静かな生徒会室はパサリと紙をめくる音が支配している。窓の外は日が赤くなりつつあるが、まだ空は青く夜の帳が下りるまでの余裕があった。それでも部屋に落ちる影は少しずつ濃くなっていく。
シンボリルドルフは机の上に山積みにされた書類からふと目を離し、斜め向かいのソファで退屈そうに足を揺らしているトウカイテイオーを見据えた。彼女を迎えた時に入れた紅茶の湯気はすっかり薄くなってしまった。
「なあ、テイオー」
唐突に発せられたその低く厳かな声音に、トウカイテイオーは「ん?」と小首を傾げた。いつもの余裕を湛えた生徒会長の表情には、どこか思索の深淵を覗かせるような真剣さが宿っていた。
「どうしたのカイチョー。そんな真面目な顔して。もしかして邪魔しちゃったかな」
いや、とルドルフはゆっくりとかぶりを振る。
「ふと、とある思考実験が頭によぎってね。『世界五分前仮説』というものを知っているかい?」
「ごふんまえ……? 」
案の定といった様子で首を傾げるテイオーに、ルドルフは紅茶のカップをソーサーに置き、両手を組んで顎を乗せた。
「イギリスの哲学者が提唱した仮説さ。世界は今からちょうど5分前に、今の記憶や記録がすべて揃った状態で、突然創造されたかもしれないというものだ。……例えば、私たちがこうして言葉を交わし始めてから、すでに10秒ほどが経過した」
「うん。カイチョーが話し始めてからそれくらいは経ってるはず」
「だがここで疑問が生じる。私たちが今経験しているこの10秒は、『5分前に創造された世界から、10秒が経過したもの』ではないかもしれないとしたらどうだ?」
「……? どういうこと?」
テイオーはスナック菓子を漁る手を止めて、パチパチと目を瞬かせた。ルドルフは静かに言葉を継ぐ。
「つまりだ。今この瞬間も、私たちの脳内には『10秒前に会話を始めた』という記憶が精巧にインストールされた。だが実際の世界の始まりそのものは、過去の10秒を含めて……いや、まさに今この瞬間から数えて、ちょうど5分前に創造されたものなのだとしたら?」
「ボクがさっきからスナック菓子を食べ散らかしていた記憶も、カイチョーが書類を読んでいたことも、ぜーんぶ『今この瞬間に、そういう設定として一斉に発生した』ってこと?」
「そうだ。私たちは過去から連続して生きているのではなく、この瞬間ごとに『過去の記憶を持ったまま』新しく創り出され続けているかもしれない。まるで……そうだな、一枚一枚の絵が独立して描かれている『紙芝居』のようにね」
ルドルフの言葉に、テイオーは思わず身を乗り出した。彼女の瞳に、わずかな戸惑いと、好奇心が混ざり合う。
「紙芝居の絵と絵の間には、物理的な連続性など存在しない。絵描きが次のページを描くのをやめてしまえば、私たちの物語はそこで永遠に途絶える。加えて続きを描き続けてもらえるのかどうかすら、私たち自身には知る術がないのだよ」
「今朝食べた朝食の味も、昨日行ったトレーニングの疲労感も、すべて5分前の世界誕生と同時に『そうであった記憶』として脳内に直接書き込まれたものだとしたら?」
「私が無敗で三冠を達成したことも、その後に七冠を達成したことも。テイオー、君が怪我から奇跡の復活を遂げたことも。全ては何者かの意思によって構成された要素だとしたら」
ルドルフは静かに発したその言葉の裏側で、思考の海に沈んでいた。自分たちの足元にあるはずの地面が、突然透明なガラス板になり、底知れぬ暗闇が広がっているような、そんな得体の知れない不安感が部屋の温度を下げた様な気がした。
「そういう思考実験だと分かっていても気分のいいものじゃないね。今まで積み上げてきたあれこれを全部無視して結果…というより設定だけが今ここにある」
