食料を期待していた人もいたし、
一之瀬さんが武器を持っているから守ってもらえると思っていた人もいたみたいだ」
愛里が心配そうに聞く。
「一之瀬さんは?」
「まだ中央施設にいると思う。神崎くんと網倉さん、それから残ると言った人たちと一緒にいた。
ただ、僕たちは人数が多すぎると余計に危険だと思って、朝になる前に抜けてきたんだ」
平田は一度言葉を切った。
「それと、少し気になることがある」
清隆が見る。
「何だ?」
「櫛田さんを見ていない?」
波瑠加の表情が固まった。
昨日の機械音が頭に戻る。
「港で噂は聞いた。チェーンソー持ってるって」
平田は目を伏せた。
「やっぱりそうなんだね。僕たちも中央施設にいた時、櫛田さんが近くまで来ているという話を聞いた。
ただ、見た人によって言っていることが違っていて、助けを求めて一緒に歩いていたという人もいれば、
彼女を見た途端に逃げた人もいたから、何が本当なのか僕には分からない」
松下が静かに付け加える。
「私は、櫛田さんが誰かと話しているところを遠くから見た。
でも、その時は普通だった。だから余計に分からないのよね。
見た目や話し方だけなら、いつもの櫛田さんと何も変わらないから」
佐藤が少し不安そうに言う。
「私、同じクラスなのに、今は会うのちょっと怖い。
昨日までなら櫛田さん見つけたら安心してたはずなのに、
今は音がしただけで逃げた方がいいのかなって考えちゃう」
波瑠加も同じだった。
クラスメイト。
それなのに、もう以前と同じようには見られない。
このゲームは、人間関係そのものを少しずつ変えている。
清隆が平田へ尋ねる。
「堀北や須藤は?」
「堀北さんは昨夜、須藤くんと一緒に南側へ移動したという話を聞いた。
直接は会っていないから今の場所までは分からないけど、たぶん二人とも無事だと思う」
「軽井沢は?」
波瑠加が尋ねるより先に、佐藤が答えた。
「恵ちゃんは中央施設にいたよ。夜の途中で別のグループと移動したみたいだけど、
私はそこから別れちゃったから今は分からない」
波瑠加は一瞬、清隆の顔を見た。
特に表情は変わらない。
ただ、その名前を聞いた瞬間に少しだけ視線が動いたのを、波瑠加は見逃さなかった。
それについて何か言うつもりはなかった。
今は恋愛だとか気まずさだとか、そんなことを考える状況ではない。
しかし、清隆にも自分たちとは別に大切な相手がいる。
当たり前のことなのに、波瑠加はそこで初めて少しだけ意識した。
「平田たちはこれからどうする?」
明人が尋ねる。
「北側で水と食料を探して、できれば小さな人数のまま行動するつもりだよ。
昨日、一之瀬さんたちと一緒にいたことで大人数の良さも分かったけど、
同時に問題も分かったから、今はこのくらいの人数の方がいいと思ってる」
波瑠加が少し笑う。
「こっちも似たようなこと話してた。きよぽん曰く、今のところ五人くらいが悪くないらしいよ」
清隆が見る。
「俺だけの意見ではないだろ」
「代表して言っただけ」
平田も少し笑った。
短い情報交換のあと、二つの集団はそれぞれ別の方向へ進むことになった。
一緒に行くという選択肢もあった。
しかし十一人になれば再び目立つ。
双方ともそれを理解していた。
別れる直前、平田が五人を見る。
「できれば、また学校で会おう。こんな場所じゃなくて、普通の教室で」
波瑠加はすぐに頷いた。
「うん。絶対そっちの方がいい」
愛里も答える。
「平田くんたちも気をつけてね」
「みんなも」
平田たちは北西へ進んでいった。
五人はしばらくその背中を見送った。
最初に口を開いたのは明人だった。
「一之瀬のところ、もう崩れ始めてるんだな」
啓誠が頷く。
「人数が七十近くまで増えれば、むしろ当然だ。食料だけ考えても維持できない」
愛里は少し寂しそうだった。
「一之瀬さん、みんなを助けたくて集めたんだよね。それなのに、そのせいで大変になるなんて……」
波瑠加も考え込む。
「人を助けるのが間違いってわけじゃないんでしょ?」
「間違いではない」
清隆が答えた。
「ただ、善意だけで集団を維持することは難しい。特に全員が同じ目的を持っていない場合はな」
波瑠加はその言葉を聞きながら、何となく自分たちのことを考えた。
五人は友達だから一緒にいる。
少なくとも自分はそう思っている。
でも、五人全員が最後の瞬間まで同じ理由で一緒にいられる保証はあるのか。
ゆきむーは最後の条件を忘れないようにしている。
みやっちは守ろうとしている。
愛里は五人でいたいと言った。
きよぽんは、生存率が上がるから五人でいると言う。
自分はどうなのか。
友達だから。
それだけで最後まで通せるのか。
波瑠加は考えるのをやめた。
考えればまた昨日のようになる。
今は五人でいる。
それでいい。
午前中、五人は旧生活区をさらに北へ進み、使えそうな物資を少しずつ集めた。
