目を覚まして最初にしたのは、右肩の確認だった。
古い輸送箱の蓋を持ち上げると、朝の冷たい空気が白い外装を撫で、通りの向こうから配送車の走行音が聞こえてきた。まだ広場の受付が始まる前らしく、工具を運ぶボンプの足音も少ない。俺は身体を起こして左手を右肩へ回し、昨夜取り付けた薄い保護板に触れた。
外から見える範囲は何も変わっていない。欠けた肩口に新しい傷もなく、保護板の固定具も緩んでいなかったが、昨日の関節部品を近づけたときの感覚だけは、妙に鮮明に残っていた。
部品を掴もうとしたのは俺ではない。少なくとも、そんな命令を出した覚えはなかった。
「NnnA……。(……朝になったら勝手に腕が生えてる、なんてことはないか)」
あっても困る。そもそも俺が望んでいるのは、普通に使えて、必要なら止められる右腕なのである。
「ンナ。(おはよう)」
箱の入口からワナビーが顔を覗かせた。両腕に昨日の部品箱を抱え、頭の上には運搬用の紐まで掛けている。黄色い外装には朝日が薄く差し、顔面表示には今日の予定が大きく映されていた。
《午前 TURBO》
《右肩の検査》
《可能なら右腕の取り付け》
《午後 広場の仕事》
「NnnA。(……最後の予定、ちょっと欲張りじゃない?)」
「ンナ。(可能なら)」
「NnnA。(便利な言葉を覚えたなあ)」
ワナビーは悪びれずに頷き、箱を床へ下ろした。その側面には《未検査・接続禁止》と書かれた札がまだ貼ってある。昨夜から一度も開けていないらしく、封印代わりの細いテープもそのままだった。
俺が無茶をしないよう見張っているつもりなのかもしれない。もっとも、今のところ無茶をする気は、見張られている本人にもなかった。
*
広場では、グレイが今日の予約を整理していた。
背中のライドセルはまだ試験中なので、必要なとき以外は通訳を切ってある。彼は端末の画面を確かめながら、古い台車を通路の邪魔にならない位置へ移していたが、こちらの部品箱に気づくと、嬉しそうに耳を動かした。
「ンナーナ。(いよいよ自分の番だねえ、ナロー。何だか僕まで楽しみになってきたよ)」
「NnnA。(まず検査だからね。付けられるかどうかも分からないよ)」
「ンナナ。(そのために腕のいい職人さんのところへ行くんだろう? せっかくだから、ちゃんと相談しておいで)」
グレイはそう言って、受付記録をこちらへ向けた。今日の修理依頼はいくつかあるが、急ぎのものには確認の連絡を入れ、すぐに判断できない仕事は俺が戻るまで預からないことにしたらしい。使用できる部品の一覧も整理され、ライドセルについては長時間の使用を避ける注意書きが追加されている。
「NnnA。(……俺がいなくても、だいぶ仕事が回るようになったね)」
「ンーナ。(そりゃあ、受付と帳簿は僕たちの仕事だからねえ。修理まで任されちゃ困るけど、できることまで君一人で抱えなくていいんだよ)」
昨日のビリーが、専門家に頼れるなら頼ればいいと言っていたのを思い出した。あの人は全身が機械なのに、自分の身体について随分と肩の力が抜けていた。俺も、修理屋だからといって自分を修理できなければならないわけではないのだろう。
「ンナ。(行こう)」
ワナビーは部品箱を台車に載せ、もう出発する気になっていた。俺が取っ手を左手で掴むと、彼女は反対側へ回り、丸い手でそっと支えてくれる。
通りへ出ると、六分街はちょうど店を開け始める時間だった。シャッターの上がる音が路地に重なり、惣菜を揚げる油の匂いがまだ湿った舗装の上を流れている。配送用のボンプが荷物を積んだ車を押して横を通り過ぎたので、こちらも端へ寄って道を空けた。
