話の設定を詰める事に気を取られ過ぎていたのと、体制整備の見直しに思った以上に時間が掛かってしまいました。
少しずつですが、ここからまた進めていきたいと思います。
良ければ、これからもよろしくお願いいたします。
臭いは、川沿いに続いている。
昨夜、煙と共に消えた男の残した、腐った海の臭い。
人の鼻には届かない。
けれど、十年を超えて魔物の領土を駆け抜けて来た者には、道標のようにそれは濃かった。
日の傾いた河口の土手を下り、アルスは古い排水路の暗がりに足を踏み入れる。
地下深く構え立つ悪鬼の神殿の様な滑らかな石壁に、水音が木霊した。
足元の水が、奥へ行くほどに澱んでいく。
臭いが、変わった。
腐った海の臭いに、別のものが混じり始める。
アルスは足を止めた。
知っている臭いだった。
それを、旅の途中、魔物に襲われた村で何度も嗅いできた。
水路の奥の、広い空洞。
キャスターの姿は、ない。
月明かり一つ届かない様な暗がりの中で、アルスは、しばらく動かなかった。
闇の中を戦い抜いて来たその瞳には、この暗黒でさえ何も隠してはくれない。
ここに何があるのかも。ここで、何が行われていたのかも。
壁際に、並べられたものがある。
吊るされたものがある。
人の形を、もう留めていないものがある。
そして、そのいくつかはまだ息をしていた。
声にならない声が、闇の底でかすかに震えている。
死ぬこともできずに。
めらりと、アルスの内に、炎が灯った。
固く握り込んだ拳を、解く。
その手に、夜明けを掴む為に。
道具袋から取り出された柄の付いた結晶が、眠りから覚める様に揺らめき始める。
それは灯火の様に儚く、そして何よりも慈悲深い、澄んだ青の輝きだった。
柄を握る手が、それを闇の底の声へと差し向けた。
柔らかな光が、空洞の隅々まで満ちていく。
その灯りは、絶望を退ける不滅の灯火。
その灯火は、命の呼び声を繋ぐ楔。
その楔は、掌の上の奇跡。
それは、賢者の石と呼ばれる、奇跡の結晶。
祈りの言葉を持たずとも、ただそこに在るだけであらゆる生命に祝福を齎す、知の至高到達点。
無惨に弄ばれ、死の安息さえ許されずに声を上げるしかなかった命の形が、歪められた小さな身体が、ゆっくりとほどけていく。
引き伸ばされたものが縮み、捩じられたものが戻り、継ぎ合わされたものが元の形を取り戻していく。
光が収まったその時、冷たい床の上に、子供たちが横たわっていた。
五人。
小さな胸が、上下している。
一人が目を開けた。
焦点の合わない目が闇を彷徨い、それから、結晶に残る淡い光の中で、膝をついた青年の顔を捉える。
声は出なかった。
ただ、震える手が、伸ばされる。
アルスはその手を取った。
「……もう、大丈夫だ」
掠れた声だった。
それ以上は、何も言えなかった。
救えたのは、五人だった。
残る子供たちは光が触れても、もう応えなかった。
癒しは、生きている者にしか届かない。
アルスは立ち上がらなかった。
膝をついたまま、もう子供の形を留めていないものの一つ一つを、黙って見つめていた。
足音が、水路を近づいてくる。
二つ。
一つは重く、一つは軽い。
「おい坊主、明かりは灯すなと言うておろうが──」
「うるさい、暗くて何も見えないんだよ!」
小さな灯りが、空洞の入り口で揺れる。
掲げられたランプの光が濡れた石壁を伝って奥へ伸び、壁際に並ぶものの上で止まった。
「…ぇっ…なっ…!!?」
その光の輪が、細かく震え出す。
取っ手が指から抜け、灯りは床で一度跳ねて転がった。
ウェイバーが口を押さえ、背を向ける。
骸から目を逸らさぬまま、ライダーが少年の背に分厚い掌を置いた。
「……こんなものを見せられて、気分を悪くせん方がどうかしておる」
それから、空洞の奥へ目を向けた。
床に膝をついた、旅装の青年。
その傍らに寄り添うように身を縮めた、五人の子供たち。
「……アルス、か」
その声にも、振り返らなかった。
「ああ」
その目はとうに、頭上の闇に溶け込む影を捉えていた。
天井の暗がりから、黒い影が剥がれ落ちる。
乾いた音を立ててウェイバーの足元に転がってきたのは、黒塗りの短刀だった。
顔を上げた先で、仮面を着けた痩せた影がライダーの剣の下に崩れていく。
闇のあらゆる隙間から、同じ仮面が音もなく湧いて出た。
「アサシンか!」
後ずさるウェイバーの踵が、壁に行き当たった。
その目に、闇の奥で立ち上がった青年の背が映る。
剣は、抜いていない。
小さな体がいくつも身を寄せ合い、青年はただ、その子らと闇の間に立っていた。
「坊主、余の後ろから離れるな!」
ライダーの背が、少年の前を塞いだ。
ウェイバーの目が追いつく前に、短刀を構えた影が一体、また一体と塵に還っていく。
やがて、闇は動かなくなった。
最後の一体が消えた時、その仮面の奥の目が、ほんの一瞬、子供たちの前に立つ青年を見ていた。
天井から落ちる雫の音が、また聞こえ始める。
壁伝いに、ウェイバーの体が床まで沈み込んだ。
ライダーが剣を収め、その少年を見下ろしながら口を開く。
「でかしたぞ、坊主。水を汲んで、試薬を垂らして。誰もやらん下策から、誰も至れん答えに辿り着いた。それは、立派な上策よ」
ウェイバーの目が勝手に壁際へ戻った。
誰も至れん答え。
その先に並んでいたのが、あれだった。
大きな背が、何も言わずに少年の傍らを離れていく。
床に転がったままのランプを、ウェイバーは這うようにして掴み上げた。
掲げた灯りが、遠ざかる重い足音を追う。
その光の先で、亡骸の並ぶ前に戻った青年が、顔を上げずにいた。
灯りの縁で、巨漢の足が止まる。
「……間に合わなんだか」
「ああ」
アルスは目を伏せたまま答えた。
「生きていた子だけだ。それだけしか、届かなかった」
しばらく黙ってその横顔を見ていたライダーが、どっかと床に腰を下ろす。
「話を聞かせてもらおうか、旅の剣士よ。お主が、ここで何をしたのか。そして、まだ何をしようとしておるのか」
アルスが顔を上げた。
「……まだ、と言ったな」
「顔に書いてある」
ライダーは、笑わなかった。
「諦めた男の顔ではない」
【賢者の石】
柄の付いた、澄んだ青の結晶体。
掲げれば癒しの光を放ち、光の届く範囲にいる仲間全員の傷を癒す。
その光は傷口を塞ぐだけでは留まらず、損なわれた肉体ですら、その者の本来の姿へと再生させる。
勇者の世界の癒しの呪文が、炭化し失われた部位や凍り付き砕け散った四肢、叩き潰された骨や内側からの溶解を受けた臓物でさえ、元の肉体へと立ち返らせるのと同じ理である。
そのため、捩じ曲げられ、原型を留めぬほどに歪められた体であっても、命が尽きていない限り、元の形を取り戻す。
その癒しの輝きは、幾度用いても尽きることはない。
ただしそれは、マナの濃い神代にあっての話でもある。
マナの非常に薄い現代の環境では、再使用までには間を要する。
周囲から少しずつマナを汲み上げ、満ちれば再び灯火の様に仄かな輝きを揺らめかせる。