普段ルドルフと会話する時には見せない様な表情を浮かべながらテイオーはふーふーと紅茶を冷ましてから口に含んで続けた。
「でもその何が問題なの。たとえ5分前にできた世界だとしてもさ、今のボクが本物ならそれでよくない?」
「……『今の自分』か。では、こう言い換えたらどうだろう。世界が5分前に始まったのだとすれば……世界は今から5分後に、突然『消滅』するのかもしれない」
「え……?」
「私たちが積み重ねていると思っているこの『今』は、過去から未来へ続く一本の線ではなく、単に5分間だけ再生されては廃棄される、使い捨ての断片に過ぎないとしたら? 次の5分後には、私と君の記憶はすべてリセットされ、まったく別の設定、まったく別の会話をする存在として『新しく5分前に生み出される』のかもしれない」
部屋の隅で、カチ、と時計の針が音を立てた。
「君が私に憧れているというその強い感情も、次の5分後には『存在すら知らなかった』という設定に上書きされているかもしれない。君が走る未来も、掴み取る栄光も、永遠に訪れることはない。私たちはただ、どこかの誰かが用意した5分間の箱庭の中で、さも連続した人生を生きているかのような錯覚を演じさせられているだけ……」
「そんなの……っ!」
「そんなの理屈じゃないか! ボクはここにいる! カイチョーもそこにいる! 5分後に消えるとか、記憶が消えるとか、そんなの証明できないただの意地悪な妄想でしょ!?」
テイオーの叫びは、静かな室内に虚しく響いた。
ルドルフは咎めることもなく、ただ静かにテイオーを見つめ返している。その瞳には、怒りも、否定も、あるいは納得すらも映っていない。
「そうだな。証明はできない。……だが、否定もできないのだよ、テイオー」
「君のその怒りも、その情熱も……すべては『そう反応するように精巧にプログラミングされた5分前の設定』ではないと、君自身どうやって確信を持つのだ?」
「……っ」
「そして、誰もその真偽を確かめることはできない。過去を証明できない以上、私たちが信じる未来の存在すら怪しくなっていくのだよ」
「…さっき私は『世界が5分後に消滅するかもしれない』と言ったが別の可能性もある。今この瞬間に、私が『別の言葉』を喋っていた世界の分岐が存在し、それが一瞬で捨てられたかもしれないということだ」
「なぜか私は、自分が今口にした言葉とは違う別の言葉を言いかけたような、強烈なデジャヴを感じることがある。まるで、誰かが提示したいくつかの選択肢の中から、今の会話が選ばれたかのように……」
時計の針の音か、紙をめくる音か、会話の間の数舜を引き延ばすように曖昧な乾いた音が響く。
「…それはボクも」
「レースで限界を超えて走ってる時……自分の足で走ってるのに、『誰かに背中を押されている感覚』とか、『いろんなコースで走った結果』が急に思い浮かんでその中で一番よかった進路を進んでみたら本当にその通りなったなんて不思議な経験があるよ」
「それが神様のお告げなのか、ボクの才能なのか、それともカイチョーの言う『絵描きさん』の仕業なのかは分からないけどさ…」
ルドルフはゆっくりと立ち上がり、窓辺へと歩み寄った。柔らかい色の太陽が、彼女の背中に黒い影を落とす。
(もしも……本当にこの物語の続きが、これ以上描かれないとしたら?)
(ゲームの周回のように、あるいはセーブデータを読み込み直すように、都合のいい結果が訪れるまで、私たちが何度も同じ時間を繰り返させられているのだとしたら? それとも、誰かの気まぐれな創作の中で、ある日突然『完結』という名の断頭台に立たされるのだとしたら――?)