そのとき台車の車輪が段差に引っ掛かり、取っ手がわずかに傾いた。俺は左手だけで持ち直そうとしたが、反対側を支えていたワナビーが先に角度を直してしまう。
「NnnA。(……ありがとう。こういうときは、やっぱり腕が二本あると便利だな)」
「ンナ。(だから直す)」
答えに迷う余地のない言い方だった。
*
カスタムショップ「TURBO」の店先には、削りたての金属の匂いが漂っていた。
エンゾウさんは奥の作業台で小型ボンプの脚部を調整していたらしく、俺たちの姿を見ると工具を置き、まずワナビーの荷物を、それから俺の右肩を眺めた。
「おう、ナロー。そろそろ来る頃だと思ってたぜ。……なんだ、ずいぶん部品を集めたな」
「ンナッ。(腕!)」
ワナビーが部品箱を持ち上げると、エンゾウさんは笑ったものの、側面の注意札を見た途端、表情を少し改めた。
「未検査、接続禁止か。いいじゃねえか。どこが悪いか分からねえうちに付けるより、ずっとましだ」
俺たちは店の奥へ案内され、昨日の出来事を端末にまとめて見せた。ライドセルへ組み込んだ微小触手が電源を切った状態で動いたこと、右肩へ関節部品を近づけた際にも似たような反応があったこと、そして俺自身はどちらも命令していないこと。詳しい原理については、未だに説明のしようがない。
エンゾウさんは文章を最後まで読むと、機械義手で顎を撫でながら俺の肩を見た。
「ふうん。お前さんの触手が変わってるのは知ってたが……勝手に動くってのは話が別だな。今日はまず、部品を近づけるところからだ。何か動いたら、すぐやめるぞ」
《お願いします》
《危険なら腕の取り付けは諦めます》
「そこまで決めてるなら話は早え。じゃあ、肩を見せてくれ」
作業台へ上がり、右肩の保護板を取り外した。中には古い接続端子らしい金属の輪と、それを取り囲む細い黒い筋が残っている。普通のボンプの部品と違うのかどうかさえ、今の俺には判断がつかない。何度か自分で調べようとしても、触手を近づけた途端に内部の形が分かりすぎるような感覚が生じ、かえって不安になって止めてしまった場所だった。
エンゾウさんは照明を近づけ、検査具で周囲の絶縁状態を確かめた。金属の輪を触ろうとする前に、必ず俺へ端末を向けて確認してくれる。
「これ、もともと付いてたのか?」
《目覚めたときから、この状態でした》
《構造も製造元も分かりません》
「そうか。規格番号も読めねえな。……なら、普通の腕を差し込んで試すのはなしだ」
彼は即座に結論を出した。ワナビーの集めた関節部品には、いくつか汎用の接続具が付いていたが、肩の奥に見える輪とは寸法も端子の位置も合わないらしい。合わせるために無理に削れば、元の機構まで傷める可能性があるという。
「外装の丈夫なところだけ使って、別の腕を載せる方法はある。ただ、その前に昨日の反応を見せてもらわねえとな」
エンゾウさんは小さな検査台を用意し、ワナビーの箱から問題の関節部品を選んだ。最初に近づけたのは絶縁材で覆った検査棒で、こちらは何の反応も起こさない。次に別の金属部品を持ってきたが、それにも変化は見られなかった。
「NnnA。(……昨日は、もっと大きく動いたんですけど)」
《昨日は肩の奥から接続部が伸びかけました》
「再現しねえなら、それも記録だ。焦って奥まで突っ込んだりするなよ」
そう言われて、俺は大人しく頷いた。
最後に、昨日と同じ関節部品を台へ固定し、右肩の近くへゆっくり滑らせる。一定の距離まで寄ったところで、肩の奥へ細い振動が伝わってきた。
右腕がない場所に、何かを掴もうとする感覚が生まれる。俺は咄嗟に作業台の縁へ左手を置いたが、触手を動かそうとはしていない。それなのに、外装の奥で黒い筋の一本が伸び、関節部品へ向かって先端を持ち上げた。