大きな収穫はなかったが、水と保存食を追加できただけでも十分だった。
問題が起きたのは、正午近くになってからだった。
次の禁止区域発表まであと一時間ほど。
五人は旧集会所の裏手で短い休憩を取っていた。
その時、東側から三人の男子が現れた。
知らない顔ではない。
一人は坂柳クラス。
一人は一之瀬クラス。
もう一人は同じ堀北クラスだった。
特別仲がいいわけではないが、教室で顔を見る程度には知っている。
最初は互いに距離を取った。
男子たちも五人を見て警戒している。
啓誠が先に声を掛けた。
「通るだけなら、こちらも邪魔するつもりはない」
坂柳クラスの男子が頷く。
「俺たちも争う気はない。ただ、少し水を持ってないか?」
その質問で五人の空気が変わった。
水はある。
しかし余裕があるわけではない。
波瑠加は反射的にバッグへ手を添えた。
相手もそれを見ていた。
「一本でいい。昨日からほとんど飲めてないんだ」
愛里が三人を見る。
顔色が悪い。
本当に困っているように見える。
波瑠加も同じように感じた。
しかし啓誠はすぐには答えなかった。
「こちらも余裕があるわけじゃない。五人で七十二時間持たせる必要がある」
男子が少し苛立つ。
「そんなのこっちも同じだよ。でも五人なら分けられるだろ。俺たち三人なんだぞ」
その言い方に、明人の表情が僅かに変わった。
「人数が少ないから、こっちが渡すべきって理屈にはならないだろ」
「別に全部よこせって言ってない。一本だけだ」
波瑠加は迷った。
渡してもいいと思う。
水一本。
五人で少しずつ減らせば何とかなるかもしれない。
しかし、一本渡せば次も求められるかもしれない。
見ていた別の誰かが来るかもしれない。
一度始めたら終わらない。
昨日の一之瀬の集団の話が頭をよぎる。
善意が人数を呼ぶ。
人数が物資を減らす。
「半分くらいなら――」
波瑠加が言いかけた。
啓誠がすぐに止める。
「波瑠加、待て」
波瑠加が啓誠を見る。
「でも、本当に困ってるなら少しくらい――」
「俺たちも十分ではない。ここで渡した場合、次に補給できる保証がない」
男子たちの表情が険しくなる。
「じゃあ、目の前で困ってても見捨てるってことか?」
波瑠加は胸が痛んだ。
その言葉を聞きたくなかった。
自分が水を持っている。
相手が持っていない。
それだけで、自分が生きるために相手を見捨てる側へ立っているように感じる。
「啓誠」
明人が口を開いた。
「少しくらいなら渡してもいいんじゃないか。俺の分から減らせばいい」
啓誠は明人を見る。
「お前の分だけの問題じゃない。水が足りなくなれば、最終的には五人全員へ影響する」
「だから俺の分からって言ってるだろ」
「個人の水として管理しているわけじゃない。必要な時に全員で使う前提だ」
明人の表情が硬くなる。
「でも、目の前で水が必要な奴がいるんだぞ」
「分かっている。それでも渡すべきかどうかは別問題だ」
波瑠加は二人を見た。
昨日の夜とは違う。
ゆきむーと自分が最後の一人についてぶつかった時より、もっと具体的だった。
今度は命に直結する物資。
善意と合理性が、そのまま五人の中でぶつかっている。
愛里が困ったように三人を見る。
清隆は黙っていた。
波瑠加はそのことに少し苛立った。
「きよぽんはどう思うの?」
清隆が波瑠加を見る。
「今の量なら、一部を渡してもすぐに困るわけではない。ただ、啓誠が言うように、この先補給できる保証もない」
「それじゃどっちなの?」
「正解はない」
波瑠加は思わず声を強くした。
「またそれ?きよぽんって、こういう時いつも『どっちも分かる』みたいな言い方するよね。
私たちは今決めなきゃいけないんだから、どっちか言ってよ」
会話が止まる。
波瑠加自身も、言いすぎたと気づいた。
しかし引っ込めることができなかった。
清隆は怒らなかった。
「なら、オレは少量なら渡してもいいと思う。ただし、これ以上の要求には応じない。それを相手にも伝える」
波瑠加は少し驚いた。
明人も清隆を見る。
啓誠は納得していない様子だったが、反論する前に愛里が口を開いた。
「私も、それがいいと思う。全部助けられるわけじゃないけど、
今できる範囲で少しだけなら……それなら私も自分の分から減らしていいから」
波瑠加は頷いた。
「私も」
明人も同じだった。
啓誠だけが黙っている。
四人の視線が集まる。
啓誠は少し長く考えたあと、息を吐いた。
「分かった。ただし、今後はこういう判断をその場の感情だけで決めないようにしたい。
今回渡すなら、それは五人で決めたことにする」
波瑠加の胸に小さな棘が刺さった。
「その場の感情だけって言い方、嫌なんだけど」
「波瑠加、今は――」
明人が止めようとした。
しかし波瑠加は続けた。
「私たちが水を渡したいって思うのは、感情だけなの?
