小4で一緒にお風呂は普通じゃないの!? 〜距離感バグりすぎな従姉弟の日常〜 作:間瀬凪
梅雨の晴れ間が広がり、初夏の湿り気を帯びた風が教室のカーテンを静かに揺らしていた。
六月も半ばを過ぎた、ある木曜日の昼休み。
僕たちの5年2組の教室は、ドッジボールをしに校庭へ飛び出していった男子たちと、机を囲んでおしゃべりに興じる女子たちの声で、いつも通りに賑わっていた。
そんな中、僕は自分の席でノートを開き、午後の理科の小テストに向けた見直しをしていた。
二列隣の席では、陽菜が友達の女子たちと楽しそうに筆箱の文房具を見せ合っている。
ふと、陽菜がこちらを向いた。
目が合う。
いつもなら、目が合った瞬間にパッと笑顔を咲かせて駆け寄ってきたり、「悠真ぁ〜」と腕を絡めてきたりするところだ。
けれど今の陽菜は、僕に向かって小さくペコッと会釈をするだけにとどめ、まるで普通のクラスメイトのように澄ました顔で視線を友達へと戻した。
僕もまた、何気ない顔でノートに視線を落とす。
(……よし、自然にできてる)
心の中で、僕はそっと息を吐いた。
先月の遠足のあと、陽菜の家で美紀おばさんから授かったあのアドバイス──『みんなの前では普通のクラスメイトみたいにしておいて、二人きりになった時だけうんと甘え合う。そっちの方が、二人だけの秘密みたいで良くない?』。
あれ以来、僕と陽菜は学校の中では徹底して『ただの仲のいいいとこ同士』を演じるというルールを守っていた。
登校も昇降口の前で自然に歩調を緩め、教室に入ればむやみに話しかけに行かず、移動教室でも手をつなぐことは絶対にしない。
おかげで、遠足の時に聞こえてきた「姉弟みたいなのにイチャついて気持ち悪い」という心無い噂もすっかり立ち消え、誰からも変な目で見られることはなくなっていた。
大人の知恵って、本当にすごい。これで陽菜が傷つくこともないし、すべて上手くいっている──そう思っていた。
ただ一人、この急激な変化に激しい違和感を抱いている人物を除いては。
***
「……ねえ、直樹。あんた、何も思わないわけ?」
教室の後ろの掃除用具入れの前で、森田紗理奈が小野直樹の肩をツンツンと小突きながら、声を潜めて耳打ちしていた。
直樹は漫画雑誌をパラパラとめくりながら、気の抜けた顔で鼻を鳴らす。
「あ? 何がだよ」
「何がじゃないわよ! 悠真と陽菜よ! あの二人、ここんとこずーっと様子がおかしいと思わない!?」
紗理奈の鋭い視線が、離れた席で静かに過ごす僕と陽菜を交互に射抜く。
「四年生の時から……いいえ、幼稚園の時からずっと、隙さえあればくっついて『悠真ぁ〜』『陽菜ぁ〜』ってバカップル全開だったあの二人がよ? 今週に入ってから、教室で一度も肩すら触れ合ってないのよ!? 喋る時も『永瀬くん、これプリント』『藤崎さん、ありがとう』って……あんた、あれ見て背筋がゾワゾワしないの!?」
「いや、普通だろ。高学年にもなりゃ、男子と女子なんだから人前でベタベタしなくなるもんじゃねえの? 大人になったんだよ」
「直樹の脳みそはこれだからおめでたいのよ! あの二人の『異常な粘着力』が、そんな一般的な理由で急にゼロになるわけないでしょ!!」
紗理奈は腕を組み、眉間に深いシワを寄せた。
「……絶対、何かあったのよ。ほら、先月の遠足の帰り! 陽菜、バスの中でずっと窓の外見て一言も喋らなかったし、悠真も青い顔してお弁当抱え込んでたじゃない。あの後、大喧嘩でもしたに決まってるわ」
「喧嘩ぁ? あいつらが? あり得ねえだろ。悠真が陽菜に逆らえるわけないし、陽菜だって悠真に怒ったりしねえよ」
「そこが怪しいのよ! もし……もしもよ? どっちかが本当に許せないような地雷を踏んじゃって、口も利けないくらいギクシャクしてたらどうするのよ!?」
紗理奈の瞳に、いつもの呆れ顔ではなく、友人としての本気の心配が宿っていた。