「NnnAッ!(……それです!)」
エンゾウさんはすぐに台を引いた。距離が開くと筋は引っ込み、肩の奥の振動も消えたが、ほんの少しの間だけ、触れ損ねた部品の輪郭が頭の中へ残っていた。
実際には接触していない。なのに、あの部品の中がどうなっているのか、分かりかけたような気がしたのである。
「……こりゃ、確かに普通じゃねえな」
エンゾウさんはしばらく口を閉ざし、試験台と俺の右肩を交互に見ていた。興味がないはずはない。彼は珍しい部品や妙な改造を見ると、つい詳しく調べたくなる人だ。それでも、もう一度近づけてみようとは言わなかった。
「今の動きはお前さんの指示じゃねえんだな?」
《はい》
《止めようとはしましたが、動かそうとはしていません》
「分かった。なら、これは腕を付けるための端子には使わねえ。原因も分からねえうちから利用するのは危なすぎる」
ワナビーが箱から小さな接続環を取り出し、外装の縁へ重ねる仕草をした。
「ンナ。(外側なら?)」
彼女の考えを端末に書き込むと、エンゾウさんはしばらく接続環を眺め、それから工房の隅に置いてあった紙へ図を描き始めた。
「……なるほどな。中の端子には触らず、外側の固定具で支えるってことか。悪くねえ。ここの外装には荷重を受けられる骨組みがあるから、台座を作ればいけるかもしれねえ」
図には右肩を囲う輪が描かれ、そこへ別の台座と腕を取り付ける線が伸びていた。制御信号は未知の端子から取るのではなく、俺の機体に残っている保守用の入出力口を使う。出力の上限を決める制御基板と、腕だけを止める非常停止装置も必要になるらしい。
「要するに、元の腕を直すんじゃねえ。お前さんが安全に使える別の腕を、外から取り付けるんだ」
「NnnA。(……外側から、ですか)」
「そうだ。分からねえ中身を全部直さなくても、今困ってることは解決できるかもしれねえだろ?」
俺は肩の奥へ意識を向けた。あの金属の筋が何をしようとしているのかは、やはり分からない。だが、それを調べることと、右手で台車を押せるようになることは、別の仕事なのかもしれなかった。
ワナビーは俺を見上げ、まだ箱に入っている部品へ丸い手を添えていた。
「ンーナ?(試す?)」
「NnnA。(……うん。でも、嫌な反応が出たらすぐ止めよう)」
「ンナ。(もちろん)」
*
まず、予算の話になった。
俺たちの広場には、まだ十分な運営費がない。二週間の試験利用料として八千ディニーを払ったばかりだし、正式な電源設備も設置できていない。特注の部品を揃えるとなれば、腕一本のためにどれだけ金がかかるか分からなかった。
「NnnA。(……やっぱり、今は厳しいかな)」
そう考えながら端末へ書こうとすると、ワナビーが先に別の帳簿を開いてみせた。
《ナロー右腕用》
《共同運営費とは別会計》
《購入品・譲渡品・加工許可確認済み》
「NnnA。(……これ、いつから分けてたの?)」
「ンナ。(前から)」
そういえば彼女は、広場の問題が片付いたら右腕を調べようと、ずっと言っていた。俺が仕事を続けるための費用だと考え、修理の報酬から少しずつ取り分けていたらしい。もちろん、勝手に全額を持ち出したわけではなく、グレイと確認した記録も残っている。
俺自身は不便に慣れてしまっていたのに、ワナビーは慣れるつもりがなかったのだ。
「おいおい、自分の腕に掛ける金まで遠慮してんのか?」
帳簿を覗いたエンゾウさんが、呆れたように笑った。
「修理屋なら、客が自分の道具を整備するのを止めたりしねえだろ。お前さんの身体だって、仕事に使う大事な道具じゃねえか」