困ってる人がいたら少しくらい助けたいって思うのも、
ゆきむーから見たら『合理的じゃない判断』ってこと?」
啓誠の表情も硬くなる。
「そういう意味で言ったわけじゃない。感情を否定しているんじゃなく、
残量や今後の補給まで考えて決めるべきだと言っている」
「でも最後には、いつも『合理的だから』って言えば何でも切れるじゃん」
その言葉を口にした瞬間、波瑠加自身が止まった。
啓誠も黙る。
明人の表情が変わった。
愛里が心配そうに波瑠加を見る。
清隆だけが静かだった。
波瑠加は、自分が何を言おうとしているのか分かってしまった。
水の話だけではない。
最後の一人。
いつか誰かを切らなければならない。
その時に、啓誠が合理性を理由に誰かを選ぶのではないか。
そんな疑いが、ほんの少しだけ自分の中に生まれている。
嫌だった。
ゆきむーを疑いたくない。
それなのにゲームが、そう考えさせる。
啓誠は低い声で答えた。
「俺がいつ、誰かを切ると言った?」
「言ってない。でも――」
「波瑠加、お前は俺が最後になったら、四人を合理性だけで見捨てると思ってるのか?」
問い返され、波瑠加は言葉を失った。
思っていない。
そう即答したかった。
しかし、口が動かなかった。
その沈黙自体が答えのようになった。
啓誠の表情から、僅かに何かが消える。
怒りというより、傷ついたように見えた。
波瑠加の胸が痛んだ。
「ゆきむー、私……」
「もういい。今は水を渡すかどうか決める方が先だ」
啓誠は相手の三人へ向き直った。
「少量なら渡す。ただし、俺たちも余裕があるわけではないから、それ以上は無理だ」
男子たちは頷いた。
全員が完全に納得しているわけではない。
それでも最低限の水を分け、三人は礼を言って立ち去った。
問題は解決した。
少なくとも表面上は。
しかし五人の間に残った空気は、今までとは違っていた。
波瑠加は啓誠へ謝りたかった。
すぐに言えばいい。
「ごめん」と言えばいい。
昨日もそうした。
それなのに今回は言葉が出なかった。
自分の中で、まだ完全には消えていない疑いがあるからだった。
合理的に考える啓誠。
いつか本当に、誰かを切る判断をするのではないか。
そしてもっと嫌なのは、その判断が正しい場面が来るかもしれないということだった。
五人全員を助けられないとき。
水が一人分しかないとき。
一人を助ければ別の一人が危険になるとき。
そんな状況になれば、誰かが選ばなければならない。
その役目を自分はできない。
愛里も難しいだろう。
みやっちは、自分を後回しにするかもしれない。
きよぽんは――。
そこまで考えて、波瑠加は清隆を見る。
清隆なら選べるのかもしれない。
その想像が、一番怖かった。
五人は再び移動を始めた。
誰も口数が多くなかった。
愛里が何度か波瑠加を見た。
明人も啓誠と波瑠加の間を気にしている。
しかし、今は誰も無理に話題を作ろうとしなかった。
昼前。
五人の端末が同時に振動した。
定時ではない。
生存者数の更新。
『生存者 129名』
昨夜の十二時間放送では百三十六。
そこからさらに七人減っている。
波瑠加は数字を見た。
三十一人。
開始から十五時間ほどで、三十一人が消えた。
三十一人の中に知っている人がいるかどうかは分からない。
放送で名前が読み上げられるまで確かめることもできない。
「減るの早くなってない?」
愛里が不安そうに言う。
啓誠は端末を見ながら答えた。
「昨日の港湾戦の後で人の配置が変わったことと、
夜間に移動した人間同士が接触した影響かもしれない。
禁止区域も狭くなっているから、これからさらに接触は増える可能性がある」
波瑠加は啓誠の説明を聞きながら、さっき自分が言った言葉を思い出していた。
ゆきむーは変わっていない。
昨日までと同じように、状況を整理している。