「あんなに四六時中一緒だったのに……本当は仲直りしたいのに、意地を張って離れてるんだとしたら……すっごく可哀想じゃない。放っておけないわよ」
「おいおい、紗理奈……お前、いつもは『イチャつくな!』って怒鳴り散らしてるくせに、いざ離れたら心配でたまらないのかよ」
「う、うるさいわね! あいつらがイチャついてるのはムカつくけど、陰気な顔で冷戦状態になってるのはもっと見てて落ち着かないのよ! ……よし、決めたわ。今日の放課後、二人がどうしてるかこっそり見張るわよ!」
「げっ、俺も付き合わされんのかよ〜」
嫌がる直樹の首根っこを掴み、紗理奈は放課後の尾行作戦を決意していた。
***
放課後。
帰りの会が終わると、僕は図書委員の当番の仕事を片付けるため、陽菜と一緒に特別棟の二階にある図書室へと向かった。
廊下を歩く間も、二人の間には五十センチほどの絶妙な隙間が保たれている。
「図書だよりの印刷、今日の分は終わった?」
「うん、職員室で刷ってきたよ。カウンターに置いておくね」
「ありがとう、永瀬くん」
「どういたしまして、藤崎さん」
すれ違う他のクラスの先生や生徒たちに目撃されても、完全に完璧な『普通の真面目な図書委員コンビ』だ。
けれど──。
ガラリと図書室の引き戸を開け、中に入った瞬間だった。
放課後の図書室には、誰一人として他の生徒はいなかった。窓から差し込む初夏の西日が、静まり返った木の机と本棚の列をオレンジ色に染め上げている。
カチャリ、と僕が背後で引き戸を閉め切った、まさにその刹那。
「…………っ!!」
背後から、猛烈な突風のような勢いで、誰かが僕の腰に抱きついてきた。
「わっ……陽菜!?」
「悠真ぁぁぁぁぁぁ……っ!!」
陽菜だった。
さっきまでの澄まし顔はどこへやら、陽菜は僕の背中に全身を隙間なく押し当てると、僕の胸元に腕を回して、力いっぱいぎゅうぎゅうと締め上げてきたのだ。
「ちょ、陽菜、苦しい……っ!」
「無理! もう我慢できない! 一日中悠真とくっつけなかったんだもん!! 悠真成分不足で死んじゃう──っ!!」
「し、死なないってば!」
陽菜は僕の背中に顔を埋め、すりすりと激しく頬を擦り寄せてくる。
「『永瀬くん』なんて呼びたくないもん! 手も繋げないし、隣にも座れないし、休み時間も遠くから見てるだけなんて……私、干からびそうだったんだからぁっ!」
人前で我慢していた反動が、一気に臨界点を突破していた。
陽菜は僕の腕を掴むと、そのまま図書室の一番奥──外の廊下の窓からも死角になっている、背の高い百科事典の書架の奥の閲覧席へと僕をぐいぐい引っ張っていった。
「あ、こら、陽菜……!」
丸椅子に僕を座らせると、陽菜は何の躊躇もなく、僕の太ももの上に正面からひょいっと乗り上げてきた。
「ひっ……!?」
いわゆる対面抱っこの体勢だ。
陽菜の柔らかいスカートの布地越しに、その吸い付くような太ももとお尻の温もりが、僕の膝の上にズシリと密着してくる。
「んぅ……っ、悠真ぁ……」
陽菜は僕の首筋に両腕を回すと、体重をすべて僕に預けて、喉を鳴らす猫のようにすりすりと頭を擦り寄せてきた。
ふわっと広がる、陽菜の甘いシャンプーの香りと、温かい体温。
薄着になった初夏の服越しに、陽菜の華奢な胸元や腰回りの柔らかさが、ダイレクトに僕の胸板に押し当てられる。
学校では我慢していた僕の心臓も、大好きな陽菜がゼロ距離で甘えてきた瞬間、早鐘のようにドクドクと激しく脈打ち始めていた。全身がカッと熱くなって、息が苦しい。
「は、陽菜……っ、ここ学校だよ……!? 誰か入ってきたら──」
「鍵閉めたもん! それに、もう誰も来ないもん!」
陽菜は僕の首筋に顔を埋めたまま、ぎゅっと抱きしめる腕の力を強めた。