言葉には出さない。出せない。だが、目の前のトウカイテイオーという少女の小さな肩が、わずかに震えたように見えたのは気のせいだろうか。私やテイオー…いや、この世界の存在そのものが誰かの筆の先、あるいは指先のタップひとつに委ねられたあまりにも儚いフィクションの産物なのではないかという可能性が夕闇のなかで輪郭を帯びていく。
「……ねえ、カイチョー」
しばらくの沈黙の後、テイオーはかすかに声を震わせながらも、ふっと不敵に笑った。彼女はぐっと両拳を握り締め、ソファから勢いよく立ち上がる。
「もし本当にボクたちの続きがどうなるかなんて誰にも分からなくて、この世界がいつだって5分間の幻かもしれないとしてもさ」
ルドルフは静かに見守る。テイオーは迷いのないまっすぐな瞳で、自分の足元の床をしっかりと踏みしめた。
「そんなの、関係ないや!」
「ほう?」
「だってさ、ボクが初めてカイチョーのレースを見て、背中を追いかけて学園に入学して、『この先のレースで絶対勝ってやるんだ』って思ってるこの気持ちは、たとえ5分前に作られた設定だとしても、ボクにとっては絶対に嘘偽りのない本物だもん! 紙芝居の続きが描かれるかどうかなんて、絵描きが決めることかもしれないけどさ……」
テイオーは胸を張りどこまでも眩しい笑みを浮かべて見せた。
「ボクたちが今この瞬間をどう走るかは、ボクたちが決めるんだ。未来があるかないかビクビク怯えながら立ち止まるなんて、誰かが描いたシナリオに従うなんて、そんなのウマ娘らしくないよ!」
その頼もしい宣言を聴き、シンボリルドルフの端正な顔に、誇らしさを湛えた笑みが広がった。彼女もまたゆっくりとテイオーの隣に並び立つ。
「流石は自慢の後輩だ。そうだな、世界がどれほど曖昧な虚構の上に成り立っていようとも、未来のページが白紙である恐怖に足がすくもうとも、私たちが今、この瞬間に全霊を賭けて生きるという選択は誰にも奪えない」
ルドルフは夕暮れの空の向こう、まだ見ぬターフの彼方へと視線を向けた。その眼差しは世界の仕組みそのものに挑むかのように、圧倒的な光を放っている。
「たとえこの会話の続きがどこにも描かれないとしても、私たちは今この瞬間の輝きを永遠に変えることができる。私たちの物語のページを、私たち自身の足跡で染め上げることができる」
「こうしてはいられないな。テイオー、久しぶりに併走でもどうかな?」
「ほんと!?やるやる!」
曖昧な世界の果てで、ふたりの足音は重なり合い、鮮烈な響きとなって夕闇を切り裂くように駆け抜けていった。その物語がこの先どこへ向かうのか。
それを知る者は誰もいない。だが、彼女たちが今を全力で生きているという熱量だけは、紛れもない現実として確かにそこに存在していた。
残された生徒会室。すっかり冷めきっていたはずの紅茶から、ふわりと小さな湯気が立ち上がる。
誰もいない部屋に響く乾いた音。
それは本当に、時が過去から未来へと流れることを告げる時計の針の音だっただろうか。
それともあなたが今、画面をスクロールして次のページをめくった音だっただろうか。
あなたがこの文章から目を逸らしたその瞬間、彼女たちの世界はまた、静かに『次の5分前』を再構築し始める…かもしれない。
テイオー「世界五分前仮説?」あとがき・解説
本編をお読みいただきありがとうございます。
本作は「世界五分前仮説」という哲学的な思考実験と、メタフィクション要素を題材にした短編SSです。
作品の背景や作中に忍ばせた演出について、少しだけあとがきとして触れさせていただきます。
■ 企画の経緯とテーマについて
「もしも彼女たちが、自分たちの世界が誰かの指先や一画面の中で完結している『虚構』だと気づきかけたらどうなるか」というテーマから着想を得ました。
作中において、彼女たちを見つめる「見えざる何か」の気配を不気味さとして漂わせつつも、最終的には「たとえ作られた世界や設定だとしても、今自分たちが抱く情熱は本物だ」というテイオーたちの答えに辿り着いてもらいました。
理論や仮説をどれだけ突きつけられても、自分の足でターフを駆けるウマ娘としての強さと気高さを描けていれば幸いです。
■ 作中の「違和感」と不整合について
本作では「世界が5分前に突如再構築された痕跡」として、以下の描写の不整合を意図的に仕込んでいます。
・冷めきっていたはずの紅茶を「ふーふー」と冷まして飲むテイオー
・刻一刻と過ぎる会話に対して、ズレた太陽の描写
これらは誤字や設定ミスではなく、「今この瞬間、上書きされた世界」のバグとして入れた演出となります。
読者の皆様に、少しでも「何かおかしいぞ……?」という違和感や不気味さを楽しんでいただけていれば嬉しいです。
長くなりましたが、最後までお付き合いいただきありがとうございました。