自分たちが生き残るために考えている。
それを分かっているのに、疑った。
波瑠加は耐えきれなくなった。
「ゆきむー」
啓誠が見る。
波瑠加は歩くのを止めた。
他の三人も止まる。
「さっきのこと、ごめん。私、言いすぎた」
啓誠は黙って聞いている。
波瑠加は続けた。
「ゆきむーが私たちを見捨てるって本気で思ってるわけじゃない。
ただ、最後は一人って言われてから、誰かが合理的とか、生存率とか言うたびに、
それがいつか『誰を残すか』って話へ繋がる気がして怖くなるの。
だからさっきも、ゆきむーが水を渡さない方がいいって言っただけなのに、勝手に先のことまで重ねちゃった」
啓誠は少しだけ表情を和らげた。
「俺も言い方が悪かった。感情だけで決めるなと言ったのは、お前たちの考えを軽く見るつもりではなかった」
「うん」
「それと、一つだけはっきりさせておく。
俺は少なくとも今、四人を切るつもりはない。最後に何が起きるかは分からないし、
その時の答えも持っていない。でも今の五人を維持したいと思っているのは、お前たちと同じだ」
波瑠加は少し笑った。
「それ、昨日よりちゃんと友達っぽい言い方になったね」
「またそれか」
「でも安心した」
明人が息を吐く。
「良かった。俺、さっきからいつ口挟むか迷ってたんだぞ」
愛里も小さく笑った。
「私も。二人とも話せて良かった」
清隆が四人を見る。
完全に元へ戻ったわけではない。
波瑠加自身、それは分かっていた。
一度生まれた疑いが消えたわけではない。
最後の条件もなくなっていない。
それでも話せるうちは、まだ大丈夫だと思いたかった。
その直後、端末に次の禁止区域予告が表示された。
啓誠と清隆が同時に地図を開く。
そして二人の表情が変わった。
「どうしたの?」
波瑠加が尋ねる。
啓誠が地図を指す。
「旧生活区の西側と北側が、次の禁止区域に入る」
明人が見る。
「今いる場所は?」
「まだ対象外だ。ただし、二時間後には逃げ道がかなり減る」
清隆が続ける。
「問題は南側だ。中央施設へ戻るルートと東側の住宅地区しか大きな道が残らない」
愛里が気づく。
「また人が集まる?」
「ああ」
清隆が答えた。
「しかも今回は昨日より狭い」
波瑠加は嫌な予感がした。
昨日の港。
人が集まる。
噂が広がる。
恐怖で走る。
銃声一つで全部が崩れる。
あれがもう一度起こる可能性がある。
「じゃあ早めに動こう」
波瑠加が言う。
「今ならまだ人が少ないんでしょ?」
啓誠が頷く。
「そうだな。予告が出た直後に動く方が安全だ」
五人は地図を確認し、南東方向へ移動を始めた。
今度は波瑠加も啓誠と並んで歩いた。
昨日までなら、少し気まずくなれば愛里の隣へ行っていたかもしれない。
でも今日はそうしなかった。
疑ったからこそ、離れたくないと思った。
「ゆきむー」
「何だ?」
「さっきは本当にごめんね」
「もういいと言っただろ」
「でも二回言っといた方が安心するから」
「誰が?」
「私が」
啓誠は少し呆れたような顔をした。
「なら好きにしろ」
波瑠加は笑った。
ほんの少しだけ、いつもの空気が戻る。
その時だった。
遠くから何かが聞こえた。
銃声ではない。
爆発でもない。
低く唸るような、聞き覚えのある機械音だった。
波瑠加の笑みが消える。
愛里もすぐに気づく。
明人が周囲を見る。
「またか」
啓誠が音の方向を確認する。
清隆は地図を閉じた。
機械音は、昨日より遠い。
それでも誰のものなのかを知ってしまった今では、聞こえるだけで意味がある。
櫛田。
正確な場所は分からない。
しかし、北側のどこかから近づいている。
そして禁止区域は、その北側から人を押し出そうとしている。
清隆が短くではなく、全員へ分かるように説明した。
「今すぐ南東へ移動する。ただし大通りには出ない。