《それは、そうですけど》
「それに、こいつはちゃんと別に貯めてきたんだろ。だったらまず見積もりを見てから決めりゃいい」
エンゾウさんは使えそうな部品を並べ、加工が必要な箇所へ印を付けていった。台座の素材と工賃、店にある中古部品の費用を計算し、ワナビーの持ってきた部品で代用できるものは見積もりから外してくれる。
安いとは言えない。それでも、積み立てた金の範囲へ収まっていた。
「ンナ。(足りる)」
「NnnA。(……本当に?)」
「ンナ。(確認した)」
彼女は見積書をもう一度俺へ見せた。数字に嘘はなく、広場の共同資金から借りる必要もない。それでも迷っていると、エンゾウさんが作業台の横に椅子を引いてくれた。
「どうする? 無理にとは言わねえぞ」
俺はしばらく考え、それから頷いた。
《お願いします》
《動作が危険なら途中でも中止してください》
「ああ。そのために検査するんだ。じゃあ、始めようか」
作業が始まると、俺には思ったほど出番がなかった。
ワナビーは使う部品を順番に揃え、寸法と費用を記録していく。俺は指定された場所だけ触手で加工を手伝ったものの、途中で少しでも形を変えすぎそうになると、エンゾウさんから止められた。
「おっと、そこは残せ。見た目は綺麗になっても、肉が薄くなったら折れちまう」
「NnnA。(……はい)」
金属をなだらかに繋げられるからといって、必要な厚みまで削っていいわけではないらしい。触手で触れた部分の細かな構造が分かるような感覚は便利だが、長い間荷重が掛かる部品の安全性まで、その場で保証できるとは限らない。
ある程度まで台座が形になると、エンゾウさんは俺を作業椅子へ座らせ、外装に固定具を仮止めした。肩の奥にある未知の機構からは距離を取り、直接触れる部品とそうでない部品を一つずつ確かめる。その間、俺は動かないようにと言われているのに、つい作業台の上の工具へ目を向けてしまった。
「ンナ。(じっとする)」
「NnnA。(……いや、何か手伝えることがないかなって)」
「ンナ。(今は、待つ)」
ワナビーに椅子の脇を軽く叩かれ、俺は大人しく座り直した。
修理される側は、どうも落ち着かない。自分の身体の一部について話しているのに、何ができるか分からず、二人の手元を見ているしかないのである。俺のところへ来るボンプたちも、作業台の上では同じような気分だったのかもしれない。直せるかもしれないと言われることと、本当に安心して身体を預けられることは違うのだ。
「NnnA。(……エンゾウさん。ひとつ聞いてもいいですか)」
俺が端末を向けると、エンゾウさんは加工機を止めて顔を上げた。
《原因の分からない故障を持ち込まれると》
《困りませんか》
「困るさ。分からねえものは困るに決まってる」
あまりに即答だったので、俺は思わず顔を上げた。
「だが、どこまで分かってるかを調べるのも仕事だ。無理なら無理だと伝えるし、別の方法があるなら考える。……ほら、今だってそうしてるだろ」
エンゾウさんは右肩を囲む台座を軽く叩き、続きを話した。
「直ったことにして誤魔化すのが一番まずい。客は、俺たちの『分からねえ』も含めて、判断しなきゃならねえんだからな」
俺は何も言わずに頷いた。胸の奥に見知らぬものがあるような気分は消えなかったが、少なくとも、今こうして座っている意味なら分かる気がした。
*
昼を過ぎた頃、外付けの台座の仮組みが終わった。
白い外装の欠けた部分を囲うように灰色の金属環が取り付けられ、その先には独立した制御基板と小さな切り離し機構が収まっている。新しい腕が重さを掛けても肩の内部へ直接伝わらないよう、荷重は外装の骨組みへ分散される構造だった。