「悠真の匂い……やっぱり、すっごく落ち着く……。ねえ悠真、頭なでて? 今日一日、私すっごく我慢して偉かったでしょ? いっぱい褒めてぇ……」
上目遣いに見上げてくる陽菜の瞳は、とろんと甘く潤んでいて、僕の胸を激しく揺さぶった。
こんなに無防備に甘えられたら、男の子として敵うはずがない。
「……うん。陽菜、すごく偉かったよ」
僕は息を整えながら、陽菜の柔らかな黒髪にそっと手を伸ばし、優しく撫でてあげた。
「えへへ……悠真の手、あったかい……大好き……」
陽菜は嬉しそうに目を細めると、僕の膝の上でもぞもぞと体を動かし、さらに隙間なくぎゅっと体を押し付けてきた。
「悠真の心臓、すっごくトクトク鳴ってる……ふふ、私のことぎゅってして?」
「っ、陽菜……」
言われるがまま、僕は陽菜の細い背中に腕を回し、力いっぱい抱きしめ返した。
お互いの胸と胸がぴったりと重なり合い、二つの心臓の早鐘のような鼓動が、境目をなくすように響き合う。
放課後の夕日が差し込む、静まり返った図書室の奥。
外の喧騒から隔絶された狭い死角で、僕たちは息を潜め、お互いの温かい体温と甘い吐息を全身で確かめ合っていた。
***
──その時だった。
図書室の前の廊下に、息を殺した二つの足音が近づいてきていた。
「……ちょっと、直樹。足音立てないでよ」
「だから何で見張りなんてしなきゃいけねえんだよ……。おい、図書室の鍵、中から閉まってんぞ?」
「えっ!? 鍵が……? ちょっと待ちなさい、やっぱり喧嘩して中で取っ組み合いでもしてんじゃないでしょうね!?」
紗理奈は胸騒ぎを覚え、廊下の小窓にそっと顔を近づけた。
図書室の中は薄暗く、誰もいないように見える。
けれど、一番奥の百科事典の書架の隙間から──微かに、甘ったるい吐息と衣擦れの音が漏れ聞こえてきたのだ。
「……ん……悠真、そこくすぐったい……」
「陽菜、動かないでって……落ちちゃうから……」
「落ちないもん、悠真がぎゅってしててくれるもん……んぅ……」
「…………は?」
紗理奈の動きが、ピシリと止まった。
恐る恐る、書架の隙間へと視線を凝らす。
夕日に照らされた閲覧席の丸椅子。
そこに座る悠真の膝の上に、陽菜が正面からすっぽりと乗り上げ、二人は首筋に顔を埋め合って、まるで一つの生き物のように隙間なく密着していた。
それだけではない。
陽菜の細い足が悠真の腰に絡みつき、悠真もまた真っ赤な顔をしながら陽菜の腰をしっかり抱きしめ、二人は吐息が重なり合う至近距離で、とろけるような顔で見つめ合っていたのだ。
「………………」
紗理奈の瞳孔が、限界まで見開かれた。
口がパクパクと金魚のように開き、頭の上から本気でプシューッと真っ白な煙が噴き出す。
隣でのぞき込んだ直樹が、感心したように呟いた。
「なんだよ、喧嘩どころか……いつもよりすげえべったりくっついてんじゃねえか。おいおい、膝の上に乗っかって──」
「ぎゃあああああああああ────ーっっっ!!!!」
夕暮れの校舎に、紗理奈の鼓膜を破らんばかりの絶叫が木霊した。
「ひっ……!?」「きゃっ……!?」
図書室の中で抱き合っていた僕と陽菜は、跳ね上がるように飛び退いた。
ガラガラガラッ!! と外から窓ガラスが激しく叩かれる。
「あんたたちィィィィィッ!! 人前でよそよそしくしてるから、喧嘩でもしたのかと本気で心配して損したわよォォォォォッ!!」
窓の向こうで、紗理奈が般若のような形相で両手を振り回し、顔面を真っ赤に沸騰させていた。
「な、な、なんで放課後の図書室の奥で、膝の上に乗っかって対面抱っこしてんのよ──っ!! ある意味安心したけど……ある意味安心したけど、人前で我慢してる分、二人きりになった時のイチャイチャの濃度が限界突破してんじゃないわよぉぉぉぉぉ──っ!!」
「さ、紗理奈ぁぁぁぁっ!?」
見られた。
一番見られてはいけない相手に、一番見られてはいけないシチュエーションを、完璧に目撃されてしまった。
