「二人とも、ごはんだよ」
母さんに呼ばれ、陽菜がゴール手前の画面から僕へ顔を向けた。
「ここまで行ったら、おしまいにしよ」
「うん。続きは、あとでまたできるもんね」
そこまで進んでゲームを止めた。いつもなら少し残念になるけれど、今日は立ち上がっても陽菜が隣にいる。
「悠真、さっきのところ、覚えててね」
「陽菜が落ちそうになったところ?」
「違うよ! 上手にできたところだよ!」
「分かってるよ」
陽菜が僕の腕を軽く叩いた。上手にできた顔も覚えているけれど、こうして言い返してくる顔も好きで、つい別の方を言ってしまう。
「食べる前に、二人でお風呂の用意をお願い」
僕が浴槽を洗ってすすぎ、陽菜が栓をしてお湯を張った。二人分のタオルも出して、食卓へ戻る。
夕飯を食べ終えても、陽菜は帰る支度をしなかった。僕の隣へ戻って、さっきのゲームの話を続けている。
「二人とも、どっちかお風呂に入りなさい」
母さんに言われると、陽菜が僕の方を向いた。
「悠真、一緒に入ろうよ」
「うん、いいよ」
二人で立ち上がると、母さんが僕たちを交互に見た。
「今日も一緒に入るの?」
「うん、ゲームの話がしたいから」
陽菜が答えると、母さんは小さく息をついた。
「まだ話し足りないのね。長湯にならないようにね」
「はーい」
陽菜と一緒に返事をして、着替えを取りに行った。
脱衣所で、陽菜は脱いだ服と下着を軽く畳み、持ってきた袋へ入れた。
「それ、今回は洗濯かごに入れないの?」
「うん、一泊だから。明日、持って帰って洗うの」
袋の口を閉じて着替えの脇へ置くと、陽菜は「お待たせ」と僕を見た。僕も頷いて、一緒に浴室へ入った。
湯船で、陽菜が僕を見て笑った。
「じゃあ、話そ。悠真、今日、一番面白かったのどこ?」
「陽菜に押されて、僕まで落ちたとこかな」
「そこ!? 私は最後のところだよ」
「二人でできたとこ?」
「うん! 悠真と一緒に旗まで行けたとこだよ」
旗の手前で待っていてくれた顔を思い出した。次は僕も陽菜を待って、一緒に着きたい。
陽菜が壁の時計へ目をやる。
「明日は晴れるかな」
「雨でも一緒に行くよ。傘、ぶつけないようにしないと」
「悠真が上げると、私も上げちゃうからね」
「僕の方、見てるからだろ」
「うん。話す時は見たいもん」
笑っていると、廊下から母さんの声がした。
「そろそろ出なさい。のぼせるよ」
「はーい」
返事が一緒になって、また陽菜と顔を見合わせた。
着替えを済ませて洗面所へ戻ると、陽菜がタオルで髪を押さえていた。
肩まである髪の先から、まだ少し水が落ちている。僕がドライヤーを取ろうとすると、陽菜が先に僕の頭へタオルをのせた。
「悠真、先にちゃんと拭かなきゃ。ほら、後ろも」
タオル越しに、陽菜の手が僕の後ろまで回る。僕が自分で拭くよりゆっくりで、まだ湿っているところを探してくれた。お姉さんぶっているなと思うけれど、その丁寧さには任せたくなる。
「陽菜の方が濡れてるよ」
「私はあとでいいの。お姉ちゃんが先に見てあげるからね」
「四か月だけじゃん」
「でも、お姉ちゃんだもん」
陽菜が得意そうにタオルを外す。僕はドライヤーを持ち上げた。
「じゃあ、お姉ちゃんは自分で乾かせる?」
陽菜は僕の手と鏡を交互に見た。それから、僕の袖をちょっと引く。
「乾かしてくれるの?」
「うん。ここに座ってね」
「やったぁ。悠真、後ろ、お願いね」
もう椅子に座っている。さっきは僕の後ろまで手を回してくれたのに、今は鏡越しに「お願い」と笑う。その声につられて、僕も口元が緩んだ。
「なあに?」
「お姉ちゃん、もう座ってる」
「だって、悠真がやってくれるんでしょ?」
「うん、任せてよ」
陽菜の後ろへ風を送ると、シャンプーの匂いがふわっと届いた。うちのを使っているのに、振り向く陽菜と一緒になると、いつもの陽菜の匂いに思える。
「熱くない?」
「うん。ちょうどいいよ」
陽菜は目を細めて、肩の力を抜いた。僕が後ろへ回っても、鏡の中で目を合わせてくれる。風にふわっと広がる髪を、そっと指で分けて乾かした。
スイッチを切って髪を整えると、陽菜が鏡越しに僕を見た。
「これでいい?」