最初に取り付けたのは腕ではなく、軽い試験用の棒だった。
「よし。まずは動かそうとしてみな」
エンゾウさんの指示に従って意識を向けたが、棒はぴくりとも動かなかった。
「NnnA。(……動かないです)」
《反応がありません》
「そりゃそうだ。まだ制御を繋いでねえ。最初から動いたら困るだろ?」
そんな初歩的な確認をしたあと、エンゾウさんは保守用の端子から送る信号を少しずつ有効にした。棒はゆっくり回転し、指示した角度で止まる。停止操作を行えば即座に動かなくなるし、外装を軽く揺らしても勝手に向きを変えることはなかった。
問題が起きたのは、三度目の試験だった。
試験用の棒を可動域の端まで動かしたとき、仮止めした台座が負荷でわずかに傾き、金属の接続部が肩の奥へ近づいた。すると、そこに残る黒い筋が膨らみ、棒とは反対の方向へ伸びかけた。俺は反射的にそれを抑えようとしたが、こちらが力を込める前に、目の前の棒を取り込みたいような感覚が広がる。
「NnnAッ!(止めてください!)」
エンゾウさんが非常停止を押す。棒の動きは即座に止まり、彼が台座を元の位置へ戻すと、肩の奥の反応もゆっくり収まった。
ただし、非常停止が効いたのはあくまで外付けの機構だった。俺の内側にあるものまで止めたわけではない。
「……やっぱり、こっちには反応しやがるか」
エンゾウさんは息を吐き、接続部の間隔を測り直した。
「すぐ取り付けるのはやめだ。もう少し隙間を取って、間に覆いを増やす。中のものが何をしようとしてるのか分からねえ以上、届かせないようにするしかねえ」
その後は固定具の位置を変え、機械的に届かない場所へ台座を移した。絶縁材の厚みを増すだけでなく、もし内部の筋が再び伸びても、腕の駆動部へ入り込めないようにしたのである。
再試験では肩の奥にわずかな違和感が残ったものの、伸びかけた黒い筋が外の機構へ届くことはなかった。何度か停止を試しても、腕側の制御は正常に切り離される。
「……よし。今できるのはここまでだな」
エンゾウさんは記録を残してから、俺を見た。
「ただし、これで中身の問題が直ったわけじゃねえぞ。外側を使えるようにしただけだ。少しでも変だと思ったら、すぐ止めて持ってこい」
《分かりました》
右肩の奥には、昨夜と同じ得体の知れない感覚が残っていた。それでも、そこへ触れなくても腕を付けられる方法があるのなら、今はそれで十分だと思いたかった。
エンゾウさんが持ってきた右腕は、正直なところ、見た目があまり揃っていなかった。上腕には古い作業用機の駆動部が使われ、前腕の外装は少しくすんだ灰色で、肘には補強金具が見えている。左腕の白い外装と並べると、誰が見ても後から付けたと分かるだろう。
ただし、右手だけは妙に立派だった。店に残っていた古い精密作業用の機構を転用したらしく、丸い通常型の左手とは違い、小さな五本の指を一本ずつ動かせる。
「ンナ……。(指、多い)」
ワナビーが自分の丸い手と右手を見比べたので、俺も改めて眺めてしまった。
「NnnA。(……何だか俺だけ、変な方向に進化したみたいだな)」
「お前さんが細かい修理をするって聞いたからな。中古だが、使えるもんを選んだんだ。もっとも、制御できなきゃ意味はねえぞ」
そう言いながら、エンゾウさんは腕を取り付け、最初に出力制限と非常停止を確かめた。それから肩、肘、手首、五本の指の順に、ごく小さな動きだけを試していく。
「じゃあ、人差し指だけ上げてみな」
俺は新しい右手へ意識を向けた。
最初に動いたのは手首だった。少し遅れて肘が曲がり、指は最後になってから一本だけぎこちなく持ち上がる。思いどおりに動かせず戸惑っていると、エンゾウさんは制御の対応を調整し、同じ動きをもう一度試すよう促した。