櫛田が実際にこちらへ向かっているかどうかは分からないが、
この音を聞いた生徒が南へ逃げ始める可能性が高いから、
人の流れと同じ方向へ正面から入るのは避けたい」
波瑠加は昨日の龍園の言葉を思い出した。
音だけで人が走る。
確かに今、自分も走りたくなっている。
それでも今回は、ただ恐怖へ任せて動くわけではない。
愛里が地図を見る。
「この細い道なら、住宅の裏を通って南東へ抜けられるよね?」
啓誠が確認する。
「ああ。少し遠回りになるが、大通りよりは安全だと思う」
清隆も頷く。
「愛里の案で行こう」
愛里は僅かに目を見開いた。
自分の提案がそのまま採用されたことに驚いたらしい。
波瑠加はそんな愛里の肩へ軽く触れる。
「ほら、愛里ももうちゃんと参謀側じゃん」
「そ、そんな大げさじゃないよ。地図見ただけだから」
「それで十分でしょ。私なんて今、音聞いて逃げたいって思っただけだし」
「波瑠加ちゃんは、さっき啓誠くんとちゃんと話したじゃない。それも大事だと思う」
愛里にそう返され、波瑠加は少し驚いた。
自分では何の役にも立っていないと思っていた。
でも愛里はそう見ていない。
もしかすると五人の役割というものは、自分で決めるより周りから見た方が分かりやすいのかもしれない。
五人は住宅の裏道へ入った。
遠くの機械音。
禁止区域予告。
急ぎ始める人の気配。
島はまた少しずつ動いている。
その中で波瑠加は、今日初めて五人の間に生まれた小さな亀裂を思い返していた。
完全には消えていない。
今後もっと大きくなるかもしれない。
水一本であれだけ意見が割れた。
もし今度は食料が一人分しかなかったらどうなるのか。
もし誰か一人しか助けられなかったらどうなるのか。
そして最後に、本当に五人だけが残ったらどうなるのか。
今は答えを出さない。
昨日から何度もそう言っている。
しかし、答えを先送りしている間にも生存者は減り、禁止区域は狭まり、残された時間も減っている。
ゲーム開始から十五時間余り。
生存者百二十九名。
まだ百人以上いる。
それでも開始時の百六十人から見れば、すでに五人に一人近くが姿を消している。
七十二時間は長い。
けれど、昨日ほど遠くは感じなかった。
波瑠加は隣を歩く啓誠を一度見て、その先にいる愛里と明人、さらに少し前で周囲を確認している清隆を見た。
五人いる。
今はまだ全員いる。
なら、今はそれでいい。
ただし昨日までとは違う。
波瑠加はもう理解していた。
「五人でいる」と願うことと、「五人でいられる」と信じることは同じではない。
願うだけでは守れない。
信じるだけでも足りない。
意見がぶつかった時に話す。
誰か一人へ負担を押しつけない。
怖くても考える。
そして疑ってしまった時には、その疑いを黙ったまま育てない。
それを続けなければ、運営が何もしなくても五人は内側から崩れてしまう。
島のどこかでは、一之瀬が作った巨大な集団がすでに割れ始めている。
それが他人事ではないことを、波瑠加はようやく理解した。
人は武器だけで壊れるのではない。
食料。
水。
時間。
疲労。
恐怖。
そして、ほんの小さな疑い。
それだけでも十分だった。
遠くでチェーンソーのような機械音がもう一度響き、今度は別の方向から複数の人間が走る足音が聞こえた。
五人は顔を見合わせる。
清隆が進む方向を示す。
愛里が地図で抜け道を確認する。
啓誠が禁止区域までの時間を計算し、明人が周囲の人影を確認する。
波瑠加は四人が離れていないことを確かめ、その中央を歩いた。
そして五人は、最初の小さな亀裂を抱えたまま、次の安全区域へ向かって歩き始めた。
その亀裂はまだ修復できる程度のものだった。
けれど、このゲームが残り五十時間以上続くという事実を考えれば、
これが最後の衝突になるはずがないことも、誰もが心のどこかでは分かり始めていた。