「うん、かわいいよ」
「えへへ。じゃあ、こっちもお願い」
頬の横を指したので、そちらも整えた。僕の短い髪とは違って、陽菜の髪は指を動かすたびにさらっと流れ、肩のところへ戻っていく。
「かわいい」と言ったら、こんなに嬉しそうになる。鏡の中で目が合い、僕まで少し照れくさくなった。ちゃんと言ってよかった。
頭を軽くなでると、陽菜が目を細めて、僕の手の方へ少し寄った。
僕が手を離すと、陽菜は僕の髪を見て立ち上がった。
「今度は私! 悠真、座ってね。ちゃんと乾かしてあげるよ」
「僕のも、後ろお願いね」
「うん。今は悠真の番だよ」
お願いする時の声から、急にしっかりした声になった。僕はわざと背筋を伸ばした。
「はい。お願いします、お姉ちゃん」
「うん。動かないでね」
からかったつもりなのに、陽菜はすっかり張り切って僕を座らせた。ドライヤーを持つと、母さんが通りかかる。
「交代したの?」
「うん。今度は悠真だよ」
「二人とも、やってもらう時は嬉しそうね」
陽菜が僕の肩にそっと手を置いた。張り切った声で座らせたのに、髪を分ける指はゆっくりだ。僕も背筋を伸ばすのをやめて、陽菜に任せた。
「悠真、後ろまでちゃんとやってくれるもん」
「僕も、陽菜に髪やってもらうの好きだよ」
鏡越しに答えると、陽菜が口元を緩めた。
「じゃあ、今日もちゃんとやるね」
「うん、お願いね」
母さんが「終わったら片づけてね」と言って行く。
陽菜の指が、髪を分けるついでに耳の近くをかすめた。少しくすぐったくても、ちゃんと乾かしてくれているから動かずに待つ。
鏡の中で、陽菜は僕の後ろを真剣に見ていた。自分で乾かす時はこんなに静かに座っていられないけれど、今日は終わるまで待っていたい。
乾かし終えると、陽菜はドライヤーを置き、跳ねた前髪を押さえてから頭をぽんとなでた。
「はい、おしまい。きれいになったでしょ」
「もう一回、なでてよ」
さっきの陽菜のように頭を寄せると、陽菜が声を立てて笑った。
「悠真も?」
「陽菜もやってもらったじゃん」
「うん。いいよ」
もう一度なでる手は優しくて、つい頭を預けた。陽菜は急がずに待ってくれる。僕が顔を上げると、自分の頭も僕の手の下へ差し出した。
「私も、もう一回いい?」
「うん。こっちおいで」
さらっとした髪をなでると、陽菜は「えへへ」と目を細めた。さっき僕が頼んだのと同じ顔なのかなと思って、僕も笑ってしまった。
部屋へ戻り、二人で床を片づけた。
押し入れから敷き布団を出そうとすると、陽菜が反対側を持った。
「一人で持たないでね。私も持つよ」
「じゃあ、そっちお願いね」
二人で運んで、隣同士になるように広げた。掛け布団もそれぞれの上に置くと、陽菜が僕の方へ枕を渡してくれる。
「はい、悠真のだよ」
「ありがとう。陽菜のはここ?」
「うん。もうちょっと近くにして」
枕を並べ直すと、陽菜は満足そうに頷いた。
僕は先に布団へ座った。陽菜は鞄に手をかけたまま、しばらく動かなかった。
「どうしたの?」
「お母さん、もうホテルかな。いつも、この時間は家にいるから」
さっきまで僕の髪を直してくれていた陽菜が、鞄の持ち手を指でなぞっている。
「声、聞きたい?」
「うん」
母さんに頼んで電話を借りると、美紀おばさんは出てくれた。陽菜は今日のゲームの話をしてから、「明日、帰ってくるんだよね」と確かめた。
僕は隣で待った。ゲームの話をして笑っていた陽菜が、最後のおやすみだけ小さな声になる。まだ切りたくないのかなと思って、立ち上がらずにいた。
電話を返して戻ると、陽菜が僕のそばへ座る。
「悠真、そっち入ってもいい?」
「うん。こっち空いてるよ」
端へ寄って布団を持ち上げると、陽菜が隣へ入って僕の袖をつまんだ。触れた指の力が弱くて、さっきふざけて引っ張った時とは違う。僕も声を小さくして、次の言葉を待った。
「話せてよかった。でも、いないのは寂しいね」
「うん」
「悠真と泊まるのは楽しいんだよ。両方なの」
僕は頷いて、袖をつまむ手に自分の手を添えた。陽菜がすぐに笑わなくても、このまま話を聞いていたい。
「ここにいるよ。まだ話しててもいいよ」