今度は人差し指が先に動いた。そのままほかの指も開いてみると、まだ時間はかかるものの、五本とも一応は命令に従う。
指を曲げて、開く。ほんのそれだけのことが、どうにも面白かった。
「NnnA。(……本当に動くんだな)」
「当たり前だろ。金も時間も掛けて作ってるんだからよ。……とはいえ、最初は軽い物だけにしとけ」
差し出された小さなネジを取ろうとして、俺は早速失敗した。右手の指が想像以上の速さで閉じ、ネジが作業台の向こうへ弾け飛んだのである。
「ほらな。今の出力で重い物を握ったら、先に腕の方が傷むぜ」
「NnnA。(……すみません)」
ワナビーが床へ降りてネジを拾ってくれた。戻ってきた彼女は、何も言わずに俺の右手と部品を見比べ、端末へ《練習が必要》と記録している。
「NnnA。(……そんなにはっきり書かなくても)」
「ンナ。(必要)」
そのとおりなので言い返せなかった。
何度か試すうちに、少なくとも工具の柄を握って持ち上げるくらいはできるようになった。握力を指示しているつもりでも、実際には関節がどれくらい押し返されたかという情報だけが戻ってくる。それでも、新しい右手で工具を持ち、左手の丸い先端で反対側を支えられることが、思いのほか嬉しい。
これまでずっと、細かな仕事には触手を使えばいいと思っていた。今でも、それが一番器用な手段であることは変わらない。だが、普通の工具を普通の腕で持ち上げるだけで、こんなに喜んでしまうとは思わなかった。
「ンーナ?(ナロー、どう?)」
顔を上げると、ワナビーが右手の前へ進み出ていた。
「NnnA。(……まだ上手く使えないけど、いい感じだよ)」
彼女は少し考えてから、小さな丸い手をこちらへ差し出した。
「ンナ。(握手)」
「NnnA。(……待って。さっきネジを飛ばしたばかりなんだけど)」
「ンナ。(弱く)」
「NnnA。(それが難しいんだって)」
やり取りを聞いていたエンゾウさんが、指の出力上限をもう一段下げてくれた。
「ゆっくりやってみな。無理に握らなくていい。触れるだけでも十分だろ」
俺は右手を伸ばし、ワナビーの丸い手の側面へそっと触れた。硬い外装に接したことは、指の付け根へ返ってくる小さな抵抗で分かる。人間の肌に触れたような温かさはないし、以前の左手と同じ感覚でもない。それでも、こちらが手を差し出すと、彼女は当たり前のように受け止めてくれた。
今まではいつも、ワナビーが俺の左側へ回って手を取っていた。右へ並ばれると身体ごと向き直らなければならなかったが、これからは、そうしなくてもいいのだろう。
「ンナ……。(よかった)」
ワナビーの耳がわずかに持ち上がった。
「NnnA。(……うん。ありがとう)」
彼女はそれ以上何も言わなかった。ただ、もう一度だけ右手へ自分の手を重ねてから、満足そうに離した。
*
店を出る前に、エンゾウさんは腕の停止操作と取り外し方を改めて教えてくれた。
この腕は、右肩の奥に残る正体不明の端子には繋がっていない。外装に付けた台座が荷重を支え、保守用の端子から渡した信号で動いている。制御系の電源を切れば腕だけが止まり、機械的な留め具を外せば本体から切り離せる。未知の肩内部については、何も直していない。
「今日のところは重いものを持つな。長く動かし続けるのもなしだ。熱が上がったり、勝手に動いたり、妙な抵抗が出たりしたらその場で止めろよ。分かったな?」
《分かりました》
《ありがとうございました》
「礼を言うのはいいが、点検に来るのも忘れるなよ。ちゃんと使えて初めて修理完了だ」