僕の全身から、一瞬で血の気が引いていく。
けれど、膝の上から降りた陽菜は、少し頬を赤らめながらも、ぺろりと小さく舌を出した。
「……見つかっちゃった。でも紗理奈、私たち喧嘩なんてしてないよ? お母さんに教えてもらったの。『人前では普通にして、二人きりの時だけ甘え合うのが二人だけの秘密』なんだもん!」
「お母さん公認なのォォォォォ──っ!? 美紀おばさん、娘たちにどんな高度な禁断プレイを伝授してんのよ──っ!!」
紗理奈はその場に崩れ落ち、額を押さえて天を仰いだ。
「……もうやだ……私、あいつらの保護者じゃないのに……なんでこんなに寿命が縮むのよ……」
後ろで直樹が「まあまあ、喧嘩してなくて良かったじゃねえか」と呑気に笑いながら、紗理奈の背中をポンポンと叩いていた。
***
その後。
図書室の鍵を開け、平謝りする僕たちを前に、紗理奈は長いため息をつきながらパイプ椅子に腰掛けていた。
「……はぁ。まあ、本当に喧嘩してギクシャクしてたんじゃないなら、もういいわよ。……心配した私が馬鹿だったわ」
「ごめんね、紗理奈。心配してくれて、すっごく嬉しかったよ」
陽菜が申し訳なさそうに手を合わせると、紗理奈は「べ、別に陽菜のためじゃないわよ!」とぷいっと横を向いた。
気恥ずかしさを紛らわすように視線を泳がせていた紗理奈は、ふと、カウンター脇の返却棚に置かれていた本に目を留めた。
「……あっ、この本」
紗理奈が棚から抜き取ったのは、背表紙に切ないイラストが描かれた、中高生向けの文庫小説だった。
「ほら、これ。うちのお姉ちゃんも読んでて、今ドラマにもなってすっごく流行ってるお話なんだけどね。あんたたちを見てたら、ちょっとこの主人公たちを思い出しちゃったのよ」
「どんなお話なの?」
陽菜が興味津々に身を乗り出す。
紗理奈は本の表紙を指先でトントンと叩きながら、何気ない調子で口を開いた。
「主人公の男の子と女の子が、すっごく愛し合ってるんだけど結ばれないお話なのよ。……ほら、二人って生き別れの兄妹だったっていう設定でね。日本の法律じゃ、兄妹とか姉弟って、絶対に結婚できないじゃない?」
「…………え?」
僕の心臓が、トクンと冷たい音を立てて跳ねた。
「け、結婚……できないの……?」
陽菜の声が、わずかに震えていた。
紗理奈は本を棚に戻しながら、当たり前の顔で頷いた。
「そうよ。民法っていう大人の法律で、血のつながった兄妹や姉弟は結婚しちゃいけないって決まってるのよ。だからこの本の二人も、どれだけ好き合ってても絶対に結婚できなくて……すっごく切ないのよね」
紗理奈はそこで言葉を切り、壁の時計を見上げて「あ、もう四時半じゃない! 帰らないと怒られるわ! 直樹、行くわよ!」と立ち上がった。
「おう! じゃーな悠真、陽菜!」
「ま、あんたたちも程々にしときなさいよね!」
そう言って、二人は足早に図書室を出ていった。
ガラガラと引き戸が閉まる音が、静まり返った夕暮れの図書室に響く。
直樹と紗理奈が去ったあとの部屋には、僕と陽菜の二人だけが取り残されていた。
「………………」
「………………」
さっきまでの甘い空気は、嘘のように消え去っていた。
遠足の時にクラスの女子たちから浴びせられた、あの冷たい嘲笑が、鮮烈なフラッシュバックとなって僕たちの脳裏を支配していく。
『いとこなんて、ほぼ姉弟みたいなものじゃん』
『姉弟みたいなのに恥ずかしくないのかな』
そして、今、紗理奈が口にした決定的な言葉。
『日本の法律じゃ、兄妹とか姉弟って、絶対に結婚できないじゃない?』
──トクン、トクン、と僕の胸の中で冷たい鼓動が鳴り響く。
隣に立つ陽菜を見つめると、陽菜もまた、青ざめた顔で僕を見つめ返していた。
繋がれた陽菜の指先が、小刻みに、凍えるように震え始めていた。