「じゃあ、明日の話してほしいな」
僕も横になると、陽菜が枕を少し近づけた。髪先が手首に触れて、洗面所で嗅いだシャンプーの匂いがまたした。
さっきより小さな声でも聞こえる距離だった。僕も枕を陽菜の方へ寄せた。
「明日は私が起こしてあげる。悠真、寝坊しないようにね」
「お姉ちゃんだから?」
「そう。児童館、遅れたら困るでしょ」
「でも、僕が先に起きるかもね」
陽菜は僕の顔を見直して、袖をちょっと引いた。
「じゃあ、一人で下に行かないで、ここで起こしてね」
「さっき、起こしてあげるって言ってたのに」
「私が先なら起こすもん。どっちが先でも、ここでおはようって言いたいの」
つまんだ袖を少し引かれた。僕も顔を近づけて、わざと小さな声で答える。
「うん。ここで呼ぶよ」
「うん。約束ね」
陽菜が頷いて、腕の触れるところまで近づいた。温かさが伝わって、僕も明日の朝、最初に陽菜の顔を見たくなる。
陽菜は安心したように袖から手を離した。
その手が僕の手に当たる。指先は少し冷たかった。
「陽菜、手、冷たいね」
「布団から出してたからかな」
「ちょっと貸して」
差し出された手を両手で包む。指だけでなく、手のひらも柔らかくて、僕は握る力を少し緩めた。陽菜の方から指を添わせてくれると、そっと持っているだけでもちゃんと繋がる。
こうして預けてもらうと、温まるまで持っていてあげたくなる。陽菜も僕の手を見て、嬉しそうに笑った。
「あったかい」
「さっきまで布団の中に入れてたからね」
「じゃあ、私も一緒に入れとくね」
陽菜が繋いだ手ごと布団の下へ戻した。僕も手を離さずに、掛け布団を引き上げる。
「明日、優しく呼んでね。悠真の声、聞こえたら起きるから」
僕は顔を少し近づけた。
「陽菜。朝だよ」
「……うん」
陽菜が目を閉じて、眠たそうな返事をした。
それからすぐに目を開ける。
「今のがいいな」
「まだ夜だけど」
「練習! 私もやる。悠真、目、閉じて」
目を閉じると、繋いだ手をそっと握られた。次にどんな声で呼ぶのか楽しみで、寝たふりなのに笑いそうになる。
「悠真ぁ。起きて。一緒に行こ」
目を開けると、陽菜がすぐ前で僕を見ていた。
「もう起きたよ」
「早い。もうちょっと寝ててもいいよ」
「起こしたの、陽菜だろ」
「あ、そうだったね」
また二人で笑った。
部屋の戸が少し開いて、母さんが顔を出す。
「あれ? 同じ布団で寝てるの?」
「うん、暖かいから」
陽菜が答えて、布団の中で僕の手を握り直した。母さんは空いている隣の布団を見て、小さく息をつく。
「そう。おやすみ」
母さんに二人でおやすみと言うと、部屋の明かりが消えた。戸が閉まって、廊下の足音が遠くなる。
陽菜が動くと、僕の肩から布団が少しずれた。
僕が引き戻すより先に、陽菜の手が端を持ち上げる。
「悠真、出てるよ」
「ありがと。陽菜も、こっちかけてね」
反対側を直して陽菜の肩までかけると、陽菜も布団を押さえてくれた。
陽菜が少し寄ると、頬を髪先がくすぐった。顔をずらしたら、陽菜が止まる。
「近すぎた?」
「髪がくすぐったかっただけだよ。ここなら大丈夫」
僕が向きを変えると、陽菜も安心したように落ち着いた。くすぐったいからと、離れてもらわなくてよかった。
包んでいた手はもう温かい。僕が片手を離して枕の下へ戻すと、陽菜はもう片方の手を握り直した。温まったからおしまい、とはならないのが嬉しくて、僕も握り返す。
暗くても、手を少し動かせば陽菜が応じてくれる。顔がよく見えなくなっても、隣が遠くなった気はしなかった。
「悠真」
「何?」
「明日、飛行機、青にするんだよね」
「うん。陽菜は黄色?」
「うん。隣に並べようね」
「いいよ。できたら見せてね」
明日の約束をしても、今日はまだ手を離さなくていい。陽菜が満足したように息をついたので、僕も枕へ顔を戻した。
しばらくして、僕の手を握る力が少し緩む。
もう寝たのかなと思って顔を向けると、小さな声がした。
「悠真ぁ、おやすみぃ」
「おやすみ、陽菜」
「明日、起こしてね」
「うん、約束だよ」
陽菜の指が、もう一度だけ僕の指を握った。
僕も握り返してから、目を閉じた。