エンゾウさんは見積もりに記されたとおりの代金を受け取り、最後に灰色の外装へ目を向けた。
「色はそのうち揃えてやってもいいぞ。白い身体に片腕だけ灰色だと、ずいぶん目立つだろ」
俺は右腕を持ち上げた。左より少し長く、関節の金具も見えているが、これはこれで悪くない気がする。
「NnnA。(……しばらくは、このままでいいです)」
《この色で、しばらく使ってみます》
「おう。気に入ったんなら、それでいいさ」
帰り道では、台車の取っ手を両側から支えられるようになった。ただし、新しい右手で強く握りすぎると、取っ手の樹脂が軋む。最初の曲がり角でそれに気づき、慌てて力を緩めると、ワナビーが呆れたように耳を揺らした。
「ンナ。(練習)」
「NnnA。(分かってる。……でもさ、両手で押せるの、結構いいな)」
ワナビーは頷き、台車の反対側へ自分の丸い手を添えた。以前と同じように手伝ってもらっているだけなのに、俺には少し違った景色に見えた。
広場へ戻ると、修理を待っていたボンプたちが真っ先に右腕へ目を向けた。ワナビーが《ナローの腕、完成》と表示してしまったので、俺の方から説明する暇もなく、小さな人だかりができる。
「ンナナッ!(腕がある!)」
「ンーナ!?(五本も動くの?)」
「NnnA。(まだ慣らし運転中だから、触らないでね)」
右手をそっと開いてみせると、周囲から面白がるような電子音が上がった。俺が思っていた以上に珍しい姿らしい。横ではワナビーが誇らしげに部品の調達記録を見せ、あの緑色の元倉庫勤務のボンプが、まずは接続部の荷重を確認しろと念を押していた。
少し遅れて顔を出したグレイは、俺の右腕を見るなり穏やかに笑い、受付端末へ何か書き込んだ。
《ナロー 右腕の慣らし運転中》
《重作業・精密作業は当面お断りします》
「NnnA。(……そこまで書く必要ある?)」
「ンーナナ。(あるとも。腕が付いたからって、君はすぐいつもどおり働こうとするだろう?)」
否定できなかった。
グレイはそのまま予約表を開いたが、途中で別の通知が届いたらしく、耳の動きを止めた。しばらく画面を確かめ、受付台の端末と照らし合わせてから、俺たちを呼ぶ。
「ンーナ。(ナロー、ちょっといいかい。青い配送の子、覚えてるね?)」
「NnnA。(もちろん。前に右腕を直した、あの子だよね)」
最初に出会った頃、俺が充電切れになりかけていたときに工具箱を運んでくれたボンプだ。修理のあとも時折広場へ顔を出していたが、今日はまだ見かけていない。
「ンーナナ。(配送の仲間から、連絡が来たんだ。仕事中の定時報告が途切れて、その後も呼びかけに応じないって)」
グレイが画面を向けた。会社へも報告済みで、最後に確認されたのは六分街から少し離れた旧倉庫街らしい。そこには最近、ホロウの外縁に近い道路の通行規制が出ているという。
「NnnA。(……道が塞がって、連絡できないだけじゃないの?)」
「ンーナ。(そうならいいんだけどねえ。最後に届いたのは配送先に着いたって報告で、そこから先が分からないらしいんだ)」
地図の一角には、黄色い注意表示が点滅していた。
《旧倉庫街東側 通信障害》
《ホロウ周辺道路 安全確認中》
俺は画面を覗き込み、つい新しい右手を握った。金属の指がぎこちなく曲がり、関節の内側から小さな抵抗が返ってくる。さっきエンゾウさんから教わったとおり、力を抜けば、その動きは止まった。
ところが、画面の黄色い表示へ視線を戻したとき、右肩のもっと奥、外付けの腕とは別のところで、何かが小さく伸びをした。
俺は思わず、左手で非常停止の位置を確かめた。そこを押したところで、肩の奥のものは止められないと分かっていながら。